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長いものには巻かれろ主義の国民

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」から転載。
さすがにプロの物書きらしく、面白く、警抜な文章である。私のような素人の垂れ流す駄文とはレベルが違う。とは言っても、最近のプロの多くは素人以下だし、素人の中にも非凡な人は多いのだから、昔とは「プロの中の本物のプロ」の比率が違ってきた、ということだろう。科学者の中にも本物のプロは稀少だろうし、マスコミ人や政治家の中の本物のプロはほとんどゼロに近いことは多くの国民が今では分かっていることだ。まあ、利権政治家も、ある意味ではプロとは言えるかもしれないのだが、それはヤクザもプロだ、というレベルの話だ。だが、問題は、国民の側の話だ。
我々はこの国で行われる虚偽や悪事をすべて黙認してきたではないか。
それを今さら正義漢ぶって詰問し、些細な悪事や欺瞞を問い質すという、昨今の「食品偽装問題」の様相には、割り切れないものを感じていた人は多いはずだ。
些細な悪事や欺瞞だからいい、というわけではないが、それより巨大な国家的犯罪がこの国では明らかに進行中だというのに、マスコミは何をしているのか、という話だ。まあ、例によってスピンとかスピン・オフとかいう目くらましであろう、とは多くの人が感じているだろうが、善良なる大衆はこれまた例によって目を眩まされてしまうのである。
いや、目を眩まされているのではないかもしれない。多くの人は、分かっていて、斜めに眺めて冷笑しているのかもしれない。だが、それでいいのだろうか。それを永遠に続けるのだろうか。
「社会とはそういうものさ」という訳知りめいた「大人」が「空気を読んで行動する」社会が日本である以上、この国が変わることは非常に困難だろう。つまり、国民の自業自得、ということだ。もちろん、私もその国民の一人として、子孫にそういう社会を残してしまうことを謝罪しなければならないのだが。


(以下引用)


 わたくしたちが暮らしているのは、一票の格差が2倍を超える設定の選挙で国会議員を選出することを、もう何十年も放置している国だ。
 そういう意味で、わが国の平均的な国民の遵法意識は必ずしも厳格なものではないのであって、それらは、いまさら法が守られていないことに驚いてみせている人々のカマトトぶりと、好一対を為しているのである。
 われわれは、法が適正だからそれを守るのではない。
 処罰が厳格だから法を遵守せんとしているのでもない。
 多くの日本人は、「みんなが守っているから」という理由で法を守っている。
 であるからして、「みんなが守っていない」法律は、時に、軽視される。
 当然の展開だ。
 かかる観察を踏まえて、私は、この度の食品偽装の問題は、遵法精神や倫理の問題であるより、横並び思想の結果だというふうに考えている次第だ。

幸い、食品を偽装していた関係者は、一斉に表沙汰になることによって、是正の機会を得た。
 大変に良い機会だと思う。
 こういう展開になれば、われわれは、法を守れるようになる。
 これまで、不承不承に法を軽視していた人たちも、ようやく、正々堂々と法の内側で暮らせるようになる。
 そういう意味で、このたびのこの馬鹿げた事態は、大筋からすれば、望ましい展開なのである。
 おそらく、これから先何年か(あるいは何十年か)の間は、誤った表記を顧みない態度や、食材の生産地を偽ろうとするタイプの商売はカゲを潜めることになるはずだ。われわれは、「みんなが守っていれば」どんなにくだらない決まり事であっても、驚くほど律儀に守り通すことができる国民だからだ。
 焼香のマナーと同じだ。
 参列者は、線香の粒に畏怖の念を抱いてアタマを下げているのではない。
 単にみんながそうしているから、似た仕草をしているだけなのだ。
 同様にして、われわれが法を犯すのは、法を軽視しているからではない。国家権力に対して害意を抱いているからでもない。法の成り立ちに疑問を持っているからでもないし、その有効性を疑っているからでもない。うちの国の人間が法を守らないのは、多くの場合、「みんなが守っていないから」だ。
 国道を走ってみればすぐにわかる。
 制限速度を忠実に守っているドライバーはほぼ皆無だ。
 誰もが、10キロ程度は制限速度を超過したスピードで巡航している。
 と、こういう状況では、かたくなに制限速度を守る態度の方が、どちらかといえば忌避される。
 事実、遵法運転者は、交通の流れを阻害する混乱要因として、しばしば、周囲のクルマに無用なブレーキを踏ませる。
 だからこそ、ドライバー間で共有されている不文律の中では、道路交通法を字義通りに遵守することよりも、「周囲の運転者の円滑なドライビングを妨げない運転」を心がけることの方が重視されているのである。
 で、以下は、私個人の憶測であることをお断りした上で書くのだが、この「制限速度を10キロ程度上回る速度で走る」というわが国の運転者の間で共有されているアンリトン・ルールを、実は、交通警察の側も、ある程度は含み置いた上で交通の取り締まりをしている。

であるから、10キロ以下の速度超過で違反切符を切られることはまず無い。
 憶測ついでに、もうひと押し邪推を重ねるなら、行政側は、典型的なドライバーが、ある程度の速度超過をおかすことをあらかじめ織り込んだ上で速度規制を設定している。つまり、彼らは、60キロ以下で走ることが望ましいと考えられる道路には、50キロ以下の速度制限標識を設置することにしているのである。
 私は善悪の話をしているのではない。
 速度標識を無視することを推奨しているのでもないし、軽微な速度超過を看過している警察官の怠慢をなじっているのでもない。
 ただ、「そういうふうにして世間は動いている」ということを申し上げているだけだ。
 で、われわれの社会は、「そういうふうにして世間は動いている」という世間の人々の思い込みを上書きするべく運営されることになっている。
 ある日、新米の板前が板場に入ってくる。
 たとえ話だ。
 その厨房経験半月に満たないド素人の小僧が、ある日
「板長、これ、クルマエビじゃないっスよね?」
 と、尋ねたとしたらどうだろうか。
 板場にはどんな革命が起きるのだろう。
 彼は、シャープな質問をする切れ者のルーキーとして、板場の先輩たちの賞賛を浴びるだろうか?
 浴びない。
 断じて、愛されない。
「何言ってんだタコ助」
「出すぎた真似をするんじゃねえ」
「仕入れのネタを勘ぐるなんざ十年早い」
「空気読めクソガキ」
 ぐらいなことで、彼は、黙殺されるはずだ。
 というよりも、返事すらしてもらえず、包丁の背でアタマを叩かれて終わりかもしれない。
「いいか。おやっさんが峰で叩いたのは温情だぞ」
「なあヒロイチ。オレたちが心をこめてエビのカラを剥いて背わたを取るのは何のためだと思う?」
 親切な先輩が諭してくれたら、むしろ幸運な展開といえるだろう。
「ベトナム生まれのエビ君をクルマエビに変えてあげたいからだよ」
 とか。
 ともあれ、昨日今日やってきた新人が、長年にわたって板場で守られてきた伝統を打ち破ることは、不可能に近い話だ。
 では、ベテランの板前になら、それができるのかというと、もちろん簡単ではない。
 業界全体が、クルマエビでないエビをクルマエビと呼ぶことを常態化させている中で、自分たちだけが、「ブラックタイガーの黄金焼き」なんていう間抜けな一品をメニューに載せたら、なんのことはない、正直者だけが損をするデキの悪い寓話になってしまう。
 何年か前に読んだ『みんなのプロレス』(ミシマ社)という本の中に、テリー・ファンクが著者に語った言葉として、印象的なフレーズが引用されていたのでご紹介する。
「プロレスを見る上で一番大切なのは」
 と、テリーは言ったのだそうだ。
「サスペンション・オブ・ディスビリーフだよ」
 なるほど。
 Suspension of Disbelief
 なんと味わい深い言葉ではないか。
 直訳すれば「疑念を棚上げにすること」ぐらいになるのだろうが、テリーの真意に寄り添って思い切った意訳を試みるなら
「そこ、突っ込まんといてや」
 ということだ。
 トップロープからのニードロップの時に膝と反対側の足が先に着地してるんじゃないかとか、パイルドライバーで、頭頂部はマットに当たってないんじゃないかとか、そういう野暮なツッコミは、プロレスを殺す、と、テリーは言いたかったはずだ。疑う心は、レスラーに失礼なだけじゃなくて、興行主にとって災難だし、なにより観客であるキミ自身にとって自滅の道だよ。だって、自分がプロレスを楽しめなくなるじゃないか、と。
 厨房の人間も、似たようなことを考えていた。
「エビの本名とか、野暮なこと言うなよ」
「クルマエビだと思って食った方があんたらも気持ちが良いだろ?」
 しかし、プロレスの時代は、終わった。
 われわれは、ブラックタイガーとガチで闘わなければならない。
 おそらく、偽装の慣習は今回の一連のケースのように、「業界が足並みを揃えて謝罪会見をする」流れを経ずしては、決して根絶できなかったはずだ。
 なんとなれば、われわれにとっては、法が法であることよりも、法が守られているかどうかの方が重要で、誰も守っていない法は、誰も守ろうとしないからだ。
 われわれは「法を守ること」よりも「職場の秩序を乱さないこと」や「伝統を毀損しないこと」を重視することになっている。ずっと昔からそうだ。帝国陸軍も清和源氏もみんなそんなふうな人たちだった。
 だから、うちの国の集団に秩序だった行動を求めるためには、遵法精神に訴えるよりは、同調圧力に委ねたり、前例踏襲力学に訴えた方が適切だったりするわけで、もしかしたら、われらの遠い祖先はイワシかペリカンだったのかもしれない。

つい昨日、さる大学が校内で展開している禁煙キャンペーンのコピーが、ツイッター上でちょっと話題になっていた。
 コピーは以下のようなものだ。
《「金がない」とボヤく友だちに限って、タバコを吸っている。》
《卒業までに、空気の読める大人になろう。》
《マナーも守れない学生に、内定を出せますか。》
《カッコつけて タバコを吸っていた。 カッコ悪かった。》
 特に、二番目の「卒業までに、空気の読める大人になろう」が、集中砲火を浴びた。
 これは、タバコの煙で「空気」が汚れることを、「空気を読む」という21世紀の流行語に上乗せして表現したコピーで、技巧上は、なかなか凝った作品だと思う。
 ただ、大学側が、「空気の読める大人」になることを学生に求めているように解釈できる点が、ツイッター雀の反発を買ったようで、そう思って読んでみると、たしかに、いやな圧力がある。
 私自身は、コピーの出来不出来はともかくとして、この種の学内規則に類する事柄を広告代理店の手に委ねてしまった大学の姿勢に失望を感じた。具体的言うと、校内禁煙という方針自体への賛否は措いて、「規則」よりも「空気」で学生を動かそうとした点がどうにも気持ちわるいのだ。
「長いものには巻かれろ」
 ということわざの続きを、権力者の側から言い足すと
「すべての長きものは汝らを縛る捕縄なればなり」
 ぐらいのフレーズになる。
 実にいやな感じだ。
 日本中の少なからぬ数の厨房でエビが経歴詐称を繰り返すようになったのは、おそらくバブルからこっちのこの20年のことだ。
 こういうことが起きたのは、「前例」が「踏襲」されたからであり、板場の人々が「空気」を「読んだ」からだ。
 この先、われわれの国を誤らせるものがあるのだとしたら、それは、おそらく「法」や「イデオロギー」や「悪意」ではない。
 「空気」みたいな、一見なんでもなく見えるくだらないものが、人々に虚偽の申告を促し、あるいは沈黙を強制し、抵抗力を奪い、そうすることで、この国を後戻りのできない道程に導くことになるはずだ。
 そう思うと、たかがエビと笑ってばかりもいられない。
 エビの次は死。
 あ、これ、ABCのシャレね。ショボいオチですまない。
 空気読んで笑ってください。

(文・イラスト/小田嶋 隆)




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