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ニュアンスのニュアンスによる視聴者誘導

今日の朝のテレビで、カツラ疑惑で有名な司会者が「ドラッグ・ラグ」のニュースを解説していた。
若くして乳がんのために死んだ女性が、欧米で承認されている治療薬が日本で早く認可されていたら「治ったかもしれない」というような解説だが、正確に言うと「治る」とも言っていなかった。とにかく、その認可を待ち望みながら死んでいったというニュアンスの話だった。
その後は、この「治療薬」が日本でも開発されているという話で、ここでもその認可が待ち望まれるというニュアンス(ニュアンスばかりなのである。)だった。とにかく、こうしたぼやかした話で、印象だけを聞き手に伝えることにかけては日本のマスコミは名人芸だ。
言うまでもないが、こういった治療薬で「治る」などとは絶対に言わないのである。言えるはずがない。ただ、患者はそれを待ち望んでいる、という情報を視聴者に与え、その薬が福音であるという期待感を醸成するのが、こうした「報道番組」「情報番組」の役割だ。
死んだ女性も、自分の死がダシにされて他の患者を誤った方向に導き、無数の薬害被害者を出すことになったら、往生できないだろう。

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トカゲのしっぽ切り

イレッサ問題について、製薬会社の現場医者への責任転嫁というのもなかなか大きな問題かと思うので、関連記事を転載する。

(以下「阿修羅」記事より転載)


何でも医者のせいにする薬害報道 (イレッサ薬害)NHKニュース9の報道は酷かった
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/477.html
投稿者 虹の仙人 日時 2011 年 1 月 20 日 13:02:24: ZmDTMI6bcHXKo


これは大昔からづっと続いている事であるが、薬害が起ったときは常に医者への責任転嫁報道をして、製薬会社を護る。それはナゼか。報道で触れてはいけない3つの掟があり、そのうちの一つが製薬会社についてである。
今回のNHKニュース9の報道が問題なのは
1.訴訟されている製薬会社の名前が一切出てこない点。厚労省の責任論も論じられない。薬害報道では製薬会社の名前は極力出さない掟がある。

 下にNHKの「イレッサ訴訟“話し合いを”」という記事を上げておいたが製薬会社の名前は出てこない。
 聞き漏らしたのでなければ、ニュース9でも製薬会社の名前は一切出てこなかった。

2. 医者に対する責任のすり替え。製薬会社ではなく、現場の医者を矢面に上げる。
 下のNHKの記事にはないが、NHKニュース9では、大越、青山キャスターとスタッフによる医者への責任転嫁が行われた。どういう事かというと、医者がチャンと診ていないといういつもの報道陣の主張である。多くの日本人は医者がチャンと診ないから薬害が起るという意識を何十年と植え付けられてきた。しかしそうではないのである。薬が悪いから薬害が起きるのである。
 今回のイレッサも「副作用が少ない夢の新薬」として、(いつも遅すぎる薬事審査が批判される機関としては珍しく)世界で初めて日本の厚労省が承認した薬である。夢の薬であれば使わないほうがおかしいのであるが、実際は悪夢の新薬であった。
“夢の新薬”ともてはやされたイレッサの「薬害」を裁判で問うを
下に上げておく。
 今回のニュース9の報道で際立っていたのはすり替え方法が進化した点にある。抗がん剤の専門医がいないということに終始していた。専門医の不足をこの薬害が起った根源としていたのである。大越、青山キャスターは、医者がチャンしてないからと軽く誘導し、専門医がいないのが一番の課題と断罪した。薬の害=医者のせい という長年にわたる刷り込みで条件反射の域に達した方程式で多くの日本人はだまされているのである。 製薬会社は報道機関にとってアンタッチャブルな存在なのである。
 小泉政権の時、今もそうであろうが、製薬会社が史上最大の利益を計上したとき、取りあえずNHKはニュースで報道したが、その次のニュースは、日本の製薬会社が国際競争に打ち勝つためには多額の資金が必要というニュースであった。
 古い話であるが、大腿四頭筋短縮症も薬害である。生理食塩水以外のどの薬を注射しても起るという研究報道が有り、科学的に薬害であるという事を証明したにも関わらず、わざわざ医者がチャンとしていないからとアナウンサーが非科学的なコメントした。これの繰り返しである。医者は神様でもなんでもなく、その時々の情報が間違ったり不足していたりすればどうしようもないのである。人が仕事をしているのである。
NHKに良心があるなら、科学的スピリッツがあるならこのようなニュースキャスターとスタッフを総入れ替えすべきだある。医者と患者の信頼関係を損なう報道をした責任は重大である。

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水田にかかる労力と金

食糧自給の障害は「水田」にある、という話。「阿修羅」から転載。その対策部分には疑問符がつくので転載しないが、日本農業は「水田」依存を変えるべきだというのは重要なヒントである。


(以下引用)


その最初の食い物の問題

現在職業農家に依存していますが、ホントに作っているのは自然の摂理です。
それは種という精妙なプログラム、虫や鳥による交配、微生物による分解、地球と太陽という巨大施設がもたらす気象というインフラです。
これらの提供は全て無償となっています。空気も水も。何もかも。
なのに何故、人はお金を払って食糧を購入しなければならないのでしょう?
精妙で巨大なインフラや資源が全くタダで使えるというのに...。
其処に、ばからしくアホくさい余計なインフラとそのために付随して生まれた弊害を、あえて打ち消す労力を付け足しているからです。
しかもそれが食糧生産には欠かせない要素だと思い込んでしまった。

この解決は実は至極簡単です。
付け足されたその無意味なインフラを捨て去れば、殆ど自動システムの自然まかせ農法で労力も掛からず、毎年タダで収穫し、しかもそれは無限循環するのです。その年間労働時間は十日ほど。後の355日が自由時間(故福岡正信翁曰く)。
つまり天国の舞台は既に整っていたというわけです。

その為の障害に焦点を絞ります。

主食は米とか麦ですね。飽きが来ない素晴らしい食べ物です。日本では米。
では何故水田で作るか?
一粒の実が小さいという問題がまずはそこには有りそうです。
これが主食がかぼちゃだというのならば、雑草に埋もれていても収穫収集は容易ですが、米は雑草に紛れると、その雑草の種や茎枝との選別が大変になり、従って出来る限り広範囲で雑草を生やさない工夫が必要となります。それは麦も然り。
苗床を別に作るのも鳥害を避けたり、一度田を耕して雑草をリセットするため。
そして田に水を張り、田植えとなります。この労力は大変です。
更に水田は水源となる河川や沼が近い土地に限定され、水路や水門という個人負担では不可能なインフラを必要としますので、集団管理と協力体制が必要。ここで集団を束ねる権力機構が発生し、諸悪の根源がスタートします。

人が等しく平等であるための根本がここから失われてしまっています。
ならばまずは其処から改める為には、その水田に変わる手法を生み出す必要があります。

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自給自足農業のガイドブック

「がま仙人のブログ」より備忘のため転載

(以下引用)


2007年11月04日22:55 カテゴリ晴耕雨読(121-130)
[晴耕雨読-0121] 農家が教える自給農業のはじめ方―自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工農家が教える自給農業のはじめ方―自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工
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すばらしい!

たった100ページなのに、自給農業に関するノウハウがてんこ盛りである。著者は農業60年の経験をもつ超ベテランであるが、なにがすばらしいかというと、自分が食べられる程度の自給農をするうえで機械も農薬も化学肥料も必要なしと断言している点である。そしてなるべく手をかけない農法を勧める。福岡正信の自然農法に近いものがあるが、さすがに熟練の農家であるだけにきめこまかい技術論がある。かといって、実現不可能なものではない。たとえば、虫の駆除などは自分の手を使い丁寧にとり、鶏の餌にするという、なんともスローな方法を提示する。これは利益主導型のプロの農家ではできないことだが、自給であればもちろんアリなわけで、循環型農業が可能なのである。基本的に耕すこともせず、手をかけず、小力栽培で自給農をすれば楽しく生きることができるという哲学がある。生き方そのものである。

しかも、米といえば水田で作る水穂が一般的であり、それ以外にないと思えるが、なんと著者は陸稲を勧めている。驚きである。陸稲なら水田のように手間はかからず放置に近い状態でもある程度収穫できる。陸稲なら急勾配の土手でも栽培可能である。彼は、陸稲と小麦の輪作によって主食を得るという提案をする。玄米とコムギをまぜて食べるわけだ。普通ならありえないことかもしれないが、著者の言い分を聞くと、とても納得できる。

この素朴な食生活は6000年の平和を続けた縄文の再現を味わい、やがてくるべき石油欠乏の一大事にも対処しうる唯一の生き残り方策となる。さらには後代の人々が、地球温暖化による海水上昇に追われて山間地へ避難しなければならないとき、辛うじて命をつなぐ方法の見本を示すことにもなるのである。

水田から米を得るためにはそれなりのコストがかかる。素人には無理と思ったほうがよい。それなら陸稲でという方法も十分アリだと思う。自給農に慣れてくれば水田で水穂をつくることに挑戦すればいいだろう。ともかくまずは自分で作って食べるということを楽しむということが大切ではないだろうか。

とりあえず、この本一冊あれば自給農業は始められるだろう。
自給自足の田舎ぐらしが夢という人には断然お勧めのガイドブックである
.

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自由貿易など不要。すべては自給自足できる。

「がま仙人のブログ」書評欄から、備忘のために転載。
日本が今後生き残り、幸せな国になるためのヒントがここにある。私は沖縄に住んでいるが、かつて宮古島をそういう自給自足の島にするプロジェクトを考えたことがある。現在でもそれは100%可能だと思っているが、問題はそれをやる為政者がいないということだ。



(以下引用)




2007年08月19日19:48 カテゴリ晴耕雨読(111-120)
[晴耕雨読-0116] 200万都市が有機野菜で自給できるわけ / 吉田太郎200万都市が有機野菜で自給できるわけ―都市農業大国キューバ・リポート
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吉田 太郎
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 いつこの本の紹介をしようかと思っていたが、今日マイミクさんのところでこの著者のページを紹介したのでよい機会だからこの本について書く。

 とにかく必読書。農業や代替エネルギーに興味があってもなくても一度は読んでいただきたい。カリブの小さな国キューバがとてつもなく示唆に富んだ国であるかを思い知る。自給自足農業先進国であり環境先進国であり代替エネルギーと代替医療を実社会に生かしている国である。

 ソ連崩壊が起こったときキューバは壊滅的なダメージを受ける。当時は食料の57%を輸入に頼っていたのだ。いまの日本とたいして変わらなかった。農業はサトウキビに集中していた。そのため野菜を育てるなどという習慣もなかった。穀物類などはほとんどが輸入。そして、機械化農業が主体だったので当然石油も多く使っていた。そんな国がソ連崩壊によって食料と石油の補給路が断たれてしまう。また、当然ながら近隣国はキューバに対して経済封鎖を強めていたため事実上キューバは孤立してしまう。かつて日本が経験したABCD包囲網よりきつかったはずである。
 放置すれば当然餓死者がでてしまう。当時のカストロはこの超絶対絶命状態を乗り切るため「食料確保」を最優先として政治を動かした。で、やったことは首都ハバナ全体を有機菜園にしたのだ。国有の空き地を人々に解放しコミュニティをつくり自主的に運営させた。アスファルトしかないようなビルの谷間では、「オルガノポニコ」と呼ばれる人工の畑を有機菜園にした。
 こうして都市=農園でとれた野菜は都市内部で消費される地産地消が実現する。野菜を遠くまで運ぶ必要はない。輸送のために膨大な石油は必要としないのである。都市と農業を一体化することで超効率化された生産=消費体制ができあがった。そして数年後200万都市は食料の自給自足を実現させるのである。

 この本にはそのプロセスがこと細かくまとめられている。本当に驚くばかりの事実がそこにある。
 
 関心するのはカストロが目指したのは食料の自給自足だけではなかった。エネルギーと医療も想定の内であった。石油から太陽光・風力・バイオマス・水力などの自然エナルギーに国策として切り替えている。山間部などでは太陽光や風力で電気を作り実際に学校などを運営しているということである。世界がもたもたしているうちにキューバではとっくにそれらを使いこなしているのである。

 それと、代替医療。経済封鎖によって薬の供給が絶たれたため、キューバでは急速に代替医療が必要になった。驚くことに彼らは東洋医学を取り入れたのである。鍼灸などの専門化を育て、薬による麻酔に変わって鍼麻酔を取り入れた。さらにそれだけではなくハーブやアロマセラピーも同時に取り入れたのである。これによってキューバの代替医療の技術がおそろしく向上した。皮肉なものである日本ではあまり重要視されない東洋医学がカリブの海の国で主要な医療技術の一つになったのである。

 ところで北朝鮮はキューバと同じくソ連崩壊のダメージと経済封鎖を経験した。だが北朝鮮は多くの餓死者を出した。この違いは天と地ほどの差がある。

 とりあえずこの本には、世界が今後経験する未曾有のエネルギー危機と食料危機と環境危機、それを乗り越える一つの道が浮き彫りにされている。

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健康と体温

例の医学生さんのブログから。体温と癌(あるいは病気)の間に関連性があるかもしれないというのは私も少し考えたことがあるので、備忘のためにコピーしておく。ストレス(とくに睡眠不足)から来る免疫不全というのも重要な指摘だ。


(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 体温と病気
 泌尿器科の病棟実習で早期の腎細胞癌の患者さんを担当させていただいた。画像で1.7cm大の腫瘍を左腎臓上極に認めたのだが、良性のものなのか悪性 (癌)のものなのかは画像からだけでは診断できなかった。一般的に、癌が疑われたときの腎臓の針生検は、腫瘍への血流が豊富なために播種を招く危険性があり、禁忌ということになっている。したがって、これ以上の診断材料がないため、まだ腫瘍が小さいので経過観察にするか、手術によって摘出するかの選択が問題になった。結局、患者さんの意向が優先され手術を行い、それによって癌であったことが判明した。腫瘍は完全に摘出できたために、結果的に手術をして良かったことになったわけある。

 患者さんは35歳の男性であり、肉体労働だという。35歳の若さでも癌になるのだなあ、と僕は初めてカルテを見させてもらったときに素朴に思った。しかも、身体を使う職業ということで見た目もガッチリしていて、病気とは縁がないような雰囲気を漂わせているのである。いくら小さな癌であったとしても、身体も強そうであり、まだ35歳という若い男性が癌になるということには、どうも釈然としなかったのである。

 しかしその後、ふと温度板(体温や血圧の変動などを記録しているシート)に目を移してみたとき、その疑問が解けたような気がしたのだ。というのも、この患者さんの体温の変動を見てみると、どの日でも35.5℃以上には上がっていないのである。既存の西洋医学ではおそらく、だからどうしたというのだ、という質問が返ってきそうであるが。

 体温と病気は、密接に関連していることは確かである。風邪をひけば熱が出るし、寒ければ風邪をひく。癌になれば熱が出ることもあるし、熱が出ることで癌が治ったという話もときに聞く。体温を上げるような食材を摂ることによって病気が治った、という本も本屋さんに行けばたくさん並んでいる。

 おそらく西洋医学では、35.5℃程度の体温では個人差の範疇として扱われるのであろう。癌のリスクファクターとしての低体温など、まったく聞いたことがないのである。喫煙やさまざまな汚染物質などは、癌のリスクファクターとして問題視されるが、体温の話に至っては、少なくとも僕は正規の授業では一度も聴いたことがない。

 だけど、感染症によって体温が上昇する機能的役割については、おそらく常識であろう。少なくとも現在では、むやみやたらに解熱剤を処方する医師はいないはずである。体温の上昇は、病原細菌の増殖を抑制し、免疫担当細胞の活性化を促すという役割を持っているからである。ということは、これは癌についても同様なのではないだろうか。体温を上げることによって、免疫細胞の活性化を促すことができれば、癌は縮小の方向に向かうはずである。もちろん、どれだけ癌の縮小に対して効力を発揮するのかは分からないが、少なくともそのような方向に働くことは確かなはずである。癌細胞というのは、一般的にも多くの人が知っているように、身体の中で毎日たくさんできているといわれる。しかし、免疫細胞(NK細胞が有名)によってこれが壊されるおかげで、そう簡単には癌になることはないのである。

 ところが、免疫細胞の活性化が弱いとしたら? 免疫細胞の数が少ないとしたら? 若くして癌になっても不思議ではない。平熱が低いということは、普段の免疫担当細胞の活性が弱いということを示唆しているのかもしれない。免疫細胞の活性を弱める原因としては体温以外にもさまざまなものがあるであろう。たとえば、ストレス。ストレスによって副腎皮質から分泌されるコルチゾルは、ヘルパーT細胞のバランスをTh1からTh2へシフトさせ結果的に細胞性免疫(傷害性T細胞やNK細胞など)の活性を弱め、また胸腺を萎縮させる作用を持つ。たとえば、睡眠不足。睡眠中はメラトニンが松果体から分泌されるが、これはヘルパーT細胞のバランスをTh2からTh1の方にシフトさせる。つまり、細胞性免疫が強まることになるのだが、メラトニンの分泌が悪いとやはり細胞性免疫は弱まることになるのである。たとえば、・・・。

 そうした免疫細胞の活性に影響を与えている因子のひとつとして体温があるのである。あるいは、このような因子は相互に複雑に作用を及ぼしあっており、たとえばストレスが強いと体温が下がったり、体温を下げるような生活が睡眠不足を招いたりと、おそらく単一の因子だけに着目していては、本当のところは見えてはこない。だけど、とりあえず今回は、体温に注目してみようということだけのことである。

 担当患者さんのところに話を伺いに行ったときに何気なく聞いてみた。お酒は好きなんですか? ビールは良く飲みますか? 仕事が終わってビールを一杯、という生活を毎日送っているのではないかと思ったのである。ビールでなくても冷たい飲み物は、身体を冷やす大きな要因であると思う。消化管は身体の中に埋まっているけれども、口と肛門の間にある外部とつながった管であり、皮膚と同様に外界と接触する場なのである。皮膚に冷たい水をかけられたら、飛び上がって身体を震わすのだけれども、幸か不幸か、消化管はほとんど冷たさを感じないで冷たい飲み物を受け入れてくれる。皮膚に冷たい水をかけられたら誰だって寒さを感じる。そして、そのままにしていれば風邪をひくであろう。これは特に水が蒸発するときに熱を奪うことで、より冷えをもたらすのだろう。消化管の場合は、中に入った冷たい飲み物は蒸発はしないにしても、最終的にはそれを吸収して体温まで温める必要がある。そのエネルギーの損失はいかほどか?

 人間は、それほど冷たい飲み物を消化管の中に入れることに適した身体にはなっていない。なにしろ冷蔵庫が出来上がってから、1世紀も経っていないのだから。それまでの何億年にもわたる進化の歴史を考えれば、それに適応することなど、とてもできるものではない。おそらく、仮に冷蔵庫というものが大昔からあったとすれば、我々は、冷たい飲み物を口にするたびに飛び上がってこれを避けようとし、ブルブル震えては一生懸命に熱産生をしているのではないだろうか。

 冷蔵庫の発明は、体温の低下をもたらす大きな要因であると思う。現代人の体温は低下傾向にあるという話も聞く。体温の低下は、免疫担当細胞の活性を低下させる。そしてそれは、癌などのリスクファクターになっている可能性があると僕は推測する。もちろん、体温低下の要因は、冷蔵庫で冷やされた冷たい飲み物だけにあるのではない。運動不足もあれば、精神的なストレスも関係しているだろうし、夏なのによく効いたクーラーの下で一日中過ごさなければならない仕事環境などもあるであろう。しかし、こう挙げてみるとどうもどれも現代的な利便性を追及した生活との関係が深そうである。なぜ病気になるのか、という視点でものを見るとき、どうしても進化的に獲得してきた我々の機構とそれに合わない現代的な生活環境に答えを求めたくなるのは、自然な思考の流れだと思うがいかがであろうか。

 と言いながら、よく冷やされたビールを片手にこれを書いている僕であるのだが・・・。まあ、こういう暑い日にはまだいいのかな~と言い訳をしつつ。


 06/05/2004.

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勉強は贅沢であり、娯楽でもある

今年は、毎日ひとつは有益なこと、言い換えれば、時間の浪費ではなく、後に残ることをしようと思う。インターネット探索でも、お気に入りブログばかり見るのではなく、もっと頻繁にネットサーフィンをして新たな賢人たちを見つけてみようと思っている。そうして自分の知的世界を広げることを今年の目標にしてみよう。

下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。


(以下引用)

                    Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
 勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。

 よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。

 そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。

 そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。

 勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。

 勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。

 試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。

 多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。

 このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。

 高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。

 勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。


 02/06/2004.

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酔生夢人
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男性
職業:
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趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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