忍者ブログ

ボストンマラソン爆破事件について本音でネットで語ると危ない?

スカイヲーカーさんのブログに「ボストンマラソン爆破事件は(例によって米国政府の)自作自演じゃないの?」という趣旨の記事があり、それを読んでいたら突然ページが消え、「インターネットエクスプローラーではこのページは表示できません」というお馴染みの文句が出てきた。それで、ああやっぱり自作自演なのだな、と私は思ったのだが、そういう感想を書いた私のこのブログが閲覧禁止扱いにされるかどうかが見物である。
権力側のこういう姑息な操作を「藪をつついて蛇を出す」と言う。
ネット上で、こうした「閲覧不可」のブログが多発すると、陰謀論者でなくても、どこかおかしいと、かえって考えるようになるだろう。

拍手

PR

社会事象には完全な正解など無い

「武田邦彦のブログ」から転載。
武田邦彦は学者と言うよりは科学ジャーナリストに近い立ち位置の人間だと思う。彼は、いわゆる「陰謀論」と呼ばれる考え方をも否定していないところが、アカデミックな人間には嫌われ、また考え方が穏健で常識的なところが、戦闘的原発否定論者などからは嫌われる、という風に、なかなか敵の多い人間なのだが、どうも世間の人間は、「味方であったはずの人間が少しでも敵に有利な言動をすると、その人間を全否定し、敵陣営の仲間と見做す」という性向があり、それが、社会改革運動がほとんど常に内部分裂する原因になるようだ。
私などのように「テーゲー主義(いい加減主義)」の人間だと、味方を減らすよりはむしろ「敵の中から味方を増やしていく」ことが大事だと思うし、「多少の欠点や失敗があっても、仲間は仲間」として付かず離れずで付き合う方が好みである。
どうも世間の人間は愛憎の念が強すぎるという印象がある。私が心から嫌うのは橋下や石原や前原など、ごく少数の人間だけである。その連中にしても、ある種の才能のある人間だという評価はしている。ただ、その存在自体が明らかに日本国民にとって害悪になるから、彼らに関してははっきりと「日本国民の敵」と見ているのである。はっきり言えば、彼らはこの世にいない方が日本のためであり、彼らが一日でも長く生きれば生きるほど、日本の害になる。もちろん、小泉・竹中も同様であるが、彼らは今は第一線にいないから無視できるというだけだ。
さて、話が長くなったが、下記記事は私好みの文章である。
私は、「思考することについて思考する」というテーマの文章が大好きなのだ。
で、下の文章にはレトリックとしても私好みの部分がある。それは、「『正しいこと』をしたら、その結果は(一部の人にとって)最悪だった」という逆説である。
社会全体の衛生状態を良くするのは「正しいこと」だ。しかし、その結果はアレルギー症状の社会への蔓延である。花粉症などもその一つであるようだ。昔の、埃やバイキンだらけの社会で育った人間はアレルギーへの耐性があるが、衛生的な社会で育った人間は容易にアレルギー症状になる、というわけである。
これを敷衍すれば、「すべての面で完全な解決策は無い」と考えるのがほとんどあらゆる問題において我々が持つべき基本姿勢ではないだろうか。
我々が学校教育から得た悪影響の一つが、「完全な解答はある」という幻想だろう。これは本当は、数学のような「数学的仮定を前提とした場合」には完全な解答があるというだけだのに、それ以外の、たとえば社会的問題にまで完全な解答があるとつい考えてしまう悪癖を、社会の成員の大半が持ってしまったということだ。
これを、うまく最初の話にこじつけるならば、人間の評価についても同じことが言えるわけで、映画「お熱いのがお好き」のラストシーンで大口ブラウンが言う名言「完全な人間はいないさ」ということである。



(以下引用)



「正しい」とはなにか?横糸編(2) スギ花粉症



「tadashii02_kafuntdyno.109-(12:28).mp3」をダウンロード

スギ花粉症、アレルギー性鼻炎、アトピーなどが増え始めたのは、1970年代からです。この理由は「スギ花粉症」については二つあります. 一つは高度成長によって日本の家庭生活が格段に衛生的になり、「体内異物濃度」が下がったので、体内の免疫系が崩れて、少しの異物が入っても激しく反応する人が出てきたことです。
もともと人間は土ほこり、田畑の蒔いた汚穢が乾燥して飛んでくる異物、土の中の微生物やミミズの排泄物が舞い上がって入る異物など多種多様の異物が体内に入る「汚い環境」で生活するようにできていました。
ところが、水洗トイレ、下水道、舗装道路、冷蔵庫などが完備して衛生的になると、「医学的に衛生的にすることはアレルギー疾患を増やすことだということがわからず、さらにはその治療法も不明」という状態に陥ったのです.
人間の知恵は浅はかで、「衛生的な環境」というのが人間にとって全体として良いことがわかっても、それをすることによってどのような副作用が起きるかまでは「わからない」か「考えない」ものです。だから、「衛生的にする」というのは誰もが賛成しますが、そのことによってアトピーになって困る子どもの事まで心配する人はいないのです.
つまり、アトピーで苦しんだ人はある意味では「衛生的な環境が良い」と主張した医師の被害者ということがわかります。この考え方(全体が正しければ、一部の被害者は無視するのが正義)はかなり根強く、今回の福島の原発や原発再開問題でも顕著に見られます.
また「正しい」というのはかなりいい加減で、人間は「現在正しいこと」を追求しがちであり、「正しいことが行われた後でも、それは正しいか」などとは考えないということもわかります。
・・・・・・・・・
スギ花粉症はさらにもう一つの原因がありました。それは「環境団体が森林を破壊した」ということです。マイ箸運動や紙のリサイクルが森林を破壊する原因を作りました. 植林したスギは適切に伐採して利用しないと30年から40年経つと子孫を残すために花粉を出します.
また、森林は1平方キロメートルあたり、1年に150立方メートルの「樹木」が育ちます、育つ樹木のほとんどが間引き、枝打ち、枝、材木を取るときに樹木は丸いけれど材木は四角などの原因で「材木としては使えないもの」で、それは120立方メートルにも及びます.
つまり、森林に植える樹木の利用率は20%しかないので、森林を破壊しないためには以下にして80%の「端材や枝など」を利用するかにかかっています.それが割り箸、紙、合板だったのです。
将来、遺伝子の操作によって「間引かなくても良いスギ」というのができるかも知れませんが、自然の状態のスギは小さい頃は過密に植えて、それを徐々に間引いていかないと太いスギができず、従って材木がとれません。
また時々枝打ちをしないと節ばかりの木材になってしまいます。このような森林の実体を全く考えず、利権や天下りのために環境団体が「伐採するな」と叫んだことが日本の森林の破壊につながったのです.環境団体による犯罪と言えます.
1960年には日本人が使用する紙は100%、すべて日本の森林から取っていたのですが、今では10%しか利用されていません。つまり日本の環境団体は日本の森林を破壊したばかりで無く、外国の発展途上国の森林の乱伐にも手を貸したのです.
比較的良心的な人が多い環境団体がなぜこのような環境破壊と犯罪を起こしたのでしょうか? この場合の「正しさ」とはなんなのでしょうか? 
「環境を守る事は正しい」ということは、百歩譲れば正しいかも知れませんが、「環境を守るとはどういうことか?」を考えなければならず、「日本の森林はどうあるべきか?」も必要です。
ところが「環境を守る事は正しい」までは良かったかも知れないのですが、「俺たちが正しいと思うことは正しいのだ。だって、環境を守るという正しいことをしているからだ」という循環論法に陥っていたのが環境団体だったと言うことになります。
環境を大切にしたいという人は「良い人」が多いので、「環境運動は悪だ」とは言いにくいところがあります。しかしそれが落とし穴になることがあり、「地獄への道は善意で舗装されている」ということも思い出す必要があります。
・・・・・・・・
スギ花粉症は「人知の及ばざることが起こった」のでは無く、「シッカリ考えて議論すればわかったことを強引にやったから多くの人を苦しめた」問うことであり、明らかな「悪」が存在します。次のことを厳しく考えることでしょう。

1.大勢の人にとって良ければ少数の人は犠牲になっても良い(野蛮)、
2.子供のような力の弱い人が苦しんでも無視すれば良い(野蛮)、
3.科学的なことは考えずに好き嫌いでやれば良い(野蛮)、
4.人が言っていたらその空気に従っておいた方が良い(野蛮)

そしてみんなで首からマイ箸をぶら下げ、森林を破壊しました。そして今まだ「花粉が爆発する」(花粉が普通にはじけること)などと不適切な発言をする専門家とそれを報道する情けないメディアが手を貸したことも不幸でした。
日本のような森林国家の場合、子どもや孫の時代も含めて森林とどう生活するかは大切な問題です。そのためには、

1)森林の所有権を統合する、
2)公共物としての森林を合意する、
3)人間と自然が共存できるように地形を変える、
4)植物が生育し、人間が利用するという原則を確認する、
5)山奥の自然林と麓の人工林を区別する、

などのあたり前の「正しさ」をまずは議論する必要があり、それでこそ始めて「花粉症の被害を食い止める」ということができると考えられます。正しさに到達する道は時として遠回りです。金網の向こうにバナナがあるからと言って金網から直接、手を伸ばす下等哺乳類のような行動(花粉の少ないスギ)では無く、金網を回って取りに行くこと(森林の利用)が到達ルートというわけです。

(平成25年3月17日)









拍手

「純と愛」総括

NHK朝ドラの「純と愛」は、私も途中から見るのをあきらめた口だ。脚本の遊川和彦は私のごひいき脚本家だから、最初は熱心に見て、応援もしていたのだが、途中からはドラマのあまりの「痛さ」に、見るのが苦痛になって、見るのをやめたのである。
NHKの朝ドラは、前回の「梅ちゃん先生」もそうだったが、脚本書きがドラマの進行とほぼ並行して行われているように思われる。せいぜいが数週間ほど脚本が先行しているくらい、あるいは数日程度かと思われるのだが、その結果、脚本は常に「行き当たりばったり」になるわけだ。「梅」の前の「カーネーション」は各方面から絶賛されていたから、あれは違うやり方だったのだろうか?
しかし、15分間のドラマの脚本を毎日仕上げるというのは、これは並の作家には無理な作業だろう。いくら「引き出し」の多い作家でも、それができるだけの「天性の物語作家」は滅多にいない。書いた量と書く速度で言えば、デュマと並ぶくらいの栗本薫くらいしか、15分間のドラマを毎日仕上げることはできないと思う。遊川和彦も、自分の能力を過信してこの仕事を引き受け、こういう結果になったのだろう。
おそらく、「心の読める人間」「心と行動が完全に一致した裏表の無い人間」「面白い個性を持った周囲の人物」をキャラクターとして最初に考えておけば、後はキャラクター自体が物語を生みだすだろう、という甘い想定で作品を書きだしたのではないか。
その結果は、「陳腐な小芝居的コント」の延々たる連続、不快なキャラクターたちの毎回の無駄騒ぎ、「試練、解決、新たな試練」の延々たる連続になってしまったわけである。
その過程で分かったのは、脚本家の「コント」センスの無さ、喜劇センスの無さ、キャラの在庫の薄さであった。
もともと、「女王の教室」や「家政婦のミタ」などの黒いドラマこそが彼の持ち味であり、明るい喜劇性は彼のレパートリーには無かったのではないか。つまり、NHK朝ドラの脚本家としてはもっとも不向きなタイプであったわけだ。
だが、遊川和彦を起用したことのミスよりも、NHK朝ドラを「オリジナル脚本」でやることに根本的な間違いがある、と私は思う。毎日毎日「行き当たりばったり脚本」のドラマを見せられる身にもなってもらいたい。どうしてもオリジナル脚本でやるなら、1年分、最後まで完結した脚本を準備してからやることだ。
それよりも、世界名作文学のアレンジをすればいいではないか。たとえば、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を現代日本、あるいは明治時代の日本に舞台を変えれば、すぐに1年分の朝ドラの出来上がりである。もっと波乱万丈のドラマが欲しければ、黒岩涙香の「鉄仮面」(デュマの「鉄仮面」ではなく、ボアゴベーの「二羽のつぐみ」の翻案らしい。)など、ドラマ進展の論理性や読者(視聴者)の興味を先へ先へと掻き立てるサスペンス性など、最高の素材である。あるいはユーゴーの「レ・ミゼラブル」(これも黒岩涙香訳の「ああ無情」がある)なども、日本を舞台にして作れば面白い。(これは昔、山形勲主演でテレビドラマ化されたが、何度作っても面白いものは面白いのである。)
要するに、今どきの底の浅い作家の「オリジナル」などに期待するよりも、古典の中にこそ最高の素材はある、ということだ。



(以下引用)



1分で分かるNHKドラマ「純と愛」(1の動画は省略)

1:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:25:36.28 ID:lFbnq5vk

http://www.youtube.com/watch?v=MM6167vVHdU

2:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:26:58.19 ID:1OI+wYy7
振り返らなくていいから(良心)

3:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:28:26.92 ID:ueN9BM7M
ごめん正直ワロタ

5:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:30:45.47 ID:+ad+qtZc
不幸
おしまい

ということでええんか?

13:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:33:54.33 ID:H3LPZcLx
糞と糞

14:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:34:08.32 ID:Z4EOvFYj
あまちゃんが正統派で面白い分余計にクソさが際立つ

15:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:34:31.20 ID:1W6V3fHl
マジでこんなんだから笑える

18:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:35:04.88 ID:aphQogOT
なんだかんだとかいう魔法の言葉

19:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:35:25.70 ID:lT8QBwjj
疫病神とクズの物語

22:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:36:27.90 ID:/mMEGv4n
何がしたかったんや

24:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:37:32.38 ID:f3rLdgcF
深夜なら問題なかった
朝ドラとして半年もやったのが悪い

27:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:38:22.64 ID:JvF4Gbgt
本当にこれだから困る

30:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:39:03.12 ID:1ID5t+WK
夢の国は作れましたか・・・?(小声)

33:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:39:27.51 ID:tErq/r5M
今回!なんと!ホテルを!オープンすることが!なんと!

34:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:40:04.93 ID:9pDuP8e+
>>33
できませんでしたー

35:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:40:06.86 ID:5HRgNVJW
>>33
できませんでしたー

44:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:42:08.37 ID:YkajN+Rr
あってて笑った

46:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:42:14.65 ID:9UAXAslO
両親が朝ドラで初めて途中で見るの止めたって言っとったな

42:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:41:23.04 ID:V+VtssyA
最初から最後までひたすら不幸やった

53:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:43:27.25 ID:H3LPZcLx
不幸っていうか池沼
あらゆる場面での主人公の言動や下す判断が人の道を踏み外している

58:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:46:17.70 ID:trajOTwG
歴代最糞朝ドラだからしゃーない

59:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:46:27.83 ID:MtDexIPf
主人公の「頑張ってるのに報われない」演出がやりすぎ

61:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:46:49.68 ID:vAw4mpyR
沖縄をからめといてこれやるあたりNHKらしいといえばらしい

町興しとか地元の子等に撮影参加させてドラマみてね~とか宣伝してたよな
これ見せたかったんか

63:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:47:01.93 ID:O60u6rTo
何かどっかのスレで仙台は視聴率一桁とかって見たな
そらそう(なる)よ

68:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:48:12.10 ID:HSRoCoHQ
おいおい、意識が戻らないだけで植物状態ではないぞwwwwwwwwwwwwwwww

71:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:48:41.39 ID:5SWQHjVE
むしろ脚本家が朝から不幸の連続を見せたら視聴者がいらつくのわかっててやってそうなのがむかついた
意味なしの最終回もこんなの最後まで見てバカだろというメッセージかと思った

73:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:49:04.16 ID:4SxY2dub
ヒロインじゃない子が可愛かった(小並感)
名前は知らん

75:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:49:44.56 ID:HSRoCoHQ
>>73
朝倉あきか

90:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:54:28.71 ID:4SxY2dub
>>75
サンキュー
かわE


http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/michinao/20110209/20110209223658.jpg

78:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:51:40.69 ID:h7mTSGOw
池沼系主人公は有りだと思うけど行き過ぎだった

82:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:52:41.16 ID:KimMKyyZ
たまにしか見てないけど毎回ホテル潰れてるイメージ

83:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:52:55.38 ID:iIqKDmjd
なんで金払ってるのに半年も脚本家のオナニー見せられなアカンねん
うちの祖母の楽しみ奪うなよ

86:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:53:48.95 ID:CP75BK4h
何で朝ドラでやる必要があるんですか

105:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:58:24.61 ID:kb35sINY
BGMに草生える

111:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:59:46.68 ID:7uihLOSj
近年稀に見るクソドラマ

115:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:00:04.90 ID:SgCtDaPn
恵まれた主題歌から糞みたいな内容

120:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:01:14.73 ID:GJuwNg8l
打ち切り漫画でもないのに何であんな終わり方になったの?

123:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:02:06.30 ID:yDWwIZNa
ミタの脚本家だからしょうがないね

136:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:05:20.10 ID:krH3qz/b
遊川は受信料かえせよ

130:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:03:48.83 ID:h7mTSGOw
朝ドラなんてかわいい女の子が嬉しそうにしてればいいんじゃ

138:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:06:06.53 ID:kshjek5r
>>130
わかる
それで元気でるよな

134:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:04:30.67 ID:4sBg+OVO
なぜ、朝からこんな不幸自慢をミないといけないのか

148:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:10:15.83 ID:YkajN+Rr
純と愛は
不幸や…クッソ!○○の出番や! → やったぜ。 → 不幸「よろしくニキーwwwwwwww」
の繰り返しみたいなドラマ

151:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 13:10:59.94 ID:Vvh8QBWd
昼ドラならありな内容だったかもな
牡丹と薔薇を朝ドラでやるようなもん

54:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:43:40.98 ID:CA45rvaz
何がしたかったんやろな

106:風吹けば名無し:2013/04/05(金) 12:58:37.29 ID:NGaCfc27
沖縄の地元の人たちが最終回を見守る会みたいなの開いててかわいそうだった
どんな空気になったんですかねぇ・・・





拍手

白血病の症状

「東海アマ」ツィッターから転載。
昔は、白血病は稀な病気だったはずだが、福島原発事故以降はかなり身近な病気になっているように思う。で、その症状を知っておくのは有益かと思って転載したのだが、問題は、白血病は治療可能なのか、ということだ。
確か「目ざましテレビ」の、好人物めいたアナウンサー(名前は失念)が(福島産野菜を番組中で食べたことと関係があるかどうかは知らないが)白血病にかかり、一時回復したがまた再発したという記事を読んだ記憶がある。
白血病が実は治療不可能な病気ならば、自分がそれにかかっていることを知ったところで、かえって絶望するだけかもしれない。
まあ、根本的な治療は不可能でも、症状を軽減させ、日常生活への適応がしやすくなるのなら、それだけでも通院の意義はあるだろう。
しかし、仮に関東地方での白血病患者数が増えているとしたら、明らかに福島原発事故が原因のはずだが、それに対して医療の側からの声は聞こえない。「東海アマ」に寄せられた情報では、子供の甲状腺異常は激増しているようだし、放射能による様々な人体被害ははっきりとしていると思うのだが、マスコミでは報じられない。まあ、東電と政府は一心同体だから、それも当然か。東電も政府もいかにして原発事故の補償をせずに済ませるかに頭を絞っているのだから。


(以下引用)


1. The daily olive news‏@olivenews8時間
【白血病の主な症状】①貧血症状:顔面蒼白、身体がだるい、疲れやすい、ちょっとした動作での動悸・息切れ②感染症状:発熱、のどの痛みや腫れ、咳、下痢③出血症状:内出血による青あざ、鼻出血、歯肉出血、怪我をした時に血が止まりにくい 。④その他:骨の痛み、リンパ節の腫れ、頭痛、嘔気や嘔吐




(追記)「東海アマ」経由で知った情報である。



kumiko sekioka #脱被曝 @kumiko_sekioka12時間

【経産省対話集会】福島集団疎開裁判の柳原弁護士「郡山市の女子高生が急性白血病で亡くなりました。医者は福島第一原発の事故は関係ないと言っていますが、関係ないという証拠はなにもありません。みなさんの支持の声が裁判を動かします。よろしくお願いします」

 

拍手

老人と癌治療

「戦う老人」飯山一郎のホームページから転載。
老人の癌については、私は前々から、「治療のほうが癌より恐ろしい」と言ってきたが、下記記事も同様の意見だ。いや、老人に限らず、癌の治療法で人体に有害でないものは無い。早期癌の切除手術だけは治療には有効だとは思うが、それも体に大きなダメージを与えることは言うまでもない。他の放射線治療や抗癌剤などは、治療に有効ですらない、と私は見ている。癌を縮小させることは可能かもしれないが、根治は無理であるはずだ。しかも、その治療が体に与えるダメージは癌以上だ。私は実際に、元気そのものだった人間が放射線治療を受け、数週間で死んだ事例を目撃している。(多分、抗癌剤も併用していたと思う。)
飯山老人も、病院の言いなりになって癌治療をしていたら、とっくにこの世にはいなかっただろう。
飯山老人も言うように、癌治療を始めたら、生活のすべてはそれだけになる。もはや自由な時間は無いに等しい。病院のベッドに縛り付けられ、もはや生ける屍としての時間だけしか人生には残されないわけだ。
それよりも、1年でも2年でも、自由に人生を生きる方が、人生の最後の時間の過ごし方としてははるかに有益だろう。

(注)「老人」は敬称として使っています。「御大」でも「先生」でもいいけどね。



(以下引用)




◆2013/04/04(木) 癌の宣告をする病院が激増中!

元気一杯、国内ツアーに毎月参加していた78才の爺ちゃんが
たまたま検診を受けたところ、癌が見つかり、早期手術が必要
だと言われた、と。
爺ちゃん本人は、「イヤだ!」 と言ったのだが、医者から説明を
受けた家族が…、
「爺ちゃん! 癌は早期発見・早期治療が鉄則だ。早く入院して
悪いところを取ってもらおう!」
と、家族総あげでヤンヤヤンヤの説得だとゆー。

「飯山センセ、どーしたらEーでしょ? 豆乳ヨーグルトで治る?」
と、爺ちゃんの友人から相談された鷲…。
同じよーな相談が山ほど来るので、鷲は、最近、ゲンナリだ。
なぜゲンナリか? は、あとで書くとして、↓鷲は答えた…。
爺ちゃんは、癌じゃない!
たとえ癌だとしても、78歳の老人の癌は進行が遅い。
放っとけば旅行にも行けるし、余生が楽しめる。
手術なんかしたら、そのまま寝たきりになって終わり!
だから絶対に手術しゃダメだ。
それより、牛ーその病院には行かないことだ。
念のため!ということで、別の病院で再検査をするよー
に家族を説得するのも手だ…。
これと同じよーな話を、鷲は何十回したか分からない。
この際だから、大声で断言しておく!
いま、ガンの宣告がモノすごく増えている。
これ、全部、カネのためだ! (きっぱり!)

癌を治せる病院なんて、ない!
切除して、抗癌剤(猛毒)飲まして、放射線を当てる…。こんな
患者の死期を早める荒療治しか出来ない悪魔の医学!。

政府も、官僚も、病院さえも、国民を殺しにかかっている日本!
この国は、悪魔や殺人鬼や魑魅魍魎が跋扈する地獄の国家だ!
そー思い、そー覚悟して生きていこう!>皆の衆

鷲も、じつは、胃のポリープが悪性の癌だ!と宣告されたこと
がある。
7年前のことだが、鷲は、その病院とは絶交した。

そーして…、
鷲は、自力で免疫力を高め、毎日運動をして汗をかいて、血流
を高めた…。
三ヶ月後、鷲の胃からはポリープが消えて、何の跡形もない!
これが、医者の言うがままに手術を受けて、抗癌剤を服用して
いたら…、たぶん、今頃は墓のなか!鼠ことだ罠。
病気は病院でつくられる。その典型が癌という病気だ。
「癌です!」 と言われたら、牛ーその病院には行かないこと!
これが長生きの秘訣です。おぼえておきましょう。






拍手

仕事と家庭生活の時間配分

「がま仙人のブログ」から転載。
まったく御説のとおり、であり、仕事のために家庭や家族を犠牲にする、というのは、本末転倒もいいところであって、家庭や家族を守るために仕事をするのが当たり前である。それを許さないような職場や、仕事のために自分の生活を犠牲にすることを強要するような職場をブラック企業と言うのである。
もちろん、ひとたび職務に入れば、全身全霊での努力を必要とする職場も当然あるだろうが、それとこれとは、話が別だ。
私は以前から、ワーク・シェアリングがもっと広がるべきだと提言しているが、それは、仕事と家庭生活(あるいは自分の時間)との比重が、今の日本では仕事に偏り過ぎている、と思うからだ。
勉強にせよ、仕事にせよ、1日のうち4時間ほどで十分だ。
後は、自由に遊ぶのが人間らしい生き方というものである。

「遊びをせんとや生まれけん。戯れせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」




(以下引用)




2013年03月25日23:19

カテゴリ仙人的徒然草_IT・お仕事系

パート労働は素晴らしい


また一カ月以上間があいてしまった
ワシいったいどうなってしまったんだろうな

でもまあ、気が向いたときに書くというのが
いいのかもな

アルバイトは相変わらずだが
最近は接客とかも増えてきた
ワシは接客が大嫌いなんだよ
口を動かすより黙々と手足を動かしていたほうがいい
もともと接客業務ありなんて聞いてねえし

でもパートという気楽さがあるので
だいたい5時半ぐらいで上がれる
労働時間がきまっているというのがとてもうれしい
だから嫌いな接客とかでも気が楽だ

3月中は閉寮のため娘が帰ってきている
先日喘息気味だったので
寒気がするというので麻黄湯を煎じて飲ませ寝かしつかせた
翌日いつものように職場にはいったのだが
娘の容体が心配だったので職場に早上がりをお願いしてみたら
かなり忙しいのだがすんなりOKしてくれた
調子抜けするぐらいで
ちょっとびっくり、新鮮な感覚だった

日本の多くの職場で
「子供の具合が悪いときは休んでも早上がりでもよい。周りは文句いわない」
というルールがあったら人々のストレスはすごく軽減されるのではないかと、ふと思った
つまんないルールだけど世の中の働くお母さん、働くシングルな父だったら
これの意味がわかると思う

いずれにしても
子供の具合が悪いときはこれからも
遠慮なく休んだり、早上がりをしようと思っている
それで嫌み言われたり、文句言われたりしたら
どうぞどうぞクビにしてくださいと言えばいいんだしな
パート労働はそういうことができるからこそいいんだよ

どんなことがあっても絶対に休めない職場というのがあったとする
それはいくら収入があったとしても囚人とか奴隷とかと同じだよな
ワシは奴隷だけはなりたくないので
奴隷になるぐらいなら餓死を選ぶよ

ワシを誘ってくれた職場の社長が
接客に支障が出ると思ったのか
ワシの仙人髭を剃れといってきたことがある
間髪いれず、「気に入らなければクビにしてくれ」と言ったら
苦笑いして立ち去った
前にも言ったと思うが、茶髪はOKで仙人髭がダメというそういうセンスが全く理解できない
そういう奴に限って茶髪OKでチョンマゲはダメとかいうんだろうな
チョンマゲこそフォーマルな髪型だと思うのだがね

ところで
今度娘は高専3年生になる
あと、2年で卒業だ
それまでは、パート労働でもなんでもするさ
そのあとはワシ自身が餓死したとしてもワシは知ったこっちゃないがね





拍手

「自由非自在論」

「つれづればな」というブログから転載。
野に遺賢あり、と言うが、ネット世界には恐るべき知識人、教養人がいる。この「つれづればな」管理人の尾崎文美氏もその一人で、文章から滲み出る教養と知性は、表マスコミでちやほやされる「知識人」たちを軽くしのいでいると私には感じられる。まあ、それはこちらに教養が無いからかもしれないが。(芸術や哲学における教養や知識という点では「壺斎閑話」管理人氏が、通常の大学教授レベルを軽く超えているように思われる。もっとも、もともと私は大学教授なるもののレベルをあまり信用していないのだが。)
下記文章は「自由」と「自在」を論じて日本の歴史や日本人論にまで及んでいる面白い文章である。
簡単に言えば、「自由」とは西洋的思想であり、実はそれは人間を「不自由」にするもので、「自在」こそが日本的思想であり、それは人間を本来あるべき姿にする、というものだろうか。
下記文章に書かれていないことを私が勝手に追加する。「自由」は「みずからに由る」こと、つまり、自我の発現を意味し、当然、それは他者との対立や対決を招くものである。まさしく西洋的な個人主義を象徴するのが、この「自由」である。
それに対し、「自在」は「おのずから在る」ことであり、自然そのままに存在すること、在るがままに在ることである。これが日本的霊性として尊ばれてきたものであることは言うまでもないだろう。たとえば良寛などをイメージすればよい。さらに言うならば、「おのずから在る」とは、自分だけではなく、自分を取り巻くすべてと共に、自然な姿で存在する、というニュアンスがあると私は思う。「自在」には自他の対立というのは無い、ということである。
くどく言うなら、「自由」と「自在」の「自」の意味は違っていて、前者は「みずから」、後者は「おのずから」だと私は考えているわけだ。
前説はこれくらいにして、尾崎氏(女性なので、女史とでも言おうか)の見事な考察を紹介しよう。




(以下引用)*僅かながら誤記と思われる部分があったので、それは無断で訂正した。




自由非自在 じゆうはじざいにあらず

• 2012/10/06 07:15
• よりわけ: 未分類
• かぎ: 近代思想脱原発


わが国において「自由」という言葉が湯水の如く使われているため、その語意について疑いの目が向けられることは少ない。必要さえ見当たらない。
おおよその解釈は、「自らの選択で行動あるいは思考することができる状態、しかしそれは他人に迷惑をかけない範囲でのこと」、または単に「束縛や強制を受けていない状態」である。

これは近代とともにわが国に定着した言葉であるが古来はほとんど使われた形跡がなく、あったにせよ今とはだいぶ違う意味で使われていた。古くは日本書紀に見られ後の徒然草にも現れる「自由」は、「傍若無人」「我儘勝手」といった悪い形容に使われるのみであった。


ひとまず話を近代以降に絞るとする。
「生」に対し「死」があるように、「天」に対し「地」があるように、「自由」の対極には「不自由」がある。つまり自由が存在するためには不自由がなければならない。

現実の不自由が支配や拘束や虐待などの形でまず存在し、そこからの脱却によってもたらされるのが自由である。

これとは別に他者に現実におこった「不自由」を見てしまうか、話に聞くか、学校で教わるか、テレビのCGに吸い込まれるかして疑似体験した「不自由」に恐怖、戦慄し、それから逃れることを「非・不自由」すなわち「自由」と定義してしまっている。
たとえば非民主主義国である某国には人権など存在せず非道が横行しているが民主国家である某某国国民は自由に生きている、結婚して子供ができると家庭生活に全てを注ぎ込むことになるが独身でいれば自由に生きられる、あるいは原発がなくなると景気が落ち込み身動きができなくなるが原発さえあればバブルの頃のような自由な暮らしがもう一度やってくる…

さまざまな権利が確立した(はずの)今日の日本では前者(不自由からの脱却)はもはや当然、いまさら「自由」などとは呼ばないほど軽んじられているかのように思える。むしろ日本を闊歩する「自由」とは後者(具現化された不自由から逃避)のほうではないか。


明治までの日本は封建制度と後に呼ばれる枠組みがあり人々はその枠組みの中で生きていた。武家に生まれたものは武士となり、職人の子は親の職を継ぎ、農村に生まれれば百姓となるのが普通だった。百姓の数が減ることは国の衰退につながる一大事、そのため公儀の許しなく農村を離れることは罪とされた。逆に武士として生まれた者がその身分を捨てることも武家社会の体面を傷つけるものとして制限されていた。身分の自由と呼べるものはなかった。
もちろん例外はある。江戸や大阪で労働力が必要になると農村の男たちが駆り出されそのまま人足や職人として都市に居つくこともあり、商才があれば商売をはじめることも稀ではなく中には豪商にのし上がる者まであった。貧農に生まれた河村瑞賢は江戸で人足をしながら商売を覚え材木商となり財を成した。そして後に幕府の公共工事に関わるようになるとさらにその才覚をあらわし多くの御用を預かった。淀川の治水工事、航路開拓など、その功績を以って晩年にはその名を旗本に列ねるまでとなった。吉原での豪遊ぶりも紀伊国屋文左衛門とともに今に語られている。
しかしこれは例外中の例外、多くの人にとって生まれを越えることなど夢にも勝る絵空事、それを受け入れて生きていた。

同じ頃の西洋。航海航路の開拓から通商がおこり流通業と金融業が発達した。当然生まれる摩擦により武器の需要も跳ね上がり、喉から手が出るほど兵器が欲しい王侯貴族たちにカネを貸付る金融業者は資本を確立し、現代に至るまで世界を支配する資本主義経済がここに芽生える。

キリスト教社会では金融につきものの「利息」はもともと禁忌でありカネを扱う金融業を忌み嫌う風潮が強かった。そのため銀行も両替商も「ベニスの商人」のシャイロックのような特殊な人種に任されていた。専横されていたとも言える。教会や王侯貴族たちは富をいつのまにか金融業者たちに吸い上げられやがて衰退していった。
しかし世の実権を誰が握ろうと民衆の暮らしは変わらずに困窮を極め、とうとう18世紀の終わりには革命の火がつき、炎となって専制制度を焼き落とした。虐げられる民衆が「自由」を手に入れつつあった。

われわれ日本人が学校で習う「自由」のお手本はフランス革命である。専制主君から政治を奪い取り議会を立ち上げ、憲法を作り、周辺諸国ともども産業革命の波に乗って近代社会を築いてゆく流れを自由と呼ばせている。ただし民衆からむしりとったものが王侯貴族を経由してどこに行ったのか、または欧州の奴隷や農奴を開放する傍らで新航路の果てにある国の肌の色の違う人々を捕まえ苦しめたことからは意図的に目を逸らし、産業革命がもたらしたのは軍事産業ではなく豊かで便利な暮らしと教えている。いずれも中世から近代に移行する折に浮き出た錆を覆い隠すに便利な言葉、それが「自由」であった。


本稿は「ほんとうの自由とは」などを熱く語るものではない。むしろそのようなものはどこにもないことを申し上げたい。


人は生まれながら自由などではない。空気と水がなければ一刻とて生きて入られない。生まれる国を、家を、親を選べない。男は男として、女は女として生きることを余儀なくされている。あめつちとわたつみの恵みに養われ、そしてあるひ必ず死ぬ。生まれたそのときに死の宣告をうける。これを覆そうとすれば必ず恐ろしい罪を犯すに至るであろうことは、われわれ日本人であればなぜが、教わらずとも知っている。それを忘れさせるために外からに押し付けられているのが「自由」なる言葉である。


日本人に「自由」をもたらしたのが明治維新、それに先行する「不自由」を因習ずくめの悪しき時代である江戸時代と見立ててのことである。しかし江戸時代がそんなに悪い時代だったかは評価が分かれる。そして明治から今に至る近現代がそんなに薔薇色の時代であるかどうかも然り。

黒い船に乗ってやってきた西洋人が我々に「自由」もたらしたのは親切心からではなくあくまで経済戦略である。日本の黄金、生産力と労働力、蒸気船を稼動するための豊富な森林資源を狙うもので、日本は世界の経済を牛耳るための重要な足がかりであった。特に日本人の器用な手指と勤勉さは工業生産の担い手として好都合と考えられ、また航海術にも武術にも秀でた日本人は武力で殲滅するより仲間として懐に抱えるべきと判断された。ともあれ日本には選択肢などなかった。黒船以前から日本に外国船が近寄っては通称を求められていがその都度やんわり拒んできた幕府であるが、とうとう江戸前に陣取る艦隊に大砲を構えられ、アヘン戦争後の清国の惨状を知ったうえでは「降伏」するしかなかった。

貿易の障害になるものを取り払い自由に取り引きできるようにすれば当然力の強いものが上に立つことになる。この場合の力とは競争力のことを指すのであろうが結局は腕力につながる。つまり武力を笠にきていくらでも弱いものいじめをすることができる。それを自由経済という。「鎖国」という障壁を取りはらわされた後、露骨な不平等条約を呑まされながらも勤勉に働き続けた日本人は条約改正にまで漕ぎ着けるが、そのころには完全な軍国となり常に欧米の切り込み役を買っていた。気がつけば極東の大悪党にされていた。

やや遅れて日本と似たような道を歩んだのがオスマントルコ帝国である。内から病み、外から攻められて崩壊しつつあった国を救ったとされるケマル・アタテュルクは「自由」の象徴として、逆に旧帝国は暗黒時代の象徴として定義された。第二次大戦後、欧州は足りなくなった労働力をトルコからの移民で補った。欧州の復興に大きな役割を果たしたトルコ人労働者が祖国に持ち帰ったのは外貨、そして欧州至上主義であった。「悪い皇帝を追っ払ったアタテュルク、自由をくれたアタテュルクばんざい」ほんの数年前まで子供たちはこんな歌を音楽の授業で歌わされていた。西欧列強は自らに都合のよい傀儡を送り込み古い政権を悪者に仕立て上げることでこの国の人心を改造した。

市井の人々を含む国民の識字率と書物の量、ともにずば抜けて高かったのが江戸時代の日本とオスマン帝国時代のトルコである。人々の闊達で明るい暮らしぶりは文学や絵画から知ることができフランス革命のころの欧州とは比較の余地はない。欧州で相次いだ革命の背景に似たものは日本にもトルコにもなかった。だがそれでも近代は、甘く芳しい「自由」という言葉をつれて訪れた。世界の中心を作り出すために。


いわば「自由」とは軍事・経済用語のひとつである。それを芸術や思想や教育の世界に持ち込んでしまったのはこの言葉に幻想を抱いた我々の勝手な思い違いからである。


心の内側から迸るものを形や色彩で、旋律や調べ、時には文字をちりばめて外に訴える、それは何者からも制限を受けることのない思いのままの世界である。それを自由と言わずしてなんと言う、そう問われるだろう。あるいは世のしがらみから自らを解き放ち、裸足で波と戯れ、ひとり風に身を任せることができたのならばそれを自由と呼ばずして、いったい何と呼ぶべきか。

「自在」という日本語があったことを思い出そうではないか。辞書にある言葉の意味こそは「自由」とかわらぬものの本来はまるで別のことばである。






自在非自由 じざいはじゆうにあらず

• 2012/10/17 13:11
• よりわけ: 未分類
• かぎ: 近代思想脱原発

前回からつづく


「観自在」、それは三蔵法師がサンスクリット語のアヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩(観音様のこと)と意訳したことで生まれた漢語である。三蔵法師とはご存知西遊記にも描かれる玄奘三蔵のことで、天竺への苦しい旅の末に数々の経典を長安に持ち帰り残りの生涯をその翻訳に捧げた実在の人物である。大乗仏教の真髄をたったの三百字足らずで解く「般若心経」は「観自在菩薩」と唱えることから始まる。おそらくは天平の頃にわが国に伝わった般若心経を通して「自在」の言葉は日本語と化した。

万象を「自在」に「観る」ことができるのが観自在菩薩である。それは我々が自在にものを見ていないことを指摘している。


われわれの眼を曇らせているもの、それはいわずと知れた数々の「欲」である。見るものすべてが商売の種にしか見えないのも、あるいは値踏みをしてしまうのも、逆に値札を見てその価値を認識するのも、地位と収入が人生の価値を決めてしまうのも、またそれに沿った学校教育がなされるのも全ては「欲」、いや「強欲」のたまものである。画家が魂を刻み付けた絵画も投機の材料になり、海を命の源と思わずにゴミ捨て場としか見ず、危険極まりない原発も景気回復のためなら見ないふりができる。
物事を「在るがまま」に捉えることができない、「在るがまま」の自分でいられない。この「強欲」に目を塞がれているうちは「自在」な見方も生き方もできはしない。
逆に「欲」を断ち切り「在るがまま」を受け入れることができたのならば、その魂は自在といえよう。





一枚の紙を通して無限に広がる絵画の世界、あるいは舞台という時空を越えた世界、人間の耳に判別できる範囲の音を組み合わせて奏でる曲、文字に韻を抱き合わせた詩歌、そして彫刻、歌、物語、舞踊…われわれが「自由」と信じて疑わなかったものたちである。しかしこのどれもが厳粛な制約の元で成り立つことを忘れている。
絵であれば紙やカンバスという限られた面積の内で、演奏であればその楽器の独自の音域で、演劇であれば舞台、文学であればその言語の枠の中でのみ展開できる。環境芸術といえど地球の表面積を越えることはない。そこに使い得る材料、さらに表現者の「技巧」を掛け合わせるとさらに制限がかかる。恐ろしく窮屈な世界であるが、それを受け入れその中で心を研ぎ澄まして初めて生まれるのが「作品」であるはず、それは「自由「などではなく「自在」のなせる業でなければ何であろう。

ひむがしの のにかぎろひの たつみへて かへりみすれば つきかたぶきぬ

奈良時代の歌人・柿本人麻呂が軽皇子の狩りに同行しそのときに詠んだ歌である。この歌の背景から意味までを語ろうとすると一冊の本にしても足りない。幼少の軽皇子(後の文武帝)を日の出に、崩御した父(草壁皇子)を月の入りにたとえ、東を「生」、西を「死」ととらえ、狩りという通過儀礼によって立身する皇子を歌いつつも、夜明けに月が西に沈もうとしていることは満月あるいは十六夜であることを語りはるかなる天地の見せる一瞬の姿を鮮やかに捉え、今も色あせることがない。
和歌は五七五七七のたったの三十一音で、月も、日も、大地も、四季も色も香りも自在に歌うことができる。和歌には時に恋心をのせ、時にはこの世の別れを託した。和歌にみられる五七調の韻は日本人の祖語ともいえるやまとことばの独自の韻律である。遠い先祖が日本の地で自在に生きた証を、われわれは言語として託されている。

夏草や つわものどもが 夢の跡

江戸の俳人・松尾芭蕉が奥州平泉にて詠んだ句である。
俳句は和歌よりもさらに少ない五七五の十七音しか持たない。夏草の茂る荒れ野原はかつて奥州藤原氏や義経が夢を追いかけて自在に駆け抜けた地、茂れどもたったひと夏で枯れ行く夏草と、つわものどもが散らした儚い命を重ね合わせている。そしてこの句の後ろには大唐の詩人・杜甫による「國破山河在」が控えており、古今東西を問わぬ「無常」を説いている。

このように、制限の中にあるはずの「自在」は無限の広がりを内包することもできる。


鎌倉の武士たちはまだ幕府に縛られる前の古い生き方を貫いていた。野に馬を駆り、弓を引き、剣の鍛練に明け暮れていた。すわ戦がおこれば郎党をひき連れて馳せ参じ、運は天に預け、討てば祝着、討たれれば命を落とすまでのことと無我に戦う。これが彼らにとっての「自在」であった。義理に押しつぶされて自在でいられなくなることを嫌うゆえに身に余る褒章からは身を引いたという。

しかし御家人として幕府に抱えられ所領安堵が制度化するにつれ主従のつながりは精神から物質へとその重心を移した。頼朝の死とともに求心力を失った鎌倉幕府の混乱に乗じて実権を握った北条氏には誇りを重んじ自在を求める武士たちをまとめ上げる力はなく、ただ蒙古襲来のときに見せた一瞬の輝きを後に一味散々、その幕を閉じることになる。

この時代に庶民、武士たちを問わず新しい仏教がひろまった。それまでの仏教が貴族の保護下で興隆した祈祷や修験、学問を中心とするものであったに対し、富も学問もない人々をも含む人の内面を深めるものへとの変容である。法然や親鸞は念仏を、日蓮は題目を、道元は禅を衆生に説いた。

いかなる者も仏を信じ縋ることをすれば来世で救われる、学問もなく苦しい暮らしを強いられていた庶民たちの間に「念仏」が広まった。在るがままを求めるまでもなく在るがままでしかいられなかった庶民たちは、生まれた土地や身分に縛られながらも現世で多くを望まずに来世で救われると信じることで己の心を縛らぬ術を心得ていた。

うわべの麗しさ、豊かさに惑わされず、富や名声という時流の中にあってそれに流されず、己と対峙し、己の目で物事の内側を見ることが求められる「禅」の精神世界は常に背中合わせの「死」を見据えていなければならない武士たちにたちまち浸透していった。

大陸から伝わった仏教が年月を経て太古の先祖たちの生き方と邂逅しわが国独自の形を得た。この鎌倉新仏教とよばれる信仰は実は当時の日本人にとって「新しいもの」ではなく「懐かしいもの」であったとは言えまいか。それは誰かが意図して捻じ曲げられたのではなく、あたかも木々が芽吹き花を咲かせ実を結び、それをついばむ鳥たちが種を遠くに運びまた実を結ぶが如く、自然(じねん)の求めによりおのずと道が開けたのであろう。自在が、自在を呼ぶ。


「自由」は自らの外を取り巻く境遇に抵抗する外向きの精神活動である。
「自在」はいかなる境遇にあろうとみずからで在りづけるための心得であり、目的である。その方向は内側を向いている。


自由経済の名のもとに繰り広げられる競争のみの近代社会には「自由」という名の虚無があるのみ、そうなれば「自在」はない。逆にわれわれが自在であることを捨てさえしなければ競争社会などはもとよりない。ありえない。海や山を畏れ日々の糧に手を合わせ、在るがままを好み身に余る富を嫌うわが先祖たちの自在な気質は近代化、合理化、資本主義化とは反りが合うわけもなく、そのような国であった日本を近代の鋳型にはめるためには「自由」を与えて「自在」を忘れさせる必要があった。そしてあっけなく忘れさせられた。


「自由」とは先行する不自由と戦い、蹴破り、打ち負かして奪い取るものであるがそれを手にしたその瞬間、新たな「不自由」に生まれ変わり我々にまた挑みかかる。我々はさらなる自由を求め心に「欲」の炎をともしてその戦いに臨む。生きることが死ぬことを意味するように自由とは不自由をさす。自明である。


地震や台風のおり、その被災者たちの毅然とした行動はよその国の人々を驚かせる。これは恐怖や絶望にあっても自らを失わないようつとめる「自在」の心得からくる。
そして崩壊間際の原発から漏れる放射能の存在をしりつつも騒然とならずに普段の生活を送ろうとするのもある意味で「自在」を求める気質の顕われであるかもしれない。

「放射能はいまさら騒いでも仕方ない。なるようにしかなるまいよ」筆者の父は言う。父ばかりでなく多くの日本人の気持ちではないかと思う。そして父たちの目には反原発を叫び、暮らしを守ろうと立ち上がる人々の姿も往生際が悪いとすら映るようだ。

こう思えてしまうのはいくつかの欠落があるためである。

ひとつは、原発というこの醜くも恐ろしい物がわれわれの「欲」に養われる家畜であることに気づいていない。戦中・戦後に生まれ自由経済とその成長を共にした世代となれば特に気づかない。仕方なしと受け入れるべきは天災であり放射能ではない。先の原発事故が百歩譲って天災によるものであったとしても原発が在ること自体が人災である。

次に、次世代に対する思いが歪んでいることを挙げたい。親たちは大変な苦労をして子供たちに教育を受けさせているのだが、それは教育機関に子供たちを丸投げし対価を貨幣で支払ったに過ぎないことに気がついていない。そしてその「教育」そのものも子供たちを自由経済の中で戦う兵士に仕立てるための「調教」でしかない。親たちには子供たちが競争社会から零れ落ちることを考えれば放射能など虫に刺されたほどにしか感じられず、そして学校や塾に遣ることで親としての義務を果たしていると安心してしまうためそこで思考が停止する。次世代を真に考えるのであれはどうするべきかはここに書くまでもない。

豊かに見える国であるが国民の殆どが借金を抱える。これは身の丈を超えた高価な商品でも誰もが手を出せるよう、その日に手に入るよう仕組まれているから起こる。かつて借金というものは親や知り合いに恥をしのんで頭を下げてするものであったのに今は「ご利用ありがとうございます」と向こうが礼を言うので後ろめたさが消えうせた。誰であろうと現金を一銭も持たずに「自由」に買い物ができる。「金融」はこうして人々を「自由」で縛り「負債者」として掌に握る。
需要なき消費に支えられる日本経済は「自在」とは無縁、しかし「自由」に縛られた者たちはそれに気づく筈もなく、原発を不可欠と信じ放射能もよしとする。



身に降りかかる難事に対し戦々恐々とせず、在るがままを受け入れる姿勢は自在であるが、常に長いものに巻かれてしまうことではない。巻かれる前に身をひるがえす術はいくらでもある。その術を心得た者は自在である。

しかしそうもいかないこともある。
国に降りかかる国難、一国民がこれをひるがえし自在であることは難しい。日本が在りし日の姿を失ったのは在りのままでいられなくなったからではあるが、これにはよその国との関わりが働いた。それでも日本という国が今も存続しているところを見れば今日までの国難を幾度も乗り越えてきたともいえる。が、どこまでか。よその国の主義主張を唱え、よその国が作った政府に政治をさせ、外来語なしでは会話さえ難しくなった。この国のどこまでを日本というのだろう。
「国境のない自由な貿易」を求め武力で世界を脅しつけているのはかつて浦賀に艦隊を引き連れて現れ、開国か砲撃かを迫った「自由の国」である。彼らが祀る女神は右手に邪悪な欲望の炎を掲げ、この世のことわりを鎖に喩えて踏みにじり、闊歩する。



「自由自在」とは意味不明な言葉である。
自由の女神と観自在菩薩を並べて拝む、それに似ている。




拍手

カレンダー

04 2025/05 06
S M T W T F S
10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析