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寿司は人間より大事に扱われるwww

これは、言われてみればまさにその通りで、寿司に失礼な表現だwww
その状態で運ばれる人間たちは、おそらくユダヤ人収容所に送られるユダヤ人以下の扱いと言っていい。まあ、隣がきれいなネエちゃんだと逆に極楽だが、相手のネエちゃんにとっては地獄だろう。


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寿司詰めの満員電車っていう表現があるけど、寿司はもっと余裕もって詰められていると思う。


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印鑑文化とサイン文化

私は自分が悪筆なために、かえって書(書道)というものに興味があり、なぜある書は美しく思われ、ある書は醜く思われるのか、いつも不思議に思っている。中心線が揃い、線の間隔が均等に書かれていれば美しく見える、というのは一般論としては言えるが、それなら行書や草書はどうなるのだ、と思うので不思議に思うわけである。なお、書道の展覧会などで上位に来るような書はあまり魅力を感じない。もちろん、端正な美を持つ書が嫌いというのではなく、いかにも「どうです、きれいでしょう」という感じが嫌なのである。良寛が嫌いなものとして書家の書を挙げていた心理も同じではないか。書の背後にある心理が透けて見えるわけだ。
誰か、書の美というものを私に理解できるように分析してくれないものだろうか、と、図書館などに行くとそういう本を探すのだが、ある種の書が美しい理由というのを合理的に説明した本は見たことがない。
以上は新保信長という人の「字が汚い!」という本を読んでの感想のひとつである。この本は私と同様に自分の悪筆に悩んだ新保氏が、きれいな字を書く能力を身に付けるためにあれこれ考え、あれこれ試行錯誤するという内容で、書に関して書かれた本の中では、一番納得できる情報が多く含まれていて面白い。文章自体も面白いし、何より、自分の下手な字が変わっていく途中経過を各章の扉絵にしているのが興味深い。(上手くなったかどうかは一概には言えないが、見やすく、「格好をつけた」字にはなっていったようだwww)

ちなみに、書とは少し違う話だが、日本の「印鑑文化」に対して西洋の「サイン文化」というのがあるわけだが、サインなど真似して書かれたら簡単に書類偽造ができるのではないか、と我々日本人は思うわけである。それに、自分で自分のサインを毎回同じように書けるかと言われたら、それは無理だ。そういう「サイン文化」への疑問に答えるような情報がこの本の中にある。日独ハーフのサンドラさんという人の言葉だ。
先に答えを言えば、日本の銀行やお役所は厳格主義すぎるということなのである。

「サインは人が書くものだから、あるときはこうであるときはこうって、ちょっと違っても全然いいんです。でも日本の場合は印鑑の文化だから、サインも同じでないと認められない。それでトラブルになっちゃうんで、だったら(銀行への登録も)印鑑のほうが便利だなあと」

(でも、そしたらヨーロッパでは「そのサインが本人のものである」というのをどうやって確認しているんですか?)

「たとえばパスポートだったら、写真とサインがあるじゃないですか。そのサインを見て、実際にサインしているところを見て、文字の流れが同じで顔写真も同じだったら『まあ、いっか』ぐらいの感じで」
「ヨーロッパの人からしたら、印鑑だって盗まれたらどうするの、って思いますから」

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「子供」の見る映画を女性が真面目に観るはずはない

SF作家山本弘のブログ記事だが、フィクションに対する男と女の好みの違いというのが出ていて面白い。
女性というのは「現在がすべて」のようなところがあり、大人になれば、大人である今の自分という心でしか物事は見ないだろう。保育士などのように子供を相手にしていてもべつに自分が子供の心になっているわけではない。そういうものである女性が「子供(一部のオタク大人)向け」の怪獣映画を観るはずが無いではないか。
なお、私は、「シン・ゴジラ」は良作だとは思うが、もともとゴジラ映画やウルトラマンや仮面ライダーの類をほとんど見ていないし興味も無い。SF映画は好きだしゴジラの第一作は傑作だと思うが、その他の怪獣映画はもともと子供向けの作品だし、いい大人が鑑賞するのはきつい類の映画だと思っている。縫いぐるみ(着ぐるみ)のプロレスを楽しめる大人がいるというのが不思議な気がする。本物のプロレスもお芝居であり、それらを楽しめるというのは「一時的な理性の棚上げ」ができる羨ましい精神だな、とは思う。「ラドン」も子供のころ見た時は面白かったが、ラドン自体は子供心にもチャチな作りでがっかりした記憶があり、むしろ映画前半の「語り口」の見事さが印象に残っている。
最近は、オタクがそういう子供向けジャンルを、「子供をそっちのけにした内容」で作るのが流行っているが、それもどうなのかなあ、と疑問も感じている。「シン・ゴジラ」は大人(昔の子供心を維持している、と言えば良く聞こえるが、どちらかと言えばオタク)向けの怪獣映画という不思議なジャンルなのである。
まあ、作り物を否定したらあらゆる芸術は滅びるわけで、私が懸念しているのは、現在の映画界やアニメ界には黒澤明もフェリーニもベルイマンもいない、ということなのである。黒澤明の「生きる」やフェリーニの「道」やベルイマンの「野いちご」は彼らが三十代か四十代初めで作った作品のはずだ。その若さで彼らがなぜそれほど重みのある「人生映画」を作れたか、と言えば、昔の人はそれだけ深く人生というものを若いころから見つめていた、ということだろう。


(以下引用)

第2話 『シン・ゴジラ』と僕の憂鬱



 先日、テレビで『シン・ゴジラ』を放映した。


 今さら言うまでもなく名作である。日本中の大勢の観客が熱狂した。僕も大好きな映画だ。


 じゃあ山本弘はきっと大喜びだったんだろう……と思ったら大間違い。確かに『シン・ゴジラ』は傑作である。しかし映画の出来とは無関係に、僕は暗い気分になってしまう。画面にのめりこめないのだ。


 我が家では妻も娘も怪獣映画を観ないのだ。


『シン・ゴジラ』の放映時間になると、二人とも別室に行ってしまう。僕だけがテレビを観る。


 だから二人とも、「蒲田くん」も「内閣総辞職ビーム」も「水ドン」も「無人在来線爆弾」も見たことがない。


 どうやってこの映画の面白さを伝えればいいのか?


 さみしいよ。


 娘は小さい頃、ビデオで『ジュラシック・パーク』を見せたのがまずかったのかもしれない。ティラノサウルスが人間をぱくっとシーンでトラウマになったらしい。もう20代前半になってるのに、未だにユニバーサル・スタジオに行こうとしない。



 妻は『相棒』や『科捜研の女』しか見ない。新婚当初はマンガもずいぶん読んでたはずなんだが、最近は『ワンピース』を惰性で買ってるくらい。小説は絶対に読まない。もちろん僕の小説も。


 信じられないかもしれない。山本弘の妻が夫の小説を読んでないなんて。


 娘には小説の新刊が出るたびに読ませている。だが、この数年、感想を耳にした記憶がない。読んでないんじゃないほかという気がひしひしとする。


 妻や娘だけじゃない。『BISビブリオバト、ル部』の中で、本をよく読む人間はマイノリティだという話をした。ほとんどの人は本を読まない。


 たぶんニセ科学が蔓延するのもそれが原因だろう。科学の初歩すら知らないから、『水伝』や『アポロ陰謀説』のような嘘にあっさりひっかかる。



 娘は最近、アニメさえ見なくなった。やっているのはFGOぐらい。戦隊ぐらいは見るけど、かつてのような熱心さは見られない。『ジオウ』は見てるけど、戦闘シーンは飛ばして、早送りで見てる。ウォズ役の役者さんがお気に入りらしいんだけど、早送りで観賞されたって、役者さんにとっては悲しいと思うよ。


 当然、僕が最近お気に入りにしてる作品には、まるで興味を示さない。『GRIDMAN』にも『サンダーボルトファンタジー』にも。どっちも面白いのに。


 別にFGOが悪いとは思わない。面白ければいくらでもやればいい。でも、面白いものから目をそらしていては、つまらない大人になってしまうぞ。



 だが、こういう話を面と向かって話せない。反発を受けるからだ。


 ちなみに、妻と娘はこの日記も読んでないらしい。隠してるわけじゃないんだけど。






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昔は「教師はサヨク」、今は「教師はネトウヨ」?

素晴らしい思想の子供である。ぜひ、将来は国会議員になって平和国家を作ってほしい。




都内の公立小の卒業文集の件(下記)で、もう少し詳しい情報が入った。小6男子が「将来国会議員になって、戦争したり武器輸出をしたりしない平和な国を作りたい」と書いたところ、教員から「政治批判を含んでいて卒業文集には載せられない」と言われ書き直しを命じられたと。背筋の凍る話だと思った。





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マスクが苦手な人のために





マスクをすると耳の後ろが痛くなる、という人へのお役立ちアイデアである。
クリップだと人目が気になるという人は自分で他の工夫をすればいい。しかし、私も耳が痛くてマスクができない人間だが、こういう工夫をしようとは思いもしなかった。
「魔法使いサミー」の主題歌ではないが、「呪文と頭は使いよう」である。





















































































































































































































マスク クリップ 耳に関連した画像-02

マスク クリップ 耳に関連した画像-03


<ネットでの反応>

おおおー!!!めっちゃ助かる解決法ですね!!!

お金もかからない良いアイデアですね!

眼鏡をつけてマスクすると外す時に一緒に外さなきゃならなかったから名案かも

天才!!この知恵 頂きました

私は金属アレルギーなのでクリップは使えない。使い終わったマスクのゴム使えばそのまま捨てられるし、ホームセンター行けばオーバーヘッドのマスク売ってるからそれを使う。見た目が気になるなら紐やヘアゴムの端くれだとか何でも工夫して使えばいい。


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タニシとカタツムリとエスカルゴ

私はカタツムリもナメクジも嫌いだが、下の写真のやつは可愛いと思う。どう見てもカタツムリだが、タニシなのか。まあ、貝類はもともとカタツムリと同族らしいから、エスカルゴにおぞ気を振るう私も実は貝類を食うことでフランス人並みのゲテ物食いをしているわけであるwww
なお、少し前に、自分でネギを調理して食ったら、その中の芯が異常な食感だったのだが、あれはナメクジが入り込んでいたのではないかと今でも気味悪く思っている。まあ、ネギの芯は柔らかいのは当然だが、それとは違う食感だったのである。コンビニで買ったネギだったが、芯の部分に入り込んだものまでは検査では発見できないだろう。年を取ることの利点は、「まあ、いいか。そういうこともあるさ」でたいていは我慢できることであるwww
なお、下のタニシの可愛さは「顔」が漫画的で、特に目が可愛いことだろう。




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沖縄でクワズイモの葉の上にとても綺麗な陸貝がいた。アオミオカタニシだ!さすが沖縄。カタツムリもすごい色をしている。殻に蓋があるのでカタツムリではなくタニシになるらしい。こんなに綺麗なのに貝殻を集めている人がなんでいないんだろうと思ったら貝殻は実は透明で、名前の通り身が緑色らしい。






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『こころ』の「先生」の自殺の理由

私は夏目漱石の作品では

1:吾輩は猫である
2:夢十夜
3:坊ちゃん
4:草枕
5:三四郎

の順に好きで、「こころ」はたぶん一度しか読んだことが無いのだが、今朝、ふと考えたのが、「先生」の自殺した理由である。
その理由について「先生」は、「畢竟、自分は時代遅れの人間だ」と思ったからだ、と主人公への「遺書」とも言うべき手紙に書いてあったのだが、この作品を読んだ当時(いつ読んだのかは覚えていない。中学か高校のころだっただろうか。)の私にはその「理由」がまったく理解できなかった。
自分が時代遅れだからという理由で死ぬことに納得できる人はいるだろうか。
しかも、その「遺書」のほとんどは友人Kへの裏切り行為と、親族に騙されて財産を失ったとか何とかいうことで人間不信になったこと、などが主に書かれていて、それは「読者に理解しやすい」自殺の原因なのだが、自殺の直接の理由は乃木大将の明治天皇の死への「殉死」にショックを受けたことだ、というように書かれていて、その中で「時代遅れ」云々は乃木大将の死が「明治の精神に殉じた」ものだ、とされ、自分もそれに倣って死ぬことにした、というわけだが、ここが分かりにくいわけである。
で、今朝考えたのは、「先生」の自殺の理由はまさに「先生」が言うとおりで、「自分は時代遅れだから」なのだと考えるべきだろうということである。

その前に少し考えたことがあって、それは、日本語の持つ婉曲さや穏やかさや含みという特質はこれからどんどん無くなっていき、誰にも理解されなくなるだろうな、ということである。国際化時代にはこういう表現方法は「欠点」としか見做されないからだ。
たとえば、「さらば」も「さよなら」も元々は「バイバイ」ではなく、「さ・あらば(そうであるならば)」とか「左様なら(そのようなら)」であって、「(別れたくはないけれど、)こういう事情なので,(ここでお別れします)」という実に婉曲で遠慮深い言い方なのである。別れの言葉をストレートに口に出さなくても、別れを惜しみ悲しむ気持ちは伝わる、ということだ。
これからの「国際化」で消えていくのはそうした「日本文化」の魂のようなものだ。
とすれば、古い人間は当然「時代遅れ」になるわけで、自分の気に入らない「新しい文化」が自分の周囲を取り囲むことになる。新しい物が好き、という人はいいとしても、ふつうは自分が慣れ親しんだものは常に古くなっていくのである。妻が年を取ったからポイ捨てして新しい若い美女に乗り換えればいいというようなものではない。その若い美女もカネだけが目当てで老人をたぶらかしているだけであるwww 好きなものへは愛着が湧くものだし、それはどんどん古くなるのである。いや、「世界や時代の流行の変化」のためにそうなるだけのことで、本当はいいものは永遠にいいのだが、とりあえず「時代遅れ」にはなる。

「先生」の場合には、自分のこれまでの人生にも生活にも自分自身にも不満感を抱えて生きてきたのだが、それは「死ぬ積極的な理由がない」から惰性的に生きてきただけにすぎないのである。ある意味では常に生と死の境目で生きてきたようなものだ。
そこに明治天皇の死と乃木大将の殉死の事件が起きて、「ああ、こういう形で死ぬということもできるのだ」という衝撃を受けたのだろう。
その死が、それまでの自分の生き方への鋭い問いかけとなり、その生は生に値せず、しかもこれからなお悪くなる(人間嫌いの人間が世間に伍して生きるのは難しいし、そもそも時代遅れ扱いされるだけである)と結論したから先生は「勇気をもって」死を選んだ、ということではないだろうか。



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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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