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人体はいくら積んでも足場にも陣地にもならない

動画がコピーできるかどうか分からないが、妙なリアル感というか、人間の「物」化という点で戦場のリアルを感じさせる。日露戦争での「203高地」の突撃戦法はこれに近い。「俺の屍を超えていけ」という感じである。まあ、乃木大将は人格者ではあったようだが、軍を率いる人間としては最悪の愚将だったと思う。(最近はまた擁護説もあるようだが、結果だけを見てもその愚劣さは明白だろう。)

ゲームの中では死体を足場にして突撃しているが、現実には死体は足場にはならないだろう。

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「Mamma Mia」をプレイ。一見普通のマリオだが死んでもマリオの死体が画面に残り続け、その死体を足場にして進んでいくというすごいシステム‼️パズル的な要素をマリオに加味すると同時にマリオが常に大量の死を含んでいるゲームであることを可視化してみせている。マリオへの愛と鋭い批評性が共に秀逸


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人命を司る職業の責任

一旦は「尊厳死(と言っていいと思う)」を自己決定した人間が、死の間際にその意思を撤回したらどうするか、という問題である。ここでは医師が「錯乱状態での、尊厳死停止の意思より、平静な状態での尊厳死の意志」を優先させたために患者が死に至ったことが法的な処罰の対象になるだろう、ということだが、こういう事態もあらかじめ容易に想像できることであり、その場合の処置も「契約」し、書面化しておくべきだろう。まあ、書面化しておいても問題視されるのが現在の状況だと思うが、この問題はもっと議論されたほうがいい。「国のガイドライン」が、この医師の行為を「殺人」とする根拠になるのかどうか、である。私としては、ガイドラインはあくまでガイドラインであり、法律と同一視すべきではない、と見る。
少なくとも、この医者も「被害者」でもある。人の生死を司る仕事というのは、その責任も重い。一歩間違えば「殺人犯」になるのだから。
そういう意味では、医師というのは「羨ましくない」職業かもしれない。
その一方で、(同様に、関係者=被疑者の人命に関わる)冤罪事件での警察や裁判官が「何一つ責任を取らない」というのは実に異常なことなのだが、まったく問題視されないこと自体がこれまた異常である。

(以下引用)



医師が「死」の選択肢提示 透析中止、患者死亡 東京の公立病院


3/7(木) 5:01配信


毎日新聞


 東京都福生市と羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。

【悲痛】女性が夫に送った最後のメール

 ◇ガイドラインから逸脱 都が医療法に基づき立ち入り検査

 外科医は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」と話している。病院側によると、女性は受診前に約5年間、近くの診療所で透析治療を受けていた。血液浄化用の針を入れる血管の分路が詰まったため、昨年8月9日、病院の腎臓病総合医療センターを訪れた。外科医は首周辺に管を挿入する治療法と併せ、「死に直結する」という説明とともに透析をやめる選択肢を提示。女性は「透析は、もういや」と中止を選んだ。外科医は夫(51)を呼んで看護師同席で念押しし、女性が意思確認書に署名。治療は中止された。

 センターの腎臓内科医(55)によると、さらに女性は「透析をしない。最後は福生病院でお願いしたい」と内科医に伝え、「息が苦しい」と14日に入院。ところが夫によると、15日になって女性が「透析中止を撤回する」と話したため、夫は治療再開を外科医に求めた。外科医によると、「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」という発言を女性から数回聞いたが、苦痛を和らげる治療を実施した。女性は16日午後5時過ぎに死亡した。

 外科医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」と説明。中止しなければ女性は約4年間生きられた可能性があったという。外科医は「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と主張している。

 日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。専門医で作る日本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判している。外科医は女性について「終末期だ」と主張しているが、昨年3月改定の厚生労働省の終末期向けガイドラインは医療従事者に対し、医学的妥当性を基に医療の中止を慎重に判断し、患者の意思の変化を認めるよう求めている。

 東京都医療安全課の話 生命尊重と個人の尊厳保持という医療法の理念通りに病院が適正に管理されているかを確認している。

 厚労省地域医療計画課の話 一連の行為は国のガイドラインから外れ、現在の医療水準や一般社会の認識からも懸け離れている。【斎藤義彦】

 ◇人工透析治療

 人工膜や腹膜を使い、血液中の老廃物や毒素、水を除く治療法。人工膜を使った血液透析では通常、週3回で各4時間、腕の血管を透析器につないで血液を浄化する。腎臓が機能しない腎不全に有効で、長期生存が可能になる。1950年代に実用化され、国内では67年に健康保険の適用になった。72年からは更生医療(現・自立支援医療)により自己負担が軽減され、広く普及している。患者らでつくる全国腎臓病協議会によると、薬や機器の進歩で患者負担が軽減され、大多数は苦痛なく治療を受けている。ただ、疲れが出て腰が痛くなったり、針を刺す痛みを強く感じたりする人も一部にいるという。


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弥生人と縄文人の共存と角逐

まあ、基本的には縄文人と弥生人(おそらく渡来人)が平和裏に共存していた(つまり、北米大陸にヨーロッパから白人がやって来た初期のころの白人とインディアンのようなものだ。白人たちが生きていけるようにインディアンたちはいろいろ親切にしてやったのである。そのインディアンを後にはほぼ絶滅させたのが白人であるwww)という説に私も賛成する。
だが、弥生人(渡来人)が完全に社会の上位を占めるようになると「縄文人差別」が生じてきたはずだ。屠殺を「穢れ」とする風習も、仏教伝来以前から、弥生人の縄文人への差別として発生したと思う。縄文人の多くは北や南の辺境に追いやられ、東北地方以北は「蝦夷」とされ、その差別は政治的な「東北地方冷遇」として現代でも生き残っている、というわけ。ただ、「渡来人」のすべてが中央に集まったのではなく、最初から東北などに渡来した朝鮮や中国の人間も多いのかもしれない。つまり、別に、現代の東北人が縄文系だと言っているわけではない。そもそも長年の混交で縄文人と弥生人の純粋種はほとんどいないと思う。

(以下引用)


縄文と弥生のハイブリッド

| コメント(13)

弥生時代の遺跡から出てきた人骨を分析したら、「母方は渡来系、父方は縄文系」という結果だったというんだが、それがどういう意味を持っているかというのは微妙なところで、「渡来系が日本列島にやって来て征服した」というのだったら、そういう結果にはならない。少なくとも、平和裏に、弥生の渡来系と土着の縄文系が共存し、交流していたという証拠です。

 国史跡・青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町)で発掘された弥生時代後期とみられる人骨について、県が国立科学博物館や国立歴史民俗博物館と進めるDNA分析の経過報告が2日、鳥取市であった「とっとり弥生の王国シンポジウム」で発表された。昨年実施した母から引き継ぐミトコンドリアDNAの分析ではほぼ全員渡来人系だったが、父から引き継ぐY染色体からは縄文人系の配列がみられた。
 人骨のDNA分析研究班の代表である科博の篠田謙一副館長によると、父母から引き継ぐ核DNAを6人について分析した。その結果、男性5人、女性1人で、それぞれの遺伝的な違いは大きかった。男性特有のY染色体のDNA配列を調べると、縄文人系の配列が3タイプ確認された。核DNAの配列を現代の日本人や韓国人、中国人と比較すると、現代日本人のグループ内に位置した。

いつもおいら言ってるように、弥生と縄文とは、生活の基盤が違う。弥生は湿地帯で稲作を専業でやり、コメだけをたくさん作る。でも、オカズに色々あると楽しいよねw そこで、海山の幸に詳しい縄文人が、イノシシ捕まえたり、カツオ獲ったりして、コメと物々交換。仲良く暮らしていた。稲作は生産性が高いのでどんどん子孫が増えるんだが、オンナはあまり労働力としては有益ではないので、どんどん嫁に出すw 土着の縄文人にしてみても、弥生のオンナというのは「都会的」で、色っぽく見えたかもw




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笑いと差別は紙一重

「クレヨンしんちゃん」が道徳的であるという指摘は慧眼だと思うが、昔のクレしんはオカマをさんざん馬鹿にして笑いを取っていたから、今の時代には無理ではないかwww ヤクザが「園長先生の描写を見て傷ついた」と訴訟を起こすかもしれないしwww





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愚息(小5)曰く、「あ〜、ほんま道徳おもろないわ〜。授業もやけど、教科書があかん。あれ大学の先生も作ってはるんやろ?内容ないわ〜。それやったらドラえもんの映画とクレヨンしんちゃんの映画を観せたらええねん。その方がよっぽどいいで」と。


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September Song

「うざね博士のブログ」というブログから転載。孫引きか曾孫引きになると思う。映画の原題は「september song」ではなく「 september affair」のようだ。私は「september」の単語を読んだだけで短絡的に頭の中で「song」と続けたようである。

oh,the days dwindle down, to a precious few

は、一年の終わりの気分を、老年を迎える気分と重ね合わせた名フレーズだ。


(以下引用)


 下段の説明はWEB上でひろったもの、貼り付けてみたのでご参考までにどうぞ。ちなみに、歌詞は字幕以外にはいい日本語訳が見当たらない。映画から面倒をいとわず採録してみた。ほかにあればどなたか、ご教授願いたいものと思う。

「セプテンバー・ソング」は、ジョーン・フォンテーンとジョセフ・コットン主演、ウィリアム・ディターレ監督の映画『旅愁(September Affair)1952』のテーマ曲として有名です。映画はイタリアを舞台にしたAffair(不倫の恋)、恋愛劇で、これも九月の人恋しさを感じされる物語でした。この映画はアカデミー主演女優賞を獲ったジョーン・フォンテーンの成熟した演技が印象的でした。
 もともと、「セプテンバー・ソング(September Song)」は:クルト・ワイル(Kurt Weill)作曲、マックスウェル・アンダーソン(Maxwell Anderson)作詞のブロードウェイ・ミュージカル『ニッカボッカ・ホリディ(Knickerbocker Holiday)』の挿入歌。ウォルター・ヒューストン(Walter Huston)はカナダ生まれの俳優で歌手ではありません。そのため声域も広くない彼のために書かれたのが「セプテンバー・ソング」(September Song)なのですが、かえってこれが誰でもが口ずさめる親しみやすいメロディをこの歌に与えました。また、歌詞の内容も良く、「九月の歌」ではありますが、日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて秀逸です。明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。この含みが歌詞に豊かな余韻を与えています。
「セプテンバー・ソング」はブロードウェイ・ミュージカルの発表当時から人々に親しまれており、スタンダードな歌となっていました。それを再びヒットさせたのがフランク・シナトラのバージョンです。この歌唱が今でもこの歌の変らぬスタンダードともなっています。曲と歌詞がシンプルで美しいため、これ以上のアレンジは難しい歌でもあります。一例を挙げれば、ルー・リードのカバー・バージョンもスタンダードに対するひとつの挑戦であるものの、原曲、シナトラを超えるものではありませんでした。

 “September Song”
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
If a maid refused me with tossing curls
I’d let the old Earth make a couple of whirls
While I plied her with tears in lieu of pearls
And as time came around she came my way
As time came around, she came

[When you meet with the young girls early in the Spring
You court them in song and rhyme
They answer with words and a clover ring
But if you could examine the goods they bring
They have little to offer but the songs they sing
And the plentiful waste of time of day
A plentiful waste of time]

Oh, it’s a long, long while from May to December
But the days grow short when you reach September
When the autumn weather turns the leaves to flame
One hasn’t got time for the waiting game

Oh, the days dwindle down to a precious few
September, November
And these few precious days I’ll spend with you
These precious days I’ll spend with you


・映画挿入歌・ Song:Walter Huston
女を口説いていた若い頃は
 待つのも楽しみだった
 そっぽを向かれフラれても
 時を過ぎるに任せていた
 真珠の代わりに涙を捧げていた
 時がたち想いはかなった
 時がたち彼女は僕のものに

5月から12月までは長い月日だけれど
 9月になると日々は短くなる
 秋の気配が木の葉を赤く燃え立たせる頃
 もう待つことを楽しむ時間はない
 残りの日々は少なく貴重なものになってゆく

[9月から11月へと
 この大切な日々を君と共に過ごそう
 大切な日々を君と共に
 月日が流れワインは熟成してゆく]

9月から11月へと
 この実り多き歳月を君と分かち合おう
 実り多き歳月を君と共に

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年を取ったからこそ理解できる映画

ネットフリックスの映画(かテレビドラマか知らないが)「トロツキー」(私は「トロッキー」だとこれまで思っていた。)は、おそらくロシアで制作されたもので、全編ロシア語だが、日本語字幕付きだ。ネットフリックスは日本製アニメにも字幕を付けてくれるので、私のように軽い難聴の人間にはとても助かる。これまでの生活でも、他人の話すことの半分くらいは聞き取れなかったのである。自分が難聴であると自覚したのは最近のことだが、よく考えると若いころから耳は悪かったのだ。
それはともかく、その「トロツキー」は大傑作であり、普通の劇場公開映画と並べても歴代最高の「政治ドラマ」だろう。私のようにロシア革命をあまり知らない人間(これまでは興味も無かった。)でも、全話を見ればその概要が分かり、なるほど、レーニンとトロツキーとスターリンの関係はこうだったのか、とおおよそ理解できる。素晴らしいのは、各人物がまったく美化も神格化もされず、それにも関わらず、それぞれが「政治的怪物」であることが見事に描写されていることだ。特に、スターリンを演じた俳優は、「怪物の中の怪物」という印象である。(若いころと中年では、その怪物としての熟成度が違うのを見事に演じ分けている。)
なお、時々セックスシーンが入るのが私の好みではないが、まあ、私はCM代わりの「目の休憩時間」にしているwww 要するに、どんな人間にも私生活はあり、セックスもそのひとつであるというだけだ。興味の無い人間はわざわざトロツキーの性生活を見るまでもない。ただし、やたらとそういうシーンがあるわけではない。ご家族で見るにはやや不向きかな、と思う。
なお、これもネットフリックスだったと思うが、キューブリックの「ロリータ」の放映期限が3月14日までだったので、中学生か高校生のころのテレビ放映を途中から少し見ただけで駄作だと思い込んでいたが、念のために見直すと、これがかなりの傑作で、「キューブリックに駄作なし」の私の考えは、以前は「ただし『ロリータ』を除く」だったのだが、その補足も不要になった。ただし、この映画は40歳前の人間には理解できないと思う。いわゆる「ロリコン」の語源になったナボコフの小説の映画化だが、セックスシーンは実はひとつもない。在るのは、未成年の少女を心の底から愛してしまった中年男の転落劇であり、それは悲劇的であり喜劇的でもあるのだ。キューブリックが明確なセックスシーンを作品の中から除去したのは、映画の主題はそこには無いからである。
これもついでに書いておくが、どのネットテレビだったか忘れたが、たぶんアマゾンプライムで見た、古い映画「赤い風車」は、ロートレックの生涯を描いた作品だが、この映画の美術は凄い。各シーンの人物やセットが、背景的人物も含め、まさにロートレックの絵の世界なのである。こういう作品も、おそらく若いころには私にはその価値が分からなかったと思う。そのほかにも、昔の白黒映画などで、「今だからこそ理解できる」作品に数点出会い、年を取るというのはこういうメリットもあるのだな、と思っている。

ちなみに、これもネットテレビで見た「旅愁」(似た名前の「旅情」とは別)も、いい作品だった。私は恋愛ドラマ、特に不倫ものは大嫌いなのだが、この作品は、そういう嫌悪感を観客に起こさせない「清潔感のある恋愛・不倫ドラマ」である。私の大好きな「セプテンバーソング」がこの映画の主題曲であり、映画の原題でもあるのは、見始めて初めて知った。昔の映画監督は、特に有名監督でなくても、映画作りが丁寧で誠実であり、特に「観客に不快感を抱かせない」ことには注意深かったと思う。これもちなみに、「赤い風車」の主題曲「ムーランルージュの歌」も名曲である。

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「日本の人作りとは奴隷作り」を絵に描いたような写真

体育館の床というのは、私にとっては地面と同じ(靴を履いて跳んだり走ったりする場)であり、野外との違いは、単に屋根があるだけのことだ。つまり、ここでの生徒たちの姿は「土下座」である。生徒たちは囚人、教師たちが牢獄の看守たちに見える。






商業高校に通う生徒から画像付きDM

「私の学校では集会が行われる時に先生が前に立つと必ず正座をして礼をしなければなりません。先生達は外部から来た人が褒めていたと自信満々に言います。」

商業高校は人作りの学校だから正座をさせるのらしい…




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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