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「義は利の和」という言葉の一解釈

「正しい」とはどういうことか。
論理的な正しさなら客観的な判断はできる。道徳的・倫理的な正しさは、時代や場所で異なってくるから簡単には判断できない。というのがまず普通の認識だろう。いや、普通ではないかもしれない。世間の大多数は、論理的な正しさと道徳的・倫理的な正しさの区別もしないだろうし、自分の正しさについて何の疑いも持たず、それを主張するのではないか。
で、道徳的倫理的な正しさというものに普遍性は無い、という認識もまた困ったもので、そうなると道徳や倫理の基盤も失われてしまうことになる。
さて、今朝の眠りからの覚醒時の思考の中で思い浮かんだのが「義は利の和」という言葉である。これはたぶん「墨子」の中にある言葉のようだが、印象には残っていたが、同意はできなかった言葉であった。つまり、私は、「義と利を弁別せよ」という孟子の言葉の方が好みで(それは、義と利が対立する時は義を選べ、という、社会に処する際の峻烈かつ根源的な思想だ。)、「義は利の和」という言葉は「(自分にとっての)利を集積して生じる結論こそが正しい答えだ」みたいなものだと思われたのだ。だが、それを「自分にとっての」利ではなく、「多くの人にとっての」利だと考えれば、話はがらりと変わる。そして、その解釈の方が、墨子という思想家のキャラクターや中心的思想(兼愛非攻)にも合致しているのである。
ある問題に対する答えが、私には利益だが他人には不利益を与えるならば、それは「義」ではない。その答えが私にも他の関係者にも、ひいては、あらゆる人に利益を与える時に、その答えは「義」である、というのが「義は利の和」だとすれば、これはあらゆる問題を解決する、単純かつ便利な基本方針になりうるのではないか。
今日の「播州武侯祠偏照院」ブログに載っていたいじめ問題に関する記事の中で、「いじめられる方にも悪いところがある」「悪いところがあるからいじめられる」という考え方についての議論があったが、そもそも「悪い」とは何か、「正しい」とは何かについて、子供のころから考える習慣が無いからこそ社会的な悪がはびこるのではないだろうか。
自分の行為の前に立ち止まり、(それが正しいかどうか)ためらうという習慣があるだけで世間の小さな悪(これが、その被害者にとっては命にも関わるほどの巨大さになる。)の多くは無くなるのではないだろうか。

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悪とは何か、についての一考察

「in deep」の最新記事に引用されていた立花隆の文章だが、ここに、或る危険な思想の萌芽が在るような気がするので、とりあえず転載しておく。
第一の問題は、悪を欠陥状態と見ること。
第二の問題は、悪を無秩序状態と見ること。
第三の問題は、悪の撲滅のために全人類が総力を挙げて協働していかねばならないと結論していること。
である。これらは一見、まったく正当な考えに見える。そこにも問題はある(つまり、一見合理的な思想は、反論が困難であるために、世界にはびこり、結果的に別の悪を招来する、という問題。)が、それは措いておく。
また、人類によって宇宙レベルで自然を統御していくことを絶対的な正義だとする西洋的思考の問題点も措いておく。
また、立花隆という人物の過去の政治的問題(アメリカの手羽先となって田中角栄を引きずり下ろしたという出来事。この事件は、日本の属国状態を決定的にし、その後の自民党の在り方を悪い方向に変質させたかと思われる。)も措いておく。
で、上記三点についてなぜそれが問題なのか簡単に言う。
第一、悪は欠陥状態である、とするならば、それは容易に、欠陥状態を持つ存在を悪だと見做すことに転化しうるだろう。すなわち、ナチスの優生思想である。病気や障害は悪である、とするのは自然な人情だろう。だが、それは、その改善には病気や障害を持つ人間を消し去り、残る「優れた人間」だけで「素晴らしい新世界」を作ればいい、という思想になる可能性を持つのではないか。貧困は悪である、とするのも自然な人情だ。だがそれも、貧困者を救うのではなく、貧困者(劣悪な存在)を自然淘汰すればいい、という思想になる可能性があるのではないか。ネットに見られる、生活保護をやめろ、という意見は、貧困者(それは病人や障碍者であることも多い。)は死ね、と言っているのではないか。
第二、悪は無秩序状態である、とするならば、それは秩序のある状態を絶対正義化することにならないか。つまり、変革や革命という「無秩序状態」を敵視し、現在の秩序、すなわち既得権益者の天国を守ることを最優先する思想(現実に即して言えば、既得権益層の利益に合致する変革のみを「正しい変革」とし、他は弾圧する。)につながりはしないか。
第三の問題がなぜ問題なのかは、以上の二点への疑念から明らかだろうから詳説しない。
まとめよう。「何が悪なのか」は、容易に、権力によって指定されるものであり、それが悪と見做す「欠陥」や「無秩序」は、実は人類の可能性を秘めた泉なのかもしれないのである。
さらに言うならば、人類による自然のコントロールは、壊滅的な暴発事故の可能性を常に持っているということを多くの原発事故が示している。
以上。


(追記)上では、立花隆がフョードロフの説に賛同して引用したのだ、という解釈をして書いたのだが、必ずしもそうとは限らないのでそのことを付言しておく。実際、立花隆自身が末尾に書いている次の言葉には私も賛同する。もっとも、「世界の正しい観照」が可能かどうかということにも問題はあるのだが。(すなわち、「絶対的な正しさ」というものこそ胡散臭いものであるのだから、あらゆる過激な行動や西洋的絶対主義思想は避け、この世界の当面の悪を漸進的に改善していく東洋的な中庸の道が賢明な道だろう。)


「ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。」



(以下引用)





立花隆 - 人間の現在より

フョードロフの共同事業とは何なのかというと、全人類が力を合わせて、より高次の存在に能動進化、つまり、意識的にコントロールされた進化をとげていくことなんです。

そして、地球レベルはもちろん宇宙レベルで自然を統御していくことなんです。

そういうことを可能にするためには、人類の知を統合しなければならないといいます。すべてを知の対象として、すべての人が研究者になり、すべての人が認識者にならなければならないといいます。

そのためには人間の最大の敵である死を克服しなければならないといいます。また悪を滅ぼさなければならないといいます。

悪というのは、結局のところエントロピーの増大が生む崩壊現象、秩序が失われた状態、世界の欠陥状態、「落下」、未完成状態だから、それに対抗するためには、全世界を合理的自覚を持って反エントロピーの方向に動かしていくことが必要で、そのために全人類が総力をあげることが、人類の共同事業だというわけです。

ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。

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男の生は抽象、女の生は具象

「逝きし世の面影」から転載。

ダーウィン賞によって男が10倍も女より愚かであることを証明されている。

というところは、男として身につまされる。
ただ、男陣営の弁護をさせてもらえば、これは、男は抽象的存在(幻想)のために命を投げ出すような生き物だ、ということではないか。女は現実的だから、そんな阿呆な幻想など信じない。幻想は幻想として楽しむだけで、何よりも現実生活が第一である。だから、女の哲学者は稀だ。小説を書くのは女の方が優れている。何しろ、現実生活に対する観察眼が違う。
男の見る現実は、頭の中でいったん抽象されている。つまり、本当は大事な無数の細部がすべて捨象されている。女性が装飾的なものが好きなのは、生活の細部こそが大事だと知っているからだろう。
ただ、その賢い女も、恋愛となると盲目になって、相手がどんなくだらない男でも良く見えて、くっついてしまうという欠陥があるようだ。ふだんの生活では計算高いくせに、一回の賭け事で全財産を失う馬鹿な賭博者のようだ。まあ、これは恋愛して子孫を残すことを第一義とするように女の中にプログラムされているからだろう。
しかし、「世界の遺伝子プールの中から自分の遺伝子を消し去ることで人類の進歩に偉大な貢献をした」という考え方は面白い。なるほど、そういう貢献なら誰でもできる。阿呆な日本人の遺伝子撲滅のために、愛国的な国会議員の皆さん、自分たちから率先して実行しませんか?
女性が輝くより、まずは安部ちゃん一味から、さあ、「Shine!」


(以下引用)



『ダーウィン賞の受賞者』

世に『ダーウィン賞』という名前のアメリカ人的なブラックユーモア賞がある。もちろん有名な『進化論』のチャールズ・ダーウィンから名が取られているが、愚かな形態・方法で死んだ者へ死後に贈られる『賞』である。(死ななくとも生殖能力を失うと授賞できる)
ある受賞者は切手不足で爆発物入りの封筒を差し戻され、自分の爆弾で爆死した。またのひとりはエレベーターのロープをエレベーター内にいながらにして盗もうとし、ロープ切断後、エレベーターもろともビル高層から落下、落命、受賞した。
ある授賞者は男らしさを証明するために恋人の前でオートマチック拳銃でロシアンルーレットを行ったが、弾丸が自動装填される仕組みなので1発目で命中して死亡、授賞した。
死んだ愚か者は、世界の遺伝子プールから自分の遺伝子を消し去ることで『人類の進歩に多大な貢献をした』、との設立理念で1985年に『ダーウィン賞』が設立されている。
デイリーメールが報じたところによると、『ダーウィン賞』の組織者らが調べたところ、何故か受賞者は女性より男性の方が遥かに多かった。318受賞者のうち女性はわずか38人だった。
ダーウィン賞は30年前の1985年からだが『不可解なことに、受賞者の9割が男性だった』と賞の組織者らは語っている。ダーウィン賞によって男が10倍も女より愚かであることを証明されている。

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「装飾的目隠し」の思想

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
私は、日本画は、水墨画以外はあまり好かないし、特に浮世絵は人物が(顔もポーズも)グロテスクで嫌いなのだが、下の絵は面白い。
画面右上と、中景から遠景にかけて広がるピンク色の、端が丸い帯状のものは何か。これは明らかに現実に存在する何かではない。私の解釈では、むしろ、「この絵は現実そのものではないよ」ということを強調する何かだ。
我々は西洋の絵画の本流である「絵とは現実を写すものだ」という思想に毒されているから、現実めいた絵を見ると、すぐにそれを現実を写したものだと思い込む。しかし、言葉が世界を完全には表現できないように、絵画も世界をそのまま表現できはしない。たとえば木を描く時に木の葉のすべてを正確に再現しているわけではない。「それらしく見せる」だけである。それが絵画の技法だ。日本画は、最初から、「絵画は現実を写す」という思想そのものを放棄し、独自の発展を遂げたのではないか、というのが、この絵を見て私が考えたことだ。(とっくに誰かが言っている説かもしれないが、まあ、そのあたりはどうでもいい。)
絵を描く、ということは、世界や現実の中に、特に何か描きたいものがある、ということであり、それは現実の中の「通常の現実以上のもの」だ、ということになる。そうでなければ描く意味はない。で、それを描く時に、「描きたいもの」を邪魔する何かが現実の中にあれば、それを排除して描くことになる。それが写真と違う絵画の利点でもある。
しかし、その排除をする際にできる「空白」はどうするか。
下の絵では、その「空白」を空白のままにしたのである。そして、その部分を、幾何学的な直線で作られ、円の端を持つピンクの帯(「雲」と言っておこう。)にすることで、「見る人は、ここはただの背景(空白)として見なさい」ということを親切に指示してくれているのだ。つまり、絵画鑑賞は作者と見る人のコラボレーションで行われる、という当たり前のことを一部の日本画作者は心得ていた、ということだ。
これは西洋の「作者絶対主義」の芸術観からは出てこないものだろう。
なお、このピンクの「雲」は、背景だけではなく、右上の部分のように前面にも出てくるから、「装飾性のある目隠し」とでもいうべきものだろう。そういえば、日本の建築にはそういう「装飾的目隠し」の思想があった。(障子の破れを千代紙の小花で隠すなど。)それは絵画にも共通する「日本的発想」なのだろう。

花田清輝か誰かが、「洛中洛外図」について似たようなことを書いていたと思うが、そこでは「装飾的目隠し」の思想には触れておらず、不要部分を「雲」で隠すことによるクローズアップ効果のことを言っていたような記憶がある。まあ、うろ覚えの話だ。


(例によって、編集画面と掲載画面で絵のサイズが違うので絵の一部しか見えなくなってしまっているようだ。興味のある人は元記事参照のこと。)

 画は 葛飾 北斎(葛飾 北齋)かつしか ほくさい 

 宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)

 号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
                  画狂老人、卍 など。        作


  「目黒不動 詣り」です。

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投機行為と生活行為

「日経ビジネスオンライン」から転載。
記事の最初の部分だけだが、ここまで読めば十分、という気もする。むしろ、ここに書かれた部分をネタに、あれこれ考える方が、面白い。私にとってのネット記事というのは、「自分の頭を他人の思想の運動場にする」(ショーペンハウエルが「読書の害悪」について述べた言葉)ことではなく、自分が思考を楽しむためのネタ拾いの場である。
さて、

「なぜわが社は『何億円もの失敗よりタクシー代にうるさい』のか」

に似た疑問を持ったことのある人は多いだろう。
この疑問への答えとして最初に思いつくのは、
「何億円もの失敗の責任者は、通常、社内の有力者か、そのお気に入りであり、権力者やその周辺人物の失敗の責任が問われることはまずない」
というものだろう。
これは、安倍内閣の枢要の地位にいる人物や周辺の人物があきれるほどの失敗や失言を繰り返しても、実質的な責任を取ったことはまったく無いことからも容易に理解できることだ。
だが、こんなのは「俗な話」で、あまり面白くはない。
もう一つの解答(回答、と書くべきか)、これが私が先ほど思いついて、そのためにこの記事を書く気になった「思想」だが、それは

「ビジネスには常に投機的部分があり、誰でも計画が予定通りに行くとは思っていない。(ビジネスが常に計画通りに行くなら、ビジネスでの失敗は周到な準備と熟考さえすれば原理的に存在しないことになる。)『何億円ものビジネス計画』は、『投機』であるから、失敗の可能性は最初から折り込み済みで、ただ、そういう失敗の可能性を口に出すのは縁起が悪いから、言霊信仰の日本では、よほどダメな計画でない限り、会議などではあまり言わないだけだ。そしてそのビジネスが失敗しても、最初から失敗は想定内だから、特に大きく咎めることはしないのである。一方、『タクシー代』は毎日の『生活』である。これには『失敗』はありえない。あるのは『不正行為』だけである。だから、会社は厳しく咎めるのである」

というもの。
長くなったが、要は「投機か生活か」という違いである。金額が何億円だろうが、その失敗はただの失敗で、「不正行為」ではない。野球選手が好機に三振をしても、それは「不正行為」とは言えないようなものだ。もちろん、ファンからは「クソバッター」と野次られるだろうが、それだけのことだ。しかし、その野球選手がヤクザから金を貰ってわざと三振したとしたら(それがわざとかどうかの判定は事実上不可能だが)、それは不正行為となる。タクシー代の誤魔化しはそういうものだ。金額の大小の問題ではない。
だが、会社に何億円もの損害を与えた幹部がその後も同様に重用され、会社に損失を与え続けるとなると、話は別である。そして、そういう企業がだいたい斜陽企業となっているはずである。

議題の1案件の審議に要する時間は、その案件にかかわる金額に反比例する

というのは、要するに、あるところまで来たら、後はバクチだ、というのを誰でも潜在的に知っているからである。
「先の分からないこと」を決めねばならないなら、何年悩もうが、5分で決めようが同じことである。
私の好きな言葉の一つに「大きな決断は軽くやれ」というのがあるが、それは「自分の無意識を信じろ」ということだ。自分の無意識が警告をするならば、たとえどんなに客観的状況が良く見えても、その決断はたぶん誤りである。将来を完璧に見通せるならば、それは人間ではない。

多くの人間は、ビジネスというものが投機(ギャンブル)であるとは思っていない。だが、新起業の会社の9割ほどが2年以内(あるいは1年以内)に消滅するという事実は、ビジネスが投機であることを明確に示しているのである。しかしまた、ロバート・キヨサキが言うように、サラリーマンでいる限り、「貧乏父さん」でいるしかないことも、事実である。「金持ち父さん」になるには、企業するか、投資家になるか、しかないだろう。どちらもギャンブルであることは言うまでもない。



(以下引用)


なぜわが社は「何億円もの失敗よりタクシー代にうるさい」のか?

今でも役立つ60年前の書『パーキンソンの法則』

>>バックナンバー


2015年3月4日(水)


1/5ページ


印刷ページ


今回取り上げるのは――
Parkinson, C.N. 1957. Parkinson's Law and Other Studies in Administration. Houghton Mifflin Company, Boston: MA. (日本語訳版:『パーキンソンの法則』1981年)


 「パーキンソンの法則」という言葉は、どこかでお聞きになった方も多いかもしれません。本書は10章からなり、今回はその中から3つに絞ってご紹介します。手に入れた日本語版もやや古いので、訳や解釈をより今の状況に合わせるために原本を取り寄せている間に時間がかかってしまい、いつもより掲載が遅れたことをお詫びします(したがってこのコラムでの日本語訳は、日本語版の日本語訳と若干異なっている場合がありますのでご了承ください)。


 この本が出たのが1957年ですから、なんと58年前、約2世代前になります。「そんな古い本、役に立つの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「法則」は何年たっても「法則」です。1000年たったら「重力」が変わるわけではないですし、たとえば「九九」がいつ発明(?)されたのか知りませんが、現在も、そして将来も、すべての計算の基本になることは間違いないでしょう。


 アメリカでも、慶應ビジネススクールでも、MBAの授業ではよく企業の事例などを短くまとめた(といっても、長いものは40ページを超えたりしますが)「ケース」を使って討議を行います。その時に必ず出るのが「このケースは古いのでは」「もっと新しいケースを使ってほしい」といった質問・要望です。経営書でもよく「最先端の経営手法」なんていう帯がついていたりしますが、「新しい=よい」というのは、多くの場合幻想です。もう少し正確に言えば、「新しい知識=枝葉」の場合がほとんどで、本当に経営に役立つのは「世代を超えて生きてきた法則=幹(あるいは根)」なのです。もちろん、技術の世界では最先端が重要なのですが、こと人間(及びその人間の集まりである組織)にかかわる限り、幹をきちんと理解できるかどうかが優勝劣敗を決めるのだと思います。成功企業の経営者が「当たり前のことを当たり前にやっているのすぎない」とほぼ異口同音におっしゃるのを聞いても、それは明らかではないでしょうか。


 ちなみに、経営の勉強の場合「知識が多い=よい」いわゆる、「more=better」という前提も間違っていることが結構多いのではと思いますが、この点はまた別の機会に。

巨額の資金取引の意思決定(High Finance)

 そもそも私がこの本を買ったきっかけは第3章のHigh Financeのところにあった「凡俗の法則(the Law of Triviality)」を別のところで読んだからです。


 「the Law of Triviality」を直訳すれば「些末の法則」ということですが、これを「凡俗の法則」と訳した日本語版はなかなか味があると思います。この法則は、ずばり次のように言い表すことができます。

議題の1案件の審議に要する時間は、その案件にかかわる金額に反比例する

 つまり、何億、何十億の投資案件よりも、何万円の話のほうが会議で長く議論になるというのですが、本当でしょうか?(ただし、「関心喪失点(the point of vanishing interest)」というものがあり、気軽に寄付できる額、賭けで失ってもいいと思っている額が下限のようだと指摘されています)。


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易の思想の大要

市立図書館から借りてきた「中国古典文学体系 書経・易経」の解説に易の基本思想が簡潔明瞭に書かれていたので、備忘のために書き写しておく。この思想要約は、私が易に関して漠然と抱いていた感想と完全に一致している。こうして、個人の中の形の無い状態の思想を言語化してくれた先人がいると、実に助かる。

易の思想

1.ものごとの変化を重視し、その変化に随順すべきことを説いていること。
2.異なった性質・位置・境遇の者の相互協調を重視していること。
3.ものごとの最初の行動や転換の際の行動を慎重にすることを戒めていること。
4.ものごとの極端・極度な行いを避けるべきこととしていること。
5.自分の意欲や行動を抑制する謙遜を人の行いの根本としていること。
6.現世超越を説いていること。


上記の6.は、他の1.~5.が現世で生きる上での処世訓であるのに対し、「当面の社会に受け入れられなければ、ひとりその信じる道を行う」(孟子)生き方も賢明な選択だ、ということだろう。(赤塚忠氏の解説による。「忠」は「きよし」と読むらしい。)

私自身の補足を少し。
易の卦にはしばしば「貞であるのが利(よろ)しい」という言葉が出るが、この「貞」は通常は「ただしい」と読まれている。しかし、これは「現在の考えのままでそのまま進むこと」つまり、「貞固」であることだ、というのが私の考えだ。そうでなければ「貞に利あらず」というような「正しさ」を否定する卦はありえないだろう。もちろん、正しさなどは各自の主観にすぎない、という現代的な発想を易が主張しているとも思えない。易は変化を重視するが、生き方の根本としては「節義」を貞固に守ることも大切だ、という考えなのである。そうでなければ社会そのものが成り立たないだろう。たとえば、ある言葉を発した人が次の瞬間にそれとまったく矛盾することを平気で言うならば、その人間とはつきあえないし、そうした人間で満ちた社会は崩壊するしかない。これが「貞」が必要だということを簡単な比喩で言ったものだ。
だが、宇宙の現象や社会の時勢は常に変動する。その変動に対応するには「臨機応変」という姿勢が重要なのである。機に臨んでもぼうっとしており、変に応じないならば、3.11の時ならば洪水に流されるしかないだろう。人事もまた然りである。愛憎すら変化するのだから、その変に対応して生きるしか、現世で生きる道は無い。貞である部分を守りつつ、変の兆しに注意深くあれ、というのが易の教えだろう。言葉を変えれば、物事に過度に固着せず、中庸を守る生き方が知恵ある生き方だ、ということだ。
なお、私が特に好きなのは3.である。というのは、これは物理の法則や人間感覚の法則に合致しているからだ。たとえば自動車事故というものは動き始めや進路変更の時に起こるのがほとんどである。
人生の事故の大半は入学・入社・結婚といった「動き始め」での慎重さの欠如から来ている。また、長い間仲良く付き合っていた恋人同士が「結婚」という「進路変更」を機にお互いの違う側面(お互いの家族の事情や社会人としての別人格など)を見ることで破綻する、という「進路変更」の事故もあるものだ。



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名づけること、言語化することの意味

「播州武侯祠偏照院」より、抜粋転載。


「だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。」

は、非常に面白い指摘だと思う。言語化が物質化だというのはかなり大胆すぎる言い方だし、言語化が形而下的次元だという考えも少し首をひねるが、言語化することで概念操作が可能になり、概念操作から現実が動き出す、という意味では言語化は物質化であり、形而下的次元の出発点だ、と言える。(「悟り」は直観、あるいは無意識的思考の結果であり、概念操作の結果で生じるものではない。概念操作は常に概念要素自体で縛られている。)あるいは言語は形而上的次元と形而下的次元の接点であり、真の形而上学的次元は言語表現不能なもの、と考えてもいいのかもしれない。いわゆる「不立文字」であり、「言語道断」(これは、俗に使われている不道徳性への非難の意味ではなく、「言語で道(い)うことが断たれている」こと。)である。
この一節から想起したのが、「参照」に書かれているような、「神の名をみだりに唱えてはならない」という旧約聖書の禁忌であるが、これには、「参照」記事の言うような、神の名の呪文化や嘘の引き合いに神の名を出すことへの懸念よりも、神という存在を形而下的次元に引きずり下ろすことを禁止し、それによって神を「手の届かない」存在にするという、「神を作った人々」の高度な戦略があったのではないだろうか。
それはともかく、言語こそが現実化への出発点だ、という意味では、私は「形而上学的次元を形而下的次元に引きずり下ろす」ことに必ずしも反対ではない。しかし、言語化には絶望的なまでの限界というものがあることもまた事実であり、言語化できないものにこそあるいは至高の価値があるのかもしれない、という視点は持つべきだと思う。
これはサン・テグジュペリの「見えないものにこそ価値がある」と似ているようだ。


(以下引用)



でも、哲学的に、名をなくすことの意味は何だろうか。
 たとえば、こころに感ずるなんらかの形而上学的なものを、
国之常立神 (くにのとこたちのかみ)

と呼ぶのと、なにも名をもたない存在とするのとでは、どう違うのか。
 当然、名をつければ、その存在は限定される。特定される。哲学用語があったが忘れた。(追記:言葉は現実、物質界を指すことが大半である。だから、言葉の分節化は、いわば、物質的実体化である。だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。)
 有神化と一応言えようが、名をもたない場合は、無神ではなく、非神である。非神非仏的前宗教である。そう、プレ宗教である。
 そう、どうやら、このプレ宗教という視点が大事ではないだろうか。


(参照)ウィキペディアより。

消失の経緯[編集]

#主のセクションにも言及したアドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay][15])の語には、「主 (Lord)[16]」即ちヤハウェを婉曲に指す意味のほか、もともと「私の御主人様 (my master)[17]」即ち奴隷の雇用主など主一般を指す意味がある。


さて、前述の通りユダヤ人は、詠唱の際もアドナイと読み替えるなどして、ヤハウェの名の発音を避けてきた。現在もユダヤ人は一般生活において、ヤハウェをヤハウェと呼ばず、アドナイあるいはハッシェム(הַשֵּׁם [haš Šēm])などと呼ぶ。これらは、ヤハウェとは別の語である。


理由のひとつとして、出エジプト記申命記などにみられるモーセの十戒のうち次に挙げるものについて、直接神の名を口にすることは畏れ多い禁忌である、との解釈が後代に成立したためではないかと考えられている。(同一の箇所である。また、ヱホバとはヤハウェのことである)

汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄にあぐる者を罰せではおかざるべし


あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。


これは本来その名をみだりに唱え、口にあげること(ヤハウェの名を連呼して呪文とすること、もしくはヤハウェの名を口にあげて誓っておきながら実際には嘘をつくこと)について、「そのようなことをすべきではない」と教えるものであって、名の発音を禁ずる趣旨ではないという説がある[誰によって?]一方で、西暦1世紀にはすでに発音は禁じられており、当時成立した福音書によれば、神の子イエスもこれをはばかって「天の父」などと表現したという。


古くはこの名は自由に口にされていたようである。南ユダ王国崩壊からバビロン捕囚までの時代に書かれた『ラキシュ書簡』にも יהוה は頻繁に現れており、この名がこの時代に至ってもなお口にされていたことがわかる。また、それ以後にもこれを記した史料は散見される。


それがいつ頃から口にされなくなったのか正確には分からない。


しかし、紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書』では、原語のヘブライ語での יהוה が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味するキュリオス (Κύριος) と訳されている。


このことから、この頃にはこの名がアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することが禁忌とされるようになったと考えられる[誰によって?]

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