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これでなぜ一つなのか

都道府県というのは、地図の一部に収まっていれば何も感じないが、1県だけ切り取ると異様な形である。特にこの福井県というのは、これで一つにまとめる必要性はあったのか。どう見ても、上(北・怪獣の頭部)と下(南・怪獣の首から下)を別の県にすべき形態だろう。
少なくとも、下の部分は、隣接する南側の県(京都府か? 滋賀県か?)と合体しているのが自然に思える。



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【今日知った事】福井県はビラ星人に似ている。










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差別された側が差別を逆利用してカネと権力を得ること

「逝きし世の面影」の記事の一部だが、下手をすると差別側に加担する可能性のある危険な内容だ。つまり、被差別側が、その立場を逆利用してカネや権力を得る、という話なのである。もちろん、カネや権力を得るのはその中のほんの一部のヤクザ的連中で、ほとんどの人は差別されるだけの悲劇の人生を送るわけだろう。
ただし、例のK電の収賄問題は、差別問題とは無関係に、単なる背任事件である。

(以下引用)記事全文はコピーできないので、元記事参照のこと。

「原発はね、深いんだ。わからないよ、なかなか。いろいろあるから。ほんと、いろいろとね…」

2019年10月04日 | 部落解放同盟

37年前(1982年)の日本共産党の月刊誌「前衛」8月号の記事から一部を転載


テレビや新聞など大手メディア全員が『タブー』として怖がって報道しない『不都合な内容』を、共産党だけ昔(30年以上前)は報じたので選挙のたびに倍々ゲームで党勢(議席)が拡大したのである。(ところが、共産党がタブーを報じ無くなった途端、それまでの躍進もピタリと止まる)
★注、
理由は不明だが30年ほど前から徐々に共産党『赤旗』は既存メディアとまったく同じことしか報じなくなる。左翼の共産党が右傾化し沈黙する中で、逆に右翼メディアが報じる『左右の逆転現象』が起きているのですから情けない限り。(わざと負けて自公を応援しているとしか思えない、今の日本共産党の穏健化が不可解である)


     蓮池透 @1955Toru   

「原発はね、深いんだ。わからないよ、なかなか。いろいろあるから。ほんと、いろいろとね…」

森山氏「発電所を運営できなくしてやる」。どう考えても金品を要求するセリフだ。関電は、恫喝を金品の返却ができなかった理由にしているが、腑に落ちない。原発利権の深淵を徹底的に解明すべき。

「お前なんかいつでも」浮かび上がる元助役と関電の関係:朝日新聞デジタル


★注、
科学の最先端技術に見える原子力発電は核分裂で発生した熱量の3分の1しか利用できない(3分の2は温排水として無駄に環境に放出する)半世紀以上前の遅れた技術体系だった。
ところ
が我が日本国ではもっともっと極端に古い。『菓子折りだと思ったら中身が小判』だった桜吹雪の金さん(北町奉行の遠山金四郎伝説)のような関西電力の原発利権ですが、これは王政復古以前、150年以上前の18世紀の士農工商の身分制度(封建制)の江戸時代にタイムスリップしていたらしい。  (^_^;)  






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努力のコスパ

私は羽生善治は好きだし、下の言葉は正しいと思うが、子供を特定の道に進ませるのは親の意志が子供に大きな影響を与えるだろうし、その道に進むのが最善だったかどうかは分からない。成功した人間にとっては最善だろうが、失敗した人間にとっては最悪なわけで、しかもだいたいにおいてそれが当人の努力不足のためだとされるわけだ。まあ、一流のプロになる人間というのはそうした「努力の才能」を持っているのは確かだろう。「普通の人間」はもっと楽な道を選ぶわけだ。
野球というゲームの無い世界に生まれたイチローや将棋というゲームの無い世界に生まれた羽生善治が、他のゲームの世界でも一流になれた可能性は高いが、あれほどの情熱と意思を持って努力できたかどうか。つまり、レジェンドクラスにはなれなかった気がする。
まあ、「好きこそ物の上手なれ」ということだ。ただし、その反面には「下手の横好き」というのもあるwww

私は、「努力」がその本人に与える苦痛の程度というのが判断の大きな要素かな、と思う。つまり、人にとって「コスパのいい努力」と「コスパの悪い努力」があるという考えだ。当たり前の話だが、教育者や教育界、影響力の強い指導者などに、この考え方が必要なのではないか。
たとえば、イチローを無理やり棋士に育てるとか、羽生善治を無理やり野球選手に育てるような親や教育者がけっこういるような気がする。そして、(一流になった人以外)ほとんどの場合、子供当人自身は自分に何が向いているか判断できないのである。それ以前に、どのような選択肢があるのかも知らないし、その内容を実体験する機会もない。



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「努力は報われない」「修行なんて意味がない」と言う人や自己啓発本が多いですが、ボクは羽生さんの言葉が全てを物語ってると思います。




















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Sympathy for the Devil

「差別と笑い」を論じた小田嶋隆師の記事の末尾で、「結論」部分だ。
同じことを繰り返すことになるが、問題は「差別する側」「反人権思想」が、権力や体制と強力に癒着したという現在の日本の状況にあり、世の事大主義者たちは敏感にそれを見抜いて差別する側に加担していることだ。この種の事件へのネットのコメントを見れば、それは明瞭である。
まあ、政治的にも経済的にも文化的にもこの国は地獄的状況だろう。地獄が住み心地がいいのは、鬼か悪魔だけである。
ただ、鬼や悪魔であること自体、本質的には不幸であり、だから私は「悪魔への同情(ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」の原題)」をかすかに持っている。

(以下引用)



結論を述べる。



 私は、前世紀の半ば過ぎまでは「芸能の周縁」に置かれていた「お笑い」という演芸が、1980年代以降、「高尚かつ知的な文化的営為」にいつしか格上げされたことが、そもそもの間違いだと思っている。



 というのも、笑いは高度な文化だという思い込みが、かえってお笑いを低俗な娯楽に誘導した結果が、今われわれが見せられている21世紀の寒々とした差別的な笑いの現状だと考えるからだ。



 笑いはそもそも、「誰かを貶めるところから派生する批評性」の部分を余儀なく含んでいるものだ。



 であるから、笑いは諸刃の剣で、敵対勢力や権力の横暴と闘う際の武器にもなれば、弱者を迫害する鞭にもなる。時には自分自身を切り刻むカミソリにもなる。



 その意味で、地上波民放のテレビ局のみならず公共放送たるNHKまでが、MCやレギュラー出演者としてお笑い芸人を重用しているこの10年ほどの顕著な傾向に、私は強い警戒感を抱いている。



 というのも、テレビ全局のバラエティーを席巻しつつあるお笑い芸人なる人々は人を「いじる」ことの専門家で、さかのぼれば、「いじり」ないしは「いじめ」を笑いに転化することの技術革新が、この何十年かのお笑いブームが行き着いた着地点でもあるからだ。



 しかも、その「いじり」は、「多数者が少数者を笑う」という、スクールカースト発の閉鎖された教室から引き継がれたマナーを多分に含んでいる。



 特に吉本興業が提示する笑いには、この「スクールカースト発ヤンキー経由任侠行き」のホモソーシャル要素を強く感じる。



 ついでに言えばだが、この傾向の共有こそが、現政権と吉本興業の親密さの理由であり、この親和性の高さがあったればこそ、お国はクールジャパン機構を通じて、吉本興業に対して100億円もの資金を提供する決断を下したのだとも思っている。



 私たちの世代の人間が学生時代に読んだ本の中には、
「笑いは反体制の旗手だ」
「笑いを生む表現こそが権力への抵抗の第一歩だ」
「笑いほどアナーキーでラディカルな芸術はほかにない」



 てなことがあちこちに書かれていたものだった。それゆえ、私も、若い頃は、その種の文言を鵜呑みにしていたものだし、ほんの20年ほど前までは、まだ、頭の中のどこかに秘蔵してもいた。



 とはいえ、現在のお笑い芸人たちの芸を見て、それが「体制」や「権力」と戦っている姿だとは思わない。



 お笑いの関係者が「戦っている」「勝負している」「ギリギリまで突き詰めてやる」といったような言葉を使う時、彼らの仮想敵は、「コンプライアンス」であり「PC」であり、ヘタをすると「人権思想」や「良識」そのものだったりする。そういう例を私はこの10年、山ほど見てきた。



 つまり、芸人は、「反良識」「反人権」「反反差別」「反フェミニズム」あたりを志向して芸を磨いた方が、より本格派らしく見えるということで、だとすれば、彼らの「毒舌」が、いつしか弱者や被差別者に向けられようになったのは当然の帰結だったのである。



 寂しい結論になった。



 差別を含まない笑いを新たに考案するのは、おそらく、とてつもなく困難な作業だと思う。



 私自身は、他人を笑わせることは当面あきらめて、しばらくの間は、一人で笑おうと思っている。



 ネタは誰にも教えない。一番効率的な笑いだ。

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「暴力の快感」対「口先だけのヒューマニズム」では相撲にならない

こういう、「言葉の操作で現実を隠蔽する」偽善性を子供は無意識に見抜いたのではないか。
混血児の「ハーフ」を「ダブル」と言い換える類である。
もちろん、単に子供の本質的な残酷さや暴力性の露呈であるだけかもしれない。前に書いた、いじめられっ子がいじめる側に回って、いじめる楽しさを知った、というのも、馴致(教育、訓練、陶冶)されていない子供は本質的には野獣に近い、ということだ。(言うまでもないが、「暴力」には「言葉の暴力」も含まれる。)



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221/1000
小学生の時の全校集会で「欧米では障碍者をチャレンジャーと呼ぶ」という演説があったが
その日から罵倒目的でのチャレンジャー呼びが大流行して先生がたがチャレンジャー禁止令を出すというゲロ以下のヒューマニズムがぶちかまされていたな
常用語に波及したらどうするつもりなんだろう






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デジタル全体主義(ファシズム)社会

こういうのは、「デジタル全体主義社会」と呼ぶのがいいかと思う。
水源(物事の根っこ)が抑えられているから、そこから一人も脱出できない。
そのうち、現金が廃止されて電子マネーだけになり、銀行口座の無い人間は社会生活不可能になるだろう。
もちろん、それに文句を言う人間は「反社会的存在」として排除される。



山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間前

古い自動車ならレストアすれば走れるけど、ソフトはWindowsが新しくなると「道に乗る」ことさえできなくなるからなあ。ある意味ものすごく理不尽。



  • まあWindows親分とタッグで責めてくるしなあ;勝てないからなあ



  • 某社のデジタル作画ソフトって数年すると使えなくなったり新しいみかじめ料を払わないと使えなくなったりで、何か横暴な親分のなわばりで商売させられてる露天商(したことないけど)ってこういう感じなんだろうか、って思います。もうちょっと安心できそうな親分さんのところに行こうかなと;













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陽キャラという「演技」

まあ、社交といいうか、社会生活というか、他人と交わる際にはその言動の8割くらいは演技だ、というのは洋の東西を問わないものなのだろう。
兼好法師が「徒然草」の中で、「他人に何か言う場合は、その人がそれをどう受け取るかを考えて発言するから、すでに自分の思ったままの言葉ではない」という趣旨のことを言っている。

もちろん、他人に自分を合わせるというのも「生きる上で必要な生活技術」であり、それが悪いとは言わない。ただ、そういう「二重生活」というのは案外、無意識のストレスを溜め込むものであるような気がする。




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住んではいないけど『"ハッキリ意見を言う""付き合いがフランクに見える"ように振る舞うことが一種のステータス』なんだろうなって思う。

日本人で言うと、すごく粘着質で嫉妬深い性格の人が「自分ってサバサバ系だから!」って言って、普段それっぽく振る舞ってるのに近いのかなと。








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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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