気の赴くままにつれづれと。
その立ち回りから「八方破れ」、「型破りの快剣士」、大きな目玉から「目玉のデンジロー」とも呼ばれた[1]。『忠治旅日記』出演のころから、一脈のニヒリズムを底流とした大河内の眼光は、ファンの胸を揺さぶった。
「丹下左膳」のような殺し屋役以外に、大河内は喜劇物にも好んで出演した。内田吐夢監督の『仇討選手』はインテリファンを喜ばせ、その後も『小市丹兵衛』、『怪盗白頭巾』(泥棒ヒゲの滑稽メイクで登場)、『でかんしょ侍』などといった作品に出演している。喜劇物では高勢実乗、鳥羽陽之助、市川百々之助などと共演した。
俳優になるまでは文学者志望だった大河内には、哲学的な性格があった。晩年は仏教に帰依し、名利にこだわることなく淡々と生き、人徳が出て人間として超脱した姿を見せた[26]。
極度の近視で、普段は牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけていた。しかしこれがかえって大河内の眼に異様な光を与えることとなる。近視のため相手に肉薄して刀を振るうので、迫力ある乱闘が生まれた。裸眼では足下もよく見えず、『新版大岡政談』の撮影時には乱闘中勢いあまって顔面を泥の中につっこんでしまうほどだった。
澤田正二郎譲りのリアリズム、火花を散らすような大河内の立ち回りの秘密は、強度の近眼にあった。立ち回りでは刃引きをした「ホンミ(真剣)」を使った。絡みの役者は殺陣師の指示に従い、斬られる部分に綿を入れてかかっていくが、大河内は相手の身体に刀が当たらなければ承知しなかった。
刃引きはしていても真剣が当たれば相手は生傷、タンコブだらけとなり、大河内との絡みには「膏薬代」が出た。伊藤大輔は大河内の立ち回りについて次のように語っている。
バンツマ(阪東妻三郎)は間合一寸で抜く、(市川)右太衛門は舞踊ですから呼吸を合わせれば怪我はない、(嵐)寛寿郎は正確無比に剣が飛んでくる、これも殺陣の段取りが狂いさえしなければ安心です。それぞれに、避けようがある。傳次郎これはぶっつけ本番で、避けも逃げも出来ません。迫力が出なければ嘘になりましょう— 伊藤大輔、大殺陣 チャンバラ映画特集
大河内は『鞍馬天狗』の近藤勇役で嵐寛寿郎と絡む時は必ず抜き身の真剣を使った。嵐は「一番怖かったのは大河内傳次郎」、「あの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」と語っている[28]。
大河内は敬虔な仏教信者としても有名で、1931年(昭和6年)に京都嵯峨の小倉山[注釈 7]の向かいの亀山の山頂に広壮な山荘を置いた。大河内は広大な和式庭園を自ら設計し、家続きの寺院「持仏堂」を建て、そこで教典をひもとき、朝夕「南無阿弥陀仏」を唱えてすごした。東映時代劇など晩年の多数の脇役出演によって稼いだ多額のギャラは、その大半が山荘造営に注ぎ込まれたという。現在この山荘は大河内山荘として一般公開されている。彼の死後も、妻をはじめとする遺族が山荘を維持しており、傳次郎生誕100周年の1998年(平成10年)に刊行された山荘の写真集は、未亡人に捧げられている。
日活時代の大河内の自宅は撮影所のすぐ傍らの竹藪にあり、撮影所内の人たちは大河内を「藪の神様」と呼んでいた。「大河内に楯をついたらえらいことになる」とのことから「カミサマ」と呼んだものらしい。大河内は撮影中に気に入らないことがあると、プイと仕事をやめてこの亀山の山荘に閉じ籠ってしまった。稲垣浩がのちに本人にその理由を聞くと、「聖徳太子は自分の政事や行いに誤りがないかと夢殿に籠って反省したと聞いています。私が山荘に行くのも、あそこで座禅を組んで反省しているのです」と答えた。
山荘は戦後、本格的な建築に改められたが、いちばん苦心したのは井戸だったという。高い山頂での掘削であるため、地下水脈に至るまで相当深く掘らなければならず、出来上がった井戸は石を投げ込んで七、八ツを数えなければ音がしないほどの深さだったという。鎌倉様式と室町様式が混然としている大河内山荘は、出来上がったころはあまり評判は良くなかった。
ある日、大河内が常盤のあたりを散策していると、道端に転がっている石地蔵を見つけた。立ち去りかねて野仏を拾い上げた大河内は表情が気に入り、これを抱き上げ、山荘に持ち帰った。ところがこれを近在の子供が目撃して、常盤村の人たちが大河内に地蔵を返さねば訴えるとねじ込んできた。これに大河内は平然と、「あの地蔵は盗んだのでない、常盤を散歩していたらあの地蔵様が“大河内、大河内”と呼びとめなさった。道端に転んでいるお姿がとても傷わしく思われたので山荘にご案内して、大切におまつりしただけのこと。あなた方がそれほど大切な地蔵様であるなら、なぜおまつりをなさらぬか。なぜ道端に横倒しになっているのを起こして差し上げぬのか。草むらに横たわった地蔵様を見つけたというのは霊の導き、縁あってのことでありましょう。訴えなくとも戻せと言うなら戻しますが、その代り地蔵寺をたてて立派におまつりしてください」と答えて見せた。こうした話し合いが何度かあり、結局常盤村が地蔵を大河内山荘に寄贈することで裁判沙汰にもならず決着したという[29][信頼性要検証]。