忍者ブログ

初心者や新人、新規参入者に冷たい社会

西の京に帰ってきて、すぐにネット接続はできたのだが、NTTからの料金催促状が、ほとんどひと月留守にしていたのに7000円も請求されるという馬鹿な請求額が来ているので、電話契約もネット契約も打ち切ろうかと思案中である。
電話もネットも無ければ無いで私は生きていけるが、それをやめると家族から文句を言われそうなので、とりあえず格安のネット契約でも無いか、探すつもりだ。
まあ、こんな個人的な話などどうでもいいが、人によってはそういう話の方が面白いとか、参考になる、ということもあるかもしれない。
さて、ネット上での話題は相変わらず低調である。今の日本はTPPやACTAや人権救済法案やら何やらで危機的状況にあるが、あまりにそういう状態が長く続いているのでみんな徒労感や倦怠感に捉われているような感じだ。本当は原発事故による放射能汚染もまだ継続中であるのだが、もはや騒いでも無駄、という感じで日本国民は汚染食品を大人しく購入して食べて放射能を体内に蓄積している。乳酸菌やら何やらが放射能に効く、と言われてもイワシの頭を信心するような気にしかなれない。放射能へのあきらめは、日本国の政治的経済的崩壊へのあきらめにもつながり、ある種のニヒリズムが日本社会全体を覆っている気がする。
山科恭介(有名人なので敬称略)がブログをやめるとか言っていて、それも寂しい限りである。沢山のファンのためにも、やはり続けてほしいものだ。ブログなんて、架空の相手とのお喋りなのだから、書いたものに責任など感じなくてもいい、というのが私のスタンスだ。日常のお喋りにいちいち責任を持って発言する奴はいない。そういう気軽なものなのだから、書きたくなければやめればいいし、書きたくなったらまた書けばいい。

実は、下記の文章は昨日書いたものだが、わざわざブログに載せるような文章でもないなあ、と思って没にしかかっていた。しかし、「わざわざブログに載せるほどの文章」など、べつにこれまで書いてもいなかったのだから、書いた時間を無駄にしないために掲載することにする。

私は「考えること」自体が趣味だから、そういう「思考素材」を与えてくれるのなら、世界政治だろうが身近な出来事だろうが、題材としては何でもいいのである。
今日はネット上には面白い話題も無いので、少し足を延ばして、普段はあまり訪問しないブログを訪ねてみた。

「レジデント初期研修用資料」という妙な名前のブログから転載。
研修医のためのアドバイスや感想などを書いたブログで、普通の人が読んでも面白い。筆者は非常に合理的な頭を持っているので、問題の切り口がユニークであることが多く、世の中に罷り通る不合理に慣れ切った人間には新鮮な感じがあるかと思う。
この「オーダー」とは、つまり医者から看護師への「注文」「指示書」だと思うが、その書き方も教えないで「オーダー」を突き返す、というのは、昔の職人世界ではよくあったやり方で、職人世界よりは一見知的レベルが高そうに見える医療の世界でも同じようなものだったんだな、と思う。
そういう不合理、かつ、いじめに近いような行為はどの世界でもあるのだろう。そして、そうした職人世界的やり方をむしろ擁護し、称賛するのが世の常である。案外知られていないことだが、学校の生徒の間では「いじめ容認」の意見が実は多いのである。

学校の部活などでの「先輩への絶対服従」も似たような問題だ。「自分はそうやってきたから、後の者にも同じやり方をさせる」わけである。なぜ、自分はそれで酷い目に遭ってきたから後輩にはそれをやらせたくない、という気持ちになれないのだろうか。

元記事について一言だけ書いておけば、最初に出てきた「オーダー」については、「オーダー用紙」に必要事項を最初から印刷し、研修医が事項ごとに空欄に書き込めば、それで済む話だ。何が必要事項なのかを教えもせずに、それをいちいち突き返すというのは単なる初心者いじめであり、看護師たちのストレス解消手段の一つだったのではないだろうか。それを黙認したままで、改善しようともしない病院上層部の人間的レベルも想像がつく。


(以下引用)

歩きかたと登りかた

研修医だった大昔、患者さんが病棟に上がってきても、オーダーを出すのが大変だった。
ある病名を背負った人に何を行うべきなのか、知識としては一応持っていたのだけれど、それをどうすれば「オーダー」という記法に落とし込めるのか、思うところを書いても、病棟からは「これでは指示を受けられません」なんて突き返されたり、「ふつうに点滴をつないでおいてくれればいいから」と言われた患者さんがいて、じゃあ「ふつう」とは何なのか、ラクテックなのか、ソリタT3なのか、まずはそこから分からなかった。生まれて初めて処方した「ふつうの」輸液製剤は10% EL 3号で、それを書いたら「どうしてEL なの?」なんて、先輩の研修医から怒られた。
駆け出しの本当に最初のこの頃、けっこう長い期間途方に暮れて、たまたま集中治療室の患者さんを受け持つ機会があって、婦長からはじめて、「オーダーの書きかた」を教えてもらった。オーダー用紙には「病名、重症度、安静度、検温の回数、尿測とモニター、酸素の有無、食事、点滴、内服」を、この順番で書く。それだけのことを教わることで、各病棟から突き返された研修医の落書きは、ようやく「オーダー」として通じるようになった。

当たり前のことは難しい

今の研修病院なら、こうした「オーダーの書きかた」みたいなものを教えない施設はさすがにないだろうけれど、昔はこうした「当たり前」の知識については、研修医が各自で発見するものだと考えられていた。研修医が学ぶべきはもっと高度な知識であるべきで、当たり前のことは、わざわざ教えるまでもないからと。
知識の序列は立場が変わると異なってくる。慣れた人なら重要さが順番の要になるけれど、研修医は切実さで序列を付ける。もっとも切実な知識、オーダーの書きかたや「ふつうの点滴」の出しかたは、先輩の序列では「重要でない」ものだから教えてもらえなかったし、教科書に「ふつう」を求めて、答えを探すのは大変だった。
知っていることと、オーダーできることとの差異は本当にわずかなのだけれど、一度知った人間にとっては意識するまでもないことが、研修医には絶望的な壁に思える。一度聞いたら自分も壁の向こう側にいけるのに、どれだけ勉強しても、知識を「オーダー」へと落としこむその最後の半歩が超えられず、けっこう長い期間惨めな思いをする研修医はたぶんそれなりにいるのではないかと思う。

見えるものはずいぶん違う

カルテの書きかたには決まりがあって、最初の方に「主訴」が、患者さんの訴えを記載する欄がある。研修医はたいてい、主訴の欄に病名を書いて、「病名を自分でしゃべる患者さんがいるわけないだろう」なんて、上の先生から怒られる。
立場が異なると、風景はずいぶん変わる。外来を受け持つ上の先生にとっては、例えば肺炎の患者さんは咳や発熱、呼吸困難を訴えて病院に来る人だけれど、研修医にとっての肺炎は、上司から「肺炎みたいな患者さんを病棟にあげるから、先生見ておいて」と紹介される病気して認識される。病棟に来た段階で、患者さんの多くは自分の病名を聞いているし、「どうしましたか?」なんて今さら尋ねても、「外来で肺炎だから入院が必要だと言われました」なんて答えが返って、それをそのままカルテに書くと、あとからまた怒られる。
肺炎に関する知識なら、上司はたぶん、問診や聴診における肺炎の特徴や、肺炎に対して使われる抗生剤の理論的な背景を大切だと考える。研修医はたいてい、「肺炎」という病名が付けられた患者さんにどんな検査を予約すればいいのか、どんな食事を出せばいいのか、安静度をどうすれば怒られないのか、酸素はどうなったら使うべきなのか、そんな知識を切実だと考える。
教科書には大切な知識が沢山記載されているのだけれど、切実な何かが書かれていなかったり、そうした知識を探すのがやけに難しかったりする。

歩きかたと登りかた

山に登るのに必要なのは「歩くこと」であって、「登山とは何か」みたいな深いテーマを学ぶのは、歩き出してからのほうがいい。
成功するための哲学を教えてくれる人は多い。それが重要なことなのだろうし、教える側にも「教えがい」がある。「その業界でスタートするための方法」を教えてくれる人はあまりいない。事務手続きやお金の話みたいな、成功哲学に比べればあまり大切に見えない話が多いし、どうにも高級に遠いから、話す側も面倒だからなのだと思う。
そうした傾向が真実であったとして、結果としてたぶん、「成功できる知識があるのにスタートできない」新人が、世の中には増えていく。
そこで成功するために必要な知識と、そこで食べていく上で切実な知識とは大いに異なる。前者のほうが面白くて大切だけれど、最初に後者を習得しないと、スタートするための障壁がどんどん重たくなっていく。成功するための知識が増えていくほどに、スタートするための知識の欠落が相対的に大きくなって、結局その人は動けなくなる。
山に登ることは、実はそこまでものすごい知識が必要なわけではないのに、「頂上を目指すことの素晴らしさ」を熱心に説いた結果として、登山客を減らしている「山が好きな人」が、社会のいろんな場所にいるのではないかと思う。
スタートするためには何が必要なのか。それにはどんな手続きが必要で、たとえばどれだけのお金がかかるのか。困ったときには何が役に立つのか。誰に援助を求めればいいのか。オーダー用紙や契約書の文面の文面は、どんな型に従って書くのが無難なのか。若い人を教える機会なんてもうないんだけれど、そういうのをまとめてみたかった、あるいはそういうのがあれば、研修医の時の苦労は少しでも減らせただろうなと思う。

拍手

PR

私も台風も左巻きか

私は、言葉の誤用には割とうるさい方だが、知識そのものの正誤にはルーズだ。もともと、何かを事実であると判断すること自体が当人の主観なのだから、その主観を幾ら突き合わせても純粋な客観にはならない。昔は天動説が真理だったのだろうが、今は地動説が真理とされている。だが、シャーロック・ホームズの言葉を借りれば、それがどっちだろうが「そんなことは僕や僕らのやっていることに対して、なんらの相違も起こさせやしない」のである。
というわけで、私はそれが常識かどうかなど、まったく気にしていない。むしろ非常識な思想にこそ惹かれる方である。
しかし、そういう風に「世間の知識」を軽視していると、馬鹿な発言をして世間からは相手にされなくなるわけで、私もこのブログで何度も馬鹿な発言をしている。
昨日一昨日書いた台風の話の中で、「台風は北半球では時計回りだ」と書いたが、これは逆のようだ。調べもしないで物を書くからこういう馬鹿な間違いをする。
私の書く文章なんてその程度のものである。読む人はそういうつもりで読んでいただきたい。まあ、私が注意しなくても大丈夫だろうが。
台風が反時計回りだとすると、その進路についての私の理屈も成り立たなくなり、台風の進路は台風の渦の回転のためではなく、上空のジェット気流によるものだ、ということになるのだろう。しかし、ジェット気流は南西から北東方向に吹いている以上、台風の進路も原則的にそれに同調して進むはずである。実際、昔はそう進んでいたのだ。ならば、現在の台風の奇妙な進路は、やはり不自然であり、人為性が疑われる、という結論に変わりはない。
まあ、今日は記述の間違いのお詫びと言い訳と開き直りという、謙虚なのか傲慢なのか分からない文章であるが、とにかく「台風は反時計回り」のようだ。

拍手

変化を恐れ、自ら不幸を選択するという愚かしさ

「マドモワゼル愛」さんの今日の記事(今日の日記)が実にいい内容なので、紹介する。最初と最後だけは別の話題なのでカットしてある。
実は、私が今日の分に掲載しようと思って書いてあった文章があるのだが、その内容と非常に近いものがあるので、それも続けて掲載する。
愛さんのこの文章の中でも特に気に入ったのは


「将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。」

という部分だ。
私は、この「フリーエネルギー(無料エネルギー)」は確実に実現する、いや、もしかしたら原理はすでに発見されているのではないかと思っている。映画「スライヴ(「繁栄」か?)」では、そうほのめかしてもいる。
大企業の利益を守るために大事な発見が隠されたり葬られたりしている例は多いはずだ。企業の邪魔になる研究が妨害されるというのはありふれたことで、これは井口博士の新しい記事の中で大学の先生自身が証言している。
ともあれ、フリーエネルギーが出現したら、もはや世界の在り方はまったく変わるはずだ。富の異常な偏在という悪も抑止されるだろう。そして富の偏在から生じる悪もまた消えていくことになり、いわば地上の天国に近づくのである。
そうなった時に、20世紀から21世紀前半の人間が富を争ってお互いに殺し合い、いじめあっていたことが不思議に思われるようになるはずだ。
これが私の言う「人類幼年期の終わり」である。




(以下引用) 


これから色々な変化が起きてくると思いますが、最初は混乱にみえて、実は新たな秩序がそこから生まれているという形になると思う。

とにかく変化を恐れないことです。変化していくものには命が必ず伴うので、本当は心配は不要。

けっきょく、今変化を恐れているのは、これまでの既得権益的なものにしがみつく人がメインであり、多くの人は一見変化を恐れるように見えて、さすがにここまでインチキ社会となれば、もう壊れてしまったほうがいいのでは、、、、と受け入れる気持ちも逆に育っている。

変化の中に身を置くと、そう決めるだけで人生は楽になっていきます。

人生のあらゆる秘密を知っている人がもしいたとすると、私たちが日ごろ抱く不安や恐れが、いかに取るに足らないものかと思うはず。

すべてはよくなるために変化していくのだから、いやなことでも起きてしまった現実は、良い方に向かうための生涯(夢人注:「障害」の誤記だろう)の除去だったり、消失だったりして、次の展開をもたらしてくれる貴重なわざわいであることになる。

これは事実で、不幸な出来事があったとしても、それは決して不幸ではない。不幸とは、しがみつき、変化を恐れることなのだ。

青年期によく読んでいた本に荘子があるが、その中に、ある朝、自分が鳥になっていたら、その時は思い切り鳴いてみよう、、、というような文章がある。

運命の変化を受け入れることを言いたいのだが、荘子のすごさは、ただ受け入れるのではなくて、それを面白がっているところにある。

鳥になるのなら、鳴いてやる、、、、なんでもござれ、なんでも、どんな変化でも、オーケー。どんな運命が自分に訪れようとも、それを見事、楽しんでやるぞ、、、の凄味である。

それによれば、あらゆる不幸が消失してしまう。あくまで不幸にしがみつくのは、心ない田舎者の一部のバカ連中だけになってしまう。本当は不幸などない、、、変化を楽しむことで、こちらにもわからない大きなものが進展いていく、、、、

とんでもなく面白い劇が、まるで神芝居(夢人注:「紙芝居」の誤記だろう)がどんどん進展していってしまう、、、、

一見現実離れしているように見えて、それは事実なのではないか。

将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。

それでもなを、自分を不幸だと思いたい人はいると思うし、客観的に見て、確かに大変だ、、、という状況はあるだろう。しかし、変化が重要という大きな原理の前では、私たちが感じる不幸は、やはり趣味程度のものでしかなくなる。

自分を不幸と思う人は、本当は趣味でそう思っているといったら怒られるだろうが、私が青年期の悩みに悩んで、あまりにまじめに悩みすぎた結果、ある日、私は不幸に飽きてしまったことがある。

それはウソでない感覚だった。むしろ不幸がウソだと分かった瞬間、私はそれに飽きてしまったのだ。

本当はこの世に不幸などないのだ。不当なことや、おかしなことや、苦しいことははっきり言ってたくさんあるが、それは不幸とは違う。

不幸は運命ではなくて、選択なのだ。不幸を選択するのも趣味としてはいいが、本気で趣味にしたら、実態が乏しいので、すぐに飽きるはずである。

不幸に飽きない人がいたとしたら、それは不安から不幸にしがみついているのだ。不幸よりも不安の方が怖いからに違いない。


しかし、人生が不安であるわけがない。大きな仕組みがあるからだ。

また人生はそんなに複雑なものでもない。戦争も本当は複雑なものではなく、金儲けや権力維持のために起こる単純な動機を持っている。

ただ、それだとばれてしまので、どうすれば戦争がなくなるのか、、、というようなまことしやかなウソを振りまいて逃げているに過ぎない。

不幸も戦争も単純。それを選択する人がいるというだけの話しなのだ。

なので、あなたは何を今、明日、選択しますか、、、を常に尋ねられているのが人生。よい気持ちで、楽しい気持ちで、変化を受け入れていく。

拍手

目覚めよと呼ぶ声がする

「in deep」から転載。
実は、毎晩のようにほぼ同じ時刻に目が覚めるというのは、私もそうである。それはだいたい午前3時40分ころか午前2時40分ころだ。1時間のずれはあっても、40分ころというのは変わらない。で、一度目が覚めると、その後はほとんど眠れない、というのも下記記事と同じである。
眠りに入るのが特に難しいということは無い。それに、通常、夜の8時9時には眠くなるので、早寝することが多く、その分過度の睡眠不足にはなっていないが、日中でも急に睡魔に襲われて意識が途切れそうになるのは、やはり睡眠不足かもしれない。あるいはこれはただの老化現象か。
それより面白く思うのは、毎晩(毎朝か)同じような時刻に目が覚めるという点だ。この午前3時40分、あるいは午前2時40分というのは、私が生まれた時刻か、それとも死ぬ運命の時刻かもしれない。死ぬ時刻であれば、それは多分、床の中で死ぬということを示しているのだろうから、嬉しい話だ。
要するに、目覚めとはある意味では新しく生まれ変わることであり、我々が眠りの後で昨日と同じ意識や記憶を持った同一の自我として目覚められるのは、不思議と言えば不思議なのである。あまりに当たり前のようだから、誰も不思議がらないが、まあ「薔薇の木に薔薇の花咲く。何の不思議なけれども」(北原白秋)ということだ。
で、これが私だけのことならばわざわざ話題にすることでもないが、世界的現象だとなると、これにはもしかしたら重大な意味があるのかもしれない。すなわち、「全人類的覚醒の予兆」であったりして。
バッハに「目覚めよと呼ぶ声がする」という名曲があるが、我々は誰かから「目覚めよ」と呼ばれているのかもしれない。


(以下引用) *長いので、後半のニュース記事翻訳などを適宜省略。


2012年08月17日

睡眠障害が地球レベルで拡大していることがイングランドの大学の大規模な調査で判明



(訳者注) かつてウェブボットを読ませていただいていた時に、「世界的な睡眠障害が広がる」という内容の予測の記述がありました。
2009年の春頃のウェブボットです。

その記事に私は当時大変に興味を持ったのですが、その理由は、当時、私自身に深刻な睡眠障害が続いていたからでした。

今から3年以上前ですが、あれを睡眠障害と言っていいのかどうかわからないのですが、「何時に眠りについても、毎日同じ時間(深夜)に目覚めてしまう」ということになっていて、正直かなり疲れていました。

その頃書いていたブログ(クレアなひとときのこちらの記事など)にもちょっと書いたりしたこともあったのですが、今はもう忘れてしまいましたので、その記事(当時はコメント欄もありましたので、当時のコメントもそのままです)から、当時の私の様子を転載しますと、

(自分の睡眠の問題について)ここ数日の自分を観察していますと、漠然と「夜中に目が覚める」というより、1時55分に目が覚めて、そこでうまく再度眠れても、次は2時55分に目覚める、というように、目覚める時間がわりと決まっているようです。

2時55分の場合は少なくとも朝5時くらいまでは再び眠ることができません。周囲の他の睡眠障害の人たちもそのようですが、就寝の時間はあまり関係ありません。午後9時に寝ても夜1時に寝ても、大体同じ時間に目覚めます。


とありました。

この問題は、つまり、「場合によっては1日1時間くらいしか眠れない日が続いていた」ということになって、どのくらい続いたのか正確なところは覚えていませんが、数ヶ月とか半年とか、そういうレベルで続いていたように思います。うちの奥様などもやや心配げな感じでした。

まあ、私本人は疲れていることを除けば大した気にしてはいなかったのですけれど。

そこに、当時のウェブボットの「世界的な睡眠障害」についての予測記事があったので、とても興味を持ったということでした。

その部分を少し抜粋してみます。
2009年4月に配信されたものです。
ウェブボットは、書かれてある予測年代とか予測日時は気にしないで読むほうが良いです。
________________________________________


ウェブボット 非対称型原語傾向分析報告書 1309 パート5
2009年4月11日配信

・世界的な規模で睡眠障害が発生する。最初は個人的な問題として見過ごされるが、多くの人々が同時に同じ問題に苦しんでいることが次第に明らかとなる。これは2009年の夏の終わりから秋にかけて明らかとなる。 この現象はこれから3年間継続するが、問題が発見されるのは2009年である。

・この現象は宇宙関連のカテゴリーに出てくる宇宙からの未知のエネルギーと関連の深い現象である。この現象はすでに始まっているが、今の時点でそれを体験しているのはもっとも敏感で繊細な人々に限定されている。その後、次第により繊細ではない多くの人々が同じ症状を体験するようになる。

・集団的な睡眠障害の現象は2009年秋の「病気」のキーワードとの関連でも現れているが、これはいわゆる病気ではなく、その原因は太陽系にある。 睡眠障害に対する薬物療法はほとんど役に立たない。むしろ睡眠障害を悪化させてしまう。

________________________________________


というものでした。

まあ、これらは「予言・予測」ということで、オカルト的な意味合いが強いとはいえ、それを別にしても、この「睡眠障害」というのは、日本を含めてどこの国でも大きな問題ではあるはずです。

そんな中で、先日、イングランドにあるウォーリック大学で、いわゆる発展途上国といわれる国々での睡眠に関しての大規模な調査を、複数の研究機関と合同でおこないました。この調査はこれが初めてとなるものです。

その結果、発展途上国の睡眠障害の問題も、先進国とほぼ変わらないか、国によっては、さらにひどいことが判明したという報道です。かなりの大規模調査で、信頼度は高いものと思われます。


また、西側諸国ではすでに問題となっている睡眠障害による抑うつ(うつ状態のような気分)や、強い不安感、落ち込みといった問題の率も先進国と同じレベルだということが判明したというものです。

興味深かったのは、今回の調査は特に「地方に住む人々」を対象におこなわれたのですが、

・地方も都市部も睡眠障害の問題レベルは変わらない

ということがわかったりしています。

調査した国は8カ国の複数の地方で、国は、アフリカのガーナ、ケニヤ、タンザニア、南アフリカ、そして、アジアから、ベトナム、バングラデシュ、インドネシア、インドで、この中でケニヤだけは都市部の人を調査したようですが、他はすべて地方、つまり田舎です。

日本の田舎と違い、上の国々あたりの田舎となると、「本格的な田舎」のはずで、携帯もパソコンも、場合によっては、電話やテレビや街灯もないという場所も含まれるかもしれません。

つまり、人工的な光も騒音も、都市化によるストレスも、下手すると公害もあまりない。そんなところでも、「先進国と同じかそれ以上の率(ベトナムとバングラデシュは、特別に睡眠障害の率が高い)」で睡眠障害が存在しているという事実は大変に興味深かったです。


私たちが「なんとなく」不眠の原因と考えやすい都市部での生活というものは、実際には睡眠障害とはあまり関係がないのかもしれません。

考えられないほどの大自然の中で、東京等の都市部に住む人たちと同じような睡眠障害の発生率があり、それが引き起こす問題もほぼ同じだという現実。つまり、「地球の上ならどこでも同じ」という事実。上のウェブボットにある、「その原因は太陽系にある」というような感覚もあながち完全には否定できない面も感じないではないです。



拍手

人生の中仕切りの弁

私の愛読するブログの一つに「がま仙人のブログ」というのがあって、その清貧の生活ぶりを私は尊敬しているのだが、収入がまったくゼロではいかに仙人であってもこの社会では生きてはいけないだろう。
それは私も同様だ。実は、私は今年会社を定年退職し、今は無職状態である。収入も今はゼロだから、金は出て行くばかりである。まあ、そのうちいい仕事に出会えるだろうと気楽に構えるようにしているが、やはり心の隅には常に近い将来への不安もあるわけだ。まあ、いざとなれば死ねばいいさ、という覚悟はあるけどね。
子供に関しては、私の持論として、義務教育までを終えれば親としての養育義務は果たしたと考えている。その後は、子供が自力で生きていけばいいのである。親などいないほうが子供は性格がしっかりし、立派に育つのではないか。親は早死にする方が子供のためかもしれない。
昔は40歳くらいで隠居して、後は遊んで暮らすというのがちょっとしたレベルの町人の暮らし方だったようだが、今では死ぬまで働くのが当たり前だという風潮である。40歳定年ならば、40歳で老齢年金を支給するのかと思えば大間違いで、年金支給年齢は逆にどんどん引き上げられて、大半の人間は年金を受け取る前にとっくに死んでいる、となりそうだ。
まあ、働くのがまったく嫌いというのでもないが、20歳から60歳まで40年間も働かされたのだから、定年退職を機に、しばらくは骨休めをさせてもらおう、というのが私の気持ちだが、他人が働いている時に、自分だけ働いていない、というのはやはり肩身が狭い気分だ。気が小さい、と言うべきか。
などとは言いながら、今の自由な状態を楽しんでいるのも確かである。とにかく、「予定が何一つ無い」というのが嬉しい。
自由な状態だと「勉強」も苦にならないから、今は高校生レベルのリライト版で「シャーロック・ホームズ」の英書などを読むのが娯楽の一つだ。多少意味不明の部分があっても、日本語で読むよりも面白い。日本語だと読むスピードが速すぎて、「筋を追うだけ」になるが、英書だと1行1行を味わいながら読める。
それに、今はユーチューブでいくらでも好きな音楽が聴けるから、読書と音楽を同時に楽しみ、それに昼ならコーヒー、夜なら安ワインを味わうという、実に安上がりの快楽である。
今日など、窓から気持ちのいい風が入るので、クーラーもつけずに一日中家の中にいたが、それで十分満足である。
田舎に帰ってきてから、兄弟たちに会った以外は、昔の知り合いにすら連絡もしていないのは少し気が咎めているのだが、それも実は「予定」を作るのがいやだから、という現代人にあるまじき我儘な理由からである。
まあ、自称「仙人」のすることだからと許してもらおう。

拍手

沖縄の風





いやはや、画像がくっついたり、画像コメントの位置が逆になったり、面倒だが、携帯画面だとわけのわからない画像が拡大できるのは助かる。まあ、自分のファイルに秘蔵すればいいだけだが、読む人にも多少の気分は伝わるだろうから、今後も時々は画像を添付する。ただし、何のために載せた画像なのか、筆者以外には分からない内容になるとは思う。べつに芸術的な意味はない。ただ、空や雲や風景を適当に切り取っただけだ。その風景も、名所でも何でもない。
さて、私はずっと田舎に帰っているわけだが、もはや両親もこの世にいない以上、田舎と言うよりは「生まれ育った場所」や「長い間過ごした思い出の場所」と言う方が適切だろう。
で、久しぶりに帰ってきて、何よりも良かったのは、「自然の風」である。
沖縄は暑いと思っている人が多いだろうが、昨日今日の最高気温は京都が35度くらい、沖縄は31度くらいである。しかもその31度が暑いかというと、そうでもないのだ。もちろん、日向は暑い。しかし、物陰や木陰に入ると、実に爽快な気温なのだ。そこに風でも吹いてくれば、その気持ち良さは最高だ。
時々、スコール的な雨が降ったりするが、そういう場合は濡れればいい。雨が過ぎたら、自然に乾く。そういう自然を体感するのが、沖縄を味わうということだ。首里城だの南部戦跡だのよりも、普通の町を歩き、時々空を見上げて雲の姿を楽しみ、腹が減れば小さな食堂に入って沖縄ソバを食い、オリオンビールを飲むのがいいだろう。

画像を最後に貼るつもりが、勝手に最初に載ってしまった。こういう画面構成を自由自在にできるまでには時間がかかりそうである。
例によって意味無し画像であるが、沖縄の空だ。




拍手

ブログ中断の挨拶と「梅ちゃん」感想まとめ

この頃は毎日2回投稿して、そのうち1回は「梅ちゃん先生」感想になっていたが、今日はしばらくお別れする挨拶である。と言っても、ただの夏休みだ。しばらく田舎に帰るので、ブログも中断されると思う。まあ、パソコンは持って帰るつもりだが、うまく接続されるかどうか。下手をしたら数週間の中断になるかもしれない。
と言うわけで、ブログ更新が途絶えていても、死んだり刑務所に入ったりしているわけでは(多分)ないので、ご心配なく。
挨拶だけでは素気ないので、例によって「梅ちゃん先生」感想を少し書いておく。
まあ、「梅ちゃん先生」は面白かった。通常の意味では最低、最悪のドラマだが、「悪口を言う楽しみ」「他人の悪口を聞く(読む)楽しむ」をこれほど与えてくれるドラマは稀有だろう。
「2ちゃんねる」に生息する連中の気持ちが少し分かった気がする。あれも他人の悪口を言う快感、自分の知性を誇る快感、自虐の快感という病的神経の解放の場だと私は思っている。つまり、私もそういう現代人の一人であるようだ。仙人などとはおこがましい、と少し反省している。

で、「梅ちゃん先生」批判コメントを読んでいて気がついたことを少し書く。
1)松岡先生、大好評だったこと。:コメントの中に松岡の退場を悲しむ声、再登場を期待する声が非常に多いのが目についた。これは日本人の健全さの現れだろう。つまり、真面目、誠実、素朴、思いやりという性格は多くの人に好まれるということだ。簡単に言えばジェームス・スチュアートのキャラクターである。このキャラクターはハリウッドからも日本のテレビドラマや映画からも長い間姿を消していたが、その久しぶりの復活が松岡というキャラだったのである。で、このキャラはほとんど全国民的な共感を得たのだが、ところが制作陣はそういう宝箱を掘り当てながら、それをあっさり捨て去るという愚行をした。そこからこのドラマの転落が始まり、批判が急上昇したのである。
2)南果歩(梅母)が異常なほど嫌われていること。:主人公の梅ちゃん、こと堀北マキ(漢字は知らん)も嫌われているが、それよりもコメントでの梅母嫌悪の声は驚くほど多い。なぜなのか、男性である私には理解できないのだが、女性からはとにかく嫌われているようだ。私はこういう「可愛いお母さん」は好きなのだけどね。色白であることまで文句を言われて「白塗り母」とか悪口の言われ放題で可哀相なほどだ。祖母役の倍賞美津子も大不評で、どちらにも共通しているのは「男に好かれそうな女は女に嫌われる」ということかと思う。べつに彼女たちのせいではなく、脚本と演出のせいなのだが、半分は彼女たちの容姿のせいでもあると私は睨んでいる。倍賞さんなど、あの年にしては色気がありすぎだから、女性に憎まれたのではないか。前の朝ドラの主人公は、少なくとも男好きのする女優ではないから女性には大好評だったのかと思う。あのドラマを評価する男は、ドラマを評価しているのであって、主演女優を女として好き、というわけではないだろう。はっきり言ってブスだしね。女はブスな女優を好む、というのは定説だ。まあ、オードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローのレベルになると女優というよりは美女の象徴だから、女も彼女たちを好きだと言えるようになるわけだ。男だってイケメン男優は嫌いだろう、と言うかもしれないが、少なくとも私はそうでもない。まあ、私はルーファス・シーウェルやルパート・エヴェレット、仲代達矢、若手なら城田優などをいい顔だと思う人間だから、そういうのはイケメンではない、というなら話は別だ。ジャニーズ系の軽薄な顔は大嫌いである。
3)視聴者のドラマを見る目は鋭く厳しいこと。:世間の人間は、政治的にはB層が多いかもしれないが、それは教育とマスコミによる洗脳の結果であって、知性的には優れた人間が多い。むしろ社会の上にいる人間たちよりも、無名の庶民の中にこそ知的に優れた人間が、ごく普通に隠れ住んでいるのではないか。

以上である。

拍手

カレンダー

04 2025/05 06
S M T W T F S
12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析