ただし、私は、「弱者や社会の犠牲者(貧困者の大多数)への政府の福祉政策はまったく不要だ。むしろ悪である」とするリバタリアンの主張にはまったく同意しないので、私自身は社会主義的リベラリストの仲間かな、と思う。社会主義とリバタリアンは根本的な意見が違うので、スペンサーが私の「政治思想的仮想敵」であるのは確認できたようだ。ただし、政府による悪(戦争や際限の無い政府業務拡大と、それに伴う徴税強化)についての指摘はまったく同意する。
概要[編集]
リバタリアンは、「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」(ジョン・アクトン)という信念を持っており[1]、個人の完全な自治を標榜し、究極的にはアナキズム同様、国家や政府の廃止を理想とする[6]。 また、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制に反対する。徴税は私的財産権の侵害とみなすので、税によって福祉サービスが賄われる福祉国家は、否定する。なお、暴力、詐欺、侵害などの他者の自由を制限する行為が行われるとき、自由を守るための強制力の行使には反対しない。自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン[7]などに分類される場合がある。
アメリカ合衆国では、選挙年齢に達した者のうちの10%から20%が、リバタリアン的観点を持っているとされている。[8]
リバタリアニズムの基本理念[編集]
リバタリアニズムでは、私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有する権利を持つとする自己所有権原理を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は、政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。
リバタリアニズムにおける自由[編集]
マレー・ロスバードによると、自由とは個人の身体と正当な物質的財産の所有権が侵害されていない事という意味である。またロスバードは犯罪とは暴力の使用により、別の個人の身体や物質的財産の所有権を侵害する事と定義した。[9]
またロスバードは、古典的自由主義者が使用してきた積極的自由の概念は所有権の観点から定義されていないので曖昧で矛盾に満ちており、知的な混乱と、国家や政府が公共の福祉や公の秩序を理由に個人の権利を恣意的に制限する事を許す事に繋がったとして批判している。[10]
所有権、財産権の根拠[編集]
マレー・ロスバードは万人の為の平等な自己所有権を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、万人の為の100%の自己所有権だけが唯一正当化可能な普遍的倫理であると結論した。また物質的な財産についても同様に、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事だけが唯一客観的に正当化可能であると結論した。[11]
ハンス・ヘルマン・ホッペは、人々の間に恣意的で主観的な分類的差別を作る規範は客観的、間主観的に正当化される事は出来ず、それ故に全ての人に等しい権利を認める規範だけが正当化されると述べ、次に、立論には彼の身体の使用を必要とするので、彼の身体を彼の意思のみで使用する事を許す自己所有権原理と両立しない全ての規範を主張する人は、もし人が本当に彼の身体を彼の意思のみで使用する権利を持たないならば、彼はそれを主張する事さえ許されない筈であり、このような主張を行う人はそれを主張するや否や彼自身の主張に反する行動を取っており、実践的な矛盾に陥っていると指摘し、それ故に全ての人の平等な自己所有権を認めるリバタリアニズムだけが先験的に正当化されるとした。また彼は同様の推論から最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得するとする財産原理も矛盾無しに異議を唱える事は出来ないと主張する。(en:Argumentation_ethics)
リベラリズムとの違い[編集]
リベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、貧困者や弱者がその境遇ゆえの必要な知識の欠如、あるいは当人の責めに帰さない能力の欠損などによって、結果として自由な選択肢を喪失する事を防ぐために、政府による富の再分配や法的規制など一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。
しかし、リバタリアンは「徴税」によって富を再分配する行為は公権力による強制的な財産の没収であると主張する。曰く、ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンから税金を重く取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な仕組みによって行われるべきだと主張する。