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衆愚政治化したデモクラシーとポリティア(舛添要一のブログより)

2018-03-01 11:20:04
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 アリストテレスは、貴族政(アリストクラティア)を国家の理想的な制度とし、それを担うのが「最善の人たち(アリストイ)」だとした。しかし、名望家や貴族のように裕福でなければ政治家になれないというのでは、現代民主主義においては通用しない。


 そこで、アリストテレスも、現実に可能な最善の制度として、中産階級の人々が中心として運営するポリティア(混合政体)をあげたのである。なぜ「混合」なのか。まず、王制や貴族政は、利己的な利益の追求に終始し、僭主政や寡頭政に堕落する危険性がある。逆に、貧しい「無頼の徒」(大衆)による政治は、下手をすると衆愚政治(デモクラティア)になってしまう。


 そこで、この双方の危険性を排除するために、多様な集団が自由に統治に参加することができるポリティアのほうが好ましいとしたのである。その統治形態が機能するためには、政治によって定期的に収入が保証される必要がある。


 そうしなければ、裕福な人たちしか政治家になれないからである。今の日本では、議員歳費の削減を唱える大衆迎合主義が広がっているが、それは「職業としての政治」の根幹を揺るがすものである。


 またひと握りの有徳者(アリストイ)が支配する貴族政や寡頭政の場合、全国民の利益になる政治が行われるとは限らない。広汎な国民が参加しない政治は永続できない。そこで、J.S.ミルが主張するような主権在民、民主主義という考え方が出てくる。


 ミルは、『代議政治論』の中で、「最善の統治形態は、主権(究極的な最高支配権力)が社会全体に付与されている統治形態である」とし、すべての市民が「主権に対して発言力を持っている」のみならず、「少なくともときどきは、地方的または一般的な若干の公的な機能を果たすことによって、統治に実際に参与する」ことが要請されるような統治形態であると言う。


 現代民主主義諸国においては、19世紀半ばのこのミルの主張は必ずしも実現されていないが、古代ギリシャのアリストテレスが言うポリティアは、近代ではミルの思想につながっている。一方で民主主義の、他方で貴族主義の要素を含んだポリティアは、民主主義が衆愚政治に陥らないための統治形態だと言ってもよい。


 古代から近代を経て、現代の政治においては、貴族主義的要素がますます希薄になっている。まさに大衆民主主義の時代であり、それは容易に衆愚政治に陥る危険性を孕んでいる。一昔前までは、高度な教育、専門的知識、幅広い教養が「統治する選良(ruling elite)」、つまり「現代の貴族」の資格であった。しかし、マスメディアが発達した今日、大衆の人気取りが選挙での最大の戦略となってしまい、その資格要件すらなくなってきている。


 フランスでは、ENA(国立行政学院)などのGrandes Ecoles 出身者が今なお官界、政界を牛耳っているが、日本では、官界はともかく、政界では東大閥が幅をきかせる状態ではもはやない。「貴族主義」は、ますます失われていっており、衆愚政治への歯止めがきかなくなりつつある。


 


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アリストテレスによる「述語」の分類

考察の対象が思いつかないので、アリストテレスの思想の一部をウィキペディアから転載しておく。その自然科学についての思想は現代では考察に値しないだろう。

哲学とは煎じ詰めれば「AはBである」という命題(真偽の判断が可能な文)になると思うが、その述語を分類したのが面白い。

すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」

まあ、この分類で妥当かどうか、他の要素もあるとは思うが、かなり思考のガイドラインにはなる分類だと思う。
つまり、何かを考えるとき、その対象の

1:実体は何か
2:性質は何か
3:量はどうか
4:他者との関係はどうか
5:能動的か
6:受動的か
7:時間とどう関係するか
8:姿勢はどうか

を考えるわけだ。まあ、これは私が下の記述から今適当に考えたものである。創造や創作や研究を試みる際のいい手引きになるのではないか。たとえば、小説でキャラを作る場合だと「量」とは体型や体格や体重になるだろうし、内面的な「器量」「包容力」でもあるわけだ。また、たとえばシャーロック・ホームズの「本質(実体)」とは何かと言えば「思考機械で、かつ冒険家」だろう。


(以下引用)

形而上学(第一哲学)

原因について

アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。


また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。


事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。


万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教イスラム教)の神(ヤハウェアッラーフ)と同一視した。

範疇論

アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学

アリストテレスは、倫理学を創始した[12]。 一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる[13]。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、エートス(住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を実践哲学として確立した[13]


アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。


また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、

  • 恐怖と平然に関しては勇敢、
  • 快楽と苦痛に関しては節制、
  • 財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
  • 名誉に関しては矜持、
  • 怒りに関しては温和、
  • 交際に関しては親愛と真実と機知

である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。


また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。


アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。

政治学

アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的生物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。


アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。

*夢人注:「ポリティア」について舛添要一は「混合政体」としている。特に根拠は無いが、政治意識のある中産階級を「市民」として、「市民政治」と訳しても良さそうだ。それは「民主政治」とは違って、或る程度の知性と教養を政治参加の必要条件とするわけである。ポリス(都市)の運営が政治(ポリティクス)の起源だろう。奴隷には政治を考える心理的余地は無い。市民に政治参加の資格はある。現代では奴隷としての頭脳しかない人間に選挙権が与えられている。それが民主主義を崩壊させている。

2018/02/28 — そこで、アリストテレスも、現実に可能な最善の制度として、中産階級の人々が中心として運営するポリティア(混合政体)をあげたのである。

文学

アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。

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アニメという「文化大使」

日本アニメは日本という国への親愛感を高めている「文化大使」である。
タイ版のラインスタンプが、使い勝手が良さそうだ。いろいろなシチュエーションがある。





タイの一休さん公式

らて @rate813rate

タイは今、深夜3時半、ふと起きたら一休さん始まったんだけど今何年かな…? そのまま日本語のオープニング始まったんだ… pic.twitter.com/mvDcwUdmzn


  2019-09-27 05:35:10

タイ版のLINEスタンプも発売されてる


らて @rate813rate

@max_OLDMEN 本編はタイ語でOPEDは日本のままという仕様…


  2019-09-27 07:08:03
冬乃@一時帰国中 @poohka_27

もしかしたら日本よりも見られているかもしれない一休さん。新右衛門さんを知らないタイの人を探すほうが難しいかもしれない 一休さんの声が藤田淑子さんということしか知らない日本人、日本のアニメの話題に全く混じれず。 pic.twitter.com/VWZeCr62vC


  2020-11-24 03:05:16
リンク LINE STOREIkkyu-san - LINE スタンプ | LINE STOREIkkyu-san, the clever little monk, comes here with his friends to solve all problems for everybody. Let's have fun with his witty words and poses.10

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ウクライナ戦争に関する部外者の感想

ロシアがウクライナ戦争で苦戦している理由だが、市民に極力被害を与えず戦うということ、相手が市民に化けて攻撃したら対応が困難なことが第一原因だろう。つまり「市街地でのゲリラ戦」において、アゾフ大隊のほうが訓練を積んでいるのではないか。
そこで思うのだが、現代における戦争というものの様相はこれまでの戦争とは異なり、「大量破壊兵器」が無意味化している可能性がある。相手国の主要都市に核爆弾を落として国全体を破壊するのは容易だが、それでは「戦争目的」が果たせないわけだ。つまり、ロシアの核兵器が無用の長物化しているということだ。
そして、ミサイルなどの「長距離攻撃兵器」もあまり役立たないだろう。長距離攻撃兵器は基本的に固定的な目標を攻撃するのに向いており、移動する敵や分散した敵には向かないのである。これは、ゲリラ戦向きではないということだ。
ある程度役に立つのは飛行機だろうが、これも分散し隠れた相手には向かない。つまりゲリラ相手には効率が悪い。
ついでにアゾフ大隊とは何か、と言えば、私は「職業テロリスト」と思っている。ネオナチというのは単なる自己装飾(表看板としての反共主義)だろう。つまり、平和な社会ではヤクザやギャングにしかなれないような人間が膨大におり、それらが現代では職業テロリストになっている、という考えだ。これはISISに欧米の人間がかなり加わっていた事実から推測できる。欧米人がイスラム教徒になったりナチスになったりする理由があるとしたら、それはイスラム教やナチス思想は単なる装飾で、実は「人を殺すことで食っていける」からだろう。ついでに、戦場でレイプも強盗もできる。

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ニーチェの思想の考察(4)

7:人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。

ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには

8:絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。






9:すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。

10:そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。

11:だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。

12:その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。

いわばニーチェの思想は、

13:自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。





(考察)

7:判断不能。なぜキリスト教的弱者が「恨み」を持つのか、原著書を見ないと分からない。一般論としても、人間は恨みだけで生きるものではないだろう。「人間は理性的動物ではない」は言い過ぎで、「同時に感情的動物でもある」と続ければ、同意。

8:原著書を見ないと判断不能だが、ここで彼が言う「超人」は「認識における超人」つまり「優れた哲学者」の意味のようで、俗世間の「超人」とはまったく異なるようだ。

9:半分同意。狂信やドグマが人間の生を歪めることは確かだが、形而上学的価値が人間を不幸にするとは限らない。そして、すべては「解釈」だけだ、とするなら、どのような生き方も肯定されてしかるべきだろう。だが、キリスト教はその信者を幸福にすることはあっても、「世界の半分(非キリスト教世界)」を不幸にしてきたことは確かである。

10:「普遍的な価値」は存在しない、という前提からは当然の言葉だが、価値は自分が(主観的に)作るものだ、という考えからすれば、人間は悲劇的でも喜劇的でもないだろう。

11:同意。「価値というものを再考すること」が幸福につながることは、私自身「価値論」の中で論じている。

12:判断不能。「あなたはそう定義するのですね」としか言い様がない。

(補説)「善悪の彼岸」の第13章で、ニーチェはこう書いている。
「生きとし生けるものは何よりもまずおのれの力を発揮しようと欲する。生命そのものが力への意志である。自己保存はそのもっともしばしばあらわれる間接の結果の一であるにすぎない。ーーつねに起こることではあるが、この場合においてもまた、無用な目的論的原理の介入を警戒しなくてはならない! 自己保存の衝動というのはほかならぬそれである。(それはスピノザの論理的不徹底から生まれたーー)方法(メトーデ)ということは、本質的には原理の節約ということであり、これがこういうことを要求するのである。」
これは、この章の最初に書かれた短い一文への説明であり、「生命そのものが力への意志である」という自分の新説への「説明」(私に言わせれば強弁)である。章の冒頭の一文とは
「生理学者たちは、自己保存の衝動をもって生物の根本衝動であるとなすが、彼はなお三思すべきである。」というものだ。この広く常識とされている「通説」に対してニーチェは「生命そのものが力への意志である」という奇妙な説を提示する。しかし、その「説明」は無い。
説明の代わりに、「無用な目的論的原理の介入を警戒せよ」と言う。つまり生物の「自己保存」という目的が生物にその行動(生命維持の行動)をとらせる、という「当たり前」の考え方を否定するわけだ。では、生命とは「力への意志」である、という説を補強する「証明」はあるのか。無いのである。あるはずがない。妄説だからだ。そもそも「意志」とは「ある目的を遂行しようとする力」であって、力そのものが意志の目的であるわけではないし、意志の目的になりようもない。力を発揮する快感はあるだろうが、その快感のために行動する動物などいるまい。では、人間はどうか。権力者の「理不尽な力の遂行」は容易に起こるだろうが、それが全人類に共通している欲望だとは言えるはずもないだろう。
蛇足的に言えば、「方法とは原理の節約である」ではなく、「方法とは節約の原理である」が正しいだろう。ニーチェの間違いが翻訳者の間違いかは知らない。原理が「節約」の対象になるだろうか。

13:「その世界の意志によるすべての結果を受け入れる」以外は完全に同意。そもそも世界には意志(世界そのものの意志)など存在しない。世界は人間とイコールではないし、政治家の意志が世界の意志であるわけでもない。


(ニーチェの思想全体への結論)非キリスト教文化圏の人間にとってはほぼ常識的な発言をしているだけで、当時のキリスト教世界では大騒ぎされただろうが、東洋人には特に驚く内容ではない。ドイツ観念論哲学を打破した功績は大きいとは思う。つまり、そこで「それ以前の西洋哲学そのものも死んだ」のである。




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ニーチェの思想の考察(3)


5:ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた[14]
6:永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいて、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方である[14]



(考察)

5:同感。「生成の世界」とは、常に変化する世界であり、人間によって変化する(進歩)する世界、という世界かと思うが、その「進歩」が次の「永劫回帰」思想で無化される。

6:不同意。仏教の輪廻思想の悪しきヴァージョンだろう。なぜニーチェがこのように奇怪な「SF思想」を持ったのか、彼の著作中で「永劫回帰」の根拠がどう書かれているか、知りたいものである。


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ニーチェの思想の考察(2)



1:ニーチェは、唯一の真実なるものはなく、解釈があるのみだと考えた[12]
2:ニーチェにとって、解釈とは、価値、意味を創り出す行為である[12]
3:そして、解釈は多様である。
4:世界はどのようにも解釈される可能性があり、世界は無数の意味を持つ[12]




(考察)

1:ほぼ同意。ただし、「唯一の真実」が無いというより、真実性の証明はほぼ不可能、と言うべきかと思う。というのは、我々の世界把握は我々の「表象」でしかありえないからだ。しかし、科学的な問題に関してはかなり真実に接近できるだろう。
2:同意。
3:同意。
4:同意。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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