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30秒で分かるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違い

これ、すごくうまい説明だと思う。
特に「三位一体説」の無茶苦茶さがよく分かる。(笑)


(以下引用)


85:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/10/24(金) 01:30:19.95 ID:LfJsVWff0.net


モーセ
「超厳しい神は正しいユダヤ人だけ救われるゆうてたで。正しいユダヤ人とは
ユダヤの血を引いている=他民族はダメ
&儀式をちゃんと実践している=戒律の行事を守れない貧乏人はダメ

ユダヤ教徒「モーセは神の声が聴ける奴やで。キリストは神の声が聴けるとか言ってるキチガイやで」

キリスト「神って案外優しかったで。俺が新しいルール聞いてきたで
ユダヤ人以外も可。儀式しなくても神様信じていいことしてれば救われるんやで

キリスト教徒「キリストは神の子だし神の使いだし神そのものやで」


ムハンマド「神様はやっぱり厳しかったで。悪いことしたらめっちゃ怒るで。
でも神様信じていいことしてれば何人でも救ってくれるで」
イスラム教徒「モーゼもキリストもムハンマドも神の声が聴ける人間やで」

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愛とは何か

晩酌をしながら読書をし、その本の中で得たヒントを基にしての思索だから、酔っ払いのたわごとであることは最初にお断りしておく。

大野晋の自伝的随筆「日本語と私」の中に、北条民雄の「いのちの初夜」の一節があり、そこにらい病患者のうめきが書かれている。「同情はいらない、愛情がほしい」と。
さて、らい病患者が愛情を求めることは妥当だろうか、というひどい質問が、私からの問題提起である。らい病患者には限らない。はたして、人は他人に愛情を要求できるのだろうか。そもそも、愛情と同情の違いは何か。
数刻前に、ディケンズの「大いなる遺産」の前編を読み終えたところなので、その中の一節を引用しておく。

「ほんとの愛とはどんなものか、おまえにいってあげよう」と、彼女はおなじ早口の熱情的なささやき声でいった。「それは盲目的な献身です。疑うことを知らない自己卑下です。絶対的な従順です。信頼と信仰です。おまえ自身にそむき、全世界にそむいて、おまえの全身、全霊を、おまえを打つものにゆだねてしまうことですーーちょうど、わたしがそうしたように!」

で、私は、結婚式の直前に婚約者に裏切られ、それ以降の時計をすべて止めた、このミス・ハビシャムとまったく同意見なのである。そうでない愛など、ただの計算にすぎない。
とすれば、他人に愛を求めることが本来的に不可能であることは論理的必然だろう。

「愛のおのずから起こるまでは、呼び、かつ覚ますことなかれ」

という旧約聖書の「雅歌」の言葉は、永遠の格率(従うべき規範)なのである。
愛とは、呪いであり、理不尽な運命なのである。

ちなみに、「同情」と「愛情」の違いを言えば、「同情」とは、自分がその立場にいない者からの「優越心」を背景とした慈善的感情である。つまり、「同情する私は上」「同情されるあなたは下」という上下関係が絶対的前提としてあるから、世間の大多数の人間はあれほど同情されることを嫌うのである。それも、結局は「自分を価値ある存在と看做したい」というくだらない自尊心や自己愛の将来するところでしかないのだが、そういうちゃちな「プライド」は案外、多くの人の共感を呼ぶようだ。つまり、それほどに人間の自己愛というものは度し難い、ということである。













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ノビタイズム

某サイトから転載。
76の「のび太思想」は、私が競争社会を否定する論理と同じである。
もちろん、競争の結果、社会や文明が発展するが、その発展して得られた「便利さ」や娯楽というものにどれほどの価値があるのか、私には疑わしい。テレビが無ければ、空を見上げ、青空や雲や星空の美しさを楽しめばいいし、音楽がなければ虫の声や小川のせせらぎ、風の音を楽しめばいい。小説が無ければ、自分自身の空想を楽しめばいい。文明や文化の産物など、一種の麻薬でしかないとすら思う。
そして、競争のもたらす害悪ときたら、人生の苦悩のほぼ半分以上を占めているだろう。


(以下引用)




70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:32:09.37 ID:5SOvcUUR0

のび太名言集

少しは、いたずらに使ってもいいじゃないか。
ゆめのない世の中だなあ・・・。
平らな山ならいいんだけど・・・。
からだを切りはなすのこぎりとか、またつなぐセロテープとか。
ロボットのヒステリーはみぐるしいものだなあ。
ダンゴみたいな手でよくダイヤルできるね。
あきらめのいいところがぼくの長所なんだ。
もう少しうまくなってから練習したほうが・・。
地球に引力があるから悪いんだ。
同じことなら、やらずにねる。
今もってる自転車はきらいだ!乗れないから。
こんなにこまってみせてるのに。
心あたりは、いつでも無数にあるよ。
あしたのぼくにやらせよう。
いや、やれるはんいでがんばるぞ!
ぼくがジャイアンくらいに強くて、ジャイアンがぼくくらいに弱かったらやるんだけど。





76 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:35:26.81 ID:zJ5zdf/40

>>70
ぼくには、自分さえ成績があがればという考え方がどうしてもできないんです。
かりに…頭のいい子ばかりのクラスがあったとして……。
そのクラス全員が必死に勉強したとしてもテストをすれば…、かならず順番がついてだれかがビリになる!!だから…だからぼくがぎせいになって0点を…。
世の中にこんなバカが一人ぐらいいてもいいんじゃないでしょうか。





85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:39:57.03 ID:Ao9RIBNT0

>>70
涙出た




73 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:34:05.28 ID:U/DDiYtHO

ドラえもん「人は外見ばかりじゃない、中身が大切だ。もっとも君は中身も悪いけど……」

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気が飢える、ということ。

体制側にいること、権力擁護側にいることは、ほとんどあらゆる面で利益が得られるが、逆に体制批判者でいることはあらゆる面で不利益になる。
では、なぜ体制批判者でいることを選ぶ人間がいるのか。それは、権力による悪がのさばるのが許せず、権力の飼い犬である生き方を汚らわしく思うからである。
どんな利益が得られようが、自分自身が汚物になるような生き方を選ぶことはできない、という人間もいる、ということだ。それは経済合理性から言えば「賢くない」生き方だろう。しかし、人生は経済だけで満たされているわけではない。何よりも大事なのは、「気持ちのいい」生き方をすることだ。
勝海舟の「氷川清話」の中に、「気が飢える」(「飢」の漢字は別字だが、「飢」と同じ意味だろう)という言葉があるが、自らに恥じる生き方をしていると「気が飢える」のである。体と同様に、気も飢えるのだ。この「気」を「正気(せいき)」と言う。
御用学者や御用マスコミ人として生きれば、経済的報酬は大きいだろう。そのほかにいろいろ社会的な便宜も得られ、高い地位も得られるだろう。だが、あなたたちは、自分の気が飢えているとは感じないだろうか。




(以下引用)


fromdusktildawn @fromdusktildawn  ·  18 時間

私の場合、日常の仕事でも生活でも慰安婦のことが話題になることは皆無なんだけど、テレビでも新聞でもネットでも慰安婦の話題をよく目にするのはなぜなんだぜ。この落差はなんなんだ?

 

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「愛敵」という思想の困難さ

「シンジの”ほにゃらら”讃歌」から抜粋転載。
「HUNTER×HUNTER」という漫画(およびアニメ)における、メルエムというキメラアント(蟻と、人間その他の生物のキメラ)の総帥(王)の死について書かれた文章の一部であるが、その文脈は度外視して、この部分にはユダヤ教とキリスト教の最大の相違が明確に書かれているかと思う。トルストイも言っているが、「愛敵」という思想はキリスト教の深奥であり、それが可能になれば、地上のあらゆる争闘は絶滅することになる。
実際には、キリスト教徒を自称する連中も、この「愛敵」の思想を持つ者はほとんどいないのはご存知の通りだ。そして、ユダヤ教となれば、「ユダヤ教徒以外は皆敵であり、家畜同然だ」という思想が根幹にあることはよく知られている。それを疑う者は旧約聖書を読めばよい。べつに門外不出のタルムードなど探すにも及ばない。ユダヤ教が旧約聖書をその思想の根幹に置く限り、彼らは世界の敵とならざるを得ない。(ガザにおける虐殺は、相手がイスラム教徒でなく、キリスト教徒であったとしても成立可能なのである。そのことを世界は知らねばならない。)
さて、メルエムは人間の悪辣な策謀により死に至るのだが、最後に彼はすべてを許し、コムギという名の人間の少女の手に抱かれて死んでいく。その死の姿は実に神々しく、「シンジ」氏が、メルエムはイエスである、と述べたのも頷ける。(私はアニメでしか知らないのだが。)
はたして人類は、このメルエムのように敵を許し、敵の一族を愛することができるだろうか。


(以下引用)




スピノザはキリスト教において重要なことは二つしかないという。それは神への愛と隣人愛である。そして神への愛を証明するのは隣人愛しかないという(神学政治論)。では隣人愛とはなんだろうか。隣近所の人を、知人や友人、家族を愛せということだろうか。辻学「隣人愛のはじまり」はそういう考えを根底からひっくり返す。 ー イエスは隣人愛に批判的だったというのだ。

それを如実に示すのがルカによる福音書の有名な良きサマリア人の話だ。

ある日ユダヤ教の律法学者がイエスを試そうと論争を挑む。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいでしょうか」。イエスは冷ややかに「律法には何とかかれていますか」と質問をかえす。律法学者は「神を愛し、隣人を愛すことです」と答える。もともと隣人愛の教えはユダヤ教から来ている。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいーレビ記19・18

イエスはいかにもめんどくさそうに「ああ、あなたの言ったことはあってるよ」と律法学者を追い払おうとするが、律法学者は食い下がり「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くとついにイエスはブチ切れるのだ!

道ばたに強盗に襲われ半死半生の人が倒れている。そこをユダヤ教の祭司が通りかかったが、無視して行ってしまった。もう一人ユダヤ人がそばを通りかかったが彼も無視して通り過ぎた。だが、通りすがりのサマリア人だけは倒れた人を介抱してやり、宿屋に泊めその代金まで支払った。この三人の中でいったい誰が倒れた人の隣人か?と問うイエス。律法学者はしぶしぶ「その人を助けた人です」と答える。

なぜイエスはサマリア人という具体的な民族をあげたのか。当時サマリア人はユダヤ人に蔑視され差別の対象となっていた人たちだからだ。

ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」

ユダヤ教徒は隣人愛を説きながら現実にはサマリア人を、収税人を、娼婦を徹底的に差別していた。イエスにとってユダヤ教の隣人愛とは、愛の範囲を限定する許し難い考えでしかなかったのだ。そこでイエスは隣人愛を批判し、隣人愛の範囲性を打ち砕く究極の思想を説く。それが「汝の敵を愛せ」という思想ー「愛敵」である。

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。ーマタイ5・43ー44

愛敵はまさに隣人愛の範囲性を木っ端微塵に打ち砕く。イエスにとって愛する対象を限定することは馬鹿げたことでしかない。自分の友人や家族を愛することは悪人でもできることではないか。愛の範囲性を無化する愛敵という破壊的な思想。しかし愛敵とは果たして可能なのだろうか。マーティン・ルーサー・キングは愛敵を「おそらくイエスの訓戒の中で「汝の敵を愛せよ」という命令に従うこと以上にむずかしいことはないであろう」という。

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ヤハヴェが命じれば善、「リン将軍」が命じれば悪

「逝きし世の面影」から、ほぼ記事全文を転載。
長文なので私の前説は省略するが、非常に面白い内容である。
正義の観念というものが「内」と「外」では異なるのはよく見られるが、宗教の場合はこれが極端な表れをするわけだ。最後に書かれている、「リン将軍」という実験は、この事実を実に明確に示した素晴らしい実験だと思う。こうした記録というものは、学校などで多くの子供に伝えるといい(そうすれば、偏りの無い心を持った子供が育つ)と思うのだが、そうすると逆に、「偏向教育」だ、という非難が起こるのだろうなあ。(サイモン・ヴィーゼル・センターがすぐさま嗅ぎ付けて。w)まあ、学校教育では「自ら考える力」を持つ子供を育てるような社会教育はまず無理だろう。


(以下引用)



『度重なるイスラエルのガザ侵攻の理不尽』

マレーシア機が撃墜された7月17日の夜にイスラエル軍がガザに侵攻してハマスとの間で本格的な地上戦に突入したが、これは5年半前の2008年12月末から2009年1月中頃まで続いていた大規模侵攻の再来である。
しかし今回のイスラエル軍の侵攻ですが、前回とは違い出口がまったく見えないのです。解決策が無いのですから前回以上に戦闘が長引くのは確実な情勢である。
(5年半前08~09年にガザに侵攻して1,166人を虐殺している。対してイスラエル側の死者は13人だった)
常に『100倍返し』を信条とするイスラエル軍ですが今回は5年半前の4倍の損害を出している。
田中龍作ジャーナルでは、
『特筆すべきは戦死したイスラエル兵士の年齢が若いことだ。IDF(イスラエル軍)や「エルサレムポスト」などによると、戦死した兵士の年齢は18~23歳が目立つ。経験が浅ければ死ぬ確率も高くなる。』
『イスラエル軍も消耗しているのではないだろうか。』と書いている。
周りを完全に封鎖されて7年間も経っている。屋根の無い監獄であるガザに閉じ込められたパレスチナ人ですが閉塞感や絶望感は想像を絶する。最早人間としての我慢の限界に達しているのでしょう。

『全ての不幸(殺戮と破壊)は旧約聖書に由来している』

2000年以上前に書かれた『旧約聖書』の記述をほとんど唯一の根拠として、欧米の白人系ユダヤ教徒(アシュケナジー)によって中東のパレスチナの地に人工的に建国された宗教国家が、『イスラエル』と言う名の紀元前の古代国家と同名であるが、勿論数千年前のアラブ人のセム族のユダヤ人国家とは何の関係も無い。
この『ユダヤ教』という宗教によって作られた『国家』(イスラエル)ほど、パスカルの『人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない。』という言葉の正しさを証明して見せているものはない。
現在ガザで行われている悲惨で愚かな蛮行の出発点、根本原因とは何か。?
それは、猛烈に不愉快な『一つの神』を持つ一部族の『カルト』だったユダヤ教と、そのカルトの教義を記した『旧約聖書』にその原因の本質があった。

『旧約聖書とは何か』

旧約聖書とはユダヤ教の教典で有るばかりでなく、欧米世界で最も影響力が有るキリスト教の教典でも有る。
キリストの事跡を書いた新約聖書はパージ数にして少なくパンフレット程度であり中身が薄い。分厚い書物であるいわゆるバイブル(聖書)の大部分はユダヤ教の経典の旧約聖書なのです。
2000年以上も骨肉の醜い争いをしているユダヤ教とキリスト教の違いとは、イエス・キリストの存在を認めるか認めないかだけ。これは信じる宗教の中身は同じだが池田大作の権力の有る無しで何十年も大喧嘩している創価学会と日蓮正宗(本山)との関係と同じである。
『旧約聖書』の、病的ともいえる悪行を為す残忍な鬼畜のような『神』(ヤハウェ)の存在抜きにして今のイスラエルの蛮行を説明するのは難しい。
『偽書』
人類の歴史には出処の怪しげな文章が突然に見つかり、発見者の立場を強力に支持するような重要な情報をもたらしてくれる。
しかし、入念に、時には勇敢に調べてみると、その文章は贋作で有る事が判明する。
でっちあげをする側の動機は非常に判り易く、旧約聖書の申命記がその典型と言えるだろう。
この文章は、エルサレムの神殿に隠されていたところを、紀元前7世紀にヨシア王によって発見された事になっている。
宗教改革闘争のさなかにあったヨシア王は、自分の考えを全て支持してくれる新しい聖書の部分(申命記)を奇跡的に発見したと言うわけだ。

(旧約聖書・申命記 7章1-4)
『お前たちの神がこれらの民をお前たちに与え、それをお前たちが征服するときは、彼らを徹底的に破壊するのだ。
彼らを相手にしてはならない。憐れみも掛けてはいけない。』 

旧約聖書の『ミカ書』は『正義を行い、慈しみを愛せ』と教えている。
『出エジプト記』には、『殺してはならない』と書いて有る。
『レビ記』には、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』と書いて有るし、『福音書』には『汝の敵を愛せ』と教えている。
このように良き教えが沢山書かれていると人々に信じられている『聖書』の教えを奉じる者達が、どれほどまでに多くの血の海を作ってきたかも聖書には書かれているのである。
『ヨシュア記』や『民数記』の後半には、カナン(パレスチナ)全域で行われた大量殺戮の事が記されている。
町という町で、男ばかりか女子供、はては家畜までが皆殺しにされるという出来事が、さも嬉しそうにすばらしい事として書かれているのだから驚きだ。基本的に無茶苦茶なのである。
エリコの町は『聖戦』の為に跡形も無く破壊された。
『ヨシュア記』には、
『息の有る者はことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられた通りであった』
この大量殺人の理由はただ一つ、殺した側(ユダヤ人)のこんな言い分だけた。
『遥か昔に、神は我等の先祖に約束された。息子に割礼をほどこし、一定の儀式を執り行うならば、この土地を我等に下さると』。

(士師記 21章10-24)
そうして彼らは1万2千の兵士をヤベッシュ・ギリアッドに送り、女子供も含め、そこの住民を皆殺しにしろと命令した。
『これがお前たちがやることだ』彼らは言った。『すべての男たちと処女でないすべての女たちを殺せ』。

(エゼキエル書9章5-7)
それから私は神が他の男たちに言うのを聞いた、『町まで彼について行け。そして額に印が無い者たちはすべて殺すのだ。情け容赦するな。皆殺しにするのだ・・年寄り、女子供もすべてだ。しかし、印ある者には触るな。この寺院からお前たちの仕事を始めよ。』
彼らはまず70人の指導者たちを殺した。『寺院を汚せ!』神が命令した。
『庭を死体で埋め尽くせ。さあ行け!』そうして彼らは町中に入って行き、言われた通りのことをした。

(民数記第31章18節)
『民数記』は、神がモーゼにどのようにミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。
彼の兵達は、あっという間に全ての男を虐殺し、ミディアン人の全ての町を焼き払ったが、女と子供は殺さなかった。
部下の兵達がこの様に慈悲深い自制をはたらかせた事をモーゼは激怒し、全ての男児と、処女でない全ての女を殺せと命じた。
『女のうち、未だ男と寝ず、男を知らない娘は、貴方達の為に生かしておくが良い。』

(ヨシュア記第6章21節)
モーゼの時代に始まった民族浄化は『ヨシュア記』において血まみれの成果をもたらす。
『ヨシュアはエリコを攻めた。崩れ落ちる城壁・・・エリコの戦いにおける古のヨシュアにかなうものなんて無い』
いにしえのヨシュアは、イスラエルの民が『男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ロバに至るまで町に有るものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くすまで、休む事が無かった』。

聖書の物語における『神』と言う人格は、約束の地(パレスチナ)の占領に伴う大虐殺や民族殲滅について、何らかの疑念や罪の意識を感じていた形跡は全く無い。

『申命記』第20章における神の命令は、情けの欠片も無くあけすけである。
彼(神)は自分自身にとって必要な地に住んでいる人間と遠くはなれたところに住んでいる人間とを明確に区別した。
後者は平和的に降伏するように勧告しなければならない。
もし拒絶すれば、男は殺し、女は繁殖の為につれさられた。

この比較的人道的な扱いと対照的に、あまりにも不運な事に、すでに約束された生存圏(レーベンスラウム)に定住してしまっている民族に対しては、一体どんなことが用意されていたのか読んでみると、
『あなたの神、主の嗣業として与えられれる諸国の民に属する町々で息の有る者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。』

『旧約聖書は人間の尊厳に対する侮辱』

宗教があっても無くても、善いことをする善人はいるし、悪い事をする悪人もいるだろう。
しかし、善人が悪事を為すには『宗教』が必要である。
人間は、宗教的な確信を持って行っているとき以上に、完璧かつ快活に悪を為す事は無い。
旧約聖書で自らは『神』を名乗っている人格(ヤハウェイ )はユダヤ人にとっては『神』かもしれないが、ユダヤ人以外の別の民族にとっては神ではなく極悪な『魔物』か凶暴、残忍な『鬼畜』と解釈されても致し方ない性格を持ている。
もしオウム真理教が理想国家を建設し、半世紀にわたって超大国アメリカ合衆国の対外軍事援助総額の半分以上を独占して成長すれば、今日のパレスチナの悲劇は誰にでも当然予想された範囲内の事柄であろう。

『現代イスラエルの道徳観(宗教観)』

信者(内集団)だけに都合のいい神様で、人殺しを合理化する宗教は、歴史が有るか無いか、信者が多いか少ない等の違いがあっても、間違いなく(オウム真理教と同じような)破壊的カルト宗教でしょう。
旧約聖書の略奪や集団強姦や虐殺や民族絶滅を合理化するトンデモナイ鬼畜のような残虐な神は、大昔の架空の話で現在のイスラエルやイスラエル人とは全く関係ない』との意見も有るでしょうが、それでは今のイスラエル人の宗教教育(道徳教育)とはどのようなもので有るだろうか。?

『神は妄想である』宗教との決別 リチャード・ドーキンス(著)によると、
イスラエルの心理学者、ジョージ・タマリンの驚嘆すべき研究として下記の記述がある。
タマリンは、イスラエルの8歳から14歳までの生徒1000人以上に、『ヨシュア記』のエリコの戦いについての、下記の記述を紹介した。

ヨシュアは民に命じた。
『鬨(とき)の声を上げよ。主は貴方達にこの町を与えられた。町とその中に有るものは、ことごとく滅ぼし尽くして主に捧げよ。』
・・・『金、銀、鉄器、はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。』
・・・『彼等は、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ロバに至るまで町に有るものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした』
・・・『彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器。鉄器だけを主の宝物倉に納めた』

タマリンは、その後子供達に単純な道徳的な質問を行った。
『あなたは、ヨシュアとイスラエルの人々は正しい振る舞いをしたと思いますか?』
その答えは驚くべきものでA(全面的な是認)が66%の絶対多数。
B(部分的な是認)8%の少なさで、C(全面的な不同意)26%との二極分化した回答が帰ってきた。
次に示すのは全面是認(A)グループの典型的な三つの回答であるが、ヨシュアによる大虐殺を正当化するために挙げた理由は、何れも皆宗教的なものであった。

(1)
『私の意見では、イスラエルの人々は正しく振る舞いました。
理由はこうです。神は彼らにこの土地を約束し、征服する許可を与えました。もし彼等がこういうやり方で振舞わず、誰も殺さなかったとしたら、イスラエルの人々は異教徒に同化してしまう危険があったでしょう。』
(2)
『私の意見では、これをしたときヨシュアは正しかったと思います。
なぜかというと、イスラエルの民が同化して、そこにいた人々の悪い生き方を覚えることが出来ないようにするために、神が彼らを根絶やしにするようヨシュアに命じたからです。』
(3)
『この土地に住んでいた人々は異なった宗教を持っていて、ヨシュアが彼らを殺したとき、この宗教を地上から抹殺したのだから、ヨシュアは正しい事をしました。』

では全面的不同意(C)グループはマトモな判断をしていたのだろうか。?
次にその中から典型的な意見を紹介しよう。
いくつかの場合には、屈折した宗教的な理由から同意しなかったのである。

(1)
ヨシュアがエリコを征服するためには彼は町に入らなければなりません。
『私は間違っていると思います。だって、アラブ人は不浄で、もし誰かが不浄な土地に入れば自分も不浄になって、アラブ人にたたりを一緒に引き受けることになるからです。』
(2)
ヨシュアが動物や財産を含めてすべてを破壊してしまい、イスラエル人のためにその戦利品として残さなかった。
『私はヨシュアは正しく振舞わなかったと思います。動物は殺さないでとっておけば、後で自分たちの役に立てられたはずです。』
(3)
『私は、ヨシュアは正しく振舞わなかったと思います。彼にはエリコの財産を残すことが出来たはずだからです。もし彼が財産を破壊しなければ、イスラエル人のものになっていたでしょう。』

タマリンは面白い対照群として『ヨシュア記』を、内容を変えず名称だけ変えた同時代の中国に置き換えた『リン将軍の征服の物語』として、別のイスラエルの子供達に答えてもらった。
すると結果は正反対となり(A)全面是認はわずか7%で、75%の絶対多数が(C)の全面的な不同意と答えている。
大虐殺を非難する子供たちと、大虐殺を容認する子供達の間の、決定的な違いを作っていたものはユダヤ教と言う名の一神教『カルト宗教』であった。
『汝の敵を愛せよ』と言う、これ等宗教的な、内集団で通用する『道徳意識』は、外集団に対する『敵意』と表裏一体のものだったのです。


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良心の外部委託

「クレアなひととき」(「in deep」の管理人氏の別ブログ)から転載。
「神」というものについては、私は単純に、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」「人間が神を作ったのは、人間の中に『神性』があるからだ」と考えている。つまり、人間の中には野獣性もあるが、神性もある、という、当たり前の思想をしている。
これが当たり前でなくなるのは、「神が人間を創った」派の人々、たとえばユダヤ教やキリスト教の人々がこの世界には存在し、しかもその連中が政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも世界をかなり支配しているからである。
さらに、どういうわけか、もともとキリスト教徒のほとんどいない日本ですら、「外部の神(的なもの)」を信じる者はいる。つまり、自分の頭で考え、自分で善悪を判断する代わりに、「権威的なもの」に思考も判断もすべてお任せするわけである。これはユダヤ・キリスト教の信者と同じ精神構造である。
こうした「良心(あるいは良知、ボン・サンス)の外部化(外部委託)」というのは、生きる上ではなかなか便利なもので、たとえば兵隊などは、上官の命令があれば相手が武器を持たない農民や市民だろうが、女子供だろうが、平気で殺せるようになる。実はこれは会社員なども同じであり、上司や会社の命令であれば、法律に違反しようが、倫理道徳に反しようが、平気で実行できるのが「有能な人間」として会社などでは重用されるのである。


「神が存在しなければ、作る必要がある」(ヴォルテール)



(以下引用)




最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。

今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。


神とか、真理とかいうものがわれわれの「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、われわれ自身が「外」から縛られることになりますので、われわれは決して自由になれないのであります。

神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ、真理に従うということが、自己に埋められている神性をのびのびと外に出すことになるのであります。


これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、

> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない

ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。

世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、

> 神は「外」にいる

というような概念を持っていると思うのですよ。

これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。

神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。

上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。

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仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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