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バクーニンの「社会主義」

ウィキペディアの「バクーニン」の項目の一部だが、社会主義にもいろいろあり、私はマルキシズムが嫌い(その「プロレタリア独裁」の思想が特に嫌い)なのだが、一般には「無政府主義」と呼ばれているバクーニンには、その思想に親近感を感じる。もちろん、「政府」は無くても、政府に替わる社会的紐帯機構があっての話だし、私としては政府が存在するままで社会主義国家になるほうが合理的だと思っている。それに近いのが現在の中国やキューバだろうか。
下の記述の中で記述者によって批判されている「反ユダヤ思想」は、「反DS思想」と言い換えれば、見事な先見の明を持っていたと言えるのではないか。また、マルキシズムはスターリニズムにつながることを予見していたとも言えるだろう。


(以下引用)記述の中に記述者の主観が時々現れることは言うまでもない。そこに記述内容の矛盾も生じている。第一行の「政治機構」は、その定義が不明確であり、後で出て来る「労働者自身による生産者組織」も立派な「政治機構」だろう。国家(政府)だけが政治機構ではない。

政治的信念[編集]

バクーニンはその政治的信念においていかなる名称であれ形式であれ、政治機構というものを認めなかった。支配者の意志であろうと全員一致の望みであろうと、外部の権力機関をことごとく否定した。この信念はバクーニンの死後、1882年に出版された『神と国家』にも貫かれている[23]


バクーニンはまたあらゆる特権的地位や階級という概念を拒絶した。それらが人の知性や精神を腐敗させると考えていたのである。


バクーニンの政治的信念はいくつかの相関する概念に基づいていた。自由社会主義連邦主義反神論、そして唯物論である。またマルクス主義への批判も行ったが、これが未来を予見していたという指摘もある。バクーニンは、マルクス主義者が権力を得た場合に彼らが「人民の意志であると見せかけている分、さらに危険な」一党独裁体制を敷くであろう、と予言したのである[24]

自由[編集]

バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]

無政府集産主義[編集]

バクーニンの社会主義は「無政府集産主義」として知られている。そこでは労働者らは自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接管理することになる。子供たちはみな平等に学習と成長の機会を与えられ、大人はみな平等に物資を得て生産にいそしむのであるという[26]

連邦主義[編集]

バクーニンは、連邦主義という思想によって「下から上へ、周縁から中央へ向けた、連帯や連邦の自由という原則に則った」社会の組織化を唱え、社会は「個人、生産者組織およびコミューンの自由を基盤として」「全ての個人、全ての組織、全てのコミューン、全ての宗教、全ての国家によって構成され」「完全なる自己決定権、結社の自由、同盟の自由をもつ」ものとされた[26]

反神学主義[編集]

バクーニンは「神という思想は人類の生存理由と正義の放棄を意味しており、まぎれもなく人間の自由を否定するものであり、理論的にも実際的にも、必然的に人類の隷属化という結果をもたらす」と主張していた。バクーニンは「もし神が存在しないというなら、それを発明しなければならない」というヴォルテールの著名な文言を逆転させ、「もし神が実在するというなら、それを破棄しなければならない」と述べている[23]

唯物論[編集]

バクーニンは自由意志を宗教的にとらえることなく、自然現象を唯物論的に説明することを支持した[27]。「科学の使命とは、目の前にある実際の物事の全体的関係を観察し、物質的社会的現象の産物に具わった普遍的法則を明文化することである」。だがバクーニンは「科学的社会主義」という概念は受け入れなかった。『神と国家』の中では「社会の統治権を委ねられた科学的身体はすぐに滅びるであろう」と書いている[23]

社会革命[編集]

革命の実現に向けバクーニンが用いようとした方法は、自身の主義思想と一致していた。工場労働者と農民が連邦を基盤として組織化され「アイデアだけでなく、未来の事実をも創出し」ていく[3]。工場労働者は通商組合を作り「すべての生産用具を、建物や資産と同じように一手に」所有する[4]。農民層は「土地を農民たち自身のものとし、他人の労働によって生活している地主らを追放する」[19]。バクーニンは「下層の人々」に注目し、貧困に苦しむ大勢の被搾取層、いわゆるルンペンプロレタリアートは「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、ゆえに「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると考えた[28]

マルクス主義批判[編集]

バクーニンとマルクスの間で交わされた論争は、アナキズムとマルクス主義との相違点を浮き彫りにした。バクーニンは多くのマルクス主義者らが持ついくつかの考えに対して異を唱え、革命が全て暴力的である必要はないと主張した。同時にマルクスの提示するプロレタリア独裁という概念には強く反対した。マルクスの支持者はこの言葉を現代で言うところの労働者による民主制と解釈するが、これによって共産主義への過渡期の状態にも国家は存続することになる[29]。バクーニンは「革命家による独裁という考えはもう捨てており」[29]、革命は民衆主導で行われるべきであると主張し、また「知識を身につけたエリート」には「表には出ず」「人に負担をかけず」「公権力を持たず、要職につかずに」「ただ影響を及ぼすにとどまる」[30]べきであるとした。国家というものを直ちに無くすべきである、というのがバクーニンの見解であった。いかなる形の政府も、やがては抑圧への道をたどる、と考えたのである[29]。バクーニンにとって、自由とはあくまでも「下から上へと向けて実現される」べきものであった[31]


社会的アナキストとマルクス主義者の両者とも、目指すところは自由の創出であり、社会的階層や統治機関なき平等社会の実現であったが、目的を達するための手段については激しく対立した。アナキストの信念によれば、階級も国家も存在しない社会を築くためには大衆自身が直接行動を起こし、社会革命を達成するべきであり、プロレタリア独裁のような中間的な段階を認めるべきではない。そのような独裁体制はのちに永久化の土台と化してしまうからである。バクーニンから見ると、マルクス主義者は根本的な矛盾を抱えていた[32]


バクーニンは1844年にマルクスと出会って以来、「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である」とその能力を認めつつも、「マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」と彼の気質に対しては反感に近い感情を抱いており、その評価は後年も変わらなかった[33][34]


だがバクーニンは経済学者としてのマルクスを評価し、『資本論』のロシア語訳に取り掛かった。一方マルクスは1848年のドレスデン蜂起について「ロシアからの避難民の中ではミハイル・バクーニンが有望で有能な指導者とみなされていた」と記している[35]。マルクスはまたエンゲルスへの手紙でシベリアから戻ったバクーニンと1864年に再会したことに触れ「16年を経て老い衰えた様子もなく、なおも成長を遂げたようにさえ思われた。彼のような人物は稀有である」と書いている[36]


バクーニンは、国家において官僚制度を形成する知識人や行政官からなる、いわゆる新階級について論じた最初の人間であるともいえる。バクーニンによれば、一部の特権階級の世襲財産とされてきた国家は、やがてこの新しい階級である「官僚階級の手に渡り、単なる機械へと成り下がる――あるいは成り上がると言うべきか。」[37]

批判[編集]

暴力性、革命、「見えざる独裁」[編集]

バクーニンを隠れた独裁者であると批判する意見もある。アルベール・リシャールに宛てた手紙で、バクーニンは「見えざる独裁」という概念について記している。だが、バクーニンの支持者からはこの「見えざる独裁」には秘密結社的意味合いはないという主張がなされている。「見えざる独裁」の参加者が公然と政治力を行使することはない、とバクーニンは明示している、とする意見である[38]


だがチャールズ・A・マディソンによれば、第一インターナショナルを自らの支配下に置こうとするバクーニンの策謀がマルクスとの対立と1872年の追放を招いたのだという。暴力の肯定はやがてニヒリズムへとつながっていき、その結果「アナキズムという言葉が、一般的には暗殺や混乱状態と同義に捉えられることとなったのである[39]」という。


この分析を否定する意見もある。バクーニンは自分個人でインターを支配しようとはしておらず、自身の作った地下組織にも独裁者的権力は行使せず、テロリズムに関しては、革命に反する活動であるとして非難していたという主張である[40]

民族主義[編集]

アナキズムの歴史を研究するマックス・ネットラウは、バクーニンの汎スラヴ主義を、民族主義という逃れがたい病の発現であると記した。『告白』は皇帝の囚人としてペトロパヴロフスク要塞監獄にいた時に書かれ、1851年には出版されている。自らの罪への赦しを乞うとともに、皇帝に対し、救い主として、また同時に父なる者としてスラヴに君臨するよう懇願するという内容であったため、この著作はバクーニンへの攻撃材料として利用された。

反ユダヤ主義[編集]

バクーニンは死後、ユダヤ人嫌いとしてしばしばその名を挙げられてきた[41]。マルクスとの論争にしばしば反ユダヤ主義を持ち込み、典型的な反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論的見解を繰り返し述べている。


「貪欲な寄生虫で構成されるユダヤ世界は国境を超えるばかりか、政治思想の違いさえも超えてくる。この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」[42][43]、「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[43]、「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲者となるだろう。ラテン系の人々だけがユダヤの世界征服の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[44]


このような偏狭なユダヤ人観は当時、他の急進的社会主義者やアナキストの間にもみられた[45]。例えばプルードンの覚書には、ヨーロッパからユダヤ人の追放または根絶を呼びかけている一節がある[46]

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「正しさ」を決めるのは誰か

とあるスレッドのコメントの一部だが、「ポリティカルコレクトネス」への本質的批判として、世間に広めたい言葉である。
この「(正しいかどうかを)誰が決めるんだ」というのが一番のポイントだろう。そこが曖昧なまま、「誰か」の決めた「正しさ」が世界を覆っていく。今のコロナ詐欺も似ている。

(以下引用)

しかし「政治的正しさ」って言うのも意味の分からない言葉だよな。
  「正しさ」なんて結局は相対的なものなのに、
  何が正しくて何が間違ってるかなんて誰が決めるんだ。

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東京オリンピックの前に大雨災害の可能性もある

「アルマゲドンが起こらないかぎり東京オリンピックは開かれる」という、IOC幹部委員の発言に対する「阿修羅」コメントのうち2つを転載。なかなか秀逸である。
コメント32は、時期的に、非常にリアルな実現可能性がある。避難場所で「3密」を避けることなど可能だろうか。これ幸いと避難者全員にワクチンを打って、それで御終いか。(何が御終いになるかは知らないが)

(以下引用)



25. 2021年5月28日 00:00:06 : o4XjKXElcY YVpHQnpDUndlZEk=[70]  報告
 もういいじゃん。

オリンピック開幕1ヶ月前からパラリンピック終了まで外国人の入国を全面禁止にして、日本選手団は全員出場をボイコットすればさ。
序にボランティアも全て辞退してもらって、マスコミの中継も全面禁止に。


その上で、誰もいないスタジアムでパソナに雇われたバイトが、各国の名前の入ったプラカードを持って一人ずつ入場行進して、バッハが開会の演説をして、その直後にコーツが閉会の挨拶して終了って段取りでさ。


IOCさん、日本はあんたらに言われた通りにオリンピックをやりましたよって。
誰も参加しないし見もしない東京オリンピック…最高にいかしてるだろと。


野党はそう公約して、内閣不信任案を出せば自公の支持者も選挙で投票してくれるだろう。
まさか、ここまで言われてオリンピックがやりたいなんてプライドのない日本人は流石に右にも左にもいないよな?













  
 




32. 2021年5月28日 10:27:35 : eMS8CeA2Xc c3F4QVFVLmZ5Lms=[388]  報告
多分梅雨末期には線状降水帯が発生して、
水害が発生して、
避難所生活を余儀なくされる人たちが生み出されて、
そのニュースが流れたあとに、
「今日も東京ではオリンピックが~」
と、のうてんきな報道があるんだろう。

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現代倫理学(2)人間の倫理

現代倫理学(2)人間の倫理(善悪の定義と派生的考察1)


神の存在は不可知だから、我々に可能なのは「人間の倫理」を考察することである。それによってこの世界をより良いものに変えていけるなら、そういう考察は無意義ではないだろう。

さて、倫理の基本は「善とは何か、悪とは何か」である。古い言葉で言えば「勧善懲悪」が倫理の目的だが、問題は、その「善」と「悪」が明解な定義がされていないことだ。
この定義は単純なものである必要がある。それでないと社会全体の人間の指針とはなりえないからだ。つまり、「分からないままに従う」という、従来的な倫理(神の倫理はそれである。)ではなく、社会全体が納得して従う倫理を構築する必要があると私は思っている。そういう倫理が無いから、あらゆる宗教が破綻した後にこの無道徳な世界が生まれてきたのだろう。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という倫理は、今では子供ですら信じていない。総理大臣を初めとして嘘が平気で罷り通る社会で、誰がそんな倫理を信じるものか。
また、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある若者の質問に居合わせた大人たちが誰ひとり答えられなかった事件は記憶に新しい。それも、世界中で戦争やテロや大量殺人事件が頻発する世界では、誰も納得できる答えを持ち合わせていなかったからだろう。

私が提起する「善悪の定義」は、下のようなものだ。その定義から派生する考察課題とその答えなどを番号付けしていく。定義自体は非常に単純なものだ。

定義1:善とは生の肯定、そしてこの世界の肯定である。
定義2:悪とは生の否定、そしてこの世界の否定である。

「生の肯定」が「この世界の肯定」になるとは限らない、という意見も出るだろうが、私はこれはほぼ同義になると思っている。1-aがその説明である。
以下が、定義1から発生する考察である。

1-a:生の肯定とは、世界の肯定である。つまり、この世界を「生きるに値する世界」と観じることである。
1-b:自己の生を肯定し、尊重することは、他者の生をも肯定し、尊重する「義務」を伴うべきである。
1ーc:bにおける「義務」がすなわち「倫理」である。(反論者のためにbとcを分けておく。)
1ーd:倫理は社会的存在としての人間が社会を維持する土台である。
1-e:従って、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する答えは、「殺人は社会全体の破壊、あるいは崩壊につながるから」である。(言うまでもないが、「人を殺してもいい」という社会は全員の殺し合いになり、崩壊する。)
1-f:「なぜ社会を破壊してはいけないのか」に対する答えは、「社会は人が生きる基盤であり、そう質問するあなた自身が生きる基盤だからだ」である。
1-g:上記e、fは、貧困と抑圧、社会への不満によって「自分が死んでもいい」という自暴自棄に陥った人間(いわゆる「無敵の人」)に対しての抑止力にはならない。よって、社会は「無敵の人」を生み出さない制度、すなわち福祉制度の充実が必要になる。
1-h:ではあるが、「世界を肯定する者」は、自分が死ぬからといって世界そのものを破壊はしない。それは、彼がこの世界を愛しているからだ。(ここに文化の意義がある。文化とは本来的には世界への愛を生み出すものなのである。世界への嫌悪や破壊を促す創作物は倫理的には批判されていい。もっとも、それへの罰則を導入すると、ファシズム的社会になるので注意が必要だ。法律と異なり、倫理は本来、罰は伴わないのである。)

定義1に対する考察は以上である。

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現代倫理学(1)神の倫理

別ブログに書いたものだが、こちらにもそのシリーズを載せておく。「神を前提としない倫理」の考察は、私自身の宿題のひとつなのである。

(以下自己引用)

現代倫理学(1)神の倫理


(1)神の倫理

或る随筆というか、イギリス文学評論集のような本で読んだのだが、イブリン・ウォーの「ブライズヘッドふたたび」の中で、登場人物の一人である女性がこういうことを言うらしい。

「私はこれからも悪いことをして神に許されながら生きていくのでしょう」

これは、倫理の根幹に深く関わる問題だと思うので、これを考察の出発点にしてみる。
まず、いくつかの命題や考察ポイントを立ててみる。

1:倫理には「神(創造神)を前提とする倫理」と「神を前提としない倫理」がある。
2:絶対的な強制力を持つ倫理は「神を前提とする倫理」である。
3:「仏」、あるいは「非創造神」を前提とする倫理は「来世」が必須条件である。
4:「神仏を前提としない倫理」の「強制力」は「法律」より弱い。
5:「法律」は「倫理」とは別の強制力があるが、その強制力の前提は「暴力」である。
6:「神仏」は、その存在証明が不可能であるために、「宗教」なのである。
7:存在が証明された神仏は、信仰の対象ではなく、ただの「暴力装置」である。
8:神仏以外でも反抗が絶対不可能な倫理もまた「暴力装置」であるかもしれない。

これ以外の考察ポイントは適宜追加することにして、最初の出発点に戻る。
この女性は「神を信じている」。にも関わらず、「悪いことをして生きている」。そして、それが「神に許される」と思っている。
では、
1:そのような神(悪を許す神、つまり悪を許容する神)とは何なのだろうか。
2:また、その「悪いこと」がなぜ「悪い」と判断する(できる)のだろうか。

この女性の宗教はカトリック(カソリック)であるらしい。その前提で上記2点を考察する。
カトリックの教義はローマ教会の教義であり、それは原始キリスト教、つまりキリスト本来の教えとは別だろう。新約聖書の中でキリストは「これこれの行為は罪である」という発言は特にしていないと私はかすかに記憶しているが、要は「父なる神を信じない」ことが罪なのであり、「父なる神の意思を曲解する宗教者は大きな罪を犯している」としているようだが、キリスト自身の「倫理概念」は旧約聖書の教え(ユダヤ教)に則っていると思われる。しかし、旧約聖書の十戒の厳密な適用には反対であったらしい。イエスの神(自分の父)は、愛と寛容の神だったと言っていいのではないか。そうなると、カソリックの教えでは何が罪とされているのか。おそらく、ユダヤ教(旧約聖書の十戒)が踏襲されていると思われる。
しかし、ユダヤ教の神、つまり十戒という倫理の根幹の存在は、非常に厳しい、恐ろしい神であり、その戒律に違反することは現実に死罪に相当することもある。たとえば、安息日に働いたということですら重罪なのである。これは「神の言葉をないがしろにした」からである。それが「神を前提とする倫理」としては普通なのであり、神自身が「自分の戒律の運用は適当でいいよ」とするはずはないのである。それでは戒律の意味など無くなるはずではないか。
とすれば、冒頭の女性の言葉は、「私は神の教えを裏切るが、神はそれを許すだろう」ということになる。これは、カソリック的には許容される思想なのだろうか。
ここで思い出すのは「第三の男」のハリー・ライムである。語り手(狂言回し)のホリーがハリー・ライムに「君は昔は神を信じていたはずだが」と言うと、この悪党は「今でも信じているよ」と言うのである。その宗教はカソリックである。
ここで注意したいのが、カソリックの「告解」である。
罪を犯しても、神父(教父?)の前で告解したら、その罪は許されるという、不思議な儀式である。これがカソリック教徒の社会的精神安定剤であるらしい。
つまり、一週間悪の限りを尽くしていても、日曜日に教会で告解をすれば、その犯した罪はすべて許されるということだ、と私は理解しているが、そのような都合のいい宗教があるというのが不思議そのものである。もちろん、神父(教父?)は聞いた内容については守秘義務がある。
まあ、私はカソリックに詳しくはないので、誤解もあるだろうが、「神の倫理」の抜け穴としてこういうものがあると理解しないと、冒頭の女性の言葉はまったく不可解なものになるだろう。

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爆弾回し

「逝きし世の面影」記事の一部である。
まあ、企業経営は博打にも似ていて、「勝ち逃げ」しないといつかは倒産するのが常である。
あるいは「ババ抜き」にも似ているか。利益を得た人間がどんどん抜けて、マイナスだけになった企業という爆弾(ババ)を最後に掴んだ者が負け。ところで、「ババ抜き」の「ババ」って何だ? 一部地方ではunkoのことのようだが、そんな汚い言葉がこの有名な遊びの名前として定着したのか?

(以下引用)

ファイザーCEO、保有株の60%売却。ワクチン報道の裏で(製薬会社の露骨なリスクヘッジ)

去年末にファイザー社CEOは「今が潮時だ」(うなぎ登りの株価が今後大幅に下がる)と予測したとすれば革命的な新製品、半年で開発した世界で初めてのmRNAワクチンは一か八かの大博打。間違いなく危ないのである。(★注、ファイザー社だけではなくモデルナCEOも売却している)
ファイザー社やモデルナのCEOは今後予想されるmRNAワクチンの副反応の訴訟リスク回避目的で保有株の60%売却を行たと思われるのですが、世界でも日本でも同じでメディアはこの製薬会社の露骨過ぎるリスクヘッジを触れたくない。ファイザー社など製薬会社のCEOはワクチン被害を予測しているのに、マスコミ有識者などは逆に胡散臭いし非科学的なワクチン救世主伝説だけを大宣伝しているのである。


しかし今までの「絆社会」の日本人なら今回有名芸能人の「ワクチン打たない」のように政府やマスコミ有識者に面と向かって逆らうなど考えられないことだった。それなら世の中の風向きが、明らかに今までとは違っているのである)

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スタヴローギン考

スタヴローギンとはどういう人間か、と考える際に一番の手がかりは、チホン僧正が彼を「土壌から引き離されておられる。(神を)信じておられない」と言っていることだろう。「土壌、あるいは大地から引き離された人間」というのはドストエフスキーの小説の中にしばしば出て来る言葉だが、それは何を意味するか。それは「世界から遊離した人間」ということだろう。
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。

(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。

澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、

「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」

という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww 



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酔生夢人
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男性
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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