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過去の常識は現代の常識か

敢えて、この女性(山崎えみさん)の肩を持って言うなら、生まれてから成人するまで自分でガソリンを車に入れたことが無いという人は膨大にいるはずであり、そういう人々が、「軽自動車に軽油を入れてはならない」というのを知っているはずもない。教習所ですら教えないだろう。つまり、自動車に乗り慣れている人々にとっては常識でも、それが万人にとって常識だとは限らないわけである。(生活が自動車と無縁の人はこれからどんどん増えるだろう。)
自分でコメを炊いた経験の無い人がコメを洗剤で洗ったところで、何も不思議ではない。つまり、古い人々にとって生活の常識だったことはけっして現代の常識ではない。そういうつもりで若い人々や子供の行動は注意深く見守り、指導を行うべきなのである。言い換えれば、こういう出来事で「事故や不都合を起こした人の非常識を笑う」態度こそが批判されるべきだ、と私は思っている。あるいは、そういう事故の可能性に気づかず、教えもしなかった周囲の人々が批判されるべきなのだ。
例のアパマンの爆発事故も、「可燃性のガスが充満した密閉空間で火を点けたら爆発する」というのは、その事故を起こした人にとっては常識ではなかったのである。





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こういう人は、原付バイクには原油を入れるのだろうか。






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RNは極右政党ではなく、反ユダ金政党

メモである。
自分のよく知らないことについては、多くの人がマスコミによる評価やレッテルを「採用」してしまう傾向がある。私はマスコミ報道にはいつも懐疑的であるが、マスコミが「極右」としている人々に対しては、「極右のことなど知る必要もない。どうせ不愉快な連中だろう」と思い込んで、まったく記事などを読まなかった。
ただ、ふとした気まぐれで、「フランスの極右政党のRN(国民連合)は本当に極右なのだろうか」と考え、調べてみると、実は、「反グローバリズム」であるためにマスコミ(ユダ金支配である)からレッテルを貼られて「極右政党」と常に枕詞をつけて書かれるようになったようだ。
その政策の多くは、私(いちおう、左翼に近いwww)には非常に共感できるものだ。
下に、ウィキペディア記事の抜粋を載せる。


(以下引用)



国民連合 (フランス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フランスの旗 フランス政党
国民連合
Rassemblement National
党首マリーヌ・ル・ペン

国民連合(こくみんれんごう、フランス語: Rassemblement National:RN)は、フランス政党。党首は、マリーヌ・ル・ペン。旧党名は、国民戦線(こくみんせんせん、フランス語: Front National [1][3]:FN[1][6][7])。


EU移民排斥を掲げている。党首のルペンは、「普通選挙の洗礼を受けていない欧州委員会(EUの執行機関)に従う必要はない」として反EUを掲げており、EU離脱を問う国民投票を実施すべきだと主張している。2005年におきた移民による暴動以来、移民に対する反感が強まっているフランスにおいて、急速に支持を伸ばしている。


近年、政権入りが現実味を帯びてきたことから、支持層を広げるため、過激な主張については緩和させる傾向にある。移民排斥というより、移民受け入れは年間1万人以内に制限したいと主張している。2011年に党首としてマリーヌが選出されて以来、FNの人気は高まっている。


2014年の地方選挙でいくつかの市町村を獲得し、2014年の欧州選挙ではフランス国内から25%の票を得た党になった。そしてフランスの地方選挙では再び投票率の28%弱という結果を出して1位になった。2015年にはFNはフランスで最大の政治勢力の1つとして定着している[8][9][10][11][12][13]


2018年6月、党名を国民戦線から国民連合へと変更した[14]

国民戦線の左傾化[編集]

一方FNのマリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親が標榜したレーガノミクス小さな政府といった思想を退けた。 マリーヌ・ル・ペンはフランスの福祉国家モデルを擁護し、そして新自由主義に反対し、左派の票を獲得することに成功した[33]。 さらにはグローバリゼーションをジャングルの法とし、その法の下で多国籍企業が労働力を安く使うものだとした。

政策[編集]

マリーヌ・ル・ペンが党首を務める2014年時点でのFNの基本的な政策としては、合法的な移民の数を年間二万人から一万人に下げる、フランスに住む移民の家族配偶者の無条件なフランス居住を禁止、シェンゲン協定の破棄、そしてフランス市民権を得るための条件を厳しくするなどがあげられる[34]。さらには警察官の数を二倍にする。中小企業へ減税する。フランスの製造業を守るための関税を徹底させる。フランス語の国際的地位の回復に取り組む。児童手当など家庭への手当てはフランス国民の家庭にのみ給付する。 伝統的な家族観とりわけ親子観を大事にする。フランスの国家主権を取り戻すため、EUの基本条約の大幅な見直し交渉を行う。フランス独自の農業政策の構築を行い、EUの共通農業政策から離脱するなどがあげられる[34]


外交面においてはマリーヌ・ル・ペン党首はロシアプーチン大統領を評価しており、ウクライナ問題においてもウクライナアメリカ合衆国に征服されているとみており、ウクライナはいずれの勢力からも独立を保つべきとの立場を主張している。NATOによる強い反露主義に警笛を鳴らしており、反露傾向を強めるアメリカ合衆国を新冷戦の最前線にいるとして非難している。また、反ユダヤ主義(本人は差別しないと言っているが、ホロコーストを否定していると受け取られかねない姿勢)を取っていた父とは異なり、親イスラエル的となっている。


同性愛についてはシビル・ユニオンで十分であるとする立場であり、同性結婚を廃止する[34]。ただ、同性愛者の人権も尊重しており、他の主要政党より同性愛者の幹部が多い。副党首のフロリアン・フィリポも同性愛者とされる。

2012年以前の政策[編集]

極右政党の色が濃かったジャン=マリー・ル・ペン時代の政策。より現実主義を取り、排外主義とは決別し政策的には福祉の充実や弱者の保護を打ち出した現在の国民戦線とはかなり異なる。

政策に対する評価[編集]

極右と評価されるが、一方で福祉政策にも積極的に取り組んでおり、右派だけでなく左派にも支持者がいる[35]


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仁慈こそが為政者の務め

「リテラ」から転載。
いい記事である。長い記事なので私の感想はそれだけにしておく。
ひと言だけ付け加えれば。「弱者や不幸な人を労り、大事にすることが為政者の一番大事な務めだ」ということを今上天皇は安倍政権に教えているように思う。

(以下引用)



明仁天皇“最後の誕生日会見”は明らかに安倍政権への牽制だった! 反戦を訴え、涙声で「沖縄に寄り添う」と宣言

明仁天皇最後の誕生日会見は明らかに安倍政権への牽制だった! 反戦を訴え、涙声で「沖縄に寄り添う」と宣言の画像1
宮内庁HP『天皇陛下お誕生日に際し(平成30年)』より


 それは、まさに右傾化する日本と安倍政権に向けて天皇が発したメッセージだった──。本サイトでは昨日の記事で、天皇在位中最後の誕生日を迎えた明仁天皇が、安倍官邸のプレッシャーをはねのけて、戦争や沖縄への思いを国民に向けて語るのではないかと書いた。だが、きょう公開された記者会見の内容は予想以上だった。明らかに安倍政権の政策や態度を危惧し、強く牽制するような発言を繰り返したのだ。


 明仁天皇は、途中、何度も言葉をつまらせ、ときに涙声になりながら、自らが天皇として皇后とともに歩んできた道のりを振り返るかたちで、戦後の平和と反戦にかける思い、戦争の犠牲の大きさを正しく伝える姿勢、沖縄への気持ち、日本人だけでなく外国人への心遣い、そして日本国憲法における「象徴」の意味などについて語ったのだ。


 なかでも印象的だったのが、安倍政権による“いじめ”と言える状況が苛烈を極める沖縄への強い言及だ。


 周知の通り、先の沖縄知事選では、逝去した翁長雄志前知事の遺志を継ぎ、辺野古新基地建設に明確にNOを示した玉城デニー氏が当選した。だが、安倍政権はこの沖縄の“民意”を無視して辺野古の海への土砂投入を強行。しかも、「辺野古移設反対なら普天間基地の返還はない」という卑劣な二択を迫り、基地に反対する人々を恫喝している。


 そんな状況のなか、明仁天皇は「沖縄に心を寄せていく」ことを訴えた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効(本土の主権回復)から、沖縄の復帰までに、20年の歳月を要したことを振り返ったうえで、あらためて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」と、本土から見捨てられてきた歴史を強調。「皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました」と続けたあと、声を震わせ、会見場を見やりながら、こう力を込めた。


「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」


「心を寄せていく」ことを強調したのは、明らかにいまの日本政府による沖縄切り捨てを意識してのものだろう。「先の大戦を“含め”実に長い苦難の歴史」、「沖縄の人々が“耐え続けた”犠牲」という言い回しからも、それが本土に“捨て石”とされた沖縄戦のみを指すものではないことは明白だ。


 本サイトでも何度か紹介してきたように、もともと、明仁天皇の沖縄にかける思いは極めて強いものがある。現在も米軍基地の押し付けという「犠牲」を強い、県民の基地反対の意思を潰そうとしている安倍首相の姿がその目にどう映っているかは想像にかたくない。

 

 実際、2013年の4月28日、安倍首相の肝いりで行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」にあたっては、政府側の説明に対し「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と反論し、出席に難色を示していたという。また、皇太子時代の1975年に沖縄を初訪問したときには、火炎瓶を投げつけられるという事件が起きたが、事前に「何が起きても受けます」と覚悟を決めていた現在の明仁天皇は、その日の夜、こんな談話を公表した。


〈払われた多くの犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〉


 在位中最後となった今年の訪問も含め、沖縄を11回訪れた明仁天皇。天皇としての最後の誕生日会見で、あらためて、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくと宣言したことは、現在も政府が沖縄を虐げていることを深く憂慮する発言に他ならないだろう。


平和と反戦を語り「正しく伝えることが大切」と歴史修正主義の動きを戒め



 踏み込んだのは沖縄問題だけではない。会見では時間をかけて平和と反戦への思いを語ったのだが、そのなかには、安倍政権が扇動している歴史修正主義に釘を刺すくだりもあった。



 前述した沖縄への言及の直後、明仁天皇は「そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず……」と述べ、一層力を込めながらこう続けたのだ。

 

「……戦後生まれの人々にも、このことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」



 日本は戦後、戦争によって直接的に人を殺すことも殺されることもなく、平成の時代を終えようとしている。だが、それを継続していくには、戦争の加害と被害の記憶を継承するのみならず、「正しく伝えていくことが大切」と諭したのである。



 周知の通り、安倍首相は慰安婦問題や南京事件など戦時中の国家犯罪を打ち消そうとする動きを加速させ、歴史教育に対する介入を強めてきた。明仁天皇が、戦争の歴史を、単に「伝えていく」というのではなく、あえて一歩踏み込んで「“正しく”伝えていく」と形容したのは、こうした安倍首相による歴史修正へのカウンターとしか思えない。



外国人労働者問題についても言及、安倍政権と対照的な姿勢を



 来日する外国人に対する言及も目を引いた。誕生日会見の後半、明仁天皇は「今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました」と切り出した。これだけでも「明治維新150年」を打ち出す安倍政権とは対照的だが、天皇は続けて、日系の人たちが外国で助けを受けてきたことに触れながら「それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べた。



 明仁天皇は、今年11月の美智子皇后との私的旅行のなかでも、静岡県の浜松市外国人学習支援センターを訪問し、外国人やボランティアたちと直接話す機会を設けた。こうした日本社会の一員として安心して暮らせるようにとの思いは、やはり、安倍政権が先日の国会で、外国人労働者を安価な労働力としか扱わず、人間としてのケアをまったく考慮しない入管法改正案を強行したことの対比として映る。

 

 いずれにしても、会見での言葉をひとつひとつ見ていくと、明仁天皇は淡々と平成30年のあゆみを振り返ったのではなく、戦争の歴史と近年の社会状況を強く意識し、覚悟をもって“最後の会見”に臨んだことがよくわかる。



 昨日の記事でも解説したように、踏み込んだ“護憲発言”を行なった2013年の誕生日会見以降、安倍官邸は宮内庁の締め付け、皇室へのプレッシャーを強化し、天皇・皇后のリベラルな発言を封じ込めようとしてきた。結果として、ここ数年の天皇誕生日の会見内容が、トーンダウンしていたことも事実だ。だが、そんななかにあって今回、天皇は“安倍政権への箴言”を敢然と繰り返したのである。それは何より、官邸からの圧力に抗してでも、人々に伝えねばならなかったからだろう。



日本国憲法下の「象徴」であることを強調したのも国家元首化への牽制



 実際、自身の退位については会見の序盤と最終盤で2回触れていたが、それもまた“天皇と立憲民主主義の関係”を確認することで、安倍首相や自民党、極右勢力が目論む「天皇の元首化」などの復古的改憲を暗に批判するものだった。



「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います」

 

「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」



 明仁天皇は、日本国憲法で位置付けられた「象徴」としての天皇を国民が「受け入れ」たことに謝意を表した。これは、象徴天皇が国民の同意が必要な存在であることを示唆したともいえるだろう。そして、この憲法にふさわしいあり方を皇后とともに模索し、今後も求め続けると宣言した。その天皇像が皇太子にも引き継がれるよう望んだ。最後はほとんど涙ながらだった。



 言い換えればこれは、“国民と憲法あってこその天皇”だと自戒することに他ならない。戦前日本において、国民は「天皇の赤子」とされた。政治権力は、皇室を逆らうことのない絶対的権威として戦争に利用した。「国民に衷心より感謝」した平成の天皇は、それとは真反対のメッセージを込めたのだった。

 

 いよいよ平成が終わる年がやってくる。退位に際した記者会見は行われないという。政治は日々不穏な色彩を濃くしている。明仁天皇のメッセージをどう受け止めるかは、わたしたちひとりひとりにかかっている。









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資本主義の背後の「神(公務員階級)の見えざる手」

前の記事と同じく「つぶやきコミューン」から転載。
こうした読書感想記事は、自分で読む代わりに、誰かが読んでくれてそのエッセンスを教えてくれるわけで、有益だ。もちろん、時間が許せば自分で該当書を読むのがいいが、たいていの本は「情報収集」のためだけならばこうした要約文で十分だ。
苫米地英人は、頭の良さでは日本でも有数の人物だと私は思っているし、政治や経済についての彼の発言も、その山師的な風貌に似合わずなかなか誠実だと思う。
下で書かれた内容も、特にこれから社会に出ようという若い人にとっては特に有益だろう。

社会がこのような形で、金持ちへの願望を植えつけるのはなぜか?それは公務員に生産性がないから税収をあげようと所得の向上を刷り込むためである。一般会計で年度内で消費するような「復興財源」も、もっぱら公務員の給料に消えるまやかし以外のなにものでもない。


という指摘は、目から鱗である。私は資本主義思想と公務員を結びつけて考えたことは無かったが、そういえば、公務員というのは昔の武士階級と同じく、「非生産階級」だった。その階級存続とその生活向上のために、公務員たちが自分たちの持つ「行政」という手段を利用しないはずがない。つまり、現代でも「士農工商」という階級制度は「士・その他国民」という2階級になって存続しているわけである。


(以下引用)





苫米地英人『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
 



一般的には、オウム真理教事件での脱洗脳に関わったことで知られる苫米地英人氏ですが、きわめて広いフィールドで自在に活躍する天才的脳科学者、おそらくは日本で最も優れた頭脳の一人でしょう。

苫米地氏の著作は、主にルー・タイスのコーチングの理論に基づいた自己啓発書と、日本全体あるいは世界全体を覆う資本主義経済やメディアに対する社会批判的内容の著作に分けることができます。いずれも、潜在意識に書き込まれた情報を書き換え、既成の固定観念や考え方から脱却することを目指したものと言えるでしょう。

『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』(徳間書店)はこの両者が表裏一体になり、後者の内容からスタートしながらも、一人ひとりのお金や仕事に対する考え方を変えることで、周囲に操られない自分自身の主人公的な生き方へと導くことをめざす著作です。

この本は、5つの章から成り立っていますが、そのそれぞれに質問があり、そして解説の後に答えがあるQ&Aの非常にわかりやすい形で構成されています。まず、大雑把に第1章 本当の「金持ち」、ウソの「金持ち」の論旨をまとめることで、苫米地氏の視点を明らかにしておきましょう。

「洗脳」にはよい洗脳と悪い洗脳があり、悪い洗脳とは、恐怖・ネガティブな感情に訴えるもの、よい洗脳とは人のプラスの感情を使うことで、本人の能力や自己評価を高めることを目的とするものである。そして、この視点から言えば、「お金持ちでなければいけない」という経済洗脳は、「お金がないと君は死ぬ」という恐怖感に訴える悪い洗脳である。生活保護や親族を頼らずに餓死したいくらかの人は、貧しさではなく、お金のないことは恥ずかしいことだと考える経済洗脳のために死んだというべきである。

社会がこのような形で、金持ちへの願望を植えつけるのはなぜか?それは公務員に生産性がないから税収をあげようと所得の向上を刷り込むためである。一般会計で年度内で消費するような「復興財源」も、もっぱら公務員の給料に消えるまやかし以外のなにものでもない。代わりに、苫米地氏は、BIS規制を外すという条件の下、被災した企業や個人に対する低利の長期貸出を提案する。

本来人類はサステイナブルな生活を送る存在であり、「お金持ちになりたい」という経済洗脳は、アメリカの経済に始まる過去数十年ほどの出来事にすぎない。こうした経済洗脳を進めるためにアメリカで用いられたのがスポーツ・セックス・スクリーンという3S政策であり、このやり方は功を奏し、消費経済を活性化するほど、税収に結びついたのである。

大企業の論理と政府の論理が一体化したときに生まれたアイデアが、消費経済という「国民への洗脳」だったのである。p38

こうした経済洗脳から脱して、幸福になるためには、物事をあるがままに見るようにすればいいだけである。偽の豊かさとは、他の人が消費させたいものを消費させる欲求を増大させることからくる幻想であり、真の豊かさはこのようなhave to ではなく、want to 自己の内なる欲求から価値を生み出すことによってのみ生まれる。

同時に、金持ちを資産の多寡ではかることは無意味である。金持ちとは、自分が必要なものを買うために必要なお金に困らないことであり、買いたいものがなければ10万円しか持っていなくても金持ちなのだ。

第2章以下では、支出優先型の貧乏脳から脱出し、収入先行型の金持ち脳へと脱却するための必要な条件を明確にすることにあてられています。そのためには、お金では手にはいらないものの価値を知ること、同時に自分は稼げる人間であるというエフィカシー(自己評価)を高めることが必須であると苫米地氏は説きます。

さらに日本経済や社会の意表をついた再建策をいくつも出した後、第3章ではわれわれの中の「貧乏脳」とか何かという本質に入ります。

「貧乏脳」は不満足脳低自己評価脳からなり、記憶や想像力に頼らず、同じものを何度も経験したがることから、不満が生じ、そしてこの不満をお金で解消しようとするから、貧乏脳から脱却できなくなるのである。これこそが資本主義による洗脳である。たとえ、「フリーター」であっても、不満を感じず、自分の能力に対する高い評価があれば、金持ち脳であり、逆に、漠然と「正社員」や「公務員」をめざすのは、そこに職種への憧れや使命感がないのであれば、単なる経済的保証の元に、奴隷のように働きたいという願望に基づく貧乏脳なのである。

第4章では、どうすればこうした貧乏脳から脱出できるのかが語られます。

金持ち脳になるために一番重要なのは、収入を増やすことではなく、支出をコントロールすることなのである。p141
貧乏と感じるのは収入のせいでも不景気のせいでも、収益の上がらない職業のせいでもない。支出をする「自分自身」が、いちばんの問題なのである。p143

支出のコントロールができないのも、欲求をメディアによって支配されているからであると苫米地氏は主張する。その中でも、最大の元凶はテレビである。これはテレビと言う媒体の性質よりも、日本のテレビの番組予算の低さ、そして小学校5年程度の視聴者を想定している番組クオリティの低さ、そしてそのほとんどが広告代理店にあやつられた広告収益主義から来ている。ハリウッドの映画は桁違いの予算をつかっているし、そうしたはるかに質の高い作品がネット上で見られる時代にわざわざ見る理由は思い当たらない。情動に訴える映像メディアよりも、活字メディア、とりわけ本や新聞を情報源とするのが正しいと苫米地氏は言う(本書では、他の本では顕著な記者クラブ批判やクロスオーナーシップには触れられていない)。

本の製作には、広告代理店が関わらないため、唯一、貧乏脳をつくらないメディアと言える。また、そこに詰め込まれている知識量は膨大であり、新聞の比ではない。pp161-162

「金持ち脳」の考え方からすると、本当にほしい30万円のものと安い10万円のもののいずれを買うべきか。この場合、返済できるならローンを組んでも30万円のものを買うのが正しい。但し、求めるのは機能だけに絞るべきだ。持ち家と賃貸なら賃貸。返済金利と自己負担の補修費と固定資産税の三つから当然導かれる結論である。

そして、第5章では「貧乏脳」から「金持ち脳」に乗り換える仕事の選び方が語られます。

メディアによる経済洗脳から免れても、仕事を嫌々やっている人は貧乏脳に陥る危険がある。だから、好きなことを仕事にすべきである。

やりたくない仕事をしている人は、仕事の外に満足を求めようとするため、どうしても支出が多くなりがちだからである。p184

邱永漢氏の言うように、「いちばんの金儲けの方法は天職を持つことである」。

金持ち脳になるいちばんの王道は、仕事から満足を得ること、そのためには好きなことを仕事にすることである。p186

天職とは、自分の得意なことを仕事にすることであり、選んだ時点の収入が低くても、得意分野の技術に磨きをかけ没頭しなければならない。

「好きなことを仕事にする」という言葉への誤解を、苫米地氏は以下の文章で見事に断ち切っている。仕事にする上で、重要なのはマーケットである。マーケットのないところで、好きなことをやってみてもそれは趣味にしかならない。

趣味にはマーケットを獲得するという発想がないため、仕事には適さない。したがって、好きなことを仕事にすると言っても、趣味のように好きなことを仕事にするということではない。マーケットの役に立つことで好きなことを仕事にする、ということなのである。p199-200

苫米地氏の考えは、昔ながらの知足(ちそく=たるを知る)の考えに似ているように見える。しかし、大きな点での違いがある。それは知足の考えは、現状に対する諦念、あきらめの気持ちに基づいているのに対して、天職とはあくまで高いエフィカシー(自己評価)に基づいた自由な選択の結果なのである。報酬の限界と能力の限界を混同してはいけないと苫米地氏は言う。


報酬の限界はイコール自分の限界ではない。たとえ給料が低い職業でも、自分が求め、選んで就いたのであれば、それがあなたの天職である。なぜ、そのことで自分をおとしめる必要があるというのか。人がなんといおうと。自信を持って精一杯、勤めめればいいのである。p203

この言葉、至言だと思う。

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脳内世界と現実世界

「つぶやきコミューン」から抜粋転載。
頭の中の世界の方が現実の世界より現実的であるという人間が現実と接触するとこうなる、という例である。
彼のような人間は、コミュニケーション能力絶対主義思想の現代では「人格障害」とされるわけだが、私などは、自分も同じであるだけに、こういうのも個性だと思うし、当人が頭の中で幸福だと思うなら幸福な人生だと思う。

何億円のカネを得ようが、世界を征服しようが、無数の美女と寝ようが、頭の中が俗物ならくだらない人生である。毎度言うが、どんな名家や金持ちの家に生まれようが、安倍や麻生の人格を持ってこの世に生まれることほどの不幸は無い。
二十代で脊椎カリエスにかかり、三十代で死ぬまで病床にあった正岡子規の人生は、アレクサンダーやシーザーやロスチャイルド一族などの人生の数万倍の価値がある。


(以下引用)







トルストイに憧れ、莫大な遺産は若い芸術家らに分与し、田舎でのロハスな生活を送りながら、生徒に聖書を教えて過ごすことを夢見たヴィトゲンシュタインだが、実際の教師生活は思いどおりにならなかった。生徒との距離感がうまくつかめなかったのだ。彼の授業のスタイルは、体罰も当然の古い授業スタイルであった。そのため、結局は体罰問題が表面化し、教師を辞める羽目になる。



 



 学校の外では、子供にも村人にも無関心だった。生徒に道で出会って挨拶されても、知らん顔。そのくせ生徒には挨拶を強要した。挨拶しなかったら、ビンタをくらわせていた。(…)


 えこひいきも激しかった。エンゲルベルトとかビンダーとかレオポールトなど勉強のできる数人には、ギムナジウムに進学させるために、無料で特別に補修していた。お菓子やパンをほうびにして。(…)


 一〇時に終わる授業が一一時や一二時まで延びることもあった。生徒にとっては学校なんて、仕方なしに通う場所だから、とても迷惑だった。


 ヴィトゲンシュタインは勘定をコントロールするのが苦手だった。すぐ興奮して、汗をかき、鼻を鳴らし、ハンカチをギーッと噛んだかと思えば、自分の眉のうえに跡が残るほど強く爪を押しつける。そういう自虐は、まだご愛嬌だった。


 アンナ・ブレナ~は、むずかしい宿題がよくできていたので、黒板で計算問題を解くように言われた。けれどもアンナが解けなくてまごまごしていると、たちまち平手打ちが飛んできた。(解説)



 



ヴィトゲンシュタインの小学校教師への転身は、居場所を求めてだったが、居場所を見つけることができなかった。そんなヴィトゲンシュタインのふるまいを、精神科医の福本修は発達障害の一種であるアスペルガーの視点からとらえようとする。



 



 ヴィトゲンシュタインはアスペルガー者で、「心の理論(theory of mind)」がなかった。相手の意図を理解したり、相手の視点を共有したりすることがなく、自分の心の状態を相手に伝えることをしない。ふるまい(事象の状態)と心理(心の状態)の関係が予測できない。自分の視点を他人の視点に転換できないので、相手の立場に立って意味を理解すrことができない。


 正しい行為に極度の関心をもつのはアスペルガー者の特徴である。ヴィトゲンシュタインは、その時々の「倫理的意思」で動いているが、戦場では他の兵士たちにうんざりし、学校では生徒にうんざりする。兵士になる・教師になるという外的な出来事にこだわったけれど、自分がやろうとしていることの実際を知らず、現場で柔軟に適応・対応できなかった。(「解説」)







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日米民主党の相似

「世に倦む日々」記事の一節である。まあ、常識的な内容だが、アメリカ政治の骨格を端的に説明していて有益だ。日本でも構図は似ていて、民主党がまさにアメリカの民主党と同じであり、保守寄りのメンバーに政党を乗っ取られたわけである。アメリカのヒラリーというのもその手のネオコン政治家にすぎない。

で、今回、立憲改進党(だったかな)が野田元総理を党に迎え入れる方針らしいが、これほどの愚は無い。枝野は野田に恩義があるのかもしれないが、政治と個人的問題を混同するようでは政治家失格だろう。そうではなく、政治的判断としてそれにメリットがあると考えているのだとしたら、枝野は地上最大の阿呆である。頭のいい(お勉強だけが得意な)バカという奴だ。

なお、政治的記事はこちらではなく「徽宗皇帝のブログ」に載せることが多いが、あちらは今日だけで3つ載せたと思うので、こちらに書いた。まあ、もともと厳密な使い分けはしていない。



(以下引用)



結論から先に言えば、米国の政治は三つの軸に再構成するべきなのだ。①トランプのような右翼、②オバマのような中道リベラル、③サンダースのような左派。この三派に分かれれば、有権者全体の政治意思を議会に回収できるし、マイケル・ムーアが言うところの、リベラルの方が圧倒的に多いという説明も論理的に回収できる。現在、民主党の中に②と③がいて、2年前の予備選では激しく争い、③の票は本選で①の方に流れてしまった。以来、③の一部はトランプの岩盤票となる倒錯を起こしたままを続けていて、そのため、民主党と共和党が票では拮抗する形になっている。①と②は新自由主義であり、③は社会主義である。②と③は経済政策・社会政策の理念が根本的に異なり、本来は同じ政党に同居してはいけないのだ。他方で、②と③は同じリベラルである。反保守である。同性婚と人工妊娠中絶に賛成で、人種差別に反対で、軍縮と環境保護に賛成だ。人権へのコミットが強い。だが、経済政策・社会政策では相容れない。②はウォールストリートから大金を貰って資本家のための政策を遂行する。格差を拡大する。民主党がトランプに圧勝できないのは、そうした欺瞞と自家撞着があるからだ。





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明白な悪への批判が無い社会は最悪の社会

広岡(この記事では廣岡)は、ネットの野球スレッドではまさに「老害」代表とされているのだが、私は好きである。彼ほど直言をはっきり言う球界OBはいない。その考えがすべて正しいわけではないが、概ねまともな球界批判である。だから、批判された連中のファンや関係者が広岡を煙たがって、彼の悪評を広めている可能性もある。
まあ、他人にお世辞ばかり言う人間や世界のすべてを肯定的に言う連中(「だって人間だもの」の人とかね。)のほうが私は気持ち悪いのだが、批判は批判された人間からの反撃を食うのは、世の常だ。しかし、批判精神が無い(あるいは表明されない)社会とは、まったく進歩もない、表面は平和だが内心はどろどろとした憎悪に満ちた社会のはずである。



(以下引用)





いつから日本人は「老害」という品のない言葉を使うようになったのか/廣岡達朗コラム


12/21(金) 11:01配信


週刊ベースボールONLINE


OBに対するリスペクト

 野球界には、トレーナーと称される人間が格段に増えた。われわれの時代には、1球団に1人、ないし2人いれば、それで十分に事足りた。実際に専門家が多ければケガ人が減るかというと、そうではない。むしろ、数が多いほど故障者が増えるのが実情である。

 医者と患者の関係にしても一緒だ。医者が増えても病人は減らない。なぜ、こうした現象が起こるのか。

 人間というのは、若いうちは免疫力が強いから、何を食べても体が消化できる。ステーキなど動物性タンパクの強いものを食べたいだけ食べられる。しかし、年を取ってくるにつれ、あるとき病気になる。そのとき初めて、俺の食生活は間違っていたのだと人間は気づく。つまり、病気が教えてくれるのだ。では、病気にならないためにはどうすべきか、それを教えてくれる医者がいない。自分で考えるしかないのだ。

 私は今年86歳になった。酒を断ってから6年がたつ。この年齢になってもシャワーで冷水を浴びているため風邪をひいたこともない。風邪で寝込んでみたいぐらいだ。

 人間というのは、年を取れば取るほど損得勘定が消え、考え方が純粋になってくる。その考えは間違っていないと自信を持って言える。にもかかわらず、日本人というのは目上の人間を年寄り扱いして、まともに言うことを聞こうとしない。「老害」という言葉で片付けてしまう。いつから日本人はこんなに品のない言葉を使うようになったのか。

 長く生きてきた人間には必ず、それだけの矜持がある。何を言いたいかというと、球団もOBに対するリスペクトを持てということだ。巨人なら水原茂さん、川上哲治さんたちの残した財産を大事にすべきなのだ。


間違っていることは間違っている

 繰り返し書くが、大切なのは教育である。指導者が選手の欠点を責めてばかりいたら物事は好転しない。そこは教える側も頭を切り替えて、知らないから教えてやると発想を転換すればいいのだ。人を伸ばすために、こうしなければいけないということを、根気強く言い続ける必要がある。

 ところが、いまの指導者はベストコンディションで臨めと口にはしても、選手から「どうしたらベストコンディションになるんですか」と聞かれると、日ごろから勉強していないから答えに窮してしまう。こういうものを食べて、こういう考え方をしろと、なぜ具体的に言えないのか。

 寝るときに熟睡しろというのは、その間にエネルギーをもらえるからだ。寝るという行為は、無心の状態にさせてくれる。病気で痛い痛いと思っていても、寝ている間は痛みを感じない。あれはエネルギーをもらって病気が治っている証拠なのだ。

 しょせん人間というのは生まれたら死ぬ。それならば、世のため人のために尽くしていったほうがいい。

 そして、自然の法則には従うべきだ。ところが、人間は身勝手だから自分に都合のいい法則を作ってしまう。球界でいえば、CSにコリジョンルール。そういうことに正面切って問題提起する評論家が少なくなった。だからこそ、私は間違っていることは間違っていると言い続けたい。年内の連載も今号が最後になった。読者の皆さんのご愛読に感謝したい。

廣岡達朗(ひろおか・たつろう)
1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退団。92年野球殿堂入り。

写真=BBM


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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