忍者ブログ

ユダヤ教徒に問う

カマヤンのツィッターでリツィートされたものを幾つか載せる。
私自身も「反ユダヤ」発言をいつもやっているし、それがユダヤ民族ではなく「白人支配層」批判であると言っても、ユダヤ人全体への迫害につながっている、ということも認める。ただ、「ユダヤ教を信じるものはユダヤ人である」という定義に従うならば、私はあえてユダヤ人批判の側に立つ。
というのも「旧約聖書」や「タルムード」に見られる思想がユダヤ教であるとすれば、これは他民族とは絶対に相容れない思想であるからだ。「他民族はすべて殺すか奴隷にせよ」という思想が、それを主張するユダヤ人以外に受け入れられることは不可能な話ではないか。自分から進んで殺され、奴隷になりたい者がどこにいるか。
おっと、日本人はそうなのかもしれない。(笑)
ユダヤ教徒が世界に受け入れられることを望むなら、まず、「タルムード」の内容をすべて公開し、それについての外部からの疑義に対して誠実に答え、あるいはタルムードの教義を自ら否定しなければならないだろう。それで初めて、ユダヤと他民族の共存が可能になる。



(以下引用)




外教 @yuantianlaoshi  

  1. 小林よしのりやネトウヨの本質は70年前のサルトルにとっくに喝破されてた。 「数の問題じゃないんなら東京で中国人が日本人を一人殺したら東京大虐殺でいいよな」みたいなバカを大量に生み出した責任が、小林よしのりにないとは言わせねえよ。
  2. Retweeted by カマヤン1192
  1. · 64 Retweets 43 favorites
  1. · 85 Retweets 46 favorites

  2. サルトル「反ユダヤ主義者は話を弄ぶ事を楽しんでさえいる。なぜなら、滑稽な理屈を並べる事によって話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実である事に快感を感じているのである。問題は、正しい議論で相手を承服させる事ではなく、相手の気を挫いたり戸惑いさせたりする事だから」

    Retweeted by カマヤン1192
(追記)「阿**」で紹介されたことのあるタルムードの一部をここに転記しておく。これだけでもその思想の性格は十分に分かるだろう。もし、ここに書かれた内容が嘘だとユダヤ人が言うなら、タルムード全巻を公開すべきである。



   ゴイム・異邦人・偶像崇拝者

●なんじらは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。(ババ・
メチア、一四六の六)。
●汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出
でたればなり。<メナヘム・ベン・シラ法師>
●イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものな
れば、豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師>
●イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるるこ
となし。<アブラハム・ゼバ法師>
●悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり。<ナフタリ法師>
●犬は異邦人より勝れたるものなり。<アシ法師>
●聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュ
ルハン・アルフ」の注釈書より)
●神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず。<ゲルソン法師>
●レビ記十九章十一節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。こ
の文句は、ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。
<モシェー・バル・マエモン>
●ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。
そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。〝復讐の神が顕現されたのだ〟(バビ
ロニアン・タルムード、ベラチョット、五八の六)。
●汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの
子等、異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン>
●神はイスラエル人を審くには立ちてなし、尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族
を審く時は坐して、嚴格に長々と取調べをなす。<ラバ・バル・ナハマニ法師>
●「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど、
人々はこれをなほよく熟考しまた味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時、
イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが、他の民は掟を受
入れざりしによりこれ等の美点を全く有せざるなり。<アブラハム・ゼバ法師>
●イスラエル人は、他のすべての民に対し優越する者なり、他の諸族の中には賢く利
き者唯一人も居らざるに、イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり。
<アブラハム・ゼバ法師>
●一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く、また神
によって悦ばるるところのものなり。<シェフテル・ホルヴィッツ法師>
●ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人が
ゴイを殺すも責めは負わず。(前掲書、Ⅷの五)
●悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは、正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬな
り。<ゲルソン法師>
●ユダヤ人も非ユダヤ人の判断に信を置く事を、非ユダヤ人をして知らしむべからず。
(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。<モシェー・バル・マエモン>
●拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにし
て、ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち、
「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして、ゴイの失える物
は然らず。その理由は、ゴイは神に属する者に非ずして、地の邪神に属する者なる故
なり。故にゴイの失える総べての物は、此の世にては再び見付けらるる事なき遺失物
にして、その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく、他の
民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが
如し」と。<ゲルソン法師>
●ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である。(トセフタ・ミ
クワト、vの一)
●九歳と一日以上のゴイの少年と、三歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる。
(パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、一一頁)
●他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの
遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。(シュルハンアルクのシ
ョッツェン・ハミッバッド三百四十八)
●ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には、その責任を負うべきであるが、ユダ
ヤ人がゴイを殺した場合には責任を負うべきものでない。(トセフタ、アブダ・ザラ
八の五)
●〝盗賊〟という言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、
盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じ
られているこれらのすべてのことを為しても禁じられない。(トセフタ、アボダ・ザ
ラ、Ⅷの五)。
●安息日には非ユダヤ人の焼きたるパンを食すべからず。非ユダヤ人に公衆浴場を貸
すべからず。(シュルハン・アルフ、第一巻生存の道)
●すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を
屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●ユダヤ女を求め得る場合には、異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳
は心眼を閉ざし、悪しき性格を形成するが故なり。(シュルハン・アルフ、第二巻智
慧の教)
●偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど
彼等が危険に面しまた死に瀕せりとて彼等を救うことは許されず。例えば彼等の一人
水に落ちたる時、報酬ある場合と雖も彼を救い上ぐべからず。また彼等を瀕死の病よ
りも癒すべからず・・報酬ある場合と雖も。しかれども吾等と彼等の間に敵意の生ず
るを防止する為ならば、報酬無き場合にも彼等を救出しまた癒すことを許さる。しか
れども偶像を拝む者、罪を犯す者、掟と預言者を否む者は、これを殺すべし。而して
公然と殺すを得ば、その如くなせ。しかするを得ざる場合には、彼等の死を促進せよ。
例えば彼等の一人井戸に落ちたる時、その井戸に梯子あらば、これを取去り、直ちに
再び持来るべしとの遁辞を用い、かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道
を奪うべし。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)


●アクムと奴婢の死はこれを悼むことなかれ。彼等の葬式の列に加わる事なかれ。
(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●無事平穏のためならば、非ユダヤ人死者を葬い、その遺族を慰問するも差支えなし。
非ユダヤ人の墓所は祭司を汚れしむる事なし。然れども彼処に赴かざる方更によし。
(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●レビ記十九章十三節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。こ
の文句はゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。
<モシェー・バル・マエモン>
●非ユダヤ人の証人たることろの証書はすべて無効なり。(シュルハン・アルフ、第
三巻正義の楯)
●成人せる非ユダヤ人奴隷は、牧者なき家畜の如し。(シュルハン・アルフ、第三巻
正義の楯)
●總べてゴイは月經時の子にして、根絶さるべきものなり。<ベハイ法師>
●キリスト教徒は異教徒なり。<アバルバネル法師>
●改宗してユダヤ人となれる者は、同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と
婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見做され得る故なり。(シュル
ハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項、その地所を非ユダ
ヤ人に売りたる者、第九項、非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人)
に対し不当なる証言を為せる者、等。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変
節者(背教者)、キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪し
ければ、同じく証言を為すを得ず。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)
●他の宗教に改宗したる者は、盗賊になりたると等し。(シュルハン・アルフ、第三
巻正義の楯)
●神を拜せざる者の齒は三度毀たるべし。すなわち、一度はこの世において、次はメ
シア來る時において、然して最後には來世において。然もイスラエル民族を喰う者の
歯は、二十二エレの長さに伸ぶべし。<アキバ法師>
●汝知るべし、イエスの教に從がいて迷えるキリスト教諸國民は、その信仰には種々
あれども、ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼等は偶像礼拝者相応に扱わるべし。こ
れタルムードの説くところなり。<モシェー・バル・マエモン>
●汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの
子等、異教徒はイスラエル人に非ず。<モシェー・バル・マエモン>
●ゴイ、計算をなして過つ時は、イスラエル人は、我知らず、と言え。しかれどゴイ
をして過ちをなさしめんとするはよからず。ゴイ、イスラエル人を試みんとて故意に
過ちをなすことあればなり。<モシェー・バル・マエモン>
●第五十の誡は、偶像礼拝者を憫む事を堅く禁ず。<モシェー・バル・マエモン>
●惡しき者(非ユダヤ人)を憫むことは、正しき者(ユダヤ人)に相應はしからぬ事
なり。<ゲルソン法師>
●決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼等を憫むべからず。その故は、申
命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか、
あるいは河に溺るるを見るとも、これを救助することは許されず。<モシェー・バル・
マエモン>
●神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず。<ベハイ法師>
●偽善はこの世においては許さる。すなわち、背神者に対し慇懃になし、彼等を敬い、
彼等に向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐
怖に驅られたる場合は然り。<ベハイ法師>
●聖書に「隣人」と記されたる個処はいずれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュ
ルハン・アルフ」の註釋書より)
●總べてこれ等の條項(三十箇條のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故
にかかる者を憎むは吾等の義務にして、彼を賎しみ、出來得べくんばその亡ぼしまた
根絶するは當然の事なり。<アバルバネル法師>
●キリスト教徒は異教徒なり。彼等、神は血と肉なりと信ずる故なり。<アバルバネ
ル法師>
●キリスト教徒は偶像禮拜者なり。彼等十字架の前に跪く故なり。<キムヒ法師>
●カトリック教司祭が手に持つ銀の十字架及び香を焚く香爐は偶像礼拝に属するもの
なり。<アシェル法師>
●他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども、真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。
彼等は、ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く、劣等なる種類の人間なり。こ
れに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間
にして、この故にまた単に人間とも呼ばるるなり。<シメオン・ハダルサン法師>
●平穩無事を希う為に涜神者を慇懃に遇する者も、彼に関し善き事を語るなかれ。ま
た鄭重なる態度を示す際にも、注意して涜神者を真に尊敬するものなりと人々の信ず
る事なきよう心せよ。一般に慇懃を示す際には、その者の真の功績の故にあらず、彼
の富すなわち彼の幸運の故にかく為すというが如くせよ。然しいずれにせよかかる事
は罪にして、涜神者に慇懃になす事は、涜神者勢力を得て我々を害しあるいは我々に
損害を与うる恐れある場合のみに許さるるなり。ただし人間(ユダヤ人)の問題にて
涜神者を襃め、彼に関し善き事を言うべからず。(フランクフルト・アム・マイン發
行文書、一八六七年)
●偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得
るに過ぎず。<ロイベン法師>
●イスラエル人は人間と呼ばる。然れども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれ
ば、豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師>
●割礼を受けずまた安息日を守らざる者は人間に非ず。<ロイベン法師>
●偽善はこの世に於ては許さる。即ち、背神者に対し慇懃に為し、彼等を敬い、彼等
に向ひて「我汝を愛す」と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐怖に
駆られたる場合は然り。<ゲルソン法師>

     財産と所有権

●非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず。(シュルハン・アルフ、
第三巻正義の楯)
●ゴイの財産は主なき物品のごとし。(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパ
ット、一一六の五)。
●ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する。(ババ・バト
ラ、一四のb)。
●ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは
金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう。(シュルハン・
アルーフ、コーゼン・ハミズパット、三四八)
●ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴ
イに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあ
るが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない。(ミズナ、サンヘドリン、五七)。
●ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイ
に返すことは禁じられている。(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、
二六六の一)。
●ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。
而してかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば、かく為しても、罪
を犯したるには非ずして、戒律もまた遵守されたるなり。(シュルハン・アルフ、第
二巻智慧の教)
●タルムードの誡において神は命じて曰く、ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべ
し、と。これ、彼等が借りたる金により利する事なからんため、かつまた、我等が金
錢にて彼等に助力を與うることなく、むしろ損害を與えんがためなり。<モシェー・
バル・マエモン>
●拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。コイの紛失せる物は、これを己が所有と
なすも差支えなし。「汝の兄弟の物は総べてこれを返却せよ」とタルムードに記され
たる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すな
り。<モシェー・バル・マエモン>
●葡萄園にて草食う牛を発見せし人は、それを所有主に牽き行くべし。但しその葡萄
園が非ユダヤ人の所有なる時は、かく為すに及ばず。(シュルハン・アルフ、第三巻
正義の楯)
●非ユダヤ人が平常居住徘徊する場所において遺失物を発見せし時は、これを返却す
るに及ばず。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)
●非ユダヤ人の失いたる物は、拾得者これを己が許に留め置くべきのみならず、返却
することを禁ぜらる。その理由は、申命記の二十二章一節には「汝の兄弟の失いし物
は返却すべし」とあればなり。但ししばしば非ユダヤ人の物を返却し、あるいは盗難
より免れしむるを要する場合あるも、そは無事平穏を期する時のみなり。(シュルハ
ン・アルフ、第三巻正義の楯)
●拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。ゴイの紛失せる物は、これを己が所有と
なすも差支えなし。『汝の兄弟の物は總べてこれを返却せよ』とタルムードに記され
たる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すな
り。かくなすによりこの世の神を拜せざる者の勢を再び増すが故なり。<モシェー・
バル・マエモン>
●拾得物を紛失者に返却すべしとの誡は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにし
て、ゴイに対しては然らず。<ベハイ法師>
●獣は非ユダヤ人の所有にして、積荷はイスラエル人の所有なる時は、手を貸すべか
らず。然れども、若し牛がイスラエル人の所有にして、積荷が非ユダヤ人の物なる時
は、これを助くべきなり。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)
●アクムに負債あるイスラエル人は、そのアクム死し、その事に就きて知れるアクム
無き時は、その嗣子に支払をなす義務なし。イスラエル人が非ユダヤ人に改宗せる時
も、彼はその親戚の相続者たり得べし。イスラエル人はまた背教者なる親戚の相続を
もなし得。また夫は背教者なるその妻に代りて相続をなし得べし。(シュルハン・ア
ルフ、第三巻正義の楯)
●非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし。(シュルハン・ア
ルフ、第四巻救いの岩)
●アクムに対しては詐欺は成立せず。レビ記十九章の十一節に「己が兄弟(ユダヤ人)
を欺くべからず)とあればなり。然れどもアクムにしてユダヤ人を欺ける時は、詐取
せる所のものを我等(ユダヤ人)の法律に従って返さざるべからず。アクムにしてユ
ダヤ人よりまされる扱いを受くる本なからん為なり。(シュルハン・アルフ、第三巻
正義の楯)
●ユダヤ人にしてアクムより盗みをなしたる時、もし誓うことを強制さるるならば、
彼はその心の中にて、その誓の無効なることを宣言すべし。そは強いられたる誓なれ
ばなり。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
●ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい。
(トセフタ・スゼブノット、一一)
●結婚、誓約、約束を取り消すには、ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、ラビ
が不在の場合は、他のユダヤ人を三人呼び集め、かれらに残念ながら取り消すと言え
ばよい。そうすると三人は〝なんじは許された〟と言う。(シュルハン・アルーフ、
二、一の二四七)

     律法と秘密

●ゴイにわれらの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれら
の教説を知ったならば、かれらは公然とわれらを殺すだろう。(リブル・デヴィッド
の書、三七)

















拍手

PR

これからの人間の生き方

「ヤタ烏ーメンタルヘルスの罠」というブログから転載。(「ヤタ」は漢字だが、一発変換できないので、カタカナで代用。)
現代人は自分のメンタルヘルスをどのようにして守るのだろうか。昔は、宗教か哲学に頼るしかなかったし、基本的には「個人的に悟る」以外に方法は無かったと思うが、現代では精神分析医やら心療内科医やらに頼る、というのが多いのではないか。そして、麻薬同様の向精神薬(単に「精神薬」でもいいのだろうか?)を処方され、永続的な精神病患者になるわけだ。何しろ、精神病は完治しない、と私の知っている精神科医は言っていたくらいである。
ちょっとした精神の不調は精神病ではない。思春期の若者は大半が精神病に近い精神ではないか。それこそが思春期の特徴であり、思春期に一度も自殺を考えなかった人間の方が珍しいだろう。(あるいは他人を殺したい、と思ったことのない若者はいるまい。)
下の記事に書かれた内容は、特に今の時代を生きていく知恵に満ちている。
これこそがまさに「本物のメンタルヘルスの処方箋」である。

なお、私自身は「青春期における自殺の誘惑」が甚だしかったのだが、ドストエフスキーの作中にあった「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉が私を生かしたのだと思う。シニカルに言えば、「最後まで耐え抜いた」なら「救われる」のが当然ではあるのだが、(「生きたまま救われる」とは言っていないww)、こういうたった一つの言葉を知っているだけでも人間の生死が分かれることもあるものだ。



(以下引用)(ブログの存在は孔徳秋水氏のツィートで知った。)

創造する幸せ


テーマ:
勉強会、相談会、対話会(サードオピニオン)のお知らせ
減断薬読本(オルタナティブ協議会編集)をご希望の方はこちら

現在の我々の幸せは、大部分は消費する幸せだ。
モノであれサービスであれ、誰かの用意したものを消費して幸せを感じる。
豊かになる過程で、それは日本人のDNAに埋め込まれたかのようだ。
生活スタイル、幸せの結婚の形、子育てにおいても、さらには何が悲しいか、何が楽しいかさえも、
ほとんど誰も実証することなく、他者から与えられたこうあるべきみたいな価値観を信じている。

娯楽も消費型だ。
ディズニーランドなんてものはその極み。
誰かの用意した夢の国をバーチャル体験して喜ぶ。
なんとB,zの歌詞は、小学校5年生に理解できるものにしているそうだ。
大人にしか分からないような粋な歌詞はヒットしないというのがその理由だ。
この国の大人は小学校5年生程度の教養で十分ということか。

近年では、中国の人たちが、日本の観光地に押しかけ、免税店に群がる。これはいつか見た光景だ。
そこの人々と触れ合うことや文化を知ることよりも、そこに行った証拠写真やお土産の方が重要。
異文化を知ることよりも、周囲にお金を使うライフスタイルを自慢するためである。
狭いが建売のマンションや一戸建てに住み、車に乗り、おしゃれなレストランで食事をし、年に一度の海外旅行とディズニーランドに行く。
我々にとって、消費することが幸せだったのだ。

しかし、時代は少しずつ変化している。
それはやはり若い人たちから変わってきた。
動画サイトの投稿では限りなくプロに近い独創性を持つコンテンツを発信する人が現れたり、
マスコミには乗らないご当地アイドル、日本ではほとんど知られていないが、海外で活躍する日本人アーチストや料理人。
若い人たちの田舎回帰の傾向など。
洋服も自作する若者も増えた。若い人には金が回ってこないから、工夫して楽しみ方も変わってきたのだ。
私はそれを見て焦りさえ感じる。

こちらは、創造する幸せである。

大量生産、大量消費の文化は、大企業や金融資本主義にとってはなくてはならないものだ。
その文化においては企業とは成長しなければならないもの。
金融システムもそれに合わせて出来ている。成長しない企業はダメ企業なのである。
製薬会社が、なぜあれほどの悪事を働くか?
理由の一つは、彼らが株主のために利益を上げ、成長することを義務づけられているからである。

なぜ、こんな話をするのかというと。

消費する幸せに固定化された価値観が、その人の回復の大きな邪魔になることをひしひしと感じjるのだ。
他者から与えられたものを消費する幸せを得るには、それなりの金やポジションが必要なのだ。
そして、消費する幸せを実感するには、なにより優越感がいる。
勝ち組のレールから滑り落ち、人生の幹となる20代、30代を失った人々にはそれは至難の業だ。
その嘆きの多くは、消費する幸せを失ったことではないのか?
優越感を実感することが幸せと感じるなら、回復の選択肢は異様に狭まる。
それでは、他者からの眼差しを解除することなどできない。
苦しいだけである。

怒りや悲しみを消すためのてっとり早い方法は、この競争から、他者と比較する習慣から降りることだ。
消費する幸せを失ったからといって悲観する必要は本来ないのだ。
今度は、創造する幸せを求めればよい。

生活保護から焦って抜け出る必要もない。まずは小さな創造する幸せを得ることだ。
誰かのための料理を作るだけでも良い。皆で行くピクニックのお弁当を全員分用意するとかね。
小さな畑で、何か食材を栽培することでも良い。お弁当の材料に提供すれば良い。
売り物じゃないから、プロになる必要などない。
そこから、新たな好循環が始まる。人が大勢集まればそこに仕事は生まれる。
なにより、そこには明確な役割がある。そして何より楽しいのだ。

一旦、創造する幸せを知ったならば、消費する幸せになど戻れない。
消費する幸せは壊れやすいが、創造する幸せは実に耐久力がある。
さらに、生活コストも安い。何しろ消費しないのだから。
そこまで来れば、優越感に満ちた消費の勝ち組の眼差しは気にならなくなる。
子供を生まなくて何が悪い。
金が稼げなくて何が悪い。
大学行かなくて何が悪い。
本来、幸せは本人が噛みしめるもので、自慢するものでも卑下するものでもない。

自給自足のエコライフが良いと言っているのではない。
消費時代に築いた社会インフラは、我々に新しいチャンスを与えてくれている。
驚くほど低コストの、創造出来る環境も、社会への発信手段も揃っている。
あとは、自分でやってみるだけだ。
どうせ、落ちたのだから、ここらで考え方を変えてみないか?

新たな消費需要の見込めないこの国で、いつまでも成長を前提としたシステムが継続できるはずもない。
800万戸の空き家があるこの国で、住宅価格の下落は避けようもない。
デフレの本番は人口減少が始まるこれからである。
限界を迎えた成長を前提としたシステムを強引に続けようとするなら、結果はいずれハードランディングとなる。
維持しようとするなら、弱者への搾取を強める以外の方法はない。
錬金術を使えば使うほど、金そのものの価値は下落する。
最悪のシナリオは、ハイパーインフレか戦争である。

最悪の事態を想定しても、創造する幸せをもつ人々の方がはるかに有利なのは間違いない。
金の価値は変動するが、その創造価値そのものはあまり変動しない。
自分で出来るものは自分でやる。
どうしても、自分で出来ないものだけ他者から購入(消費)する。
つまり、自分で出来るものが多い人ほど有利ということだ。

自分の強みを生かした生活を試みること。
それがストレングスモデルの基本である。
過度の役割分担を排し、過度の効率化を排する。
考え方次第で、幸せの選択肢は大きく広がる。

拍手

「意地」と「美学」がハードボイルドの本質

私が別に持っているブログの記事を後で引用するが、倫理というものには「社会的倫理」と「個人的倫理」というものがあるのではないか。後者は「自分で自分に課す掟」のことだ。
それを描いたジャンルが「ハードボイルド小説」「ハードボイルド映画」だろう。
で、そうした作品の主人公が「自分自身の掟」を守る理由は、それがその当人の「美学」だからである。
「汚い行為」と自分が定めた行為は、絶対にやらない、ということだ。行動の美学。
そのために恋人を失おうが、社会全体を敵に回そうが、殺されようが、自分が根底的に嫌だと決めたことは絶対にやらない。そういう「意地」と「美学」を持った人物が「ハードボイルド」的人物だ、と言えるだろう。
小林信彦が、「夏目漱石の『坊ちゃん』はハードボイルド小説だ」と言ったと聞いたことがあるが、私もそう思う。別に、タフガイだから、とか、気障なセリフを言うからハードボイルド的なのではまったく無い。


(以下引用)



友情ではなく「意地」と「美学」

「さらば友よ」について、これほど的確な評は初めて見た。

「男同士の友情ではなく、ふたりの『意地』と『美学』。結局、それが互いの共感を呼び「つながり」をもたらす」

まさに、これ以外の評はすべて的外れだろう。




さんがリツイート

  1. 『さらば友よ』@午前十時の映画祭。映画史に絶対残るに違いないあのラストシーン。身震いがするほどしびれた。
  2.     
  3.  
  1. さんがリツイート

    『さらば友よ』@午前十時の映画祭。描かれているのは決して男同士の友情などではなく、ふたりの「意地」と「美学」。結局、それが互いの共感を呼び「つながり」をもたらす。それは男同士にのみ理解できるものなのかもしれないけれど、非常にうらやましく思えた。



拍手

自分の中の親(大人)と子供

これは精神分析の学派の一つの考え方だと思うのだが、自分の中に「両親(大人)」と「子供」と、もう一つ、何かがある、という考え方だ。それをP(両親・大人)とC(子供)と呼んでいたと思うが、この考え方は実に納得がいくものだと私は思う。
つまり、我々が「自分の考え」「自分の判断」と考えているものは、実は子供のころに両親や周囲の大人から受けた(自然と吸収した)考え方で決まっている部分がある、ということだ。普通はそれを「理性」と錯覚し、「怠けたい」「遊びたい」「泣きたい」「逃げたい」という自分自身の自然な欲望を「それは子供っぽい考えだ」と自分自身で否定することになる。その「叱られる自分」が自分の中の「子供」であるが、実はこれこそが本当の自分と言っていい。もちろん、その「子供」を抑制しなければ現実社会の中で生きていくことはできない。その「子供」を馴致し、それぞれの子供の中に「大人」を作るのが学校の役割のひとつである。家庭も同じ機能があるが、こちらは学校ほど強制的なものではない。だが、特に「道徳性」に関しては、家庭や両親の影響力は大きい。無道徳な親から道徳的な子供は出て来ないだろう。
さて、自分の中のPもCも、どちらも意味はある。Cは本来の自分だが、Pが自分の中に存在しているからこそ社会の中で生きていける。しかし、Cが本来の自分であることを忘れ、Cを否定してばかりいると、自分というものが、Pのロボット、奴隷になる。世間にはそうして完全ロボット化した子供もいるだろうし、学校秀才の大半はむしろそうではないか。
まあ、自分の中に子供がいる、というのは私などには当然極まることで、世間の大人や老人がよくあんな真面目くさった顔を作っていられるもんだなあ、といつも可笑しく思っている。酒を飲んだりゴルフをしたりするのが泥遊びをしたりママゴトをしたりするより大人っぽいなどとはまったく思わないのである。違いは、たとえば子供の戦争ごっこは誰も死なないが、大人の戦争ごっこは大量に人が死ぬ、といったくらいのものだろう。
なお、自分の中にいるPとC以外のもう一つが何かは忘れたが、忘れたということは、それほど本質的なものではない、ということだととりあえず結論しておく。

もう一つ付け加えておく。自分の中のPとCの存在をはっきりと認識することで、(特にPは社会適合のためにCを叱るだけで、その「言葉」がいつも絶対的に正しいわけではないと知ることで)下の「毎日泣いている」ような人は、救われることもあると思う。
さらに言えば、「他人」特に「大人」への気兼ねが無ければ、誰でも本来のCに戻るはずなのである。下の歌は、その事を実に見事に表している。



「遊びをせんとや生まれけん。戯れせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」




(以下引用)


さんがリツイート

鬱で毎日泣くしかやることがないみたいな時にかかった先生のお言葉だけど、 『君の中に幼いキミがいて、幼いキミはず〜っと叱られてる状態だ。できると思ったことができなくて、やりたいことがうまくいかなくて、大人の君が叱り続けている。キミを救う最後の砦が敵になってはいけないよ』と


拍手

実は意味が日米で違う「反知性主義」?

「阿**」議論板から転載。
読者コメントも、なかなか面白い指摘をしているように思えるので、コメント中に文意不明なところはあるが、一緒に転載しておく。
長文のコピーになるので、私自身の考察は、別の機会にでもやりたい。少なくとも、「反知性主義」の意味や意義がアメリカの場合と日本ではまったく違うようであることが分かっただけでも収穫にはなる。森本氏の言うのが正しければ、私自身も米国流反知性主義だが、コメント氏の言うように、これは「反権威主義」と言うべきものではないだろうか。

(以下引用)山中氏と森本氏の発言の区別がつきにくいが、これはそのままのコピーである。
(追記)仮に、私が話者別に行分けをしておいたもの(章題もある)を再掲載する。

アメリカを動かす「反知性主義」の正体 森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/258.html
投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 24 日 14:58:41: tW6yLih8JvEfw
   
 
    http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276 
アメリカを動かす「反知性主義」の正体
森本あんり・国際基督教大学副学長に聞く
2015年4月24日(金)  山中 浩之

 イラク戦争のころ、米国駐在の友人が「こっちの人は、『Save Iraq!』ってステッカーをクルマに貼ってるんだぜ」と驚いていました。世界中から突っ込まれても平気で我が道を行く、どうしてそこまで己を信じることができるのか。脚下照顧の国に生きる私たち、慎み深い日本人には分かりにくいところです。どうやら米国の底流に「反知性主義」とやらがあるせいらしい。え、語感からして、ものすごくやばい感じがしますが…
(聞き手:山中浩之)

森本 あんり(もりもと・あんり)
1956年神奈川県生まれ。国際基督教大学、東京神学大学を経て、プリンストン神学大学博士課程修了。現在国際基督教大学人文科学科(哲学宗教学)教授・学務副学長。プリンストンやバークレーで客員教授。主な著書に『ジョナサン・エドワーズ研究』『アジア神学講義』『アメリカ・キリスト教史』『アメリカ的理念の身体』など。

このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。

森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。

たしか『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホフスタッター)という、1963年に書かれた歴史的名著で、ピューリッツァー賞を取った本が…

森本:はい、彼こそが「反知性主義」の名付け親です。『アメリカの反知性主義』は、今読んでもまったく古びていないすばらしい本だと思いますが、読まれましたか。

えー、実は7年前から本棚にはあるんですが、前書きしか読んでいません。タイトルだけ見て、「ああ、やっぱりアメリカ人って、進化論を否定する人も多いとか言うし…」と、かえって偏見を深めていたことが、先生の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んで、初めて分かりました。

森本:あ、そっちはすぐ読んでいただけたんですね(笑)。

この、反知性主義(※以下、特記なき限り米国でのそれを指します)というのは、正直、日本人にはどうにも理解しにくいのではないかと思います。米国人にとっては自明のことから説明してもらわないと、我々には「なぜそうなるのか」が分からない。

「アメリカってなんでこう子どもっぽいのか」

森本:ええ、米国のキリスト教がたどってきた歴史を知らないと、なぜアメリカ人の中に反知性主義が生まれたのかは分かりにくいです。

『アメリカの反知性主義』

でも「反知性主義はアメリカのキリスト教の発展に伴って生まれてきた、この国の底に流れる思想」、というところだけは、歴史を知らなくてもなんとなく分かるので、そうなると私なんかは「ああ、進化論を否定して、宗教的な価値観を押しつけてくる原理主義的な運動かな、また禁酒法とか言い出すのかな」と、もう引きに引きまくってしまうわけです。

森本:わかります。本にも書きましたけど、『アメリカの反知性主義』は「歴史的な名著」なのに、日本でみすず書房が翻訳を出したのが2003年、原著が出てから実に40年かかりました。米国でのキリスト教の独自の発展と、それが生んだ「反知性主義」が、日本人にいかに親しみにくいかが窺えます。

『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』

ということは、そこを理解しないゆえに我々日本人は、米国人の、そしてアメリカ合衆国のグラスルーツのものの見方、考えかたがいまひとつのみ込めないのではないか、と。日本で「反知性主義」という言葉が広がりつつある今こそ、正しい意味を知っておく必要があると思うんです。

森本:この本は、昨今の日本での「反知性主義」ブームに乗るつもりはまったくなかったのです。2010年だったかな、アメリカ学会で、反知性主義はアメリカ研究のテーマの一つですから、シンポジウムがあったんですよ。そこで話をしまして、3年前に研究者向けの本を書きました(『アメリカ的理念の身体―寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』)。それと、『アステイオン』という雑誌がありますでしょう。

サントリーの。

森本:あれに反知性主義について書いたんです。それを読んだ新潮社のSさんからご依頼があって、この本を書き始めたというわけなんです。

この例えはキリスト教徒として、あり?

読む側からすれば、いいタイミングで「真打ち」が出たという感じです。ホフスタッターの本に比べてこの本が読みやすいのは、もちろん日本人が書いたということもあるのでしょうけれど、多くの日本人にとってはクリスマスのイメージしかないキリスト教を、ある意味「身もフタもない」言葉で「そうか、そういうことか」と分からせてくれるところです。

森本:分かりやすいと言っていただければ本望です。

しかし、先生も…「ふまじめ」と言っては何ですけど、もちろんクリスチャンでいらっしゃるんですよね。

森本:ええ。まあ、何というんでしょう。クリスチャンの紹介にはみんな「敬虔な」と必ずマクラ言葉でつけるけど、そういうのはだめですよ。つけないでくださいね(笑)。

信者の方なのに、「キリスト教をこれだけ突っ放して、外の人の目線に立って書いていいのか」と、ちょっとびっくりしたんですけど。

森本:そうかな。そんな身もフタもない言い方でしたか?

少なくとも、「敬虔な」信者の方だったら、キリスト教をウイルスに例えたりしないんじゃないですか。こんな文章がありましたよ。
本書の冒頭で、宗教の伝播はウィルスが感染し繁殖していくプロセスと似ていることを説明した。アメリカという土壌は、キリスト教というウィルスの繁殖には最適だったようである。
(同書269ページより。表記は原著に従っています。以下同)

森本:分かりやすいでしょ。

めちゃめちゃ分かりやすいです。

森本:ウイルスっていうのは、宿主に受け入れられて繁殖するうちに、その宿主にもたいへんな影響を及ぼすけど、自分自身も変化して亜種が生まれるんです。

その結果、アメリカのキリスト教はアメリカ社会に影響を与えつつ、オリジナルとかなり違う方向に進化したと。ウイルスの例えがぴったりですね。

森本:これで、キリスト教をこき下ろしている、みたいに思う人がいるのかな。

うーん、今の世の中、それこそポリティカル・コレクトネスというやつになると…小田嶋隆さんのコラムでもいろいろご指摘をいただくもんですから、もう。

森本:いや、小田嶋の陰に隠れていればこんなの全然(笑)※。
※森本あんり氏と小田嶋隆氏は小・中・高校の、同学年の同窓生

何を言っているんですか(笑)。

森本:温和なものです、僕の批判なんて。

ウイルスに例えるようなお話を、キリスト教徒の中でしても平気なものなんですか。

映画で学ぼう、「反知性主義」

森本:そりゃそうでしょう…ああ、わかりました。あなたがキリスト教徒に謹厳なイメージをお持ちなのは、日本にキリスト教徒が少ないからですよ。宗教に限りませんが、マイノリティの人はどこでもみんな肩ひじ張っていて、まじめなんです。

あ、なるほど。

森本:例えばイタリアへ行ってごらんなさい。「皆さんまじめなクリスチャンなんですか」とか聞いたら、みんな吹き出しちゃうよ。「うーん、おととしクリスマスのミサに行ったかな」とか、そんな感じで。毎週日曜日に行っている人なんかいないですよ。逆に、例えばアメリカに行くと、アメリカの仏教徒というのはすごいまじめなの。

ああ。「あれがブディストだ」と見られているから。

森本:そうそう。仏教徒の代表みたいに。だからやっぱりきちんとしてなきゃいけない、と思うでしょう。日本でも、キリスト教徒だけの中に入れば、お互いの話なんだから、もうとんでもない話ばかりしているわけですよ。それは人間なんだからあたりまえですよね。

なんだか安心しました。もうひとつこの『反知性主義』が分かりやすいのは、先生がたびたび映画を取り上げていることですね。考えてみれば、映画は、言葉にできない感性やイメージが、きわめて具体的に表現されているコンテンツで。

森本:ええ。文化や習慣、価値観を知るにはもってこいです。

付け焼き刃で本当にお恥ずかしいんですけど、こりゃ面白そうだと思って、昨日『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992年、アカデミー賞受賞)と、それから『エルマー・ガントリー』(1960年、アカデミー賞受賞)を…

森本:ご覧になった? いいでしょ、あれ。

見ました。特に『エルマー・ガントリー』は感動しました。

『エルマー・ガントリー/魅せられた男(Elmer Gantry)』1960年公開、監督:リチャード・ブルックス、主演:バート・ランカスター

森本:『エルマー・ガントリー』はね、本当に筋も濃いしね。スキャンダルあり、メディア利用のからくりあり、ひっくり返る大団円ありで。バート・ランカスターが若い時代で、女優さんたちもきれいでしょう。

きれいでしたね。で、「これはすごい映画だ」と思って、どんな感想が書かれているかなと検索してみると、意外に「理解できない」という評価が多いんですよ。「宗教の話と思ったら、女の性(さが)の話だった」「主人公がうさんくさい、何を考えているのか分からない」とか。

森本:え、そうなんですか。

「神よ、掃除機が売れました!」

はい、ちょっとびっくりしました。でもよく考えたら、私、『反知性主義』を読んでいるんですね。これを読んでいると「あっ、本当に牧師がサーカスみたいに説教してる! 歌いながら酒場を焼き討ちしてる! これが例の、反知性主義の苗床になったリバイバリズム(信仰復興運動)か!」と、面白さ倍増です。もう「出た! 出ました! これ知ってる!」の連続で。

森本:でしょう! そういう話ばかりです。もうこの本はね、あの映画で出来上がっているんです(笑)。本当に。

たぶん、主人公のさすらいのセールスマン、エルマー・ガントリーが「何を考えているのか」が、普通の日本人には理解・共感しにくいので、ストーリーに入りにくいんだと思うんです。エルマーの「セールスマン根性」みたいなところと、聖書の教えとが……

森本:ちゃんとつながっているでしょう。「掃除機が売れました。神よ、感謝します!」とか(笑)。

そうそう、あれは日本人には信じがたいけれど、本気なんですね。話がちゃんとつながっている。その描写がめちゃめちゃよくできていて、「米国人の生き方と宗教観は、こう連結しているのか」と。ここが分からないと、エルマーはヒロインの美しい牧師を口説きたいから頑張ったのか、ビジネスを成功させたかったのか、上流階級に一泡吹かせたかったのか、それとも何も考えていないのか、分からないんじゃないかと。
※編注:エルマーを誰に例えれば分かりやすいか。個人的には、心の底に「日本人の義理人情」を持ちつつ、並外れたプロデューサー兼セールスマンでもある、『こち亀』の主人公、両津勘吉氏が宗教家になったようなイメージです。それはそれとして、『反知性…』を一読されてから「エルマー…」を観るのは本当におすすめです。エンタテインメントと知的興奮が同時に味わえます。

『リバー・ランズ・スルー・イット(A River Runs Through It)』1992年公開、監督:ロバート・レッドフォード、主演:クレイグ・シェイファー、ブラッド・ピット

森本:『リバー・ランズ・スルー・イット』もそうですが、映画の背景になっているのはアメリカの開拓の歴史というか、西部の荒野ですよね。未開の地、新しい世界へ人間が歩み入っていく。その時に、自分のよりどころになるのは何か、ということです。『エルマー…』では、既存の宗教の方法論や権威に頼らず、直接「神」と対話しよう、という「リバイバリズム」が批判的な目で描かれているし、『リバー…』では、自然を通して直接神の息吹に接する、という姿が美しく描かれているわけです。

先生は、自然を通して神と直接向き合おうというのは、言い換えれば「上から」というか、「既存の秩序、教義みたいなものに目を曇らされていてはダメよ」という反骨心でもある、と指摘されていますね。教会内での位が高いから神や真理に近いか。そんなわけはない。まず自分の頭できちんと考えなきゃダメ、という考え方でもあると。それが、リバイバルの闘士が持つ「ファイティングスピリット」に通じているのかもしれませんね。

権威への反逆、思わず元気が出る

森本:そうですね。ここはぜひ強調したいんですけど、「反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。
 だからパイオニアなんです。フロンティアスピリットを持ち、戦闘意欲満々で、今大きな顔をしている権威だとか、伝統だとか、その道の大家だとか、そういうのをみんなぶった切っていくわけ。

信仰復興運動=リバイバリズムも、ざっくりと言えば最初の植民者であるピューリタンたちの、あまりにロジカルかつ体制的なキリスト教への反発から、「神様は本当にこんな堅苦しい教義とかを望んでいるのか?」という考え方が生まれて、広がっていったのでしたね。

森本:そうですね。

先生の本でぶったまげたのは、リバイバリズムの担い手の「牧師」たちの多くが、実は神学校も出ていない「自称」牧師で、だけど「私は何百人も回心させました」という人たちだった、ということです。当然、ちゃんと神学校を出た「本物」のほうは面白くないわけですが…。
 もちろん、既成教会の牧師たちも彼らをそのまま野放しにしていたわけではない。当時の牧師連合会では「ハーバードかイェールを卒業した者(※NBO注:どちらも元々は神学校)でなければ、教会では説教させない」(プリンストンの創立はもう十年ほど後である)ことを定めたりしたが、そんな取り決めは野外で勝手に開かれる集会には無力である。彼らも時には闖入者に面と向かって問い糾すことがあった。「いったいあなた方はどこで教育を受け、何の学位を持ち、どの教会で牧師に任命され、誰に派遣されてきたのか。」
 しかし、リバイバリストの方ではそんな問いに答える義理はない。逆に牧師たちに向かって、昂然と言い返すのである。「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」――これが、反知性主義の決めぜりふである。
(『反知性主義』84、85ページより引用))
これを読むと、反知性主義ってなんだか元気が出てきますね。もともとの出発点は、「学者」と「パリサイ人」、つまり当時の学問と宗教の権威を正面からこきおろしたイエスの言葉なんですね。

森本:はい、信仰によって「既存の権威に、たったひとりでも敢然と立ち向かう」ということですから。反知性と言いながら、新しいものが生まれる可能性が高くなる、という意味では、知性にとってもプラスなんです。反知性主義がないと、宗教や学問はもう伝統墨守になっちゃうわけですよ。昔ながらの権威を教え戴いているだけで、何も変わらない。

それがあの国のウルトラ楽天的な姿勢や、時には子どもっぽい行動につながっている。でも、それは活力の源でもある。

森本:そう、翻って日本では特に伝統墨守、権威維持の力が強いです。いつまでも、何でも。大学だって東京大学を一番に、点数順に並んでいて、もううんざりしますね。日本人は、政治家だとか学者だとかは「批判されるべき権威」だ、ということまでは知っている。でも、マスコミとか芸能界とか、普通なら権威に対してアンチな立場に立つ人たちの中にも、だんだん権威の秩序ができちゃうんです。

ああ、小田嶋さんのアンテナはそっちの方にもすごく敏感に反応されますね。なくてもいいところに権威つくりやがって、みたいな感じで。

森本:そういうことを言うのが彼なんですね。だから余計に面白いんですよ。余計に危ないのかな。本来ならそういう人たちを味方に付けてね、権威者ぶっているやつをやっつける、というのが一般的な構図でしょう。小田嶋はそこも許さないんですよ。だから面白い。

味方も友達も別にいらない、と思っていらっしゃるようですね。

森本:1人で戦う気なのかな。うん、それが小田嶋であり、反知性主義のほんとうの姿かもしれませんね。

日本人の「宗教への恐怖心」の理由

ちょっとお話が本から離れてしまいますが、日本人にとって反知性主義が理解しにくいというのは、それだけ宗教に対して距離感があるためだと思うんです。言葉を選ばずに言えば、「宗教を信じている人って、ちょっと怖い」みたいな。キリスト教に限らず、宗教全般に対する、恐怖心が。

森本:それはありますね。

なぜでしょう、どうお考えになりますか。

森本:1つには、「マインドコントロール」というか、「宗教を信じている人は、理性的な判断が結局できないんじゃないだろうか」と。進化論を否定しておいて、科学や歴史をどう考えるんだろう、みたいな。そういう怖さもあるでしょう。もう1つはやっぱり、自分の常識が通らないのでは、というか、違う論理と向き合うことへの恐れでしょう。ただし、例えばオウムのサリン事件だとか、ああいう宗教テロがあったからだというふうには、あまり僕は感じない。

私もそう思います。我々の持つ宗教への不安感とか恐怖感とか、近寄りたくないなという感覚って、昨今の出来事以前から、もっと土着的にあるような気がします。

森本:それはね、日本社会が成熟しているからなんだと思いますよ。日本社会って本当に知的にも、文化的にも、社会的にも、インフラ的にも成熟した社会です。だからそんなに簡単に、新しいものに魂を持っていかれないわけ。

えっ、そうですか?

森本:アメリカというのは、そういう意味では若い国で、それこそ開拓時代だと何もなかったわけですよね。そういうところから何かをつくっていくには、建設のビジョンが必要なんです。キリスト教に限ったことではありませんが、宗教はそういう理念形成の力を提供してくれます。

そうか、更地だから目標や理念がいる、宗教はそこにハマるのか。

森本:日本の仏教だって、新しい国家が生まれ、揺らいで新しくなるとき、大化の改新とか、内乱があった頃に……

ああ、確かに。大仏建てて、国分寺造って、みたいな感じで。

森本:そうそう、宗教はああいうふうに機能するわけですよ。社会に秩序を与えて、建設のビジョンを与える。そういうときに出番が来る。だから日本でも明治の初めにキリスト教が躍進しました。新しい社会になったけれど、どう振る舞ったらいいか分からない、既存の秩序が消えた時に、新しい秩序を見せてくれる。

なるほど。

森本:それから、戦後すぐですね。マッカーサーが来て、アメリカの軍隊が来て、世界がアメリカ化して見えてきた時代。でも民主主義って体験したことがないんだから、ほんとのところ分からないわけですよ。そういう時に宗教って広まるんですよね。

古くなったOSが書き換わるみたいな時に、ですかね。

森本:そうそう。その最初のころに必要なんです。
動いているOSは、無理に書き換えなくてもいい

ああ、なるほど。自分自身のOSを書き換えるのって、既存のOSのアプリケーションにしてみたらうれしいわけがないですものね。「俺が消えちゃう」みたいな。

森本:そうですね。そして、日本社会はある程度古いOSがちゃんと機能しているわけですよ。

なるほど。

森本:成熟して枯れたXPがあるのに、何でVistaなんか入れなきゃいけないんだと。

確かに(笑)。

森本:僕は「8」が本当に嫌いなんだけど。だって「7」がちゃんと機能しているんだからね。

そうですよ。私も、7から絶対に移行したくないですよ。

森本:そうするとね、やっぱりいらないんじゃないの、別にそんな、新しいからって、というふうになりますよね。

なるほど、それが日本人か。それで言うと、例えば先生、あれですか、私がキリスト教に回心しなくても、別にいいよ、と思っていただけますか。

森本:それは、宗教的に言うと、人間のビジネスじゃなくて神様のビジネスなんですよ、最終的には。他人が回心するかしないかなんて、僕の知ったことか、というかね(笑)。

知ったことかと言われました(笑)。

森本:何でかというと、それは実存の問題だから。僕にとって僕の人生はとても深刻な問題じゃないですか。だけど、他の人が救われようが救われまいが、別に僕には関係ないわけですよ。そして、山中さんが回心するとしたら、それと同じくらい山中さんにとってそれが自分の真剣な問題になった時です。

まあ、それはそうですね(笑)。

森本:だから、どんなに一生懸命に広めようと思ったって、本人にその機が熟さない限り、無理に広めることはできないんです。

それをやると、リバイバリズムの負の面になっちゃうわけですもんね。回心する人を効率的に増やすことに意識が向いて、どんどん単なるビジネスになってしまう。

日本の「半知性」主義

森本:回心というのは、本人の準備ができた段階で自然になるんです。機が熟するには、人間の時じゃなくて、やっぱり神の時がある。もしかしたら、山中さんが60歳になった頃に、突然そういう時が来るかもしれないんだから、それまでは救いようがありません(笑)。

ちょっと安心したところで(笑)、先ほど、日本社会は成熟しているというお話がありましたが、一方では、本当の意味で自分の頭で考える「反知性主義」よりも、既存の権威を護持する方に回りやすい風土もあるわけですよね。

森本:竹内洋さん(社会学者、京都大学、関西大学名誉教授)とこの間対談したんだけど、竹内先生がおっしゃるには、日本にはハン知性…半分の半ね。それしかないんだって。

半知性(笑)。

森本:日本には。筋金入りの知性主義もないから、筋金入りの反知性主義もない。半分だけの生ぬるい知性主義しかないんだ、というのが竹内先生の見方です。

社会が成熟しているという部分と、半分の知性しかないということは矛盾しないのですか?

森本:なぜかというと、一般の知性のレベルが高いから。

平均点は高いけれど、抜きんでる人があまり出てこない?

森本:粒が立たない。というか、立つ必要がない。社会が成熟しているので、知的にも成熟しています。一方で、それゆえ日本は権威の構造がかっちりでき過ぎてしまった。だから、反権威という意味での反知性主義がなかなか育ちにくいんだと思いますよ。すでにあるものを踏襲してゆけば、そこそこいいものができるから。

ああ、なるほど。「師匠と同じになる」ことが、日本の学問とか武術という、いわば「道」の在り方で。

万人に「破」「守」の可能性を信じる

森本:「学ぶ」は「まねぶ」ですから。「道」はほとんど宗教です。デュルケムの宗教社会学的な理解から言うと、宗教に神が出てくる必要はないんです。何ものかへの献身があれば、それは立派な宗教です。

 でもね、昔から、「守破離」と言うでしょう。最初は師匠の教えを守って、その次に破って、そこから離れて自分の道を行く。つまり日本にも、「師匠を超えろ、違うことをやれ」という考え方はしっかりある。ただしそういうのは本当の、ものすごくできる人の話なのです。
誰もかれもが守破離ができるわけじゃない。それはそうですね。でも、反知性主義は、まさに「誰もかれも、“破って”“離れる”べきだ」というお話なのではありませんか。

森本:そうです。誰でも出来るわけじゃない。でも、「破」や「離」の可能性がいつでもある、ということを見せてくれる人たちが米国にはいるんです。その代表例がリバイバリストの伝道者たちでした。自分はただの平凡な人間かもしれないけど、「新しい時代の根拠がここにあるんだ」と信じられたら、もはや誰も恐れない。大統領だろうと大学者だろうと。
 その平民の伝統が、米国のダイナミズムの底流にある。そういう面では、反知性主義はまさに米国の活力の象徴だし、表層的には、キリスト教が自己啓発セミナーだか宗教だかわからなくなっている状況の原因にもなっているわけです。

うーん、日本だと確かにこの考え方は難しいですね。だって、「世の中ではこう言っているけど、これ違うんじゃないかな」と、仮に何かのジャンルで思ったとしても、「私がそれをちゃんと世に問うにはまだまだ力が足りない。もっと勉強してから」なんて、ついつい謙虚に考えてしまいそう。

森本:そうなっちゃうんですよ。でもこの人たちはやっちゃうんですね。平気なんだもの。だって、俺は神様に「うん」と言ってもらったんだから、そんなほかの権威なんかどうでもいい、というふうになるんですよ。

そういうところに、日本人はちょっと「ついていけない」と感じるのかもしれません。しかし、キリスト教が、自己破壊による革新を是認するというのは、いわゆる宗教改革の、ルターだカルヴァンだ、という頃からそうだったんですか。

森本:ルターだのカルヴァンだのじゃなくて、もう、ずっと初めからです。

え?

森本:だってイエスというのはそもそも反権威なんですよ。

うっ。

森本:イエスというのはその当時の宗教をぶっ壊した人なんだから。ユダヤ教の巨大な権威の塊があったわけですよ。律法学者だのパリサイ人だの。でも、「あんた方のやっていることは神様の言っていることと違うんですよ」というのがイエスのメッセージでしょう。

よく考えるとすごいことを言っていますね。

森本:とんでもない反宗教なんです。それはお釈迦様でも同じなの。お釈迦様というのは、古代バラモン教の階級社会に生まれて、それでも「宗教は高位高僧のものじゃなくて、一般の人々のためにある」といって、ご自分の教えを説いたわけですから。そして下層の人たちがそれを受け入れるようになっていったんです。ここは初期キリスト教の発展とまったく同じです。

そうか、世界宗教って、既存の宗教の破壊と革新から始まっているわけですね。

森本:そうです。だから、新しい宗教は主流(チャーチ)へのカウンター、つまり分派(セクト)として出発するんです。だけど、やがてそれでマジョリティになると、自分もチャーチになっちゃうわけ。

そしてチャーチは必ずまたセクトを生んでいくと。

森本:カトリック教会だって、はじめはずっと迫害されていて、ようやくローマ帝国の公認宗教になったんですが、気がついてみたら自分が弾圧する側に。それでプロテスタントが生まれるわけです。ところが、そのプロテスタントもマジョリティになると、そこからまた反発が生まれる。

ピューリタンが出て、そのピューリタンが新大陸で主流になったら、今度はバプテストが出て。

森本:そうそう。

米国憲法にもビルトインされた「反知性主義」

しかし、それにしたって、そんな反知性主義をベースに置くアメリカってどこかおかしくないですか。「国を挙げて、宗教を挙げてセクト是認」って、何というのか、そもそも国や宗教として矛盾してるのでは、という気もするんですが。

森本:うん。その「セクト是認」「異論反論上等じゃねえか」というのを、国の文化や社会システムに組み込んだということが、アメリカという国の大きな特徴なんですよ。

そうか、そういうことですね。

森本:そう。だからアメリカの連邦制だとか政教分離だとかのシステムは、政治だけを勉強していたのでは理解できないんです。その根っこにあるのが、この反知性主義的な考え方なんです。

本の中でも語られていますが、例えば米国人の中に伝統的にあるという連邦政府への不信感も、この視点から見れば納得できます。

森本:米国の憲法制度をみても、「権威に対する反発」が、しっかり組み込まれています。自分たちがやってきた異議申し立ての方法をシステム化したらこうなりました、というのが、米国の憲法なんですよ。そしてその憲法や権利章典は、二百数十年続いてメジャーな変更がないアメリカ国家の根幹なんです。


キーパーソンに聞く
日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。


 



   
 


     


  拍手はせず、拍手一覧を見る






コメント
 
01. taked4700 2015年4月26日 10:46:46 : 9XFNe/BiX575U : atj6bwJU2M
なぜ、「反知性主義」で、「反権威主義」ではないのかが問題のはずです。

>「反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。


と言っているのに、なぜ、


>「権威に対する反発」


という形でまとめられてしまうのか、それが疑問です。


>信仰によって「既存の権威に、たったひとりでも敢然と立ち向かう」ということですから。反知性と言いながら、新しいものが生まれる可能性が高くなる、という意味では、知性にとってもプラスなんです。反知性主義がないと、宗教や学問はもう伝統墨守になっちゃうわけですよ。昔ながらの権威を教え戴いているだけで、何も変わらない。


>アメリカというのは、そういう意味では若い国で、それこそ開拓時代だと何もなかったわけですよね。そういうところから何かをつくっていくには、建設のビジョンが必要なんです。キリスト教に限ったことではありませんが、宗教はそういう理念形成の力を提供してくれます。


と言う事の方が重要で、「伝統」の中から生まれてきた「権威」に対して、「いや、自分の考えの方が正しいし、自分のやることに文句を付けられるいわれはない」というのが「反知性主義」のはずです。


単に「知性」の対立であれば、事実がどちらかに軍配を上げ、どちらの知性が正しいか、どちらの知性を取るべきかは、ある意味、話し合いで、または理性的に平和的に決めることが出来ます。


アメリカの問題は、知性の根本にある感性、感覚、宗教と言った次元から、既存の権威を否定する動きがあることです。だからこそ、進化論の否定がごく日常的にされるのです。


アメリカの問題点、それは、自己肯定があまりに強く、「風と共に去りぬ」のスカーレットのセリフ


「神にかけて、二度と私は飢えることはない、たとえ盗み、殺しをしなければいけないとしても、二度と飢えることはない。」


に典型的にあらわされている考え方です。


アメリカのプロテスタントの特徴は、プラグマティズムに裏付けられた個人主義であり、本来の保守である伝統や歴史に裏付けられた権威に依拠するのではなく、常に未来志向であることです。


だからこそ、「風と共に去りぬ」では
「明日は別の日」
でしめくられているのです。


「反知性主義」は、ですから、伝統とか歴史に裏打ちされた知性ではなくて、自分自身の感覚に基づいた論理と合理性に基づいて将来を作っていくことが正しいのだとする主義だと言う事ではないかと思います。

拍手

自分を見るより外界を見ろ

どうでもいいようなことから先に書くが、「順調満帆」ではなく、「順風満帆」である。
さて、「自分と向かい合う」というのは、若者のほとんどが、一人になった時にはいつもやっていることで、私は、それは不毛な行為だ、と思う。
どんなに軽薄な、周りに調子を合わせているだけのように見える人間でも一人の時はいつも自分と向かい合い、悩んでいるのではないか。まあ、チンピラ、不良、DQNは必ずしもそうではない、と思うが、普通の若者のほとんどはそうだろう。要するに、いつも「仲間」とつるんでしか行動しない連中(チンピラ、不良、DQN)は、動物の一種にすぎない、ということだ。
それはさておき、自分と向き合うことを日々若者は行っている。だが、問題は、これが実に不毛な行為ではないか、ということだ。答えの無い問題を解くようなものだ。考えれば考えるほど、何が正解か分からなくなり、ノイローゼ状態になる。これが、自分と向かい合うことがしばしば導く結果である。
それよりも、何かに打ち込むことだ。スポーツでも勉強でも、女の子(男の子)でもいい。そのどれでも、「自分を見つめる」という不毛な行為よりは、はるかにいい。これらの行為は「相手のある行為」であり、「風を捉える行為」ではない。相手があるから、「物理的抵抗」(現実的抵抗)がある。その抵抗克服、問題解決の行為が、自分を成長させるのである。若い日に「自分を見つめる」ことしかしなかった人間は、ろくな哲学者にもろくな文学者にもなれないだろう。ましてまともな社会人にはなれないだろう。(哲学者や文学者は、「まともな社会人」ではない。)
それは、若い頃に自分の心の中を見つめることばかりやっていた私がよく知っている。


(以下引用)


さんがリツイート

若者よ、一ついいことを教えよう、 「日々の生活が順調満帆になり、心に余裕がたまり、しっかりと自分と向かい合える時間」 というのはいつまでたっても来ない、今、向き合うしかないぞ。

拍手

イエスの思想と日本国憲法第9条

「播州武侯祠遍照院」所載の「マドモワゼル愛の日記」を転載。
現在のキリスト教がユダヤ教に乗っ取られているということは、私も「革命者キリスト」という古い小論の中で書いているが、その考えは現在、かなり多くの人が言っているようだ。
で、本来のイエス・キリストの思想は新約聖書の中にしか存在しないのだから、教会など、キリストの教えを捻じ曲げるために存在するようなものである。キリストの思想は、各自が新約聖書を読み、各自が自分の頭で解釈すればいいのである。
その思想の中でもっとも重要なのは「汝の敵を愛せよ」だろう。(これは、トルストイが指摘している。)
これはすべての闘争をこの世から消滅させる究極の思想だが、これほど実行困難なものは無い。我々が他者を「敵」と「味方」に分けるのは、ほとんど動物的な本能に近い。そして、その動物的本能から脱却しなければ、この世から闘争が消えることは無いのである。
しかし、それを、こと国と国との問題に限定すれば、この世に実現する方法はある。
それが、「日本国憲法第九条」という奇跡の憲法だ、と私は考えている。
日本で実現可能だったことが他の国で不可能なはずはない。



(以下引用)



 嬉しい予定(マドモアゼル・愛の日記)
 http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?no=1646

 (前略)

 話は変わりまして、なぜかこのところ、聖書の中のイエスの言葉を思い出すことが多くなっています。

 教会の教理とイエスの言葉の違いに違和感を覚えたことが昔からあって、自分勝手にイエスの言葉を読んできたのですが、ドストエフスキーも獄中で聖書を精読したらしいのです。

 そして、イエスほど暖かで素晴らしい人間はいない、、、というような感想を語っていたと思う。

 私も昔からそう思っていて、結局、今の時代というか、この二千年の間、キリスト教は広く世界に広まったものの、本当のところのイエスはむしろ隠されてきている、、、、ことを実感しています。

 素晴らしいものを乗っ取り、その名を借りて悪事を働く、、、、

 そうした構造がこの二千年間の隠されたスタイルだったと思うのです。

 美辞麗句、言葉だけ、スローガン、イメージ、、にだまされてきた二千年。

 イエスをもう一度復活させることはとても重要な気がします。

 そんなこと私ひとりにできるわけはないのだけど、それぞれのイエスがいてもいいと思うのです。

 私が知ったイエス、、、私が感じたイエスを、聖書のイエスの言葉から探っていく試みを機会があるごとにやってみたいと思います。

 時代は何を壊そうとしてきたのか、、、、それは、魂の喜びであり、生きがいであり、感動だった気がします。

 魂の感動をスポーツの感動に置き換え、魂の喜びを怠惰な喜びに格下げさせ、愛を低俗な欲求に変えさせて、、、、時代を支配する方法。

 それがピークに達した印象があります。

 そのためには、イエスを奪う必要があったのでしょう。

 東京カテドラル教会ができた時、私はこれが教会なのか、、、と内心で驚いた記憶があります。

 まるで刑務所の中のように思えたからです。

 古い木造の教会は壊され、近代的な鉄筋の教会になっていった、、、、すべての魂のふるさとを違った感動のないものに置き換える作業が、おそらく意図的に行われていたように感じられます。

 その根本は、イエスの抹殺だったという直観。

 大したことは言えないとは思いますが、私が感じたイエスを語りたい、、、、そんな思いがふっとわいてきました。

 イエスの語った内容はほとんどが逆説です。

 この世の苦しみは反対の喜び、、、この世の喜びは何か大事なものを捨てているという構造。

 悲しんでいるものは幸いである、、、彼らはなぐさめられるであろう、、、

 山上の垂訓の一部ですが、イエスの言葉にあふれるやさしさ、愛、逆説の人生観、、、それは本当に素晴らしい人情であり、真理だと思われます。

 人間イエスに迫りたい、、、なんだか不思議な思いがわいてきましたので、いつとは言わず、ことあるごとに語らせていただくことにいたします。

 どうかよろしくおねがいいたします。

 イエス?  なんだかつまらない、、、、とお思いの方も多いと思いますが、ちゃんと話せば本当に面白いんです。

 あくまで私のイエス像ですが、読んでいただけたら幸いです。

(以下略)


拍手

カレンダー

07 2025/08 09
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析