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水木しげる讃

原節子に続いて水木しげる大先生も亡くなった。(またしても、昭和は遠くなりにけり、だ。)まあ、竹熊健太郎氏も言うように「大往生」だろう。先の大戦で戦場に行った人たちにとって戦後は「余生」だったのではないか。
水木しげるの生き方には、「生きているだけで儲けもの」という雰囲気が漂っている。と同時に、「人生なんて大げさに考えるほどのものではない」という達観も感じる。リラダンと水木しげるは、人生哲学としては似ているのではないか。
水木しげるの人生訓に多くの人が賛同すれば、この世界から争いは消えるだろう。争いの元である「過剰な欲」を誰もが持たなくなるのだから。もっとも、経済的には絶対に発展しないし、贅沢もできなくなる。つまり、資本主義は滅亡するわけだ。

「人間はめしをくうことのために一生の全部をついやすのです。
その安全のために神経をすりへらし
だれもいきがいのある一生を送ることができないのです」

これは、改めて言われると、その真実性に虚をつかれた思いになるのではないか。至言と言うべきだろう。


(以下「竹熊健太郎ツィッター」から抜粋転載)


竹熊健太郎《一直線》 @kentaro666 5時間前

  1. TLに流れる水木しげる先生の「大往生感」がスゴイ。
  2. 32件のリツイート 28 いいね
  3.  
  1. さんがリツイート
  2. 水木しげる先生の幸福の七ヶ条深いわぁ
  3. 埋め込み画像への固定リンク
  4. 144件のリツイート 159 いいね
  1. さんがリツイート
  2. 水木しげる先生、悲しいけど常にこういうことを仰っていたのでどちらかというと「いってらっしゃい」という気分になる
  3. 埋め込み画像への固定リンク
  4. 9,808件のリツイート 7,375 いいね





(追記)この最後のコマの、何も無いような風景の素晴らしさ! このコマを見て、涙がにじんでこない人は私とは別世界の住人だ。
その時がきたら、「では さようなら」と私もそう言ってこの世に静かに別れを告げたい。




上條淳士@atsushi19630312 12 時間前

では さようなら

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資本家の夢

これ、単純だけど、資本主義の根本的な病を指摘している。あるいは資本主義体制下では永遠に解決不可能かも。で、現在の日本社会(正社員のほとんどを派遣社員に変えていく)は、この思想そのものである。資本家の天国で、労働者の地獄。


(以下引用)




コウタ @kouta2 2015-11-24 23:19:03
「資本家の夢ってなあに?」 「給料のいらない従業員」 #ゆうきまさみで学んだ大切な事

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生きる力と倫理観

例の山口銀行で預金を引き出そうとしたら警察まで来た、という出来事についての「阿**」記事のコメントが面白いので転載する。
この世の人間関係(日常的な部分では、だが)のほとんどは善悪ではなく、「気の強さ・弱さ」で決まっている、というのは事実だろう。気の弱い人間は不当な扱いを受けてもうまく抗弁できず、黙り込み、その不当な扱いを受け入れざるを得なくなる。橋下のように気が強く、口達者な人間が「場を支配する」のである。
まさしく、「気」は「生命エネルギー」でもある。気が強い、とか弱い、というのはそういうことである。ただし、繰り返すが、善悪はまた別である。倫理的な人間は、「欲望を抑制する」ことを是とするわけだから、「生命エネルギーが弱い」はずだ。悪党ほど気が強い。


(以下引用)


7. 2015年11月29日 16:24:16 : v1gbxz7HNs : Ay&h0DQyQEc
警察と聞いてビビるところが理解できない。その場に他の客がいるというなら話が早い。俺なら大声でやっぱり破綻の噂は本当やな!いくら破綻の噂が立っているからと言って貯金の引き出しも解約もさせないとは何事や!引き出し制限は取り付け騒ぎになってからにせい!と怒鳴りまくる。

この世の中は難しく、ややこしい人間ほど丁寧に特別に扱われる。
トラブルを恐れ礼儀正しい善い人ほど粗略に扱われ損を押しつけられる。

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文化の伝承と伝播

原節子が今敏に影響を与えて「千年女優」が生まれ、「千年女優」がハリウッド監督のギレルモ・デル・トロに影響を与える。優れた文化はそうして国籍や年代を超えて受け継がれるものである。
日本映画界の駄目な点は、そういう「文化の継承」「先輩や古典への尊敬」が欠如しているところだ。あの「世界のクロサワ」でさえ、日本の映画評論家や三流監督(新宿二丁目の居酒屋にたむろしているような連中)からは散々に悪口ばかり言われていたのである。

なお、私は「千年女優」よりは「パプリカ」がより好きだが、その「パプリカ」の中には、ハリウッド映画のパロディ、あるいはオマージュ(賛辞的引用)がたくさん入っている。これが文化の相互浸透である。経済界のグローバリズムが「先進国大衆の貧困化」「搾取構造」を生むのとは異なり、そういう意味での国際交流(相互影響)は良いことだ。
黒澤明は世界的に影響を与えているが、彼はジョン・フォードに大きな影響を受けているし、その他の古典映画からも影響を受けている。たとえば、「影武者」のワンシーンは、「会議は踊る」へのオマージュだ、と彼自身はっきり言っている。(初見でそれに気づいた観客は数少ないと思うが、私はその一人であったことが自慢である。ww)



ゆうき まさみ @masyuuki 11月26日

  1. 「マスト見るべし」と言っておられる。
  2. 47件のリツイート 16 いいね
  3.  
    1. さんがリツイート
    2. ギレルモ・デル・トロ監督は亡くなられた原節子さんが今敏監督の『千年女優』に影響を与えたことをご存じだったか。そして『千年女優』が大好きらしいという。そういう監督さん、外国にも多いなあと思うと改めて惜しまれる今敏監督の不在。
    3. 367件のリツイート 185 いいね
    4.  

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酔生夢人のお勧め作品リスト

これも昔書いたもので、青少年のための読書案内というか、お勧めの作品リストである。
もちろん、大人が読んでも面白いはずだが、私と好みが合わない人には無意味なリストだ。
思いつくままに書いたリストだから、抜け落ちはたくさんある。
だいたいにおいて、リスト上位ほどお勧め度は高いが、下位の作品を軽視していいわけではない。それぞれ、読んだ後、時間をムダにした、という思いしか与えない最近の大量生産作品の何万倍もの価値があるのである。どんなに上手く書かれていても、「読むのは時間のムダ」という作品が、なぜかあるもので、私にとっては推理小説の大半はそうだ。トリックのために人物がある、というのでは、ただのパズルである。(ホームズ物は、あれはホームズという超魅力的な人物を楽しむ物語だから、私は大好きだ。チェスタトンには「奇想の驚き」や文章の魅力があるから、これも良い。)
なお、トルストイやドストエフスキーは全作品に価値があると思うが、私はもちろんそのほんの一部しか読んでいない。かなり「腹もたれ」するので、若い頃でないと読めないかもしれない。
まあ、読む本が無くて退屈だ、という人は、下の「大衆文学」か「短編集」あたりが、まずはお勧めである。ネットばかりやっていても雑情報が増えるだけだが、いい本を読めば知性の質や、感情(情操)、つまり人格というか人間そのものが少しレベルアップします。すなわち、「カルティベート」されるわけで、頭の表層を流れるだけの情報と、心を耕す教養はまさしく違う、ということだ
なお、サマセット・モームの「世界の十大文学」と、夏目漱石の「文学評論」は、文学評論として最高に面白いものである。

大島弓子は「綿の国星」より、初期短編に優れたものが多いが(山岸涼子も同様)、読む人を選ぶような作品なので、ここでは普通の人に受け入れられそうな有名作品を選んだ。まあ、絵柄だけで最初から拒否反応を起こす人もいるだろう。リストに入れるのを忘れていたが、川原泉などもそうである。





世界名作文学・長編



1 戦争と平和(トルストイ)            11 罪と罰



2 カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)     12 悪霊



3 トム・ジョーンズ(フィールディング)      13 白痴



4 高慢と偏見(オースティン)           14 アンナ・カレーニナ



5 デイビッド・コパフィールド(ディッケンズ)   15 従妹ベット



6 白鯨(メルヴィル)               16 ドン・キホーテ



7 赤と黒(スタンダール)             17 ガリバー旅行記



8 ファウスト(ゲーテ)              18 パルムの僧院



9 ゴリオ爺さん(バルザック)           19 西遊記          



10 レ・ミゼラブル(ユーゴー)          20 水滸伝



 



名作中短編



1 虚栄の塔(マルキ・ド・サド)   11 じいさんばあさん(鴎外)



2 カンディード(ヴォルテール)   12 人面の大岩(ホーソン)



3 冷たい方程式           13 野ばら(未明)



4 アルジャーノンに花束を(キース) 14 虔十公園林(賢治)



5 みずうみ(ブラッドベリ)     15 茶碗の中(八雲)



6 最後の一葉(O・ヘンリー)    16 お春(八雲)



7 マテオ・ファルコネ(メリメ)   17 菊花の約(秋成)



8 春の鳥(国木田独歩)       18 白夜(ドストエフスキー)



9 黄金虫(ポー)          19 サンチマンタリズム(リラダン)



10 夢十夜(夏目漱石)       20 クロイツェル・ソナタ(トルストイ)



 



大衆文学



1 風と共に去りぬ(ミッチェル)  11 虚無への供物(中井英夫)



2 夏への扉(ハインライン)    12 白衣の騎士団(ドイル) 



3 Yの悲劇(クイーン)      13 後宮小説(酒見賢一)



4 吾輩は猫である(漱石)     14 長い道(柏原兵三)



5 竜馬が行く(司馬遼太郎)    15 冬の旅(立原正秋)



6 さぶ(山本周五郎)       16 陽の当たる坂道(石坂洋次郎)



7 富士に立つ影(白井喬二)    17 エジプト人(ミカ・ワルタリ)



8 宮本武蔵(吉川英治)      18 グイン・サーガ(中島梓)



9 ライ麦畑でつかまえて(サリンジャー) 19 銀河英雄伝説(田中芳樹)



10 赤毛のレドメイン家(フィルポッツ) 20 十三妹(武田泰淳)



 



長編漫画(短編連作含む)



1 火の鳥(手塚治虫)       11 ストップ!兄ちゃん(関谷ひさし)  



2 寄生獣(岩明均)        12 ハリスの旋風(ちばてつや)



3 エースを狙え(山本鈴美香)   13 柔侠伝(バロン吉元)



4 テレプシコーラ(山岸涼子)   14 ヒカルの碁(堀田ゆみ・小畑健)



5 じゃじゃ馬グルーミングUP!(ゆうきまさみ)15 惨殺者(小島剛夕・梶原一騎)



6 トーマの心臓(萩尾望都)    16 夢幻紳士冒険活劇編(高橋葉介) 



7 よつばと!(あずまきよひこ)  17 タッチ(あだち充)



8 綿の国星(大島弓子)      18 さよなら絶望先生(久米田康治)



9 カムイ伝(白土三平)      19 おおきく振りかぶって(ひぐちアサ)



10 喜劇新思想体系(山上たつひこ) 20 エロイカより愛をこめて(青池保子)



 



児童文学など



1 不思議の国のアリス     11 ロビン・フッドの冒険(中野好夫訳)



2 鏡の国のアリス       12 足長おじさん(ウェブスター)



3 わがままな巨人(ワイルド) 13 小公女



4 泣いた赤鬼(ひろすけ)   14 トワイス・トールド・テールズ(ホーソン)



5 クリスマス・カロル(ディケンズ)15 坊ちゃん(漱石)



6 ドリトル先生アフリカ行き  16 若草物語(オルコット)



7 赤毛のアン         17 銀河鉄道の夜(賢治)



8 秘密の花園         18 どくとるマンボウ航海記(北杜夫)



9 小公子           19 パンドラの筺(太宰治)



10 星の王子さま       20 海底二万海里(ヴェルヌ)



 



短編集



1 SFカーニバル(ブラウン編)     11 ウェルズ短編集    



2 十月はたそがれの国(ブラッドベリ)  12 サキ短編集 



3 月を売った男(ハインライン)     13 リラダン短編集



4 怪談(八雲)             14 ロアルド・ダール短編集



5 雨月物語(秋成)           15 ジョン・コリア短編集



6 筒井康隆の初期短編集すべて      16 O・ヘンリー短編集



7 アシェンデン(モーム)        17 メリメ短編集



8 コスモポリタン(モーム)       18 プーシキン短編集



9 シャーロック・ホームズの冒険(ドイル) 19 F・ブラウン短編集



10 チェスタトン短編集          20 黒後家蜘蛛の会(アシモフ)


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仏教と儒教の功罪について

だいぶ前に書いた文章だが、せっかく書いたものを埋もれさせておくのも勿体ないから、ここに掲載しておく。





仏教と儒教の功罪について



 



 東洋人の精神に仏教と儒教が深い影響を及ぼしていることは言うまでもないが、その功罪を正面から論じた文章はあまり無いように思われる。もちろん、キリスト教の立場などから仏教を批判した文章は幾らかあるだろうが、そうした批判は党派的立場によって不公正なものになっているはずだ。ここでは、仏教にも儒教にも、あるいは他宗派からも独立した立場で、仏教と儒教の功罪を論じてみたい。



 仏教と儒教のいずれも、善を勧め、悪を禁じて、人に社会道徳を教え、社会の秩序を守ることに寄与していることは周知の事実である。その違いは、儒教は「怪力乱神を語らず」に、(来世や神仏という前提無しで)、ただ善を守り悪を為さないことが人として生きる正しい道である、としているのに対し、仏教は来世や極楽を前提としているという違いである。学問のある士大夫には儒教でいいが、学問の無い一般庶民には、来世や極楽・地獄の存在によって脅して善行に向かわせるのが効果的であっただろう。



 要するに、仏教も儒教も、民衆に対する社会道徳教育の一手段であったのである。為政者から見れば、法や刑罰という外面的規範によって悪や秩序破壊的行為を禁じることと並行して、仏教や儒教で内面的に人をコントロールすることが必要だったのである。つまり、内面の段階で人々が悪を思いとどまれば、それに越したことは無いのである。



 これは必ずしも批判すべきことではない。悪というものは、生の目的である欲望の成就手段ではあるが、破壊的手段であり、周囲の人間関係やコミュニティに大きな害を与え、長い目で見れば本人にとっても利益にはならないことだからである。(悪のこうした不利益を明確にした哲学書を私は読んだことがない。哲学書などというものが、いかに無用の談議ばかりかが分かろうというものだ。)



 そのように仏教と儒教のメリットの面を見た上で、ではそのデメリットは何かと言えば、それは、社会秩序そのものの持っている欠陥から目をそむけさせ、批判精神を失わせてしまうところにある。東洋文明が西洋文明に大きく遅れを取ったのは、仏教と儒教によって精神が眠り込んだからではないか、と私は思っている。



 まず、仏教では、因果論によって、問題が個人的な道徳のみに限定されてしまい、この世で栄華を誇っている貴族や富裕層は前世での善因の結果であるからと許容され、自分が被っている社会悪(生まれによる差別など)も、自分の前世での悪因の結果であるからと受け入れさせられる。つまり、社会悪への怒りが、為政者や富裕層への反抗とはならないのである。そして、来世での善果の為にちまちまとした善行を積み重ね、この世では報いられぬまま、無駄に一生を送ることになる。これで、来世が無ければ、まったくのお笑いである。いや、善行それ自体の価値は否定しないが、本人が来世で極楽に生まれ変わる気でいたら、それは仏教に騙された一生だったということになるだろう。親鸞などは、それでもいいのだと言っているが、よいはずがない。



 儒教もまた社会秩序維持の手段として利用されてきたのであり、特に「君に忠、親に孝」という2点が社会の道徳的基盤となってきた。この「道徳」が為政者にとって、そして家庭の父親の権威にとっていかに都合の良いものであったかは言うまでもないだろう。この2点を守らせるだけで、社会は簡単に維持でき、そして、目上への反抗はまったく生じないことになるのである。すなわち、社会体制は、為政者や上位層が望まない限りけっして変革されないことになる。



 こうして、「東洋の停滞」が長期に渡って続いてきたのである。



 以上が、仏教と儒教の功罪である。そして、人々が仏教も儒教も信じなくなり、かと言ってキリスト教を信じるのでもなくなった現代において、社会道徳はまったく失われ、人々は自分の人生は自分の欲望達成のためにある、と言わず語らずのうちに信じて、様々なエゴイスト的行動を取っている。自分の友人や家族だけは自分に必要だから、そうした身近な人間に対してだけは悪いことはしないが、心の底では、なぜ悪を行ってはいけないのかと思っている。もちろん、必要な場合は悪を行っていいとほとんどの人間は思っているのである。



 それが間違いだとは言わない。道徳はもともとコミュニティの秩序維持のために生まれたのであり、生存や快楽のための欲望の達成が悪と言われるなら、それを禁ずるいわれはない。だが、2000年あまりかけて人類が人間となりながら、再びモラルの点で野獣レベルに戻ることが果たして正しいのかどうか、よく考えねばなるまい。



 悪はそれを行う当人に利益を与えるから、善(良き物)である、というのがプラトンの『国家』におけるトラシュマコスの議論だったが、それを論破するにはどうすればいいか。しかし、これはまた本稿とは別の問題だから、(その基本は既に述べてある。つまり、悪を為すことで当面の利益は得られても、長い目で見れば、悪は当人にとっての不利益にしかならないということだ。その不利益の最大のものは、精神的な孤独である。悪を為す者は、周囲の人間の愛情を求めることはできないだろう。なぜなら、彼または彼女は周囲の人間にとっての敵だからである。ならば、悪党同士の愛情を信じるか? それも無いとは言わないが、あまり楽しいものではないだろう。)稿を改めて論ずることにしたい。


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民族や国民としての「無意識(潜在意識)」

「播州武侯祠遍照院」に載っていた文章の一部である。「国際秘密力研究」というサイトもしくはブログの文章らしい。
全体的には私には理解するのが難しい仏教哲学の話で、ほとんど斜め読みしただけだが、私が興味を持っている「阿頼耶識」の部分だけは興味深く読んだ。
阿頼耶識とフロイトの「無意識」はよく似ている、というのは誰でも思うことだろうが、フロイト理論の欠点と私が思っている「性的抑圧」や「性的衝動」への偏執という部分への批判がここでは適切になされていて、そこも面白い。実際、人間の無意識的欲望は性的なものだけではない。暴力や殺人や破壊への欲望もあれば、創造への欲望もある。動物的本能だけではなく、その人間の属する社会によって植え付けられた「文化的偏向」も、その無意識の中にある。つまり、あらゆる「種子」が無意識の中に取り込まれ、それが「現行」となり、「現行」もまた「種子」となっていくという無限運動が人間の精神生活なのである。
「阿頼耶識」説は、フロイト説より優れた説だと言えるだろう。もちろん、フロイトの功績は、「無意識」の存在を広く知らしめたところにある。
ユングの「集合的無意識」は、逆に話を「人類全体の共通の無意識」と広げすぎたために、これも間違ってしまったようだ。これが、「民族や国家の集合的無意識」ならば、それは確実に存在する、と私は思う。それこそ、民族や国民という概念の土台ではないか。我々は日本人としての無意識によって常に思念させられ、判断させられ、意思させられ(「思念し、判断し、意思し」、ではない!)、行動しているのである。
これが、先日書いた文章中に引用した「国体の本義」の抜粋部分に相当するだろう。
さて、そうした日本人としての無意識は、古来から受け継がれてきた「日本語」や「日本文化」というローカルなものから生まれる。日本というローカルを否定すれば、日本人ではなくなる、ということだ。(当たり前の話である。)で、現在の安倍政権や新自由主義者が進めている国際化というものが「日本否定」行為であることは言うを待たないだろう。つまり、彼らは反日主義者である、という結論になる。(笑)
今の自称右翼諸君の好みはAKBなどであり、日本の古典や日本文化や日本語を守る、という話はまったく出て来ないのである。橋下などに至っては、古典文化を憎悪すらしているようだ。



(以下引用)



次に②の「阿頼耶識説」について述べる。

阿頼耶識とは、五感=前五識=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識 と
第六意識(主に言葉を伴った認識を担う)の根底となる深層心理のことである。

この説も元々は大乗仏教の瑜伽行者の体験が元になっているらしい。
近代で現れたフロイトやユングの深層心理学のはるか以前の古代インドにおいて
既に深層心理が発見されていたのが興味深い。

この阿頼耶識の阿頼耶とはサンスクリット「アーラヤ」(ālaya)の音写で、
「蔵」という意味である。
何を納める蔵かと言えば、人間が、考え、話し、行動(身・口・意)した時に生ずる影響力の
残滓=種子を蓄える貯蔵庫のようなものとされる。

人間が何かを、心の中で考え、言葉を使って話し、身体を使って行動する、
その影響力が阿頼耶識=深層心理に蓄えられる(現行熏種子)。
そして一端蓄えられた影響力は、阿頼耶識中で刹那滅しつつも相続する(種子生種子=種子の非実体性=空)。
そして蓄えられた影響力の残滓は機縁を得て新たな行動として表面化する(種子生現行)。
行動し、行動力の影響力が深層心理に残り、その影響力がしかるべき機縁を得てまた行動となる。
人間存在をこのサイクルとして捉える。
これが「阿頼耶識縁起説」である。

現行熏種子・種子生種子・種子生現行のサイクル=阿頼耶識縁起

これが阿頼耶識説の要諦である。要するに、行動とはその場限りのものではなく、
確実に深層心理に影響を残すから、一瞬一瞬の「こころ・言葉・行動」のあり方に
気をつけよ、という実践哲学と言える。
一瞬一瞬の行動が善であれば、それだけ阿頼耶識を清め、
一瞬一瞬の行動が悪であれば、それだけ阿頼耶識を汚す。
だから常に自分の表層意識に気を付けて、自らの行動を戒めていかなければならない、
そういう趣旨のようである。


これは全く神秘なところは無い、ごくごく良識的で理に適った教えという気がする。
体験的にも、日ごろ思っていたり、繰り返している行動が咄嗟の場合にも無意識に
出てきたりする。一瞬一瞬になされた行動の積み重ねが自分自身の人格を形成していき、
良くも悪くもなるのは確かだと思う。気を付けたいものである。

これは陰謀追及の視点からも応用できる。「洗脳」の問題である。
洗脳とは基本的に潜在意識をターゲットになされる。
それは単に言葉による刷り込みだけではなく、映像や音楽を使った刷り込みなど
媒体は多岐にわたる。食物や薬物による味覚を通じた刷り込みも洗脳の一種と言えるだろう。

こう考えると、洗脳は潜在意識をターゲットにするとは言うものの、
潜在意識を支配する為には、「五感」という「関所」を通らねばならないことに
気付く。さらに五感のみならず、五感と共に働いたり、五感と無関係に働いたりする、
表象作用や思考作用など仏教の認識論で言う「第六意識」も潜在意識に至る「関所」である。
(五感と共に働く意識を「五倶の意識」、五感と無関係に働く意識を「独頭の意識」と呼ぶ)

つまり、潜在意識への支配を防止するには、五感と思考(前五識と第六意識)を通じて
入ってくる情報に常に気を付けておくことが重要になってくると思われる。
見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしたことの影響力が
もれなく潜在意識に影響を受け付けるのだとしたら、潜在意識を汚され、支配されない
ためには、常に六識のあり方に気を付けることがシンプルだが着実な道だと思われる。
(古来これを「六根清浄」と言った。「六根清浄」は現代においては洗脳防止の指針に
なりうる標語であると思う)

最古の仏典スッタニパータから引用する。


1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」


「気をつけること」と言われると「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれないが、
このシンプルな戒めこそ、「煩悩克服」のみならず、「洗脳防止」のための普遍的な
指針であり、金言に思えるのである。参考にしてまいりたい。
確かに、一瞬一瞬気を付けていれば、刷り込み洗脳の侵入する余地はない。
とはいえ、無意識の内に誘導してくるのが洗脳のプロなので、
なかなか難しいことだが、指針として心がける事が重要であると思う。
現代人は常に心理戦の脅威にさらされているという事を忘れるべきではない。

ちなみにだが、この唯識で言う阿頼耶識と、フロイトの深層心理学でいう「無意識」、
ユングの分析心理学でいう「集合的無意識」の違いについて述べておく。

まずフロイト心理学の「無意識」との違い。
フロイト心理学でいう「無意識」とは、理性とは対立する、抑圧された欲望が渦巻く
何か衝動的なカオスとして捉えられている。
多少語弊があると思うが、どちらかと言えば理性の力で制圧・制御されるべき「悪」として規定される。

一方、唯識の「阿頼耶識」は、そのような善と悪という価値からは中立な「無記」の性質とされる。
善行を行なえば善の種子が、悪行を行なえば悪の種子が植えつけられ、その植えつけられた
種子の性質に応じて清められたり、汚れたりする、とされる。
しかし、阿頼耶識そのものは善でも悪(不善)でもない無記性なのである。
阿頼耶識がもし善ならば、人間は善しか行わないから、悪を行なうことは無いはずである。
(従って、仏になろうと修行努力する必要が無くなる。)
阿頼耶識がもし悪ならば、人間は悪しか行わず、善を行なうことは不可能である。
(従って、いくら修行しても仏になることはできないから無駄な努力という事になる。)
このいずれも人間のあり方と矛盾する。人間は善も行えば、悪も行うからだ。
心の根底である阿頼耶識を「無記性」と規定するからこそ、善を行ない、悪を避ける
倫理的実践の根拠が得られると考えるのである。これは大変理に適っていると思う。

フロイトの理論には、フロイト自身の心の病理や、
フロイトが主に診療した患者が(恐らくキリスト教的モラルに
よって)性的抑圧を強いられていた19世紀末のオーストリア社会
の上流階級の女性だったことが影響を与えている、という趣旨の解説を
読んだ記憶がある。この説明が正しいとすると、理論構築の原点に
特殊な文脈が存在するのかもしれない。
その点を差し引くとフロイトの理論は必ずしも普遍妥当的とは
言えないように思う(もっとも「理論」というのは皆そういうものであるが)。

唯識の理論からすれば「性的抑圧」なるものは、「現行熏種子」の
一つに過ぎず、たとえば、性的抑圧以外の権力欲や名誉欲、
金銭欲あるいは暴力衝動、闘争心などが強く、その欲望を抑圧している人だったら、
フロイトが診療した患者とは別の説明が可能かもしれない。
抑圧と言っても必ず表層意識によって繰り返しなされたことが
深層心理に影響を与える(現行熏種子)わけだから、
常なる表層意識のあり方如何によって深層心理のあり方も決定される、
という唯識の考えの方が、なんでもかんでも性的抑圧で一元的に説く
ように見えるフロイト理論よりも合理的に見える。人間の中に渦巻く
「欲望」というのは多様なのである。唯識はそれを冷静に観察している。
(ちなみに唯識では、六つの根本煩悩との二十の随煩悩を数えている)

次にユング心理学の「集合的無意識」との違い。
ユングは個々の人間の心理の根底に人類全体に共通する「集合的無意識」があるとする。
これは人類という種レベルの一つの根底的無意識の想定である。
一種の形而上学と言えるだろう。

唯識の「阿頼耶識」はこれとは異なる。「人人唯識」と言って、あくまでも阿頼耶識は
個人個人の深層心理であって、個人を超えた共通の無意識のようなものとは性質が
異なる。個人個人のなした心の働き・言葉の働き・身体の働きの影響力を留めるのが
阿頼耶識とされているから、当然、阿頼耶識は個人単位のものなのだ。

そもそも「集合的無意識」は「個人的無意識」とは違う、人類共通の「元型」が備わっている
という想定だが、これは五感には対象を感受する能力が人類に普遍的に備わっているし、
意識には表象能力や判断能力が備わっているわけであるから、これらも「人類に共通」と言える。
(どの民族にとっても聴覚は「聞く」機能を持ち、民族によって言語は様々あれど
言語能力が備わっていること自体は共通している)
従って、集合的無意識というのを敢えて立てなくても、人間の意識現象には「人類に共通」の
形式が備わっていると言える。だが、現象としてはあくまでも個々別々の意識現象である。
何が「共通」なのかと言えば、あり方、法則、機能といういわば「理」が共通なのである。
事=現象、理=法則であり、理においては共通でも事においてはあくまでも個別なのである。
これは華厳の四法界説を取り上げた時に言及した。
集合的無意識という「人類に共通の無意識」を立てる発想は、事と理の峻別をせず、
理の同と事の異が同時に成立する事を見誤ったがゆえにたてられた説だと考える。
かりに「集合的無意識」のようなものがあったとしても、「人類に共通」というのはあくまでも
他の五感や表層意識と同じように「理」においてであって、「事」においてはあくまでも個別のものだろう。
(例えば、母なるものをふっくらした土偶でイメージしたり、父なるものを老賢者でイメージする傾向。
そのような「理」としては共通性があったとしても、実際にイメージしたり、潜在的イメージを
保持したりするのはあくまでも個々の意識・無意識=事である。
もっとも実際にはこのようなイメージは文化的な文脈に依存すると思われる。
ある人間が生まれた文化共同体によって繰り返し刷込まれた共同主観的イメージ。
これもまた「現行熏種子」の機制と言えるかもしれない)
そうでないと、形而上学的実体としての「一者」を立てる新プラトン主義のような形而上学説になる。
理の共通性に過ぎないものを事の共通性とはき違えるとオカルトになる。

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酔生夢人
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趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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