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語りえないものは語りえない

「人は語りえないものに対しては沈黙を守らねばならない」

小説の中で天才や超人を描く小説家が天才や超人でないことは確かである。ではなぜそれを描けるのか。それは、そこに描かれたものが天才や超人の内面や本質ではなく、その外貌にしかすぎないからである。たとえば困難な事件の答えを「神のごとき名探偵」が示してみせたとき、読者はその名探偵の天才性を信じる。だが、これはもちろん、それ自体がトリックなのであり、その探偵は他の登場人物たちとは異なり、作者が知っていること、すなわち事件の真相を彼だけが特権的に知っているにすぎないのである。そのような天才を描く作者もまた天才に見えるという付随効果もここにはある。推理作家というものは頭が良さそうに見えるのである。
さて、以上に書いたのは、「我々は自分が持たないものをも持っているかのように語ることができる」ということを言うためである。
冒頭のウィトゲンシュタインの言葉は「語りえないものを語る人々」への嫌悪の表明であり、自らへの戒めだったと思われる。すなわち、神について語る人々、たとえばニーチェなどがその対象として考えられるが、ポパーが言うように、「反証可能性」の無いものについての議論は科学の対象にはならない。つまり真面目な考察の対象にはなりえないのである。神についてのあらゆる言説は反証可能性を持たない。したがって、いくらでも好きなことが言えるのである。神を否定する議論もまた同様だ。
そういう思考者の節度を述べた言葉として、ウィトゲンシュタインのこの言葉は理解できるが、論理的に言うならば、実は人は語りえないものに対しては語りえないのであって、語りえないならば沈黙するしかないのである。つまり、この言葉は「ねばならない」という当為の形式で述べるのは間違っているということになる。我々はウィトゲンシュタインのあの天才的な風貌の写真に騙されて、これを深遠な言葉のように思うが、これは案外と気分的な言葉にしかすぎないのである。

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事実の言語化

自分が見たものや聞いたものを完全に記憶できたら、素晴らしいだろうな、とよく思うのだが、それ以前に、自分は物事をどれだけきちんと見たり聞いたりしているのかと考えると、非常にこころもとない。自分が物事をきちんと見ていないのは、たとえばスケッチなどをしてみようとすると、すぐに分かる。物事を正確に見るというのは、なかなか大変な作業なのだ。カメラでパチリと写すというような具合にはいかない。そして、見たものを映像のままで記憶に残すのと、言語化して残すのとでは、また違う作業になる。
小説家などは、映像の言語化の達人たちである。もちろん、自然音声の言語化の達人でもある。深沢七郎が、「自分は絵が描きたいのだが、その能力が無いので、文章で絵を描いているのだ」と言ったことがあるが、視覚や聴覚を言語化するのは、普通の人間ではなかなかできないことである。
聴覚の言語化の天才は宮沢賢治、味覚の言語化の天才は東海林さだお、視覚の言語化の達人は、いろいろいそうだが、これが最高だ、という人間は思いつかない。というのは、我々が文章を読む場合、それぞれの頭の中でそれぞれに違ったイメージを作りながら読んでいるので、甲の人間にとっての最高の作家が、乙の人間にとっての最高の作家だとは限らないからである。
19世紀の小説家は、情景描写に工夫を凝らしたものだが、現代の読者はそうした情景描写を読む手間さえも面倒臭がる。そういう時代的相違というものもある。すぐれた作家の情景描写の特徴は、読んでいる人間が分かったような気分になるところにある。実際、それがどんな情景かは、実はあいまいなことが多いのだが。

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話し手の得意顔のこと

前の記事への補足をする。
「蘊蓄話」への嫌悪は、そういう話をする時の話し手の得意顔がいやなのだ、とも考えられる。それならば、納得できる話だ。
私が嫌いな作家の中には、やはりそういう「書き手の得意顔」を感じさせるという人がいる。多芸多才な人間で、ある種天才的であることは確かだが、「自分が思うほど天才ではないよ」と言ってやりたくなるのである。
小説で一番大事なことは、読んでいて楽しいことや、読んだ後の後味の良さであり、小説としての高度さや上手さなどは読者にとっては二の次三の次だと私は考えている。そういう点ではその小説家は私が読みたくない小説家だ。
蘊蓄話への嫌悪には、そういう話し手への嫌悪があるとも考えられる。

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蘊蓄話への嫌悪と劣等感

昔、職場の同僚に若い女がいたが、その女が何かの雑談の時に、「自分は他人の蘊蓄話を聞かされるのが大嫌いだ」というようなことを言ったのを聞いて、ひどく驚いたことがある。世の中にそういう人間がいるとは想像もしていなかったからだ。彼女の言う「蘊蓄話」がどういう意味合いのものかまでは聞かなかったが、他人から蘊蓄話を聞かない限り、こちらの教養も知識も増えないのではないだろうか。
もちろん、彼女の言う「蘊蓄話」とは、「役にも立たない知識」という意味かもしれないが、そうだとしてもそれが役に立つ知識かどうか、簡単に決められるとは限らないだろう。たとえば、私が聞いた中で一番役に立っている知識は学校で教わった数学や物理や化学の知識ではなく(その女性は理系の女性だったから、わざとこう言うのだが)父親から聞いた言葉である。それは「ソバを食べるのに、噛む必要はない。丸呑みしていい」という言葉である。それまで私はソバを食うのに口の中で何度も噛んで食べていて、この世にソバほどまずくて食いにくいものは無いと思っていたのだが、ソバの食い方を知って以来、大好物の一つとなった。
あの女性は「蘊蓄話」をされると、自分の知的劣等性を思い知らされる感じがして嫌だったのではないかと私は想像している。だが、あらゆる向上は、まず自分が劣っているという正直な認識から始まるのである。他人が何かの点で自分より勝っていても、別に劣等感を持つ必要はない。他の点で自分が勝っているところもあるはずなのだから。

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E.M.フォースターの言葉(続き)

(イギリスにおける「反逆煽動法」の議会成立に際して)
(この法律に対して)強い抗議がよせられたにもかかわらず、その事実は新聞でもBBCでも報道されませんでした。抗議は無駄ではなく、原案の比較的危険な条項は委員会に上程中に撤回されました。この種の法律は、政府が危急の場合にそなえて用意しておくもので、ただちに使おうというわけではありません。それにもかかわらず、効果は即座に現れます。ある印刷業者が平和主義的な児童書の印刷をことわったという噂がありました。この本が軍人の手にわたって、反逆を煽動したとされては困るというのです。この印刷業者はあまりにも臆病です。しかし、必ずこういうことになるのであって、またそれがこの種の法律を制定するときの狙いなのです。一般大衆は何となく怯えて危うきには近づくまいとするようになり、行動でも発言でも、ものを考えるにも、いつもより控えめになります。このほうが、法律を現実に行使する以上のほんとうの弊害なのであります。心理的な検閲が成立して、人類の文化遺産を歪めることになるのです。(「イギリスにおける自由」より)

酔生夢人注:官僚による心理的民衆支配の例として掲載。これは戦時中のイギリスの事例だが、現代の日本でも同様の手法の民衆抑圧は定期的に生じている。(下線は酔生夢人による)

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E.M.フォースターの言葉から

E.M.フォースターの言葉

「老人はたいてい愚かなものだが、賢いばあいでもその英知を伝えることはできない。語るのは老人の口で、聞くのは若者の耳なのだから。」(「老年について」より)

「民主主義は能率優先の体制によくあるように、国民をいばる人間といばられる人間に分けたりはしない。私が憧れる民衆とは、感受性がゆたかで新しいものを創り出したり何かを発見したりはしても、権力の有無など考えない人びとである。そしてこういう人びとに活躍の場が与えられるのは、どこよりも民主主義国なのだ。」(「私の信条」より)

「イギリスにはファシズムの危険はあまりありません。われわれを脅かしているのは、それよりももっと陰湿なものーー私に言わせれば「持久的ファシズム」とでも呼ぶべきもの、合法的な仮面をかぶった専制政治の精神でありまして、これが目立たない法律を成立させたり、局部的な圧制を是認したり、国家として秘密を守る必要を強調したり、ラジオで毎晩「ニュース」と称するものを甘い声でささやいて、ついには反対意見を手なずけたり、たぶらかしてしまったりするのです。」(「イギリスにおける自由」より)

以上、フォースター「老年について」(みすず書房 小野寺健編)から

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なぜ人はブログを書くのか

このブログを始めたのは昨日からだが、自分の書いた文章が、まがりなりにも公の目に触れる形になって現れたのを見るのは、やはり面白い。たとえ、読む人が数名しかいなくても、まったく他人の目に触れない形で机の中に文章を死蔵しておくのとは違いがある。自分の存在を人に知られることの不都合というものは十分に知ってはいるが、それと同時に、自分の生きた形跡をこの世に残したいという欲望も人間にはあるということだ。
私自身、他人のブログを沢山読んできて、それらのブログによって充実した時間を得、新しい知識を与えられてきた。
自分と同じ感性を持った人間でもいいし、まったく違った感性の持ち主でもいいが、我々が普段会う現実の人間との対話とは異なる別次元の対話がそこにはある。つまり、本を読むのが作者との対話であるというのと同じ意味で、ブログは、世界中の有名無名のすぐれた人々との対話の場なのだ。
ブログは確かに、ただの自己顕示欲発揮の場に堕する可能性もあるが、巨大な知のるつぼにもなる可能性を持っている。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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