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政治の役目は何かを描いた「ミネソタの娘」

アマゾンプライムビデオの「ミネソタの娘」(原題は「農家の娘」だろうか)だが、民主主義のお手本のような映画である。1946年の作だから、太平洋戦争が終わってまだ1年しか経っていないころの作品だ。まだ若く健全だったころの理想的アメリカの姿が見られるが、同時に政治の腐敗はこのころから水面下にはあったことも分かる。悪徳政治家役の役者の顔がまるで甘利みたいで笑える。この映画は政治を題材として、しかも面白い。フランク・キャプラの政治映画より面白いかもしれない。とにかく湿気が無く明るい。
主演のロレッタ・ヤングはさほど美人ではないが、アメコミ漫画のキャラのような顔で、見ていると味が出て来る。エセル・バリモアがジョセフ・コットンの母親役で、実に貫録がある。執事役の俳優は知らないが、これもいい。脇役が上手い映画はだいたい名作である。ジョセフ・コットンは毎度のジョセフ・コットンである。そこがいいわけだが。

(以下引用)
小麦農家の娘が家政婦に雇われた議員宅で働くうち、思いがけず自らも政治家を目指すというサクセス・ストーリー 。フランク・キャプラの作品を思わせる展開に、温かさと微笑ましさが感じられ、ロレッタの可愛らしくコミカルな演技も秀逸。彼女はこの作品で、アカデミー賞主演女優賞獲得。

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日本人と宗教

日本人の宗教観についてのスレッドの中で、下のふたつのコメントは秀逸だと思う。前者は、まあ常識だろうが、後者は私が漠然と感じていたことを見事に言語化している。
前者のコメントも、日本に無数の宗教が混在していながら平和な秩序があることを明確に説明している。
そこで、「カルト」とは要するに社会的に有害な宗教を意味し、実際問題としては法に触れる行為がそこで行われているものだ、という端的な定義ができるわけである。つまり、カルトを禁じることはけっして困難なことでも何でもなく、それができないのは国会議員の中にカルト関係者が無数にいるからだということも分かる。



(以下引用)

■ 日本人の宗教観は理想的だよ。
  何故あえて特定の宗教を信仰しないといけないんだ?
  神に祈ったり、その存在を信じるのはいい。
  だけどそれを実践的な宗教にする必要があるかね。
  いや、宗教を信仰してる人を否定してるわけではないんだ。
  だけど多くの争いが起きるだろ。 ブラジル




■ 日本人が神社やお寺に行ってお祈りまでしても、
  それは宗教的なことだとは言えない。
  彼らはそこで先祖を追悼して、敬
意を表してる
んだよ

  先祖は旅立ってしまっても、忘れられることはなく、
  受け継がれるものとして家族の中に残っていくんだ。 アメリカ

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ノスタルジア

野原ひろしの半生の中で、高校生のひろしが女生徒とそれぞれの自転車を並べて歩いているシーンのすぐ次に、ひろしがひとりで自転車を押しているシーンがあり、それだけで何があったか分かるという演出が素晴らしい。



ななしさん
劇中でかかる懐かし曲のチョイスもいいよね
ななしさん
曲名分からないけどケンチャコが昭和の街に戻った時のデュエット曲がちょい物悲しくて雰囲気にぴったりだったな
ななしさん
>曲名分からないけどケンチャコが昭和の街に戻った時のデュエット曲がちょい物悲しくて雰囲気にぴったりだったな
白い色は恋人の色
だな
いい曲だよ

https://youtu.be/L7v_2Ob-q_E

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アメリカの教師の給与はなぜ低いのか

私はめいろまは嫌いだが、これは重要な指摘をしていると思う。
アメリカの教員の給料の安さは日本ではあまり知られていないが、アメリカの映画やテレビドラマなどで分かる。
なぜ教師という重大な仕事の給与がそんなに安くて、しかもそれがなぜ改善されないのか、というと、そこに現実の「反知性主義」が存在するのではないか、と思う。アメリカ人はself-made manを尊敬し、学者や教師を尊敬しないという風土があると私は思っている。それが反知性主義だ。要するに「勝った者が偉い」という「勝てば官軍」主義の裏面だ。手段がギャンブルだろうが暴力だろうが詐欺的商売だろうが、成功した人間を尊敬するわけである。かつてはキリスト教道徳が存在したが、信仰に基づく道徳は、信仰の消失とともに消えるのが当たり前である。
要するに、教師は尊敬される仕事ではないから給与が安くて当然、という思想が教師の低給与の根底にある、というのが私の推理である。知識があろうが、喧嘩が弱い人間に何の価値がある、という思想と言ってもいい。まあ、西部開拓時代から続く精神性である。こういう土壌では女性は、男と肩を伍して「力(権力や能力)」を誇示するか、性や欲望の対象としての価値が第一になるだろう。それが、幼い女の子まで「セクシー」さが魅力の基準と考えるキチガイ思想になる。女性は表面的に大事にはされるが、本質的には差別対象だろう。もちろん、日本のほうがマシかどうかは分からない。どちらも一長一短なのではないか。
思い出したが、「スタンドバイミー」の中で、主人公の親友が学校に納めた(女教師に渡した)カネを、その女教師に着服されて傷ついた、というエピソードがある。その場面では観客の誰しも(脚本家の意図どおり)その女教師を憎むだろうが、しかしこういうフィクションの事件が観客にとってリアリティを持つその背景には、教師の給与の安さという現実があったと思う。

(以下引用)
谷本真由美 (めいろま) 「世界のニュースを日本人は何も知らない3」発売中
@May_Roma
生活苦のアメリカの公立学校の教員。48歳のキャリアの長い先生の年収は680万円ほどだがアメリカの物価高で生活は苦しい。バイトや売血で生活費を捻出する人もいる。教員の給料は他の産業に比べても特に安く、看護師であれば 年収1千万円を超える
time.com
'I Work 3 Jobs And Donate Blood Plasma to Pay the Bills.' This Is What It’s Like to Be a Teacher in...
Millions are fighting in a wage crisis centuries in the making

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色即是空

物の存在というものは、観測されて初めて存在が確認・証明されるわけで、聴覚の無い人には音は存在せず、盲目の人には色は存在しないのと同様である。とすれば、知覚の主体である私というものが存在しなければ、世界は存在しないと言っていい。つまり、「僕だけのいない街」ならぬ、僕だけのいない世界だ。もちろん、世界が存在していることを我々は常に実感している。おそらく、その世界は自分が存在しなくても実在しているだろう。しかし、その世界はその中に存在しない私にとっては無意味であり、実在しないも同然であるわけだ。
「色即是空 空即是色」を理解すれば仏教の本質は理解できたと言えると私は思っているが、それは、単純に「私がいなければ世界は存在しない。私がいれば世界は存在する」意味だと私は解釈している。もちろん、前に書いたように、これは「私がいなければ世界は存在しないと同じことだ」ということである。
厄介なのは「色」という言葉で表されているのが、現代の言葉では「現象」であることだ。現象という言葉の中の「象」は「形」の意味だが、「現象」が示す対象は視覚的な現象だけでないのは誰でも知っている。「色」も同様で、これは「感覚的・直感的にとらえたすべてのもの」なのである。(明治書院「新釈漢和」より)つまり、知覚された現象のすべてだ。

「色即是空 空即是色」とは、「認識の主体である私が存在しなければ世界は存在しないと見做せるし、認識主体である私が存在して初めて、私にとっての世界は存在する」という単純なことだ。
これを「苦」の面から見ると、世界が苦であるのは、私が世界を苦だと見ているからだ、ということになる。我々はそれぞれが「自分の色眼鏡」で世界を見ているわけである。世界は人間が「勝手な意味づけ」をすることで、苦楽の世界になると言っていい。野良犬や野良猫には苦も楽も無いだろう。ただし、彼らが人間より幸福かどうかは分からない。
文化とはそうした「意味づけされ装飾された世界」だとも言える。個人個人としては、その現象への意味付けが過重なものになると不幸になるわけだ。その場合、「空観」をすると精神衛生にいいだろう。つまり、この世界の「空相」を観じるわけである。そうすれば「この世界の空相は不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、故に、空の中には色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」となる。当然、悩みの対象は消滅するわけだ。



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自然災害の半分は「人災」

結局、九州地区だけが今回の台風の最大の被害圏になったかと思われるが、その被害の大きさが判明するのはこれからだろう。
下の記事は、中心部(台風の目の意味ではなく、その周辺)より周辺外部のほうが風が強くなる、という興味深い現象のことが書かれている。
まあ、風速30メートル程度のザコ台風でも、日本の木造建築は耐えられないこともあるのではないか。屋根瓦など「載せてあるだけ」だろう。それに、山を削って造成した住宅地の山側からの土石流や水害の危険性は毎度のことである。だから、そういうのは、くどく言うが「人災」なのである。


(以下引用)

台風14号が近畿地方に最接近 朝に東北を横断 荒天に警戒を


配信

ウェザーニュース

提供:ウェザーニュース



「中心付近」ではない所で強い風

提供:ウェザーニュース



連休明けの通勤通学時間帯に影響の可能性

提供:ウェザーニュース



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軍隊内の上級国民(将官)と下級国民(兵士)

面白い問題提起で、コメントにもなかなか興味深いものがたくさんあったが、コメントは省略。
上級国民の利権保護だろ、という趣旨のものも、かなり納得した。ただし、「長い灰色の線」という映画を見ると、下層階級からでも士官学校に入れたようだ。(これは私の誤解かもしれない。士官学校の体育教官や舎監になることと、学生になることは別だろうから。)
最初から階層が分かれているから、将官は平気で兵士を死地に行かせることができ、平気で死者数を積み上げることができる、という趣のコメントも納得である。



(以下引用)


軍隊って一兵卒として入隊したら、どれだけ昇進しても少尉だったかくらいで頭打ちになるんだったよね?


対して士官学校卒業したら少尉士官から始まる。


当然、軍の上層部には士官学校を出ていないと入れない。


 


この仕組を軍隊のような現実的集団が堅持しているということは、


この仕組が有効であるという証左なんだと思う。


でも、疑問なのは、なぜそうなるんだろう?ということだ。


一兵卒で入隊して、叩き上げ将軍にまでなれる仕組みよりも


学校を出て士官から始めた人たちだけで将軍が占められる仕組み。


なぜ後者の仕組みのほうがより合理的組織がつくられると考えるのだろうか?

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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