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人間の「馴致」

さて、この世に生れ出た時点で、人間は動物と同じ存在であり、その意味では完全に自由である。つまり、「すべては許されている」はずだ。
それが社会の中で育つに従って、いろいろな社会的規範を叩き込まれ、どんどん行動を縛られていく。つまり、自由を失っていく。
この「自由を失う」ことは、当人にとっては不快極まることであるが、訓練と習慣によってその不快さを意識しなくなる。これは動物を家畜化する(というよりは、家畜としての行動を叩き込む)「馴致」とまったく変わらない。その馴致機関が家庭であり、学校である。
その馴致訓練や馴致機関に欠陥があった場合、反社会的な個人が生じてくる。これがサイコパスと言われる人々である。つまり、社会的規範をまったく顧みず、自分の欲望のみに忠実であるような個性を社会側から見た言い方がサイコパスであるが、この種の人々の中で計算高い連中は、自らの正体をうまく隠して立ち回り、社会的にも高い階層に上ることも多い。思慮の浅い連中は、自らの欲望を抑えきれず、短絡的に犯罪に走る。(思慮が浅いことは、知力が低いということではない。むしろ、思慮の浅薄はその人の教養の程度、すなわち思考素材の質と量で決まる、と思う。)

自由とは何か素晴らしいもののように思われているが、私に完全な自由を与えたら、おそらく、自分の気に入らない人間をこの世からどんどん消し去り、最後には自分ひとりしかこの世界に存在しなくなるだろう。私は読んでいないが、藤子不二雄の「ドラえもん」中の「独裁者スィッチ」がそういう話のようだ。
人間が社会の中でしか生きられない以上、他人と協調して生きるためには自分の自由を制限することを全員が承認しなければならない。その意味で、家庭や学校での「馴致」訓練は必要なのである。ただし、それは「家畜化」でもあることに気を付ける必要がある、というだけだ。

さて、下の記事で、弁護団はこの殺人少女を「刑務所での刑務作業では更生できない。医療少年院ならそれが可能だ」と主張しているが、果たしてそうか。医療少年院でどういう「馴致」が行われるかは知らないが、過去16,7年間の家庭と学校での「馴致」で失敗したものが、医療少年院なら可能だというなら、それは素晴らしい。(刑務所での刑務作業が「更生」を目的としたものだという言い方自体に、何かピント外れなものを感じるのだが。あれは「懲罰」と「営利」が目的であって、刑務作業で更生するなら、工場労働者になれば誰でも人格者になる、とでも言うのか。)
私は基本的に犯罪者の更生というものを信じていないのだが、裁判における冤罪率と同じくらいの割合でなら犯罪者の更生というものもあるかもしれない。しかし、犯罪者の更生に回す金があるなら、犯罪の予防に金をかけるべきだ、と私は思っている。
それはつまり、家庭と学校の在り方を再検討するということでもある。


(以下引用)


佐世保殺害で弁護団「刑務作業では更生できぬ」


 長崎県佐世保市の高1女子生徒殺害事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された少女(16)の付添人を務める弁護団(3人)が10日、医療少年院送致の保護処分を求める意見書を長崎家裁に提出したことを明らかにした。


 家裁送致の際の検察側意見は「刑事処分相当」だったという。家裁は同日、少女の観護措置を26日まで延長することを決定。観護措置の期間中に第1回少年審判が開かれる予定。


 10日、弁護団は同市内で記者会見を開いた。検察側の「(少女には)刑事責任能力があり、刑事処分が相当」との意見に対し、弁護団は、刑事責任能力については「争う予定はない」と述べた。


 その上で「少女の特質を考えると、刑務所で刑務作業を繰り返すだけでは、真の意味の更生ができない恐れが大きい。再非行の防止には、徹底した治療や矯正が必要で、それが可能な施設は、医療少年院をおいて他にない」と主張した。


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人を殺してはいけない、か

まず、最悪の真実から書くことにする。
それは、ドストエフスキーの或る小説(「カラマーゾフの兄弟」だったかと思う。)に書かれていた、

「神が存在しなければ、すべては許される。」

という言葉である。
私は、この言葉は、ドストエフスキー以外には古今の哲学者も文学者も言わなかった「最悪の真実」であり、文明社会に投じられた、核兵器にも似た破壊的な威力を持つ言葉だと思う。
そして、それが恐ろしいのは、実は人類のほとんどは、この言葉が真実であることを心の奥底では分かっているところだ。だが、この言葉が真実であることを認めたら、あらゆる法と道徳は壊滅状態になるのである。
いいですか、

「すべては許される」のですよ。

殺人も、強姦も、近親相姦も、暴力も、拷問も、略奪も、嘘も冒涜もすべてである。
我々がそれらを犯罪としモラルに反する行為だとしているのは単に社会秩序を守るための便宜にすぎないことは、法や道徳がどうして発生したかを考え、そして法や道徳が場所や時代によってどれだけ変わるかを考えれば分かることである。
ドストエフスキーは、この言葉を、

「しかし、神は存在する」

という思想を前提として述べているのだが、問題は、ここで或る人が「神は存在しない」と確信したらどうなるか、ということだ。
その人が「神が存在しなければ、すべては許される」と考え、「神は存在しない」と確信したなら、「人間にはあらゆる行為が許されている」と自動的に答えが出るわけだ。
そして、その人が自分を他に優越する存在だと見做していれば、彼の思考はたぶん、こう続くだろう。
「ただし、自分の行為には、人間たちが勝手に作り上げた法律や道徳によって規制がかけられている。では、それに従う必要はあるか。
私は、他人が勝手に作り上げた法や道徳に従う意義を認めない。それらは私の自由を縛るものだ。この世に偶然的に生まれて、自分の人生から最高の果実を得るためには、私は世間では悪とされていることをも堂々と行う必要がある。なぜなら、悪は私が自分の欲望を達成するために必要な行為だからだ。もちろん、世間の意気地無しどものように、法や道徳を小心翼々と守り、安全で迂遠な道を行くこともできる。だが、そんな生き方の何が面白い。
奪え、殺せ、弱者を踏みにじれ、そしてすべてを手に入れろ。それでこそこの世に生まれた甲斐がある。力の無い、弱虫どもは奴隷の一生を送るがよい。俺は、強者として、超人として生きる」

これが私の考えるニーチェ的な「実存主義」である。
そして、こうした考え方は、本人が意識しているかどうかは別として、若者の一部には必ず存在していると私は推測している。ISISなどのテロ組織に参加する若者は、イスラム教への関心よりも、むしろテロの持つ「超人的な力」を求めて参加していると私は見ている。
現代では、すでに、神の存在を考えること自体がナンセンス扱いされる、というのが普通だろう。ならば、「神の存在しない世界」で、道徳や倫理(すなわち、法的定義以外の「善と悪」という判断基準)というものがどんな基盤の上に成り立つだろうか。私は、その基盤を見つけるのはかなり困難だと思う。法の場合は刑罰が厳然として存在するから、強制力も支配力もあるが、道徳に関しては、当人の人生経験と読書体験くらいしか基盤が無いのである。偉い人が「道徳を守れ」、と言う、その偉い人自身が道徳的には最悪の人物だったりする。

このへんで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えておこう。
答えは単純である。

「法律で禁じられているから」

これだけだ。道徳という不確かなものではこの問題に答えることはできない。

「なぜ法律は殺人を禁じているか」

は、別の問題だ。ちなみに、法はあらゆる殺人を禁じてはいない。言うまでもなく、戦争においては、敵を殺せ、と国家が命令する。そして死刑制度は国家そのものが殺人を行うことだ。つまり、法律は「絶対的に殺人はいけない」とはまったく言っていないのである。

上に書いたような答えでは当然誰でも不満に思うだろう。だが、実際に、「神が存在しなければ、すべては許されている」のであり、殺人だけを禁ずるいわれは無い。
動物でも人間でも「敵は殺せ、味方は殺すな」が原則であり、「殺すこと」自体が禁じられている、というのは実は幻想である。言い換えれば、法律や道徳は壮大な「虚構の体系」だと言える。しかし、その虚構は社会の平和と秩序を守っているのである。誰かを殺せば、その遺族によって自分も殺されて当然である。だから法は殺人を禁じる。そしてそれは十分に合理的なものであり、殺人はこうして禁止されるわけだ。しかし、哲学上の問題として言うならば、「人を殺していけない」絶対的な理由は存在しない、と私は思っている。

念のために言うが、私は人を殺すことを勧めているわけではまったくない。まして、「お前は人を殺していいと言ったのだから、お前を殺す」などという言いがかりは迷惑である。(人を殺していい、とは少しも言ってない。「人を殺していけない絶対的な理由は存在しない」と言っているのであって、それ以外の理由は無数にあるだろう。「社会の平和と秩序の維持」も立派な理由だ。そもそも、なぜ無益に人を殺す必要があるのか。)

私自身は、人間の文化の大半は美しい虚構であり、虚構であっても(あるいは虚構だからこそ)大きな価値がある、と考えている。道徳もその一つである。私が悪が嫌いなのは、端的に言って、それが醜い行為だからだ。善は行動の美なのである。

エゴイズムによる行動ほど醜いものは無い。そして、悪とはすべてエゴイズムから来るものだ。上に書いた「超人思想」(石原慎太郎が自分を実存主義者だと規定するなら、その思想はこんなものではないか、と私が空想したもので、ニーチェ的なものだろうとは思うが、私はニーチェを詳しく読んでいないので、確かではない。)も、要するにエゴイズムでしかない。醜い思想である。
エゴイズムによる行動の醜さは、たとえば行列への割り込みのような日常的事象の中から拾い上げてみたほうが、よく分かると思う。巨大な悪は、エゴイズムからのものでも、その巨大さだけで(常人には為しえない行為という)一種のヒーロー性を帯びてしまうのである。

では、美とは何か、特に行動の美とは何か、という問題が次に出てくるが、これもまたそのうち、気が向いたら考えてみることにする。





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命は平等か

私が、今の日本で一番価値が無い命だと思うのは、某総理大臣やそのお仲間たち、大阪市の某市長、東電経営者や東電経営陣の命であるが、多くの人は、総理大臣や国会議員や市長、大企業経営者やその幹部の命には価値があり、ニートやホームレスの命には価値が無い、と考えるのだろう。私は、ホームレスやニートの中にも聖人に近い人間がいる、と推測している。
では、認知症の超高齢者や植物状態で延命措置を受けている重病患者の命はどうか。つまり、正直に言って、他人の負担になり、他人に迷惑をかけながら生かされている人間の命はどうか。あるいは、暴走して大事故を起こし、他人を死なせながら自分だけ大怪我程度で助かった暴走族の命はどうか。あるいは、明白な殺人犯の命はどうか。
これらがすべて平等だ、という建前を私は取らない。
暴走族や殺人犯の若者ならば、改心して正道に戻る可能性があるから、若い順に助けるべきだ、という考えも取らない。「美徳は切り売りできない」ものであり、やった悪事の償いなど、けっしてできるものではないと思うからだ。それができると言うなら、殺人犯には殺した人間を生き返らせてみろ、と言いたい。と言っても、冤罪というものが存在する以上は死刑制度に簡単に賛成するわけでもない。死刑制度の話は、また別の問題だ。
なぜ人を殺してはいけないのか、ということを論じたいと思うのだが、それには落ち着いて考える時間的余裕と、そうした思索に自分自身を投入できるだけの精神的状態が必要なので、とりあえず、命は平等か、という問題だけをここでは提起しておく。
一つだけ言えるのは、自分の命と自分の家族の命は、世界中の他の命に優先する、というのが一般的な人情だろう、ということだ。ただし、それが正しい考え方だというわけではない。我々が自己犠牲の物語にほとんど必ず深い感動を覚えるのは、そういう本能的生存欲や動物的肉親愛以上のものが、人間世界にはありうる、ということを無意識に感じているからだろう。


(以下引用)*くだらないコメントもたくさんあるが、カットせずに転載しておく。


医者「命は平等というのは建前。すでに命は平等じゃない」


 
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1 ななし 2015/02/08(日) 10:38:32.92 ID:PEvo8ujj0.net ?PLT(12121) ポイント特典
「能率的に死なせる社会」が必要になる 建て前としての"命の平等"は外すべき
東洋経済オンライン2015年2月8日(日)10:10

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。

(中略)

――日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。

命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。

救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

――医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?

実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。

90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。

――矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。

僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。

ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする。

――結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。

誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。

仮に医者が安楽死させるなら、良心の呵責(かしゃく)に苦しみながらやるべき。自分を守るためにガイドラインを作れ、法律で決めてくれというのは違うんじゃねえかな。今の国会議員に僕は人の命なんか決めてほしくねえや。結局、今そこで患者を診ている医者が、引導を渡す役を引き受けるしかないんじゃないですかね。
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/entertainment/toyokeizai-59971.html

2 ななし 2015/02/08(日) 10:41:34.74 ID:u8OxOBC40.net
脳死判定が恣意的になったりするんだろ
怖いわ

9 ななし 2015/02/08(日) 10:44:44.37 ID:Unv7baNO0.net

11 ななし 2015/02/08(日) 10:45:05.40 ID:aCk/EQmH0.net
建前無い社会は殺伐としちゃうよ

13 ななし 2015/02/08(日) 10:45:53.55 ID:0/A084S80.net
それはあるが医者が判断する領分ではない
その程度のこともわからないバカ

14 ななし 2015/02/08(日) 10:45:55.36 ID:IAa4eNKH0.net
確かに同じ年齢でも会社経営者とフリーターじゃ
どっちに価値があるか明確だしな

41 ななし 2015/02/08(日) 10:56:19.62 ID:wmftilAg0.net
>>14
23歳フリーターと23歳経営者
俺ならフリーターを助けるね

43 ななし 2015/02/08(日) 10:56:58.00 ID:iWPQDUUo0.net
>>41
なんで?

66 ななし 2015/02/08(日) 11:08:01.80 ID:2ujcTdjn0.net
>>43
マイナスの価値
なにも金銭換算することばかりが能じゃない
23歳の経営者って胡散臭い方が確率的に高い
真面目な自営なら別としてね

91 ななし 2015/02/08(日) 11:18:12.86 ID:Z7mTgPvI0.net
>>66
一理ある
悪どい方法で稼いでる奴はむしろ害悪や

177 ななし 2015/02/08(日) 11:57:05.13 ID:vgc39l9t0.net
>>66
ひねくれ過ぎて気持ち悪いな

180 ななし 2015/02/08(日) 11:57:24.72 ID:yYJytCJN0.net
>>66
だが医療費を回収できるのは23歳経営者

18 ななし 2015/02/08(日) 10:47:03.08 ID:pmZX1hTD0.net
だれもが思ってることは
俺の命が最優先!
だよね

20 ななし 2015/02/08(日) 10:48:53.70 ID:bmaKY/CH0.net
もう、というか近代化の時代だからこそ
建前は必要なんだろうが

27 ななし 2015/02/08(日) 10:51:04.87 ID:Rh1O9fFt0.net
まあ、自殺未遂とかは完全に後回しで良いかなとは思う

28 ななし 2015/02/08(日) 10:51:07.84 ID:ThKjUWq1O.net
こんなこと言うヤツは医者として下だな

31 ななし 2015/02/08(日) 10:52:21.47 ID:1sBu+N710.net
金銭的価値だろ?
そりゃお金を持ってる人が多く医療費を払えるに決まっている
でも金銭に全てを集約して考える考え方もどうなのかな

34 ななし 2015/02/08(日) 10:54:02.10 ID:/12R0qYA0.net
これは医療スタッフ誰でも思う事
酒飲んで暴れて大怪我しておいて勝手に救急車呼びやがって!
こなくていいんだよてめーら

35 ななし 2015/02/08(日) 10:54:48.64 ID:ThKjUWq1O.net
アル中は精神病だ
アルコール含め薬物依存ってやめたくてもやめられないから問題なのに
好き勝手やってるとか医者のくせによく言えるな

125 ななし 2015/02/08(日) 11:36:29.40 ID:LNv1PbMK0.net
>>35
やめたくてもやめられない状態になったのは本人の問題だろ
大半の人間はそうはならないから

128 ななし 2015/02/08(日) 11:39:11.54 ID:ThKjUWq1O.net
>>125
じゃあなんでアルコール依存症専門外来ってのがあるんだよ

144 ななし 2015/02/08(日) 11:43:03.19 ID:ljgvxl4T0.net
>>128
放置すれば社会的損失になるから

148 ななし 2015/02/08(日) 11:44:35.15 ID:UcaVgGSa0.net
>>128
金に成るからだよ

38 ななし 2015/02/08(日) 10:55:22.25 ID:5R+I/gaP0.net
高給取りエリートとニートでは命の価値が違うのはあたりまえ

39 ななし 2015/02/08(日) 10:55:47.92 ID:ITHo6C1p0.net
だけど医者がいうことじゃないな

42 ななし 2015/02/08(日) 10:56:24.41 ID:4V82t/jj0.net
>>39
むしろ現場の意見しか説得力無い

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悩むことの意義と無意義

「岩下俊三のブログ」から転載。
私は、親と子はまったく別個の存在と思っているし、子供の犯罪に親の責任があるとは思わないので、この文章を掲載したのは文章冒頭に書かれた中村本然氏のこととはまったく無関係に、「悩むことの意義」について考えてみるためである。さらに言えば、かなり前に、ある若者から社会(大人たち)に投げかけられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について考えるためである。
先に結論から言えば、「悩むことで(人格が)大きくなる」者もいれば、悩むことでノイローゼになり、鬱病になり、人格破産する者もいるというのが常識的な結論になるだろう。「みんな悩んで大きくなった」というのがたとえば旧制高等学校時代の若者(当時は知的階級の若者の多くは哲学的問題に悩むのが常だった。もっとも、一般庶民は別か。)の話だとするなら、彼らが日本を戦争に導き、日本を破滅させたではないか。
ついでに言えば、下の文章に引用された歌の「ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」は、テレビコマーシャルで野坂昭如が歌ったものだと思うが、私の記憶では「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み~んな悩んで大きくなった」という歌詞であり、悩んで大きくなったのはソクラテスやプラトンではなく、ソクラテスやプラトンを読んで理解しようと悩む若者のことである。そして、果たして悩むことでみんな大きくなったかと言えば、私の考えでは、悩むことで大きくなる者半分、劣化する者半分、といったところだ。
で、今の若者は、悩むことなど馬鹿らしい、というのが大半だろう。「あれかこれか」の選択があれば、少しでも経済合理性があるのを瞬時に選び、快楽性の高いものを瞬時に選べばそれでいい、という思考なのではないか。(これを私は「実存主義」の一種と見ている。もちろん、「主義」ではなく、無意識的な、実存主義的思考、ということだ。)それは、テレビゲームなどで培われ、学校のテストや入試で培われた「反射神経的選択能力」であり、そこには悩むことの意義など最初から存在していないのだ。そして、それが果たして悪いことなのか、私は判断しかねているのである。というのは、私自身は悩み多き青春時代を送ってきた人間であり、その自分自身の人生前半を無価値だったとまで言うのはためらいがあるし、また、悩みの無い(幸福な)青春を送りたかった、という後悔もあるからだ。(トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に、こうした「悩むように生まれついた者」から「悩まない(幸福な)人々」への憧れと羨望が見事に描かれている。もちろん、「悩まない」とは「物事を深く考えない」、ということである。)
話が長くなったので、「悩むこと」について簡単な結論を出しておく。
悩むことに意義があるのは、それが生産的な、前進的な思考である場合のみだろう。そして、「悩む」とは、通常は、実はそれが思考の堂々巡り、結論の出ない泥沼状態であることを意味する。(しかも、ほとんどが苦痛と悲哀を伴っている。)つまり、「悩むこと自体に意味がある」というのは、どんな滅茶苦茶なフォームであれ、球数を多く投げていればいい投手になる、という野蛮な時代のトレーニングのようなものではないか。間違った練習方法は、むしろ体を悪い状態(間違ったフォーム)に固定するものだ、というのが正しい理解だろう。悩むことによって思考が深化し、人間が大きくなるのではない。「考える」こと、しかも堂々巡りではなく、前進的に考えることでしか思考力は高まらないだろう。これは何十年もの間、考えているようで何一つ「考える」ことができなかった私自身の経験から言っている。「思考の堂々巡り」、これこそが最悪の習慣である。(言うまでもないが、これは「同じテーマについて考える」ことの否定ではない。思考が、毎度同じようにしか進展しないことを言っているのである。「同じテーマについて考える」ことは、むしろ大事なことである。それは優れた科学者や芸術家や哲学者の特質だろう。)

「なぜ人を殺してはいけないのか」については、いずれ気が向いた時にでも考えたい。たぶん、そこで「実存主義」(前出の歌の中のニーチェもサルトルも実存主義らしい。そして、石原慎太郎は自分自身を実存主義者だと規定している。)についての私の解釈も論じることになるかと思う。

岩下俊三氏の書かれたものを批判する内容になってしまったが、実はこの「実存主義」的思考が現代の若者の特質だ、と仮定すれば、そして石原慎太郎を(日本における)実存主義の旗手だとすれば、現代は無数の小石原慎太郎で溢れている、ということであり、中村桜州の事件はそれを如実に示したものだと考えることもできる。つまり、話の大筋では、私は岩下俊三氏と一致しているように思う。ただ、「悩むことの意義」という点ではかなり意見を異にする、というだけである。



(以下引用)



速報:紀ノ川小5殺害事件犯人逮捕

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空海の研究では一目置かれていた僧侶であり、高野山大学の教授でもある中村本然氏がわが子を通して「図らずも」つきつけた日本の教育や社会の問題は
大きいと言わざるを得ない。

就職もせず(できず)親の家にひき籠って次第に変調をきたしている若者は決して特異な例ではない。高い教養と人格を備えた本然氏であろうともかかる建前だけの、デオドラントな見せかけだけの無臭な社会にあっては最も身近な息子ですら繋ぎ止め制御することが出来なかったのである。

しかも、

大手メディアは「人権」を盾にすべてを覆い隠し、本質的な問題提起から逃げようとするばかりである。すべてをさらけ出しているのは誤報も含めネットだけだ。これではほんとのNEWSを知ることはだれもできなくなってしまう。

メディアリテラシーの問題?バカ言ってんじゃない。単にビビってるだけだろうがっ!!

過日イスラム国に殺された湯川遙菜の死体の写真を教育の現場でつかった教師が教育委員会やPTAといった「デオドラント建前社会」の権化から糾弾されたけれど、人間の「死」というものがなんであるか、また「報道」とはなんであるかを鋭く問題提起して「考えさせる」ことは重要であると思う。

近年、「考える力」や「悩む力」をなくした子供(若者)が増えている。

四択に早く答える訓練しかしていないロボットを育成することには異常に熱心な親は「悩み考える」時間を無駄だとして直ちにメンタルケアの専門家を有難がる傾向にある。

問題にいち早く対処してどうする?問題の前で立ちすくみ躊躇するから、豊かな人間性がゆっくり醸成されていくのだ。

昭和に流行った不良のを思い出せ!


「♪ソソ、ソクラテスもプラトンも~みんな悩んで大きくなった」

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人生に失敗は無い。すべて経験。

別ブログに載せた記事だが、私の基本思想に関する記事なのでここにも載せておく。
私は体質的に道学者的なので、書くことが説教臭いが、書きたいことを書くのが私にとってのブログの意味なので、ご容赦願いたい。まあ、社会の底辺の人間が「負けることの哲学」を説教しても何の説得力も無いのだが。
なお、タイトルに書いた「経験」は昨日の「谷間の百合」ブログで引用されていた森有正独自の用語の「経験」(引用2参照)ではなく、普通の意味である。森有正流で言えば「体験」か。もっとも、「体験」のすべてが「経験」であるような生き方もあるのかもしれないが、そういう生き方も疲れそうである。「体験」の中に、時折自分自身を新たな存在に変える「経験」が混ざる。人生はそれでいいのではないだろうか。そして、「失敗」こそがそういう「経験」となりうる大きな機会だろう。まあ、失敗するのもチャレンジの結果なのだから、それを誇りにしていいのである。と、面倒なことからはいつも逃げてきた私は思うw 「逃げちゃいけない、逃げちゃいけない」と碇シンジ君のように頑張るのもいいが、頑張った挙句、キチガイになる者も多いのである。時には進み、時には退く。これが大事。




(以下転載)


素晴らしい結論である。ツィートした人は彼を揶揄しているのだろうが、実は24年間の人間的成長がここにはある。
逆に言えば、

負けることも大事。投げ出すことも大事。逃げ出すことも大事、ということだ。

負けることで得られる教訓がある。
投げ出すことで泥沼からの脱出がある。
逃げ出すことで新しい道が開ける。

ただし、投げ出すこと、逃げ出すことが習性になってはいけない、というだけだ。



     fromdusktildawnさんがリツイート


元大事マンブラザーズバンド立川俊之先生がこの24年間で導き出した「負けないこと」「投げ出さないこと」「逃げ出さないこと」「信じ抜くこと」の中で結局どれが一番大事か、への答え。

    




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慌てない、慌てない

「in deep」から転載。
自分は瞑想しているつもりで、思考が迷走しているというのが凡人の常である。
であるから、下の記事に書かれた、

瞑想とは、「論理的に突きつめて真剣に考えること」だと、私は解釈しています。

そういう意味では、「無念無想」というよりは、むしろ、アニメの一休さんのように、「問題の対処を考え続ける」姿が真実の瞑想かもしれません。


というのは面白い考えだと思う。
アニメの一休さん、懐かしいねえ。確か、右翼の笹川良一の日本船舶振興会が提供していた記憶があるが、あの頃の右翼はいい事もしていた。(笑)

「慌てない、慌てない」がアニメの一休さんの口癖だったが、これはいい言葉である。
だいたい、世間の大半の失敗や事故は難問や緊急事態に対して慌てて結論を出し、慌てて行動することから来る。
その最たるものが自殺である。若い人ほど簡単に自殺するものだが、これも慌てて結論を出した結果だろう。自殺などしなくても、人はいずれ死ぬし、人生の苦悩や苦痛の大半は、自分自身が心でそれを拡大しているもの(幻想に近い。まあ、我々の主観とはすべて幻想だとも言えるが。)であることが多い。自殺は簡単な解決法ではあるが、残念ながら人間は一回しか自殺できない。死んだ直後に「しまった~」と思っても、後戻りはできないのである。もっとも、老人や病人の自殺については、私は肯定的である。
自殺というのを例に出したのは、これこそが「慌てた行動」の例、つまりほとんど「考え」ないで結論を出す「思考ではなく感情に支配された行動」のいい例だと思うからだ。(もちろん、そうでない自殺もある。『悪霊』のキリーロフの自殺は熟慮の結果の自殺だと言えるだろう。ソクラテスの自殺もそうである。まあ、ソクラテスの場合は「自殺勧告を受け入れての自殺」だったと記憶するが。)
もちろん自殺するかどうかといった問題に限らず、問題が起きたら、結論を出す前にまずは所与の事実を確かめ、よく考えることだ。

話がだいぶ妙な方向に行ったが、「慌てない、慌てない」は、万人向けの人生訓としてもお勧めである。




(以下引用)



そのような「第3の目」について、日月神示では、「額の目」として、

もの見るのは額で見なされ
額の判断間違いなし、額の目に誤りなし。


のように述べていることになるわけですね。

とはいえ、「額の目で見よ」と言われても、具体的にどうすればよいのやら。

そのあたりのことはわからないのですが、松果体の役割を生物学的な意味でも合理性を持つ表現をしたシュタイナーが「高次の世界を認識する具体的な方法論」として記した著『いかにして高次の世界を認識するか』について、過去記事の、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

の中で、高次の世界を認識するための、その本に記されているいくつかの条件や特性を書きました。

これらはシュタイナーの言うところでは、世界を「霊的に見る」ことにつながっているとのことですから、「第3の眼」、つまり「額」で見るということと関係することかもしれないですので、記しておきます。

実際に著作を読むと、一朝一夕で何が変わるというものではなく、何年も何十年も、場合によっては「何世代も(転生が存在すると仮定した場合)」続いていくような実践ではあるようで、簡単なことではありません。




神秘学の学徒になるための条件

第一の条件

「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」

第二の条件

「自分自身を生命全体の一部分と感じること」

第三の条件

「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない」

第四の条件

「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」

第五の条件

「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」

第六の条件

「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」

第七の条件

「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」



霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性

第一の特性

「思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること」

第二の特性

「仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること」

第三の特性

「思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること」

第四の特性

「内面的な自由に対する愛」



などです。

どれも、箇条書きにしただけではわかりにくいですが、私に詳しい解説ができる能力があるわけでもなく、そのあたりはシュタイナーの著作をお読みいただければ幸いです。

ただ、お読みいただければおわかりかとも思いますが、神秘学の訓練というのは、おどろおどろしい修行のようなものではなく、

この世の真実とは何かを常に理論的に考え、それに基づき、世の中の真偽を見極め、また自分を見極め、その上で日常生活を大事にして冷静に生活していく日々の考え方と生活の仕方。

というもののようです。

たとえば、「瞑想」という言葉がありますが、眼をつぶって「頭を空」、あるいは「無念無想」したような行為は、シュタイナーに言わせると瞑想ではないようです。

瞑想とは、「論理的に突きつめて真剣に考えること」だと、私は解釈しています。

そういう意味では、「無念無想」というよりは、むしろ、アニメの一休さんのように、「問題の対処を考え続ける」姿が真実の瞑想かもしれません。



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恋愛という幻想による世界の美化

タモリの言い方が面白い。
男にとっては恋愛は片手間仕事であり、恋愛とそれ以外の仕事(日常の業務)は厳然と区別される。女は恋をするとそれが生活のすべてに優先する。仕事をしながら恋愛もする、という女は中身は男だろう。社会性という面から言えば、恋愛とその他の生活を明確に区別できる方が便利だ。だが、そういう恋愛が真の恋愛と言えるとも思えない。
すなわち、タモリの言うように「女は人を愛するプロ」であり、男は人を愛することのアマチュアだ。ただ問題は、そういう女の相手となって、親も兄弟も友人も捨てて、すなわち社会生活のすべてを犠牲にしても恋愛にのめりこむ男は、社会的見地からは人間のクズだ、ということだ。なぜあれほど素晴らしい女性が、あんな人間のクズと一緒になるのか、という事例は多いが、それは男から見ての話であり、女は恋愛のできる相手と恋愛をしているというだけのことだろう。相手のあらゆる欠点は、恋愛中の女にとってはどうでもいいことなのだ。
まあ、要するに恋愛とは、一過性だが何度も再発する精神病の一種である。(もちろん、「運命の人」など存在するはずはないw)
子供に対する愛は、また話が少々違うかと思うが、論じるまでもないか。
なお、恋愛は精神病だと書いたが、それが無価値だとは言っていない。大方の精神病も、当人にとって実は価値があるというものもあると私は思っている。むしろ、恋愛をすることで世界のすべてが輝いて見える、ということもあるだろう。自分がそう思うならば、それが正しいのであり、実際、その時世界は輝いているのだろう。
どこかで書いたステンドグラスの比喩(リルケの言葉だったか)で言えば、我々の見ている世界は、客観世界の白色光線が主観というステンドグラスで彩色されて壁に映ったものなのである。その色彩が美しければ、それでいいわけだ。



(以下引用)

タモリが男と女の“愛情の違い”を語る「女は人を愛するプロ」










タモリ

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21日放送の「ヨルタモリ」(フジテレビ系)で、タモリが男と女の愛情の違いについて鋭く指摘する一幕があった。

同番組でママ役を演じる宮沢りえは、自信(夢人注:「自身」の誤記だろう。)が子どもを出産し、母親になったことでどういった心境の変化があったかを告白した。

宮沢は基本の自分は変わらないと話す一方で「(子どもが)自分より大事だと思える存在になるっていうのは(あった)」と胸中を明かした。

すると、岩手のジャズ喫茶マスター「吉原さん」を演じるタモリは「女性の愛情はスゴイ」「女は人を愛するプロなんだよね」と女性の愛の深さに感じ入る様子をみせた。

続けてタモリは「それにくらべたら男は愛するなんてことは仕事も同然よ」と、独自の視点で男女の愛情の違いを分析し、女性の愛情や女性が子どもに与える愛情は「スゴイもの」だと語った。










(追記)孔徳秋水氏のツィートより。私の言う主観と客観の間にこの「空」観を入れるといい。「空」を観じる(私流に言えば、「自分」という存在を完全に度外視して、世界を観、その価値を考えること。)ことで主観を離れ、客観世界を垣間見ることができるのではないか。だが、「自分」という存在(世界認識の主体)は、その外(自我の外)に存在する無限の客観世界と同価値なのである。




.”空”…それは、買ったばかりの新品のパソコンのようなもの…何にも入っていないから、無限の可能性がある 


2.[1/2 15:27] 手放せば手放すほど入ってくる…空っぽにすればするほど満ちてくる…
 
3.[1/2 15:25] たとえば、「交通安全は、譲り合い」というではないか。わずかなパンと魚を分け与えたら、3000人が満腹になり、かごいっぱいに余ったというのも、それほどおかしな”奇跡”ではない。

4.
[1/2 15:23] 愛の法則とは、余計なものを手放しなさいという教え。みなが余計なものを手放せば、みんながもっと豊かになれる。幸せになれる。








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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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