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記憶の話

澁澤龍彦の昔の文庫本の一節に「レミニッセンス」という言葉がカッコ内に(無意識的記憶)と注釈されて出てきて、長い間うっすらと気になっていたが意味を知らなかった言葉がひとつ解明された。この無意識的記憶には、人類の遺伝子の中に過去の類人猿時代から延々と刻まれたものもあるのではないか。それが「恐怖」の根底にあるだろう、というのも澁澤龍彦が同じ文章の中で書いていることである。そして、自己保存の本能と恐怖は表裏関係にある、というのが(私流に解釈した)彼の説だ。まあ、あらゆる人間の営為、つまり文化が恐怖から生まれたとまでは思わないが、人間の行動の根底には自己保存の本能があり、それは「自分が世界から消される」という恐怖を伴っているとは言えそうだ。
確か仏教の「阿頼耶識」が、この無意識的記憶のことだったと思うが、阿頼耶識を意識の表面に浮かび上がらせることができたらさぞ面白いと思うが、あるいは恥ずかしさや恐怖のあまりに死にたくなるだろうかwww 私のように自分の経験さえほとんど記憶できない人間は恵まれているのか、不幸なのか、どちらだろう。実際、私は自分の過去を考えることがまったく無い(というか、覚えていない)人間なので、考えるのはその時その時で「手近にある問題」だけなのである。世の中には一度読んだ本の一字一句すべて記憶しているという超人的な記憶力の持ち主もいるらしいが、そういう人間が偉大な業績を残したという話もあまり聞かないようだ。記憶力と思考力は別だということか。

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原発推進派は自然利用発電を憎む

まるで原発は自然にやさしい(自然を破壊しない)みたいな言い分であるwww

(以下、某「権力媚び媚び漫画家」のリツイートしたツィートを引用)

「国破れて山河在り」と聞くたび、山河の自然が残るならマシじゃねぇかと思うよな(輝くメガソーラーと風車を見ながら)

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新コロは世界をどう変えるか

「東海アマ」ブログから転載。
ところどころにあまり賛成できない部分もあるが、公平を期して省略無しに転載する。
前半はほとんど賛成である。
ただし、毎度言うが、「利他思想」はいいとして、それは「主義」というようなものではないだろう。自然な同情や共感から生まれる「惻隠の情」は「主義」などではない。「利己主義」が自分の利益を最優先させるものならば、「利他主義」は他人の利益を最優先させる主義であるはずだ。そんな人間がいたら奇跡である。

(以下引用)

洗脳された価値観から解き放たれる日

カテゴリ : 未分類

 私は新型コロナ禍が、人々の人生観・価値観を根底から変えると何度も書いてきた。それは、コロナ禍にあって、これまでの金儲け一辺倒の利己主義的価値観では生き抜いてゆけないからだ。
 「生きて行くだけで必死にならなければならず、とてもじゃないが金儲けなど考えている余裕がない」というのが、新型コロナ禍がもたらした社会情勢だ。

 中曽根康弘・竹中平蔵らが日本社会に持ち込んだ新自由主義に代表される今の価値観・人生観=例えば、堀江貴文・孫正義・橋下徹・柳井正・前沢友作などが、自分が社会の勝者になったつもりで「金儲けこそ人生最高の価値」という幻想を振りまいている。

 堀江や前沢は、「人々を宇宙に連れて行ってやる」という究極の優越目線で、「特権階級としての自己顕示欲」を見せびらかしているが、新型コロナ禍の現実は、「宇宙などどうでもいい、今日明日の食事が問題」という状況なのだ。
 名誉欲の空想が少しも腹を満たしてくれない現実を、人々は知ってしまった。

 新自由主義は、他人を蹴落とし、競争社会のなかで自分だけが勝者になるという人生観だ。いってみれば、利己主義の究極型なのだが、そんな発想で生き抜いて行けるほどコロナ禍社会は甘くない。「助け合う」という利他思想を共有しなければ、本当に飢え死にしてしまう。

 「セレブ」が人間社会でもっとも高い価値なのだと……いう思想は、コロナ禍では通用しない。
 だが、たくさんの若者たちが、こうした特権階級への憧れに馴致洗脳されてしまい、人間にとって本当に大切な価値を見失ってしまっている。
 しかし、セレブであれば、新型コロナ禍がスルーしてくれるわけではない。皆同じように罹患し、死んでゆかねばならない。
 
 その対極にいる「自由な価値観=利他主義」を代表する人々を示すことで、新自由主義=利己主義の愚かさを示したいが、あいにく彼らは、有名人であることを拒否しているので、名前が表に出てくることはない。新自由主義への反対者は、金儲けを軽蔑しているから、のきなみ質素で売名的活動もしないので、世間に知られることはない。
 強いて言うなら、尾畠春男さんの名前を挙げておきたい。

 それでは、「新自由主義的価値観=金儲けが人生最高の価値」という一種の宗教が、どうして人類を席巻しているかといえば、その原因は競争社会にある。
 我々は、幼い頃から、「他人と比較される人生」を強要されてきた。保育園、幼稚園でさえ、子供たちを比較の価値観に叩き落とし、絵を描いたり、競争したり、個人に評価をつけ、序列化することが「教育」であると思い込まされてきた。

 もちろん、これは戦前からの習慣・風習のような序列・差別化の価値観なのだが、本当は戦前どころか、たぶん奈良時代には民衆の序列化が始まっている。
 奈良時代は、朝鮮半島にあった百済という国が、7世紀後半に国ぐるみ日本に移住してきて、政権を乗っ取ってしまったのだが、このとき、中国・朝鮮で行われていた序列化の思想=儒教が、そっくり律令制として日本社会に持ち込まれている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6#:~:text=%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6%EF%BC%88%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%84%EF%BC%89%E3%81%AF,%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%82
 
 例えば、朝鮮では無官者=一般人は有色衣類の着用が許されず、必ず白衣をまとわねばならない。これを「白丁」といっていて、被支配階級の代名詞だった。
 秦氏(弓月氏)は、こうした差別システムをそのまま日本に持ち込んでいる。だから、日本でも無官白衣=白丁を「底辺の者」と認識する風習があった。
 律令における位階制度は、その反対側にあって国家権力に強大な権威を与えるものだった。

 儒教が本格的に権力政治に採用されたのは、徳川家康の指示により、新井白石が体系化した朱子学によってである。これは、「生まれながらに差別の序列がある」という、儒教の本質を国家権力の根底に置く思想であった。
 これは、国家権力を維持するための根拠を説明するのに、すこぶる説得力のある理屈だった。この儒教=序列主義の呪いが、現代に至るまで競争社会の価値観を我々に押しつけている。

 人間に序列のラベルをつける社会、「あいつは優秀、格が上」という強烈なコンプレックスで人々を縛り付ける社会では、人々は必死になって「優秀」を競いあうことになる。
 学校での成績からはじまって、出身校の評判、地位や蓄財の多寡、豪邸、高級車や妻の美貌など、生まれてから死ぬまで他人との比較に追い回されるのである。

 例えば、私をネット上で誹謗中傷している全員が、身元をこそこそと隠しながら学歴や地位や蓄財を神の如く崇めていることから、実は他人に対する誹謗中傷が、すべてコンプレックスから生まれるものであることが分かる。

 こうした「コンプレックスの囚人」というべき人物は、他人と出会うとき、最初に、「自分より上か下か」という比較の視点でのみ相手を見回そうとする。
 自分より強そう、大きそうならへりくだり、弱そうとみれば侮って見下すという何とも人間性の矮小な対人価値観で洗脳されてしまっている。
 人を比較の尺度でしか見ることができず、その人の持っている本当の価値が目に入らないという「序列の呪い」に縛られた人生になってしまう。

 新自由主義=金儲け競争という思想は、まさに、こうした序列の価値観が生み出した「最期の資本主義」というべきものだ。
 こうした呪縛から完全に自由な日本人はいるだろうか? 序列主義に洗脳された人は、麻生太郎や大西つねきのように「政治家が社会的弱者の命を定める」という凄まじい思い上がりにはまり込んでゆくのだ。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/496049d7085b1e05097feadf8b9c7ad4bf8e32e6
 https://www.asahi.com/articles/ASJ6L4T7QJ6LIIPE016.html

 周囲を見渡せば、必ず「自分より上か下か」の視点でしか相手を見られない気の毒な「心の未解放囚人」がたくさんいるものだ。
 日本の犯罪者の99%は、そのような「コンプレックスからの未解放囚人」なのだろうと私は思う。でなければ、犯罪者になる理由がない。

 逆に、コンプレックスから解放された「自由な人々」は、相手の地位や蓄財など何の興味もない。地位や蓄財が、社会の役に立つどころか害悪しかもたらさないことを思い知っているからだ。
 もちろん、それ以前に「自分より上か下か」と詮索するような人物との接点が存在しない。
 バシャールは、2020年に、そうした「心の囚人」とでもいうべき利己主義者たちと、社会的コンプレックスから自由な「解放された人々=利他主義者」は、互いに交わらず、邂逅せず、それぞれの世界を生み出してゆき、前者は、2050年頃、この世から消え去ってしまうと予言している。

 「自分は他人より上か下か?」という愚かなコンプレックスに洗脳されてしまった人は、必ず「命の選別」に手を染めることになる。
 1940年前後のドイツでは、40万人を超える障害者が「国の役に立たない足手まとい」という評価を与えられて、ガス室で処刑された。
 日本では「優生保護」という名の下に、障害者が強制的に断種手術を受けさせられた。これを推進したのは、保守よりも、むしろ革新側だった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-492.html

 だが、優生保護の思想は、今現在も消えていない。学歴の高い者、社会的地位の高い者が優先的に生き残る価値があるという錯覚は、コロナワクチン接種にあたって、7県、自治体首長が真っ先に接種権を主張したことから、社会に根強く残っている現実を示した。
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/104287

 「新型コロナ禍で、人々の人生観・価値観が根底から変わる」
 と考える根拠は、新型コロナ禍が、地位や特権や蓄財で作用を変えるものではないからだ。金持ちも貧乏人も平等に罹患し、死んでゆく。
 だから、自民党の権力者や金持ちにひれ伏し、忖度し、ヨイショすれば命が延命できるわけではない。

 ワクチンを優先的に受ければ延命可能と勘違いしている人も多いが、事実はそうではない。ワクチンの効果は、変異度の大きなウイルスには通用しない。最新のインド型の場合は、ファイザーワクチンの有効率は30%にすぎないのだ。
 さらに変異が進めば、おそらくワクチンの効果はほとんど失われるだろう。
 つまり、優先順位や接種の便宜など、何の役にも立たなくなる。

 人間序列化の思想を妄信している人々は、序列位階や特権に期待するだろうが、そうは問屋が卸さないのだ。新型コロナ禍は人を差別しない。
 新型コロナ禍を利用して権力の施政に食い込めば、竹中平蔵のパソナのようにボロ儲けすることができるかもしれないが、これも政権と一蓮托生で、竹中は、やがて自民党と運命を共にして日本社会から追放されることになるだろう。

 これは放射能汚染と似ているかもしれない。原発事故を利用して自民党系の権力企業は除染などでボロ儲けしたが、放射能は本質的に人を差別しない。だから、やがて放射能利権企業には、恐ろしいカルマが還ってくる。
 「放射能は安全」と勘違いしてしまった人には、10年という潜伏期間を経て癌や膠原病などの遺伝子病が激発することになる。
 放射能を恐怖し、逃げ回ってきた人だけが恐ろしい癌や遺伝病から逃れることができる。

 新型コロナも放射能も、特権や序列を許さない。今、我々はそれを思い知らされようとしている。人間の序列が虚構にすぎないこと。皇族もタダの人にすぎず、放射能被曝をまともに受けていた実態が、これから暴露される。
 また、自民党政権が、利権と金儲けのためにオリンピックを強行しようとしていることで、」世にも恐ろしい全員感染が起きて、凄まじい人々が死んでゆくこと。

 こんな現実の前に、利己主義や事態の軽視による妄想は一切通用しない。ひたすら災厄から逃げ、自分の免疫力を高める以外に対策が存在しないことを人々は思い知らされる。
 金儲けの利己主義では、新型コロナ禍を克服できない。もしも感染を本気で逃れようとするなら、他人との接触の機会の極めて少ない過疎の田舎に行くしかなく、利他主義的人生観に生きるしかない。
 それは放射能汚染と同じだ。

 これから、我々は相当な大企業まで、コロナ禍における連鎖倒産に巻き込まれる恐ろしい情勢を目にすることだろう。みんなが予想しているほど甘くはない。
 社会は、たくさんの歯車が回っているが、互いに連鎖していて、一つだけ無事な歯車は存在しない。中小零細の大規模倒産を横目で見ている大企業も、必ず「需要減退」という恐ろしい大津波に巻き込まれて、存続基盤を脅かされてゆく。
 もう「親方日の丸」は通用しない。

 日本どころか、世界中が巨大企業のくびきから離れて、自由な生産活動に向かわねばならないが、それは差し迫った生活に追い立てられてなのだ。
 もう金儲けの論理は通用しない。だから原発の復権もない。コンピュータによるAI先進社会の夢も潰える。ただ、食って生き延びてゆかねばならない世界なのだ。

 こんな時代は、かつての第二次世界大戦の敗戦時に似ている。人々は、「本当に大切なものは何か?」という視点だけで生き抜いてゆかねばならず、序列や選別の愚かしいr秩序意識は社会から追放されるのだ。
 本当の哲学、思想だけが生き残れる。究極の追い詰められる社会がやってくる。

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人生の指針としての倫理(「翁の文」による)

ここのところ、「倫理」について書くことが多かったので、今、過去記事を読み直していて見つけた記事を再掲載しておく。「倫理」というのは、この程度のことである。しかし、これができれば「市井の聖人」と言えるだろう。まあ、世の「聖人」には詐欺師が多いし、安藤昌益は聖人こそが世の中を悪くした張本人だと言っているが、無名で市中に埋もれた聖人ならいいのではないか。

(夢人注)安藤昌益の「聖人批判」の概要を某論文より転載。要は、孔子などの「聖人」が封建社会を固定化する精神的基盤になった、という批判である。現代でも「学識者」が政府の道具となり政権擁護の盾になっているのはご存じの通りだ。

 目次に、「聖失ヲ糺ス下ニ自然ノ真道自リ見ハル 儒失ノ部」とあるように、儒教を中心に諸子百家を次々と批判しながら、伝統イデオロギーの誤りを「糺ス」ことに重点が置かれている。そして、徹底して聖人の欺瞞に満ちたベールを引き剥がすことによって、現実の封建的な権力・権威を論破せんとしており、長らく「門外不出」、「開けて読むと目がつぶれる謀反の書」という伝承があったほどのものである



(以下引用)

冨永仲基の「真の道」

冨永仲基の「翁の文」の一節で、「神なき時代の倫理」は、これに尽きるのではないか、と思うので、私自身の別ブログから自己引用する。もちろん、江戸時代と今では事情も変わっているから、すべてそのままで通用するとは思わないが、人生における基本的な心得として実に中庸を得た、健全な「道徳律」だと思う。まあ、仏教でも言う「諸善奉行、諸悪莫作」を具体的に、かつ行いやすい道徳律として言っているわけだが、悪事を行って巨万のカネを積むよりも、この「真(まこと)の道」を守って生きれば、自分だけでなく世の人すべてが幸福になる、ということである。真理は平凡なものだ。
以前に青字にした部分とは別に、ここが大事かな、という部分を赤字にしておく。

(以下自己引用)面倒なら、私が青字にした部分だけ読めばいい。

翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。

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自由の究極は、世界の破壊である

前に載せたウィキペディアの「バクーニン」の項目は非常に示唆的で面白いが、中には理解しがたい部分がある。
「自由」について書かれた部分など、内容は興味深いのだが、文意が不明なところがある。
先に引用する。

(以下引用)

自由[編集]

バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]



(以上引用)

上記の文の中で「肯定的に述べれば」の部分には「自由」の定義が無い。「否定的にとらえると」の部分で自由の定義が出て来るが、その何が「否定的にとらえると」なのか、私には意味が分からない。つまり、この解説の筆者は「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」は好ましくないもの、という意見の持ち主なのだろうか。しかし、自由とはまさにそういうものではないだろうか。あらゆる権威や権力への隷従こそが自由の反対物なのであり、権威も我々を奴隷化するものだというのは自明ではないだろうか。
そしてまた、その「自由」こそが社会を危険に陥れる可能性を持つというのも自明だろう。「神的権威、集団の権威、個人の権威」に人がおとなしく従う社会は牧童や牧羊犬に従う羊の集団のように「平和な社会」ではあるはずだ。
私が以前に書いた「倫理」もまた「人から自由を奪う」ものであり、法律も同様である。つまり、社会秩序の維持のためには自由の制限は不可避的なのであり、「新自由主義」という、経済活動における企業の無制限の自由を求める思想が世界をどんどん破壊しているのは明白だろう。
ただし、「無制限の自由」が許されるものがある。
それは人の思考である。
その自由こそが世界の文明を発達させたのであり、同時に世界を危険にもさらしてきたわけだ。
そこで言えることは、「思考の自由」と「表現の自由」とはまったく別であり、「無制限の表現の自由」は許容されるべきではなく、表現行為は社会的な制限を受けるのが当然だということで、またその制限には細心の注意が必要だということである。
こういう当たり前のことを結論にするのは恥ずかしいが、当たり前が通用しない社会、幼稚化した社会では、こうした言葉も無意味ではないかもしれない。



































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「ワクチン」接種と「感染者数」の増減の関係

「大摩邇」経由の「アースカタストロフィレビュー」(原題は英語だが、綴りを覚えるのが面倒である。今後は「AKレビュー」にするか。いや、「ACレビュー」か。うっかり「AVレビュー」と書くとエロ記事みたいである。)記事である。
新コロワクチン推進派は、「大量殺人加担者」である、ということを再度言っておきたい。
なお、イギリスとイスラエルでは新コロワクチン接種後に感染者が減ってきたという話があるが、あれは季節的な自然減衰であって、新コロも他のインフル同様に冬期に激増して春以降に衰退していくのである。その衰退の直前から新コロワクチンを打ち始めただけのことだ。
ついでに言っておけば、新コロをワクチンで完全終息させるのは不可能どころか、接種された人間が「新コロ製造工場」になるのである。

(以下引用)


先日の以下の記事で、全世界で比較的よく見られる「ワクチン接種数が増加すると共に、少し遅れてコロナ感染者数が指数関数的に増加していく」ということを取り上げました。


「ワクチン接種増加数」と「死者数の増加」のアジア各国の関係性を見てみましょう
投稿日:2021年5月25日


この記事では、最近、その傾向がアジアで顕著であることを書いたのですが、台湾とマレーシアも同じことになっています。


台湾は、パンデミックが始まって以来、主要国で最も感染確認数が少ない国のひとつだったのですが、3月中旬から、突如として「指数関数的な感染流行」が始まっています。


以下は、過去一年の台湾の感染確認数の推移ですが、3月中旬からの増え方が、過去には一切なかったものであることがおわかりかと思います。



COVID-19 Data Explorer


ここまで直角のグラフを描くのも珍しいですが、この原因として、報道では「変異種」云々とされていますが、そういう曖昧な関係性を考えますより、前回の記事と同様、「ワクチン接種数と感染確認数増加の関連」がグラフでとてもわかりやすく描かれています。


以下は、


・ワクチン接種数の累積数(左)
・1日の新たな感染確認数の推移(右 / 7日移動平均


を並べたものです。


台湾の接種数と感染確認数の同時期(3/21-5/27)の比較

COVID-19 Data Explorer


このような中、台湾の衛生相は、5月28日、


「 10月までに人口の60%にワクチンを投与する」


という目標を明らかにしています。


台湾、10月までに人口の60%にワクチン投与=衛生相


台湾の陳時中・衛生福利部長(衛生相に相当)は28日、10月末までに人口の60%に新型コロナウイルスワクチンを少なくとも1回投与する目標を掲げた。


同部長は、人口の40%にワクチンを投与するだけでも、感染を抑制する効果が見込めると述べた。


台湾の人口は約2300万人。現在のワクチン接種率は約1%。 (ロイター


上のグラフがこれからも同じような状況で続けば、指数関数的な感染確認数の増加は今後も続くのかもしれません。


マレーシアも大変なことになっていまして、6月1日から「ロックダウン」に入ることがマレーシア政府から発表されています。


マレーシア、全土で完全封鎖 来月1~14日まで


マレーシアのムヒディン首相は28日、新型コロナウイルス感染症対策として来月1日から14日まで全土で経済や社会活動などを停止するロックダウン(都市封鎖)の第1段階を実施すると発表した。人流を抑制し、医療崩壊を防ぐ狙い。


封鎖措置中は、国家安全保障会議が許可した必要不可欠な経済・サービス分野を除き、全ての経済・社会活動を禁止する。 NNA 2021/05/28)


このマレーシアも、他のアジア各国と同様で、ワクチン接種が進むにつれて、感染拡大に歯止めがかからなくなっています。


以下のグラフも、先ほどと同じように、ワクチン接種数の累積数(左)と、1日の新たな感染確認数の推移(右 / 7日移動平均)を並べたものです。


減り始めていた感染確認数が、ワクチン接種の拡大と共に「復活」していることがわかります。


マレーシアの接種数と感染確認の同時期(2/23-5/28)の比較

COVID-19 Data Explorer


マレーシアも人口あたりの接種数は、8パーセント程度ですので、今後、ワクチン接種はさらに加速していくと見られます。


タイ王国なども同じようなチャートを描いています。



COVID-19 Data Explorer


この台湾とマレーシアも、あるいはタイなども、他のアジア同様の経過を辿れば、「全部インドのように制御不能になる」という可能性はあるのかもしれません。


もちろん、そうはならないかもしれないですが、少なくとも現時点ではそのようになっています


これからさらに飛躍的にワクチン接種が進むであろう日本も同じ道を辿る可能性もあるのかもしれません。もちろん、そうはならないかもしれません。


しかし、仮にそうなれば、もう終わりはまったく見えません


なぜなら、秋から冬にはまた新たな流行が発生すると考えるのが妥当だからです。

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現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如

まだ生煮えの思想だが、自己引用しておく。孟子が言う「惻隠の情」が社会倫理の土台ではないか、ということだ。つまり、子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、「まともな人間なら」驚き、それを救うだろう。そこで子供が落ちて溺れ死ぬのをゲラゲラ笑って見るような人間と、たとえば、従業員の給与を生活不可能な水準まで削りに削り、それで自分の報酬だけを高額にする会社経営者はまったく同じだろう、ということである。弱い人間をいじめて喜ぶ生徒や学生も同じ精神である。他者への共感や同情の欠如、冷酷なエゴイズムが、悪の本質だ、というわけだ。


現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如


「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。

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