今年は、毎日ひとつは有益なこと、言い換えれば、時間の浪費ではなく、後に残ることをしようと思う。インターネット探索でも、お気に入りブログばかり見るのではなく、もっと頻繁にネットサーフィンをして新たな賢人たちを見つけてみようと思っている。そうして自分の知的世界を広げることを今年の目標にしてみよう。
下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。
(以下引用)
Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。
よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。
そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。
そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。
勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。
勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。
試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。
多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。
このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。
高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。
勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。
02/06/2004.
下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。
(以下引用)
Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。
よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。
そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。
そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。
勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。
勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。
試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。
多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。
このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。
高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。
勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。
02/06/2004.
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