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国家と「男性性・女性性」

「東海アマ」ブログに引用されていた記事で、一部に無理な論理の展開や誇張があると思うし、まだ詳しく読んではいない。しかし、なかなか啓発的で面白い記事だ。いい思考素材である。
世界的宗教のほとんどが女性蔑視、女性差別の内容がある、という指摘は特に面白い。これは私も個々の宗教については感じていたが、それが全世界的に共通している、ということには気づいていなかった。それ(宗教における女性差別)がなぜかという考察の部分は熟読する価値がありそうだ。

(以下引用)

 ライフジャーナル「母系社会が平和への鍵になる」2019.07.24
 https://naturalharmony.co.jp/journal11/

 なぜ世界から母系社会は消えたのか 女性性を尊重しない社会は滅びる!?
 前回のコラムで、イロコイ連邦をはじめとしたアメリカインディアンの多くの部族が、「母系社会」で成り立っているという話をしました。その母系社会についてさらに掘り下げてみたいと思います。

 母系社会を簡単に説明すると、一般的には母方の血筋を継承していく家族であること、つまり、現代の日本は「父系社会」なので、父親から息子へと男子が家を継いでいくところ、母から娘へと女子が継いでいくということになり、現代とはまったく逆の制度になるということです。

 古代には、世界中に多くの母系社会が存在していたと言われています。現存している先住民族の中でも母系社会を継承している民族の分布を見ると、熱帯地方に多く集中しており、寒帯地方では少ない傾向があるようです。また、農耕を中心とする民族に母系社会が多く、牧畜を中心とする民族には少ない傾向があります。これだけを見ると、温暖な地方で農耕を営む民族には母系社会という構造が適していたのかもしれません。

 さて、母系社会の大きな特徴をまとめると、部族の長は女性であり、その女性が部族内をすべて取り仕切り部族全体に大きな影響力を持っています。
 しかしその内部は非常に民主的に運営されており、決して封建的ではなく、すべての者に寛容な社会を築いています。

 中国雲南省の奥地に存在する「モソ」という民族は典型的な母系社会を継承していますが、その特徴を見るのが分かりやすいと思います。
 まず、結婚という制度がないため夫婦という関係性もなく、その概念すら存在しません。ではどうなっているかというと、「走婚」つまり「通い婚」になっているのです。
 (アマ註=日本でも合掌造りの白川郷や、弥生人文化圏では「通い婚」が常識だった)

 男性は好きな女性の家に通いながら、というより女性が好きな男性を呼び、関係性をつくります。最低限のルールがあるにせよ、一緒に住むのも自由だし、その関係を終わらせるのも自由なのです。
 もし子供が出来た時は女性の家族が皆で育てることになり、男性には一切の養育の義務はありません。父親が誰であるかは重要ではなく、誰が産んだのかが大切にされます。

 このような習慣を現代の常識的な目線で見てしまうと「これで社会が成り立つのか?」という疑問が浮かぶと思います。民族の構成はシンプルで農耕を中心とした社会なので、必要以上に現金収入を必要としていないから成立していたという背景もあります。
 また男性の存在感がないわけではなく、地域社会の中でしっかり役割があり責任ある仕事が任されています。

 ただ、至って自由であるということ。前述のように男女関係だけではなく、すべての人間関係が、とてもおおらかで寛容な社会を築いていたということです。この傾向はモソだけではなく、多少の違いはあれ母系社会を築いている民族ですべてに見られる傾向です。

 かつての日本も平安時代までは明らかに母系社会を築いていたといえます。おそらく当時は一部の貴族や武士階級を除き、明確な結婚の制度もなく女性が家系を継いでいました。

 世界的にみると人々の生活習慣や社会的な仕組みに大きく影響を与えた出来事は宗教の広がりです。有史以来、世界に急速に広まった宗教には女性を蔑視する内容がとても多いことに気が付きます。
 キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教にいたるあらゆる主な宗教で経典の中に明確に女性蔑視を記述しており、表向きは平等と教えながら本質的に男性から劣っている存在であると位置づけていることから、とても矛盾をはらんでいます。
 神道についても穢れという考え方があり、例えば相撲の本場所の土俵には女性が立ち入ると穢れるという理由から厳しく禁じています。

 もちろん宗教もその時代とともに内容の解釈や記述が変えられてきているので理解は様々です。宗教の発祥初期からそのような教えがあったかは定かではありません。
 ただし、世界的に共通していることは、みな同じように男女の関係性に抑圧的な厳しい戒律を設けて、女性の位置づけを低く保ち、同時に善悪の概念を強力に植え付けてきたと言えるでしょう。

 日本も平安時代以降、本格的に仏教が普及してきたところから、明らかに父系社会への転換が起こりました。それが直接的な要因と断言できませんが、やがて戦国時代へと移り変わっていきます。
 ではなぜ、そもそも多くの宗教が女性を蔑視してきたのでしょうか? ここは大いに想像力を膨らませる必要がありますが、それは主な宗教が常に権力と結びついてきたという経緯があります。

 歴史上、常に政治が宗教を利用して、逆に宗教も政治を利用してきました。時の権力者たちは民衆をコントロールするのに宗教を使い、宗教にも様々な便宜を図ることで関係性を強固にして、必要であれば教義を書き換えてでも目的を達成させようとしてきました。
 当然ながら権力者やそれを取り巻く者たちは、その体制に反対する人々を物理的・政治的に抑圧しました。

 しかし、どうしてもコントロール下に置けない勢力がありました。それが女性だったのです。まだ母系社会が色濃く残る社会であっても政治的には優位な立場になっていた男性が、すでに社会全体に浸透していた女性の影響力を弱めることが出来ないため、宗教の力を使って存在そのものを低く劣ったものとして定義しました。つ
 まり権力者はそれほど女性の力を恐れました。

 中世のヨーロッパを中心に起こった魔女狩りはまさにそれを象徴する出来事であったといえます。人並み外れた霊的能力や知識をもった女性を魔女や悪魔の使いとして仕立て上げ、社会を惑わすものとして民衆の恐怖を煽り、社会的に影響力のある女性を抹殺してきたのです。

 ここまで読んだ方は、「では父系社会というのはそんなに悪い仕組みなのか?」と思われるかもしれません。
 実はそうではなくて、現代社会の中で父系社会を形成する男性性の要素が強くなり過ぎたということです。古代では母系社会と父系社会が共存していた形跡が多くみられており、中には双方が混ざった習慣を持つ民族もあります。

 近代では、その男性性の特徴である論理的・競争心・実力主義・結果重視などの傾向が過剰になり、社会の中で常にその条件に合うように生き方を要求されます。
 更に付け加えると、宗教の普及とともに貨幣経済が強力に広がり、社会を構成する要素として最も大きな影響力を持つことになったため、なおさら男性性を増長させることになりました。戦争や民族的な争いが絶えないことも、男性性の過剰という問題が根底にあるからではないでしょうか。

 女性への差別や蔑視や抑圧的な行為は、明らかに男性性過剰の結果であり、逆に言えば女性性の欠如の現れです。
 これは生物学的な男と女の違いの問題ではありません。どちらにも男性性、女性性の両方が備わっているからです。

 長い歴史の様々な場面で女性(性)が犠牲となってきた事実があります。犠牲とは、その犠牲の下に社会が成り立ってきたという意味です。
 さて、それを犠牲にして得てきたものは何でしょうか。国家の軍事的な強さでしょうか? 経済的な強さでしょうか?

 かつて男性性優位と見られる帝国が数多く誕生しましたが、ことごとく衰退・滅亡していきました。
 その一方で目立たないながらも女性性を大切にする平和な国家も存在していました。歴史の年表にはまったく出てこない史実ですが、帝国の栄枯盛衰を学ぶより、なぜ平和な国が存続していたかを学ぶことに価値があると思います。
 そうすれば、かつて理想的な母系社会を築いていた日本が、世界に先駆けて出来ることが自ずと見えてくると思います。
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 一部引用以上

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老年と壮心

「世に倦む日々」氏がNOTEに発言の場を移した最初の記事の末尾だが、「老キ(たぶん、キと読むと思うが、パソコンで出て来ない。「麒麟」の「麒」とは違うようだし、麒麟は馬小屋にはいないだろう。つまり、馬の意味か。)」の意味が分からなくて戸惑ったが、下の写真を見て、これが曹操の詩の中の言葉だと知った。その詩がなかなか面白い。もちろん、独断での解釈だが、だいたいこんな意味だろうか。

 亀は長寿だが

神亀は長寿だが、いつかは死ぬ
龍は霧に乗って飛ぶが、いつかは土灰となる
老馬は馬小屋に伏せるが、その志は千里にある
烈士は生涯の暮方にも、壮心は止まない
満つる時と収縮の時の如何はただ天命にあるだけではない(自分次第だ)
そして、(自ら)喜びを養うことの幸福は生涯あるだろう

最後の一行はかなり恣意的な訳だが、「怡」の意味が漢和字典だと「よろこび、楽しむ」らしいので「養怡」の解釈が難しい。そこで「自ら」の冗語(文章を冗長化する無駄な言葉)を入れたわけだ。「自分で自分の喜びを養う」精神と言うか、知恵は、万人に通じる人生訓としてかなり有益なアドバイスなのではないか。



この新環境が、志は千里を駆ける老騏の馬小屋だと、前向きに。


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「真・善・美」は一致するという思想

下の引用は、「はてな匿名ダイアリー」での「悪役(の悪行描写)は物語創作に必要か」的な物語創作論(つまり、「トンネルを抜けた時の明るさへの感動のためにトンネルの暗い道を歩くことの不快に耐えられない人もいる」、ということ。)に対するコメントだが、現実人生や現実社会の話としてもなかなか面白い指摘だと思う。

「悪の凡庸さ(悪人は特殊な人間ではなく普通人でも悪に陥る)」という思想が、悪への同情となり、悪への腰の引けた対処になり、あるいは悪に報いるに善を以てする、という宗教的な姿勢になり、その結果、悪が世界に拡大していく、ということもありそうだし、現実にそうなっている感じもある。だからと言って、「厳罰主義」でこの問題が根本的に解決できるかどうか。

この問題への対処は、「悪は美しくない」ということを倫理問題の基点にすることではないかと、ふと思った。つまり、倫理感覚とは「行動の美」への感受性である、ということだ。
我々は、たとえば統一教会問題での政治家たちの「行動」を醜悪だと思っているのではないか? その「醜悪」という言葉は「悪は(審美的に)醜いものでもある」という思想を包含するように感じる。それは、この「醜悪」という言葉が外面的な(外観の)美醜だけでなく、行動の美醜にも使われることからも言えるのではないか。
これは、昔から言われている「真・善・美は一致する」という思想に近い。言うまでもなく、ここでの「美」は外面の美ではない。美男美女の悪党は無数にいる。しかし、美男美女ではまったくないが、善人の善性がそのまま顔に現れている人も多いのである。で、内面が下品・下種であるような美男美女は、やはりそれが顔に現れているのである。俳優やタレントや有名人の誰それをここでは指摘しない。



(以下引用)


あー。一方で、「絵にかいたような悪役でも実は事情があってそれなりにはいい人でした」展開も、作者のリアリティ観の薄っぺらさがほの見えて萎える(「正義は人の数だけある」と言っておけばいいんでしょ、的な)。


なんというか、その辺にあふれてる自分正義言い訳にした低劣な人間の底の浅さみたいなのをリアルに描いた悪役像が、読んでいて一番好ましい。

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岸田総理よ、「霜を履みて堅氷至る」だよ

今、一番大きな問題は、岸田政権が安倍・統一教会問題を無視して逃げ切ろうとしていることだが、そこで「岸田政権の今後」を易に問うたところ、「坤為地初爻」という卦を得た。「坤為地」は全部の爻が陰という珍しい卦で、大地を象徴する。易では天に従属する性質だが、物を載せ、育み育てるのが大地である。つまり、脇役の卦で、地味で陰性な岸田にぴったりであるww
その初爻は、易をやる者の間では有名な「霜を踏みて堅氷至る」というもので、下の「高島易断」の解説にあるように、「小さい悪事を見逃せば、初霜が堅氷に至るように、やがて大きな悪事に至る」というものだ。岸田の改造内閣の性質を表す、これ以上の卦は無いだろう。
だが、これは私に言わせれば「積小成大」という、人生訓にも通じるものである。つまり、いい方向に行動するなら、「塵も積もれば山となる」大きな成果を得られるわけだ。
解釈するのも面倒なので、「高島易断」を解説した某サイトの解説をそのまま載せておく。

(以下引用)十円とか百円というのは、硬貨を使って易占する方法を示している。赤字部分は夢人による強調。岸田に関する占いとしては、赤字部分だけを読んだほうが分かりやすいと思う。


坤為地 ■■■■■■


十円の表 十円の裏  百円の表 百円の裏


○坤は、元(おお)いに亨(とお)る。牝馬(ひんば)の貞に利(よろ)し。君子往(ゆ)く攸(ところ)有り。先んずれば迷い、後(おく)るれば主を得(う)。西南に朋(とも)を得(え)、東北に朋を喪(うしな)うに利(よろ)し。貞に安んずれば吉。


坤(こん)の時は大いに成就する。メス馬のように、主(あるじ)に順うがよい。脇役の君子には、進むべき道がある。


先頭に立てば道に迷い、主(あるじ)に仕えれば、生涯の仕事に巡り逢える。西南(故郷)に居る時は家族や友達を大切にする。東北の地に赴けば(故郷を出れば)家族や友達と別れるが、それが進むべき道である。迷うことなく、脇役に徹すれば、幸を得る


○地勢(ちせい)は坤(こん)なり。君子以(もっ)て德を厚くし物を載(の)す。


大地に大地が重なるように、万物を、その上に載せている。これが坤の形。脇役の君子は、陰德を厚く積み上げて、あらゆるものを包容(ほうよう)する。


(占)人に当て嵌めれば、身体を養う衣食住だけ考え、心の德性に目を向けない。このような人は、貪るように人から奪い取っても、汚らわしいとは思わず、卑しくケチ臭い性格で、恥知らずである。この卦は本来「凶」ではなく、その人が無知蒙昧だから、物事に迷って凶運に至るのである。それゆえ、何事も調和することを心がけ、柔順に剛毅で明朗かつ見識のある人に随い、その教えを守れば、何事も成就するようになる。


○坤は「動静」の「静」の時。「静」であることが何よりも大切。


○人から命令を受ける。 ○人に使われる。 ○大勢の人と共同して利益を追求する。


○器量に欠ける時は凶。 ○急速に事を計ってはならない。


○人に先んずることなく、遅れて行なうことは、柔順にして吉。


○万事、命じられて行なうがよく、自ら進んで行なうことはよくない。志を守ることができない人は凶。 ○自分の職分を守って、妄りに動き求めなければ吉。


○散々苦労して、ようやく成功する。 ○大衆。 ○倹約。 ○卑賤で愚鈍。


○農家は田園を守って(本業を守って)、他の仕事をうらやましく思ってはならない。


○物価は安くなるので、買うと利益を得られる。 ○吝嗇。 ○偏執。


○柔和・温厚・安静・順直・謙譲・恭敬・貞節・丁寧など全て吉。


 


初六 ■■■■■●


○初六(しょりく)、霜(しも)を履(ふ)みて堅氷(けんぴょう)至る。


初霜(はつしも)を履む季節が来れば、やがて堅い氷が張る厳寒の季節が到来する。


小さな悪事を見逃せば、初霜が堅氷に至るように、やがて大きな悪事に至る。


(占)善悪の分かれ道に立つ時。善に進めば慶びと幸せを得るが、悪に進めば大きな災いを招く。小さな事が大きな事に発展する時。よくよく戒めなければならない。


 




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仮説と定説と真実

孔徳秋水氏のブログ記事だが、氏が元教師であることは初めて知った。
なかなか面白いことも言っているが、「自分が信じられないことはデマ!」という姿勢も見られる。科学自体が無数のデマの中から非合理的なものや事実に合わないものを削ぎ落すことで発展してきたのであり、デマはいわば「仮説」なのである。意図的に詐欺を目論むデマももちろんある。
科学論文のほとんどはただの仮説である、ということはもっと知られていい。で、現在主流となっている論(定説)も、単に「現在の主流である」に過ぎない。ただ、その説を用いると現実世界との整合性が高く便利だから主流となっているだけだ。
たとえば秋水氏は「地球温暖化説」や「二酸化炭素温暖化犯人説」などをデマ、詐欺だと認識しているだろうか。それとも世界(欧州世界)の多くの学者が天動説を支持しているから、地動説はデマ! とした中世の科学者のような反応をするだろうか。(ただし、中世には純粋な科学者は存在せず、神学者と混在していたようだが。)
私は「定説」を疑う姿勢こそ、真実探求の重要な姿勢だと思う。つまり仮説やデマを頭から否定する姿勢は、単に思想的怠慢であると思う。これは科学者だけに求められるものではない。山上の一発で、安倍の真の姿が白日の下にさらされたが、それまでは安倍信者や自民党信者は無数にいたのである。

(以下引用)
2022-08-13 12:36:13
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「通知表」といえば、通常、五段階の相対評価であるが…


 


具体的に、1~5 までを、どのように配分しているかご存じだろうか?


 


 


「1」と「5」が、上位と下位の、それぞれ5%ずつ…


 


つまり、クラスの10%が、「1」か「5」を配分されている。


 


 


そして、次の上位と下位の15%ずつに、「2」と「4」が配分される。


 


5%+15%=20%……であるから…


 


上位の20%が、「4」と「5」を、下位のやはり20%が、「1」と「2」を配分されるのである。


 


 


すると、残りは?


 


100%-20%-20%=60%


 


過半数の60%に、「3」が配分されるのである。


 


 


つまり…「ふつう」であり、「過半数」であり、「マジョリティ」なのである。


 


 


んで…、「人間の能力や知性」というのは、そうそう単純なものではないとはいえ…


 


偏差値で「輪切り」にされ、集団になると、無視できない「特徴」が明らかになる。


 


 


それで、この「3」を取っている生徒って、どんな生徒かというと…


 


ざっくり言ってだが…高校生になるわけだが…


 


英語の成績が、卒業時よりも入学時の方がよかったりするのである。


 


「生徒指導」をやらないと、だらけてしまったり、想定外のことをやって業務に支障が出るのである。


 


実験なんてやると、マッチがいつのまにかなくなっていたりする。


 


宿題をやってこないので、「外を走ってこい!」って言ったら、喜んで出て行った…ったりするのである。


 


 


「教育困難校」とまでいかなくとも、「ふつう」で、この調子なのである。


 


そして、これが「日本人」の「ふつう」なのである。


 


 


あの…これってさ…「かしこい」?…それとも「バカ」?…どっち?


 


いや…「バカ」でも全然いいんだけどさ…「お勉強が苦手」ってだけなんだからさ…


 


 


要するに、「ふつう」でも、すでに「落ちこぼれ」なわけである。


 


わたしが思うのは…なぜ、自分が頑張れないことを、無理に頑張ろうとするの?


 


それで、がんばっちゃって、みごとそれなりの結果が出せるのならともかくも、結局、ダメでしょ?


 


 


要は、自分たちが「バカ」を差別しており、「バカになりたくない。みられたくない」と虚勢を張る…


 


そして、やはり、できないから、「オレってダメだ」ってなり、劣等感でいっぱいになり、投げやりになる。


 


 


「バカを差別」⇒「自己差別・自己卑下」⇒「負け癖・負け犬根性」…


 


自分の得意なもの、自分が頑張れるものを探して、それをやればいいのに?


 


 


もちろん、大人や政治が、そういう仕組みを用意していないというのもあるのだけれども、


 


たとえ用意しても、


 


国民自身がバカを差別しているから、「平等教育」=「画一教育」の仕組みしか残らない。


 


そして、もちろん、そうなれば「落ちこぼれ」が増えて卒業させられなくなるので…


 


…「選択」ということになる。


 


 


まんべんなく一般教養を、きちんとひととおり習得させるということを初めから放棄している。


 


だから、多くの国民の学力が「中二レベル」で止まってしまうのである。


 


 


この10年間で、ネットもマスコミも、格段にレベルダウンしてきている。


 


 


たぶん、「世代交代」しているせいもあるのだろうが…


 


昨今のネットやマスコミの雰囲気が、


 


教師時代の教室の雰囲気に、やたらと似てきている感じがするのだ。


 


 


マジメにやっているように見えても、


 


テストをしてみると、まるで理解できていない…


 


そもそも「話を聞いていない」…


 


 


自分がわかっていようがわかっていまいが、まるでカンケーナイ。


 


つけっぱなしのテレビを、ぼーっと眺めている、その調子で教室で座っているのだ。


 


 


そして、テストだけは合格したいので、「暗記」と「宿題」で格好をつけて卒業する。


 


実質には、「教育を受ける権利」などと言いつつ、生徒自身がそれを放棄しているのである。


 


 


…にも拘らず「権利が~」と…


 


日弁連の存在によって日本の教育が崩壊したと言ってもよい。


 


日弁連以外にも、マスコミなどが、テロリスト並みに日本を破壊してきたのだ。


 


 


その当時の教室の雰囲気がそのまんまネットに出てきているということは…


 


「落ちこぼれのクソガキ」のまま、大多数が「おとな」になってしまったわけである。


 


 


「社会に出たら、わかる」、「一人前になる」と信じてインチキで彼らを卒業させてきた…


 


それを「生徒を救う」ことだと多くの教師は考えていたみたいだが…


 


それは、前回述べたように詐欺である。


 


もっと言えば、公文書改竄である。


 


な~んも「成長」させていないで給料だけはもらっている…


 


まあ、教師とは、「刑務官のようなもの」と割り切ってしまえば、詐欺でもないのだろうが…


 


 


教師時代、ふと、こうしたことの「居心地の悪さ」を感じていたのだが、


 


むずかしい話になるので会話も弾まない…


 


…で、まあ固い話はともかく、まあ飲めや、それで、あの件はどうなったの、こうなったの…


 


 


いまはもう、とっくに教師ではないので、ある意味、すがすがしいが、それでも…


 


あ~、結局、この問題は、ここまできちゃったのか……という、失望感?というのかを感じるのだ。


 


 


「落ちこぼれ」のまま、「低学力」のまま、


 


それを誤魔化しつつ、大人になってしまったいまの日本人…


 


もうちょっと、なんとかならなかったのかねぇ~


 


 


だから、「永久機関」でググれば、ネットにも「永久機関は存在しない」という解説動画はあるというのに…


 


ずっといつまでも「フリーエネルギー」なんてものを信じている…


 


まるで、統一教会信者のごとき人々…


 


 


直近は、「反ワクチン」デマである。


 


「ワクチンを打つほど感染しやすくなる」というデマである。


 


小学校6年生でも、ちゃんと解説すれば、理解できる生徒は、5%程度はいるというのに…


 


大の大人が、ま~、いっしょうけんめい「ワクチン危険」、「マスク危険」というデマを流している。


 


まあ一説に、コロナワクチンのリスクは、インフルエンザワクチンの100倍というのはあって、


 


それは当ブログでも否定はしていないが、それは「とてもよく効く」ことの裏返しでもある。


 


 


そういうことをネットの連中は、自分がわからないからだろうが、熱心に拡散する。


 


アメブロのスタッフも、これを野放しにしているが、「デマってわからない」んだよね?


 


基礎学力&一般教養がないから!!


 


 


また直近のデマに「広島原爆地上起爆説」がある。


 


米国の研究者が原爆の威力を調査するために現地に入り、爆風や熱線の当たり方を調べ上げ、


 


それらから逆に、地上何メートルの、北緯、緯度何度当たりで爆発したと計算しているのに…だ。


 


 


ひとつでも、デマを流しているブロガーは、何度でもデマを流している。


 


そして、削除されると、それこそ「陰謀だ」、「情報封鎖だ」とわめきたてるのだ。


 


 


こういう種類の「バカ」は、単に「勉強が苦手」というバカとは別次元の差別されるべきバカである。


 


 


教育と学問を嘗め腐ってきた「戦後民主主義」下の日本人…


 


まあ、「なるように」しかならんわな~


 


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新聞と新聞紙

批判的な意味での転載である。
最初は真面目な「マスコミとしての反省」などを書き並べながら、途中のウクライナ戦争のあたりから、「欧米主要マスコミやニュース配信社」発の情報を頭から信じ込んだ内容になっている。つまり、この社説の書き手自体が完全に洗脳された状態であるわけだ。事件の最初の最初から真面目なネット内の政治報道サイトやブログなどを読んでいた人は、ウクライナ戦争の発端が、アメリカの背後操作によるウクライナ政権の交代(クーデター)であり、その後のウクライナ政権が同国東部や南部への弾圧と暴力を繰り返していたことは明白である。そして、NATOの東方拡大によってロシアが挑発を受け続け、我慢の限界に達していたことも明白である。
この社説のどこにもそういう経緯が書かれていない。単に「戦争を始めた者が悪い」くらいの考えだろう。
まあ、マスコミ自身の無知さ愚昧さはもうあきるほどバレているから、おそらくほとんどの新聞は販売力を失っているのではないか。実際、このような愚論を平気で社説として載せている新聞(他の新聞も似たりよったりだろう)をカネを出して購読する理由など無い。これも毎度言うが、ただの紙として掃除などに利用するだけである。あの大きさで吸水力のある紙というのは、なかなか便利なのである。昔は、弁当を包むのに必須アイテムだった。
昔の新聞紙条例の「新聞紙」は、今の新聞と同じ意味だが、「紙」が強調されているためやがて「新聞がみ」などと呼ばれて情報主体の意味の「新聞」と区別されたのだろう。今の新聞に情報源としての価値が無いなら、ただの新聞紙(がみ)だ。
せめて、娯楽読み物でも載っていたらマシなのだが、娯楽性もほとんどゼロの新聞が多いと思う。編集する側が本質的に頭が悪いので、優れた娯楽性のある作家を発掘できないのである。

(以下引用)



 
 
 
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 炎天下、聞き取れないほどの音量で叫ぶ街宣車と、大勢の警察官の警備を抜け会場に入った。打って変わり、白を基調にした穏やかな空間が広がる。先日、京都市で開かれた「表現の不自由展」だ。


 時間ごとの入場で人数を制限しているとあって、約20点の作品をゆっくり鑑賞できた。絵画や写真、オブジェ、空間アートが語りかける作者の思いは、外の喧噪(けんそう)と比して拍子抜けするほど静かで、通奏低音のように響く。テーマは天皇制や従軍慰安婦、福島第1原発事故、原爆などさまざま。受け止め方も人それぞれだろう。


 痛恨の歴史を忘れず


 政治的な理由で過去に出展が中止された作品などを集めたという。3年前、愛知県の展示では集中的な抗議で一時中止になった。今回も会場を伏せ、事前予約者にだけ伝える形式にした。騒ぎがなければ、誰もが気軽に多様な表現に触れ、考える場になったろう。


 私は正しい。異論は許さない。国の愛し方は一つだ。主張を受け入れないのなら攻撃し続ける。


 こんな一方的な「正義」を振りかざした強硬な言動が、じわじわと広がってはいないだろうか。その道を突っ走った先に何があるか。歴史を振り返った時、見えてくるのは悲惨な光景である。


 アジア・太平洋地域の国と人々に甚大な犠牲を生み、310万人の日本人が亡くなった戦争に敗れ、きょうで77年。あまたの死を無駄にせぬよう、不戦と自由を守り続けてきた日本だ。未来へ引き継ぐ責任を、今を生きる私たちは背負う。痛恨の過去を胸に刻み、変化にも冷静に、互いの知恵と言葉を交じり合わせ、このかけがえのない平和を守り続けたい。


 インターネット空間では他者への誹謗(ひぼう)中傷、差別や犯罪を助長する言葉があふれ、歴史や科学からかけ離れた思い込みや陰謀論も目に飛び込んでくる。


 メディアの表裏認識を


 情報過多の一方、正しく読み解く力がないと危うい環境だ。検索履歴などから自動的に類似の情報や意見が集まり、泡のような心地よさに包まれる「フィルターバブル」効果。好みのグループ内で賛同だけが反響し増幅する「エコーチェンバー」効果。そんなネットの仕組みが、偏った考えに凝り固まる風潮に拍車をかける。


 深まった社会の亀裂には不安が入り込みやすく、時に強い力を求める声が高まる。歴史学者の貴志俊彦京都大教授の近著「帝国日本のプロパガンダ」は、戦前の日本が他国の横暴さと自国の強さを流布し、アジアの解放など身勝手な正義を肥大化させた経緯を伝える。やがて他国の正義とぶつかり、無謀な戦争に突入する。


 プロパガンダ(世論誘導への政治宣伝)の主軸は新聞だった。国家総動員法や新聞紙法などで統制されたとはいえ、「国家の宣伝機関」と化して虚偽の戦勝報道を重ねた歴史は、本紙も含め報道機関が忘れてはならない過ちだ。


 今また権力者がメディアを操作し、蛮行を重ねている。今年2月、ウクライナへの侵略を始めたロシアのプーチン大統領である。


 「ロシア系住民の保護」「自衛のための軍事作戦」と強弁し、民間人の大量虐殺や原発への攻撃など戦争犯罪を繰り返し、核兵器の使用まで示唆する。国内では高い支持があるとされるが、密告や盗聴による監視、ネット規制による海外報道の遮断など情報操作の影響と専門家は指摘する。一方で独自に正確な情報を得た知識層や若者の国外流出も伝えられる。


 メディアはプーチン氏の虚偽を暴き出してもいる。SNS(交流サイト)や衛星画像を駆使し、専門家や調査報道機関などが主張の矛盾を突き、ウクライナ側は虐殺現場を発信して国際世論を結束させている。社会の分断も統合も、人がメディアをどう使うかで左右される時代である。


 力だけで守れぬ平和


 問われるのは多様な情報と、それを支える表現や言論の自由、異なる考えを抑え込まない寛容と自制にほかなるまい。


 専制主義を強めるのはロシアだけではない。香港の民主主義を力でつぶし、台湾統一を掲げる中国は先日も大規模な軍事演習を展開し、日本を含む東シナ海周辺での圧力を強めた。


 こうした中、日本世論調査会の全国郵送調査で、日本が今後戦争をする可能性があるとした人と、ないとした人はほぼ半々だった。一昨年は「ある」が3割。ウクライナ危機の影響とみられる。


 岸田文雄首相は先の参院選で憲法改正を主張し、防衛費の倍増や、ミサイル発射前に敵基地などをたたく「反撃能力」の保有も視野に入れる。だが、それが本当に日本の平和を守る道なのか。周辺国との軍拡競争や、偶発的な衝突の恐れが高まるだけではないか。


 先の世論調査で、戦争回避に最も重要と思う手段は「平和に向けた外交」が32%と最多で、「戦争放棄を掲げた憲法の順守」が24%と続いた。浮足立つ政治より、多くの国民は地に足をつけて考えているようだ。


 戦争を起こすも止めるも人間。敗戦から平和を築いた歴史を鑑(かがみ)にメディアや情報と向き合いたい。







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