「馬鹿国民帝国日本の滅亡」という、ブログタイトル自体がすべてのブログ記事内容を語っているようなブログから転載。
実際、このブログに書かれているのは、日本人は馬鹿国民だから、日本馬鹿帝国は滅亡して当然、という内容がほとんどのようだ。私もその意見の前半には賛成だし、私もその馬鹿の一人なのだろうが、日本が滅亡することは何とか阻止したいと思っている。その気持ちが自分のブログで政治的記事を書く原動力の一つでもある。今の大人は(今の社会を作ってきた責任があるのだから)どうなってもいいが、若者や子供や幼児には罪は無いからである。
さて、下記記事は政治的記事ではなく、「哲学」である。かなり高度な哲学だと思う。難解さは少しも無いから、こういう議論は軽視されがちだと思うが、人間性の本質に迫る議論だし、言っていることはほぼ正しいと思う。(まるで自分に「判定者」たる資格があるような偉そうな言い方だが、誰しも自分の読んだ物については自分で判断する資格はある。ただし、その判定が正しいとは限らないのは勿論だ。)
「自己実現」とは何か
2013-11-15 22:56:00
テーマ:神(真)言・魔(真)言
「自己実現」ということばは、マズローの欲求五段階説に基づいて日本に流入してきた舶来モノですが…
これを「自己実現」と訳すところに、仏教の影響があるように感じます。
「自我実現」でもない、「自分実現」でもない… 「自己実現」!!…
「自己」ってなんでしょう?「自我」って?「自分」とはどう違う?…
「自分探し」とは言うが…「自我探し」とか「自己探し」とはいわへんな~…
「自我探究」「自己探求」というのはあっても「自分探究」というのは、ちょっと特殊な感じだし…
簡単にいえば、「自分」とは、他者とはちがうもので、姿かたちやポリシーなどでしょうか…
キャラクターとかパーソナリティーとか、ペルソナといったことばが浮かびます。
「自我」というと、もう少し「いま、ここ」で、いままさに「自分」をこの瞬間瞬間に生成しているものという感じがします…
西洋の心理学では「超自我」なんてのも出てくるんですが、いまいち正体が定かではありません。
シュタイナーなどの西洋神秘思想になると、肉体、エーテル体、アストラル体、の三層構造によって「自我」を規定し、これにさらに「霊体」という「超自我」みたいなものを設定するのですけどね…
おもしろいですが、これなら西洋占星術だって似たような「自我構造モデル」をつくっていて、人格を上昇宮、太陽宮、月の入っている宮の三つでとらえるってやつがあるわけです。
それぞれに「私」というものを、どう分析し、どう描くかという点で共通のツールとして興味深いものです。
で…それらは、どんな服を着て、どんな鏡に自分を映してみるかということであり、好みでやればよいわけですが、きょうのテーマは、仏教でいうところの「本当の自分」というやつについてです。
「自分」って、なんだろうかと…内観してみると、いろんな「自分」がいるじゃないかと…
日本人は単純に「タテマエ」と「ホンネ」の二元論でシンプルに「理解」しようとするのですが…
矛盾するふたつの「願い」や「自分」が、両方とも「ホンネ」だったりするわけですね?
「どっちが本当の自分?」と問うても迷うような…「どっちも自分やんか!」みたいな…
こういうのを”葛藤”というのですがね…「自分」のこうした「分裂」は、昔からあることなんです…
しかし、どれも「タテマエ」ではない「ホンネ」ではあるものの、「本当の自分」はどっちなのだと…?
どれも「本当の自分」ではあるけれども、そのなかでももっと究極的な「真の自分」ってのがあるじゃないか…
仏教では、それを「自己」と呼んでいる…
それは慈しみのこころであり、悲しみを知るこころである…
儒教では”仁”と呼び、キリスト教などが”愛”と呼んでいるもの…どんぴしゃりに一致ではなくても…
恐怖し、惑う自分がいる…飢え渇き、貪る空虚なこころが満たされぬ自分がいる…
他人や世間と引き比べ、いつも外見や体裁を気にするだけの自分がいる…
ただ感情のままに快楽に浸り、嫌悪感に相手を憎悪する自分がいる…
常に「敵」や「課題」をみつけ「戦って」いる自分がいる…
まあ、どれも「自分」には違いないが「本当の自分」はそれらではないよ…
ちょうどNスペが「病の起源」というので「うつ病」をやっていた。
何でも平等に分け与える狩猟社会では、うつ病はなかったと…
階級が生じ、富に独占が生じ、階級が生まれてから、うつ病は増大したのだと…
仏教もキリスト教も「分け与える」ことを奨励する…
貪ること…つまり、効率や利益を追求することは、否定しているといってもよいくらいだろう。
「本来の自分」は、分け隔てなく、財物を分け合う「自分たち」なのだから…
競争ではない、むしろ協力…戦いではない、むしろ慈愛…
実際、そうした”人間の本性”にしたがうほうが気持ちがいいし、健康的なのだ。
こうした”本来のこころ”を、人間はだれしももっている…
自他を分け隔てすることなく、自然と一致している調和した「自分」を…
これを「人間だれしも仏性をもっている。地獄鬼畜生といえども、それをもっている」と仏教は説く…
その「仏性」が、宇宙と生命と調和して一致する「自分」…それが「本当の自分」だと…
だから、そういう感じがもてたとき、「自分」は自分の中にある気がしない…
それは、むしろ天から「降りてくる」感じがする…
「自分」もまた「ある」ものではなく、一瞬一瞬天から与えられているような…そんな感じがするのだ…
これを…
「真の自分を取り戻す」
…と言ってもよいのだろう…または…
「神との合一」
…と言ってもよいのだろう…
そして、その”本当の自分”というのは、天地生成以前からと言ってもいいくらい昔から悟っていた…
初めからすべてを知っていた…
「即身是仏」というのだが、実は我々は生まれながらに”仏”なのだと…
お釈迦様も悟ったときには、自分は大昔から悟っていたという確信を覚えたという。
それだけ”悟り”というのは実感するものだし、悟ってみれば、バカに当たり前のことということなのだ。
しかし、ほとんどの者は悟ることなく地獄へ落ちる…
「本当の自分」に波長を合わせず、貪る自分や妬む自分に同調してしまうからだ…
ネットには、そうした鬼畜生に同調している者たちがウヨウヨいて罪を重ねている…
自分が積み上げた罪業の報いは必ず受けることになる。
今日の日本の惨状も、よくよく思い起こせば、すべて日本人が自らの悪行三昧で招いたものなのだ。
たとえば…だよ…「人を殺した者は死刑だ」と言う者がいる…
だが、その者は無批判に原発にただただ賛同していたとする…
じゃあ、東電と同罪ではないか…
東電が”人殺し”であるならば、それに盲従してきた者たちも”人殺し”だ。
ならば、自分が宣言した法にはしたがわねばならないから、みな「死刑」である…
…で、奇しくも現実はそれが実現しつつある…
簡単に言えば、こういうことだ。
「本当の自分」を偽ってきた者たちは、必ずその報いを受ける。
「本当の自分」を思い出せ…仏の自分に回帰せよ…
これが「即身是仏」の教えだ。
死者のために仏教はあるのではない…
たとえば、反原発の市民運動をしていたとする…
広瀬隆とか、講演に来てもらう…(けっこう高額だってね…)
そして、学習を重ねながら「反原発」というムーブメントをつくっていくわけだ。
仏教も、もともとは、この教えを広め、実践しようという者たちが集まって”檀家”となり…
僧を呼んで学んだり、儀式を執り行ったりしてきたわけである…
昨今は、全然そういう”本来のかたち”になっていない。
坊さんも坊さんだが、一番酷いのは”檀家衆”である。
な~にもわかっていない…
こういうことが国政レベルでも生じていて、民主主義をまったく理解していないチンパン国民が結局は現在のデタラメな政治を引き寄せているのである。
すべては”自業自得”…
天罰なのである。
実際、このブログに書かれているのは、日本人は馬鹿国民だから、日本馬鹿帝国は滅亡して当然、という内容がほとんどのようだ。私もその意見の前半には賛成だし、私もその馬鹿の一人なのだろうが、日本が滅亡することは何とか阻止したいと思っている。その気持ちが自分のブログで政治的記事を書く原動力の一つでもある。今の大人は(今の社会を作ってきた責任があるのだから)どうなってもいいが、若者や子供や幼児には罪は無いからである。
さて、下記記事は政治的記事ではなく、「哲学」である。かなり高度な哲学だと思う。難解さは少しも無いから、こういう議論は軽視されがちだと思うが、人間性の本質に迫る議論だし、言っていることはほぼ正しいと思う。(まるで自分に「判定者」たる資格があるような偉そうな言い方だが、誰しも自分の読んだ物については自分で判断する資格はある。ただし、その判定が正しいとは限らないのは勿論だ。)
「自己実現」とは何か
2013-11-15 22:56:00
テーマ:神(真)言・魔(真)言
「自己実現」ということばは、マズローの欲求五段階説に基づいて日本に流入してきた舶来モノですが…
これを「自己実現」と訳すところに、仏教の影響があるように感じます。
「自我実現」でもない、「自分実現」でもない… 「自己実現」!!…
「自己」ってなんでしょう?「自我」って?「自分」とはどう違う?…
「自分探し」とは言うが…「自我探し」とか「自己探し」とはいわへんな~…
「自我探究」「自己探求」というのはあっても「自分探究」というのは、ちょっと特殊な感じだし…
簡単にいえば、「自分」とは、他者とはちがうもので、姿かたちやポリシーなどでしょうか…
キャラクターとかパーソナリティーとか、ペルソナといったことばが浮かびます。
「自我」というと、もう少し「いま、ここ」で、いままさに「自分」をこの瞬間瞬間に生成しているものという感じがします…
西洋の心理学では「超自我」なんてのも出てくるんですが、いまいち正体が定かではありません。
シュタイナーなどの西洋神秘思想になると、肉体、エーテル体、アストラル体、の三層構造によって「自我」を規定し、これにさらに「霊体」という「超自我」みたいなものを設定するのですけどね…
おもしろいですが、これなら西洋占星術だって似たような「自我構造モデル」をつくっていて、人格を上昇宮、太陽宮、月の入っている宮の三つでとらえるってやつがあるわけです。
それぞれに「私」というものを、どう分析し、どう描くかという点で共通のツールとして興味深いものです。
で…それらは、どんな服を着て、どんな鏡に自分を映してみるかということであり、好みでやればよいわけですが、きょうのテーマは、仏教でいうところの「本当の自分」というやつについてです。
「自分」って、なんだろうかと…内観してみると、いろんな「自分」がいるじゃないかと…
日本人は単純に「タテマエ」と「ホンネ」の二元論でシンプルに「理解」しようとするのですが…
矛盾するふたつの「願い」や「自分」が、両方とも「ホンネ」だったりするわけですね?
「どっちが本当の自分?」と問うても迷うような…「どっちも自分やんか!」みたいな…
こういうのを”葛藤”というのですがね…「自分」のこうした「分裂」は、昔からあることなんです…
しかし、どれも「タテマエ」ではない「ホンネ」ではあるものの、「本当の自分」はどっちなのだと…?
どれも「本当の自分」ではあるけれども、そのなかでももっと究極的な「真の自分」ってのがあるじゃないか…
仏教では、それを「自己」と呼んでいる…
それは慈しみのこころであり、悲しみを知るこころである…
儒教では”仁”と呼び、キリスト教などが”愛”と呼んでいるもの…どんぴしゃりに一致ではなくても…
恐怖し、惑う自分がいる…飢え渇き、貪る空虚なこころが満たされぬ自分がいる…
他人や世間と引き比べ、いつも外見や体裁を気にするだけの自分がいる…
ただ感情のままに快楽に浸り、嫌悪感に相手を憎悪する自分がいる…
常に「敵」や「課題」をみつけ「戦って」いる自分がいる…
まあ、どれも「自分」には違いないが「本当の自分」はそれらではないよ…
ちょうどNスペが「病の起源」というので「うつ病」をやっていた。
何でも平等に分け与える狩猟社会では、うつ病はなかったと…
階級が生じ、富に独占が生じ、階級が生まれてから、うつ病は増大したのだと…
仏教もキリスト教も「分け与える」ことを奨励する…
貪ること…つまり、効率や利益を追求することは、否定しているといってもよいくらいだろう。
「本来の自分」は、分け隔てなく、財物を分け合う「自分たち」なのだから…
競争ではない、むしろ協力…戦いではない、むしろ慈愛…
実際、そうした”人間の本性”にしたがうほうが気持ちがいいし、健康的なのだ。
こうした”本来のこころ”を、人間はだれしももっている…
自他を分け隔てすることなく、自然と一致している調和した「自分」を…
これを「人間だれしも仏性をもっている。地獄鬼畜生といえども、それをもっている」と仏教は説く…
その「仏性」が、宇宙と生命と調和して一致する「自分」…それが「本当の自分」だと…
だから、そういう感じがもてたとき、「自分」は自分の中にある気がしない…
それは、むしろ天から「降りてくる」感じがする…
「自分」もまた「ある」ものではなく、一瞬一瞬天から与えられているような…そんな感じがするのだ…
これを…
「真の自分を取り戻す」
…と言ってもよいのだろう…または…
「神との合一」
…と言ってもよいのだろう…
そして、その”本当の自分”というのは、天地生成以前からと言ってもいいくらい昔から悟っていた…
初めからすべてを知っていた…
「即身是仏」というのだが、実は我々は生まれながらに”仏”なのだと…
お釈迦様も悟ったときには、自分は大昔から悟っていたという確信を覚えたという。
それだけ”悟り”というのは実感するものだし、悟ってみれば、バカに当たり前のことということなのだ。
しかし、ほとんどの者は悟ることなく地獄へ落ちる…
「本当の自分」に波長を合わせず、貪る自分や妬む自分に同調してしまうからだ…
ネットには、そうした鬼畜生に同調している者たちがウヨウヨいて罪を重ねている…
自分が積み上げた罪業の報いは必ず受けることになる。
今日の日本の惨状も、よくよく思い起こせば、すべて日本人が自らの悪行三昧で招いたものなのだ。
たとえば…だよ…「人を殺した者は死刑だ」と言う者がいる…
だが、その者は無批判に原発にただただ賛同していたとする…
じゃあ、東電と同罪ではないか…
東電が”人殺し”であるならば、それに盲従してきた者たちも”人殺し”だ。
ならば、自分が宣言した法にはしたがわねばならないから、みな「死刑」である…
…で、奇しくも現実はそれが実現しつつある…
簡単に言えば、こういうことだ。
「本当の自分」を偽ってきた者たちは、必ずその報いを受ける。
「本当の自分」を思い出せ…仏の自分に回帰せよ…
これが「即身是仏」の教えだ。
死者のために仏教はあるのではない…
たとえば、反原発の市民運動をしていたとする…
広瀬隆とか、講演に来てもらう…(けっこう高額だってね…)
そして、学習を重ねながら「反原発」というムーブメントをつくっていくわけだ。
仏教も、もともとは、この教えを広め、実践しようという者たちが集まって”檀家”となり…
僧を呼んで学んだり、儀式を執り行ったりしてきたわけである…
昨今は、全然そういう”本来のかたち”になっていない。
坊さんも坊さんだが、一番酷いのは”檀家衆”である。
な~にもわかっていない…
こういうことが国政レベルでも生じていて、民主主義をまったく理解していないチンパン国民が結局は現在のデタラメな政治を引き寄せているのである。
すべては”自業自得”…
天罰なのである。
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