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白鯨#8


第12章(前半) スペイン金貨


エイハブ船長は、何日もの間、夜になると甲板の上を歩き回り、その骨の義足の音で甲板の下で寝ている船乗りたちをうるさがらせたが、彼に表立って文句を言う者はいなかった。みんなは何となく彼の事を恐れていたのである。
ある日、彼は昼間から、いらいらした様子で甲板の上を歩き回っていた。明らかに何かの思念が彼を苦しめ、動かしていた。
「おい、気がついたか、フラスク、あの爺さんの頭の中で卵が孵ろうとしているぜ」
暢気者だが勘のいいスタッブは、フラスクにそっと囁いた。
日が海の上に落ちる頃、船室に戻っていたエイハブは再び姿を現した。
「全員集まれ! マスト番も下りてくるのじゃ!」
エイハブの命令に、乗組員たちは、何事が始まるのか、とぞろぞろ集まってきた。
エイハブは、長い間何も言わなかった。沈黙があたりを支配する中、エイハブが甲板を歩くコツコツという音だけが響いた。
とうとうエイハブは口を開いた。
「鯨を見たら、お前らはどうする!」
「合図をします!」
エイハブのだしぬけの質問に、何人かが咄嗟に答えた。
エイハブは満足したように大きく頷いた。
「それからどうする?」
「短艇を下ろして鯨を追います!」
「どんな調子で追うか言ってみい!」
「鯨ばらすか、短艇に穴があくか!」
熱狂的に水夫たちは答える。
「よしよし、その調子だ。みんな、こいつが見えるか?」
エイハブは高く手をかざした。その指先には、夕陽にきらめく、一枚のスペイン金貨があった。










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白鯨#7

第11章 エイハブ船長

船はしばらくは厳冬の海を進んでいったが、南に向かうに連れて天気も和らぎ、風は冷たいものの、暖かな太陽が顔を覗かせるようになってきた。
ある日、私が午前の当直に甲板に上がり、船尾に目をやった瞬間、私は何か前兆めいた戦慄を体に感じた。確かに、私は、それを見る前に感じていたのである。
エイハブ船長が後甲板に立っていた。
背が高く、老年ながら筋骨たくましいその体は、ベンベヌート・チェリーニのペルセウス像さながら、他人を寄せ付けない厳しい雰囲気は、荒野を歩むリア王さながらである。
彼の灰色の頭髪からは、溶けた鉛が流れたような一本の白い傷跡が顔を縦に走り、首筋を通って服の中に消えている。まるで、雷に打たれた巨木である。
彼の片足は象牙か鯨骨で作られたらしい義足だったが、彼はその骨の棒を、後甲板に掘られた穴に差し込んで、波に揺れる船の動きから身を守っていた。
やがて彼は自分の船室に姿を消したが、この日以来、彼はしばしば人前に姿を現すようになった。






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白鯨#6

第10章 騎士と従者

船はいよいよ、海に出た。出帆の際の様々な騒ぎ、ナンセンス、あるいはセンチメンタルな情景は、それだけで優に一つの芝居の材料になりうるものだが、ここでは割愛しよう。ともあれ我々は、わずか一枚の舟板に自らの命運を賭けて、美しくも恐ろしい大海原に船出したのである。時はあたかも聖誕祭、キリスト様のお生まれになった記念すべき日である。神のご加護が我々の上にあらんことを! 
我らが航海の守護神は、一等運転士スターバック。この人は寡黙で信心深い人だが、熟慮と決断の人でもあり、温厚な外観に似合わず、何物をも恐れぬ勇気の持ち主で、多くの水夫たちの敬意を集めていた。
彼に続く地位の二等運転士スタッブは、気楽な怖いものなしの男である。彼にとっては、鯨は自分の遊び相手であり、大きな犬か猫のようなものだ。鯨を命がけで追っている際にも、彼の口から離れることのない有名なパイプと同様、彼の口からはひっきりなしの冗談が飛び出す。
勇気という点では、三等運転士のフラスクも負けてはいない。小柄だががっしりとした体のこの男は、鯨を親の仇と憎んでいるかのように、鯨捕りに執念を燃やし、自分の身の危険などというものは、少しも頭になかった。
この三人は、鯨を捕る際には、それぞれ短艇長として短艇に乗り込み、舟を操縦して鯨を追跡し、鯨に銛や槍を打ち込む役目であり、いわばいにしえの騎士にも比肩すべき存在である。そして、いにしえの騎士と同様に、彼らには従者がいた。従者とは、短艇長の助手として舟を漕ぎ、一番銛を鯨に打ち込む勇者たちである。
スターバックの銛手、つまり名誉ある従者に選ばれたのは、我らがクィークェグである。
スタッブの銛手は、ゲイ岬から来たインディアンのタシュテゴ。荒野に獣を追った偉大な祖先の名を辱めない、赤褐色の見事な筋肉質の体に、漆黒の髪、黒い瞳をした勇者である。
フラスクの銛手は、ダグーという巨大な体躯の黒人だ。その真っ黒な巨体は、それだけで見る者の肝を冷やすほどだが、この巨人が、よりによってあの小柄なフラスクの従者であるのは、一奇観とも言うべきものであった。
こうして見たところ、ピークォド号の乗組員は、様々な人種の混合という印象だが、実際、これは多くの捕鯨船に共通した特徴で、捕鯨船の多くは、その寄港する土地や島々で乗組員を補充することが多く、その結果、船は雑多な人種の混合体となるのである。しかし、これこそは、ある意味では我が愛するアメリカという国の特徴ではないか。もしも未来の世界に、すべての人種の相違が意味を失い、人類共同体ともいうべき世界が出現するなら、ピークォド号は、その先駆けともいうべきものであったと見なされることであろう。















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白鯨#5

第8章 予言者

私とクィークェグがピークォド号から下りてきた時、どこから現れたのか、乞食のような汚らしい風体の男が私たちに声を掛けた。
「お前たち、あの船に乗るのかい?」
「ピークォド号のことかい? ああ、さっき契約したところだ」
私が答えると、男は首を横に振りながら、
「やめた方がいい。お前ら、エイハブ船長は見たのか?」
と言った。
「いや。なんでも、この前の航海で足を一本無くして、療養しているそうだが、もうすっかり良くなったらしいから、間もなくお目にかかれるだろう」
「無くしたのは足だけじゃないよ」
「他に何を?」
「魂さ。片足と一緒に鯨の腹の中に置いてきたんだ」
私はすっかり馬鹿馬鹿しくなって、クィークェグに、こんな気の狂った奴は放って向こうに行こうと促した。
「おうい、お前ら、船に乗ったら皆の者に、おいらは乗るのはやめたと言っていたと伝えてくんな。この航海は、どうせろくなことにはならんとな」
男の言葉に、私は後ろを振り返った。
「あんたの名前は?」
「イライジャ」
その名前に不吉なものを感じて私は男を見守ったが、男は灰色の空の下を、ふらふらとさまようように去っていったのだった。


第9章 影

二日後、私たちはピークォド号に乗り込んだ。いよいよ出航である。
甲板上は、航海のために運び込まれた荷物でごったがえしている。これから、長ければ三年間にもわたる長旅であるから、食料、燃料のほか、あらゆる家財道具が必要になってくるのだ。
私には、少し気になることがあった。
私とクィークェグの二人は、朝早い時間に宿を出て、このピークォド号まで歩いてきたのだが、十二月の霜の下りた道は霧が深く、下手すると、海岸の端にも気づかず海に落ちそうな具合であった。
私たちは、自分らが一番乗りだろうと思っていたのだが、霧に包まれた港の方を見ると、おぼろな人影のような物が霧の中を動いていく。ずいぶん早い奴らがいるものだと思いながら、私たちは足を速めた。しかし、船に乗り込んでみると、甲板で眠り込んでいる当直の水夫以外には、誰もいなかったのである。
私たちは狐につままれたような気分だった。
しかし、日が高く昇って、出航の喧騒が始まると、そんな奇妙な出来事はすっかり忘れてしまったのである。












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白鯨#4


第7章 ピークォド号

ナンタケットの港には、まもなく遠洋漁業に出かける捕鯨船が何隻か停泊していた。捕鯨は、およそ二年から三年もかかる仕事である。その目的は、鯨油を取ることだ。船一杯の空き樽に鯨油が詰め込まれるまでは、帰ることはない。従って、家族のいる者は、家族の顔を見ない期間の方がずっと長いわけである。こんな因果な商売を彼らが好んでやっているとも思われないが、中にはこの仕事が好きでたまらない人間もいるのだろう。
私とクィークェグは、港に停泊している船の一つに上がってみた。その船の名はピークォド号である。この時、他の船を選んでいれば良かったと、つくづく思う。
ピークォド号の甲板には、船主らしい老人がいて、船に乗せる荷物を一々帳簿につけていた。
私は、老人に「船に乗りたいのだが」と言った。
「捕鯨船に乗った経験は?」
「捕鯨船はありませんが、大西洋航路の商船には何度か乗ってます」
「商船か!」
老人は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「あまり役に立つとは思えんが、乗りたいというならいいじゃろう。ただし、給料は七百七十七番配当じゃ」
数が多いからいい配当だとは限らない。これは、船の航海の利益の七百七十七分の一の配当ということである。まさしく、雀の涙というものだろう。もちろん、船の航海のための資金を出している株主全員への配当を考慮すれば、只の船乗りにそう多くの配当は出せないのは知っているが、これではあんまりだ。
交渉の末、三百番配当という数字で話がまとまり、次はクィークェグの番である。こちらは話が早かった。
「お前、鯨を捕ったことはあるか?」
老人の言葉に、クィークェグは手にした銛を見せ、舷側に吊られた小舟に飛び乗って言った。
「あそこの水の上の小さいタールの滴、見えるか? あれ、鯨の目とする」
クィークェグは、一瞬の動作で銛を投げた。銛は光を放って飛んでいき、海上に光る小さなタールの滴を砕いて海面に没した。
「お前、雇った! 九十番配当じゃ! このナンタケットの銛打ちに、そんな配当を出した船はかつてないぞ!」
老人は叫んで、契約書にクィークェグのサインを求めた。クィークェグは、それにサイン代わりの花押(ただの✖印だが)を書いて、めでたく契約は成立したのであった。










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「白鯨」#3

第5章 友愛

翌朝、目覚めた時、私は何だか不思議な感覚に襲われた。誰かに保護されている、という感覚である。それが何のためか、一瞬分からなかったが、布団から顔を出して、それが、私を抱きかかえるように寝ているクィークェグの腕のせいだとわかり、私は照れくさい気分になった。
「おい、クィークェグ、よしてくれよ。新婚夫婦じゃあるまいし、男がこんな風に男を抱きかかえて寝るなんて、おかしいよ」
私はぼやいて、クィークェグの腕をどかそうとしたが、彼を起こさずにその作業をするのは難しそうで、やがて私はあきらめて、窓から射す朝日を眺めつつ物思いに耽った。
いったい、昨夜の私の狂態は何だったのか。彼が自分と違う風体をし、奇妙な儀式を行っているというだけで、彼を野蛮人と決めつけて一人で大騒ぎしたことを考えると、私は恥ずかしかった。それに比べて、クィークェグの振る舞いは、紳士的と言っていいくらい立派なものであった。突然、ベッドの中に現れた人間に死ぬほど驚いたのは当然だが、それに文句も言わず、ベッドの半分を明け渡したではないか。人間の気品という奴は、こうした振る舞いに現れるもので、文明人だとか、白人という連中が、違う肌の色をした人間より決して優れているわけではないのである。
そんな事を考えているうちに、クィークエグは目を覚まし、私を不思議そうに見た。「俺のベッドで寝ているこいつは一体何者じゃ」とでも考えていたのだろう。やがて昨夜のことを思い出したらしく、その目に親愛とまではいかないが、こちらを許容するような光が浮かび、同時に軽い羞恥心のような表情を見せた。
彼は、私に、先に身支度するように手真似で言い、私の後で朝の支度をした。
一緒に朝食をする頃には、私とこの「野蛮人」は、すっかり親しく打ち解けていたのであった。



第6章 クィークェグの身の上

朝食の席で私がクィークェグからぽつぽつ聞き出したところでは、彼は太平洋の赤道に近いある島の酋長の息子であったらしい。つまり、蛮人のプリンスだ。彼はある日、海を越えてやってきた捕鯨船を見て、世界を自分の目で見てみたいという冒険心に取り憑かれ、その捕鯨船にこっそりと乗り込んで、以来十何年も鯨取りをしているとのことである。
彼が、その事を後悔しているかどうか、私は聞かなかった。おそらく後悔はしていないだろう。世間的な見方からすれば、王位を捨てて一介の船乗りになり、上級船員に顎でこき使われているなんていうのは、実に愚かな生き方ということになるのだろうが、しかし、この世に奴隷でない人間などいない。王といえど、境遇の奴隷にすぎない。少なくとも、クィークェグは、島の王様でいたら一生目にすることのない様々な不思議を見てきたのである。この世に生まれた目的のひとつが、物見をすることならば、一生を王宮の中で何不自由なく暮らすよりも彼は有意義に生きたのだと言えるのではないか?







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「白鯨」#2


第3章 クィークェグ

入ってきた男は、ベッドの中の私に気づかない様子で、何やらゴソゴソしている。私は、布団からそっと首を出して、男の様子を窺った。
神様! 助けてください!
私は心の中で叫んだ。
男は明らかに蛮人だった。剃り上げた頭の後方に、紐で結んだ長い辮髪が下がり、顔中まるでつぎはぎ細工のような入れ墨をしているではないか。
その野蛮人は、得体の知れない小さな木彫りの神像を暖炉の上に置いて、それに祈りを捧げている。その醜いちっぽけな神像の側に置いてあるのは、何と、人間の干し首である。
私はベッドの中でがたがた震えながら、この窮地からどのようにして抜け出したものかと必死に考えていた。だが、時遅く、その蛮人は、私のベッドに飛び込んできた。


第4章 救出

「助けてくれえ!」
私の悲鳴に驚いたのは、蛮人の方である。そいつは、ベッドの側に立てかけてあった捕鯨用の銛を掴むと、それを私に突きつけ、怒鳴った。
「お前、何者だ。うぬ、ここで何してる。言わぬと殺す!」
相手の凄い形相に、私は真っ青になって震えているばかりだったが、幸い、私の悲鳴を聞いて部屋に飛び込んできた主人が彼をなだめてくれた。
「これ、クィークェグ、やめなされ。こいつはお前のルームメイトじゃよ。お前、この人と同じベッドに寝る。分かったか?」
蛮人は事情を理解したのか、案外素直に頷いて、手真似でベッドの半分を私に明け渡し、自分はベッドの隅に身を寄せて目を閉じた。
私は、野蛮人と同じベッドで寝るのはいやだ、と主人に猛然と抗議をしたが、主人は笑って取り合わない。私は諦めて、クィークェグと呼ばれた褐色の男になるべく近づかないように、ベッドの隅に寄って寝ようと努めたのである。




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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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