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「妖異太平記」(プロローグ)

プロローグ

貞和(じょうわ)二年七月十九日、仁和寺にひとつの不思議があった。
ある諸国往来の僧が、嵯峨から京へ出たが、にわかに夕立に遇って、仁和寺六本杉の陰に立ち寄った。雨が晴れないまま日が暮れ、行く先不案内で恐ろしかったので、「よし、それなら今夜は御堂の傍らででも夜を明かせばよい」と思って、本堂の縁側に倚りかかって座り、静かに念誦して心を澄ましていると、夜が更け、雨上がりの空に月が出てきたが、風が一吹き過ぎていったので、何だろうかと虚空を見上げると、愛宕山の方から、四方を簾で覆った輿(こし)に乗って、お付きの者が多数その前後を囲んでいる人々が上空に集まって、この六本杉の梢に居並んだ。
それぞれの座が定まった後、杉の梢に引いた紅い幔幕を、風が颯と吹き揚げた座敷の様子を見ると、上座には先帝の御外戚、峰僧正春雅が、香染めの衣、袈裟に水晶の念珠を爪繰って座っておられる。その次には、南都智教上人、浄土寺仲円僧正が、左右に座っておられる。
皆、昔見申し上げた姿と異なり、眼の光が尋常でなく、唇が尖って鳶の嘴のようである。
この僧は、これを見ると夢のようでありながら、しかし現実であったので、呆然として、自分が天狗道に落ちたのか、魔障に目を遮られたのかと目も離さずに見守っていると、また比叡山から五緒車の鮮やかなものに強壮な牛をつなぎ、雲に乗って来た人がいる。車の足掛けを踏んで降りるのを見ると、兵部卿親王(大塔宮)がまだ天台座主であった時のお姿である。
先に座を設けていた人びとは、皆、席を立って拝礼し、親王の前で再三の礼をする。
その後、坊官と思われる者が銀の銚子に金の盃を添え、親王の前に参上した。親王は盃を取って三度お飲みになり、盃を置かれると、峰僧正以下、それに倣う。しかし、皆沈鬱な顔である。
しばらくしてから、同時に「あっ」と叫ぶ声がして、人々は手を挙げ、足を折り曲げ、頭から黒い煙を出して、転げ回ってひどく苦しみもだえるのであった。
少し時間が経つと、人々は、飛んでいる蛾が火の中に飛び込んだように焼け死んでしまった。ああ、恐ろしい。これが、鉄の球を夜昼三度飲むという天狗の世界の苦しみなのだ。と、思い当たって見ていると、四時間ほどして人々はみな生き返りなさった。

峰僧正が、苦しげな息を吐いて、「それにしても、この世の実権が武家の手に落ちて、それをどうすることもできないのは業腹だ。何とかしてひと騒動起こさせて、先帝(後醍醐天皇)の御霊をお慰め申し上げたいものだ」とおっしゃると、仲円僧正が進み出て、
「それは簡単なことでございます。まず、佐兵衛督直義(ただよし)は女犯戒を厳しく言いながら、実は自分自身は女犯の罪を犯しています。そのくせ『自分ほど仏道の戒律に厳しい者はいない』と自惚れている男、そこが付け目です。大塔宮様は、その直義の内室の腹に依託して男子として生まれ、世の人の心に悪意を含ませなさるがよい。また夢窓国師の兄弟弟子に妙吉侍者という僧がおります。さほど学問も無いのに、世の中に自分ほどの学者はいないと自惚れておりますが、この慢心こそが我らの付け目。峰僧正はその心に入れ替わって、僧の身でありながら政道をその手に握るようにし、直義を邪悪の道に進ませるようなさりませ。」云々と言う。
「これによって、直義兄弟の仲が悪くなり、師直が主従の道に背いたなら、天下は大いに乱れるでしょう。そうなれば、しばらくは面白い見ものが楽しめるでしょう」
この言葉に、大塔宮を初め、我慢、邪慢の小天狗どもまで「まったくそのとおりだ」と賛成して一同、どっと笑って、幻のように消え去った。


 (「太平記」巻第二十五「天狗直義の室家に化生すること」より、一部改変)


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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