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「自然真営道」より

ブログを雑記帳代わりにして、安藤昌益の「自然真営道」の一部を大雑把に現代語訳してみる。
(「日本古典文学大系97近世思想家文集」より。)
ここに書かれたのは極論だが、一面の真理はあるのではないか。



(p606)

聖人が言う、「身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにする」と。
天下の学者はこれを尊んでいる。これは尊いだろうか。凶年に遭う時は、自ら耕して労働せず、貪欲に他人の稼ぎに寄生して食っている者たちは天下に先立ってわが身を修めることはできず、飢えに苦しんで、他人の作る物を貪り、或いは餓死する。
自ら耕して労働する人々は言う、「学者は尊いと言う。凶年で、実りが無い時も飢えず、凍えないものかと思っていたが、多くの人より先に飢えに苦しむ。このことから見るならば、学者や書物は人に役立つものではない。かえって人を害するものである。忌むべきものは書物ではないか」と。
儒・仏・医・老・荘・巫(神主のこと)・私法を作って人を搾取している者ども・自ら耕さず他人に寄生して書物などを書いて暮らしている者どもは、無字・無学の人々に戒められて、何とも返答できない。
もともと書物や学問は天道を盗む(偽る)罪悪であるからこうなるのである。わが一身を修めることすらできないのに、どうして国家や天下を治め平らかにできようか。これをわきまえない者が「聖人」に学ぶという儒教や、仏教の学者である。であるから書物は天下の大怨である。

或る人が質問して言う、「今の世は国中に嘘の言葉や偽りの行為が横行して、真実の言葉や真実の行為が無いのはどうしてでしょうか」と。
答えて言う、「聖人が出て五倫五常の法を立て、偽りの言葉を教え、天道・天下を盗む。仏教の輩が現れて嘘の話や方便(自分にとって都合の良い言葉)を教えて社会の上位に登り、人々からの布施を貪る。老子が出て谷神・不死の嘘話を教えて、それを商売にして貪る。荘周が出て寓話や嘘話を語って盗み食らう。医書を作る者が出て何の根拠も無い偽り事を言って人殺しを仕事として貪り食う。聖徳太子が出て「厚く三宝を敬え」などと言って嘘をつく。みな嘘偽りを教えとしている。世界に嘘偽りが横行するのはこのためである。これは、書物や学問のせいである。だから、天下の怨みである」。

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教育勅語の夢人流解釈

教育勅語の読み方や現代語訳はいろいろ書かれているだろうが、私流に解釈してみる。まず、漢字の読みをカッコ内に入れておく。それだけでも大意は分かるだろう。漢和辞典など手元に無いので、間違いも当然あるかと思う。なお、記憶で書いておくが、「徳を樹つるは、」の部分は「徳を樹つること深厚なり。」であったと思う。そうでないと言葉の調子が悪い。下記の文章は、もしかしたら未定稿(ほぼ決定稿に近いだろうが)ではないか。


朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹(た)ツルハ 、
此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。

爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ 、
恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修メ、業ヲ習ヒ、
以(もっ)テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ、德器ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務ヲ開キ、
常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇公ニ奉ジ、
以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。

是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、
之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。
朕爾臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日

御名御璽(ぎょめいぎょじ)




(夢人訳)*「徳を樹つるは、」の部分は「徳を樹つること深厚なり。」で訳しておく。また「爾(なんじ)臣民」は、当時の気風のままに、あえて直訳にしておく。また「皇運」を「皇室の運」ではなく「皇国の運」としたのは、逆に今風すぎるかもしれない。そういう不統一はある。「中外」は、当時の事情で考えれば「外」とは(日本統治下の)韓国や台湾を意味する、と見るべきかもしれないが、そういう「こちたき(うるさい)議論」は他の人に任せる。



私(明治天皇)の考えるところでは、我が皇室の祖である最初の天皇がこの(日本という)国を始めたことはまさに広遠な事業であり、道徳の基礎をお定めになったのは深く厚いご配慮であった。これはわが国の姿(国体)の精髄や花とも言うべきものであり、教育の深い源(みなもと)も実にまたここに存する。

お前たち臣民は、父母には孝であり、兄弟は仲良く、夫婦はなごやかに、友人はお互いを信じ、恭しく倹約にわが身を保ち、多くの人に博愛を施し、学問を修め、仕事を習い、それを通じて智能を発展向上させ、道徳的人格を完成し、進んで公衆の利益となることを広め、世人の務めとすべきことを開発し、
常に国の憲法を重んじ、国の法律に従い、いったん国に危機が訪れれば正しい勇気を持って公の務めに奉仕し、
それによって天地同様に終わりのないこの皇国の運命を助けるべきである。

ここに述べた事柄(を守ること)は、ただ私の忠実で良い臣民であるお前たちだけでなく、お前たちの先祖の遺風を明らかにし、輝かすものとするに十分だろう。
この(国家道徳の基礎たる)道は、実に、我が皇室の祖、最初の天皇の遺した教えであり、皇室の子孫もその臣民も共に守っていくべきものであり、
この道は古今を通じて誤ることはなく、国の内外に施しても(道理に)矛盾はない。
私はお前たち臣民とともに、この教えに従い、すべての国民が高い道徳性の点で一つになることを心から願っている。


明治二十三年十月三十日


天皇のお名前と印











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二つの自由

「春と修羅☆」から転載。
「アナと雪の女王」主題歌翻訳の一部である。(一箇所だけ、勝手に私が変えた。「全てのものをちっぽけなものに」を「全てのものをちっぽけなものにし」と変更。そうでないと、この部分が「恐怖」の修飾語でなく、語り手自身が「すべてのものをちっぽけなものにする」独裁者的存在であるかのようになる。もっとも原詩を知らないので、これは私の独断。歌詞は曲に乗らなければならないから、舌足らずな文になったのだろうと思ったわけだ。)

私は「新自由主義」ひいては「自由主義」が大嫌いなのだが、それは、そうした思想が現実には「一部の特権階級の自由」だけを拡張する装置として働いているからであり、その結果、99%の人間は自由どころか奴隷的境遇にどんどん押し込められていっているからだ。
しかし、下の歌詞に言うように「正解も間違いもルールもなく」「空や風と共に生きる」という(内面的)自由は、人間の生き方の理想であり、禅で言う「随所に主となる」生き方だと思うので、ここに紹介したわけである。
まさに、生きることには本来、正解も間違いもルールも無いのである。
ただ、社会を形成し、社会の中で生きるために、さまざまな正解や間違いやルールが作られ、人を縛り、あるいは自律的にそのルールに従うだけのことだ。
その「正解」やら「ルール」が過大視され(「小保方事件」などもその一例か)、それが社会的精神病になったために、多くの人にとって「生き難い」社会が作られてきたのが近代文明の大きな特質だろう。つまり「行為」に対する罰や褒賞が異常に偏向し、あまりに過大であるため、社会全体が神経症的になり、やたらに攻撃的になるか、あるいは何をするにも怯えて生きているわけだ。
ところで、その「ルール」を作り、これが「正解」だとしている連中は誰なのだ、その「ルール」で得をしているのは誰なのだ、と考えれば、我々は少なくとも、そのルールや正解の虚妄性を知り、少なくとも精神的には「自由」になることができる。そして、精神的な自由は、あるいはそれを得ることで物質的・社会的な犠牲を払うにしても、それに値するものなのかもしれないのである。





(以下引用)



全てのものを
ちっぽけな物にし、 そして、以前は私を 抑圧していた恐怖も
今では私に届かないのよ

 


私が出来ることを 理解する時よ 限界を知り それを乗り越える


 


正解も、間違いも無く ルールも無いわ


 


私は自由なの なすがままに ありのままで
私は空と風と 共にある者よ


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「成功確率」を考えて「挑まない」ことの愚

「aproach to innovation」というブログに引用されていた為末大のツィートを転載する。
私は学校教育における体育やスポーツのあり方を批判することが多い。小さい頃、運動神経が鈍くて周囲に笑われた(と自分の心の中で想像した)ことで(勝手に)傷ついて、それ以来、スポーツへの努力などしたこともない。当然、運動音痴として半生を過ごした。学校生活では運動のできる者以外には存在価値は無いようなものだから、学校そのものも嫌で嫌で仕方がなかった。そのあたりから、「学校教育というのは、なぜ人を競わせ、人を序列化するのだろう」という無意識の疑問が生まれたような気もする。
誰であれ、頭の出来は、ふだんはあまり目立たない。テストの成績など、「俺はガリ勉しないから出来ないだけで、頭自体はいいのだ」と思っていれば済むことだ。冗談などがうまい人間は、「こいつは本当は頭がいいのではないか」と思われもする。しかし、スポーツでの「序列」はあまりに明瞭であり、言い訳もできない。そもそも、才能が最初から問題になる世界であり、生まれつき運動神経に欠陥のあるような人間にとっては別世界である。
というわけで、スポーツは、「見る対象」としては好きだが、「自分でやるもの」としては嫌悪の対象でしかなかったわけだ。まあ、一人で体を動かしていればいい、というなら嫌いではないが、他人の目の前でやらされるのは断然、お断りである。老人になることの利点は、そういう屈辱から逃れられたことであり、ヨイヨイの老人になるのも、そういう意味では悪くない。(笑)
さて、そういう人間が言うのも何だが、下の為末大の言葉は、実に素晴らしいものだ。
子供の頃の私がこの言葉を聴いていたら、人生そのものが変わったかもしれない。もちろん、才能の差はどうしようもないから、運動上手にはなれなかっただろうが、努力して人並み程度にはなれたかもしれない。そうすれば、女の子とも付き合う自信も生まれて、云々。
まあ、すでに大半が終わった人生を悔やむ気はないし、自分の気質から言えばそう悪くもない人生だったが、あるいは、まったく別の人生を歩むのも面白かったかもしれない。一般的に言えば、「努力しない人生」「逃げるだけの人生」よりは、努力する人生、チャレンジする人生のほうがいいだろうから、世の若者たちのために、下の言葉は学校教科書やサブテキストに載せるべき「黄金の言葉」だろう。


(以下引用)


為末 大         @daijapan

スポーツをやっていると、結果が全てだと強く思っている人に時々会う。基本的にはそれは動機の強さにつながっていい効果が多いのだけれど、あまりにも結果に潔癖になりすぎると、皮肉な事に結果にこだわりすぎて結果が出なくなったりする。


結果に潔癖な人は成功するというより、成功しそうな事しかやらない。だからチャレンジの数が人生で少なくなっていく。チャレンジは自分に限界を超えさせて、成長を促す。そのチャレンジが不足するという事は長く見ると成長が滞り、結局結果が出なくなっていく。


為末 大         @daijapan


絶対負けない方法がある、それは戦わない事。やるからには結果を出さないという価値観が強すぎる人は、いずれやらなくなる。やらないから経験がなく、全て頭で考えた世界で生きる。プライドが肥大化し、そして現実とどんどん剥離する。

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孔子本来の儒教の本質とは

偶然に見つけた「小さな資料室」というサイトから転載する。
このサイトは古今東西の名著名文の中から比較的短文のものを資料として収集してあるようだ。もちろん、それを書き起こすには大変な苦労を要したはずである。私の経験では、たとえば漢文に使われている漢字をワードなどで書くのは常人ではほぼ不可能に近い。実に頭が下がる努力である。
ネット世界の素晴らしさが、こうした事業に端的に現れている。まったく無私の心による奉仕行為であるわけだが、その願いは、少しでも世の中を良くすることに役立ちたい、ということだと私は想像している。
似たような試みとして「青空文庫」などもある。集団的努力の結集という、あれはあれで私は高く評価しているが、こうした個人的営為もまた大きな価値があると思う。
下の文章を書いた中根東里については、私は知らなかったが、「聖人の学」つまり(孔子本来の)儒教の本質は「仁」だ、と言い切っているのが素晴らしい。まさに、「仁」すなわち情けの心、他人への思いやりや愛情こそが、人間社会を、動物的闘争の世界から真に人間的な世界に変えるのである。今の世の醜悪な姿は、すべてその「仁」の欠如から来ているのではないだろうか。




(以下引用)




資料437 中根東里「学則」

        
 
      學  則

聖人之學。爲仁而已矣。仁者、天地萬物一體之心也。而義禮智信皆在其中矣。葢天下之物。其差等雖無窮。然莫弗得天地之性。以爲其性得天地之氣。以爲其氣。此之謂一體。是故自我父子兄弟。以至於天下後世之人。皆吾骨肉也。日月雨露、山川草木。鳥獸魚鼈。無一物而非我也。則吾不忍之心。自不能已矣。是故己欲立而立人。己欲達而達人。己所不欲無施諸人。人之善惡。若己有之、先天下之憂而憂。後天下之樂而樂。是之謂仁。是之謂天地萬物一體之心。其自然有厚薄者義也。譬影之參差。非日月之所私焉。禮其節文也。智其明覺也。信其眞實也。是心之德。其盛若此。但爲人欲所蔽。而不知其所謂一體者安在也。營々汲々。唯一己之名利是圖甚者視其一家骨肉之親。無異於仇讎。况他人乎、鳥獸草木乎。然而心之本體。則自若也。其感於物也。輙戚々焉如痛孺子之入井。閔觳觫之牛之類是已。况於吾父子兄弟。其能恝然乎。譬如雖雲霧四塞然日月之明。則無以異。纔有罅隙。輙能照焉。聖人之學。豈有他哉。勝夫人欲。以盡是心而已矣。葢合内外。以平物我而已矣。此之謂爲仁。此之謂好學。於戯。其廣大而簡易若是矣。彼以文辭爲學者。陋矣。求義於外惑矣。吾懼學之日遠於仁也。於是乎言。
丁巳冬 中根若思書于下毛之泥月菴。
 
 
 
 

 
   (注) 1. 上記の中根東里「學則」の本文は、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』所収の高瀬
         武次郎著『日本之陽明學』(鉄華書院、明治31年12月15日発行)によりました。
              近代デジタルライブラリー → 『日本之陽明學』本論第六 中根東里(73/160)
        2. 江戸中期の儒者・陽明学者であった中根東里(1694~1765)の「學則」は、東里が元文2
         (1737)年に、現在の佐野市の植野の泥月庵で、弟子を教育するために作ったもので、陽明
         学の大本を明らかにしたものだそうです。
        3. 佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
            佐野市ホームページ → くらしの情報 → 文化・伝統 → 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」
        4. 『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあり、人物の紹
         介があって参考になります。
        5. 次に、中根東里の「學則」を書き下しておきます。          
 
      學  則
聖人の學は、仁を爲すのみ。仁は、天地萬物一體の心なり。而(しかう)して義禮智信、皆その中(うち)に在り。葢(けだ)し天下の物、その差等、窮(きはま)りなしと雖(いへど)も、然(しか)れども、天地の性を得ざるはなし。以てその性と爲し、天地の氣を得て、以てその氣と爲す。此れを之れ一體と謂ふ。是(こ)の故に我が父子兄弟より、以て天下後世の人に至るまで、皆吾が骨肉なり。日月雨露、山川草木、鳥獸魚鼈、一物として我に非(あら)ざるはなし。則ち、吾が忍びざるの心、自(おのづか)ら已(や)む能(あた)はず。是(こ)の故に、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己(おのれ)達せんと欲して人を達す。己の欲せざる所は、諸(これ)を人に施すことなかれ。人の善惡は、己(おのれ)之(これ)を有するがごとく、天下の憂ひに先だちて憂ひ、天下の樂しみに後れて樂しむ。是(これ)を之(こ)れ仁と謂ふ。是を之れ天地萬物一體の心と謂ふ。それ自然に厚薄あるは、義なり。譬(たと)へば影の參差(しんし)は、日月の私(わたくし)する所に非ず。禮は、その節文なり。智は、その明覺なり。信は、その眞實なり。是れ、心の德、その盛んなること此(か)くのごとし。但(ただ)し、人欲の蔽(おほ)ふ所と爲(な)つて、その所謂(いはゆる)一體は安(いづ)くに在るかを知らざるなり。營々汲々として、唯一(ゆいいつ)己(おのれ)の名利(みやうり)を是れ圖(はか)る甚しき者は、その一家骨肉の親(しん)を視ること、仇讎(きうしう)に異なることなし。况(いは)んや他人をや、鳥獸草木をや。然(しか)り而(しかう)して、心の本體は則ち自若(じじやく)たり。その物に感ずるや、輙(すなは)ち戚々焉(せきせきえん)として、孺子(じゆし)の井に入るを痛み、觳觫(こくそく)の牛を閔(あは)れむが如きの類、是れのみ。况んや吾が父子兄弟に於て、それ能く恝然(けいぜん)たらんや。譬へば雲霧四塞(しそく)すと雖(いへど)も、然(しか)も日月の明は、則ち以て異なることなきが如し。纔(わづ)かに罅隙(かげき)あらば、輙(すなは)ち能く照らす。聖人の學、豈(あ)に他(た)有らんや。夫(か)の人欲に勝つて、以て是(こ)の心を盡くすのみ。葢(けだ)し、内外を合し、以て物我(ぶつが)を平らかにするのみ。此れを之れ、仁を爲すと謂ふ。此れを之れ、學を好むと謂ふ。於戯(ああ)、その廣大にして簡易なること、是(か)くのごとし。彼(か)の文辭を以て學と爲す者は、陋(ろう)なり。義を外に求むるは、惑へり。吾、學の日に仁に遠ざかるを懼(おそ)るるなり。是(ここ)に於てか言ふ。

丁巳の冬 中根若思(じやくし)、下毛(しもつけ)の泥月菴(でいげつあん)に書す。

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日本国民の現状は「自業自得」

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」という、ブログタイトル自体がすべてのブログ記事内容を語っているようなブログから転載。
実際、このブログに書かれているのは、日本人は馬鹿国民だから、日本馬鹿帝国は滅亡して当然、という内容がほとんどのようだ。私もその意見の前半には賛成だし、私もその馬鹿の一人なのだろうが、日本が滅亡することは何とか阻止したいと思っている。その気持ちが自分のブログで政治的記事を書く原動力の一つでもある。今の大人は(今の社会を作ってきた責任があるのだから)どうなってもいいが、若者や子供や幼児には罪は無いからである。
さて、下記記事は政治的記事ではなく、「哲学」である。かなり高度な哲学だと思う。難解さは少しも無いから、こういう議論は軽視されがちだと思うが、人間性の本質に迫る議論だし、言っていることはほぼ正しいと思う。(まるで自分に「判定者」たる資格があるような偉そうな言い方だが、誰しも自分の読んだ物については自分で判断する資格はある。ただし、その判定が正しいとは限らないのは勿論だ。)







「自己実現」とは何か



2013-11-15 22:56:00
テーマ:神(真)言・魔(真)言


「自己実現」ということばは、マズローの欲求五段階説に基づいて日本に流入してきた舶来モノですが…


これを「自己実現」と訳すところに、仏教の影響があるように感じます。


「自我実現」でもない、「自分実現」でもない… 「自己実現」!!…


「自己」ってなんでしょう?「自我」って?「自分」とはどう違う?…



「自分探し」とは言うが…「自我探し」とか「自己探し」とはいわへんな~…



「自我探究」「自己探求」というのはあっても「自分探究」というのは、ちょっと特殊な感じだし…



簡単にいえば、「自分」とは、他者とはちがうもので、姿かたちやポリシーなどでしょうか…


キャラクターとかパーソナリティーとか、ペルソナといったことばが浮かびます。



「自我」というと、もう少し「いま、ここ」で、いままさに「自分」をこの瞬間瞬間に生成しているものという感じがします…


西洋の心理学では「超自我」なんてのも出てくるんですが、いまいち正体が定かではありません。



シュタイナーなどの西洋神秘思想になると、肉体、エーテル体、アストラル体、の三層構造によって「自我」を規定し、これにさらに「霊体」という「超自我」みたいなものを設定するのですけどね…



おもしろいですが、これなら西洋占星術だって似たような「自我構造モデル」をつくっていて、人格を上昇宮、太陽宮、月の入っている宮の三つでとらえるってやつがあるわけです。



それぞれに「私」というものを、どう分析し、どう描くかという点で共通のツールとして興味深いものです。



で…それらは、どんな服を着て、どんな鏡に自分を映してみるかということであり、好みでやればよいわけですが、きょうのテーマは、仏教でいうところの「本当の自分」というやつについてです。



「自分」って、なんだろうかと…内観してみると、いろんな「自分」がいるじゃないかと…


日本人は単純に「タテマエ」と「ホンネ」の二元論でシンプルに「理解」しようとするのですが…


矛盾するふたつの「願い」や「自分」が、両方とも「ホンネ」だったりするわけですね?


「どっちが本当の自分?」と問うても迷うような…「どっちも自分やんか!」みたいな…


こういうのを”葛藤”というのですがね…「自分」のこうした「分裂」は、昔からあることなんです…



しかし、どれも「タテマエ」ではない「ホンネ」ではあるものの、「本当の自分」はどっちなのだと…?


どれも「本当の自分」ではあるけれども、そのなかでももっと究極的な「真の自分」ってのがあるじゃないか…


仏教では、それを「自己」と呼んでいる…


それは慈しみのこころであり、悲しみを知るこころである…


儒教では”仁”と呼び、キリスト教などが”愛”と呼んでいるもの…どんぴしゃりに一致ではなくても…



恐怖し、惑う自分がいる…飢え渇き、貪る空虚なこころが満たされぬ自分がいる…


他人や世間と引き比べ、いつも外見や体裁を気にするだけの自分がいる…


ただ感情のままに快楽に浸り、嫌悪感に相手を憎悪する自分がいる…


常に「敵」や「課題」をみつけ「戦って」いる自分がいる…



まあ、どれも「自分」には違いないが「本当の自分」はそれらではないよ…



ちょうどNスペが「病の起源」というので「うつ病」をやっていた。


何でも平等に分け与える狩猟社会では、うつ病はなかったと…


階級が生じ、富に独占が生じ、階級が生まれてから、うつ病は増大したのだと…


仏教もキリスト教も「分け与える」ことを奨励する…


貪ること…つまり、効率や利益を追求することは、否定しているといってもよいくらいだろう。



「本来の自分」は、分け隔てなく、財物を分け合う「自分たち」なのだから…



競争ではない、むしろ協力…戦いではない、むしろ慈愛…


実際、そうした”人間の本性”にしたがうほうが気持ちがいいし、健康的なのだ。



こうした”本来のこころ”を、人間はだれしももっている…


自他を分け隔てすることなく、自然と一致している調和した「自分」を…



これを「人間だれしも仏性をもっている。地獄鬼畜生といえども、それをもっている」と仏教は説く…


その「仏性」が、宇宙と生命と調和して一致する「自分」…それが「本当の自分」だと…



だから、そういう感じがもてたとき、「自分」は自分の中にある気がしない…



それは、むしろ天から「降りてくる」感じがする…


「自分」もまた「ある」ものではなく、一瞬一瞬天から与えられているような…そんな感じがするのだ…



これを…


「真の自分を取り戻す」


…と言ってもよいのだろう…または…


「神との合一」


…と言ってもよいのだろう…



そして、その”本当の自分”というのは、天地生成以前からと言ってもいいくらい昔から悟っていた…


初めからすべてを知っていた…



「即身是仏」というのだが、実は我々は生まれながらに”仏”なのだと…


お釈迦様も悟ったときには、自分は大昔から悟っていたという確信を覚えたという。


それだけ”悟り”というのは実感するものだし、悟ってみれば、バカに当たり前のことということなのだ。



しかし、ほとんどの者は悟ることなく地獄へ落ちる…


「本当の自分」に波長を合わせず、貪る自分や妬む自分に同調してしまうからだ…



ネットには、そうした鬼畜生に同調している者たちがウヨウヨいて罪を重ねている…



自分が積み上げた罪業の報いは必ず受けることになる。


今日の日本の惨状も、よくよく思い起こせば、すべて日本人が自らの悪行三昧で招いたものなのだ。



たとえば…だよ…「人を殺した者は死刑だ」と言う者がいる…


だが、その者は無批判に原発にただただ賛同していたとする…


じゃあ、東電と同罪ではないか…


東電が”人殺し”であるならば、それに盲従してきた者たちも”人殺し”だ。


ならば、自分が宣言した法にはしたがわねばならないから、みな「死刑」である…



…で、奇しくも現実はそれが実現しつつある…



簡単に言えば、こういうことだ。



「本当の自分」を偽ってきた者たちは、必ずその報いを受ける。


「本当の自分」を思い出せ…仏の自分に回帰せよ…



これが「即身是仏」の教えだ。



死者のために仏教はあるのではない…



たとえば、反原発の市民運動をしていたとする…


広瀬隆とか、講演に来てもらう…(けっこう高額だってね…)


そして、学習を重ねながら「反原発」というムーブメントをつくっていくわけだ。



仏教も、もともとは、この教えを広め、実践しようという者たちが集まって”檀家”となり…


僧を呼んで学んだり、儀式を執り行ったりしてきたわけである…



昨今は、全然そういう”本来のかたち”になっていない。


坊さんも坊さんだが、一番酷いのは”檀家衆”である。


な~にもわかっていない…



こういうことが国政レベルでも生じていて、民主主義をまったく理解していないチンパン国民が結局は現在のデタラメな政治を引き寄せているのである。


すべては”自業自得”…


天罰なのである。




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