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日本で為政者が「責任を取る」とは切腹しかないだろう

発言者の池田清彦氏は生物学者らしい。実名でこういう発言をするのは勇気があるし、他の学者や著名人も見習ってほしいものだ。
なお、「安倍政権は不滅だと思っているんだな」という言葉には同意しない。単に政権が続く間やりたい放題をして、上手く逃げ切ろうと考えているのだと思うし、日本という国はそれが可能な国である。要するに国民の精神年齢が十二歳。


池田清彦
@IkedaKiyohiko
どうも、邪推をすると、安倍政権は、実はパンデミックを狙っているのではないかとすら、思えてきました。経済的にはこれが一番安くつく。国民は沢山亡くなりますが、国民の命を犠牲にして、自分達の利益を守る。他の国ではそんなことをすると政権が倒れますが、安倍政権は不滅だと思っているんだな。






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邪悪な小人

ネットゲリラ氏命名の(か?)「コビト肺炎」だが、人間に悪さをする邪悪な小人と言うと、村上春樹の「踊る小人」を思い出す。私は、この作品が英語翻訳されたものを先に読んでおり、私の語学力不足のために意味不明のところが逆に作品の禍々しさやファンタジックさを倍増させたせいか、後で読んだ日本語原作より英語訳のほうがいいのではないか、と思っている。村上春樹の世界的人気は「翻訳しやすい」、あるいは翻訳されても価値がほとんど落ちないところにあるのではないか。
別ブログに載せた、私が訳した「Dancing dwarf」の一部で、ファンタジー性とユーモアが目立つところを載せておく。私はこの「製象工場」の記述が好きなのである。なお、原作との対照はまったくしていないので、原作通りではない。

(以下自己引用)中途半端だが、これ以上引用するとなぜか文字化けするので、これだけにする。


私は一人で目覚めた。俯けにベッドに寝ていて、体は汗で濡れていた。窓の外に鳥がいた。いつもそこに見える鳥とは違うように感じられた。
私は注意深く顔を洗い、ひげを剃り、パンをトースターに入れ、コーヒーのための湯を沸かした。猫に餌をやり、水を換え、ネクタイを締め、靴紐を結んだ。そして製象工場(「製造」ではない。)へのバスに乗った。
言うまでもなく、象を作るのは簡単ではない。第一に、象は大きいし、複雑だ。ヘアピンや色鉛筆を作るのとはわけがちがう。工場の敷地は巨大で、幾つかの建物から工場はできている。それぞれの建物もまた大きく、それぞれのセクションは色分けされている。その月の私は耳セクションに配置されていたので、私は天井と柱が黄色い建物で働いていた。私のヘルメットとズボンも同様に黄色だった。そこで私がやることは耳を作ることだけだった。ひと月前は私は緑色の建物で働き、緑のヘルメットをかぶり緑のズボンをはいて頭を作っていた。私たちは月ごとにセクションから別のセクションにジプシーのように移動していた。それが会社の方針だった。そうすることで、私たちは誰でも象がどんな風に見えるのか完璧に形作ることができたわけだ。耳だけとか、あるいは足の爪だけとかを一生作ることは誰にも許されていなかった。管理者たちは我々の動きをコントロールするチャートを示し、我々はそのチャートに従った。

象の頭を作るのは非常に報われる仕事だった。その細部を作るには細心の注意が必要だったので、一日の終わりにはあまりに疲れているため誰とも話す気力など残らなかった。そのセクションで働いた一月後には私は体重を6ポンド減らしていたが、非常な達成感が味わえた。それに比べたら、耳を作るのはそよ風のようなものである。ただ、この大きくて平らで薄いものに皺を作り、それで終わりだ。我々は耳セクションで働くことを「耳休みを取る」と言っていた。ひと月の耳休みのあと、私は鼻セクションに行くが、そこは再び、要求されることの多いセクションだった。鼻は柔軟でなければならないし、その鼻孔は鼻の長さの限り通っていなければならない。さもなければ、完成した象は暴れまくるだろう。それが、鼻を作る作業は最初から最後まで神経をすり減らす作業であるゆえんだ。



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COVIDIOT

筒井康隆のブログを読んでいたら「ハインラインの『大当たりの年』みたいになってきた」と書いていて、私も少し前に同作品に言及したが、題を「大当たりの日」と思い込んでいた。
なお、外出自粛要請下で外出すると「COVIDIOT」と言われる可能性について書いてあり、さすがである。分からない人のために解説すると、後半四文字(訂正:五文字である。私自身が老年性IDIOTになったか。)が肝。ただし、発音しにくそうである。
確か「逝きし世の面影」の宗純氏も言っていたが、今の世界はまさに筒井康隆的世界、「パプリカ」的世界だろう。ありえないような幻想や空想が現実世界を侵食して事実になっていく。

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個人のテリトリーを社会が侵食すること

別ブログに引用したものだが、重要な指摘だと思うのでここにも転載。筆者は精神科医(医療者側)らしいので、「マスクファシズム」や「健康ファシズム」への懸念を非常に婉曲に言っていることに注意。

(追記)この「犯人」はマスクだけはしていたと称賛されるのではないかwww

白マスクだけの全裸男を女子高生が目撃 鹿児島市の空き地付近 県警が注意喚起 #西日本新聞 nishinippon.co.jp/item/n/599163/


(以下「シロクマのブログ」より引用)


マスクをつけることが感染予防に貢献する仕草とみなされ、マスクをつけていないことが周囲への感染に無頓着な仕草とみなされれば、マスクをつけていない人に対する世間の目線、人々の心証は変わる。ひいては「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いも変わる。
 
たとえばヨーロッパでは、長らく、マスクをつけることは社会的に許容されない仕草だった。日本では、インフルエンザや花粉症の季節を迎えるたびにたくさんの人がマスクをつけるし、郊外汚染の激しい途上国でもマスクをつけて出歩く人は多い。しかしヨーロッパでマスクをつけて出歩くのは社会的に許容されない仕草だった。ところが今回の感染騒動をとおして、「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いが激変した。おそらくこの騒動が終わった後も、そうした社会的な位置づけや意味合いの変化は尾を引くことだろう。
 
そして日本では、冒頭で引用したツイートの方が察しておられるように、「マスクをつけるという仕草」は他人や世間への配慮、パンデミックな状況下において功利主義に適い、危害原理にも抵触しない、市民にとって望ましいものに変わりつつある。マスクをしていない人の咳き込み、マスクをしていない人のくしゃみに対する周囲の目線は、2か月前より厳しくなっている。公共交通機関において、マスク無しでくしゃみをした人に対する周囲のぎょっとした目線に驚いてしまうこともあった。
 
みんながますますマスクをつけるようになった結果として、2020年4月現在、「マスクをつけるという仕草」は感染予防に貢献するだけでなく、自分が世間に配慮している人間であること・他人に感染させるリスクを慮った道徳的人間であることをディスプレイする手段としても役立つようになっているのではないだろうか。
 
私たちは、ウイルスに狙われる自然科学的で生物学的な存在であると同時に、世間に生き、周囲からの評価や評判を意識せざるを得ない社会的な存在でもある。社会や世間に適応する個人にとって、マスクをつけて感染症対策をするということも重要だが、マスクをつけて世間体を守るディスプレイをすることも、それなりに重要なものだ。
 
そのうえ、幸か不幸か、マスクは顔につける品である。
顔は、他人の視線が集中する場所であると同時に、他人に対してメッセージを発し続ける場所でもあるから、顔の目立つ場所に装着するマスクはディスプレイの効果がとても大きい。であれば、医療関係者や為政者の意図していなくとも、マスクが他者配慮や道徳性のシンボルとしての意味合いを(勝手に)帯びることに不思議はない。
 
 


ラジオ体操にみる「健康でなければならない世の中」

 
社会や世間から「かくあるべし」という圧力がかかっている状況下では、自然科学的な目的は社会科学的な目的としばしば結託する。
 
一例として、戦前の日本で励行されていたラジオ体操を挙げてみる。
 
 

「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

 
 


 ラジオ体操は、家族や職場に集う人々が全国一斉に、「同じ時間」「同じリズム」「同じ動き」で行う体操であったため、人々に連帯感を感じさせるにはたいへんよくできたものでした。簡易保険局はラジオ体操を考案する際に、「民族意識」を高める目的で行われる、チェコスロバキアの「ソコル」を手本にしたといいます。
(中略)
 ラジオ体操の広がりによって、人々の考える「健康」に一つの変化が生じました。体操や運動が「連帯感」などの精神的側面の向上も重視するようになったため、「健康」が身体に生理的な異常を持たないという意味に加えて、国民としての道徳的貢献としても要求されるようになるのです。
 簡易保険局に寄せられた感想文の中で、当時の山梨県知事鈴木信太郎は「不健康は不道徳」というタイトルの文章を寄稿します。その中で鈴木は「私の考えでは、不健康は自分一人の不幸であるばかりでなく、社会的にも不道徳であると思う」といいます。
(中略)
 さらに、「不健康は国に対してもすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自身の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」と述べています。
 鈴木の感想は、たんに彼一人の個人的見解であったわけではなく、この時代の雰囲気を反映したものでした。鈴木は健康になることが、国家社会に対する「義務である」といっています。つまり、この時点で私たちは、「健康になるかどうか」を自分で決定することができなくなったのです。
 たとえば、あなたが怠惰な生活を送ったり、やけっぱちや自暴自棄で不健康になることは「不道徳」として禁じられます。しかもその理由は、あなた自身を不幸から守るというよりも、国家社会に与える不利益を未然に防ぐためです。この時代の「健康」とは、いいかえれば国家に利益をもたらす献身的な行為を意味するようになったのです。
『「健康」の日本史』より


 
ラジオ体操が浸透していった頃と現在では国家の体制が違っているし、ラジオ体操による健康増進とマスクによる感染予防では目的も違っている。しかし、健康を守るべきか否かが個人の問題から社会の問題へとシフトしている点や、健康の名のもとに皆が同じ方向を向き、ある種の連帯感、いや、空気が生まれている点は共通している。
 
医療者が世間や道徳を意識しているか否かにかかわらず、こぞってマスクを着用する人々はそれらを世間の慣習と結び付け、道徳とも結びつける ── これに類することは戦前にもあったし、公衆衛生の黎明期にもあったことだから、起こる可能性の高いこと、いや、起こっている可能性の高いことだと私は踏んでいる。
 
現在の日本では、"自粛"や"要請"や"推奨"といった言葉がメディア上を駆け巡っている。表向き、どれもソフトな言葉だが、それが空気と結合する社会では個人に強い圧力を与え、私たちの慣習や感性にも大きな影響を与えずにいられない。そういう状況のなかで私たちはマスクを争うように買い求め、できるだけ着用しようと心がけている。
 
こうした状況の延長線上として、今まで以上に健康と道徳が結びついた社会、衛生と道徳が結びついた社会を連想するのはたやすい。伊藤計劃の『ハーモニー』は、そうした健康ディストピア社会を舞台とした作品だったが、今まで遠いSF世界だった『ハーモニー』が、最近はすっかり間近に感じられるようになってしまった。医療と福祉に関心と影響力とリソースが集中する状況が長く続き、そこに道徳や功利主義や危害原理が結びついたままの状況も長く続いたとき、どういう社会の地平が待っているのか。考えると怖くなる。もう、SFの気分でそういうことを考えられない。


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wwww

これは女性にだけ許された行為。男がやれば変態仮面である。



9: 名無しさん 2020/04/09(木) 00:54:13.66 ID:JN+lfny70
no title

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大人のBCG接種

大人のほとんどは乳幼児のころにBCG接種をしているだろうから、どういう大人がBCG接種を希望するのだろうか。
まあ、BCGの効果がどの程度続くのか分からないが、一説によれば「体質そのものを変える」、つまり一生有効だ、という話もあり、接種経験のある大人が改めて接種する必要性は無い気がする。
もっとも、老人対象に肺炎予防のひとつとしてBCG接種を試験したら、明らかに有意な効果があったという話もあるので、乳幼児期の接種経験者の再接種も(かつては複数回接種をしていたのだから)無意味だとは限らない。コロナに感染するかどうかは運任せ的な部分もあるが、その重篤化を防ぐ効果(これが一番大事)がBCGにあるなら、政府は急いでBCG生産工場を作るべきだろう。大量に作って、世界へも輸出すればいいのである。
現段階ではCOVID19への確たる特効薬もワクチンも無いのだから、BCGという既存の薬品(つまり治験の必要無し)がコロナ対策になる可能性が少しでもあれば、使わない手はない。

(以下引用)





© 西日本新聞社 BCGワクチン接種後の一般的な経過(日本ビーシージー製造提供) © 西日本新聞社 BCGワクチン接種後の一般的な経過(日本ビーシージー製造提供)

乳幼児への供給に影響も


結核予防のBCGワクチンが新型コロナウイルス感染症の発症や重症化を防ぐ可能性が海外で指摘されたことを受け、3月末から国内でBCGワクチンの出荷量が例年の3倍に急増したことが、西日本新聞の取材で分かった。予防接種法に基づき1歳未満の乳児に定期接種されているが、新型コロナ予防で大人の接種希望者が急増しているためとみられる。乳幼児への供給に深刻な影響を及ぼす恐れがあり、メーカーが出荷量の調整を始めた。


本紙「あなたの特命取材班」に小児医療関係者から「コロナ禍の影響でBCGワクチンの供給が滞っており、本当に必要な赤ちゃんに接種できなくなりつつある。赤ちゃんを危険にさらすのはやめてほしい」という声が寄せられた。


国内唯一のBCGワクチン製造会社「日本ビーシージー製造」(東京)によると、乳児への定期接種を前提に出生数に応じて製造数量を決めているが、海外研究の報道があった3月末から出荷量が例年の約3倍に急増したという。


担当者は「新型コロナ予防で接種を希望する成人が受診しているとの情報がある。この状態が続くと、乳幼児への供給に影響を及ぼす」としており、医薬品卸への出荷量を例年並みに抑えるよう調整し始めた。


BCGワクチンをめぐっては、子どもへの接種の有無が、各国の新型コロナの患者数や重症者数に影響しているのではないかとの仮説を海外の研究チームが提示。オーストラリアの研究機関などが、BCGワクチンの有効性を確認する臨床試験を実施する方針を明らかにした。


一方、日本ワクチン学会は、新型コロナへのBCGワクチンの効果は科学的に確認されておらず「現時点では否定も肯定も、もちろん推奨もされない」との見解を公表。高齢者への接種に関しても「知見は十分でない」と強調している。厚生労働省結核感染症課によると、国内で法律に基づくBCGワクチンの予防接種が始まったのは1951年で、それ以前に生まれた人は予防接種を受けていない可能性が高いという。


「在庫ゼロで、入荷の見通しは立っていない」(都内の小児科医院)など一部の医療機関でBCGワクチンの確保が難しくなっているが、日本ビーシージー製造は「現時点で小児の結核予防接種に使う在庫量はある」と説明。医薬品卸に対して、医療機関に納入する前に「乳幼児への定期接種用であること」を確認するよう求めているという。(坂本信博)





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悪魔のような安倍総理

この推測はたぶん当たっていると思う。少し前に私も、「東京オリンピックが延期になった段階で政府首脳は、このコロナ騒ぎを『利用しよう』と考えたのではないか」と書いたが、そこでは「高齢者処分」のことしか書かなかった。だが、安倍の「悲願」である憲法改正(改悪)に持っていこうと考えるのは、もっと自然だろう。
あんなアホな顔の人間がそれほど悪魔的な人間であるはずはない、というのは考えが甘い。アホで無道徳な人間は無数にいるし、顔と知能はさほど比例はしない。学校秀才でも顔がアホなのはたくさんいる。(顔と人格は比例する。下品な顔の人間は下品である。松ちゃんと呼ばれているタレントとか百田とか。美人でもハンサムでも下品な顔はある。)

(以下引用)
枝元なほみ(脱原発に一票)
@eda_neko
私、補償をしないのはわざとじゃないかと思えてきました。
このまま被害が広がり続ける、そうして〈強権がないからダメなのだ〉という方向へ世論を持っていき、緊急事態条項、憲法改悪まで引っ張りたいのじゃないかと思えてきて、心底震えています。
馬鹿でケチなふりの後ろに悪魔がいるようで。

(夢人追記)少し前の「反戦な家づくり」記事の前半である。

コロナをめぐる混乱は、すべて政治の無能のせいです

もう、あまりの絶望に記事が書けません。

コロナをめぐる、あらゆる混乱は、すべて政治の無能のせいです。

はっきりしています。

「なんでも政治のせいにする」と文句言う人がいますが、でも事実ですから。

もし無能でないとすれば、もっと悪い。政治が確信犯でパンデミックを拡散しています。

マスクやアルコールがないのは、メーカーに対して、国が設備代を負担して、全量買い取りを約束しなかったからです。

感染が増え続けるのは、国が極端にPCR検査を抑制し、感染者を市中に野放しにしたからです。

病院や施設で院内感染がおきるのは、国が全医療機関に感染予防法を統一的に周知しなかったからです。

経済が壊滅するほど「自粛」せざるを得ないのは、検査と治療体制を国がとっとと準備してこなかったからです。

感染者が仕事を優先してウイルスをばらまいて歩くのは、職と収入を国が補償しないからです。

そしてこれから、大量の失業と倒産が生まれるのは、国が全力で産業を守らないからです。

学校や会社で「密集」せざるをえない人は、迅速検査キット(1500円)を数千万セット用意して、全員検査すればいいんです。
陽性になった人には所得を補償して、会社にも損失補償して、クビにすることを禁止すればいいんです。
それでも偽陰性ですり抜けたときのために、チェックと受け入れ医療体制を、1月から用意していれば、被害は最小で済んだはずなんです。

必要なことの10分の1、100分の1の仕事を、10倍、100倍の時間をかけて進める安倍政権の姿は、苦しむ国民の姿をみてほくそ笑む悪魔のように見えます。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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