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客は神様ではないし、店も神様ではない

気に入らない客は出禁にする、という方針で売り上げを伸ばし、従業員の離職率も減った(これは、個人営業の店としては「感覚」で語っているだけではないか?)ということ(自称だが)で少し話題になっている居酒屋オーナーのツィッターの一部だが、まあ、当人自体がかなり癖のある人間だな、と思うと同時に、客と店は対等であり、言うべきことは言う、という姿勢はいいと思う。
ただし、ツィッター上で、その出禁にした客の個人名を上げている(つまり、社会的にある程度名前のある人間であるわけだ。)のは法的に問題がありそうだ。
まあ、先に出禁にされた客が店の名をツィッターに上げたわけだが、客が店の批評をすることと、個人をSNS上で誹謗することとは同列ではないだろう。特に「ネームバリュー」が生活につながる人間(出禁にされたのは二人とも作家で、その作品内容が居酒屋の親父の気に入らなかった可能性もある。)の場合、裁判の対象になるのではないか。
まあ、私も右翼作家のハゲ男などを口を極めてけなし(毛無し)ているが、すべて事実に基づいての批評だし、特に彼が「毛無し」であるのは明白な事実だwww だが、ある客が「最低の客」かどうかは居酒屋店主の主観だろう。
下のツィートは、なかなか鋭い指摘で、株屋の「お勧め」やセールスマンのセールストークの大半は、この指摘によってほとんど壊滅する。

(以下引用)



タピオカドリンク専門店のフランチャイズ募集で

5坪の店舗で毎日700杯以上販売
月商900万円超
簡素なオペレーション
投資費用早期回収,多店舗経営可

みたいな耳触りのよい事ばかり書いてあるけど,こんなに簡単にボロ儲けできるならFCなんて募集しないで本部直営でやるだろう?うまい話には裏がある。


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荻生田トライアングルに消えて迷宮入りした不祥事

なるほど、「バミューダトライアングル」と「オギューダトライアングル」か。魔の三角地帯というわけだ。






  1. 「萩生田トライアングル」という用語を再告知しておく。
    安倍晋三と加計孝太郎の二者関係に萩生田光一という補助線を引くことで見えてくる空間がある。いろいろな大切なものがその三角形の中で消息を絶っている。


  2. さんがリツイート

    幸福の科学大学問題で押さえておくべきポイント

    ・幸福の科学というカルト宗教が大学の設立申請を出そうとしている
    ・前回の申請では教育内容の問題で認可がおりなかった
    ・前回の申請の際に幸福の科学側をサポートしたのは萩生田光一衆議院議員
    ・現在の文部科学大臣は萩生田光一






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善性の自己疎外(象徴化)による無責任化

「疎外」について調べた時に読んだ、この部分(引用予定だった部分だが、引用できない。)は非常に興味深い。善性を自己の外部のもの(神)として象徴化すると、それは「自分には無関係なもの(自分の責任ではないもの)」となって疎外が進行するわけだろうか。つまり、自分の内発的な行動として善行や悪行を行うのではなく、「神の命令や掟」として行動するわけで、或る種の「無責任な行動」になるわけである。「だって、俺の意志じゃなく、神のせいだもんね」ということだ。
こういう(象徴への)責任転嫁はあらゆる組織で生じるが、それは組織の上位層にとって都合がいいだけでなく、下位の人間の「精神安定剤(あるいは麻薬)」にもなるわけである。そして、その結果として無数の善行と悪行が「無責任に」発生する。その意味では明治から昭和初期までの天皇制も宗教組織も同じだろう。


*「疎外」についてのウィキペディア記事、特にフォイエルバッハとマルクス思想の関係についての記述を引用しようとしたが、コピーすると文字化けするので引用ができない。ウィキペディアに疎外されてしまったwww





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仏教は宗教か哲学か

偉そうに上から目線で言えば、非常に皮相な仏教理解のように思える。
私は仏教書などほとんど読んだこともないが、「般若心経」を自分で納得できるまで考察すれば、仏教理解には十分だと思っている。
私の場合は、世界のすべてを仮に「空」と見ることで、逆にこの世界の価値、生きることの価値を認識するという思考実験(思考体験)が仏教の真髄だと考えている。(これが「色即是空空即是色」の意味だと理解している。)
要するに、仏教とは(シッダルタが説いた時点では)本来は宗教ではなく、実用主義的な哲学だった、という認識だ。まあ、これは99%の仏教徒(たいていは「葬式仏教」の信徒かと思う。ただ、宗教そのものの価値を私は否定はしない。その社会的な効用は絶大だろうし、だからこそ危険性も大きい。)には排斥される考えだろう。
もちろん、仏教にはいろいろな派があり、そのそれぞれで「仏教」の内容は違うのだと思う。だからこそ無数に宗派が分かれたのだ。でなければ、「統一教会」ならぬ「統一仏教」が生まれただろうwww


(以下「紙屋研究所」から引用)*本論ではなく、導入部のみの引用。


日野雄飛『理想と恋』


 ある仏教書を読んでいると、次のような章・節タイトルに出会った。


「生命を生かしているもの」


「だれに生かされているのか」


 仏教の本を読んでいて、このタイトル。


 誰がどう考えてもこの章には、「宗教」じみた、「説教」くさい話が書かれているのだろうと考える。


 ところがこの著者は、「神さまでしょうか、なにか外部の存在でしょうか」と問いかけながら、次のように書くので、笑ってしまう。


 


わたしたちを生かしているものは、「不満」なのです。不満が、わたしたちを生かしているのです。/不満が「ああしなさい、こうしなさい」と命令して、わたしたちの生きるパターンを形づくっているのです。不満は、エンジンのようなものです。ジェット機が動くためには、エンジンが必要でしょう。いくら大きな両翼がついていても、エンジンがなければ一ミリたりとも動きません。(A・スマナサーラ『わたしたち不満族国書刊行会p.44-45、強調は原文)


 


 さすが仏教書!


 無神論としての、そして精神コントロールの宗教としての、面目躍如である。


 

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

 

 


 その上、「スリランカ初期仏教長老」の肩書を持つこの著者は、「満足は『死』を意味する」として、


「生きることに満足した」なら、生きることができなくなり、生きることが終了します。人生に満足したということは、人生が終わったということです。やることもないし、がんばれなくなります。/これは冗談ではなく、ほんとうに停止するのです。つまり「死」なのです。すべての機能がストップするのです。(スマナサーラ同書p.38) 



「満足すること」と「生きること」は敵同士です。(同p.42)


と説く。


 


 ちなみに、最も原初的な欲望、例えば食べてもまた食べたくなる、セックスしてもまたセックスしたくなる、というのは、動物として生き残った人間(ホモ・サピエンス)というものの自然選択の結果であり、バグではなく仕様なのだ、というのはロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房)で読んだ(以下の引用に出てくる「章」は同書の章)。


 


 人間は目標を達成することで、長続きする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。この錯覚とそこから生じるあくなき欲望という心の傾向は、自然選択の産物と考えると納得がいくが(1章を参照)、かならずしも生涯にわたる幸せの秘訣ではない。(ライト同書p.329)



ドゥッカは、普通に生きていれば容赦なくくり返しやってくる人生の一部だ。ドゥッカを従来どおり純然たる「苦しみ」と訳すだけではそれを実感しにくいが、「不満足」という大きな要素を含めて訳すとよくわかる。人間をはじめ生物は、自然選択によって、ものごとが(自然選択の観点から)「よりよく」なるような方法で環境に反応するように設計されている。つまり、生物はほとんどいつも、楽しくないこと、快適でないこと、満足できないことを探して地平を見渡しているようなものだ。そして満たされないことは必然的に苦しみをともなうため、ドゥッカに不満足が含まれると考えることは、結局、苦しみという意味でのドゥッカが人生に浸透しているという思想の信憑性を高めることになる(1章、3章を参照)。(ライト同前)



四聖諦で明らかにされるドゥッカの原因――タンハー(「渇き」「渇愛」「欲望」などと訳される)――は、進化を背景にすると納得がいく。タンハーは、どんなものに対する満足も長くつづかないように自然選択が生物に植えつけたものといえる(1章を参照)。(ライト同前)


 


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学









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菓子袋の中には賄賂

時代劇の世界である。菓子折りの底には小判がぎっしりで、それを受け取ったお奉行が「越後屋、お主もワルよのう」www
ただし、これは役人が業者に「利得の一部を謝礼金にした」もので、贈るのと贈られるのが逆だが、元は税金からの中抜きである。



さんがリツイート

_人人人人人人人人人人人_
> 現金を入れた菓子袋 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

驚愕がとまらない:「元助役が関電役員ら6人の個人口座に送金したり、現金を入れた菓子袋を関電側に届けたりしていたことが判明」


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判じ絵の鑑賞




世相を風刺しているというより、単に「面白い状況」を描いただけではないか。
鼠が箱(枡)で抑えているのは猫だと思うが、普通なら猫にやられっぱなしの鼠が巨大化して猫に勝っている(枡はネズミ捕りに使われたらしい。つまり、これも逆転現象。)のが面白い、ということだろう。褌姿で扇を持っている男は立会人で「勝負あり」と判定したところだろう。相撲を取る方ではなく行司が褌姿であるのも逆転現象。扇に「当たり(當)」と書いてあるのは、この勝負で賭けが行われたのかもしれない。

「そのままに転げ落ちたる枡落とし」(芭蕉一門の連句の中の一句)


さんがリツイート

歌川国芳の「狂画絵手本 一」より。世相を風刺した判じ絵と思われますが、意味がよく分かりません。もしかしたら、描いた国芳本人も、はっきりとした意味を考えていなかった可能性もあります。太田記念美術館で10/4より開催の「歌川国芳ー父の画業と娘たち」で展示します。





















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「セクシー」の意味はなぜ拡大されたのか

今時の若いもんは「セクシー」を「性的魅力」以外の意味で使うほどアメリカナイズされているのか。
私はむしろ「セクシー」の意味用法の拡大に驚く。なぜそこに「セックス」に由来する言葉を使う必要があるのか、理解できないからである。なぜ「make green sexy」となるのか。

もちろん、私の辞書にも「sexy:(話)性的な、性的魅力のある、(一般的に)魅力のある」と書いていて、「一般的に魅力のある」意味にも使うことは使うとされてはいるが、性的な魅力があることと一般的に魅力があることが同じ言葉で表現されることを理不尽に思うわけだ。それなら、下司な言い方だが、魅力のある女性や素晴らしい美術品に「マンコ的で素晴らしい」と言うのと何が違うのか。

まして、外来語としての「セクシー」には日本人のほとんどは「性的魅力」しか訳語は無いのではないか。無理に日本語を使うなら、感覚的な言葉だが「グッと来る」くらいだろうが、その方が死語かwww

私には「セクシー」の中国語訳であるという「性感」が、セクシーの意味合いを端的に示していると思われる。
そして、セクシーの意味用法の拡大の理由も想像はついている。それは要するに、「性の解放(一夫一婦制の破壊、貞操観念の破壊)は消費を押し上げる」からである。つまり、経済界や西側マスコミの資本主義的戦略によるものだと推定している。簡単に言えば、配偶者にはカネを使わない男女も愛人や愛人候補者にはカネを使う、ということである。




ただ今回のセクシーの件で、セクシーは中国語で「性感」と書くらしいことを知った。



  • 「スマート」は「細い」というだけの意味ではなく、「クール」は「冷たい」というだけの意味ではなく、「セクシー」は「性的魅力」というだけの意味ではない。そもそもこんな事がピックアップされる事自体に驚いた。



  • セクシー発言がやたら言われてて本当に意味がわかんなかったけど、普通にセクシーを「性的な魅力」に関する言葉と捉えて話題になってたのか・・・流石にその発想は古すぎてビビる・・・・・・・・・


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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