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常識と良識

数日前に私も「クリントンの中国大罵倒演説」で書いたヒラリー・クリントン演説の記事が「阿修羅」に掲載されていたので、その演説への反応はどうかな、と見てみたが、ほとんどがヒラリーの夜郎自大ぶりを嘲笑する冷静なコメントだったので、少し安心した。(「夜郎」は国名であり、「野郎」ではないので、ご注意。もっとも、アメリカ自体は「夜郎」のような小国ではないが、自分自身が見えていない、という意味で「夜郎自大」と書いた)
私は、ブログやツィッターなどのネット上の文章はただの「放言」でいいと思っているので、自分の書いた文章は、誤字の訂正程度の推敲ですぐに掲載する。しかし、自分の発言が根本的に間違っているならば、それはあまりいい気分ではない。だから、こうしたコメントなどで、自分と似た考えを見ると、ほっとする。自分もそれほど非常識な馬鹿ではないのだな、という気分だ。
もっとも、私は「常識」にはあまり重きは置かないので、ここでの「常識」はむしろ「良識(ボンサンス)」と言うべきだろう。「良識」とは、世間的合意ではなく、「合理的判断力」というようなものだと私は理解している。そして、その良識は、ほとんど生得的に誰にも備わっているのだが、むしろ世間に洗脳されることで曇るものだ、と私は思っている。これはデカルトの「方法序説」から私が学んだことだ。




(以下「阿修羅」より引用)



01. ルックウエスト 2012年9月23日 21:44:01 : yp6w3VNv0FOGw : q9bsheFzEw
歴史とはおもしろい。 これはアメリカ帝国の20年後を婉曲的に中国として表現している。
1。アメリカの金は中国にそそがれ
2。国民はほったらかしで、他国を侵略、戦争をバラますしか能がない。
3。有るのは競争社会と金持ちに成る事だけが生き甲斐。宗教は機能してない。でないと2項が?
4。国民にテロの恐怖を宣伝し、戦時体制を持ち込んでいるのは?
5。かつてはアメリカには誇りと開拓者スピリットが存在したが、いまは面子もなにもなく、略奪のみ
6。戦争による環境破壊は中国の比ではない、自国の足下を固め、アメリカ国民の幸せを先に考えないと
  革命はアメリカで起こるのではないか心配だ。
世の中すべて明暗、50/50で成り立っているのが真相。 他国の事より、今は自国の事を憂え、
世界の民を平和に幸せにする事を考え、実行したらどうか、クリントンさん?


02. 2012年9月24日 01:22:45 : sUpHQ8Q75g
> 1.移民申請の状況から見て、中国9割の官僚家族と8割の富豪がすでに(注:米国へ)移民申請を出した。またはその意向がある。
中国からの移民先にはカナダやオーストラリアも好まれてるようだが
ヒラリーが根拠としてる移民申請状況には米国以外も含まれてるんだろうか?
そうだとしたら各国は互いに中国人の移民申請状況を交換してることになるが?

ところで
この数字を除く全ての項目に米国自身が当てはまる
つうことにヒラリーは気付いてないんだろうか?
そうだとしたらヒラリーは極度に鈍感な人つうことになり
バカ丸出しだ



03. 2012年9月24日 02:09:31 : w18f1GkoJs
>>01
たしかにねえ。他者を鏡として己の姿を見るというのは心理学的によくあることだそうだ。

福澤諭吉の「脱亜論」だけど、その線に沿って行っての敗戦があり、そして今があると。まあ、そういうことだが、それで嬉しいの?




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日本の悪習

「2ちゃんねる」の「日本の悪習を挙げる」というスレッドの中の、下のコメントに感心したので、備忘的に転載する。これを書いた人は、相当に頭がいい。他のコメントはほとんどが感情的かつ無知蒙昧なものであるが、中にこのようなものが混じっていたりするから、「2ちゃんねる」も馬鹿にできない。「ネットゲリラ」の存在価値もそこにある。


(以下引用)




95 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/09/18(火) 21:27:26.97 ID:uyzyXvOw0


・法律やぶっても残業当たり前
・死ぬまで働いてようやく人並みの生活
・上に立つ人間ほど理不尽な振る舞いが許される
・エスカレーターで片方に寄るという非効率的ルール
・ホテルの宿泊代が部屋単位で決まってなくて宿泊人数で増えるというガラパゴス料金システム
・世界標準から常識がかけはなれているため色々な人種差別を普段全く意識せず行なっている
・手書きの履歴書
・芸能スポーツ界の人間が平気で選挙に出てきて当選しちゃう
・全体主義的な風潮で個人主義を弾圧するため健全な議論や主張展開ができない
・海外ではゲイ扱いされるようなナヨナヨしたガリ男がなぜかモテる
・海外では売春婦にしか見えない格好を小中高生の女の子がしている
・完全にガラパゴス化している自動車関係の税金・法体系
・責任をとることを極端におそれ、決定を先延ばしする
・中身の無い様式美をビジネスなどにも持ち込みたがる
・指導者に合理的な思考がないため運動部で毎年熱中症で死ぬ子供たちがあとを絶たない
・日本の夏は高温多湿なのに礼儀のためにスーツを着ないといけないという風潮
・冠婚葬祭での異常な価格設定
・ブランド信仰・舶来品信仰
・過剰包装

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競争って本当に必要か?

「阿修羅」記事から転載。筆者は河合薫という人らしい。テレビなどにも出ている人のようだが、なかなか考え方がまともだ。つまり、人間らしさがある。

私は競争というものが大嫌いなのだが、それは必ずしも「負けるのがいや」というだけではない。「勝つのもいや」なのである。
私が勝てば、誰かが負ける。その負けた人間の不快な心中を考えると、勝っても嬉しくないのである。いや、勝った経験はほとんど無いけど。
こういう人間が競争社会でまともに生きられるわけはない。受験生を指導している間も、「自分が教えている生徒が合格すれば、その分誰かが落ちるんだよなあ」と考えているから、教えていてもあまり充実感は無かった。つまり、ダメ教師だったのだろう。
もちろん、この世界が本来は弱肉強食の生存競争の社会であることはよく分かっている。しかし、人類の進歩と発展は、人間同士が殺しあったり蹴落としあったりしなくても互助的に生きられるくらいには精神的文化的に向上したのではないだろうか。
仮にそうなっていなくても、そうなれるだけの潜在力はあるのではないか?
ならば、人間同士を競争させ、お互いを蹴落としあわせて、そのエネルギーや成果で発展していく、という在り方は、必ずしも絶対的な成長の条件ではないだろうし、そもそも、「成長信仰」は地球の資源量から言って、過去のものになりつつあるのではないだろうか。
ということで、私は競争が嫌いなのだが、スポーツ観戦は嫌いではない。試験は嫌いだが勉強は嫌いではない。今でも趣味で英語の原書にチャレンジなどしている。テレビなど見るより、昔翻訳で読んだ本を英語で読んだりするほうがよほど面白いのである。
私は今、2×2×3×?歳だが、これまでの人生で知り得た有益なもの、面白いものを、これからはじっくりと味わえるのが老年だと思っている。なにしろ、競争社会の中では、趣味的なものをじっくり味わう心の余裕も無かったのだから。



(以下引用)


 問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。

 競争に勝った人は、価値ある人。
 競争に負けた人は、価値なき人。
 競争に参加しなかった人も、価値なき人。

 こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。

 おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。

 「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。

 ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。

 競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。

 おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。

 ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。



 そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。


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いろはにほへと、散りぢりに

「村野瀬玲奈の秘書課広報室」から転載。
まあ、半分は冗談に近い提案だが、「瓢箪から駒」ということもある。
しかし、「日本A」と「日本B」という名称には異議がある。「A」と「B」には上下関係があるように聞こえる点だ。だから「B層」という表現があるのだ。まあ、新自由主義者たちの国を「日本B」にすればいいのだが、それも受け入れられないだろう。
ここは、生徒の作文を採点する時に上下の差別をしないために「雪・月・花」と付けたと言う誰かの(名前が出てこない。漱石門下の有名な随筆家で、黒澤の「まあだだよ」のモデルのあれだ。)故事に倣って「日本雪組」「日本月組」とするのはどうか。それじゃあ宝塚だって? まあ、いいじゃないか。風流な名前だし。
ついでに経団連や右翼の老人だけ集めて「日本紅葉組」とし、時々落ち葉焚きをするとかね。

*記事タイトルは久保田万太郎の俳句の一節。


(以下引用)


日本大改革のための、日本国「二分割」案 (世界愛人主義同盟公約 (11))
• ジャンル : 政治・経済
• スレッドテーマ : 税金
   

日本国民の多くは政治や政治家に不満を持っています。日本国民の政治への期待が裏切られ続けていること、いろいろな面で民意がなかなか政治に反映されないことについて日本国民は怒っています。

日本をどのように「改革」をすれば政治と社会と国民生活が良い方向に行くかという問題には安易な回答はありません。

たとえば、税制や社会保障制度や教育費に関する政策。国民の多くが反対する消費税値上げを、公約に背いて民主党は自民党・公明党と一緒になって強行しています。民自公は担税力の低い層への優先的な増税が日本のために必要だと説きますが、論理的に現実的に言っても、低所得者層への負担を増やす消費税値上げは、雇用の不安定化も加わって日本社会を不安定にし、崩壊させる要因としてはたらくことは確実です。

その他の政策についても同じようなことが言えます。

民意と政治の間のねじれが明らかです。

そこで、私が日本の政治リーダーだったら、こうしてみたいというアイデアを一つ提案します。

それは、日本を二分割して(仮称)「日本A」と(仮称)「日本B」に分けるのです。世界には人口規模が数千万クラスの「先進国」、「大国」はいくつもありますから、日本を二分割してそれぞれ数千万人規模の国としても国の規模自体は問題にはならないはずです。

そのうえで、「日本A]と「日本B」で、いわゆる議員選挙を減らして、それぞれに別々の政策を最初から実施させるのです。

たとえば、「日本A」は徹底した新自由主義政策の国として編成します。富裕層に所得税減税をし、法人税減税をし、消費税率を上げ、社会保障は削って自己責任とします。そのような方向性の政策を支持する人たちは意外に多いですから、「日本A」の運営に問題はないでしょう。

そして、たとえば、「日本B」は徹底した再分配機能の強化をした社会民主主義政策の国として編成します。富裕層や利益をあげている大企業に応分の税負担を求め、中間層や低所得層にも必要な負担を求める代わりに、社会保障を充実させ、医療や教育を無料とします。そのような方向性の政策を支持する人たちも意外に多いですから、「日本B」の運営にも問題はないでしょう。

つまり、日本に政府を「A」と「B」の二つつくるわけです。

では、この「日本A」と「日本B」の区切りはどうするかというと、納税者単位で選んでもらうのです。個人が「自分は日本Aに所属したい」、「自分は日本Bに所属したい」と申告し、法人(営利企業など)も「当社は日本Aに所属したい」、「当社は日本Bに所属したい」と申告して、それぞれの所属国に納税します。

すると、たとえば、「日本A」の人が医療を必要とするときは、「日本A」では医療保険は自己責任となっていますから、保険の負担は低いですが、万一病気になったら医療費は高額となります。「日本B」の人は医療保険や税金の負担は「日本A」よりは高いですが、万一病気になっても医療費はかかりません。

教育費、年金なども同様に、「日本A」と「日本B」で別々の運営をします。

ですから、同じ地域内で「日本A」の国民と法人、「日本B」の国民と法人が混在することになりますが、それぞれの自国政府とやりとりしますので、政府の運営にもそれぞれの国民生活にも問題はないはずです。

そのうえで、「日本A」と「日本B」の間の移動を個人にも法人にも自由にしてしまうのです。そうですね、たとえば、税年度が替わるタイミングで一年に一回、「日本A」と「日本B」の間を移動するかどうか個人にも法人にも選んでもらいます。そうすれば、個人も法人も自分が合理的なシステムだと感じる「国」に移って、その「国」を自分で支える意思が芽生えるでしょう。「両国間」の移動が自由ですから、何年もこの制度を続ければ、どちらの「国」の制度が合理的であるかもわかってくるはずです。

一国二政府にするための技術的な問題は多々あることは予見できます。だけど、それらは工夫次第で、すべてとは言いませんがある程度解決できると思います。解決できない問題は両国共通の政策をとりあえずは適用すればいいでしょう。

何より重要なのは、(たとえば)新自由主義者も社会民主主義者も、どちらにも一定の満足がもたらされる制度であるということです。そして、双方の方法を同時並行して検証し改善することができると期待されるということ、これは無視できないメリットではないでしょうか。

私は、こういうアイデアこそが日本の大改革だと思います。自民党の復古的改憲やら維新の会の維新八策なんて、失敗があらかじめ見えていますし、国民の中の不満は解消されません。選挙をしても、自分が投票したい候補はほとんどいない、というのが多くの人の感覚であるはずですから、政治と民意の間のねじれも解消されないはずです。それでは日本はいつまでたっても今のような混乱した政局が続くばかりで、国民に満足ももたらさないし、社会も経済も国民生活も不安定なままでしょう。

それを解決しようというのが、この「日本国二分割」のアイデアです。二分割ではなくて、もう少し政策の範囲を広げて三分割にしてもいいでしょう。

日本では、選挙で議員を選んでも政治が良くならないとしたら、国民が自分で所属したい国を選ぶというアイデアが、私の、いえ、私の所属する社員一人のサイバー政治団体(笑)「世界愛人主義同盟」の選挙公約です。ということで、この記事を「世界愛人主義同盟公約」の不定期連載シリーズの一つとしましょう。(これでこの不定期シリーズ11個目の記事です。)

説明が粗くて十分に具体的でないと感じる方もいると思いますが、趣旨はおわかりいただけたと思います。読者のみなさんのご意見やご提言がありましたら、お待ちしています。

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経営不振は経営者の責任でしょう?

「阿修羅」からの転載だが、元記事は「日経ビジネスオンライン」の河合薫という人の文章のようである。
私はしばしば「合成の誤謬」という言葉を使う。経済学の用語だが、私のお気に入りの「思考素」の一つである。要するに、「個々の事例においては正しくても、それらを総合した場合には誤りとなる」ような社会的行動のことだ。
多くの会社のトップをコストカッター型社長が占めるようになると、社会全体がデフレ化し、不況に陥る、というのがその典型的な例だ。コストカットによってその会社自体の収益は確かに(一時的には)改善される。しかし、その企業に勤める社員の給与水準は当然下がるのだから、それが社会全体に広がるととんでもないデフレ不況になるわけだ。
正社員から非正規社員へという雇用形態の変化も同じである。多くの会社がその手法で会社としてのコストカットをした結果、日本人全体の給与水準が低下し、内需は縮小してかえって多くの会社は売上を減らしていったわけだ。残ったものは富める1%対貧しい99%という格差社会である。今や、大学卒の5分の1は就職さえできない状況だ。就職できた中にも非正規雇用の割合は多いだろう。況や高卒に於いてをや、である。
真面目に勉強し、真面目に働けば安心して生きていける、というのはそんなに過大な望みなのだろうか? 我々が文句も言わずに税金や年金を支払ってきたのは、政府にそういうささやかな望みをかなえて欲しかったからではないか。
しかし、このジレンマから抜けだすのは難しい。会社経営者は利益を上げるのが至上目的だから、社員の給与を上げるのに二の足を踏むのは当然だ。社員の給料を上げた結果、他社との競争に敗れ、倒産したのでは話にならない。経営者視点で見れば、彼らにはコストカット以外の選択肢は無さそうに見える。しかし、本当はそうではない。会社自体が発展し、拡大すれば、社員に払う給与をはるかに上回る利益が上がるのである。
今の世の中には、そういう経営者が少なすぎる、ということだが、もちろん今の時代において会社が成長発展するようなアイデアを出すのが難しい、ということは確かだ。しかし、そういうアイデアが無い人間が会社を経営しよう、ということ自体が本当は間違いなのである。
私は、農業の屋内工場化と海水淡水化、太陽光(または太陽熱)発電によって第一次産業こそがこれからの成長産業になる、と思っているのだが、今の日本に欠けているもの、必要なもの、不満なものを洗い出していけば、やるべき事業のアイデアなど、いくらでも出てくるはずである。金のある連中にはアイデアが無く、アイデアのある人間には金が無い、ということだ。



(以下引用)

そもそも企業が正社員ではなく、非正規雇用を選択するのは、コスト削減が目的である。「非正規社員の賃金は正社員よりも低くて当たり前」などという“常識”が日本人の経営者に広がっているために、「経費削減のためには、正社員採用ではなく、賃金が安く、いつでも解雇しやすい非正規にしよう」と考える。
 だがこの、働く人たちが“人”であることを無視した考え方が、企業を潰すことになる。
 「企業経営で一番の問題であり、経営者が気をつけなくてはならないのは、経費削減が実際には錯覚でしかないことだ。この錯覚こそが企業の力を弱め、将来を台無しにする」
 こう説いたのは、米スタンフォード大学経営大学院教授で、組織行動学者のジェフリー・フェファーである。
 彼は、「人件費を削るなどの経費削減が長期的には企業の競争力を低下させ、経営者の決断の中でもっともまずいものの元凶であることは歴史を振り返ればわかる。経営者が新しいと思っている大抵の決断は、ちっとも新しいものではなく古いものである場合が多い。歴史の教訓を全く生かさないと、過ちが何度でも繰り返される」とし、経営学を労働史から分析した。
人件費を抑えるほど「費用対効果」は下がる
 例えば多くの企業がパートを雇い、その数をできる限り減らし、給与をできるだけ抑え、労働コストを切り詰めようとする。だが、歴史を振り返るとそのやり方が、いかに間違っているかが分かる。デパートチェーンのエンポリウム・キャンプウエル・カンパニーは、人件費削減を徹底した結果、倒産したと、フェファー教授は説明する。
 このデパートチェーンで売られている商品に問題はなかったが、安い給与で雇われる従業員は、知識や技術を習得しようとする意欲に乏しく、結果的に生産性は低下した。商品よりも質の低い従業員にお客も嫌気が差して離れていき、倒産に追い込まれたというのである。
 一方で、今や一流デパートとして名をはせているノードストロームは、業界平均よりも高い給与を払い、正社員雇用を徹底したことで、業績を伸ばした。
 低賃金で、不安定な雇用形態では、労働者のモチベーションが低下し、無責任で意識の低い行動に陥る。だが、高賃金で、安定した雇用形態では、労働者の責任感は高まり、自分の技術を磨くために勉強したり、自己投資をしたりするようになる。従業員1人当たりの人件費を抑えれば抑えるだけ、費用対効果は悪くなるとしたのである。
 そういえばフォードの創業者で同社を世界的な企業に育てたヘンリー・フォードは、「1日5ドル」という、当時としては破格の賃金を払ったとされているが、彼は取材を受けるたびに好んで、次のコメントを繰り返したという。
 「我々が考案した中で、最高の費用削減の手段の1つが、1日5ドルの賃金を決めたことだ」と。
 賃金抑制の経費削減が、錯覚であることを教えてくれる歴史は、日本にもある。ホンダの創業者である本田宗一郎氏が、「こんな冷えたまずい飯を食わせて、いい仕事ができるか」と従業員の働く環境におカネをかけることを厭わなかったのは有名な話だ。
 松下電器産業(現パナソニック)を創業した松下幸之助氏も「松下電器は人をつくるところでございます、あわせて商品もつくっており ます」と常々語り、「給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、その適正化をはかっていかなければならないと考えます」との言葉を残している。
やはりおカネは最も重要な報酬の1つ
 「ん? ってことは、結局はカネさえ出せばいいっていうのか?」
 そう苦言を呈する人もいるだろう。
 もちろん人間の行動は、おカネだけで変わるわけじゃない。
 実力を発揮できたり、能力を高めることができる機会や自分の仕事が正当に認められる機会、発言の機会があること、自分でコントロールできる裁量権や責任が与えられていることなどを通して、「報われている」という感覚を持てるかどうかに左右される。
 だが、おカネも大切な要素。おカネだけが報酬ではないからといって、企業の都合でいくらでも下げていいというわけじゃない。
 世の中には、「いやぁ、従業員に働きがいを聞いたら、お客さんに感謝されることがトップで、給料は3位だったので給料は下げます」などと、「おいおい、マジですか?」というようなことを平気でするトップもいる。
 しかし働く人にとって、おカネは欠かすことのできない大切な報酬の1つ。ましてや賃金以外の報酬が期待できない、非正規雇用では、なおさらである。
 とはいえ、矛盾するように思うかもしれないけれども、賃金を高くさえすれば従業員はいい働きをするというわけでもない。
 奇しくも松下幸之助氏は「適正な給与」という言葉を使っているが、もらっている所得が高額であればあるほど、“金のため”だけに働く人が増え、会社のためではなく、自分の利益のためだけに働く人が増えることもある。
 人間の自己利益を最大限守るという欲求と、慣れるという感覚が、会社の利益にはつながらない行動を生み出すのだ。
 そこで大切となるのが「賃金の絶対的レベル」ではなく、「賃金の公平感」だ。
 賃金公平感とは、「自分が要求できると考えている金額が支払われているかどうか」に相当する感覚のこと。この感覚は、職務内容や本人が負っている責任、自己意識、過去の賃金といったかなり主観的な考えに基づいていて、たいていの場合、世間の相場との比較で決まる。
 平たく言えば、「まあ、私の仕事ならだいたいこれくらいだろう」といった賃金に対する期待度だ。同時に、組織の場合では周りの社員との比較が強く影響を及ぼす。
 正社員と非正規社員、男性と女性、高卒と大卒、といった具合に、自分に近い“他人”との属性の違いで、賃金を比較し、そこに格差が存在すると「賃金公平感」がグッと低下し、「どうせ自分はこれだけしかもらえないんだから、適当にやっておけばいい」とか、「あいつは自分よりもたくさんもらっているんだから、アイツがやればいい」となるのである。
 この賃金公平感は、おカネ以上の感情をも左右する。非正規社員という雇用形態に潜む、「人をただのコストとしてしか扱わない不条理」を、非正規の立場に置かれた人は敏感に察知する。それは本人にとっては、ストレスの雨であるとともに、質の低い行動を引き起こす引き金でもある。
 人間というのは、相手との関係性の中で行動を決める厄介な動物だ。「自分を信頼してくれている」と感じる相手には信頼に値する行動を示そうとするし、「自分を大切にしてくれている」と感じる相手には精一杯の誠意を示そうとする。「自分は非正規だから、ただの調整弁だ」と感じる相手には、それなりの働き方しかしないのだ。
 また、世の中には、「新卒の質の低下が非正規という簡単に解雇できる仕組みを助長しているんじゃないか」という意見を述べる人もいる。言い換えれば、問題は雇用される側にあるという見方だ。全体的に新卒の質が低下しているからこそ、厳しい状況に置かれている企業が、「使ってみたけどダメだった」と判断できる雇用形態(=非正規雇用)を取っているのでないかというわけである。
 似たような指摘は、1990年以降、高卒の市場が急速に縮小していった時にもあった。高卒の求人倍率が1992年3月卒業予定者の3.08倍をピークに急激に低下し、2003年には0.50倍まで落ち込んだ。
 当時、求人倍率の低下を招いた原因に関する研究が、労働経済学や教育社会学の専門家が中心となって行われた。その結果、いくつかの原因が明らかになり、その中の1つに、「厳しい経済状況に加え、人的投資の対象として、高卒の若者の相対的な魅力が低下した」との結果が示されたのだ。
人材の側も「大切にしてくれる職場」を選別している
 ところがそれらの研究の対象が、高卒を採用しなくなった企業に限定されていたため、2000年代に入っても1990年代初頭と変わることなく高卒を採用し続ける企業も対象に加えた分析が行われた(出所:「新規高卒者の継続採用と人材育成方針」)。
 その結果、高卒採用を継続している企業には、人材を長期的な視点でとらえ、育成する方針を徹底しているという共通点があり、さらには高卒者の育成に積極的な企業ほど、新規高卒者の質が低下したと判断しても採用を減らすことなく持続させ、質の高い人材を採用できているという結果が認められたのである。
 つまり、質が悪いから雇用を減らすとか、質が低下しているから非正規にするとか。それは自分たちの保身のための、単なる責任転嫁でしかない。私自身、いろいろな企業を取材したり、講演会などでお邪魔した時に話を聞いたりする中で、「元気な会社は、社員におカネをかけている」と感じることが多い。
 新入社員からマネジャーに至るまで、社員教育を徹底していたり、非正規雇用を採用している場合でも、それは会社側の事情というよりも、結婚や出産などの理由で転勤のない働き方のためのものであり、福利厚生や年金については正社員と同様に扱うなどしているケースがほとんどだ。
 「非正規になって賃金は下がりました。でも、それは私の都合でそうしてもらっているので、会社には感謝しています」
 非正規雇用20年というパートの女性は、そう話してくれた。雇用形態の主役は、あくまでも従業員。企業ではない。
 「いやぁ、でも会社も大変なわけで……」。そうやって言い訳をしながら経費削減の錯覚にとらわれ続け、使い捨て社会を容認するトップたちが居座る会社に未来はあるのか?
 人は「自分を大切にしてくれている」と感じられたことのお返しとして質の高い行動を取るだけでなく、「あの会社は自分を大切にしてくれそうだ」と感じられる会社を常に探し、優秀な人材ほどそういう魅力的な職場に吸い寄せられるように集まってくる。企業が「質の高い人材」を求めているように、人も「質の高い会社」を探している。質の高い会社を選択するか、質の高いわずか1%を血眼になって探すか? どちらを選択するかは、トップ次第だ。


(引用2「笠木恵司のブログ」から)


ただ、日本では長期に渡る不況とデフレのおかげで、いつの間か業績不振=リストラクチャリング(構造改革)=早期希望退職勧奨、要するにクビ切りが常道のようになってきました。ボク自身は終身雇用より人材の流動化をもっと進めていくべきだと考えていますが、自分から退職するのと、クビになるのは天と地ほどの違いがあります。
 そして、退職勧奨を受ける一般社員に、業績悪化の責任がどれだけあるというのでしょうか。ある先輩から「会社員には義務と権限と責任がある」と言われたことがありますが、その三角形ならびに報酬は組織の上に行けば行くほど大きくなっていくのが普通です。つまり、会社が傾けば、その責任はまずトップマネジメントが負うべきものではありませんか。
 なのに、なぜ中高年の一般社員から早期希望退職勧奨となるのでしょうか。
 スイスの時計ブランドでは、業績不振が続くと、何よりも最初に社長が交替します。「資本と経営の分離」なんていう難しい経営用語を使わなくても、その理由は簡単に説明できます。時計師や技術者を解雇してしまえば、その後でいくらカネを持ってきたところで、時計を作れなくなるからです。そんなブランドを買収するような奇特な資本家がいるはずもありません。
 こう考えていくと、日本の会社は社員を経営資源と見做していないのかとなってしまいます。もしも仮にですけど、会社の上層部が生き残って、社員の多くが整理解雇されるというなら、何度も繰り返すようで恐縮ですけど、まさにタコが自分の足を食っているのと同じではありませんか。


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温かい言葉に支配された残酷な社会

私は、難病などのために自力で生きられなくなった人間には社会が自殺の便宜を図ってやるべきだという考えなのだが、「自殺幇助」は殺人との区別が困難なので(森鴎外の「高瀬舟」である)、医師に頼んでも毒薬は貰えないし、せめて苦痛を少なくしようと麻薬の処方を望んでも、それもなかなか難しいようだ。現代医学ならば、「副作用の無い麻薬」くらい開発してくれても良さそうなものだ。(「副作用の無い毒薬」が欲しい、というのは昔のボブ・ホープのコメディ映画の中のギャグだが)死ぬ時くらい、楽に死にたいではないか。
その気になれば自殺など簡単さ、と言うかもしれないが、それがそうでないから困るのである。時々見かける、インターネットで仲間を募って集団自殺をする、という奇妙な行動も、誰かと一緒なら、勢いで死ねるからである。
一人であっても、医師が毒薬を処方してくれれば、何となく「勇気を持って死ねる」ような気がするのだが、私はまだ自殺した経験は無いから、本当にそうかどうかは分からない。しかし、誰かが見守っていれば、落ち着いた気持ちで死ねそうな気がするのだ。ソクラテスなども、そんな気持ちではなかっただろうか。それに「死を従容として受け入れる俺ってカッケー」という気持ちもあっただろうから、それは是非誰かに見ていてほしいはずだ。
まあ、医者は患者を治すことで金を貰っているのであり、殺すことで金を貰うわけにはいかない、と堅いことを言う人もいるだろうが、なあに、患者の治療で恒常的に手に入る金の方が、毒薬一回だけの処方より儲けがある、という純粋に経済的な理由なのかもしれない。この世の問題の正体のほとんどは経済問題なのだから。
で、経済面から考えると、下記の記事は私の提唱する「自殺推進策」に次ぐ名案である。こちらは私のような素人ではなく、本物のお医者さんからの提案だが、私同様、世間の非難を受けそうな案である。
実際には、これは看護する側の手間と、看護される側の苦痛や不快感の両方を一気に片付ける人道的な解決案なのだが、外見的にそうは見えず、手術で肛門と膀胱を外部に作るというのが、「人間を人間扱いしていない」ように見えてしまう、という点で、おそらくもうアウトになってしまうと思う。世間、特に日本社会というものは、「うわべがきれいそうな言動」しか許容されないのである。
そして、現実に存在する非人道的な状況は、「うわべだけを飾るやり方」のために、根本的な解決が無く、不幸な人々の不幸は半永久的に続くのだ。
ところで、寝たままで排泄ができ、病人の体全体、あるいはその一部の洗浄ができるベッドなんて、簡単に作れると思うのだが、なぜ技術者たちは誰もそういうのを作らないのだろうか?


(以下「レジデント初期研修用資料」から引用)

介護と人工肛門

寝たきり老人が増えた。人生の最後の10年ぐらいをベッドの上で過ごす人は、半ば当たり前になってきた。
団塊世代の人達が、これから寝たきりになってくる。
介護の需要はいよいよ増えるはずだけれど、若い人は減ってしまうから、人手は間違いなく足りなくなる。 人手が足りない業界の給料は上がるはずなんだけれど、今はもうお金無いから、やっぱりたぶん、介護業界に投じられる予算は増えないのだと思う。
人間の「排泄」ラインは、あくまでも立って生活するのに特化していて、「寝たきり」の体位を想定していない。おむつを当てたところで、寝たままの排泄は苦痛だし、うまく出ないし、介護するほうは、だから1 日中、おむつ交換に忙殺される。
「人間らしい」介護が求められてるんだという。介護施設を外から観察する人達にとっての「人間らしさ」とは、食事の介助を付きっきりでやることだとか、日中は車いすで外を散歩することだとか、たとえ不隠のきつい人であっても、夜中も付き添って、縛ったりしないことだとか。
実際に療養病棟でやられていることは、「おむつ交換」と「体位交換」の繰り返し。 「人間らしい」お仕事は、もちろん介護を提供する側にとっても「人間らしい」お仕事だから、みんなそういうことしたいんだけれど、便汁と床ずれは待ってくれない。
見学に来る人は、食事の風景だとか、レクリエーションの時間なんかはチェックするけれど、スタッフが4 人がかりで便まみれのシーツ交換している風景だとか、茶色が染みた紙おむつの山を バケツに放り込んだ台車が廊下を何往復もしている風景だとか、あんまり見てくれない。
「おむつ」の問題が解決できれば、寝たままトイレに行ったり、排泄できたりするベッドが作れれば、 介護は画期的に楽になる。おむつ交換に回す人手が減らせれば、お互いもっと「人間らしい」ことができる。そこにはすごく大きな市場が在るはずだから、今はもちろん、世界中の寝具会社が開発に全力挙げてる はずなんだけれど、未だに何も出てこない。
寝たきりになった高齢者に「人工肛門」と「膀胱瘻」を作ってしまうと、問題は解決する。へその左右に、袋が一つずつつく形になる。
これをやると、肛門側からは何も出ないから、おむつ交換は理論上必要なくなる。 便とか尿が背中に漏れないから、シーツの交換頻度も減らせるし、お尻が便で汚染されないから、 床ずれも治りやすい。
介護の仕事は、食事の介助、体位交換、おむつ交換と便の始末がほとんど全てだから、 人工肛門を作った患者さんについては、食事の介助以外、ほとんど全ての作業が不要になる。 人的リソースが節約できるから、みんなが大好きな「人間らしい」仕事に、余力を割けるかもしれない。
これからは在宅介護が主流になるらしい。絶対無理だと思う。24時間、4時間おきに体位交換とおむつ交換とか、一人でそれをやり続けるのは無理だから。

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なぜ喫煙は迫害されるのか

「雇用問題と健康問題」あるいは「国内問題」や「日々の雑感」をこのブログでは扱おう、というのが大体の方針だが、私は方針を立てるのは好きだが守るのは嫌い、と言うより義務となると何でも嫌いなので、立てた方針もあまり意味が無い。
計画するのは大好きなのである。自分のことだけでなく、国家百年の大計、なんてのも考えるのは好きだ。まあ、「白昼夢」に耽るのが好きなのだろう。
そういう人間の夢想だから、私の文章に実証性や正確さを求めてもらっては困る。ただ、世間にはあまりに真面目すぎる人間が多すぎて息が詰まるので、私のようなルーズな人間もその毒消し効果くらいはあるだろう。真面目な人間の困ったところは、他人にまでその真面目さを強要するところで、それが日本の地獄化の一因だと私は思っている。
私は権威とか定説とか常識というものをほとんど信じていない。権威というのは他人を恐れ入らせるための芝居であるし、定説とは「現在有力な仮説」でしかないし、常識とはその地域でのみ有効な便宜的知識でしかない。進化論もビッグバン理論も私にとってはただの仮説だ。ところが、それが権威となり、社会的圧力になるから問題だ。
全世界的禁煙運動なども私が疑わしく思っているものの一つである。なぜ、これほど根拠の怪しげなものが、これほど全世界的な広がりを持って強制されているのか、と考えればここには何かの裏事情がある、と考えるのが私流の考え方だ。
それが何かは分からない。確かに喫煙は体に害はあるだろうが、「副流煙の被害」と言われると、それほどのものか、と思う。まあ、女性などが煙草の匂いがカーテンに付くのが嫌い、という気持ちは分かるが、煙草の精神的効用を考えれば、煙草呑みの権利は守るべきだと私は思っている。もっとも、煙草のもたらす鎮静効果はただの深呼吸の効果と煙草の匂いの効果なのかもしれない。煙草の匂いがいい匂いの一つだというのは確かだが、それも嫌な臭いと思う人もたくさんいるだろうから、強いて言い張る気はない。
煙草と肺癌の関係については、下の記事にあるように、(グラフのコピーができなかったが、喫煙人口がどんどん低下しているのに肺癌による死亡者数はどんどん上がってきているというグラフだ)どうも相関関係は無いようだが、まあ、肺の中にタールを付着させるのが体にいいはずはないだろう。大麻解禁になれば、煙草よりも健康的に瞑想的気分になれるかもしれないが、今のところは日本では大麻は吸えない。となれば、合法的に瞑想的気分になるには禅でもするのが一番だろうか。私の見る煙草の効用とは、「簡便に瞑想的気分を与えるもの」なのである。
昔から小説中の名探偵の多くがパイプ煙草などを嗜むのはその故である。



(以下引用)



2012/9/1


「科学者テスト・・・自分は科学者になれるか?:武田邦彦氏」  その他

科学者テスト・・・自分は科学者になれるか?:武田邦彦氏

「tabacowosuutosinanaitdyno.226-(7:35).mp3」をダウンロード

最近、ある若手の技術者を対象にした教育をしたときに、おもしろいことがありました。それは「タバコと肺がん死のグラフを見て、どのようにデータを解釈するか」という出題です。





グラフは単純でここに示したもので、データは紛れがない単純なもので、このグラフに載せた「肺がん死の数」も「喫煙率」もよく知られたもので反論はありません。このグラフを見て、次のどのような反応をするかで、自分が科学者になれるかが分かると私は教育を通じて感じました。

1) ムカッとくる、
2)変なデータだと思う、
3)ウソだと思う、
4)点線のところなどが気になる、
5)寿命が延びているから、その影響があると思う、
6)喫煙率が下がると肺がん死が増えると理解する。
7)タバコを止めると肺がんになるのだなと思う。
教育をした私の感じとしては、1)から3)のように感じる人は自然科学を選ばない方が良い人、4)の人は技術者になっても成功しない人、5)は何とか技術者になれる人、そして6)と7)は技術者として成功する人のようです。

ムカッとくる、つまり1)番の人は科学者には不向きです。学問というのは「心」が入らないようにして、確実な事実と明快な論理で構成されるものですから、そこに「心」や「先入観」が入っては成功しません。

タバコに関しては多くの人がいろいろな「感情」を持っています。煙が嫌い、火事の心配、汚らしい、図々しい、かっこいい、大人の雰囲気・・・などです。でも、データを見るときに「頭」と「心」を分離できるのが科学者ですから、どうしても感情が入るという人は科学の道は止めた方が良いでしょう。

また、「ウソだと思う」という3番ですが、これも不適切です。つまり、データを見るときにはまずは信頼できるデータを見ることですが、喫煙率と肺がん死の関係はこのデータしか日本には無いのですから、「ウソ」であると言うことになると、他にデータが無ければならないことになります。

このような時「ウソ」という感じを持つのは、「自分の先入観と違う」という事です。先入観の方がデータより重要であると考える人は技術者にはならない方が良いでしょう。科学は常により真実に近く、より新しいデータを求めるものです。そして科学者の辛いことはこれまで10年間以上の信じてきたデータでもある時点からそれが間違っていることを認めなければならないことがあります。その時に「自分を捨ててデータを採る」という苦痛を克服しなければならないからです。

・・・・・・・・・

科学の経験が深く、謙虚な気持ちで観察をしたいと思っている場合、データに接したときに、それまでのすべての知識、先入観をいったん横に置いて事実を見ます。それは「学問は進歩する」、あるいは「今、正しいと思っていることでも覆ることがある」という確信です。だから、たとえ「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」と考えていても新しいデータをまずは素直に見る習慣がついています。

さて、このグラフはあまりにも傾向がハッキリしていて、「喫煙率が下がるほど、肺がん死が増える」ということですから、もし他の原因がなければ「タバコを吸うと肺がん死が防止できる」、あるいは「タバコを止めると肺がん死になる」ということを意味しています。でも、そこまで一気に行くことができる人も少ないと思います。

・・・・・・・・・

ところで、厚労省の報告などを見ると、「タバコを吸うと何倍、肺がんにやりやすい」などという数字が多く出てきます。それはどこのデータでしょうか。たとえば1990年に肺がんで死んだ人が4万人います。この時の喫煙率は約60%ですから、肺がんで死んだ人の内、タバコを吸っていた人が60%なら、タバコを吸っていても吸っていなくても肺がんになる比率は同じということになります。

しかし喫煙してすぐ肺がんで死ぬわけではなく、肺がんで死ぬ人の多くは20年ほどタバコを吸っていて、70才で肺がんになるというようなケースですから、20年前の喫煙率というと、1970年ですからほぼ80%となります。だから肺がんで無くなった人の80%がタバコを吸っていたとすると、「タバコと肺がんは関係がない」ということになります。

つまり、ここに示したような「真逆」なデータが有る限り、ある少数のデータで「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」という結論を出すためには、全体の傾向を否定するような強力な証拠が必要ですし、なによりそれが公開されていることです。厚労省のデータは生データ、整理の仕方、判定基準などなにも書いていないのです。特に厚労省の天下り団体で「健康促進団体系統」のパンフレットなどには、結論だけが書いてあってまったく科学の判断ができません。

ある国の委員会で委員の一人が素データを求めたところ、「禁煙に反対する人にはデータを見せない」と言われたという有名な事件があります。反対する人にこそデータをよく説明し、納得してもらうのが学問の手順ですが、それをしないということは政治であって学問ではないということを証明しています。

「喫煙を禁じる」というのは日本国憲法で定められた「基本的人権」に抵触するのですから、かなり精密なデータと整理が公表されることが必要です。日本国は科学技術立国で技術者が250万人もいるのですから、充分な説明をして国民的な合意をえることが国の義務でもあります。

(平成24年8月28日)

武田邦彦

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