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8月18日放映のNHKアニメ「団地ともお」のこと

昨日、偶然にNHKのアニメ「団地ともお」というのを後半だけ見たのだが、それが「あの戦争」について今の日本人がどう対しているか、という姿をリアルに描いていたので驚いた。画風は(原作漫画もそうだが)どちらかと言えば稚拙な感じで、内容は「あまり出来のよくない小学生とその家族や周辺人物の日常」をのどかに描いたものであり、まあ、「ちびまる子ちゃん」か「サザエさん」の同類だと思えばいい。それが「あの戦争」を、戦争そのものではなく、「学校ではほとんど教えられることが無かったために、『あの戦争』とどう向き合っていいのか分からない」普通の人々の今の姿を描くことで、逆に、これまで何が隠されてきたのか、これからそれとどう向き合っていけばいいのかを考えさせるという、見事に教育的な(揶揄的な意味ではなく、肯定的な意味で言うのである。)内容のアニメになっていた。NHKも現場にいる人々は知的で良心的な人々が多いのだと思う。彼らの「籾井体制」へのひそかなレジスタンスをこのアニメに見た思いである。
この回の「団地ともお」は、ぜひネットなどで流布されてほしいものだ。



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デカルト主義からデ・カルト主義へ

「大摩邇」から、私の興味を引いた記事を二つ転載。
(引用1)は「るいネット」から、(引用2)は「in deep」からのものであるようだ。
まず(引用1)だが、少々首をひねるところはある。丹田呼吸は「出息入息を念じつつ行なう」という部分である。いちいち呼吸を「念じつつ行なう」なんて、それこそ呼吸をするということだけに意識が囚われてしまい、「ものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ」云々ということと正反対になりそうである。もちろん、これは「最初のうちは」念じつつ行ない、後ではそれが身について「赤ちゃんの頃は自然にやっている」のと同様に無意識なものになるのだろう。
切迫した呼吸は瀕死の人間の特徴であり、これを怪我や病気でもない人間が日常からやっているとすれば、あまりいいものではないだろうと推定できる。
この「丹田呼吸」は単なる「腹式呼吸」と何が違うのだろうか。
そもそも私は武道などでいう「丹田」という概念がよく分からないのである。腹式呼吸では、あくまで呼吸は胃のあたり、臍の上あたりが膨らむだけだろうから、丹田呼吸とは別なのだろうか。「下腹部の充実した」というのは、「気力が漲った」という状態に近いように思うのだが、いったいなぜ下腹部が気力と関係するのか、どうもよく分からない。
まあ、意識を感覚器官の集まった頭部からできるだけ遠ざけ、下におろすことで「落ち着かせる」ということ、そしてその「落ち着かせる」のに適当な位置は人間の重心部分である下腹部(上肢と下肢の中間部・腰骨で覆われた不動部分)なのか、というのが私が今適当に推測したことだ。
要するに「落ち着く」という日本語はまさに絶妙なもので、「落ち」て「着く」のが「落ち着く」であり、その反対が「浮つく」である。我々現代人はほとんどの人間が浮ついた生き方、浮ついた生活をしているのは誰でもそう感じているだろう。そこで、「少し落ち着け」ということになるが、浮ついた人間の特徴が、切迫した、せかせかした態度、せかせかした呼吸ではないか。「丹田呼吸」などと事々しく言わなくても、「落ち着く」ためには深呼吸をし、呼吸を鎮めるのが有効だ、ということはほとんどの人が経験的に知っている。その「落ち着き」を非常の際にも保てる人間を達人と言うのだろう。
しかし、

「かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。」

とはまた凄いことを言うものである。呼吸法一つで人生問題すべて解決、みたいなものだ。現代なら「公共広告機構」から誇大宣伝で捕まるんじゃないか。まあ、これは「古代宣伝」だから「誇大」でもいいのか。(笑)

(引用2)を載せた理由は、私自身がこの引用された言葉とは反対に「懐疑主義」を大事なことだと考えているからだ。(これはここまで書いた記事内容自体からも分かるだろう。)しかし、懐疑主義がもたらす「否定的感情、マイナス感情」というものは確かに存在しているとは思う。
新興宗教信者などを「馬鹿だなあ」と否定するのは簡単だが、彼らがそれによってある種の「幸福」を得ていることは確かだろう。その幸福までは否定はできない。そうすると、「論理的整合性」だけを追及する生き方と、盲目的「信者的」生き方と、どちらが「良い人生」なのか、軽々には言えない、ということである。
そもそも私自身、デカルト「信者」、西洋式合理主義思想「信者」だ、と片づけてもいいのである。ただ、その「合理主義」にすら疑いを持っている、という点では純粋合理主義信者ではないのだが、「あらゆるものを疑え」というデカルト主義を突き詰めれば、「懐疑主義そのものをも疑え」となるわけで、純粋デカルト主義者だとは言えそうだ。デカルト主義の極点はデカルト主義の否定にあり、ということ。(笑)
今思いついたが「デカルト」という名は「デ・カルト」と分けられ、「de」は「分離・否定」を意味する。カルト(cult:偽宗教・狂熱)を分離し、否定するわけだ。私は「デ・カルト主義者」を名乗ることにしよう。要するに「中庸主義者」にすぎないのだが。




(引用1)

丹田呼吸法というのがあります。
「丹田」は、臍の下あたり、女性でいえば子宮あたりとも言えます。
そこを意識しての呼吸で、赤ちゃんの頃は自然にやっているそうです。
(やり方はリンク等を参照してください。)

現代人は、ストレスを感じやすくなっており、それが胸式の浅い呼吸を引き起こし、体調不良につながり…、と悪循環に陥りやすい構造にあります。
だから、意識的にこの丹田呼吸をすることで、身も心も健やかになれるそう。

釈迦の教え「大安般守意経」の中にも、この呼吸についての記載があります。

『釈迦がある時、祇園精舎で多くの弟子を集めて正しい呼吸の重要さについて話された。出息入息を念じつつ行なうならば、おのずと下腹部の充実した丹田呼吸になっている。この呼吸法は眼も疲れず病まず、そしてものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ、後で悔を残すような楽しみに染まらないことを覚えるであろうと。かように出入息法を修行するならば大いなる果と大いなる福利を得るであろうと。かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。』(リンク)より


(引用2)

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。

「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。



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思い出を呼び返すまでもない、か

私の脳が一番せわしなく活動するのは、寝覚めの少し前かと思う。その時には夢うつつのうちにいろいろな想念が脳の中で動く。ほとんどはくだらない浮遊思考だが、意識的思考に縛られない放漫さが、かえって創造的でもある。で、そういう夢うつつの思考の中でも意識的にコントロールしている部分があるのだが、最近の問題は、その思考の中で固有名詞が出てこなくなったことだ。つまり、ボケである。年齢的にはまだまだボケる実年齢ではないのだが、何かの原因で松果体の石灰化が起こっているのかもしれない。いや、松果体が記憶を司る器官かどうかはまだ確定した説ではないと思うが、私はそう思っているのだ。なお、短期記憶は海馬が司ると思っている。
私はもともと記憶力のいい方ではないのだが、社会生活や人間関係にあまり関係の無い「書物的(ブッキッシュ)」な事柄については、わりと覚えている方だった。それが思い出せなくなってきたのは、少し困ったことだ。何しろ、それでは文章など書けなくなる。社会生活や人間関係は、この年になれば最小限にするのがいい、と思っていたから、それは問題ないのだが、考えるのが趣味という人間に、考えることの土台である記憶そのものが無くなれば、もはや生ける屍だろう。
ということで、記憶力を保持し、できれば高める手段が無いものかどうか思案中である。
もっとも、記憶力と一言で言っても、記憶することと思い出すことは別の機能ではないか、と思う。私が今困っているのは、「思い出す」能力の減退だろう。まあ、思い出す必要性が本当には無いからこそ思い出せないのかもしれない。
なお、私が今、思い出せないもの(つまり、今朝の目覚め前の想念の中で思い出そうと空しく努力したこと)は大島弓子の漫画「雨の音が聞こえる」のタイトルにもなっている「雨の音が聞こえる」という詩を書いた詩人の名前である。その詩人は「いちめんのなのはな」というひらがな書きの行が幾つも続く有名な詩の作者でもある。
今朝の覚醒時思考の中で連想的に考えた「海にいるのは」(これも大島弓子の漫画の題名に使われた)の作者が中原中也だったことは、少し考えて思い出せたのだが。
私の頭の中の海も、今は人魚などおらず、ただ「波ばかり」なのだろうか。
そう言えば、「雨の音が聞こえる」の中で、「思い出を呼び返すまでもない」というフレーズもあったようだ。バイロンの詩「思い起こさすな」の引用だったか。

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大人のいない社会はどういう社会になるか

「東洋経済オンライン」2014年12月26日記事。平川克美×小田嶋隆「復路の哲学」対談(1)「そして日本からオトナがいなくなった」より抜粋。
今の日本を考える上での、いい「思考素」となりそうな発言なので、備忘として。
対談の他の部分で、年を取ることに否定的な今の社会の風潮への疑問も提示しているが、その疑問にも同感である。

小田嶋隆の「自分たちは団塊の世代の残した瓦礫の上を歩いてきた」には、皮肉な気持ちも含まれているように感じる。壊すのはいいが、お前たちは何を作ったのだ、という気分があるのではないか。実際、今のこの地獄的日本を作ったのはほとんど団塊の世代である。もっとも、そのレールを敷いたのはそれより年長の「戦争に行かなかった連中」であり、戦前戦中から続く利権階層だが。


(以下引用)

..

小田嶋:僕らは平川さんたち団塊の世代がいろんな権威や旧弊的なものと戦い、壊して来た瓦礫の上を歩いて来た、という世代です。一方、今の若い人たちは「何にもなくなったあとの世界」で生まれ、大人になってきたという側面があると思うんです。ここには実は、けっこう大きな断絶があるような気がしています。

いちばん大きいのは、僕らは家父長制的な、縦社会の圧迫を受けてきた経験を持っていますが、今の40代より下の世代だと、そういう縦社会の理不尽な圧制をあまり受けずに育って来たんじゃないか、ということです。

実は、そういう人が中核を占めるような社会で何が起きるのか、ということは歴史上例がないわけで、いわば社会実験をやっているような状況にある、といってもいいと思うんです。

『昭和残侠伝』で

平川:そういう権威主義的な秩序を壊して来た世代の人間が言うのもなんだけど、「かつて、自分たちの社会にはこういうものがあった」ということを知っておくということは、大切なことだと僕は思うんです。今の日本、今の家族、今の社会みたいなものがずーっと、当たり前のように続いて来たかというと大間違いで、いろんな経緯があって今がある。そのことを知っているか知らないかは、生きていく上で大きな違いを生む気がします。

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嵐の前、嵐の後

「播州武侯祠遍照院」ブログから転載。
忠武飛龍さんが立てる易は、その時の状況を見事に説明し、その成り行きについて教訓的な示唆を与えることが多いので、非常に興味深い。私もたまに自分で易占いをするが、これがまったく当たらない。(笑)おそらく、霊能力がゼロなのだろう。
さて、総選挙についての卦が「沢雷隋」で、意味するところは


随(ずい)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、

およそ天下万般のことは、人に随い従って行うときには、その事業は容易であり、容易であればこそ、成し遂げることができるものである。
だから、随うということを念頭に行えば、物事は元いに亨るのである。
そもそも人に随うときには、一にも二にも、正しくすることが大事であり、そのようであれば、咎められることはない。
これが、悪に随い、邪に随うようであれば、言わずもがな、大いに咎められるものである。
だから、貞しきに利ろし、咎无し、という。

これを選挙に当てはめて解釈するのは難しいが、「本来上の立場の者が、下の立場の者に従う」ことになる、という「沢(少女)」の下に「雷(長男)」が付き従う、というところがヒントになりそうだ。今のところは、それが何を意味するかはよく分からない。

面白いのは、変卦が「沢火革」で、これは選挙の後に日本社会に大変動が起こることを意味するものだろう。

そして、一度革命したら、爻一本を一年として、この卦が終わる上爻のときが過ぎるまでは、何があってもそのまま続けなければいけない。
すぐには改革を歓迎されなくても、その改革したシステムをきちんと直向に運営していれば、三年目すなわち上爻のときにはそれまで不満だった人々からもその改革が歓迎されるようになり、改革を発案した君子はまるで豹の如くに美しく見えるものである。

本物の革命かもしれないし、あるいは「遷都」ではないか、という気もする。そして、遷都と同時にこれまでの政治システムにも大きなメスが入れられる、そういう可能性もゼロでは無いだろう。つまり、真の「正気」を持った正義派官僚による日本の改革である。(残念ながら、政治家にはこの改革は不可能であり、官僚自身の内部改革しか、日本の変わる道は無いような気がする。)3.11以降滅びに向かうこの国の行方を憂える者は、官僚の中にもたくさんいるはずなのである。


(以下引用)

この2014の総選挙を聞いてみた。 

Updated   
2014.11.19 (Wed)
まあ暇つぶしに、11月21日解散の、今回の総選挙。

易に聞きました。


沢雷随 の3爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-22.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・
17 沢雷随(たくらいずい)

随 震下兌上(しんか だじょう)

八卦の震(しん)の上に、兌(だ)を重ねた形。

随は、したがう、という意。
易位生卦法によれば、元は雷沢帰妹である。
雷沢帰妹のときは、震の長男が兌の少女の上に位置していたが、今、この沢雷随の卦は、震の長男が兌の少女の下に下り随っている様子となる。
だから、随と名付けられた。
そもそも天地の定理では、男は尊く女は卑しい、長は尊く少は卑しい、である。
しかしこの卦は、男が女の下に下り、長が少の下に下っている。
これは、本来随わせるべき者に随っていることであって、随い難き道である。
だから、その随い難きを随うことの重要性を鑑みて、随と名付けられた。
これは、天沢履の履み行い難きをもって卦名としたのと同じスタンスである。
また、内卦を自分とし、外卦を相手とし、震を動くとし、兌を悦ぶとすれば、自分が動いて相手を悦ばせ、自分が積極的に相手に随う様子である。
だから、随と名付けられた。
また交代生卦法によれば、元は天地否から来たものとする。
天地否の上九の爻が来たり下って初九となったのが、この沢雷随である。
これは、高く卦の極に居た一陽剛が、初九の最下の地に下って、他の五爻の下に随っている様子である。
だから、随と名付けられた。
また、上卦の兌は二陽の尊きをもって一陰の卑しきに下り随い、下卦の震は一陽の尊きをもって二陰の卑しきに下り随っている。
このように上下とも、陽をもって陰に下り随っているのがこの卦である。
だから、随と名付けられた。

卦辞
随、元亨、利貞、无咎、
随(ずい)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、

およそ天下万般のことは、人に随い従って行うときには、その事業は容易であり、容易であればこそ、成し遂げることができるものである。
だから、随うということを念頭に行えば、物事は元いに亨るのである。
そもそも人に随うときには、一にも二にも、正しくすることが大事であり、そのようであれば、咎められることはない。
これが、悪に随い、邪に随うようであれば、言わずもがな、大いに咎められるものである。
だから、貞しきに利ろし、咎无し、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
随、剛来、而下柔、動而説、随、
随(ずい)は、剛(ごう)来(き)たりて、而(しこう)して柔(じゅう)に下(くだ)る、動(うご)きて而(しこう)して説(よろこ)ぶは、随(ずい)なり、

大亨以正、故无咎、而天下随之、随之時義大矣哉、
大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってす、故(ゆえ)に咎(とが)无(な)し、天下(てんか)之(これ)に随(したが)う、随之時義(ずいのときのぎ)大(だい)なる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢中有雷、随、君子以嚮晦入宴息、
沢(さわ)の中(なか)に雷(かみなり)が有(あ)るは、随(ずい)なり、君子(くんし)以(も)って晦(くら)きに嚮(むか)って入(い)りて宴息(えんそく)すべし、

・・・・中略・・・・

六三、係丈夫、失小子、随有求得、利居貞、

六三(りくさん)、丈夫(じょうぶ)に係(かか)って、小子(しょうし)を失(うしな)えり、随(したが)えば求(もと)め得(え)ること有(あ)らん、貞(つね)に居(お)るに利(よ)ろし、

丈夫とは九四の爻を指し、小子とは初九の爻を指す。
この六三の爻は、六二とは逆に、九四と密接し、初九には遠い。
だから、丈夫に係って、小子を失えり、という。
これは、自分よりも劣っている者を捨てて、優れている者に随う様子である。
したがって今、六三は随うべき良き友の九四を得ているのであり、その九四に随順して利益を請えば、自然に彼の意を得られるときである。
だから、随えば、求め得ること有らん、という。
六三が九四に随うことは、陰を以って陽に随い、下を以って上に随うことなので、そもそも理に叶っているのである。
しかし、随順の道も、度が過ぎれば阿諛(あゆ)佞媚(ねいび)=おもねりへつらい、に流れる失も有る。
まして九四は執政権門の大臣にして、その威勢が赫々たる者である。
妄りに動き回って随うのではなく、慎戒して節度をわきまえないといけない。
だからこれを戒めて、貞に居るに利ろし、という。
貞は常恒の義、居るとは止まるの義である。
常を守り、分に止まって妄りに動かないように、という垂戒である。


・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


なにやら、だれか捨てられるらしい。

意外と野党のぼろ負け?

それとも意外な政権交代?

でも次の変卦は、もっと面白いよ。

沢火革 3爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-54.html

上記文抜粋
・・・・・・・
49 沢火革(たくかかく)
革 離下兌上(りか だじょう)

八卦の離(り)の上に、兌(だ)を重ねた形。

革は、変革、改める、という意。

この卦は兌水が上、離火が下にある。
水を入れた器の下に火があれば、火が盛んに燃えるときは、必ず水は沸騰し、ついには乾いてなくなり、水が溢れるときは、必ず火を消滅させる。
これは、水と火の性情が表裏反対にして、相互に克殺する者だからである。
火の勢いが盛んであれば水は蒸発してなくなり、水の勢いが盛んであれば火は消滅する。
これは、水火ともにその勢いが強く大きい方が、弱く小さい方に克(か)つということであって、こうして物事は変革して行くものである。
だから革と名付けられた。

しかし、このように水と火がその勢いの強弱で互いに相手を打ち消しあうことをもって革と名付けれたのであれば、水火既済も革と名付けれるべきではないか?という疑問が湧くが、これは沢水と坎水の違いによるのである。
水火既済の水は坎水であり陽卦であり、火は離火であり陰卦であり、さらに坎水と離火は表裏の関係にある。
したがって、互いに釣り合っているのである。
しかし、沢火革の水は沢水であり、沢水も離火も陰卦であり、したがって互いに釣り合っていないのである。
だから敵対して水と火が互いに害し合う様子とするのである。

また沢火革は、兌の少女が上に、離の中女が下にいる形であるが、これでは姉妹の序列が逆なので、変革する必要がある。
だから革と名付けられた。

また、兌の少女と離の中女が、共に父母の家に同居するとしても、将来嫁ぐところは異なるから、その志は同じではなく、その違いにより争い変革を求めようとする雰囲気がある。
だから革と名付けられた。

また、内卦の離を明とし、外卦の兌を悦ぶとすれば、内卦の自分は明らかにして、よく物の利害に通じ、改革するべきことを改革すれば、外卦の相手は、よくこれを悦ぶ。
改革するときはこのようであって欲しいものである。
逆に、相手が不愉快になる改革はよくない。
だから革と名付けられた。

また、内卦の離火をもって、外卦の兌金を熱する様子である。
火をもって金属を熱すると、金属は溶けるので、その形状を変革することができる。
だから革と名付けられた。
『書経』洪範に「金は革に従うという」とあるのは、このことである。

また、離を夏とし、兌を秋とすれば、夏から秋に季節が変革することを示している。
だから革と名付けられた。
そもそも四季の移り変わりは、春から夏、秋から冬、冬から春というのもある。
とすると、ここでことさら夏から秋への移り変わりをもって革とするのは、どういうことか?
それは、次のことからである。
季節が改まるということで言えば、どれも同じだが、陰陽の変化を考えれば、そこに違いがある。
春は少陽、夏は老陽、秋は少陰、冬は老陰である。
したがって、春と夏と分けて二つの如くなっていても、この両者は同じ陽の季節であり、要するに陽の強さが変化しただけであって、変革とまでは呼べない。
秋と冬も同様に、陰の強さが変化しただけである。
ところが、夏は陽は極まり、秋は陰の始まりである。
したがって、夏から秋への変化は陰陽変革の最も激しいときなのである。
なお、冬から春に変わるときも、老陰から少陽に変化するわけだから、陰陽変革は激しいわけだが、これは春夏秋冬一巡し、年が改まり、新たに四季が始まるときである。
だから冬から春へは変革のときとはしないのであって、夏から秋への変移こそが、四季の途中の変革なのである。

また、離を太陽とし、兌を西とすれば、太陽が西に没する様子である。
これは昼から夜への変革である。
だから革と名付けられた。
なお、太陽は、没しても、また翌朝には昇る。
そのくり返しを明らかに計算したものが暦である。

卦辞
革、*已日乃孚、元亨、利貞、悔亡、

革は、已日(いじつ)に乃(すなわ)ち孚(まこと)とせらる、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

*已は「すでに」という意で、*已日は、改革し得て、功成り事を遂げる日のこと。
およそ改革ということは、初めはなかなか人々に受け入れられないものである。
旧習に慣れ親しんでいるからである。
したがって、その改革をした後、それが自他共に素晴しいと思えるものであれば、そのときに漸く人々はその改革を信じ、歓迎するものである。
だから、革は已日に乃ち孚とせらる、という。
そもそも改革するに当たは、古い害を除き去り、新しい利を益すことが大事である。
そうであれば、改革した後に、その改革を推進した人は人望を高め、大いに亨通する。
もちろんその改革が貞正なものであることは重要である。
貞正であれば、最初は受け入れずに、その改革を後悔する場面もあったとしても、やがて改革が成就して来れば、人々は考えを改め、その後悔は杞憂に過ぎなかったことになる。
だから、貞しきに利ろし、悔い亡ぶ、という。
しかし、その事の利害に精通せず、その事の詳細に明らかでないのに、思いつきで改革するような場合は、却って大なる災害を生じるものである。
したがって、妄りに改革するべきではないのである。
これは沢雷随の、元亨利貞无咎、とあるのと同じニュアンスだと言えよう。

なお、*已は、もともと己(き)とあったものを、それは写し間違いだとして、朱子学以降はこの*已(い)として「事成り終わる日」という意に解している。
中州も、これに従っている。
それ以前は、己(き=十干の「つちのと」)のこととして解釈されていた。
例えば、『日本書紀』の神武天皇即位年算出の根拠となったとされる辛酉革命は、この沢火革からの考え出されたもので、その説はこの*已は己として成り立っている。
辛酉革命は『易緯』『詩緯』という書物の中にある予言説で、
戊午を革運と為し、辛酉を革命と為し、甲子を革令と為す、というものである。
六十干支が戊午のときに革命の運気に入り、それを初爻とすれば、干支との関係は以下のようになる。

甲子 番外       革令 
癸亥 上爻 ━  ━
壬戌 五爻 ━━━
辛酉 四爻 ━━━ 革命 即位
庚申 三爻 ━━━
己未 二爻 ━  ━ 革明 即位予告
戊午 初爻 ━━━ 革運 橿原入り

革命の主体は金属が溶けて液状になることとすれば、離の火で熱せられた兌金が溶けて坎水となることである。
これは、四爻が陽から陰に変じることである。
『日本書紀』を開くと、神武天皇即位前三年戊午歳に橿原に入り、翌前二年己未歳に、これからここに都を造ることを宣言し、翌々年辛酉歳正月一日に即位したとある。
己未については、『易緯』や『詩緯』の記載はないが、二爻は離明の主である。
離の火で兌の金を熱して溶かすのが革命であり、その意味からすれば二爻は離の火の燃える中心である。
とすると二爻に当たる時は、これから行う革命を明らかにする時、言うなれば革明であろう。
前二年己未歳の、これからここに都を造ることの宣言は、まさにこれに当たる。

そして、一度革命したら、爻一本を一年として、この卦が終わる上爻のときが過ぎるまでは、何があってもそのまま続けなければいけない。
すぐには改革を歓迎されなくても、その改革したシステムをきちんと直向に運営していれば、三年目すなわち上爻のときにはそれまで不満だった人々からもその改革が歓迎されるようになり、改革を発案した君子はまるで豹の如くに美しく見えるものである。
これ上爻の爻辞なのだが、とにかく君子豹変とは、本来そういう意味だったのである。
逆の、君子は変わり身が早いという意味で使われる場合も多いが・・・。
とにかく、この卦に沿って言えば、改革の手直しをするのは、要するに革命から四年目すなわち甲子以降にするべきなのである。
だから、甲子を革令と為す、という。



・・・・・・中略・・・・


九三、征凶、貞、革言三就、有孚、

九三(きゅうさん)、征(ゆ)けば凶(きょう)なり、貞(かた)くすれば(あやう)し、革言(かくげん)三(み)たび就(な)りて、孚(まこと)とせらるること有(あ)らん、

征くとは、改革することを指す。
九三も内卦の中の爻なので、まだ改革するべき時ではないことをいう。
時が至らないのに、妄りに改革すると、必ずその事は成らず、却って咎を生じるものである。
しかし九三は、過剛不中なので、焦って改革しようとする傾向がある。
その焦る志を改めずに固執し、時を犯して改革するのは、危険な道である。
だから、征けば凶なり、貞くればし、という。

さて、九三は、内卦が終わり、まさに外卦に移ろうとする幾(きざ)しが有る。
したがって、その事の勢いは止むを得ないものがあるが、そんな勢いだけでは、他人は賛同しない。
しかし、その終始を計算し、良し悪しを審らかに察し、なお再三にこれを質し明かし、その義が必定であることを納得できれば、誰もが賛同するものである。
だから、革言三たび就りて、孚とせらるること有らん、という。
三たびとは、何度もくり返し、ということであるが、爻について言えば、初爻にて一たび就り、二爻にて二たび就り、この三爻で三たび就り、初二三の内卦中にて三たび就りて外卦四に至って、改革の時を得るのである。



・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり



革命・・・・


いずれかわからんが、この総選挙の後に、革命。


たぶん、非自民党政権なので、地震を喰らわすでしょう。逆賊は自民党が大好きなのでね。


でもこの革命は、たぶん中途途絶しない気がする。

>革言(かくげん)三(み)たび就(な)りて、孚(まこと)とせらるること有(あ)らん、

三度目の政権交代。


これで、自公は終わりだろう。


って希望的観測を含めて。


でも地震に注意。

>征(ゆ)けば凶(きょう)なり、貞(かた)くすれば(あやう)し、

革命が成功するから、悪党が必ず地震を起こすだろう。

関東・太平洋側注意。


て地震は、前の記事の出典先とかで私の妄想を含めて。


お読みくださりありがとうございます。

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日本の構造改革のための石井コウキプログラム

「阿修羅」記事から石井コウキの「日本が自滅する日」第四章目次のみ転載。
後々の参考として。

(以下引用)

第四章 構造改革のための二五のプログラム
第一節 官企業の全廃がもたらす経済の覚醒
  プログラム一 既得権益と闘う国民政権をつくる 238
  プログラム二 すべての特殊法人廃止を急ぐ 240
  プログラム三 高速道の建設を凍結する 241
  プログラム四 日本道路公団の借金は二〇年で償却する 242
  プログラム五 公団のファミリー企業から資産を回収する 244
  プログラム六 都市基盤整備公団などは、民営化でなく解体する 246
  プログラム七 住宅ローン証券化で公庫を保証機関にする 248
  プログラム八 政府系の公益法人と認可法人を即時廃止する 250
  プログラム九 地方公社と第三セクターを清算・整理する 252
  プログラム一〇 真の公益法人を支える税制つくる 253
  プログラム一一 二〇〇万人が失職するが六〇〇万人の職が生まれる 254
第二節 権力の市場からの退却
  プログラム一二 特別会計、財投、補助金を原則廃止する 256
  プログラム一三 「開発」「整備」「事業」法を撤廃する 258
  プログラム一四 公共事業長期計画を廃止する 258
  プログラム一五 新しい民間の公共事業勃興策を打ち出す 260
  プログラム一六 〝政治農業″をやめ、産む農業をとりもどす 262
  プログラム一七 徹底した地方分権を断行する 263


第三節 国家予算の半減
  プログラム一八 五年で予算規模を二分の一に縮小する 266
  プログラム一九 国債の新規発行をゼロにする 269
  プログラム二〇 「中高年一〇〇万人のボランタリー公務員制度」をつくる 271
  プログラム二一 二〇兆円を社会保障、一〇兆円を環境保全に追加する 272
  プログラム二二 大規模減税を実現する 273


第四節 品格ある「公務」の復活
  プログラム二三 「公務分限法」を制定する 275
  プログラム二四 行政監察を徹底し、会計検査院を強化する 277
  プログラム二五 天下り禁止法を急いで定める 282

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名言一つ

「ネットゲリラ」記事のコメントの一つが秀逸なので、転載する。
この言葉一つで、「テロ」の正体が丸分かりである。
今では知らない若者もいるかもしれないから念のために言うと、「テロとのたたかい」「テロには屈しない」は、9.11事件が起きたとき、真っ先にブッシュ大統領が言った言葉である。
なお、元記事はサウジの王様が欧米(欧州か?)で近々テロが起きそうだ、と言ったとかいう記事である。結構なことだ。できれば欧米の国会議事堂や王宮を狙ってほしいものだ。それよりいいのはサウジそのものか、イスラエルに対してテロを起こしてくれることだ。雇用主に対してできるものならね。(笑)


(以下引用)


テロとのたたかい、テロには屈しない、
と 言い出してから、毎日、どこかでテロが起きてる、





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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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