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「教養」とは何か

有料会員限定記事だが、1月31日まで無料で読めるので、ぜひ全文をお読みいただきたい好記事である。記事のテーマは、「現代の政治と社会における言葉の危機」、つまり言葉の無力化(それは論理も良識も力を失い、権力への「忖度」ですべてが動く社会である。)という重要な指摘をしているのだが、ここでは「教養とは学歴や知識ではなく、思考を楽しむ姿勢だ」という、まさに私の中心思想が言語化されているページを抜粋した。
もちろん、思考の素材としての外界や知識が存在する必要はあるが、その話は脇に措いておくとして、「思考するだけで楽しい」というのが私が持っている最大の財産だろう。それを「教養」などと言うと面映ゆいが、その教養が学歴や知識(の量や質)ではない、と言えば、大方の「教養人」のイメージとは異なることが分かるのではないか。
たとえば、小学生が「1+1=2」であることを理解し納得して、そのことに喜びを感じたとしたら、その時彼は教養の喜びを得たわけだ。その程度のものである。(ちなみに、「リンゴ1個と猫Ⅰ匹を足すといくつになるか」と子供に聞いてみるといいww)
つまり、山頭火のようなホームレスだろうが、晩年の正岡子規のように床から動けない重病患者だろうが、思考を楽しむことはできる、ということなのである。もちろん、それには生存に必要な最低限度の物が前提ではある。

(以下引用)


訥弁は忖度を生み、詩は思考を呼ぶ

コラムニスト
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全6212文字

Who has seen the wind?
Neither I nor you:
But when the leaves hang trembling,
The wind is passing through.


Who has seen the wind?
Neither you nor I:
But when the trees bow down their heads,
The wind is passing by.


 詩は、解釈を要する文芸だ。
 読んだままに感じる感興も大切だが、その一方で、様々な角度から読み解く努力もまた、詩を楽しむための必須のプロセスだと思う。


 忖度と似ているようにも思える。が、全く違う。
 思い切った言葉を使えば、詩を読み解くには、それなりの「教養」が要るということでもある。


 教養とは学歴や知識ではなく、思考を楽しむ姿勢だ。
 英語の詩を読むことは、解釈をあれこれ考えることの喜びを教えてくれる。
 英語という障害を超えなければならない分だけ、日本語の詩をそのまま読む時よりも、多大な思考を費やさなければならない。で、それだけ、詩を読む者の経験は豊かになる。
 私自身、中学生の頃から、日本語の詩よりも、英語の詩になじむ時間のほうが長かった。


 私が英語の詩に拘泥した理由のひとつは、告白すれば、ポップミュージックの歌詞を翻訳することで、楽しみながら受験知識が身につくことを期待していたからでもある。
 結果をお知らせするなら、たいして学力がついたわけではなかった。
 とはいえ、私が英語の詩や歌詞を自力で翻訳する作業から与えられた果実は、偏差値よりずっと大きなものだった。


 試みに、中学生の時に大好きだった Who has seen the wind を、自分なりに翻訳してみることにする。


 誰が経済を回しているのだろう
 あなたも私も回してない
 でも、なじみの店が看板をおろす時
 経済は空回りをしている


 誰が経済を見たのだろうか
 あなたも私も見ていない
 ただ、ホームレスの寝息が止まる時
 経済は通り過ぎている


 なまぐさい翻訳になってしまった。
 こういう一方に偏向した解釈はよろしくない。


 正しい訳は、それぞれ辞書を引きながら考えてみてほしい。
 正しい解釈は、自分の頭脳を正しく駆使した人にだけ、正しく授かるはずだ。だと良いのだが。


(文・イラスト/小田嶋 隆)


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吉凶悔吝とは何か

私は、「誰でも知っているが実は理解はしていない」物事について疑問を持ち、それを考察することが大好きなので、『易経』などはそのいい素材になる。要するに、我々が日常的に使っている言葉の意味を掘り下げて考えるいいきっかけになるわけだ。
で、これは易に関する本などでも「説明抜き」に使われることが多いのではないかと思われる言葉だが、「吉凶」とは何か、「悔吝」とは何か、について、読んだばかりの岩波版「易経」からその説明になりそうな部分を抜き出しておく。これは、「繋辞(上伝)」(「繋辞上・伝」ではない)の一節だ。「繋辞」とは「辞を繋(か)ける」意味で、言葉の解説、あるいは解釈をすることのようである。つまり、「易経」の中の語句の解説と思えばいい。しかし、これは文庫本の最後のあたりに出てくるので、たいていの読者は易経の語句の意味を知らないままに易経本文(訳文)を読むことになる。まあ、数学で微積分を習う前に物理で微積分を使った解説を読まされる類である。そういうことが積み重なって、我々の頭脳はブラックボックスだらけになるわけだ。

前置きが長いわりに、本題の部分はすぐに終わる。
「易経」の「繋辞(上伝)」における「吉凶・悔吝」の説明はこうだ。

「易に言う吉凶とは事の得失の象徴であり、悔吝とは事後に生ずべき憂い虞(おそ)れの象徴である」
後半を具体的に言えば「悔とは凶にいながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉にいながら逸楽猶予して凶に陥ること」である。

特に「悔吝」の意味がよく分からないままに「易経」を読んで困っている人は多いのではないか。で、この説明で分かるように、「吉」と「凶」は対立概念であり、「悔」と「吝」も対立概念だが、「吉凶」と「悔吝」は同時に起こり得るわけだ。「吉」とは「占う事柄が成就する」意味であって、それがべつに幸福かどうかとは関係ない。「凶」も同様に、「占う事柄が成就しない」意味であって、それがべつに不幸だという意味ではない。幸福か不幸かは当人の心の持ち方次第であって、目標とする事柄の成功不成功とは別問題なのである。このあたりが既に、世間の「吉凶」イメージとのズレがありそうだ。
冗談を言うなら、「脳」という漢字の中には既に「凶」が入っているではないかwww これは、我々の脳にはそれ自体の限界がある、ということの象徴だ、と言っておこう。





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1912年と2021年

60歳を過ぎてから、沖縄から京都に引っ越し、今回また沖縄に戻ってきたのだが、当然ながら引っ越しのたびに私個人の持ち物はどんどん選別されて少なくなったわけだ。今回など飛行機に乗る分だけが私の最低限度の所有物で、まさに究極の「断捨離」であるwww まあ、今の時代、家財道具を送る輸送料のほうが新しく買うより高いのだから、自然とそうなる。「座右の書」なども、所有していても実はロクに読みもせず、ネットの雑情報だけ追っている有様だったので、本の大半は処分した。もっとも、それは京都に引っ越した時点でも同じであるから、単に京都時代に増えた本を処分しただけだ。
手元に残した数冊の中に英文の本が3冊あり、「あしながおじさん」と「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」である。これは、中学生レベルの私の英語知識であっても、英語で読んだほうが面白いから残している。もっとも、私が一番最初に「あしながおじさん」を読んだのはたぶん兄が買って家にあった英和対訳本で、あの日本語訳は素晴らしかったが、誰の文章か分からない。昔は、朱牟田夏雄(漢字は不確か)のような英語と日本語の達人が高校生向けに英和対訳本を書いたりしていたから、そういう人物の労作だったような気がする。

それはともかく、「あしながおじさん」がいつ頃の作品か、気になってしらべてみたら、1912年の作品らしい。つまり、第一次世界大戦の2年前である。そのころはまだ世界が「これから世界はどんどん良くなっていく」という希望と期待に溢れていたように私には思われる。

さて、現在の世界は1912年時点より幸福になっているだろうか。

(以下引用)



あしながおじさん』(Daddy-Long-Legs)はアメリカの女性作家ジーン・ウェブスター1912年に発表した小説児童文学作品。



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生存環境としての沖縄


昔は天気予報というと当てにならないものの代表だったが、最近はかなり信頼性が高くなっており、嘘情報の多い政治や芸能界や経済のニュースに比べるとはるかにマシなのではないかww

沖縄などだとたとえ雨が降っても温かいから濡れてもどうということは無いし、この時期の雨は少し降ってはすぐに止むという雨が多い。つまり、外出時にさほど天気を気にする必要もない。子供のころは、雨になど濡れても平気だったのだが、成人後、本土在住の時はそうもいかなかった。寒冷な地では雨に濡れて体温が奪われるのは生死にかかわることすらあるだろう。
気候がほとんど年中温暖であるのは、最高の自然の恵みであると私は思っている。もちろん、本土のたいていの土地のように四季の変化があるのも素晴らしいが、その分自然の脅威も大きいようだ。特に寒冷な土地は冬には大変だろう。暖房だけで膨大なエネルギーとカネが使われているのではないか。沖縄なら厚着して寝床に寝ていれば済むし、夏でも窓を開け放して風を通せば済むのである。周囲が海だから、夏は海水温が気温を下げ、実は夏でもやたらに暑くなることもない。まあ、冬でも凍死しないというのは、ある意味、天国かもしれない。
地球温暖化というのは、全世界の沖縄化ではないか? wwww

 
 



3か月予報 立春を過ぎて寒気南下か それでも季節前進 春の災害に注意© tenki.jp 提供 3か月予報 立春を過ぎて寒気南下か それでも季節前進 春の災害に注意

2月は前半を中心に、北日本に寒気が一時的に南下する可能性があります。3月には、寒気の影響を受けにくくなるでしょう。4月は、北日本を中心に暖かい空気に覆われる見込みです。


●2月~4月 偏西風は本州付近で平年より北を流れやすくなる


25日、気象庁が発表した3か月予報によると、2月から4月にかけて、偏西風は、中国大陸上では、平年より北を流れやすく、日本の西でやや南に蛇行する見込みです。このため、シベリア高気圧の南東への張り出しがやや強く、沖縄・奄美では一時的に寒気の影響を受ける時期があるでしょう。一方、偏西風は、本州付近で、平年より北を流れやすく、寒気の影響を受けにくい見込みです。


●2月 前半を中心に寒気が南下する可能性も


今年の節分は、2月2日、3日が立春で、暦の上では春です。


2月は、前半を中心に北日本に寒気が一時的に南下する可能性があります。


北海道から九州の日本海側では、平年と同様に曇りや雪、雨の日が多い見込みです。太平洋側では、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。ただ、低気圧や湿った空気の影響を受けやすく、雨が降る時期があるでしょう。沖縄・奄美は、平年と同様に曇りや雨の日が多い見込みです。


気温は、北海道や東北は、2月の前半は、北海道を中心に平年より低くなる日が続くことがあるでしょう。期間を通しては、ほぼ平年並みで、後半になると、急に春めきそうです。関東から九州は、平年並みか高いでしょう。沖縄・奄美は、ほぼ平年並みの予想です。


●3月 北日本は寒気の影響を受けにくくなる


3月は、北日本は寒気の影響を受けにくいでしょう。


北海道や東北の日本海側は、平年と同様に曇りや雪または雨の日が多い見込みです。とはいうものの、平年の晴れ日数(晴れ日数とは、日照率40%以上の日)は、北海道や東北の日本海側は、2月は7.9日で、3月は13.2日ですので、3月になると、平年同様に日差しが届く日がグッと増えます。太平洋側は、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。


関東から九州では、春らしく、数日の周期で晴れや雨になる見込みです。沖縄・奄美は、湿った空気の影響を受けにくく、平年に比べて、曇りや雨の日が少ないでしょう。


気温は、北海道や東北は、平年並みか高い見込みです。関東から九州、沖縄・奄美は、平年並みでしょう。沖縄では、晴れる日が少ない時期ですが、平年に比べて、春の日差しを感じられる日が多い見込みです。


●4月 北日本を中心に暖かい空気に覆われる


4月は、北日本を中心に暖かい空気に覆われやすいでしょう。


平年と同様に北海道から九州、沖縄・奄美は、春らしく、天気は短い周期で変わります。北海道や東北の太平洋側と関東や東海、近畿から九州では、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。


気温は、北海道や東北は、平年並みか高い見込みです。関東から九州、沖縄・奄美は、平年並みでしょう。


●南岸低気圧による太平洋側の雪


冬の終わりから春先にかけて、低気圧が本州の南を東進する、いわゆる南岸低気圧により、関東など太平洋側で、大雪になることがあります。昨年2020年は、3月14日、前線を伴った低気圧が本州の南を進みました。その日、東京都心では観測史上最も早く桜が開花しましたが、春の訪れを実感するどころか、雨が雪に変わりました。





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宮古島の政治と社会の現状

政治関係の記事だが、ローカルな話であり、「徽宗皇帝のブログ」には既に記事をふたつ載せたので、こちらに載せておく。
宮古島は私の生まれた土地であり、現在でも親戚縁者がいる土地だ。その土地に政権交代が起こったのは興味深い。
引用記事は「阿修羅」に載っていた「長州新聞」記事で、毎度ながら、全国紙(すべて御用マスコミ)など足元にも及ばない実に深い内容である。

長い記事なので、選挙関係の話である前半はほとんど省略し、宮古島の現状を記述した(地元民でもあまり政治の全体像が頭に入っていないだろう)後半部分を転載する。

(以下引用)


宮古島市長選の痛快な勝利 市民の力束ね政府バックの現職破る 自衛隊ミサイル配備に揺れる島(長周新聞)
http://www.asyura2.com/20/senkyo278/msg/659.html
投稿者 赤かぶ 日時 2021 年 1 月 24 日 22:30:15: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

宮古島市長選の痛快な勝利 市民の力束ね政府バックの現職破る 自衛隊ミサイル配備に揺れる島
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/19950
2021年1月21日 長周新聞


当選確実となり、万歳三唱する座喜味一幸(左端)陣営(17日、宮古島)

 沖縄県内で今年最初の首長選となる宮古島市長選が17日に実施され、オール沖縄の推薦を受けて「市政刷新」を掲げた新人の座喜味(ざきみ)一幸氏が、自民・公明両党が推す現職の下地(しもじ)敏彦氏に勝利した。国政与党に支えられて3期12年市政トップを握ってきた下地敏彦前市長は、辺野古新基地建設をはじめとする米軍基地問題で容認姿勢をとる市長連合「沖縄の振興を考える保守系市長の会」(県内9市長、通称チーム沖縄)の会長であり、宮古島市では2015年から表面化した陸上自衛隊ミサイル基地や弾薬庫建設を積極的に推進してきた。市長選は、「防衛力強化」の名の下に市民生活や地元産業を蔑ろにして郷土を売り渡し、その利権を私物化する市政運営への批判世論を反映し、市民の強烈な鉄槌が下される結果となった。

市政私物化と軍事利用に鉄槌 従来の枠こえ「市政刷新」要求



(略)


市民生活疲弊させた「宮古バブル」 ハコモノ行政で財政も逼迫


総工費が120億円に膨れあがった宮古島市の新市庁舎建設現場(昨年3月)

 市政刷新を求める市民世論の背景には、3期12年に及ぶ下地市政で進んだ露骨な市政私物化や利益誘導があり、そのもとで疲弊した島の暮らしがある。

 2015年に国内最長の無料橋である伊良部大橋(長さ3540㍍)が開通したことを契機にして宮古島は空前の観光ブームに火が付き、国内外から年間110万人をこえる人が訪れる県内有数の観光地となった。そのバブルじみたインバウンドに目を付けた本土や外資系ファンドが土地を買い占めてリゾート開発が進み、本土から従業員をはじめ、ゼネコンなどの大手業者が作業員ごと乗り込んだため住宅需給が逼迫。アパートやマンションの建設ラッシュが始まったが「1DKで10万円」という都心並みの価格となった。

 地価や物価が急上昇する一方で、「地元住民の賃金レベルは月12~13万円程度で、時給790円の全国最低の沖縄県のなかでも最低水準。だから島内に若者が住める家がなくなり、みんな島の外に出て行ったまま帰ってくることもできない」といわれる事態となった。

 人員不足や資材の高騰によって1平方㍍あたりの建築単価が平均32万円と県内最高値となるなか、下地市政が進めたのが大規模公共事業だった。市庁舎(築27年)の新築計画は、下地前市長と「二人三脚」といわれる下地幹郎代議士の出身企業である大米建設に一括受注し、当初105億円だった建設費はその後120億円にまで膨れあがった。この庁舎建設だけで島外作業員がのべ7万8000人(人件費9億円)にのぼったことも高騰の要因といわれ、公費の追加支出における運用基準の逸脱が市議会で指摘されている。

 また、図書館を併設した未来創造センター(54億円)、スポーツ観光交流施設のJTAドーム(44億円)、住民が急減している伊良部島への野球場建設(30億円)や統合中学校建設も計画するなど、あいつぐハコモノ建設を身内企業に発注し、「216億円の合併特例債や地方一括交付金も使い切ってしまい、市の財政破綻は時間の問題」「人口5万人程度の島でなぜこれほど大規模な施設が必要なのか」と批判を集めてきた。

 ある市民は「米軍をはじめとする県内の防衛事業を請け負ってきた大米建設を中心に特Aクラスの業者しか公共事業の恩恵にあずかっておらず、大事にされてこなかった下請企業でも離反が進んだ。税金を注ぎ込んだ一時的なバブルは、終わった後にその反動が必ず来る。宮古島のような離島は、国の補助金が必要な農業や漁業が中心で、土木事業も国の予算に左右されやすいので歴史的に保守の地盤だった。だが、国をバックにして一部の政治家や業者だけが利益を独占し、恩恵の多くは島の外に出て行く仕組みになっており、その一部が政治資金として族議員の手元に入る。“国との太いパイプ”によって島がどうなったのかが明るみに出ることによって変化が起きた。国会議員の操り人形のようにコントロールされることへの反発だから、いくら中央から大臣クラスが現職の応援に来ても逆効果でしかなかった」と話した。

 また別の市民は「コロナによってインバウンドが蒸発し、島内のホテル建設も一斉にストップ。逼迫していた不動産需要もなくなって空き部屋が増えたが、建設費の減価償却ができないため家賃が下げられないという悲惨な状態になっている。国のヒモ付き交付金や不安定なインバウンド需要に依存した経済よりも、地場産業を中心にした堅実な地域振興を求める世論が強まり、座喜味候補はサトウキビをはじめとする農業振興への転換を掲げた。これまで多くの市民が望んでいたことだ」とのべた。

敵基地攻撃の最前線に 住民の安全は度外視



 その市政私物化の過程で進んだのが、国策による島の軍事要塞計画だった。防衛省は、南西諸島一帯で配備を進める自衛隊の司令部を宮古島に置くことを決め、野原地区に指揮所と警備隊、さらに「第七高射特科群」(地対艦・地対空ミサイル部隊)の総勢800人を配備し、さらに島東部の保良地区には地対空(570㌔)、地対艦(700㌔)のミサイルを保管する弾薬庫や射撃訓練場の建設を進めている。

 この配備計画も市民に信が問われたことは一度もなく、候補地選定にはじまり、用地売却から工事着工まで国、市長、関係業者によって市民の頭越しで進められてきた。配備されるミサイル部隊は、車載式部隊であり、相手から攻撃を回避するために島中を移動しながらミサイルを発射することを想定しており、自衛隊が回避したミサイルを受けるのは落下地点の住民となる。防衛省は「そのさいは市街地を走らない」というだけで、有事の住民保護については想定も計画もない。さらに施設の規模、仕様、保管する弾薬量に至るまで「防衛上の秘密」として明かさないばかりか、基地内に「つくらない」と説明してきた弾薬庫やヘリポートの存在が後から判明している。

 山や川がなく、水不足に悩まされてきた宮古島は、地下水脈や地下ダムが暮らしの生命線であり、化学物質による汚染やミサイルなどの攻撃で地下水源が断たれると、農業はおろか命の危険にさらされるため、市民からは慎重な検討を求める声が絶えない。

 だが、市民の窓口となるべき市政は、島の将来や生活に不安を持つ住民からの質問や陳情を門前払いし、市長同席の住民説明会も開かないなど、「国防は国の専権事項」「市が説明する義務はない」という立場を一貫してとり続けた。

 この問題にとりくんできた男性は、「国のミサイル防衛計画が明るみに出るに従って、宮古島が敵基地攻撃の最前線にされるという青写真が広く認知されるようになった。災害救助隊としての自衛隊は容認できても、米軍と一体化し、住民を盾にして近隣国との緊張を煽ったり、戦争の火付け役となる自衛隊は容認できないというのが多くの市民の思いだ。宮古島で進行する配備計画は、住民防護ではなく、住民の命と暮らしを脅かすものであり、宮古島を発火点にして沖縄や日本全土を戦争に巻き込む危険性もある。新市政には住民の側に立った情報公開や対話が求められるし、必要に応じて国に対していうべきことをいわなければいけない。それが市民が求める市政刷新の中身でもある」と話した。

 別の男性も「下地市長自身の問題もあるが、それをバックで後押ししてきたのが国だ。市民の声を権力と金力でねじ伏せ、島の経済も民主的な行政運営までも歪めてしまった。それは辺野古問題をめぐる沖縄県への仕打ちや、福島など原発立地自治体に対する残酷なやり方とまったく同じだ。イデオロギー争いではなく、生活に根ざして立場の違いをこえた市民の力で選挙を突き動かしたことは大きな快挙だった。オール沖縄や玉城県政はこれまで自衛隊基地問題には及び腰だったが、市民の命と暮らしを守るために妥協することなく国に対峙していく姿勢を示していかなければ、逆に足元をすくわれる。県民の声に耳を傾け、地に足を付けて、沖縄の軍事基地化に対する全県民の力を束ねることが必要ではないか。これは終わりではなく始まりだ」と話した。

 新市政もまた、下地市政を退場に追い込んだ市民の力に縛られる関係にあり、「市政刷新」の公約を誠実に実行することが今後注目されることになる。

 沖縄県内では今年2月に浦添市、4月にうるま市の市長選が続き、秋までに予定される衆院選を経て、来年2月には名護市長選、同9月に知事選も控えている。選挙年の端緒を開いた宮古島市長選勝利の教訓を広く共有することが求められている。


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向上心は人を幸福にするか

少し前に、女房から「あんたは向上心が無い」という趣旨のことを言われて、確かにそうだなあと思ったのだが、その時に、「向上心って、どの程度の意義があるのだろう」という疑問を持ち、その疑問が下の文章になったのである。文章内に書いてあるように、別の「お遊びブログ」に書いたものだが、案外とお気に入りの内容になったので、こちらにも転載しておく。(この文章は中学生以下の子供には有害かもしれないので、R15指定としておくwww もちろん、エロ関係での意味ではない。読んだ子供が人生を誤る危険な内容だ、ということだ。)


あまり真面目な内容ではないので、いや、書くのは真面目に書くつもりだが、世間的には、不真面目だ、と思われそうな内容なので、この「お遊びブログ」に書くことにする。
テーマは「向上心は人を幸福にするか」というものである。
世界史的というか、歴史的には人類は向上心によって文明を豊かにし、多くの人がそれによって幸福になってきたわけだが、問題は「向上心を持っていた当人は幸福なのか、幸福だったのか」どうかである。もちろん、遊び事ですら向上心があるから上達(向上)してより面白くなる、という事実があるから向上心自体を全面否定するという馬鹿な話はしない。ただ、その本質を「哲学的に」考えてみようというわけだ。
要するに、向上心とは「現在の自分を不満に思うこと」であるのは明白である。幸福とは満足した状態であり、不幸とは不満足な状態なのだから、これ(向上心を持っている状態)は不幸そのものの状態ではないだろうか。
しかも、その「向上した状態の自分」とは「今の自分ではない何か」なのだから、向上した段階でその自分が自分に満足するという保証は無い。まあ、努力次第で勝てる確率の高い賭けだから、やる意味はあるだろう。しかし、その状態に達するまでの苦闘努力は、その成果と釣り合うだろうか。つまり、「努力と成果のコスパ」はどうなのか、ということだ。
ここで、真面目な提言をするが、「不足状態そのものを楽しむ」という生活哲学を持つのは、かなり人生を幸福にするものだと思う。もちろん、これは昔から言われていることで、竜安寺だったかどこかの石に掘られた「吾は唯だ足るを知る」もその思想である。ここでは、それを発展させて、「不足もまた幸福となりうる」という哲学を提唱しているわけだ。つまり、不足があるからその不足を満たすためにあれこれ工夫する、その「頭を使い、身体を使う楽しさ」を不足状態は与えてくれるわけである。
で、これは「向上心」そのものではないか、と文句を言われそうだが、べつに「上に向かえ」と私は言っていない。上に向かおうとするから「自分は今、下にいる」と感じる、その感情こそが実は不幸の根本原因ではないか、と私は言っているのである。向上とは、様々な意味で「重力に逆らうこと」であり、苦しさや不幸の原因である。会社内での出世も政治家の権力争いも学校での成績争いもスポーツの勝ち負けも要は「相手が上か自分が上か」の争いでしかない。「上も下もたいした違いはない」という思想を多くの人が持てば、この世界の争いの9割は無くなるだろう。ただ、「競争がもたらす成果」もかなり無くなるだろうが、人類の文明はそろそろ極限に達しているのだから、人々が争うことで誰かが利益を得る、という思想などもはや人類を幸福にはしないだろう。そんな浅ましい、野獣の思想にそろそろ決別してはどうか。

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雨の音が聞こえる

現在、深夜2時半過ぎだが、ここ(南海の某県の海浜地帯、気温は20度くらい)では雨が静かに降っている。目が覚めてまもなく雨の音が聞こえたので雨が降っていることに気が付いたのだ。
と同時に、雨の音を聞くといつものことだが八木重吉のあの詩を思い出す。正確には思いだすのは最初の2行だけだが、後半の2行もうっすらと内容はわかっていて、その後半の2行で前半の2行が(後半部分は目には見えないまま)支えられているというイメージだ。


 


雨の音がきこえる


雨が降っていたのだ


あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう


雨があがるようにしずかに死んでいこう





前半2行だけでも素晴らしい詩で、こんな単純な言葉で「我々はいつも、大事な何かに気づかないままに生きている」という人生の実相を、優れたイメージで描き出せるのが八木重吉という詩人だ。彼の一生の作品が仮に前半2行の「雨の音が聞こえる 雨が降っていたのだ」だけでも、永遠に文学史に残っていい詩人だろう。
さらにこの詩の最初の1行だけでも素晴らしいフレーズであり、これを自分の漫画のタイトルにしたのが、「漫画界の桂冠詩人」である大島弓子だが、その漫画のタイトルが八木重吉の詩だったことを私が知ったのは彼女の初期のその漫画を読んでからかなり長い時間が経ってからだった。



















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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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