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「意地」と「美学」がハードボイルドの本質

私が別に持っているブログの記事を後で引用するが、倫理というものには「社会的倫理」と「個人的倫理」というものがあるのではないか。後者は「自分で自分に課す掟」のことだ。
それを描いたジャンルが「ハードボイルド小説」「ハードボイルド映画」だろう。
で、そうした作品の主人公が「自分自身の掟」を守る理由は、それがその当人の「美学」だからである。
「汚い行為」と自分が定めた行為は、絶対にやらない、ということだ。行動の美学。
そのために恋人を失おうが、社会全体を敵に回そうが、殺されようが、自分が根底的に嫌だと決めたことは絶対にやらない。そういう「意地」と「美学」を持った人物が「ハードボイルド」的人物だ、と言えるだろう。
小林信彦が、「夏目漱石の『坊ちゃん』はハードボイルド小説だ」と言ったと聞いたことがあるが、私もそう思う。別に、タフガイだから、とか、気障なセリフを言うからハードボイルド的なのではまったく無い。


(以下引用)



友情ではなく「意地」と「美学」

「さらば友よ」について、これほど的確な評は初めて見た。

「男同士の友情ではなく、ふたりの『意地』と『美学』。結局、それが互いの共感を呼び「つながり」をもたらす」

まさに、これ以外の評はすべて的外れだろう。




さんがリツイート

  1. 『さらば友よ』@午前十時の映画祭。映画史に絶対残るに違いないあのラストシーン。身震いがするほどしびれた。
  2.     
  3.  
  1. さんがリツイート

    『さらば友よ』@午前十時の映画祭。描かれているのは決して男同士の友情などではなく、ふたりの「意地」と「美学」。結局、それが互いの共感を呼び「つながり」をもたらす。それは男同士にのみ理解できるものなのかもしれないけれど、非常にうらやましく思えた。



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自分の中の親(大人)と子供

これは精神分析の学派の一つの考え方だと思うのだが、自分の中に「両親(大人)」と「子供」と、もう一つ、何かがある、という考え方だ。それをP(両親・大人)とC(子供)と呼んでいたと思うが、この考え方は実に納得がいくものだと私は思う。
つまり、我々が「自分の考え」「自分の判断」と考えているものは、実は子供のころに両親や周囲の大人から受けた(自然と吸収した)考え方で決まっている部分がある、ということだ。普通はそれを「理性」と錯覚し、「怠けたい」「遊びたい」「泣きたい」「逃げたい」という自分自身の自然な欲望を「それは子供っぽい考えだ」と自分自身で否定することになる。その「叱られる自分」が自分の中の「子供」であるが、実はこれこそが本当の自分と言っていい。もちろん、その「子供」を抑制しなければ現実社会の中で生きていくことはできない。その「子供」を馴致し、それぞれの子供の中に「大人」を作るのが学校の役割のひとつである。家庭も同じ機能があるが、こちらは学校ほど強制的なものではない。だが、特に「道徳性」に関しては、家庭や両親の影響力は大きい。無道徳な親から道徳的な子供は出て来ないだろう。
さて、自分の中のPもCも、どちらも意味はある。Cは本来の自分だが、Pが自分の中に存在しているからこそ社会の中で生きていける。しかし、Cが本来の自分であることを忘れ、Cを否定してばかりいると、自分というものが、Pのロボット、奴隷になる。世間にはそうして完全ロボット化した子供もいるだろうし、学校秀才の大半はむしろそうではないか。
まあ、自分の中に子供がいる、というのは私などには当然極まることで、世間の大人や老人がよくあんな真面目くさった顔を作っていられるもんだなあ、といつも可笑しく思っている。酒を飲んだりゴルフをしたりするのが泥遊びをしたりママゴトをしたりするより大人っぽいなどとはまったく思わないのである。違いは、たとえば子供の戦争ごっこは誰も死なないが、大人の戦争ごっこは大量に人が死ぬ、といったくらいのものだろう。
なお、自分の中にいるPとC以外のもう一つが何かは忘れたが、忘れたということは、それほど本質的なものではない、ということだととりあえず結論しておく。

もう一つ付け加えておく。自分の中のPとCの存在をはっきりと認識することで、(特にPは社会適合のためにCを叱るだけで、その「言葉」がいつも絶対的に正しいわけではないと知ることで)下の「毎日泣いている」ような人は、救われることもあると思う。
さらに言えば、「他人」特に「大人」への気兼ねが無ければ、誰でも本来のCに戻るはずなのである。下の歌は、その事を実に見事に表している。



「遊びをせんとや生まれけん。戯れせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」




(以下引用)


さんがリツイート

鬱で毎日泣くしかやることがないみたいな時にかかった先生のお言葉だけど、 『君の中に幼いキミがいて、幼いキミはず〜っと叱られてる状態だ。できると思ったことができなくて、やりたいことがうまくいかなくて、大人の君が叱り続けている。キミを救う最後の砦が敵になってはいけないよ』と


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実は意味が日米で違う「反知性主義」?

「阿**」議論板から転載。
読者コメントも、なかなか面白い指摘をしているように思えるので、コメント中に文意不明なところはあるが、一緒に転載しておく。
長文のコピーになるので、私自身の考察は、別の機会にでもやりたい。少なくとも、「反知性主義」の意味や意義がアメリカの場合と日本ではまったく違うようであることが分かっただけでも収穫にはなる。森本氏の言うのが正しければ、私自身も米国流反知性主義だが、コメント氏の言うように、これは「反権威主義」と言うべきものではないだろうか。

(以下引用)山中氏と森本氏の発言の区別がつきにくいが、これはそのままのコピーである。
(追記)仮に、私が話者別に行分けをしておいたもの(章題もある)を再掲載する。

アメリカを動かす「反知性主義」の正体 森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/258.html
投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 24 日 14:58:41: tW6yLih8JvEfw
   
 
    http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276 
アメリカを動かす「反知性主義」の正体
森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く
2015年4月24日(金)  山中 浩之

 イラク戦争のころ、米国駐在の友人が「こっちの人は、『Save Iraq!』ってステッカーをクルマに貼ってるんだぜ」と驚いていました。世界中から突っ込まれても平気で我が道を行く、どうしてそこまで己を信じることができるのか。脚下照顧の国に生きる私たち、慎み深い日本人には分かりにくいところです。どうやら米国の底流に「反知性主義」とやらがあるせいらしい。え、語感からして、ものすごくやばい感じがしますが…
(聞き手:山中浩之)

森本 あんり(もりもと・あんり)
1956年神奈川県生まれ。国際基督教大学、東京神学大学を経て、プリンストン神学大学博士課程修了。現在国際基督教大学人文科学科(哲学宗教学)教授・学務副学長。プリンストンやバークレーで客員教授。主な著書に『ジョナサン・エドワーズ研究』『アジア神学講義』『アメリカ・キリスト教史』『アメリカ的理念の身体』など。

このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。

森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。

たしか『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホフスタッター)という、1963年に書かれた歴史的名著で、ピューリッツァー賞を取った本が…

森本:はい、彼こそが「反知性主義」の名付け親です。『アメリカの反知性主義』は、今読んでもまったく古びていないすばらしい本だと思いますが、読まれましたか。

えー、実は7年前から本棚にはあるんですが、前書きしか読んでいません。タイトルだけ見て、「ああ、やっぱりアメリカ人って、進化論を否定する人も多いとか言うし…」と、かえって偏見を深めていたことが、先生の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んで、初めて分かりました。

森本:あ、そっちはすぐ読んでいただけたんですね(笑)。

この、反知性主義(※以下、特記なき限り米国でのそれを指します)というのは、正直、日本人にはどうにも理解しにくいのではないかと思います。米国人にとっては自明のことから説明してもらわないと、我々には「なぜそうなるのか」が分からない。

「アメリカってなんでこう子どもっぽいのか」

森本:ええ、米国のキリスト教がたどってきた歴史を知らないと、なぜアメリカ人の中に反知性主義が生まれたのかは分かりにくいです。

『アメリカの反知性主義』

でも「反知性主義はアメリカのキリスト教の発展に伴って生まれてきた、この国の底に流れる思想」、というところだけは、歴史を知らなくてもなんとなく分かるので、そうなると私なんかは「ああ、進化論を否定して、宗教的な価値観を押しつけてくる原理主義的な運動かな、また禁酒法とか言い出すのかな」と、もう引きに引きまくってしまうわけです。

森本:わかります。本にも書きましたけど、『アメリカの反知性主義』は「歴史的な名著」なのに、日本でみすず書房が翻訳を出したのが2003年、原著が出てから実に40年かかりました。米国でのキリスト教の独自の発展と、それが生んだ「反知性主義」が、日本人にいかに親しみにくいかが窺えます。

『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』

ということは、そこを理解しないゆえに我々日本人は、米国人の、そしてアメリカ合衆国のグラスルーツのものの見方、考えかたがいまひとつのみ込めないのではないか、と。日本で「反知性主義」という言葉が広がりつつある今こそ、正しい意味を知っておく必要があると思うんです。

森本:この本は、昨今の日本での「反知性主義」ブームに乗るつもりはまったくなかったのです。2010年だったかな、アメリカ学会で、反知性主義はアメリカ研究のテーマの一つですから、シンポジウムがあったんですよ。そこで話をしまして、3年前に研究者向けの本を書きました(『アメリカ的理念の身体―寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』)。それと、『アステイオン』という雑誌がありますでしょう。

サントリーの。

森本:あれに反知性主義について書いたんです。それを読んだ新潮社のSさんからご依頼があって、この本を書き始めたというわけなんです。

この例えはキリスト教徒として、あり?

読む側からすれば、いいタイミングで「真打ち」が出たという感じです。ホフスタッターの本に比べてこの本が読みやすいのは、もちろん日本人が書いたということもあるのでしょうけれど、多くの日本人にとってはクリスマスのイメージしかないキリスト教を、ある意味「身もフタもない」言葉で「そうか、そういうことか」と分からせてくれるところです。

森本:分かりやすいと言っていただければ本望です。

しかし、先生も…「ふまじめ」と言っては何ですけど、もちろんクリスチャンでいらっしゃるんですよね。

森本:ええ。まあ、何というんでしょう。クリスチャンの紹介にはみんな「敬虔な」と必ずマクラ言葉でつけるけど、そういうのはだめですよ。つけないでくださいね(笑)。

信者の方なのに、「キリスト教をこれだけ突っ放して、外の人の目線に立って書いていいのか」と、ちょっとびっくりしたんですけど。

森本:そうかな。そんな身もフタもない言い方でしたか?

少なくとも、「敬虔な」信者の方だったら、キリスト教をウイルスに例えたりしないんじゃないですか。こんな文章がありましたよ。
本書の冒頭で、宗教の伝播はウィルスが感染し繁殖していくプロセスと似ていることを説明した。アメリカという土壌は、キリスト教というウィルスの繁殖には最適だったようである。
(同書269ページより。表記は原著に従っています。以下同)

森本:分かりやすいでしょ。

めちゃめちゃ分かりやすいです。

森本:ウイルスっていうのは、宿主に受け入れられて繁殖するうちに、その宿主にもたいへんな影響を及ぼすけど、自分自身も変化して亜種が生まれるんです。

その結果、アメリカのキリスト教はアメリカ社会に影響を与えつつ、オリジナルとかなり違う方向に進化したと。ウイルスの例えがぴったりですね。

森本:これで、キリスト教をこき下ろしている、みたいに思う人がいるのかな。

うーん、今の世の中、それこそポリティカル・コレクトネスというやつになると…小田嶋隆さんのコラムでもいろいろご指摘をいただくもんですから、もう。

森本:いや、小田嶋の陰に隠れていればこんなの全然(笑)※。
※森本あんり氏と小田嶋隆氏は小・中・高校の、同学年の同窓生

何を言っているんですか(笑)。

森本:温和なものです、僕の批判なんて。

ウイルスに例えるようなお話を、キリスト教徒の中でしても平気なものなんですか。

映画で学ぼう、「反知性主義」

森本:そりゃそうでしょう…ああ、わかりました。あなたがキリスト教徒に謹厳なイメージをお持ちなのは、日本にキリスト教徒が少ないからですよ。宗教に限りませんが、マイノリティの人はどこでもみんな肩ひじ張っていて、まじめなんです。

あ、なるほど。

森本:例えばイタリアへ行ってごらんなさい。「皆さんまじめなクリスチャンなんですか」とか聞いたら、みんな吹き出しちゃうよ。「うーん、おととしクリスマスのミサに行ったかな」とか、そんな感じで。毎週日曜日に行っている人なんかいないですよ。逆に、例えばアメリカに行くと、アメリカの仏教徒というのはすごいまじめなの。

ああ。「あれがブディストだ」と見られているから。

森本:そうそう。仏教徒の代表みたいに。だからやっぱりきちんとしてなきゃいけない、と思うでしょう。日本でも、キリスト教徒だけの中に入れば、お互いの話なんだから、もうとんでもない話ばかりしているわけですよ。それは人間なんだからあたりまえですよね。

なんだか安心しました。もうひとつこの『反知性主義』が分かりやすいのは、先生がたびたび映画を取り上げていることですね。考えてみれば、映画は、言葉にできない感性やイメージが、きわめて具体的に表現されているコンテンツで。

森本:ええ。文化や習慣、価値観を知るにはもってこいです。

付け焼き刃で本当にお恥ずかしいんですけど、こりゃ面白そうだと思って、昨日『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992年、アカデミー賞受賞)と、それから『エルマー・ガントリー』(1960年、アカデミー賞受賞)を…

森本:ご覧になった? いいでしょ、あれ。

見ました。特に『エルマー・ガントリー』は感動しました。

『エルマー・ガントリー/魅せられた男(Elmer Gantry)』1960年公開、監督:リチャード・ブルックス、主演:バート・ランカスター

森本:『エルマー・ガントリー』はね、本当に筋も濃いしね。スキャンダルあり、メディア利用のからくりあり、ひっくり返る大団円ありで。バート・ランカスターが若い時代で、女優さんたちもきれいでしょう。

きれいでしたね。で、「これはすごい映画だ」と思って、どんな感想が書かれているかなと検索してみると、意外に「理解できない」という評価が多いんですよ。「宗教の話と思ったら、女の性(さが)の話だった」「主人公がうさんくさい、何を考えているのか分からない」とか。

森本:え、そうなんですか。

「神よ、掃除機が売れました!」

はい、ちょっとびっくりしました。でもよく考えたら、私、『反知性主義』を読んでいるんですね。これを読んでいると「あっ、本当に牧師がサーカスみたいに説教してる! 歌いながら酒場を焼き討ちしてる! これが例の、反知性主義の苗床になったリバイバリズム(信仰復興運動)か!」と、面白さ倍増です。もう「出た! 出ました! これ知ってる!」の連続で。

森本:でしょう! そういう話ばかりです。もうこの本はね、あの映画で出来上がっているんです(笑)。本当に。

たぶん、主人公のさすらいのセールスマン、エルマー・ガントリーが「何を考えているのか」が、普通の日本人には理解・共感しにくいので、ストーリーに入りにくいんだと思うんです。エルマーの「セールスマン根性」みたいなところと、聖書の教えとが……

森本:ちゃんとつながっているでしょう。「掃除機が売れました。神よ、感謝します!」とか(笑)。

そうそう、あれは日本人には信じがたいけれど、本気なんですね。話がちゃんとつながっている。その描写がめちゃめちゃよくできていて、「米国人の生き方と宗教観は、こう連結しているのか」と。ここが分からないと、エルマーはヒロインの美しい牧師を口説きたいから頑張ったのか、ビジネスを成功させたかったのか、上流階級に一泡吹かせたかったのか、それとも何も考えていないのか、分からないんじゃないかと。
※編注:エルマーを誰に例えれば分かりやすいか。個人的には、心の底に「日本人の義理人情」を持ちつつ、並外れたプロデューサー兼セールスマンでもある、『こち亀』の主人公、両津勘吉氏が宗教家になったようなイメージです。それはそれとして、『反知性…』を一読されてから「エルマー…」を観るのは本当におすすめです。エンタテインメントと知的興奮が同時に味わえます。

『リバー・ランズ・スルー・イット(A River Runs Through It)』1992年公開、監督:ロバート・レッドフォード、主演:クレイグ・シェイファー、ブラッド・ピット

森本:『リバー・ランズ・スルー・イット』もそうですが、映画の背景になっているのはアメリカの開拓の歴史というか、西部の荒野ですよね。未開の地、新しい世界へ人間が歩み入っていく。その時に、自分のよりどころになるのは何か、ということです。『エルマー…』では、既存の宗教の方法論や権威に頼らず、直接「神」と対話しよう、という「リバイバリズム」が批判的な目で描かれているし、『リバー…』では、自然を通して直接神の息吹に接する、という姿が美しく描かれているわけです。

先生は、自然を通して神と直接向き合おうというのは、言い換えれば「上から」というか、「既存の秩序、教義みたいなものに目を曇らされていてはダメよ」という反骨心でもある、と指摘されていますね。教会内での位が高いから神や真理に近いか。そんなわけはない。まず自分の頭できちんと考えなきゃダメ、という考え方でもあると。それが、リバイバルの闘士が持つ「ファイティングスピリット」に通じているのかもしれませんね。

権威への反逆、思わず元気が出る

森本:そうですね。ここはぜひ強調したいんですけど、「反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。
 だからパイオニアなんです。フロンティアスピリットを持ち、戦闘意欲満々で、今大きな顔をしている権威だとか、伝統だとか、その道の大家だとか、そういうのをみんなぶった切っていくわけ。

信仰復興運動=リバイバリズムも、ざっくりと言えば最初の植民者であるピューリタンたちの、あまりにロジカルかつ体制的なキリスト教への反発から、「神様は本当にこんな堅苦しい教義とかを望んでいるのか?」という考え方が生まれて、広がっていったのでしたね。

森本:そうですね。

先生の本でぶったまげたのは、リバイバリズムの担い手の「牧師」たちの多くが、実は神学校も出ていない「自称」牧師で、だけど「私は何百人も回心させました」という人たちだった、ということです。当然、ちゃんと神学校を出た「本物」のほうは面白くないわけですが…。
 もちろん、既成教会の牧師たちも彼らをそのまま野放しにしていたわけではない。当時の牧師連合会では「ハーバードかイェールを卒業した者(※NBO注:どちらも元々は神学校)でなければ、教会では説教させない」(プリンストンの創立はもう十年ほど後である)ことを定めたりしたが、そんな取り決めは野外で勝手に開かれる集会には無力である。彼らも時には闖入者に面と向かって問い糾すことがあった。「いったいあなた方はどこで教育を受け、何の学位を持ち、どの教会で牧師に任命され、誰に派遣されてきたのか。」
 しかし、リバイバリストの方ではそんな問いに答える義理はない。逆に牧師たちに向かって、昂然と言い返すのである。「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」――これが、反知性主義の決めぜりふである。
(『反知性主義』84、85ページより引用))
これを読むと、反知性主義ってなんだか元気が出てきますね。もともとの出発点は、「学者」と「パリサイ人」、つまり当時の学問と宗教の権威を正面からこきおろしたイエスの言葉なんですね。

森本:はい、信仰によって「既存の権威に、たったひとりでも敢然と立ち向かう」ということですから。反知性と言いながら、新しいものが生まれる可能性が高くなる、という意味では、知性にとってもプラスなんです。反知性主義がないと、宗教や学問はもう伝統墨守になっちゃうわけですよ。昔ながらの権威を教え戴いているだけで、何も変わらない。

それがあの国のウルトラ楽天的な姿勢や、時には子どもっぽい行動につながっている。でも、それは活力の源でもある。

森本:そう、翻って日本では特に伝統墨守、権威維持の力が強いです。いつまでも、何でも。大学だって東京大学を一番に、点数順に並んでいて、もううんざりしますね。日本人は、政治家だとか学者だとかは「批判されるべき権威」だ、ということまでは知っている。でも、マスコミとか芸能界とか、普通なら権威に対してアンチな立場に立つ人たちの中にも、だんだん権威の秩序ができちゃうんです。

ああ、小田嶋さんのアンテナはそっちの方にもすごく敏感に反応されますね。なくてもいいところに権威つくりやがって、みたいな感じで。

森本:そういうことを言うのが彼なんですね。だから余計に面白いんですよ。余計に危ないのかな。本来ならそういう人たちを味方に付けてね、権威者ぶっているやつをやっつける、というのが一般的な構図でしょう。小田嶋はそこも許さないんですよ。だから面白い。

味方も友達も別にいらない、と思っていらっしゃるようですね。

森本:1人で戦う気なのかな。うん、それが小田嶋であり、反知性主義のほんとうの姿かもしれませんね。

日本人の「宗教への恐怖心」の理由

ちょっとお話が本から離れてしまいますが、日本人にとって反知性主義が理解しにくいというのは、それだけ宗教に対して距離感があるためだと思うんです。言葉を選ばずに言えば、「宗教を信じている人って、ちょっと怖い」みたいな。キリスト教に限らず、宗教全般に対する、恐怖心が。

森本:それはありますね。

なぜでしょう、どうお考えになりますか。

森本:1つには、「マインドコントロール」というか、「宗教を信じている人は、理性的な判断が結局できないんじゃないだろうか」と。進化論を否定しておいて、科学や歴史をどう考えるんだろう、みたいな。そういう怖さもあるでしょう。もう1つはやっぱり、自分の常識が通らないのでは、というか、違う論理と向き合うことへの恐れでしょう。ただし、例えばオウムのサリン事件だとか、ああいう宗教テロがあったからだというふうには、あまり僕は感じない。

私もそう思います。我々の持つ宗教への不安感とか恐怖感とか、近寄りたくないなという感覚って、昨今の出来事以前から、もっと土着的にあるような気がします。

森本:それはね、日本社会が成熟しているからなんだと思いますよ。日本社会って本当に知的にも、文化的にも、社会的にも、インフラ的にも成熟した社会です。だからそんなに簡単に、新しいものに魂を持っていかれないわけ。

えっ、そうですか?

森本:アメリカというのは、そういう意味では若い国で、それこそ開拓時代だと何もなかったわけですよね。そういうところから何かをつくっていくには、建設のビジョンが必要なんです。キリスト教に限ったことではありませんが、宗教はそういう理念形成の力を提供してくれます。

そうか、更地だから目標や理念がいる、宗教はそこにハマるのか。

森本:日本の仏教だって、新しい国家が生まれ、揺らいで新しくなるとき、大化の改新とか、内乱があった頃に……

ああ、確かに。大仏建てて、国分寺造って、みたいな感じで。

森本:そうそう、宗教はああいうふうに機能するわけですよ。社会に秩序を与えて、建設のビジョンを与える。そういうときに出番が来る。だから日本でも明治の初めにキリスト教が躍進しました。新しい社会になったけれど、どう振る舞ったらいいか分からない、既存の秩序が消えた時に、新しい秩序を見せてくれる。

なるほど。

森本:それから、戦後すぐですね。マッカーサーが来て、アメリカの軍隊が来て、世界がアメリカ化して見えてきた時代。でも民主主義って体験したことがないんだから、ほんとのところ分からないわけですよ。そういう時に宗教って広まるんですよね。

古くなったOSが書き換わるみたいな時に、ですかね。

森本:そうそう。その最初のころに必要なんです。
動いているOSは、無理に書き換えなくてもいい

ああ、なるほど。自分自身のOSを書き換えるのって、既存のOSのアプリケーションにしてみたらうれしいわけがないですものね。「俺が消えちゃう」みたいな。

森本:そうですね。そして、日本社会はある程度古いOSがちゃんと機能しているわけですよ。

なるほど。

森本:成熟して枯れたXPがあるのに、何でVistaなんか入れなきゃいけないんだと。

確かに(笑)。

森本:僕は「8」が本当に嫌いなんだけど。だって「7」がちゃんと機能しているんだからね。

そうですよ。私も、7から絶対に移行したくないですよ。

森本:そうするとね、やっぱりいらないんじゃないの、別にそんな、新しいからって、というふうになりますよね。

なるほど、それが日本人か。それで言うと、例えば先生、あれですか、私がキリスト教に回心しなくても、別にいいよ、と思っていただけますか。

森本:それは、宗教的に言うと、人間のビジネスじゃなくて神様のビジネスなんですよ、最終的には。他人が回心するかしないかなんて、僕の知ったことか、というかね(笑)。

知ったことかと言われました(笑)。

森本:何でかというと、それは実存の問題だから。僕にとって僕の人生はとても深刻な問題じゃないですか。だけど、他の人が救われようが救われまいが、別に僕には関係ないわけですよ。そして、山中さんが回心するとしたら、それと同じくらい山中さんにとってそれが自分の真剣な問題になった時です。

まあ、それはそうですね(笑)。

森本:だから、どんなに一生懸命に広めようと思ったって、本人にその機が熟さない限り、無理に広めることはできないんです。

それをやると、リバイバリズムの負の面になっちゃうわけですもんね。回心する人を効率的に増やすことに意識が向いて、どんどん単なるビジネスになってしまう。

日本の「半知性」主義

森本:回心というのは、本人の準備ができた段階で自然になるんです。機が熟するには、人間の時じゃなくて、やっぱり神の時がある。もしかしたら、山中さんが60歳になった頃に、突然そういう時が来るかもしれないんだから、それまでは救いようがありません(笑)。

ちょっと安心したところで(笑)、先ほど、日本社会は成熟しているというお話がありましたが、一方では、本当の意味で自分の頭で考える「反知性主義」よりも、既存の権威を護持する方に回りやすい風土もあるわけですよね。

森本:竹内洋さん(社会学者、京都大学、関西大学名誉教授)とこの間対談したんだけど、竹内先生がおっしゃるには、日本にはハン知性…半分の半ね。それしかないんだって。

半知性(笑)。

森本:日本には。筋金入りの知性主義もないから、筋金入りの反知性主義もない。半分だけの生ぬるい知性主義しかないんだ、というのが竹内先生の見方です。

社会が成熟しているという部分と、半分の知性しかないということは矛盾しないのですか?

森本:なぜかというと、一般の知性のレベルが高いから。

平均点は高いけれど、抜きんでる人があまり出てこない?

森本:粒が立たない。というか、立つ必要がない。社会が成熟しているので、知的にも成熟しています。一方で、それゆえ日本は権威の構造がかっちりでき過ぎてしまった。だから、反権威という意味での反知性主義がなかなか育ちにくいんだと思いますよ。すでにあるものを踏襲してゆけば、そこそこいいものができるから。

ああ、なるほど。「師匠と同じになる」ことが、日本の学問とか武術という、いわば「道」の在り方で。

万人に「破」「守」の可能性を信じる

森本:「学ぶ」は「まねぶ」ですから。「道」はほとんど宗教です。デュルケムの宗教社会学的な理解から言うと、宗教に神が出てくる必要はないんです。何ものかへの献身があれば、それは立派な宗教です。

 でもね、昔から、「守破離」と言うでしょう。最初は師匠の教えを守って、その次に破って、そこから離れて自分の道を行く。つまり日本にも、「師匠を超えろ、違うことをやれ」という考え方はしっかりある。ただしそういうのは本当の、ものすごくできる人の話なのです。
誰もかれもが守破離ができるわけじゃない。それはそうですね。でも、反知性主義は、まさに「誰もかれも、“破って”“離れる”べきだ」というお話なのではありませんか。

森本:そうです。誰でも出来るわけじゃない。でも、「破」や「離」の可能性がいつでもある、ということを見せてくれる人たちが米国にはいるんです。その代表例がリバイバリストの伝道者たちでした。自分はただの平凡な人間かもしれないけど、「新しい時代の根拠がここにあるんだ」と信じられたら、もはや誰も恐れない。大統領だろうと大学者だろうと。
 その平民の伝統が、米国のダイナミズムの底流にある。そういう面では、反知性主義はまさに米国の活力の象徴だし、表層的には、キリスト教が自己啓発セミナーだか宗教だかわからなくなっている状況の原因にもなっているわけです。

うーん、日本だと確かにこの考え方は難しいですね。だって、「世の中ではこう言っているけど、これ違うんじゃないかな」と、仮に何かのジャンルで思ったとしても、「私がそれをちゃんと世に問うにはまだまだ力が足りない。もっと勉強してから」なんて、ついつい謙虚に考えてしまいそう。

森本:そうなっちゃうんですよ。でもこの人たちはやっちゃうんですね。平気なんだもの。だって、俺は神様に「うん」と言ってもらったんだから、そんなほかの権威なんかどうでもいい、というふうになるんですよ。

そういうところに、日本人はちょっと「ついていけない」と感じるのかもしれません。しかし、キリスト教が、自己破壊による革新を是認するというのは、いわゆる宗教改革の、ルターだカルヴァンだ、という頃からそうだったんですか。

森本:ルターだのカルヴァンだのじゃなくて、もう、ずっと初めからです。

え?

森本:だってイエスというのはそもそも反権威なんですよ。

うっ。

森本:イエスというのはその当時の宗教をぶっ壊した人なんだから。ユダヤ教の巨大な権威の塊があったわけですよ。律法学者だのパリサイ人だの。でも、「あんた方のやっていることは神様の言っていることと違うんですよ」というのがイエスのメッセージでしょう。

よく考えるとすごいことを言っていますね。

森本:とんでもない反宗教なんです。それはお釈迦様でも同じなの。お釈迦様というのは、古代バラモン教の階級社会に生まれて、それでも「宗教は高位高僧のものじゃなくて、一般の人々のためにある」といって、ご自分の教えを説いたわけですから。そして下層の人たちがそれを受け入れるようになっていったんです。ここは初期キリスト教の発展とまったく同じです。

そうか、世界宗教って、既存の宗教の破壊と革新から始まっているわけですね。

森本:そうです。だから、新しい宗教は主流(チャーチ)へのカウンター、つまり分派(セクト)として出発するんです。だけど、やがてそれでマジョリティになると、自分もチャーチになっちゃうわけ。

そしてチャーチは必ずまたセクトを生んでいくと。

森本:カトリック教会だって、はじめはずっと迫害されていて、ようやくローマ帝国の公認宗教になったんですが、気がついてみたら自分が弾圧する側に。それでプロテスタントが生まれるわけです。ところが、そのプロテスタントもマジョリティになると、そこからまた反発が生まれる。

ピューリタンが出て、そのピューリタンが新大陸で主流になったら、今度はバプテストが出て。

森本:そうそう。

米国憲法にもビルトインされた「反知性主義」

しかし、それにしたって、そんな反知性主義をベースに置くアメリカってどこかおかしくないですか。「国を挙げて、宗教を挙げてセクト是認」って、何というのか、そもそも国や宗教として矛盾してるのでは、という気もするんですが。

森本:うん。その「セクト是認」「異論反論上等じゃねえか」というのを、国の文化や社会システムに組み込んだということが、アメリカという国の大きな特徴なんですよ。

そうか、そういうことですね。

森本:そう。だからアメリカの連邦制だとか政教分離だとかのシステムは、政治だけを勉強していたのでは理解できないんです。その根っこにあるのが、この反知性主義的な考え方なんです。

本の中でも語られていますが、例えば米国人の中に伝統的にあるという連邦政府への不信感も、この視点から見れば納得できます。

森本:米国の憲法制度をみても、「権威に対する反発」が、しっかり組み込まれています。自分たちがやってきた異議申し立ての方法をシステム化したらこうなりました、というのが、米国の憲法なんですよ。そしてその憲法や権利章典は、二百数十年続いてメジャーな変更がないアメリカ国家の根幹なんです。


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日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。


 



   
 


     


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コメント
 
01. taked4700 2015年4月26日 10:46:46 : 9XFNe/BiX575U : atj6bwJU2M
なぜ、「反知性主義」で、「反権威主義」ではないのかが問題のはずです。

>「反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。


と言っているのに、なぜ、


>「権威に対する反発」


という形でまとめられてしまうのか、それが疑問です。


>信仰によって「既存の権威に、たったひとりでも敢然と立ち向かう」ということですから。反知性と言いながら、新しいものが生まれる可能性が高くなる、という意味では、知性にとってもプラスなんです。反知性主義がないと、宗教や学問はもう伝統墨守になっちゃうわけですよ。昔ながらの権威を教え戴いているだけで、何も変わらない。


>アメリカというのは、そういう意味では若い国で、それこそ開拓時代だと何もなかったわけですよね。そういうところから何かをつくっていくには、建設のビジョンが必要なんです。キリスト教に限ったことではありませんが、宗教はそういう理念形成の力を提供してくれます。


と言う事の方が重要で、「伝統」の中から生まれてきた「権威」に対して、「いや、自分の考えの方が正しいし、自分のやることに文句を付けられるいわれはない」というのが「反知性主義」のはずです。


単に「知性」の対立であれば、事実がどちらかに軍配を上げ、どちらの知性が正しいか、どちらの知性を取るべきかは、ある意味、話し合いで、または理性的に平和的に決めることが出来ます。


アメリカの問題は、知性の根本にある感性、感覚、宗教と言った次元から、既存の権威を否定する動きがあることです。だからこそ、進化論の否定がごく日常的にされるのです。


アメリカの問題点、それは、自己肯定があまりに強く、「風と共に去りぬ」のスカーレットのセリフ


「神にかけて、二度と私は飢えることはない、たとえ盗み、殺しをしなければいけないとしても、二度と飢えることはない。」


に典型的にあらわされている考え方です。


アメリカのプロテスタントの特徴は、プラグマティズムに裏付けられた個人主義であり、本来の保守である伝統や歴史に裏付けられた権威に依拠するのではなく、常に未来志向であることです。


だからこそ、「風と共に去りぬ」では
「明日は別の日」
でしめくられているのです。


「反知性主義」は、ですから、伝統とか歴史に裏打ちされた知性ではなくて、自分自身の感覚に基づいた論理と合理性に基づいて将来を作っていくことが正しいのだとする主義だと言う事ではないかと思います。

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自分を見るより外界を見ろ

どうでもいいようなことから先に書くが、「順調満帆」ではなく、「順風満帆」である。
さて、「自分と向かい合う」というのは、若者のほとんどが、一人になった時にはいつもやっていることで、私は、それは不毛な行為だ、と思う。
どんなに軽薄な、周りに調子を合わせているだけのように見える人間でも一人の時はいつも自分と向かい合い、悩んでいるのではないか。まあ、チンピラ、不良、DQNは必ずしもそうではない、と思うが、普通の若者のほとんどはそうだろう。要するに、いつも「仲間」とつるんでしか行動しない連中(チンピラ、不良、DQN)は、動物の一種にすぎない、ということだ。
それはさておき、自分と向き合うことを日々若者は行っている。だが、問題は、これが実に不毛な行為ではないか、ということだ。答えの無い問題を解くようなものだ。考えれば考えるほど、何が正解か分からなくなり、ノイローゼ状態になる。これが、自分と向かい合うことがしばしば導く結果である。
それよりも、何かに打ち込むことだ。スポーツでも勉強でも、女の子(男の子)でもいい。そのどれでも、「自分を見つめる」という不毛な行為よりは、はるかにいい。これらの行為は「相手のある行為」であり、「風を捉える行為」ではない。相手があるから、「物理的抵抗」(現実的抵抗)がある。その抵抗克服、問題解決の行為が、自分を成長させるのである。若い日に「自分を見つめる」ことしかしなかった人間は、ろくな哲学者にもろくな文学者にもなれないだろう。ましてまともな社会人にはなれないだろう。(哲学者や文学者は、「まともな社会人」ではない。)
それは、若い頃に自分の心の中を見つめることばかりやっていた私がよく知っている。


(以下引用)


さんがリツイート

若者よ、一ついいことを教えよう、 「日々の生活が順調満帆になり、心に余裕がたまり、しっかりと自分と向かい合える時間」 というのはいつまでたっても来ない、今、向き合うしかないぞ。

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イエスの思想と日本国憲法第9条

「播州武侯祠遍照院」所載の「マドモワゼル愛の日記」を転載。
現在のキリスト教がユダヤ教に乗っ取られているということは、私も「革命者キリスト」という古い小論の中で書いているが、その考えは現在、かなり多くの人が言っているようだ。
で、本来のイエス・キリストの思想は新約聖書の中にしか存在しないのだから、教会など、キリストの教えを捻じ曲げるために存在するようなものである。キリストの思想は、各自が新約聖書を読み、各自が自分の頭で解釈すればいいのである。
その思想の中でもっとも重要なのは「汝の敵を愛せよ」だろう。(これは、トルストイが指摘している。)
これはすべての闘争をこの世から消滅させる究極の思想だが、これほど実行困難なものは無い。我々が他者を「敵」と「味方」に分けるのは、ほとんど動物的な本能に近い。そして、その動物的本能から脱却しなければ、この世から闘争が消えることは無いのである。
しかし、それを、こと国と国との問題に限定すれば、この世に実現する方法はある。
それが、「日本国憲法第九条」という奇跡の憲法だ、と私は考えている。
日本で実現可能だったことが他の国で不可能なはずはない。



(以下引用)



 嬉しい予定(マドモアゼル・愛の日記)
 http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?no=1646

 (前略)

 話は変わりまして、なぜかこのところ、聖書の中のイエスの言葉を思い出すことが多くなっています。

 教会の教理とイエスの言葉の違いに違和感を覚えたことが昔からあって、自分勝手にイエスの言葉を読んできたのですが、ドストエフスキーも獄中で聖書を精読したらしいのです。

 そして、イエスほど暖かで素晴らしい人間はいない、、、というような感想を語っていたと思う。

 私も昔からそう思っていて、結局、今の時代というか、この二千年の間、キリスト教は広く世界に広まったものの、本当のところのイエスはむしろ隠されてきている、、、、ことを実感しています。

 素晴らしいものを乗っ取り、その名を借りて悪事を働く、、、、

 そうした構造がこの二千年間の隠されたスタイルだったと思うのです。

 美辞麗句、言葉だけ、スローガン、イメージ、、にだまされてきた二千年。

 イエスをもう一度復活させることはとても重要な気がします。

 そんなこと私ひとりにできるわけはないのだけど、それぞれのイエスがいてもいいと思うのです。

 私が知ったイエス、、、私が感じたイエスを、聖書のイエスの言葉から探っていく試みを機会があるごとにやってみたいと思います。

 時代は何を壊そうとしてきたのか、、、、それは、魂の喜びであり、生きがいであり、感動だった気がします。

 魂の感動をスポーツの感動に置き換え、魂の喜びを怠惰な喜びに格下げさせ、愛を低俗な欲求に変えさせて、、、、時代を支配する方法。

 それがピークに達した印象があります。

 そのためには、イエスを奪う必要があったのでしょう。

 東京カテドラル教会ができた時、私はこれが教会なのか、、、と内心で驚いた記憶があります。

 まるで刑務所の中のように思えたからです。

 古い木造の教会は壊され、近代的な鉄筋の教会になっていった、、、、すべての魂のふるさとを違った感動のないものに置き換える作業が、おそらく意図的に行われていたように感じられます。

 その根本は、イエスの抹殺だったという直観。

 大したことは言えないとは思いますが、私が感じたイエスを語りたい、、、、そんな思いがふっとわいてきました。

 イエスの語った内容はほとんどが逆説です。

 この世の苦しみは反対の喜び、、、この世の喜びは何か大事なものを捨てているという構造。

 悲しんでいるものは幸いである、、、彼らはなぐさめられるであろう、、、

 山上の垂訓の一部ですが、イエスの言葉にあふれるやさしさ、愛、逆説の人生観、、、それは本当に素晴らしい人情であり、真理だと思われます。

 人間イエスに迫りたい、、、なんだか不思議な思いがわいてきましたので、いつとは言わず、ことあるごとに語らせていただくことにいたします。

 どうかよろしくおねがいいたします。

 イエス?  なんだかつまらない、、、、とお思いの方も多いと思いますが、ちゃんと話せば本当に面白いんです。

 あくまで私のイエス像ですが、読んでいただけたら幸いです。

(以下略)


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信仰と合理性

「ZERANIUMのブログ」所載の「神秘家の道」(だったと思う)という書の一節である。
これは宗教と哲学の根本的な違いを明確に示していると思う。
そして、多くの人が間違うのは、宗教を理性や論理で説明できるかどうか試みることである。もともと信仰とは「理屈抜きで信じること」だと言っていい。「トマスの不信」は、信仰に理屈(合理性)を持ち込んだ者の誤りの事例だと言えるだろう。
トマス・アクィナスの言葉だったと思うが、「不合理ゆえに我信ず」というのは、信仰というものの性格を見事に示している。合理的ならば信じるも何も無い。理性(自分自身が勝手に設定し構築した理屈の体系)に従うかぎり、ただ、その結論を受け入れるしか無いのである。つまり、それは「信じている」のではない。ある意味では自己の中の他者としての理性に屈従した、ということであり、人間がただの「計算機械に堕した」とも言えるのだ。つまり、自由な人間から「時計仕掛けのオレンジ」になったのだ。ドストエフスキーは、こうした「合理主義」を「1+1は2」的な思考として嫌悪した。

念のために言うが、「考えることを許さない」神学は、ほとんどが狂信となる、ということも言い添えておく。



(以下引用)


   神学は信条に、つまり信仰に始まる。
   そして哲学は疑いに、つまり論理に、理性に始まる。哲学とは思考することだ。そして神学とは、思考することなく信じることだ。思考したら、人はキリスト教徒ではあり得ないし、どんな宗教の信者にも決してなることができない。なぜなら宗教は考えることを許さないからだ。だからいかなる宗教にも哲学はない。あらゆる宗教にあるのは独自の神学だ。

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武装によってのみ守られる、という思想を排す

「反戦な家づくり」から転載。
下の記事にある高校生の言葉は、おそらく世間大多数の考えと同じかと思う。つまり、それだけ強力に人々の心を支配している固定観念だ、ということだ。
前回の「進撃の巨人」も同じことで(この高校生も案外あの漫画やアニメのファンなのではないか?)、「こちらが理性的にふるまっても、理性的対応の通じない相手にどう対処すればいいのだ。戦うしかないだろう」という考えである。つまり、相手は「ニヤニヤ笑いながら『人類』を食う、何を考えているかも分からない凶悪な巨人」、こちらは理性的な『人類』だが、こちらが平和主義で、戦いを放棄すれば食われるだけ、という思想だ。これは右翼や軍国主義者だけの考えではなく、一般大衆にも共有されている観念だろう。もっと言えば、人類が、戦争すなわち『人類』同士の殺し合いの長い歴史を通じてほとんど本能に近くなるまで心に植え込まれた固定観念である。だからこそ、強い説得性(というより俗情に訴えるもの)がある。
確かに、この高校生の言うように、「この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいる」。その類推で、だから国と国も同じだ、と考えるのは自然だろう。特に、お隣の中国や韓国には「こちらがひどいことをしてきた」のだから、その仕返しに「こちらがひどいことをされるにちがいない」と考えるのも自然と言えば自然だろう。だが、それが正しいかと言えば、そうとも言えない。
第一、国と個人は同一視はできない。比喩は比喩でしかないのである。ヤクザやキチガイのような国、道理の通らない国が存在するのは確かだが、それはお隣の中国よりも日本の宗主国の米国の方だろう。中国は、現代世界ではほぼ理性的行動をしてきている。(国境問題での小さな紛争はあるが、アメリカのような侵略戦争や敵国家転覆工作はしていない。)韓国も然りである。韓国の「日本非難」にうんざりさせられるのは毎度のことだが、それは言葉の上だけのことだ。日本が実質的に被害を受けたことはほとんど無い。つまり、「国も人の集合なので世界には一定数のそのような国があるということです」の、「そのような国」は、日本にとっては中国や韓国よりも、TPPなどを日本に押しつけ、日本国内に基地を置き、日本の政治の決定権すら持っている米国に該当する、ということだ。
だが、それにしても、日本が軍備を拡充し、「戦争のできる国」になった時の予想される惨禍よりはまだマシな状況だろう。日本が「米国の戦争」に参加した場合、「敵国」から狙われるのは、強国アメリカではなく、その弱い属国、日本の方に決まっている。その際、米国はいつでも日本を切り捨てることができるのだ。そのための「戦争法案」に決まっているではないか。何も、日本を守るために米国は日本を「戦争のできる国」にしたいわけではない。
第二に、「武装をすれば安全だ」という考えがほとんど妄想だ、ということをこの高校生は分かっていない。武装をすればむしろ武力闘争を引き起こす蓋然性が増す、というのは、世界一の武装大国アメリカが実証していることだ。軍隊は自らの存在価値を証明するためには定期的に戦争をする必要があるし、軍需産業も戦争を必要とするのである。銃大国アメリカは、その膨大な数の銃のゆえに、キチガイじみた数の銃犯罪を抱えているのと同様の話である。武器は平和をもたらす、というのは、武器が拡散していない状態(つまり、武器の独占による支配権の確立)でのみの話であり、世界中に武器が溢れている状態では、武装することはけっして安全を意味せず、むしろ突発的な「武力衝突」の蓋然性を高める、ということである。
では、どうすればいいか。それは「武器を捨てる」ことである。一国だけ武器を捨てることに抵抗感があるのは分かる。だが、丸腰で町を歩けば必ずヤクザや不良に襲われる、という恐怖そのものが幻想であり、ほとんどの市民は武器など持たずに町に出るものだ。それと同じだ、と言えば、比喩で現実を語る愚に私も陥っていると思われるだろうが、分かりやすく言えばそういうことである。そして、何よりも、自衛隊という「(憲法9条により)世界唯一の戦争のできない軍隊」しか持たなかった日本が世界の先進国でほとんどただ一つ、70年間の平和を享受できた、という事実が真実を語っているのである。


(以下引用)


自衛隊は武器を捨てて『国境なき救助隊』に その2

「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」という記事を書いてから、もう4年が経った。

この考えはいまでも変わっていない。
なぜだか今頃になってこの記事にコメントが来たので、ちょっと関連して書いてみたくなった。

コメントは以下の通り

あくまで一意見ですが....
世界中で慈善事業をするということは素晴らしいのですがそのための非武装化はどうかと思います。この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいます。僕はまだ高校生ですが、すでに3人のそのような人に傷つけられました。国も人の集合なので世界には一定数そのような国があるということです。いざという時の備えをしないでそんなやり方に期待するのは我々国民の安全に無責任で失礼ではないでしょうか。
2015-09-02 犬神

(引用以上)

犬神さんは、かなり記事を読みちがえているようだ。

このプランのキモは、「慈善事業ではない」ということ。したがって、やったことについて「お天道さんが見ている」なんてもっての外で、世界中にドヤ顔で宣伝しまくらなくてはならない、ということ。
そのことで、侵略されるリスクを極限まで低くする、ということだ。

もちろん、もとより今の日本が侵略されるリスクは高くないが、かといって、万策を尽くしてもゼロにもならない。
ゼロにならないことを「無責任」というのならば、とりあえず武装して「安全です」と言っている方がよほど無責任だ。
世界中を助けまくった挙げ句に侵略されるリスクと、とりあえず自衛隊が武装しても侵略されるリスク、どちらが危ないかなんてどうやって分かるのか??

国家間が非常にシビアになって、結果戦争になった場合、双方が武装していれば、一方的にどちらかが悪者にはならない。
世界規模で見れば、かならずどちらかの肩をもつ勢力が出てくる。

しかし、完全非武装で、年間何兆円もかけて、命がけで世界中の災害救助をしている国を侵略したら、その国を擁護する国があるだろうか?

どうやっても日本のリスクをゼロになんてできないが、現実的に、きわめてリアルな問題として限りなくゼロに近づける策として、私はあの「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」を書いたのだ。


同時にそれは、米国からの独立を目指す道でもある。
何のビジョンもなく、一方的に日米安保の破棄を宣言したら、間違いなく日本はアメリカに再占領される。

主要な政治家の粛正という方法かもしれないし、在日米軍が武器を持って永田町界隈を制圧するかもしれない。
方法は分からないが、米国の実力(ゲバルト)によって、日本は再占領される。

そうならずに日米安保=日本支配を脱するためには、決して米国に敵対しない、積極的な利敵行為はしないということを、納得させなければならない。
そのためにも、完全中立の緩衝地帯になることが、G2体制下においては米国にとっても利益があるということを説得しなければならない。

そのためにも、「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」することは、必要かつ有効な方法だと思うのだ。

戦争法案に反対するその目線の先に、そうしたことも考えなくてはならないと、最近とみに思う。

憲法破壊の戦争も、立憲主義の戦争も、どちらも私はしたくない。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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