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sound of silence




私の推測では、シャドウバンはツィッターやインスタグラムだけではなく、ごく普通のブログにも行われていると思う。私が昔書いていたブログ(その名前も忘れたが)が、ある日突然ネットから完全に消滅させられたことがある。特に政治的な内容ではなかったから、BANされた理由は今でも分からないが、SNSというのはそういう正体不明の沼のようなものだ、と今でも思っている。まあ、ネットに載せておけば、どこかに記録は残っているだろうと期待して、書いた文章はどんどん公開しているわけだ。それが沈黙の音となって消えるにしても誰かが聞いている可能性はあるだろう。
ネットのプロバイダーの多くは、利用者の社会的発言へのこうした陰湿な妨害行為はするが、ネットを利用した明らかな詐欺行為は大手を振ってまかり通り、一向に無くならない。




シャドーバン

別名:シャドウバン隠れバン隠れ禁止
【英】shadowban

シャドーバンとは、ソーシャルメディア運営側が悪質ユーザーアカウント投稿タイムライン等に表示させないよう設定して(公の目に触れないようにして)半ばアカウント凍結ban)に近い状態にする措置のことである。


ソーシャルメディア上の悪質ユーザー対す一般的なペナルティアカウント凍結である。アカウント凍結されれば本人フォロワーもそれと気づく。シャドーバンの場合当該アカウントから投稿従来どおり行えるため本人はシャドーバンに気づきにくく、フォロワーアカウントが非表示措置を食らっているのか、単に投稿滞っているだけなのか、見極めがたい。特定のハッシュタグ検索結果からは排除されることになる。


シャドーバンはInstagramTwitterなどで行われることがあるどのようなアカウントがシャドーバンの対象になるかは一概に言うことはできないが、公序良俗に半する投稿振る舞いボットを使った人海戦術といった「ソーシャルメディア本分逸脱するような行為」がおおむね対象になるといえる




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日本の癌細胞

私は「ネットゲリラ」読者コメントの中で、「アベキラー」氏の文章は大嫌い(センスの無い下品な罵倒語が多すぎる。wが多すぎる。人のことは言えないが、コメントの半分以上がそれだと字数の無駄だし、字面が悪い。)なのでほとんど読まないのだが、下の指摘は、なかなか的を射ていると思うので転載した。
しかし、「経団連」と「電通」と「日銀」と「マスコミすべて、特に新聞社とテレビ局」を入れないのはダメだろう。何なら「教育業界」も「裁判所」も入れてもいい。つまり、日本の上層部すべてであるwww さらに、こんな日本になったのは、庶民が馬鹿だったからと考えれば、上も下もすべて癌細胞かwww 癌は老化の一種と見れば、日本は老衰死間近だろう。若い馬鹿(癌細胞)も膨大にいるし、まあ、マスコミと教育の成果が今の日本だ。


(以下引用)





日本の癌細胞


・安倍晋三と不愉快な仲間達
・竹中平蔵
・官僚、天下り
・自民、公明、維新、幸福実現党
・警察、公安
・省庁全部(特に財務省と経産省)
・ほとんどの公務員
・自衛隊(カルトばっか)
・ジャニーズ、AKB、吉本
・ヤクザ
・利権寄生虫(在日朝鮮人に多い)
・原発推進派と利権寄生虫(東電や電力会社)
・リニア寄生虫(JR倒壊&葛西のクソ野郎)





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転がる石と眠るライオン

例によって思い付きの論を論じてみるが、「挑戦」とか「変革」ということは本来はマイナスの行動なのではないか、という論である。もちろん、面白半分の詭弁が半分の論だ。

現状が完璧な秩序を持ち、誰もが幸福だという状態なら、そこで何か新しいものに挑戦したり現状を変革しようとする人間は普通はいないわけで、いれば、はた迷惑な行動をする「犯罪者」「不道徳者」になるだろう。まあ、要するに、「天国」を「改善」しようとする人間はいるか、ということだ。
つまり、挑戦や変革を必要とする社会や状況は不幸な状態であり、不平不満に満ちているということである。これは社会だけではなく、個人においても同じだろう。現在の自分や自分の状況に不平不満があるから進歩や向上を求めるわけである。
今の恋人に不平不満があるから、新しい恋人を求めるわけだ。あるいは、恋人がひとりしかいないことが不満だから複数の恋人を求めるわけだ。つまり、進歩向上を求める人間は、周囲を不幸にする、と言えるのではないか。新しい恋人ができたら、古い恋人は捨てられるのだから。
で、そのようにして次から次へと変化を求め、新しいことに挑戦し続ける人間は非常に賞賛され、社会にとって有益な存在だとされるのだが、当人は本当に幸福なのだろうか。
「転石苔むさず」という言葉があるが、ローリングストーンズ(転がる石たち)は本当に常に新しい音楽に挑戦しただろうか。ある時期からは自己模倣、あるいは昔のヒット曲の演奏だけだったのではないか。
「ライオンは眠っている」という大ヒット曲を出したトーケンズというグループは、その一曲だけで、70歳80歳になっても田舎で興行をして会場はいつも満員だったという。

転がる石と眠るライオンの見かけは反対だが、どちらも実は変わらぬ部分こそがその個性であり、価値だ、ということだ。あなたが誰かを愛したなら、その誰かの「現在の状態」が愛する対象であるはずだ。その相手が進歩向上して別人になれば、それはもはや愛する対象ではなくなった、ということなのである。逆も真なりで、たとえば美人女優を愛して妻にしたなら、女優からただの主婦になった相手をなおも愛するかどうか、分かったものではない。



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定説(権威)を疑うことこそが真の科学的姿勢


これまではっきりとした研究結果も無いのに、セミは地上に出て1週間くらいで死ぬ、という俗説に疑問も持たなかった生物学者たちは恥じるべきだろう。「定説」と「俗説」は紙一重であり、昔や今の権威者の説を有難がって、あるいは逆らう事が怖くてひれ伏しているだけ、というのが案外多くの専門家の態度ではないか。







広島大で開かれた「生物系三学会合同大会」でセミの寿命に関する研究報告を行い、最優秀賞を受賞した植松さん © 山陽新聞社 広島大で開かれた「生物系三学会合同大会」でセミの寿命に関する研究報告を行い、最優秀賞を受賞した植松さん

 「セミは地上に出てから1週間程度しか生きられない」というのは俗説で、実は1カ月くらい生きていることを、笠岡高サイエンス部の3年植松蒼さんが独自の野外調査で“証明”した。調査の手法と結果を、5月に広島大(東広島市)で開かれた「中四国地区生物系三学会合同大会」で報告。高校生の部(動物分野)で最優秀賞を受賞した。


 調査手法は、捕まえたセミの羽に油性ペンで番号をマーキングして放し、後日、再捕獲を試みるというもの。植松さんは2016年の7月中旬から9月中旬にかけて、笠岡市内の住宅地や雑木林など4カ所でほぼ毎日、この調査を繰り返し、アブラゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミなど計863匹にマーキング。15匹を再捕獲し、4匹を再再捕獲した。


 植松さんは「なかなか再捕獲できず、調査の効率は非常に悪かった」と笑うが、調査の結果、アブラゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミの3種で10日以上の生存を確認。最長生存確認記録はアブラゼミが32日間、ツクツクボウシが26日間、クマゼミが15日間だった。


 植松さんは小学1年生のころから虫に興味を持ち、セミの鳴く時間帯や、雄と雌の羽化の時期の違いなどについて調べてきたという。セミの成虫の寿命の調査は「そもそもセミの死骸を夏の間に見かけることが少ないのはなぜか」と“短命説”に疑問を持ったことがきっかけだったという。


 合同大会の報告で、日本動物学会の研究者らから高い評価を受け、植松さんは「疑問を解決するために、自ら考えて取り組んだ点が認められたのでは」と喜んでいた。現在、調査の精度を上げるため、セミの鳴き声の波形を専用ソフトで解析して、個体をそれぞれ把握する手法の確立を目指している。


 植松さんは昨年8月、クマバチに寄生する南方系の昆虫「ヒラズゲンセイ」を広島県内で初めて発見。生息域が西に拡大していることを証明している。









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プロとは、カネを目的に働く人間のこと

「プロとは自分の利益(カネ)を目的として働く人間だ」というのは一番基本的な認識であるはずだが、日本人にはこの認識が欠けている。
それは「医は仁術」とか「熱血教師」などのように、自分が損しても他人のために働く人間を持ち上げる空気にも表れていて、それが病院経営者や学校経営者などの上級国民に利用されている。公共広告に描く絵などに「社会のためですから」と「無償労働」を図々しく求めたりする人間も、そういう空気を利用しているわけだ。
確か、古代ギリシャでは、政治は「義務」であり、無報酬だったと思う。つまり、政治によって個人的利益を求める人間に政治を任せてはいけない、という根本的理解があったのだろう。
なお、「プロであることのプライドを持て」「プロ意識を持て」などの言葉も、上の人間が下の人間を煽り立てる言葉であり、その本心は「給与以上の仕事をして、上を儲けさせろ」である。もちろん、仕事の技術が未熟な人間がプロを名乗るべきでないのは言うまでもない。「仕事の見かけを誤魔化す技術に長けている人間」がプロなのではない。世間の大半の「自称プロ」は、そういう人間だろう。


  1. プロがいなかったら世の中の殆どの仕事は回らないが、唯一、政治家だけはプロであっては困る。プロだと、より多額の資金を出す人のために働くからだ。山本が一般民衆からの小口献金だけで国会に出ようとするのはまことに正しい。



  2. 「もうプロに政治は任せられない」と山本はアマチュア宣言をしているが、よくぞ言ったと思う。山本の言う通り、国会にはプロの政治家が何百人もいるが、この国は一向に不況から脱却できない。なぜプロに任せられないかと言うと、プロはお金のために仕事をするからだ。





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「いだてん」の低視聴率と役者のオーラ

NHK大河ドラマ「いだてん」の視聴率が悪い理由だが、記事コメントがなかなか的確なので転載する。私も

東京オリンピックの大金使った無駄なコマーシャルとしか思っていない。


ので、最初からまったく見ていない。見ている人の評価は高いようだが、面白いと思っているから見続けているわけで、それは当たり前のことだ。問題は、異常な低視聴率の理由は何か、ということだが、それは、「東京オリンピックを招致したことへの国民全体の批判」である、というのが正解だろう。フクシマ(現在は年金問題)その他をそっちのけにして、一部の人間たちだけの利益のために膨大なムダ金を使うことへの批判である。つまり、この低視聴率は「政治批判」であり、「東京オリンピックそのものへの批判」なのである。
なお、純粋にテレビ番組としての問題を言えば、主役たちに華が無い。見たいと思う顔ではない、ということである。中村勘九郎も阿部サダヲも悪い役者ではないが、テレビ画面で見たい顔ではない。その逆に、無名役者を使っても、「おっ」と視聴者に思わせ、見続けたいと思うこともある。次代のスターはそうして出てくる。(顔の美醜を問題にしているわけではない。オーラの問題である。大河ドラマで主役を張れる役者に必要なのはオーラである。たとえば私は三国連太郎にはオーラを感じるが、佐藤浩市にはオーラを感じない。昔のTBSの大作歴史ドラマ「関ヶ原」では、主役の加藤剛より脇役の高橋幸治にオーラを感じた。)




  • NO NAME45473b27e3e7
    中身云々より、「つまらなさそうだから観ない」なんじゃないですか?
    そもそもテレビ観ない人も多いし。
    up183
    down61
    2019/6/16 07:03
  • NO NAME16c303988bf6
    大河ドラマは江戸時代以前の戦記モノというイメージが強く、視聴者のニーズもそこにあるため、明治以後の偉人伝は視聴者の求めるものではなかったのでしょう。

    もっとも大河ドラマの枠組みを広げるという意味では挑戦的であり、悪いことではありませんが、オリンピックがテーマなのに落語に尺を多く割くなど、テーマが欲張りすぎて軸がブレ、何が言いたいのかが分からない作品に感じます。

    脚本家が自己のテクニックに酔い、構成が複雑な作品に仕上がることは珍しくはありませんが、それをつまらないと感じるのは視聴者の理解力不足ではなく、単純に脚本家の技量不足です。
    up184
    down89
    2019/6/16 07:03
  • NO NAMEed7a71b05be6
    「いだてん」観ないので内容等には何も言えないのですが、東京オリンピックの大金使った無駄なコマーシャルとしか思っていない。


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「僕のベッドの上の何か」(後半)

家に入ると、家人たちが、少年が部屋に誰も入れようとしないと口々に言った。
「中に入るな」少年は言っているらしい。「誰にも僕の持っているものを取らせない」
階段を上って部屋に入り、私は彼が、私が最後に見たときとまったく同じ姿勢と位置で、白い顔をし、しかし頬は熱で紅潮して、ベッドの足元の方をじっと見ているのを見た。
私は彼の体温を測った。
「何度なの?」
「100度くらいだ」私は言った。それは102度4分だった。
「102度だよね」彼は言った。
「誰がそう言った?」
「お医者さん」
「君の体温は大丈夫だ」私は言った。「何も心配することはない」
「心配してないよ」彼は言った。「ただ、考えるのをやめられないんだ」
「考えないようにしなさい」私は言った。「気を楽にして」
「僕は気楽にしているよ」彼は言って、真っすぐ前を見た。彼は明らかに、彼自身のことで何か思いつめている。
「この薬を水で飲みなさい」
「これ、何か役に立つと思っている?」
「もちろん役に立つさ」
私は座って海賊の本を開き、読み続けようとしたが、彼が聞いていないことに気づいて読むのをやめた。
「僕はいつ死ぬんだと思う?」
「何だって?」
「あとどれくらい、僕は生きられると思う?」
「お前は死なないよ。いったいどうしたんだ?」
「死ぬよ。僕はあの医者が102度と言うのを聞いたんだ」
「人間は102度の熱では死なないよ。馬鹿馬鹿しい」
「死ぬって、僕は知ってるよ。フランスの学校にいた時、友だちが、人間は44度の熱が出ると死ぬって言っていたんだ。僕は今102度だ」

彼は一日中、死を待っていたのだ。朝の9時から今まで。



「可哀そうなシャッツ」私は言った。「可哀そうなことをした。それは、マイルとキロメーターのようなものなんだ。お前は死なないよ。温度の単位、つまり決め方が違うんだ。フランスの単位だと37度が普通の体温で、こちらだとそれは98度なんだ」
「それ、確かなの?」
「絶対に確かだ」私は言った。「それはマイルとキロメーターの違いと同じようなことなんだ。知ってるだろ? 車で70マイルの速さが何キロメーターになるか」
「ああ、そうなんだ」彼は言った。
ゆっくりと、彼がベッドの足元を見る視線は和らいでいった。彼を包んでいた緊張も緩んでいき、翌日にはとてもリラックスして、些細なことに簡単に泣いたりしたが、それにはもう何の重要性も無かった。







(追記)無様な掲載の仕方になったのは、途中で、強調のために色字を使ったところ、残りのすべてが色字になり、その変更ができず見苦しいので編集画面そのものを変えたからである。まあ、そのために、強調したかったところが自然と強調されたから良しとする。
9歳の少年が死を目の前にするのは、大人と同じ、あるいはそれ以上の巨大な恐怖だろう。その原因が、摂氏と華氏の違いという、それだけだとコントのような話だが、死を目前にする恐怖は、たとえそれが誤解に基づいていても、本物の恐怖である。
ちなみに、摂氏と華氏の変換式を、この前アニメの「ピーナッツ(チャーリー・ブラウンとスヌーピー)」の中で見たが、あちら(米国)では小学低学年で習うようである。それはこんなものだ。

F=32+9/5C

たとえば摂氏40度だと、華氏104度になるわけである。(9/5は5分の9の意味)

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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