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あまり世間を騒がせるもんじゃない

昨日から世間は意味不明の「ヒッグス粒子」のことで騒いでいるので、井口博士が何か解説してくれるかな、と期待していたが、まだ書いていない。そこで、「In deep」からヒッグス粒子の意味ではなく、「ヒッグス粒子報道の意味」を説明した文章を転載する。
まあ、たいていの科学記事というか、「何かが発見された(らしい)」という記事はたいていが大学や研究所の予算獲得のための宣伝活動である、ということだ。マスコミもそれが分かっているくせに、ニュースの無害な埋め草で、場合によっては「科学的詐欺ビジネス」にもつながるので大いに協力するわけである。どんなものであれビジネスが拡大することが社会上層部にとっての「最大善」なのだから。
ついでに、「ローマの歴史」(I・モンタネッリ著)という面白い本の一節を紹介する。

「メルクリウス(夢人注:マーキュリーのこと)。商人、弁論家、泥棒の守護神。ローマ人はこの三種の職業を同一視していた。」

経団連や橋下がメルクリウスを信仰しているかどうかは知らない。


(以下引用)

というわけで、またどうでもいい話から始まりましたが、帰ってみると、CERN のニュースは確かに大きく報道されているのですが、その見出しを見て、「またか」と、思いました。




ヒッグスに関しては「永遠にこの繰り返し」でもいいのかも


ヒッグスに関しての報道は見られた方も多いと思いますが、これらの見出しが並びます。




「発見か?」
「~とみられる」

という文字が続きます。

英語だと下のような「99パーセント、ヒッグスに違いない」などが並びます。




実は一昨年からずっとこの繰り返しなんですが、なんとなく不思議な感じがしませんか?

つまり、普通の、他のいろいろな科学の発見で、「~と見られる」とか「発見か?」とか「ほぼ間違いないと思われる」というような暫定段階での研究成果がこんなに大きく報道されることがあるでしょうか。

普通だと、科学的発見というのは、

「確定」

ということになって、大発表になるはずだと思うのです。

報道では、




CERNは統一見解で、暫定的な結果としながらも「新粒子を観測したことは画期的で、その意味は非常に重要だ」と強調。年内にもヒッグス粒子かどうか確定するとの見通しを示した。




とあり、「暫定的」と自ら述べて、さらに、「年内にも確定」と、確定していないことを宣言しています。


それがどうして、こんなに大きく報道されるのか。

その理由はいくつかあると思いますが、ひとつは報道側が、この「新しい神の登場」の重大性をあまり意識していないということもあるかもしれませんが、それよりも「何らかの強力なプッシュ」はあるのだと思います。

プッシュというか、「報道してほしい」と。

どうしてか?

どうして暫定結果を世界的報道としなければならないのか。


ここからは否定的な意味で書くのではなく、こういうことはすべての科学の研究には必要なことなんですが、「予算の確保」なんです。 CERN は世界で最も大きな予算を編成している科学組織で、年間予算は大体 800億円~1000億円くらいです。

下の収支は10年くらい前のものですが、以後も大体同じような予算です。スイスフランで書かれてありますが、非常に大ざっぱにというと、この数字に「億円」をつければ、桁としての大体の目安となると思います。




これを見ると予算のほとんどが「加盟国からの分担金」でまかなわれていることがわかると思います。つまり、単独運営をしている組織ではないのです。

コトバンクの CERN には以下のようにあります。




この分野の実験的研究には巨大な粒子加速器が不可欠であるが,加速器の建設には莫大な費用がかかるので,アメリカとソ連以外の国は単独ではこの負担に耐えられない。




この「加速器」とある中の、LHC というものには2兆円などの莫大な予算がかかっています。

上に「ソ連」とあるのは、CERN が創設された 1950年代はロシアは旧ソ連だったからですが、上にあるように、この CERN というのは、各国から予算を集めて運営している組織です。

しかも、それでも赤字を計上したりしていて、とにかく、お金のかかる実験をしているのですが、いずれにしても、「成果を出し続けていかなければならないという宿命」を負っています。

1000億円といえば、南太平洋あたりの小国の GDP にも匹敵する金額で、決して小さいとは言えない額です。

特に資金を出している主体がヨーロッパの国々です。
それで、「今年は何の成果もありませんでした」というわけにはいかない。
現在のヨーロッパの経済的問題は書くまでもないと思います。

場合によってはユーロ崩壊などとも言われている中で、どこかの国の誰かが、

「CERN へ金出すのをやめればいいんじゃないか?」

と言ってそれを実行したら、他の国も追随してしまうわけで、そうすると CERN は機能しなくなってしまうのです。さすがに、今の経済状態の中で、科学研究に単独で 1000億円を出せる国はあまりないはずです。

なので、それを避けるために、 CERN は成果を発表し続けなければならない。
次々とノーベル賞クラスの発見をしなければならない。

そういうあたりが、暫定的な発表に繋がっているのだと思います。
正直、心情はよくわかります。



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自分の思い通りに生きること

「マドモワゼル愛」さんのブログの今日の日記に素晴らしいことが書かれているので、転載する。
私は(愛さんには申し訳ないが)星占いなどはまったく信じていないが、占いというもの自体は有益だと思っている。それは、人が迷う時、あるいは自分自身の思考の枠の中に閉じ込められて打開の道を見つけられない時に、占いの言葉で新しい思案や発想が生まれたり、あるいは新しい道に踏み出す勇気やきっかけを与えられることがあるからだ。
要するに、「思考のガイド」の一つ、発想法のアイテムとして占いを使えばいいのである。通常の「マインドマップ」などの方法だと、思考素材が自分自身の通常の思考の内部に限定されているので、飛躍的発想は生みにくい。そこに「異物」を投入すると思考に飛躍性が生まれるわけだ。占いもその一つと考えればいい。ただし、占いを絶対視する人間には、こうした占いの使用法は不可能だ。
さて、マドモワゼル愛さんは、占い師としてというより、優れた見識を持った人間として私は高く評価している。世界政治や経済の見方が、優れているのだ。
そして、ここでは人生の生き方についても素晴らしい言葉を書いている。

ほとんどの人間の人生は、実はそのほとんどの時間を他人のために生きている。特に仕事はそうだ。労働というものは基本的に自分の時間を金のために切り売りすることであり、社会の中で生きるためには、それは仕方がないのだが、それが人の心をどんどんすさませる。ひどい場合には仕事のストレスから自殺したりする。
しかし、労働と遊びは実は行為自体は同じものである。プロ野球選手はシーズンオフにはゴルフをするが、そのゴルフは彼らには遊びだ。しかし、プロゴルファーにとってゴルフは仕事である。同じ行為が一方では遊びになり、一方では仕事になる。
はたして仕事とは何なのか。
会社経営者は自分のやっていることを仕事だと言うだろう。だが、私などから見れば、これほど楽しい遊びはないだろうな、と思う。モノポリーをして遊ぶより、大会社を経営する方が楽しいに決まっている。
各都市の市長は自分のやっていることを仕事だと言うだろう。それがつらいなら、やめればいいではないか。その後を継ぎたい人は無数にいる。
本当に仕事と言えるのは、苦痛に耐えることが絶対的に付随している活動だ。つまり、世間一般の社会の中下位の人々がやっている仕事こそが仕事なのだ。
もちろん、社会のお偉方にも「責任逃れ」とか「恫喝」とか「演技」とか、いろいろ仕事はあるだろうが、それで何億円もの報酬が貰えるのだからいいではないか。その辺のホームレスを東電や関電の社長や会長にしたほうが、よほど誠実な会社経営をするのではないか。
いや、話が脱線した。
本題に戻ろう。「仕事」とは苦痛を伴うのがお約束なのだが、生きるためには仕事をするしかない。それならば、せめて自分のやりたい事をやる、というのが賢い生き方というものである。しかし、たいていの人間は賢くないから、「他人のために生きる」ような仕事を選んでしまう。
もちろん、仕事とは世間の需要に応えるためのものだから、すべて「他人のため」という面はある。問題は、自分のやっていることにまったく充実感が得られないような仕事を、それ以外の仕事を選べるにも関わらず選んでしまう、という場合だ。
そこで、これから人生に本格的にスタートする若者は、いや、人生に悩んでいる人なら誰でも下のマドモワゼル愛さんの文章を熟読するとよい。自分の今後の生き方について、大きな手がかりと勇気を与えられるだろう。

(以下引用)


小学生の低学年の頃、「路傍の石」という小説が映画化されて学校で見に行きましたが、丁稚奉公の主人公がひどくいじめられるのが、我慢できず、私は映画館からの帰り道に「あんなところ出て行けばいいんだ。死んだっていいじゃないか」と、ぶつぶつ言っていたことをよく覚えている。友人たちは、「かわいそう、、、かわいそう」と言っているので、さらに腹が立って「死んだって、出て行った方がいいんだよ」と。

私自身、何の実力も実績もないのに、強い独立心と希望があるだけだったが、それでも何とかやってこれて、思ったことがある。

人は独自性で生きて行った方が、本当は苦労もなく、うまく行く、、、ということである。

普通は逆に思う人が多い。何かやりたいけど、安定しないし、自信がないと。しかしそれは嘘である。一般の道にこそ危険があり、罠があり、罠にはめられたことさえ気づけなくされている。

人はなぜ違った顔、形で生れてくるのだろう。それはその人の独自性を天や地が求めているからだ。
なので、独自性を生かして生きて行こうとすると、必ず、その人のための人生が切り開かれていく。そこには、安全も、報酬も、未来もすべてがセットされて用意されている。

こんな簡単な開運法はない。

勝手にやりなさい。本当はそれでいいのだと思う。どうせ、人のため、、とか、家族のため、、、とか言い出すと、結局は何ひとつ責任のとれない人生に逆になる。

いやいやながら安定を求めたところで、安定が得られる道理もないのだし。

勝手にやれば、エネルギーがわいてくる。やることがすべて楽しくなる。自分がやったことだから、潔く責任も取れる。楽しくやるからなぜか伸びる。

もちろん、勝手にやってうまく行かない場合も多いが、その際にはそれは勉強になる。次のステップに生きてくる。

要するにいいことづくめ。

みなが楽しく勝手にやっていけば、自然な秩序が生まれて行く。みんなが勝ってにやったらバラバラになってしまうというのは嘘。それは、人を強制して使うことで良い思いをしているサイドからの価値観でしかない。

強制された秩序は収容所的な秩序で、そんなものは、社会にとっての害悪ですらある。

とにかく時代の変化には勢いがついています。その際に、重要なポイントは、独自性にあります。あなたが自分の独自性で行動していく、と決意したときから、あなたの本当の運命の星が働くようになっていく。

独自性がホロスコープであり、独自性を拒否した者には、星は何も語りかけてはくれない。運命学のこうした基本を、これまで語って来なかった責任は私たち運命学者にもある。

あなたはあなたひとりだけの表現、独自性の表現のために生れてきた。その表現の中に多くのギフトもぎっしりと詰まっているのです。それを見ないで年老い、死んでしまうのではあまりにもったいない。
星はあなたのために配置され、あなたのために働こうといつでも用意して待っているのです。



(付録)

今、小田嶋隆のツィッターを見ていたら、先ほど私が書いた記事に縁のある部分があったので、コピーしておく。
そうですか、「日曜大工が趣味の大工さん」もいますか……。


(以下引用2)



小田嶋 隆‏@tako_ashi

大工の趣味が日曜大工だというのは実はよくある話だと思うが。









18時間 小田嶋 隆‏@tako_ashi

不可思議なのは、ギャラの出る原稿の仕事から逃避するためにやっていることが、ギャラの出ないテキストを書くことだったりすることです。じゃあカネが嫌いなのかというと、カネは欲しい。要するに私は義務ということが嫌いなのかもしれない。








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認知症の自己診断法

「きっこのブログ」に面白い記事があったので紹介する。
「きっこのブログ」は著作権にうるさそうなのでコピーするのが怖いが、これは公的機関発行のパンフレットのようだから、コピーは問題ないだろう。それとも、新しい法律だと、これも処罰の対象になるか? 
まず、そのパンフレット内容の「認知症の20の兆候」を転載し、その後でそれを自分自身で確認してみよう。それぞれの項目の後につけた○×が私である。もちろん、マルは当てはまる、バツは当てはまらない、である。



「認知症 早期発見のめやす」

1.今切ったばかりなのに電話の相手の名前を忘れる。(○):セールス電話などね。
2.同じことを何度も言う、問う、する。(×)
3.しまい忘れ置き忘れが増え、いつも探し物をしている。(△):若いころからである。
4.財布・通帳・衣類などを盗まれたと人を疑う。(×)
5.料理・片付け・計算・運転などのミスが多くなった。(△):若いころからである。
6.新しいことが覚えられない。(△):若いころからである。
7.話のつじつまが合わない。(多分○):自分では判断不能。
8.テレビ番組の内容が理解できなくなった。(×):昔よりよく分かる。
9.約束の日時や場所を間違えるようになった。(△):若いころからである。
10.慣れた道でも迷うことがある。(×)
11.些細なことで怒りっぽくなった。(○)または(△):怒りっぽいのは昔から。
12.周りへの気づかいがなくなり頑固になった。(○)または(△):これも多分昔から。
13.自分の失敗を人のせいにする。(○)または(△):これは全人類がそうだろう。
14.「このごろ様子がおかしい」と周囲から言われた。(×?):そう思われているかも。
15.ひとりになると恐がったり寂しがったりする。(×):一人になるとほっとする。
16.外出時、持ち物を何度も確かめる。(△):若いころからそうである。
17.「頭が変になった」と本人が訴える。(○?):ブログによくそう書いているような。
18.下着を替えず、身だしなみを構わなくなった。(△):前半×、後半○
19.趣味や好きなテレビ番組に興味を示さなくなった。(◎):テレビのせいだと思う。
20.ふさぎ込んで何をするのも億劫がり、いやがる。(△):「何をするのも」ではない。

というわけで、この指標の大半に対しては「若いころからそうだったなあ」という結果になった。つまり、私は生得的に老人体質であり、しかも認知症的老人体質であったらしい。そういう人間には、このような指標は当てはまるのかどうか。


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あなたには「長考できる能力」はあるか

*「徽宗皇帝のブログ」に書いたように、私のブログの更新は、今後は数日置きになる予定である。で、その理由は、下記記事にある「長考できる能力」の欠如を痛感しているからだ。思いつきの駄弁をネット上に書き散らすことへの反省も少しはある。まあ、しばらく修行のし直しをしたいということだ。とりあえず、下の記事は昨日のうちに書いたもので、ブログ運営方針の変更の一因である。

「井口博士のブログ」から転載。
世の中の政治経済が面白くない、こういう時だが、下の井口博士のように考えれば、何となく元気も出てくるようだ。もちろん、これは科学者以外の人にも応用できることであって、要は「考えることはタダだ」ということなのである。
何を考えるかは人それぞれだ。金儲けを考える人もいれば、将棋や碁の必勝の手を考える人もいる。女にモテる必殺技を考える人もいれば、色欲から解放されて悟りの道に入る方法を考える人もいる。そのどれであっても、大事なのは「長考できる能力」であり、実は、情報の洪水の中にある現代では、これが一番難しいのである。
たいていの人は15分も続けて同じ課題を考えることはできないだろう。考えているつもりでも、考えがいつのまにかあちこちにさ迷っているはずだ。まあ、受験を控えた学生ならば数学の問題などを1時間も考えることはたまにはあるだろうが、実は最近の数学受験術は「数学の勉強とは出題パターンごとの解法を覚えることだ」というのが主流であり、1時間も同じ問題を考えるのは「時間のムダ」というのが定説化している。つまり、「5分も考えて分からなければ、解答を見なさい」ということだ。受験勉強なら、このやり方は正しいだろう。しかし、それが習慣化すると、我々は一つの問題を長考する能力を失うことになる。(これは「受験勉強は『頭』を悪くする」、と言い換えてもいい)
実際、私もそうである。パソコンの前であれこれ情報を検索しているうちに気が付くと一日がなんとなく終わっている。昔はあれほど読書が好きだったのに、今では本を30分も続けて読むことが難しくなっている。いつもイライラして、もっと有意義な時間の使い方は無いか、もっと有益な情報は無いか、と考えている。
こういう状態は、まずはパソコンを捨ててしまわないと解消されないのではないか、とも思っている。筒井康隆が小説に面白さだけを求める人間を「快楽乞食」と言ったことがあったと覚えているが、現代の我々は「情報乞食」である。「我々」と書いたのは、もちろん、これは私だけのことではないはずだと確信しているからだ。

(以下引用)

この私の観点からすると、科学研究で何より大事な能力とは、「長考できる能力」であるということになる。何年でも平気で考えることができる能力である。これは、何年か前に私が朝日新聞の「私の視点」に書いたことである。

テレビを見れば分かるが、何かをすると時間の制限がある。だから、新聞と比べたら、テレビラジオには報道に制限がつく。これに似て、科学の場合も、大学や研究所の職員になると、自分が考える時間に制限がつく。だから、無限に時間をかけるかのような研究はやれないことになる。むしろ効率よく研究するために、だれもが関心を持っている問題だけに向うようになってしまうのである。したがって、学校の学者や研究者や先生になるには、「長考力」は不必要になる。いらないのである。むしろ、邪魔にすらなる。だから、ブレイクスルーができないのである。

ところが、アルバート・アインシュタイン、トーマス・エジソン、ルドルフ・ディーゼル、バックミンスター・フラー、岡潔、アンドレ・ワイルズ、などなど、初等教育としての、学校教育の有無は若干の差はあったとしても、ほとんどが大学や研究所に所属しないで一人で研究した時に大研究や大発見をなしとげたのである。日本の湯川・朝永にしても、一番良い研究は、まさに戦時中のだれも研究などできなかった時代のことである。こういう比較的自由な時期に自由にそれも長考したことが、大研究の基本だったのである。

そんなわけで、世の中はリストラの嵐で首切られて経済的には大変なのかもしれないが、科学の歴史から見れば、あるいは、人類史から見れば、こういう時にこそ大発見や大研究が生まれるという可能性も非常に高いのである。

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木星の時代が来るか?

工藤明彦という人のブログから転載。占星術を趣味か仕事にしている人のようだが、この記事は占星術とは無関係である。なかなか面白いので転載する。
この前の金星の太陽表面通過が占星術的にどのような意味があるのか知りたくて調べているうちに行き当たったブログである。

下記記事とはまったく関係ないが、占星術の話をする。
私は「星座」を中心とした占星術はまったく信じていないが、宇宙の動きが地球上の人類全体の運命に関係するというのは、面白い考えだと思っている。
西欧の魔法的秘密結社「ローゼンクロイツ」の思想では、太陽系の星々に次の数字が与えられている。
1 土星
2 水星
3 火星
4 太陽
5 金星
6 木星
7 月
である。これらは4の太陽を中心に逆時計回りに並べられる。
したがって、順番的には5の金星の次に来るのは6の木星だ。これは「誠実、正直、保護、拡大、発展」などを表す吉星である。つまり、金星が太陽面を通過したというのは、金星の時代が終わって木星の時代が来る、ということで、金星の象徴する「恋愛、性欲、虚飾、華美、軽佻浮薄」といった20世紀後半の特徴は衰退し、自然で質朴、温和なものが好まれるようになるのではないかと、私は勝手に想像しているのである。
ついでに言うと、金星の前の時代が(4の太陽は中心点なので飛ばすのだから)火星の時代であり、これが戦争の星であること、20世紀前半が戦争の時代であったことは言うまでもないだろう。
なお、この考察は「In deep」中の記事を参考にした。
蛇足だが、少し前に、金星と木星が並んで観測されたそうである。これは金星と木星の交代を意味してはいないだろうか。


(以下引用)


日本の「タブー」
テーマ:西洋占星術

2012年05月08日 11時29分17秒
今日は占星術には直接関係のない記事になります。




昨日久しぶりに新宿へ行き、本とDVDを数点買ってきました。その中の1冊が







川端幹人『タブーの正体!』(ちくま新書)




――― という本です。







「タブー」に関しては以前から関心があり、何冊か読んではいましたが、この本も面白く、昨夜0時に少し読んでみようとページを開いたのですが、3時間かけて一気に読んでしまい、今日は少々寝不足気味です。







この本の主旨は、経営的に追いつめられているマスコミが、「権力者」に対して批判できなくなっている、ということです。







「権力者」には、




①.右翼などの「暴力」を武器とするもの。

②.政治や官僚などの「権力」を武器とするもの。

③.大会社や大手プロダクション、巨大宗教団体などの「経済」を武器とするもの。




などに区分され、それぞれ多くの実例を実名で記しています。










私が記憶しているのは、2001年、SMAPの稲垣吾郎が道路交通法違反と公務執行妨害で逮捕されたとき、講談社系新聞が通常逮捕された容疑者に使う「○○容疑者」という呼び方ではなく「稲垣メンバー」と記していたことです。この時の違和感は今も覚えています。この本が指摘しているように「ジャニーズ事務所に遠慮した」ということなのでしょう。







このような「相手が誰であるかによって態度を変える」ことはマスコミでは常態になっています。マスコミにも事情があるのですが、この本を読むと事情は相当深刻なものです。







この本の著者はスキャンダル雑誌として有名だった『噂の真相』の副編集長だった方です。この雑誌については問題もあったでしょうが、少なくとも、『タブーの正体!』に関して言えば大変よく整理され、具体的に書かれています。「タブー」についての本をまだ読まれていない方には特にお薦めします。電力会社とマスコミの関係についても言及しています。俗に言う「面白い本」ではありませんが、「社会の構造」を知るためには非常に有効な1冊です。
















私は占星術を通して自己認識することの大切さに言及してきましたが、自己認識は「自分のことだけ」に集中して完結するものではありません。多くの人々の生き方を見て、政治、とりわけ社会のあり方を正しく認識することも「自己認識」の要件です。













私が常々違和感を感じているものに、何か事件がおこるとすぐに「集団下校」することです。暴力団の発砲があったといって集団下校し、脱獄囚が出たといっては集団下校する。しかし、そうしなければ子供たちが危険なのでしょうか? 「何かあったら」と言う人もいますが、一体「何がある」というのでしょう。「何かあった」ためしがあるでしょうか? もちろん「万が一」ということはありますが、そんな気が遠くなるような確率を心配するのなら、登校自体やめていまわなくてはならないでしょう。暴力団からの被害に遭う確率より車による被害のほうがよっぽど高いのですから。




いったい誰が「集団下校」を命じるのでしょうか。もちろん「官僚」です。彼らは「万が一の時の責任」を回避するために、こうしたナンセンスなことをするのです。










もう1つどうにかならないものかと感じるのは「テレビのニュース」がどの局も「金太郎飴」のように同じことです。夕方のニュースを見ればどの局も少し大きな事件があればそのことを大きく報道し、あとは「時間つぶし」のグルメコーナー。チャンネルを回すたびに「ゲップ」が出そうになります。けれど、ニュースソースは広い日本、まだまだあるはずです。本当はもっともっと深刻で重要な問題があるにもかかわらず「権力者」を恐れて報道しません。そして相手が弱い立場の人間や会社だと知ると「これでもか、これでもか」とばかりに叩きつづける・・・。







私たちはこうした非常に問題のある社会に生きているのです。食べることにも医療にも基本的に心配のいらない先進国で、都会を歩いていると流行があり、一見明るい印象も受けますが、実は見えないところで「危険」が進行しているのです。













昨日は東京都庁に免許更新で行ったのですが、西新宿にはこ高層ビルだらけです。そのビル群を見ながら感じました。誰がこうした光景を望んだのでしょうか? こうした高層ビルが人間の幸福に寄与しているのでしょうか? 高層ビルは立ちつづけるけれど、私たち1人ひとりは人間として悪戦苦闘がつづくばかりです。もっと他にお金の遣いかたがあったのでは? と感じてしまうのです。










最後に一言。大企業に勤務する皆さん。自分も資本主義発展のために貢献しているのだという感触を持っていたら間違いですよ。私もごく若い頃そう感じた時期もありましたが、それは間違いでした。所詮、サラリーマンは「捨て駒」です。「権力者のための道具」にすぎません。










今日は占星術に関係のない記事になったことをお詫びします。でも、前から書きたかったんです。書けて少しスッキリしました(笑)。










読んでいただいてありがとうございます。


















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梅子の「う」は「ウザい」の「う」

世間は金星の太陽表面通過で騒いでいるが、ここ京都は観測には絶好の快晴である。しかし、サングラスは持っていても「太陽メガネ」(英語では同じサングラスだ)は持っていないので、残念ながら今回は金星を見ることはできなかった。まあ、明けの明星や宵の明星でいつも見ているからいいか。金星が通過中の太陽そのものは見たから、「ああ、今あそこを金星が通っているのだなあ」と面影を偲ぶだけである。
世界では、今度は欧米によるシリア侵略があり、日本では消費税増税に命を賭ける野田が内閣改造をしている。どちらも猿芝居である。(後者は「豚芝居」か)
特に論評したいようなニュースも無いので、のどかな話にしよう。もちろん「梅ちゃん先生」の話だ。
梅子がインターンになってからの話は、どうも低調である。特に梅子がウザい。最初はあんなに好感の持てるいい子だったのに、最近の梅子はおせっかいで無神経すぎる。人生に絶望して心中未遂を起こした女に同情してやたらに構うのだが、そういう状態で他人に構われることがいかにいやなものか、わからないのだろうか。まあ、梅子とはそういうキャラクターなのだ、と作者は考えているのだろうが、ドラマが始まった頃の梅子に比べて、ずいぶん図々しく無神経になったように思うのは私だけだろうか。
救いは、例の頭の固い理系学生の松岡が、その単細胞のままでドクターになり、見事にその馬鹿さを発揮しているところだ。
心中未遂の女に「自殺したくなったら元気の出る本を読みなさい」と言い、それが何かと言えば、カントである。カントの文章がまったく理解できないので、「これを理解するまでは死んでたまるか」という気持ちになるのだそうだ。(笑)
だが、案外、こういう無神経さの方が、梅子のような押しつけがましい同情よりも付き合いやすいだろう、と私などは思うのである。
とりあえず、松岡のキャラだけは健在で、良かった。

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馬鹿梅子に愚劣な男ども

腹の立つニュースが多いので、ここではのんびりした話をしよう。
「梅ちゃん先生」の先行きが私は心配である。脚本を書いている人は、話の先の先まで考えて書いているのかもしれないが、現在進行中のドラマ内容だと、この先に不安が大きい。
第一に、登場人物がみんなアホすぎる。梅子はアホと言うより人がいいのだが、その人の良さはアホすれすれで、特に今回の「死病ノイローゼ」患者の一件は、これは笑って見ていられる内容ではない。実際にこんなおっちょこちょいの医者やインターンがいたら、患者の生命に関わるほどの暴走ぶりである。ドラマ的には「誤解が解けて無事に済みました。この失敗も梅子の成長に役立つでしょう」という結果オーライでこの一件を終わらせたが、現実ならば、このミスは患者の絶望と自殺に結びつきかねない内容である。もしもこのような安易な話の進め方でいいと脚本家が考えているなら、それは考え違いだろう。私はのどかな話、気楽なドラマが好きだが、医学を題材にしている以上、このような安易なドラマ進行は、ちょっと待ってくれ、と言いたい。話が人の生死を扱うかぎり、たとえ喜劇的ドラマとしても抑制と注意深さが必要なのである。そうでないと、「世間を誤らせる」ものになる。
第二に、梅子の周辺の人間どもの性格が悪すぎる。ドラマ作りのために付与した人間的弱点のレベルを超えた、「嫌な奴」、「馬鹿すぎる奴」を朝から見ると気分が悪くなる。具体的には梅子の隣人、安原家のオヤジと息子である。どちらも甘ったれで自分勝手な人間で、こういう人間が隣人ならば、私なら即座に引っ越すというレベルの人間だ。息子のほうは梅子と幼馴染で淡い恋愛感情もあるようだが、こいつも甘ったれの我がまま男で、くだらない劣等感とくだらない自己憐憫ばかりの男で、実にうっとうしい。
好きなドラマの話だのに、悪口や小言ばかりになったのは、私が「不機嫌モード」にでも入ったのかもしれない。
まあ、今後、「梅ちゃん先生」が楽しい内容になっていってくれることを期待したい。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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