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新コロ戦争に比べれば小さい戦争

まあ、こうした報道が一種の「外圧」となって東京オリンピック中止への動きが加速すればいいのではないか。オリンピックというのは「疑似戦争」で各国の下級国民が愛国心をたぎらせて見る運動会だが、もちろん、それに人生を賭けている(金メダル成金を目指す)運動選手も無数にいる。だが、そのために様々な国家資産(医療要員なども含む)を無駄遣いできるような状況では今の日本は無い。

(追記)こういうツィートがあった。まあ、IOCという下種集団の根性丸わかりである。

記事には驚きの内容が 「IOCは、五輪参加者が被った「損失、傷害、損害」を補償する権利放棄書に署名するよう求めている 」 「さらに、アスリートは、最終的な要件を知らないにもかかわらず、すべての対策に従う「誓約書」に署名し、到着時に入国審査官に提示しなければなりません」
引用ツイート
山本一郎(Ichiro Yamamoto)
@Ichiro_leadoff
·
おい、なんかIOCすげえことやり始めたぞ 全選手全関係者に東京五輪で起きた感染その他の損害でIOCに賠償訴訟提起させないだと?

(以下引用)

米有力紙、日本に五輪中止促す

IOC批判「開催国を食い物」


©一般社団法人共同通信社






五輪マークのモニュメントと記念撮影する女性=4月22日、東京都新宿区

 【ワシントン共同】米有力紙ワシントン・ポスト(電子版)は5日のコラムで、日本政府に対し東京五輪を中止するよう促した。国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長を「ぼったくり男爵」と呼び、新型コロナウイルス禍で開催を強要していると主張。「地方行脚で食料を食い尽くす王族」に例え、「開催国を食い物にする悪癖がある」と非難した。


 コラムは大会開催を前進させている主要因は「金だ」と指摘。IOCは収益を得るための施設建設やイベント開催を義務付け「収益のほとんどを自分たちのものにし、費用は全て開催国に押し付けている」と強調した。



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「預言者」ジャック・アタリの「預言」は当たりか

これも「大摩邇」所載の「ナカムラクリニック」記事で、ジャック・アタリの部分だけ転載しようかと思ったが、マスコミによる中村医師への迫害(中傷)の部分も書いておく。こうして新コロ詐欺は世界を飲み込んでいくということだ。
なお、「予言」と「預言」は違うというのは常識だろう。ジャック・アタリは予言者ではなく、DSから「言葉を預けられた」預言者なのである。古代日本なら「ミコトモチ」と言うところだ。

(以下引用)

コロナのファクトチェック

ナカムラクリニックさんのサイトより
https://note.com/nakamuraclinic/n/na4f305e876a6
マムシは砂粒より多いぞ!と書いてあります。
<転載開始>

これからお伝えするような話は、何年か前なら「陰謀論キモい」で一蹴されたに違いないんだけど、コロナ騒動に疑問を持ち、自分でネットなどから情報を取りに行っている人にとっては、それほど突飛な話とは感じられないだろう。
たとえば、今後の世界の方向について、大枠はジョージアガイドストーンに書いてある通りなんだけど(世界人口を5億人以下に抑えて、みたいなやつ)、その方向に持って行くためのシナリオを書く人がいて、たとえばジャック・アタリなんかはその一人。


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彼の著作を読んで、「すばらしい先見の明だ。彼の予想通りに世界が動いている」などと評論家が言うわけだけど、いやいや、そうじゃなくて、「自分のシナリオ通りに世界を動かした」だけですから。
たとえば、彼、1981年の著作のなかでこんなふうに述べている。


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「将来的には人口削減の方法を見つけることが課題になってくるだろう。もちろん、我々は人を処刑したり収容所に送ったり、などという露骨なまねはできない。「そうすることが彼ら自身のためなんだ」と信じ込ませることで、上手に彼らを間引いていくことになる。そのために、何らかの事象、たとえば一部の人を標的にしたパンデミックを起こしたり、経済崩壊を起こしたり、高齢者に悪影響を与えるウイルスをまいたり、といったことが考えられるが、まぁ方法は大して重要ではない。とにかくこういう事件を起こすことで、弱い者や恐れる者はこれに屈服するだろう。愚か者はこの事件を信じ込み、何とかして欲しいと嘆願する。そこで我々の出番。「これが治療法だ」と救いの手を差し伸べる。こうして、愚か者の自然淘汰が行われることになる。屠殺場に自ら進んで向かうようなものである


具体的には、まずこういうニュースを仕掛ける。


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『変異株拡大、増える子供の感染 小児医療にも迫る危機』
このニュースは何かというと、“種まき”なんです。子を持つ親がこういう記事を読めば、「ああ子供がピンチなんだな。うちの子も守ってあげないといけない」などと恐くなりますね。
そこで、以下のような「救いの手」が差し伸べられる。


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『コロナワクチン、秋にも1千万人の子供たちが接種可能に』
アメリカのニュースだけど、ある程度のタイムラグをおいて、日本でも小児用コロナワクチンを接種しよう、という話が必ず出てきます。そして、強制か任意か、小児にも打たれることになる。
そういうときに、先のニュースのせいで心に不安の種をまかれている人は、我が子によかれと思って、コロナワクチンを打たせるわけです。


で、コロナワクチンを打った子供がどうなるか?
以下に、そのヒントとなる事例を紹介しよう。


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15歳男児 コロラド在住 
2021年4月18日接種(ファイザー製)。翌19日心不全を発症。20日死亡。アレルギーの既往なし。


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16歳女児(Kamrynn Thomasさん) ウィスコンシン在住
2021年3月19日接種(ファイザー製)。3月28日に副反応として循環器不全(肺塞栓に起因すると思われる)を発症。ECMOを使用するも、3月30日死亡。アレルギーの既往なし。


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上記のように、他にも多数の子供がワクチン接種後に亡くなっている。ひとつひとつ、鎮魂の意味も込めて丁寧に訳してお伝えしたいところだけど、あまりにも多いのでやめておきます。
こういう死亡報告の数々を見れば、「コロナワクチンのおかげで命が助かった」となるどころか、「ワクチンで命を落とす」可能性のほうがはるかに高い、と思いませんか?あるいは少なくとも、「コロナワクチンって、マスコミが絶賛して持ち上げるほど、それほど素晴らしいものでもないな」と思いませんか?


コロナ関係について情報発信するときには、極力ソースを示すように心がけている。しかし、この記事によると、僕の情報は、ワクチン不安をあおるデマ、ということのようだ。
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/vakzin-fc-2


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個人名を挙げてないとはいえ、この記事がデマ認定しているのが、ごとう整形外科、ナカムラクリニック、武田教授だということは、見る人が見ればすぐわかる。
しかしコロナワクチンに不妊のリスクがあり得ることを指摘することが、なぜデマだと断言できるのか?従来の機序とはまったく異なるワクチンなのだから、思わぬ副作用が起こって当然である。製薬会社から「期待の新薬」として売り出されながら、想定外の副作用のために販売中止となった薬がいかに多いことか。そういう例は過去に無数にある。
しかし、この記事を書いた人は、コロナワクチンについてそういう懸念を表明することが許せないようだ。逆に聞きたいんだけど、本当に大丈夫って言えるの?数年経って妙な副反応が起こらないって、何か根拠でもありますか?
あちこちから、「先生の記事にアクセスしにくいんですけど」という声を聞く。僕の記事はグーグルなどでファクトチェックされているようだ。
すごい話だと思いませんか?新聞、雑誌記事、学術論文なんかにファクトチェックが入る、というのならまぁ分かる。でも、僕みたいな一個人の雑文をファクトチェックするってさ、どんだけ必死なのよ(笑)
でも、その必死さが、逆に僕の正しさを認めてる形になってると思うんだけど(笑)

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「価値論」

別ブログに載せてある文章で、もしかしたらこのブログにも既に載っているかもしれないが、何度読んでも我ながら素晴らしい内容の文章(www)なので、載せておく。一種の「人生論」だ。
なお、これを再読する前に考えていたのは、ヘンリー・ダーガーとフランツ・カフカについての文章だが、それはいずれ書きたい。やはり「価値論」である。

(以下自己引用)


価値観について


 


 


 


第1節 社会的価値観と個人的価値観


 


 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。


 


 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は


 


1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。


 


我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は、価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、


 


2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。


 


我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)


その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。


 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。


 


第2節 価値観と性格


 


 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。


 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。


 


 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。


 


我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。


 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、


 


3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。


 


「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。


 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。


 


第3節 物の価値


 


 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。


 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)


 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。


 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。


 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。


 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。


 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。


 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。


 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。


 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。


 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。


 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。


 


第4節 生きる価値


 


 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。


 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を信じ込んで殉教するようなものである。


 


 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。


 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自らやその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。


 


 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。


 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。


 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があると言うことだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。


 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。金で計る価値にしても同じことであり、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。


 


4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)


 


 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。


 


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まずは「愛犬」で試そうか? それとも爺さん婆さんで? www

これも「大摩邇」から転載。いや、別に「大摩邇」信者ではないが、個々に「in deep」サイトや「ナカムラクリニック」記事のある「note」サイトに行くよりも手っ取り早く新コロ関係情報が探せるからである。「大摩邇」の中には愚劣な記事や妄想記事もあるが、利便性優先である。

(以下引用)



「とにかく打て打て!」の大合唱。勢い余って、「犬にも打て!」と言い出した。


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これはうすうす予想してた。犬にもマスクしろって言ってるぐらいだから、そのうちワクチンも来るんじゃないかなって。そしたら案の定だね。
でも、これ、一撃必殺レベルの確実さで死ぬと思う。
というのは、今回のコロナワクチン、普通のワクチン開発で必ず行われるはずの動物実験をスキップしていきなりヒトで試してるんだけど、その理由がぶっとんでいる。「動物でやってしまうと有効性うんぬんの議論の前に、接種個体が全部死んでしまうから」(笑)
接種した犬があまり露骨に死ぬとあれだから、毒性成分を薄めるとか、何かしらの工夫はするかもしれないけど、でも犬の体重によって薬液の量を加減するとか、どうせしないでしょ。大型犬も小型犬も同じ容量の1ショットだろう。



このワクチン、愛犬に打って本当に大丈夫ですか?
いや、あえて聞くまでもない。分かります分かります。死んでもどうせ、「接種との因果関係は不明」とか言って何も責任とってくれないんでしょ。


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8人亡くなった。これで合計19人。「因果関係評価できず」
どうもコロナ禍で成り立つ定理として、
原因不明の死亡はコロナに/ワクチン接種後の死亡は原因不明に』というのがあるようで、たとえば以下のニュース。


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「女性には基礎疾患があって、死因はコロナ感染とは無関係」なのに、「コロナ関連死として報告」したと。
何それ?
僕、国語力がないのでよく分かりません(笑)


分からないついでに、こういうのも挙げておこう。


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「えーと、なぜそんなに鼻の奥に綿棒ぐりぐり突っ込んでウイルスを探す必要があるのでしょうか?いやね、このウイルス、2メートル以内だと感染する危険な代物だと聞いたものですから。それなら、こう、綿棒に唾液をつける、それで充分じゃないか、と思ったものでして」


コロンボでさえ理解に苦しんでいる(笑)
まったく、謎が多すぎる。実に、コロナ禍においては分からないことばかりである。


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「マスクつけるだけで肌も免疫力もアップ。疲労回復マスク」
こういうの見ててさ、笑うというか、何だか悲しくなってきたのよ。
マスク、僕なんかは息苦しくて不愉快でたまらないんだけど、一度奴隷であることに安住すれば、それなりの幸せがあるのかもしれないなって。人間は何にでも適応できるものなんだなって。


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今日の西村大臣。
「お札についたウイルスは1週間生きている。お札を触った後は手洗い、消毒をし、できるだけキャッシュレス決済を
ああ、やっぱり来たね。これは西村氏の発案というか、まぁ、言わされてますよね。


スクリーンショット (78)


コロナは社会変革の手段だから、彼ら、あれこれ理由をつけて、何でもぶっこんでくるよ。そうして自分たちの思い描く未来に、徐々に誘導していく。


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「4月末時点での接種率は1.3%」ということは、これと日本の人口との積をとって、1億2451万人×1.3%=163万330人、つまり、およそ163万人が受けた計算になる。
諸外国と比べれば全然少ないようだけど、これが今後、吉と出るか凶と出るか。
オリンピックをエサにして、大本営(マスコミ)を通じて「とにかく打て打て」の猛プッシュが展開されるのは間違いない。そして、テレビの影響を受けやすい高齢者を中心に、相当数が接種を受けることになるだろう。それでも接種率が伸び悩むようなら、彼ら、もっと大胆なことをしてくるかもしれない。


僕としては、できるだけ多くの人に目覚めて欲しいと思っている。
仮に、覚醒組(「ワクチンは打たない」)が10%、コロナ脳(「早く打ちたい」)が40%だとすると、中間派(「打つかもしれないし打たないかもしれない」)が50%ということになるけど、この50%こそが、今後の未来を決めるキャスティングボートになる
接種率が50%を超えるようになると、恐らくワクチンパスポートが導入される。ワクチンを打たないと自由を得られない社会が実現するだろう。僕はこの点を一番危惧している。これだけは何としても避けたい。
7月に名古屋で講演をするけど、僕としては、「揺れてる人」、つまり「ワクチン打とうかな、どうしようかな」って考えてる中間派の人に来て欲しい。だから、すでに覚醒している人、特に僕のnoteを定期的にチェックしてるような「お目々パッチリ覚醒組」は、別に来て頂かなくても大丈夫です(笑)


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石黒伸先生。以前当ブログで何度か先生の記事を紹介したことがあるけど、今日のFB投稿には度肝を抜かれた。
先生、勤務先の老人ホームを解雇されてしまった。「入居者にコロナワクチンを打ちたくない」その思いのせいで、クビ。こんなことって本当にあるんだな。
いまだ有効性のはっきりしない新型ワクチンで、今後どんな副作用があるかもわからない。「そういう得体の知れないものを、大事な入居者に打たせたくありません」これって、当然の主張でしょう?でもそのせいで解雇って、こんなの許されるのかな。


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先生にはこのような著書がある。かつて何の疑問もなく一般的な投薬治療を行い、そのせいで多くの認知症患者を殺してしまった。その悔恨の念が、今の先生の診療スタイルの根本にある。この新型ワクチンを打つことで、また高齢者を殺してしまうかもしれない。その可能性を思うと、自分の手を汚してワクチンを打つことなど考えられなかった。結果、解雇。
医者として本物の信念を持つ人が、デタラメを飲まされる。コロナの怖さが端的に出ていると思う。

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新コロ騒動初期の「フェイク動画」がいつの間にか消えて忘れられたこと

これは非常に大事な指摘だと思う。次から次へと新しいフェイクが作られるので、初期のフェイクを検証する暇も無く、覚えている人も滅多にいない。それが新コロ詐欺の特徴(DSの狙い)である。

(以下「大摩邇」から引用)


フェイクと言えば、ちょっと話はインドからそれますが、コロナが最初に武漢で「流行」した際に、やたら突然に路上でバターン!と倒れる人の動画がかなり流出していましたが、あれはその後どうなったんでしょうね?


 


もうすっかりと誰も話さなくなっていますが、武漢以外で「コロナでバターンと突然倒れる人」は発生しているのでしょうか?あれこそが「恐ろしい」コロナの症状だったんじゃ?どうしてマスコミなどはその点を指摘などしないのでしょうか?


 


またいくらスマホなどが流通してるからといっても、あれほど都合よく、普通の街並みで偶然に人が倒れる様子をたまたま動画を撮影していた市民がいるものなのなんでしょうか?

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歌と言葉

都倉俊一への好悪は別として、彼がここで言っていることはごくまともに聞こえるが、この発言を嫌悪している人々もいるようだ。つまり、「コンピューターで音楽を作っている」人々だろう。都倉氏の発言の中で「歌は言葉が大事だ」という考えには賛同する。私が昔からサザンオールスターズの歌をまったく聞かないのは、桑田佳祐の「たかが歌詞じゃねえか、こんなもん」という「歌詞蔑視」思想を聞いて以来である。彼の初期の歌の日本語破壊的歌詞も大嫌いだった。


(以下引用)



文化庁長官・都倉俊一氏の示唆に富む発言

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「報道部畑中デスクの独り言」(第245回)


ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、新しく文化庁長官に就任した都倉俊一氏について---



画像を見る(全5枚)文化功労者に選ばれ、喜びを語る作曲家の都倉俊一氏=2018年10月23日 東京都内 写真提供:産経新聞社



今年度(2021年)から文化庁の新しい長官に就任した都倉俊一氏が先日、報道各社の取材に応じました。


都倉氏には日本音楽著作権協会会長、文化審議会委員などさまざまな経歴がありますが、私からみた都倉氏はやはり歌謡曲全盛時代、「ピンク・レディー旋風」を例に挙げるまでもなく、ヒットメーカーの1人として名をはせた人物です。


いまでは考えられないことですが、テレビではほぼ毎日のように生放送、生演奏の音楽番組があり、ラジオでもヒットチャートの番組があふれていました。そんな熱い時代を駆け抜けて来た1人が都倉氏です。当時は若者にも人気があり、「ヤングのカリスマ(やや古い表現ですが)」とも言われていました。


そんな都倉氏、文化庁長官としての最初の仕事は、やはりコロナ禍の対応です。


「本当に困窮のど真ん中にいる文化・芸術関係の人たちに、お金が行きわたるようにしなくてはいけない。これが仕事始めのようなもので、日夜がんばっている」


都倉長官はまず、文化・芸術関係者への支援が急務という考えを示しました。なかでもライブハウスについては「大切に育てるべき」と話し、コロナ禍を機に「幅広い日本の芸術活動に対する補助がこれから絶対に出て来る」と期待感を表明。一方で、文化・芸術関係者への補償をめぐり、一部で不満の声が出ていることについては、「アーティストは実力の世界、平等に補償することはなかなかなじまない」と述べました。



文化庁のある旧文部省庁舎



一方、昨今のデジタル技術についても言及しました。


「デジタル技術はパンドラの箱を開けてしまったようなもの」


都倉長官はこのように表現しました。いいクオリティで音源が世界中に行きわたるようになるなど、利便性については絶賛する一方で、人間の持っている芸術の感覚は「いまの科学技術ではどうしようもないと信じている」と語ります。その例として、アメリカでクラシックの音源をコンピュータに覚え込ませ、オリジナル曲をつくったものの、1曲もヒットしなかったことを挙げていました。


取材が行われた長官室の棚には、朱色の盾がありました。都倉長官が1978年(昭和53年)に受賞した日本レコード大賞の盾です。受賞曲はピンク・レディーの『UFO』。


ちなみにレコード大賞は歌手だけではなく、作詞・作曲・編曲・レコード会社・プロダクションすべてに贈られます。都倉長官は「飾るものがないので、ああいうものを持って来てとりあえず置いてある」と、はにかむような笑顔を見せました。



文化庁



「いつの時代も流行歌は時代を反映していると思う」


都倉長官は昨今の音楽の生まれる構造について、熱っぽく語りました。


「デジタルエイジになって、子どもたちは“ナマの刺身”を食べたことがない。みんな冷凍だ」


音楽をナマの刺身に喩える都倉長官……いまの音楽はアリーナのあるホールコンサートの場合でも、コンピュータに入って自動的に音がつくり替えられ、大きなスピーカーでバーンと響き渡る……これはナマではないそうです。


「ナマの刺身を食べさせたときに、いかに冷凍と比べておいしいか、子どもたちが味わったらこれはもう忘れられない。これがいわゆるライブエンターテインメントだ。ミュージカルから演劇、ライブハウス……ライブハウスがなくならないのは、そういう1つのナマ感が欲しいのだ。人間はぬくもりが欲しいのだ。そういうものをやることによって音楽の底辺、芸術の底辺が広がって行く」



都倉俊一文化庁長官(文化庁ホームページから)



ライブ活動の重要さを説く都倉長官、昨今の音楽についても率直な感想を述べました。


「誰とは言わないが、へたくそな歌を歌って、コンピュータで全部音程も合わせてしまうわけだから……われわれの時代より音をつくる技術は数段進歩している。でも中身の歌はどうか、そこに血が通っているかどうかは甚だ疑問だ」


「いまなぜ歌が残って行かないのか? 作品づくりもあると思うが、言葉が大きな要素を占めていると思う。言葉を伝えられるということが、その歌が残るということだ。コンピュータを通してでは絶対に心は伝わらない」


新型コロナウイルスにより、東京を含む4都府県には3度目の緊急事態宣言が出されました。文化・芸術関係者の環境はいまだ厳しい状況で、そんななか、稀代のヒットメーカーが文化庁長官としてどのような手腕を発揮するかが気になるところですが、この日の都倉長官の発言は、私ども言葉を業とするメディアにとっても、示唆に富むものであったと思います。(了)






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社会全員がマスク着用という異常社会を誰も疑問視しない異常さ

うろ覚えで書くが、ポーの「赤死病の仮面」は、世間に蔓延する赤死病(架空の病気だろう)を恐れて城に閉じこもっていた貴族集団が仮面舞踏会を開いたところ、その中に「赤死病」の仮面を付けた者がいて、周囲がざわめくが、やがて、その仮面を外せ、と問詰されてその男は顔に手をやるが、仮面の下から現れたのは、本物の赤死病患者の顔だった、という話だったように思う。もちろん、その後、城の中の上級国民は赤死病で死に絶えるのである。
今の子供たちは幼時からマスク社会の中で成長することになる。社会全体が仮面舞踏会という社会である。そこではどんなルールやモラルが支配するのだろうか。

(以下「大摩邇」から引用)

これまでで最も大規模なマスクの副作用に対してのドイツでのメタ研究は「新型コロナ感染症より長期のマスク着用のほうがはるかに健康に有害」と結論付ける。特に児童には壊滅的

In Deepさんのサイトより
https://indeep.jp/undesirable-side-effects-of-mask/
<転載開始>

MCCS

過去最大の包括的なマスクの影響についての調査研究

ドイツの 8人の科学者と医学者たちにより、最近、医学誌エンバイロンメンタル・リサーチ・アンド・パブリックヘルス(Journal Environmental Research and Public Health)に「マスク」に関する論文が発表されました。


これは 60以上におよぶ過去の論文と 40以上の実験的研究をすべて分析した「マスク着用に関する、これまでで最大の研究」となります。これらの論文や文献には、パンデミック以前のものも、パンデミック以降のものもどちらも含まれます。


その論文の冒頭には、以下のように書かれてあります。


論文より


これまで、マスクが引き起こす可能性のある健康への悪影響に関する包括的な調査はなかった。今回の調査の目的は、マスクを着用することの科学的に証明された関連する副作用を見出し、それをテストし、評価し、まとめることだった。


定量的評価については、44の主に実験的研究が参照され、実質的評価については、 65の論文が見つかった。これらの文献は、多くの分野におけるマスクと関連する悪影響を明らかにした。 mdpi.com


これらの文献の分析の結果として、マスクの恒常的な着用と関連性のある悪影響の及ぶ医療、および臓器系に関連する現象は複数の分野で発生することを見出し、それを確認したとあります。


マスクの悪影響が及ぶ分野は、


神経学、心理学、精神医学、婦人科、皮膚科、耳鼻咽喉科医学、歯科、スポーツ医学、社会学、微生物学、疫学、小児科、環境医学


に及ぶとあります。


論文そのものは以下にあります。


Is a Mask That Covers the Mouth and Nose Free from Undesirable Side Effects in Everyday Use and Free of Potential Hazards?
口と鼻を覆うマスクに、日常的な使用で望ましくない副作用はないものなのか? あるいは潜在的な危険はないのだろうか?


論分自体は大変に長いもので、全体をご紹介することは不可能ですが、インターネットの自動翻訳などで十分に読めるものですので、ご覧いただければと思います。


今回は、この中から特に「児童のマスク着用」に関する部分をご紹介したいと思います。実際には、高齢者、基礎疾患のある方、妊娠されている方などへの強力な悪影響も多く書かれているのですが、最近の私は、大人よりも、守られるのは「とにかく若い世代を先に」と思う部分があります。


なぜなら、大人の多くはマスクを自分の意思で着用している場合が多いでしょうが、子どもたちの多くはそうではなく、まして、幼児や小さな児童に至っては、


「訳もわからず、そういう生活に巻き込まれている」


わけです。


さらに小さな幼児などは、「この世に生まれてみたら、マスクの世界だった」という不条理の中で人生の最初が始まってしまっています。


昨年以来、マスクの有害性について、かなりの数の記事を書きましたが、今回は、それらにはふれません。後半に記事のリンクを示すに留めます。なぜなら、今回ご紹介している論文で「十分」だからです。ここにマスクの有害性のすべてが書かれてあります。今はこの論文だけで十分です。


後半には、この論文で参考文献とした論文のいくつかをリンクします。


まず、論文の中の「児童への影響」について飛び飛びで抜粋させていただきます。

ドイツ人研究者によるマスク着用に関するメタ研究からの児童への影響についての抜粋

Is a Mask That Covers the Mouth and Nose Free from Undesirable Side Effects in Everyday Use and Free of Potential Hazards?


子どもの場合は、マスク着用に対して特に脆弱であり、マスク着用では児童の呼吸に特別な注意を払う必要がある。これは、酸素需要の増加、中枢神経系の低酸素感受性の増加、呼吸予備能の低下、気道の縮小、内腔が狭くなると抵抗の増加が大きいため、子どものマスク着用は重要で脆弱な生理学的変数を表す。


鼻と上唇を刺激することによって引き起こされる潜水反射は、酸素欠乏の場合に、徐脈(脈が遅くなる不整脈)での呼吸停止を引き起こす可能性がある。


英国の実験的調査研究では、マスク着用は、特に運動中に、8歳から 11歳までの 100人の学童にしばしば熱感と呼吸障害を引き起こした。身体活動中に 24%の子どももたちが離脱した。


シンガポールの科学者たちは、科学誌ネイチャーに掲載された研究で、FFP2マスクをわずか 5分間着用した 7〜 14歳の 106人の子どもたちが吸気および呼気の CO2 レベルの増加を示し、呼吸障害を示していることが実証された。


子どもの呼吸生理学の乱れは、長期的な疾患関連の結果をもたらす可能性がある。子どもの場合、CO2レベルがわずかに上昇しただけでも、心拍数、血圧、頭痛、倦怠感、集中力障害を増加させることが知られている。


神経疾患におけるマスク着用の考えられる影響を強調することも重要だ。科学的研究では、マスクとフェイスシールドの両方が子どもたちの 46%( 80人中 37人)に「恐怖」を引き起こした。


ドイツで最近行われた、マスク着用を義務づけられている子ども数万人を対象とした観察研究は、頭痛(53%)、集中力の低下(50%)、喜びのなさ(49%)、学習障害(38%)、および、25,930人の子どものうち 27%に倦怠感が示された。


観察された子どもたちのうち、25%は新たに発症する不安や悪夢さえ持っていた。子どもの場合、環境によって生成される不安のシナリオの脅威は、マスクを介してさらに維持され、場合によってはさらに強化され、既存のストレスが強化されていた。


これは、心身症やストレス関連の病気の増加につながる可能性がある。


たとえば、評価によると、マスク着用者の 60%が 1から最大 10段階のストレスレベルで最も高い 10のストレスレベルを示した。ストレスレベルが 8未満だったのは、マスク着用者の 10%未満だけだった。


専門家たちによると、マスクは人間のコミュニケーションと感情の交換の基盤をブロックし、学習を妨げるだけでなく、笑顔、笑い、感情的な模倣のプラスの効果を子どもたちから奪うことがわかっている。そのため、ウイルス防御としての子どもにおけるマスク着用の有効性は物議を醸している。




 


ここまでです。


他のセクションには以下のようなくだりもあります。


論文より


子どもはマスクに対してさらに敏感に反応すると想定できるため、文献は、マスクがてんかん(発作の引き金としての過呼吸)の子どもには禁忌であることを示唆している。


小児科の分野では、心理的、精神医学的、社会的影響で説明されているマスク症状にも特別な注意を払う必要がある。


マスク着用は、CO2再呼吸によるパニック発作を引き起こし、閉所恐怖症の恐怖を強める可能性がある。


思考障害、注意力の減少、およびめまい、ならびに心理的および神経学的影響を伴う証明されたマスク誘発性の軽度から中等度の認知障害も示されている。


学校や公共交通機関と非公共交通機関の両方でマスク着用が義務付けられている場合は、事故のリスクが高まる可能性についても考慮に入れる必要がある。


ここまでです。


この論文を読んでいますと、もちろん、日常的なマスク着用はすべての人に悪影響を与えることが示されているのですが、研究者たちの「子どもたちをマスクの害から守りたい」という強い意志が見えるものです。


それほど、マスクの長期着用の害は大きなものです。


しかし、以前も書いたことがありますが、マスク社会が始まって以来、もう1年以上という期間が経っており、取り戻せない部分が多くなり過ぎた感もあります。「社会や人への認知」については、もうすでにその能力を失った幼児が多い気がします。


絶望的な書き方で申し訳ないですが、もう近い未来に、希望的な社会が到来することはないと最近の私は思います。


その原因の多くがマスクとワクチンによるものですが、接種義務のない子ども(あるいは接種していない人)にもワクチンの影響が「接種者から伝染」する可能性について、最近、エクソソーム(細胞から分泌される顆粒状の微細物質)の「水平情報伝達」という概念について書かれていたアメリカの記事を読みまして、何となく「どうにもならないな」というように思えてきています。


その記事の該当部分(エクソソームと逆転写酵素について書かれてあります)は難解で、私にはうまくまとめられないのですが、いずれにしましても、今後、いろいろな「パンデミック対策の強烈な弊害」がとめどなく拡大していく可能性があります。


誰にも「対策」を止めることができなかったのですから、仕方ないといえば仕方ないですけれど、こういう形でこの社会が終わっていくというのは寂しい限りです。


 


以下は、今回ご紹介した論文で参考文献としていた論文の一部です。


ほぼ英語の論文ですが、タイトルを日本語にしています。


その後に、In Deep のマスク関連の過去記事もリンクさせていただきます。


参考文献からの一部抜粋


SARS-CoV-2およびCOVID-19の人から人への感染を防ぐための物理的距離、フェイスマスク、および眼の保護:系統的レビューとメタ分析


ソーシャルキャピタルの健康への悪影響の系統的レビュー


トレーニングによる呼吸交換率と二酸化炭素生成に対する追加の死腔の影響


サージカルマスクの着用による生理学的、熱的および主観的反応の結果的な変化の欠如


マスク:COVID-19危機時の利点とリスク


COVID-19中の医療専門家の間での長期マスク使用の悪影響


妊娠中のJBN95呼吸器の使用


COVID-19の発生時に急性増悪を伴うCOPD患者にマスクを使用することのリスクと影響


小児における新規N95マスクの安全性、適合性、快適性を評価するためのランダム化臨床試験


医療従事者の間でN95フェイスマスクによって誘発された脳血行力学的変化を回復する


心拍数、熱ストレスおよび主観的感覚に対するN95および外科用マスクの着用の影響


てんかん患者にとってマスクの着用は安全か


日本の医療従事者の風邪の発生率を減らすための外科用フェイスマスクの使用:ランダム化比較試験


COVID-19パンデミック時のマスク着用による不便:876人の若者の調査研究


恐怖を誘発する感染症の発生に関連するソーシャルメディアメッセージの信憑性と内容の分析


パニック障害の患者のグループにおける過呼吸に対するDFの反応


病院職員の間で使用されたサージカルマスクの微生物汚染と彼らの作業病棟における微生物の空気の質


手術中の細菌汚染源としてのサージカルマスク


ここから、マスク関係の In Deep の過去記事のリンクです。新しい順です。


[マスク関連の過去記事]


マスクに関する追記 : 長期間のマスク使用が進行性の肺ガンのリスクをもたらす可能性について
投稿日:2021年4月10日


マスクを詳細に分析したドイツの著名な科学者が、そこから検出されるあまりに多い発ガン性物質や肺損傷原因物質に警告を発する
投稿日:2021年4月8日


マスクに感染症対策への有効性は「何もない」ことを改めて。マスクは今ではすでに単なる政治的統制ツール
投稿日:2021年4月6日


子どもの「マスクの害」についてドイツで世界で初めてとなる大規模な調査研究が発表される。それによると7割の子どもが身体と精神に影響を受けている
投稿日:2021年1月4日


マスク着用がコロナ感染者を増やすことを示すアメリカのデータ。特に「家でもマスク」を奨励し続ける州が示すカタストロフ的状況
投稿日:2020年12月22日


マスク社会の悪影響のメカニズムが出揃った感。鼻呼吸の不足による「一酸化窒素の消えた人体」の将来。特に子どもたちの
投稿日:2020年11月2日


2020年のパンデミック下でプラスチック製マスク15億個分が海中に。分解されるには450年かかる模様。そして気づけば私たちはプラスチックを着て生きている
投稿日:2020年12月31日


乳幼児の「人の顔認識の成長過程」がマスクにより崩壊することにより「人間なんてみんな同じ」というオール失顔症社会がもたらされる日はわりとすぐ
投稿日:2020年10月20日


一部のマスクに使われているポリウレタンには、トルエンの1万倍の毒性がある猛毒成分イソシアネートが含まれています
投稿日:2020年9月13日


マスク社会がもたらす「本当のディストピア化が何か」に気づいた。それは表情を学ぶ機会を失った赤ちゃんたちによる「人の感情を理解しない人々の社会」の誕生
投稿日:2020年8月26日


低酸素と二酸化炭素中毒社会が招くのは…男性の不妊の増加…アルツハイマーの増加…。どうにも悲観的な数年後の社会を想う
投稿日:2020年8月23日


パニック障害の人はできるだけ「マスクを避けたほうが望ましい」医学的理由。そして私は、子どもや若者たちの胸腺が萎縮した病的な社会の出現を懸念している
投稿日:2020年8月4日


病気の子どもが多すぎる。そしてさらに肺疾患が増え、アレルギーが増え、骨折する子どもたちが増えていくのを看過しろと?
投稿日:2020年7月7日


ここまでです。


リンクを作成していて気付きましたが、この1年、マスク関係の記事をずいぶんと書いていたんですね。これだけ多くリンクしましたのは、このほとんどの記事がネットの検索から実質的に除外されている可能性が高く、それぞれ自力で探すことは難しいからです。


マスクは子どもという人類の未来を担う存在と、その社会を破壊するものであり、ワクチンと同列ほど悪いと思っています。


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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