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愛無き世界

「播州武侯祠遍照院」経由で、「バカ国民帝国日本の滅亡」の記事を転載する。
日本人を人間化しようとする試みが成功すれば、日本は今のような酷薄な社会から、愛に満ちた社会になるだろう。愛とは言っても、たいしたことではない。我欲を少し減らし、その分、他人と分け合うだけのことだ。
「汝の望むところを他人に施せ」「汝の望まざることを他人に為すなかれ」この二つで社会は健全なものになる。その反対が新自由主義の目指す競争社会、闘争と略奪(そのために虚偽がフル活動する)の世界であることはこれまで何度も書いてきた。
だが、人は生きるために闘争するのは当たり前だ、と人々は洗脳されている。(そんなのは野獣の世界であり、人間の世界ではない!)そして、下層階級のその闘争と競争から生まれる剰余としての富を吸い上げるのが社会の上位層である。何もマルクスを待つまでもなく、こんなのは遥か昔から多くの人が知っていたことだ。
グローバリズムと新自由主義は同じものの二つの顔である。
それは、略奪と闘争と不平等を世界に拡散する醜い思想である。



(以下引用)*赤字部分は夢人による強調。



天は、慈悲を以て助ける。 今の日本は愛が無い結果。 渾沌堂



バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画 より  


上記文抜粋


・・・・・・・・・・・



”愛”とはいうけれど…




たとえ、ビジネスであったにせよ、「宗教」の拡大期は人々がその”教え”を共有し、または共有しようとするので、それが「常識」みたいになります…





バブル、バブル崩壊以前は、まだそんな雰囲気がどこかにありました。組合も強かったし…





レーガンだのサッチャーだの、あいつらがしゃしゃりでてきたあたりから、世の中おかしくなりました。





以前もマトモとは言えませんでしたが、今日レベルの状況は「漫画の世界」に限られていましたよ。





この前のNHKは、ユニクロの特集でグローバル競争がどうこうとやってましたが、こういうのがいけないのですよ。ゲームになっちゃってんだもの…ビジネスが…仕事が…命を賭けた”ゲーム”ですよ…





グローバル競争というのは、国境を越えて素潜りで人々が魚を獲っていた地域などに、大資本が超ハイテク船で船団組んでやってきて、そこの魚をぜ~んぶ独り占めにしていくって話と同じなのです。





大資本は確かに大儲けするでしょう。「雇用」も生じるでしょう。「経済」も「成長」するでしょう…





しかし、大量の資源の収奪と文化や環境の破壊と、失業が、富の収奪、貧困の拡大が生じている…






「どうして彼らははたらかないのか?」





…と、自称「先進国」のパー民どもはいう…





あなたがたパー民国の大資本がやってきて、市場も仕事も資源も奪っていったからですよ…





戦争、内戦、自由競争…それらをパー民国が「よいもの」であるかのようにもちこんできた結果ですよ。






その自覚なき加害者たちは、「貧困を救おう」というと、被害者みたいなことを言う…





「なんでおれたちが稼いだカネを、怠け者に分配しなければいけないのだ!」






こーゆー連中は死刑にすべきです。






”愛”とは、分け隔てなく、財物を分配することです。ですから…





貧富の格差が生じるのは、「努力の結果」ではないのです。





”愛”の不実践の結果です。”愛”と反対のことをやっているから、富を蓄えるのです。





それを「努力の結果」?…狂ってますわ…サルが「努力」して、どれだけの結果が出ると思っているのか?






インチキ三昧やって、生活保護の受給者になる者もいるかと思えば…





総理大臣になってるやつまでいるじゃないですか?大金持ちでしょ?庶民からすれば…






もてはやすパー民がたくさんいれば、バカでも総理大臣になれるという見本が現実に存在する!!





インチキ三昧やってても、総理大臣になれる平和な国がニッポンなのです…






レーガンやサッチャーのようなクルッパーが出てくる以前は、「人間は平等」をみんな信じていました。





ある種の「信仰心」がみなにあり、それを追い風に宗教や政党が組織を拡大できたときだった。





時代は変わる。人類は進歩する。





多くの人が、そう信じられる”なにか”がまだあったのです。






中国でも、宗教が大流行ということで、ある種の”目覚め”があることは確かでしょう…





でもね…そんなことを、人間は繰り返しているんですよ…





宗教ブームも、「ビジネスチャンス」ととらえている人々はすでに少なからず存在しているんです。






そして人々は再び間違える…





隣人にではなく、教祖様や教団や政治家に「分け与えて」しまう…






人々は結局”愛”ではなく”欲”を求める…





「”愛”がほしい」などといって、貪りのこころをたぎらせ、阻むものを憎むのです…






「”愛”がほしい」…そう言った時点で”愛”は消える…





伝えることはいいのだが、貪ったり、裁いたりしてはいけないのだ…






なぜ”愛”がないのか?





貪っているからだ。それを追い求めるからだ…






無償でなければ”愛”ではない。






見返りを求めた時点で、それはもう”愛”ではない。






「私がこんなに愛したのに…」と言った時点で、もう”愛”じゃない。






イエスも「私が愛したのに」みたいなことを言っていたと思うが、それは「お互いに愛し合え」ということを教えるためで「私をもっと愛せ」という意味ではなかったと思う。






「見返りを求めてはいけない」と言っているのではない。





「見返りを求めた時点で、それは”愛”ではない」と言ったのだ…






”愛”に気づいても、実践のレベルには段階がある。





レーガンもサッチャーも出てこなかった時代…





人々は、そうした”愛”の実践について、学んだり、試みたりしていたのだ。





少なくとも、その時代くらいまでは、戻さねばなるまい…





(付録)


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仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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