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バカが発狂するのとキチガイが発狂すること

剛力がZOZOの採用面接の面接担当の席にいたという話についての「ネットゲリラ」記事の読者コメントの一部だが、いい指摘だと思う。確かに、「官」という言葉は一般企業には馴染まないのであり、企業の単なる採用面接担当者を「面接官」と言うのは「権威付け」だろう。noname氏によれば、「官」の用法は緩やかになっていて、「教育者」や「指導的立場にある人」には「教官」などの言い方が使われているがやはりこれは「官」という言葉で教わる立場の人間をびびらせようということではないかwww
なお、校閲嬰児氏はいい問題提起をしてくれたが、そのコメントの中に「この国は本当にほんとうにバカとキチガイだらけでおまけに発狂している/笑」とあるのは、「笑」とあるから冗談でこういう書き方をしているのかもしれないが、「キチガイだらけでおまけに発狂している」という言い方はどうなのだろうか。キチガイが発狂したらどうなるのか、ということだ。この書き方だと「この国は発狂している」というのは全体集合で、「バカ」と「キチガイ」は部分集合ということで、全体集合の一部ではないかと思う。つまり、「キチガイ」は二重に発狂するのではないかwww

(以下引用)



《 発売中の「週刊新潮」(新潮社)によると、剛力が前澤社長とともにZOZOの採用面接で面接官をつとめていたというのだ。》


たかが一民間企業の面接担当者をなぜ「面接官」と「官」扱いするのか 。。


単なる面接者を面接「官」と誤用するのはここ10年ほどの傾向だが『日経』が先鞭をつけた


民間企業の就職試験を「権威づける」ためにあえて誤用したのだが いまでは『朝日』も


《就職活動を経験したLGBTなど性的少数者の4割以上が、選考時に面接官などからハラスメントを受けたり、困難を感じたりしていたことが、NPO法人「ReBit」の調査でわかった。》2019/02/10 「デジタル朝日」


 あのかなり聡明で言葉に厳格なはずの内田樹氏ですら神戸女学院大学を退職する前に


「これから退官したらウンヌン」と述べていて落胆と軽侮の両方を味わった記憶がある /笑。


権威主義の横行と現職総理夫人 安倍昭恵を私人だとワザワザ閣議決定するのは表裏一体だ


しかもアタマの足んない閣議決定「私人」夫人が ちがう場所では「国母」などと宣う


のだからこの国は本当にほんとうにバカとキチガイだらけでおまけに発狂してる/笑。


「バベルの塔」建設が中断したのは「言語の混乱」言葉が通じなくなったことが原因です


公文書改竄も 統計不正も 論文盗用も 原発ボカンもお咎めなし むしろ忖度は出世の近道


  「クソ味噌一緒」「官民一体」「私人国母」の現代ニッポンは明らかに発狂状態です


  ア。。それから私立系学校教師を「教官」とか呼ぶのもイイ加減にやめなさいよ 。。




面接官、試験官、教官


面接「官」に試験「官」、役人じゃなくてもOK? 文字の由来や実態は
https://withnews.jp/article/f0171121005qq000000000000000W05h10801qq000016218A


 広辞苑は初版(1955年)で「(1)学術を教授する官吏(2)教育に関することをつかさどる官吏」と、国の役人を指す二つの語釈を示していました。ところが、第3版(83年)になると、「ひろく大学・高等専門学校などの教員」が加わり、91年の第4版で「俗に、私立大学や専門学校などの教員にも用いる」と変わります。


 三省堂国語辞典は、第5版(2001年)では「学問や技術を教える(研究する)国家公務員」と狭義の語釈でした。しかし、第6版(08年)で「教育や指導に当たる人。『自動車教習所の教官』」とゆるめています


わりとどうでも良い話ですが、こだわる所なんですね。
辞書を作る方は時代に迎合したって事になっちゃうんですかね?


個人的には教官といえば風間杜夫さんを思い出しますw




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自分の年齢を自分で決めること

無料で精神年齢が測定できるというゲームというか、質問リストがあったので、やってみたら、こういう結果だった。まあ、私自身は80歳くらいか、逆に12歳から14歳くらいかな、と思っていたので、何とも言い難い結果である。つまり、精神が未熟なことは未熟だが、若々しさもない、ということだろうか。
なお、現在の私は、今が17歳という「設定」で生きることにしている。ただし、事故か病気でいつ死んでもべつにおかしくはない、という設定だ。それは現実の17歳と同じであり、若いから時間がたくさん残っているというわけではない。ただ、違うのは現実の17歳と比べて外貌や肉体がひどいということだけだが、そこはどうせ「脳内ゲーム」である。そこも適当に美化していればいい。
で、今が17歳だとしたら、何がしたいかというと、働く必要はないという設定だとしても、べつにカネも女も欲しくはない、とすれば、勉強と遊びだけかな、ということになる。遊びは、私の場合はテレビゲームの古いのを何度も繰り返すのと漫画を読むくらいだ。だが、それではせっかく17歳になった甲斐が無いので、24時間自由で試験も就職の心配もない、ということなら昔大嫌いだった勉強も楽しめるのではないか、と思っているわけだ。
私が嫌で嫌で仕方が無かったのは、学校で習う内容が、実はまるっきり理解はできていないのにそれをテストされ、悪い点を取れば何らかの「罰」がある(もちろん、大学入試に直結する罰だ)から丸暗記しなければならないということだった。私は、理解できないのは覚えられない性質だったのである。
たとえば、三国同盟とか三国協商の「同盟」と「協商」の意味の違いが分からない。そもそも、なぜ第一次世界大戦が起こる必要性があったのか、教科書の記述ではさっぱり分からない。ロシアが南下政策を取ろうが、南下させてやればいいではないか、としか思わないわけである。そんなのが、自国民を何百万も死なせるような戦争を始める理由になるだろうか。
教科書の言葉のひとつひとつに抵抗があるのだから、勉強が進むはずがない。好きになるはずがない。しかし、今なら、試験も無いし周囲の強制や叱責もないから、勉強を楽しめるのではないだろうか。もともと私は何かを発見するのは大好きなのであるから。教科書の中から新たな発見があれば、きっと楽しいだろう。というわけで、今の私は(現実の高校生とは違って、自由な)17歳である。

あなたの精神年齢は:
33
荒波を乗り切った人生です
1986年生まれになるらしい!
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応援って何だろう

さすがに小田嶋師で、「『メダル』という単語を含んだ発言」という実に分かりやすい指標を提示している。こういうのが頭のいい人というのだろう。「メダル」云々と言っている時点で、池江嬢を「メダル」と同一視しているわけであり、桜田五輪相と何も変わらない。こういう人々は日本人がメダルを取ると、自分自身が偉くなったように思うのだろう。
もともとスポーツ選手、特にオリンピック代表選手を応援するという行為自体が私は好きではない。応援しなくても、彼ら彼女らは目標達成のために努力するだろう。応援する人たちは、「自分の応援があったから彼(彼女)はメダルを取ったのだ」と思うのだろうか。いや、単に自分とその選手を一体化してその勝利が自分の勝利であるかのように錯覚して快感を得たいだけではないか。まして、トップレベルの選手には応援など関係ないだろう。
池江嬢の場合は話が違う、白血病になったのが気の毒だから応援するのだ、と言われるかもしれないが、無名選手や、ただの若い娘が白血病にかかったら、彼らは「同情し、応援し、励ます」だろうか。あるいは、汚い爺さんや婆さんが白血病(でも淋病でも何でもいいが)にかかったらどうだろうか。(あえて淋病と書いたのは、「病気差別」というのもあると思うからである。白血病なら公表できるが、自分が淋病や梅毒にかかったと公表できる人間はいないだろう。)






「メダル」という単語を含んだ発言には共感できない。桜田五輪相のコメントは論外。
白血病を公表 池江選手に励ましの声 | NHKニュース




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著作権について

2013年の記事だが、言及された内容と状況は現在でも同じだろう。
私はかねてから著作権の期間が長すぎることを批判しているが、二次創作(模倣)は創造の出発点であり、著作権によって素人が創造に参加する機会が減り、創造する内容も貧困化するのは自明だろう。場合によっては、歌手が自分の作った歌を人前で歌うとジャスラックからカネを請求されるという逆立ちした状況も出てくる。
著作権があまりに拡大したために、「新作」しか本屋の店頭に並ばなくなり、愚作が山のように店頭に溢れているが、半年後にはそのほとんどは消えているという状況ではないか。それでは客も「マスコミの誘導や宣伝やステマ」に何度も騙された結果、「小説(漫画)などつまらん」と思うようになり、本も漫画も読まなくなって当然である。そして宣伝にカネをかけられないが良心的な本を出している出版社から先に、どんどん潰れていく。
著作権は、著作権者の死亡と同時に消滅、というのが正解だろう。企業が著作権を持つ、というのは原則禁止でいいと思う。まあ、現在の著作権保護法はディズニー社の延命のためだけに保護期間延長を繰り返してきたようなものではないか。他国がその真似をする必要など無い。


(以下引用)


メモ

著作権による保護は本を普及させず逆に「消失」させている




By Benjamin Zank

著作権法は、作者の権利を保護し文化の発展を促進させることを目的としています(著作権法第1条)。この理念は世界各国の著作権法でも同じです。「文化の発展」には、作品をより普及させること、すなわち多くの人の手に渡るようにするということも含まれています。しかし「著作権による保護がかえって本の出版をさまたげているのではないか?」という驚くべき研究結果がアメリカで発表されました。著作権のせいで本がかえって普及しないとは一体どういうことでしょうか。

The Hole in Our Collective Memory: How Copyright Made Mid-Century Books Vanish - Rebecca J. Rosen - The Atlantic
http://www.theatlantic.com/technology/archive/2013/07/the-hole-in-our-collective-memory-how-copyright-made-mid-century-books-vanish/278209/

How Copyright Makes Books and Music Disappear (and How Secondary Liability Rules Help Resurrect Old Songs) by Paul J. Heald :: SSRN
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2290181

イリノイ法科大学のPaul J. Heald教授は、過去200年間に出版された書物の数を10年単位で調べた結果、「著作権の存在は、本の普及を促進させるのではなく逆に妨げになっている」という分析結果を発表しました。





Heald博士は、Amazon.comで発売されている書籍の中からランダムに2317タイトルを抽出、それらを10年間を一つの単位として分類、タイトル数を調べることで、書籍の年代ごとの入手性・普及率を測定しました。本の普及率を年代別に調べるためにはその発行総数を調べることが有効ですが、これは極めて困難です。そこで、発行総数を測定するかわりに、現時点でAmazonで手に入る本のタイトル数を調べることで、入手性を間接的に測定することにしたのです。

その結果がこちらのグラフです(グラフA)。




グラフAからは、Amazonで入手可能な本は、1880年代(1880年から1889年の10年間)は1980年代よりもはるかに多いことが分かります。そして、20世紀中盤の本は相対的に少なくほとんど市場に流通していないことも明らかです。このグラフは著作権の保護を受ける1930年代以降のタイトルが急速に減っていることから「多くの作品が、出版されてからわずかな期間でいったん市場から姿を消し、パブリックドメインに帰した後に再び世に出てくる」ということを表しているのです。衝撃的なことに、1930年代から1980年代までの書籍の数と1800年代から1850年代までの大昔の書籍の数が同じくらいなのです。つまり、出版社は特に新しい作品でもない限り単純に著作権で保護された本を出版しているわけではなく、著作権による保護が本の出版機会を増やすことにはつながらないといえるのです。

もっとも、「Amazonで購入できる本のタイトル数を調べる」というシンプルな手法には問題があります。それは、パブリックドメイン(PD)に帰した本はさまざまな出版社から再発行されるため、同じ本がいくつものエディション(版)として複数出版されていることがあり、版の数が多い(古い)本ほど抽出されやすく、より多く数えられてしまうという問題です。そこで、Heald博士はPDの書籍には1タイトルあたりどれくらいの種類の版があるのかを測定したところ、平均して16であることが分かりました。ただしこれは、ごく一部の本が数百という異常に多い版をもつせいで歪められた数値であることから、Heald博士とその研究チームは統計学的手法を用いて1タイトルあたりの版の標準値が4であるとはじき出しました。このため、Heald博士は、PDの本の数を4で割った値をグラフAの数値として採用し、版の重複による影響を補正しています。

こちらが版の影響を補正した後のグラフです(グラフB)。グラフAに比べ古い年代ほど数値が小さくなっています。




しかし、Heald博士は、グラフが示唆する事実は依然として劇的なものであるといいます。

確かに直近10年間は比較的本が多く出版されているといえます。しかし、20世紀以降の落ち込みは依然として顕著です。仮に、著作権による弊害がないマーケットであれば、2000年代から1800年代まで時間をさかのぼるにつれてグラフはスムーズな傾斜で下がっていたはず。これは古い作品ほど人々の興味を失い市場のニーズが減るためです。著作権フリーな世界とは異なり、現実は、出版数が急激に減退し、本がPDになるやいなや一気に増大しています。

もっとも「10年ごとに同じ数の本が出版されているわけでないことから、グラフBは著作権の影響力を正確に反映していない」という反論がありえます。しかしこの反論は簡単に打ち崩されそうです。

過去200年間に出版された本の数は正確には分かりません。しかし、Heald博士と研究グループは、「WorldCat」という世界中の7万2000もの図書館からの聞き取り調査によって作られたカタログから、本の出版数を近似的に計算することに成功。その数値をたよりにグラフを修正しました。

こちらが修正後のグラフ(グラフC)。




グラフCでは、1920年代以前の本の数と比較して1930年代以降の落ち込みがより鮮明になっています。やはり、著作権の影響が顕著であることを再確認できます。

著作権擁護者は長らくこう言い続けてきました。「本を著作権で保護することは、著作権者に知的財産からより多くの収益をあげることを保証する」「利益によるインセンティブは、本の入手性と流通の向上を保証する」と。この主張は、多くの人の賛同を得ることに成功してきました。

しかし、Heald博士は「出版業界は本を最初に出版した数年間を除けばもはやその本を売る気がないように思える」とします。Heald博士のグラフからは、出版された本はほんの数年で市場から消えてしまい、それがPDになり著作権者から解放されるまで長年消え続けるという現実を示唆しています。そしてHeald博士は「著作権は本をこの世から消滅させている。著作権がなくなるときに本はふたたびこの世によみがえるのだ」とします。

Heald博士の研究結果は、これまで著作権擁護者が唱えてきた著作権が生み出すユートピアを真っ向から否定するものです。著作権による保護は作者の死後も続きます(アメリカでは原則として作者の死後70年、日本では原則50年)。著作権のせいで作品が市場から消されているという「現実」は、作者の望む、あるいは望んでいた世界ではないはずです。

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馬鹿を煽動するのは容易

ヒトラーが、なぜ「第一次大戦でのドイツはユダヤ人の裏切りによって敗北した」と言っていたのか、その根拠を知りたくてネットを探しているうちに、それとはあまり関係ないが、「ネトウヨ(つまり、低レベル右翼)はこうして作られる」(ヒトラーの手法)がなかなか面白いので転載しておく。林何とかという、おそらく学者さんの講演の一部である。
なお、若きヒトラーを組合に勧誘に来た組合員の言葉は、まさに安部政権下の日本を現わしているようだ。いや、資本主義国家はだいたいそんなものだろう。だが、言っていることは正しくても、対人的なゴタゴタで信用を失うというのが左翼運動の悪しき特徴であるのはどの時代のどの国でも同じであるようだ。
ちなみに、ネトウヨの作り方、というのは、赤字で示した次の言葉だ。もちろん、これは低レベル左翼の作り方でもある。

「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めている」



(以下引用)赤字部分は夢人による強調。



当時、ヒトラーは建築現場の日雇い現場で働いていました。とこ



ろがある日一人で昼食をとっているところに労働組合の活動家がやってきて「国家は資本主義階級の仮構であり、祖国はブルジョアジーが労働者階級を搾取するための道具である。法律の権威はプロレタリアを弾圧する手段であり、学校は奴隷要因と奴隷所有者を飼育するためある」と説得するのです。



このヒトラーを説得しようとした一労働組合員の言葉は、私(林



順治)にはつい最近聞いたことのように錯覚を覚えます。つい最近



とはいって私が1960年代の学生のころですが、全学連の運動家



が休講中の教室に入ってきて始めるアジ演説とそっくりだからで



す。



その事はさておき、ヒトラーは社会民主党員の言うことよく理解



することができませんが、興味があったので本やパンフレットを読



んでから、ヒトラーは社会民主党員にたびたび質問をし、議論する



ようになります。すると彼らは暴力とテロ行為に出たのです。社会



民主党員の数人がヒトラーに向かって「建築現場を立ち去るか、こ



こから落とされるか、どちらが好いか」と詰め寄ってきたのです。



ヒトラーは社会民主党員のこのようなやり方を彼なりの分析をしていますが、きわめて示唆的です。というのはこれに類するようなやり方が日本の学生運動や労働組合の一部で1970年代の初めまでは行われていたからです。ヒトラーは『わが闘争』で恐るべき次のようなことを言っています。



「もし社会民主党員に対してもっと真実さに満ちた、しかも同じような残虐な実行力をもったイデオロギーで対立すれば、たとえ非常な苦しい闘争の後でもきっと勝利するにちがいない」と。



なぜなら「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めているからだ」と。



何か後のヒトラーのナチの暴力とテロをまざまざとみるようですが、ヒトラーがこのやり方を社会民主党員から学んだというのでから、半分は本当の話でしょう。しかしこのような運動組織論を17、8才のヒトラーが体得したとは思われません。おそらくミュンヘン一揆までの体験を生かし、今後の選挙活動の予告として『わが闘争』に綴ったものでしょう。





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「くたびれ」は儲けだろうか

先ほど、ふと「骨折り損のくたびれ儲け」という言葉を、頭の中で「くたびれ損の骨折り儲け」と言ってしまい、これは間違いだな、と思ったのだが、そのすぐ後に、本来の「くたびれ儲け」というのもおかしいのではないか、と考えた。
くたびれは「儲け」になるのだろうか。あなたは、くたびれて、「儲けた儲けた」と喜ぶか? いや、「儲け」とは、利益になったことではなく、手に入ったことを言うのにすぎない、と言われるかもしれないが、それなら「骨折り」も儲けなのではないか。くたびれが「利益」を意味する「儲け」だとしたら、企業経営者は、被雇用者に「お前は『くたびれ』を儲けたのだから、それで仕事の報酬は十分だろう。だから給与は払わない」と言いそうであるwww
それと似た、よく分からないことわざが、「憎まれっ子世にはばかる」で、憎まれっ子が世間に遠慮して(はばかって)くれるなら結構なことだが、このことわざは、嫌な奴(憎まれっ子)が世間で幅を利かせていることを嘆いたことわざであることは言うまでもない。
なお、「あずまんが大王」で谷崎ゆかり先生が授業中に突然、「『すもももももももものうち』って言うけど、ももがもものうちって当たり前よねえ」と言って生徒たちをぽかんとさせるのだが、私もそれはかねがねおかしいなあ、と思っていたのである。



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確定深刻

蔵建て男さんは冗談が好きだが、誤字が非常に多い人でもあるので、これはどちらか分からないが、「確定深刻」というのは言い得て妙である。年収を計算して、深刻さが確定したのかwww





昨年度の年収が出て 確定深刻 なわけだが、おおよそ必要な書類は揃ったので、半分はできたようなものだな(あとは経費算出すれば)




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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