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キリスト教も仏教も精神は同じ

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
先ほど、イエス・キリストの言葉に関する記事を書いたが、キリスト教と仏教は根本では同じ精神を持っている。それをキリスト教ではと言い、仏教では慈悲と言うのである。
この精神を失えば、それはキリスト教でも仏教でもない、と私は思っている。曽野綾子や麻生太郎の発言のほとんどが、この慈悲の精神の対極にあることは一目瞭然だろう。したがって、彼らはキリスト教徒であると自称する資格はまったく無い。それはイスイス団が自分たちをイスラム教徒だと自称するのと同じである。米国の支配層がキリスト教徒のふりをしているのも同じである。
キリスト教と仏教は同じ精神を持っているのだから、「聖お兄さん」というコミックに書かれたように、イエスとブッダが安アパートで同居し、仲良く生活する、というのは自然といえば自然な想定なのである。そもそも仏教もキリスト教も、開祖の教えが後継者たちや侵入者たち(宗教的第五列・他宗教のスパイ)によって捻じ曲げられてきて、現在のキリスト教や仏教になったと私は思っている。
まあ、それはともかく、下の記事で金閣寺住職有馬頼底(推理作家の有馬頼義の親戚か?この有馬頼義はすごい家柄の生まれで、競馬の有馬記念は、その父の有馬頼寧を記念したものだったと記憶している。ウィキペディアではこう書かれている。有馬頼義:伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第二女子。頼寧の母寛子は岩倉具視の五女。頼義の妹澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。)が手塚治虫の漫画「ブッダ」を読み、結構それを高く評価しているところが面白い。仏教専門家が仏教の素人である漫画家に敬意を払っているわけだ。実にいいことだ。多くの宗教に見られるような、他者(一般人や他宗教の教徒)を見下し、排斥する姿勢の指導者にロクな人間はいない。




(以下引用)


◆http://blog.goo.ne.jp/ikiikimt/e/f4dea1576d12f59e78b48ef72469ad7d
生き生き箕面通信  2015-02-15
2245 ・京都仏教界の大御所が、原発推進にカツっ!


京都・金閣寺の住職、有馬頼底さんが、
安倍政権が推進する原発再稼働を、「間違っている!」と一喝しました。

原子力規制委が関電・高浜原発再稼働の安全基準に「OK(合格)」を出したため、
仏教会が改めて「ノー」を示した格好です。
東京新聞に掲載されたインタビュー記事を転載します。

インタビューの核心を、こうまとめています。

国は貧しいところに原発をつくってる。経済が潤うだけで、精神は全然潤ってない。
経済優先の思想が間違っている
と。

見出しは、原発は自然に背く 事故あれば京都の文化壊れる

そうですよね。いったん原発の過酷事故が起きれば、
高浜原発から60キロ圏内の京都市は大打撃を受けます。

世界遺産の神社、仏閣は大量の放射能を浴び、「千年の古都はほぼ全滅かもしれません

原子力規制委は2月12日に、関西電力の高浜原発3、4号機について、
安全基準の合格証にあたる「審査書案」を了承しました。

原子力規制委は、安倍政権の意向を受けて、「イケイケ、ドンドン」のように見えます。
原子力規制委の「規制」を外さなければ、詐欺です。

安全とは言わない。基準を満たしているだけ」という、
責任逃れの予防線を張るなどもってのほか
です。


以下、インタビュー記事を転載

 ――高浜原発の再稼働をどう思うか。

 「京都は観光に頼るしかない。以前、古都の景観を壊しかねない
 高層ビルの建設計画が持ち上がった時、私たちは当時の京都市長らと激しく戦った。
 千年以上守ってきた京の街並みや文化が原発で何か起これば、一瞬で壊れてしまう

 ――福島第一原発事故では、半径30キロを超える地域の一部も避難指示区域となった。

 「国は『原発は安全』と言ってきたが、うそだった。
 福島の事故では、被災者はいまだにふるさとにへ帰れず、田んぼも使えない。
 いったん事故が起きれば、大変なことになる。
 金閣寺を万一の事故で失うわけにはいかない。
 『想定外』と言われても、取り返しがつかない。原発自体があってはいけないと思う

 ――なぜ、「原発がいけないと」

 「手塚治虫さんの漫画ブッダで、若きブッダが戦場に行く場面がある。
 彼がそこで見たのは、殺りくにつぐ殺りく、貧困、差別、死の地獄絵図で、
 これに疑問をもって出家をした。これこそ仏教の原点だ。
 仏教にはたくさんの戒めがあるが、第一は殺生戒
 人だけでなく、あらゆる生命を奪ってはいけない。
 仏教者はその教えを守り、みんなにも守ってもらうようにせねばならない」

 「そもそもの問題は、人間が原子力をつくったこと。
 人間は自然に、逆らってはいけない。地球を大事にせよっていうけれど、
 その逆で人間が地球に大事にされている。人も虫も鳥も生命の輝きがある。
 私たちは彼らを殺してはいけない。彼らも全部、仏様の姿だ。
 だから、仏様同士が殺し合ってはいけない。
 原爆でも原発事故でも人間が生み出した原子力が さまざまな生命を奪う結果になっている

 ――人間の生き方が問われている。

 「国は貧しい所に原発をつくっている。原発のお金で寺がきれいになり、
 檀信徒も助かっている。しかしそれは経済が潤うだけで、精神は全然潤っていない。
 経済優先の思想が間違っており、寺院はそういうところにこそ、
 もっと心を配ってほしい
と言っている。
 日本は唯一の被爆国で、原子力の問題を世界に唯一、訴えられる国だ

 「戦時中は電気がなくても、ちゃんと生きてこられたのに、
 今の人間はいかに無駄遣いしているか。これは私たち一人一人の問題でもある。
 自動車がなければ、どこにも行けないことはない。歩けばいい
 物がない時でも、必ず対処する。人間はそういう知恵が出てくると信じている」


 以上、転載おわり


 安倍晋三という男の増長がいよいよ鼻につくようになってまいりました。
 そろそろ仏様のバチが当たる頃です。
 高転びに転ぶ頃合いが近づいてきたのではないでしょうか。
 その時は、自業自得といって差し上げましょう。




まったくもって、同感ですな。

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豺狼のごとき人間、豺狼のごとき生き方

曽野綾子、石原慎太郎らに見られる、「弱肉強食」正当化思想は、動物の世界の法則をそのまま人間世界に当てはめ、人間を動物の水準にまで引き戻すことであって、人類の精神的進化や文明と文化の否定のようなものだ。そもそも、動物の力と人間世界における力はまったく別である。
確かに人間の世界でも動物的な力はある程度有効なのだが、それを追求して大山倍達のような「空手バカ」になっても、あまり意味があるとも思えない。素手で牛を殴り殺す力があろうと、牛を殺すには牛殺し用のハンマーというものがあるから無駄な話だ、と当時の武芸の達人の一人が言ったというが、その通りである。力道山がチンピラのヤッパ(短刀)一つで刺し殺された事件は、肉体的力というものへの絶望を、当時の子供たちに与えたものである。まあ、実際に面と向かい合えば、相手が素手で牛を殴り殺せる力の持ち主であることは確かに相当の威圧感にはなるだろうし、そういう威圧力はある程度、生きる上では有効な力にもなるだろうが、それが人間世界での通常の力である金力や権力(身分・地位の力)を上回るとも思えない。
では、「弱肉強食」を信じる人間はどうするかと言えば、当然、金力と権力を手に入れるのが一生のテーマになるわけだ。そして、まさしく、曽野綾子は「権力芸者」「権力ホステス」となり石原慎太郎は国会議員になり、東京都知事になったわけである。おめでとう、おめでとう、である。だが、そんな人生など、恥ずかしい人生だ。金や権力をどれほど手に入れようが、その精神性の醜さ、低劣さの代償にはならない。
まあ、そういう批評は、彼らからみればイソップ物語のキツネの言う「あれは酸っぱいブドウさ」に類する負け惜しみだ、としか思わないのだろうが、本気で言うが、私は曽野綾子や石原慎太郎の精神のままで、彼らと同じ人生を送れると言われても、絶対にお断りする。動物差別をする気はないが、輪廻転生があるとして、蛇や鮫に生まれ変われるぞ、と言われるようなものである。それが堂々たる獅子や虎だろうが、ただの「弱肉強食」のケモノでしかない。
金や権力で手に入れられる贅沢な生活など、何の意味もないことだ。人間、起きて半畳、寝て一畳ではないか。一度に飯を5人前食おうが、病気になるだけのことだ。寝るのに二十畳の大きさのベッドも不要である。美女など、若い盛りにしか用は無いし、今では整形手術で誰でも美男美女になれる時代だから美男美女の価値もたいして無い。では何のために苦労をして金や権力を求めるのか。ご苦労な話である。生きるのに必要な金さえあれば、それ以上に何が必要か。安倍晋三のように太鼓持ちとゴルフをし、太鼓持ちたちと高級テンプラを食う生活など、頼まれてもやりたくもない。ゲスどもと顔を合わせて平気なのはゲスな人間だけである。
亡父の「抜粋帳」にこんな言葉があった。

「年収20ポンド、一年の支出19ポンド19シリング6ペンス、その結果は、即ち幸福さ。
年収20ポンド、一年の支出20ポンド6ペンス、その結果は、即ち不幸さ」(ディケンズ)

当たり前の人間の幸福とは、この程度のもので作られるのだ。社会の役目は、あらゆる人に、この20ポンドの収入を保障し、その支出が20ポンドを超えないように税制を作ることである。



(以下引用)



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人間の「馴致」

さて、この世に生れ出た時点で、人間は動物と同じ存在であり、その意味では完全に自由である。つまり、「すべては許されている」はずだ。
それが社会の中で育つに従って、いろいろな社会的規範を叩き込まれ、どんどん行動を縛られていく。つまり、自由を失っていく。
この「自由を失う」ことは、当人にとっては不快極まることであるが、訓練と習慣によってその不快さを意識しなくなる。これは動物を家畜化する(というよりは、家畜としての行動を叩き込む)「馴致」とまったく変わらない。その馴致機関が家庭であり、学校である。
その馴致訓練や馴致機関に欠陥があった場合、反社会的な個人が生じてくる。これがサイコパスと言われる人々である。つまり、社会的規範をまったく顧みず、自分の欲望のみに忠実であるような個性を社会側から見た言い方がサイコパスであるが、この種の人々の中で計算高い連中は、自らの正体をうまく隠して立ち回り、社会的にも高い階層に上ることも多い。思慮の浅い連中は、自らの欲望を抑えきれず、短絡的に犯罪に走る。(思慮が浅いことは、知力が低いということではない。むしろ、思慮の浅薄はその人の教養の程度、すなわち思考素材の質と量で決まる、と思う。)

自由とは何か素晴らしいもののように思われているが、私に完全な自由を与えたら、おそらく、自分の気に入らない人間をこの世からどんどん消し去り、最後には自分ひとりしかこの世界に存在しなくなるだろう。私は読んでいないが、藤子不二雄の「ドラえもん」中の「独裁者スィッチ」がそういう話のようだ。
人間が社会の中でしか生きられない以上、他人と協調して生きるためには自分の自由を制限することを全員が承認しなければならない。その意味で、家庭や学校での「馴致」訓練は必要なのである。ただし、それは「家畜化」でもあることに気を付ける必要がある、というだけだ。

さて、下の記事で、弁護団はこの殺人少女を「刑務所での刑務作業では更生できない。医療少年院ならそれが可能だ」と主張しているが、果たしてそうか。医療少年院でどういう「馴致」が行われるかは知らないが、過去16,7年間の家庭と学校での「馴致」で失敗したものが、医療少年院なら可能だというなら、それは素晴らしい。(刑務所での刑務作業が「更生」を目的としたものだという言い方自体に、何かピント外れなものを感じるのだが。あれは「懲罰」と「営利」が目的であって、刑務作業で更生するなら、工場労働者になれば誰でも人格者になる、とでも言うのか。)
私は基本的に犯罪者の更生というものを信じていないのだが、裁判における冤罪率と同じくらいの割合でなら犯罪者の更生というものもあるかもしれない。しかし、犯罪者の更生に回す金があるなら、犯罪の予防に金をかけるべきだ、と私は思っている。
それはつまり、家庭と学校の在り方を再検討するということでもある。


(以下引用)


佐世保殺害で弁護団「刑務作業では更生できぬ」


 長崎県佐世保市の高1女子生徒殺害事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された少女(16)の付添人を務める弁護団(3人)が10日、医療少年院送致の保護処分を求める意見書を長崎家裁に提出したことを明らかにした。


 家裁送致の際の検察側意見は「刑事処分相当」だったという。家裁は同日、少女の観護措置を26日まで延長することを決定。観護措置の期間中に第1回少年審判が開かれる予定。


 10日、弁護団は同市内で記者会見を開いた。検察側の「(少女には)刑事責任能力があり、刑事処分が相当」との意見に対し、弁護団は、刑事責任能力については「争う予定はない」と述べた。


 その上で「少女の特質を考えると、刑務所で刑務作業を繰り返すだけでは、真の意味の更生ができない恐れが大きい。再非行の防止には、徹底した治療や矯正が必要で、それが可能な施設は、医療少年院をおいて他にない」と主張した。


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人を殺してはいけない、か

まず、最悪の真実から書くことにする。
それは、ドストエフスキーの或る小説(「カラマーゾフの兄弟」だったかと思う。)に書かれていた、

「神が存在しなければ、すべては許される。」

という言葉である。
私は、この言葉は、ドストエフスキー以外には古今の哲学者も文学者も言わなかった「最悪の真実」であり、文明社会に投じられた、核兵器にも似た破壊的な威力を持つ言葉だと思う。
そして、それが恐ろしいのは、実は人類のほとんどは、この言葉が真実であることを心の奥底では分かっているところだ。だが、この言葉が真実であることを認めたら、あらゆる法と道徳は壊滅状態になるのである。
いいですか、

「すべては許される」のですよ。

殺人も、強姦も、近親相姦も、暴力も、拷問も、略奪も、嘘も冒涜もすべてである。
我々がそれらを犯罪としモラルに反する行為だとしているのは単に社会秩序を守るための便宜にすぎないことは、法や道徳がどうして発生したかを考え、そして法や道徳が場所や時代によってどれだけ変わるかを考えれば分かることである。
ドストエフスキーは、この言葉を、

「しかし、神は存在する」

という思想を前提として述べているのだが、問題は、ここで或る人が「神は存在しない」と確信したらどうなるか、ということだ。
その人が「神が存在しなければ、すべては許される」と考え、「神は存在しない」と確信したなら、「人間にはあらゆる行為が許されている」と自動的に答えが出るわけだ。
そして、その人が自分を他に優越する存在だと見做していれば、彼の思考はたぶん、こう続くだろう。
「ただし、自分の行為には、人間たちが勝手に作り上げた法律や道徳によって規制がかけられている。では、それに従う必要はあるか。
私は、他人が勝手に作り上げた法や道徳に従う意義を認めない。それらは私の自由を縛るものだ。この世に偶然的に生まれて、自分の人生から最高の果実を得るためには、私は世間では悪とされていることをも堂々と行う必要がある。なぜなら、悪は私が自分の欲望を達成するために必要な行為だからだ。もちろん、世間の意気地無しどものように、法や道徳を小心翼々と守り、安全で迂遠な道を行くこともできる。だが、そんな生き方の何が面白い。
奪え、殺せ、弱者を踏みにじれ、そしてすべてを手に入れろ。それでこそこの世に生まれた甲斐がある。力の無い、弱虫どもは奴隷の一生を送るがよい。俺は、強者として、超人として生きる」

これが私の考えるニーチェ的な「実存主義」である。
そして、こうした考え方は、本人が意識しているかどうかは別として、若者の一部には必ず存在していると私は推測している。ISISなどのテロ組織に参加する若者は、イスラム教への関心よりも、むしろテロの持つ「超人的な力」を求めて参加していると私は見ている。
現代では、すでに、神の存在を考えること自体がナンセンス扱いされる、というのが普通だろう。ならば、「神の存在しない世界」で、道徳や倫理(すなわち、法的定義以外の「善と悪」という判断基準)というものがどんな基盤の上に成り立つだろうか。私は、その基盤を見つけるのはかなり困難だと思う。法の場合は刑罰が厳然として存在するから、強制力も支配力もあるが、道徳に関しては、当人の人生経験と読書体験くらいしか基盤が無いのである。偉い人が「道徳を守れ」、と言う、その偉い人自身が道徳的には最悪の人物だったりする。

このへんで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えておこう。
答えは単純である。

「法律で禁じられているから」

これだけだ。道徳という不確かなものではこの問題に答えることはできない。

「なぜ法律は殺人を禁じているか」

は、別の問題だ。ちなみに、法はあらゆる殺人を禁じてはいない。言うまでもなく、戦争においては、敵を殺せ、と国家が命令する。そして死刑制度は国家そのものが殺人を行うことだ。つまり、法律は「絶対的に殺人はいけない」とはまったく言っていないのである。

上に書いたような答えでは当然誰でも不満に思うだろう。だが、実際に、「神が存在しなければ、すべては許されている」のであり、殺人だけを禁ずるいわれは無い。
動物でも人間でも「敵は殺せ、味方は殺すな」が原則であり、「殺すこと」自体が禁じられている、というのは実は幻想である。言い換えれば、法律や道徳は壮大な「虚構の体系」だと言える。しかし、その虚構は社会の平和と秩序を守っているのである。誰かを殺せば、その遺族によって自分も殺されて当然である。だから法は殺人を禁じる。そしてそれは十分に合理的なものであり、殺人はこうして禁止されるわけだ。しかし、哲学上の問題として言うならば、「人を殺していけない」絶対的な理由は存在しない、と私は思っている。

念のために言うが、私は人を殺すことを勧めているわけではまったくない。まして、「お前は人を殺していいと言ったのだから、お前を殺す」などという言いがかりは迷惑である。(人を殺していい、とは少しも言ってない。「人を殺していけない絶対的な理由は存在しない」と言っているのであって、それ以外の理由は無数にあるだろう。「社会の平和と秩序の維持」も立派な理由だ。そもそも、なぜ無益に人を殺す必要があるのか。)

私自身は、人間の文化の大半は美しい虚構であり、虚構であっても(あるいは虚構だからこそ)大きな価値がある、と考えている。道徳もその一つである。私が悪が嫌いなのは、端的に言って、それが醜い行為だからだ。善は行動の美なのである。

エゴイズムによる行動ほど醜いものは無い。そして、悪とはすべてエゴイズムから来るものだ。上に書いた「超人思想」(石原慎太郎が自分を実存主義者だと規定するなら、その思想はこんなものではないか、と私が空想したもので、ニーチェ的なものだろうとは思うが、私はニーチェを詳しく読んでいないので、確かではない。)も、要するにエゴイズムでしかない。醜い思想である。
エゴイズムによる行動の醜さは、たとえば行列への割り込みのような日常的事象の中から拾い上げてみたほうが、よく分かると思う。巨大な悪は、エゴイズムからのものでも、その巨大さだけで(常人には為しえない行為という)一種のヒーロー性を帯びてしまうのである。

では、美とは何か、特に行動の美とは何か、という問題が次に出てくるが、これもまたそのうち、気が向いたら考えてみることにする。





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命は平等か

私が、今の日本で一番価値が無い命だと思うのは、某総理大臣やそのお仲間たち、大阪市の某市長、東電経営者や東電経営陣の命であるが、多くの人は、総理大臣や国会議員や市長、大企業経営者やその幹部の命には価値があり、ニートやホームレスの命には価値が無い、と考えるのだろう。私は、ホームレスやニートの中にも聖人に近い人間がいる、と推測している。
では、認知症の超高齢者や植物状態で延命措置を受けている重病患者の命はどうか。つまり、正直に言って、他人の負担になり、他人に迷惑をかけながら生かされている人間の命はどうか。あるいは、暴走して大事故を起こし、他人を死なせながら自分だけ大怪我程度で助かった暴走族の命はどうか。あるいは、明白な殺人犯の命はどうか。
これらがすべて平等だ、という建前を私は取らない。
暴走族や殺人犯の若者ならば、改心して正道に戻る可能性があるから、若い順に助けるべきだ、という考えも取らない。「美徳は切り売りできない」ものであり、やった悪事の償いなど、けっしてできるものではないと思うからだ。それができると言うなら、殺人犯には殺した人間を生き返らせてみろ、と言いたい。と言っても、冤罪というものが存在する以上は死刑制度に簡単に賛成するわけでもない。死刑制度の話は、また別の問題だ。
なぜ人を殺してはいけないのか、ということを論じたいと思うのだが、それには落ち着いて考える時間的余裕と、そうした思索に自分自身を投入できるだけの精神的状態が必要なので、とりあえず、命は平等か、という問題だけをここでは提起しておく。
一つだけ言えるのは、自分の命と自分の家族の命は、世界中の他の命に優先する、というのが一般的な人情だろう、ということだ。ただし、それが正しい考え方だというわけではない。我々が自己犠牲の物語にほとんど必ず深い感動を覚えるのは、そういう本能的生存欲や動物的肉親愛以上のものが、人間世界にはありうる、ということを無意識に感じているからだろう。


(以下引用)*くだらないコメントもたくさんあるが、カットせずに転載しておく。


医者「命は平等というのは建前。すでに命は平等じゃない」


 
(i)
 
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1 ななし 2015/02/08(日) 10:38:32.92 ID:PEvo8ujj0.net ?PLT(12121) ポイント特典
「能率的に死なせる社会」が必要になる 建て前としての"命の平等"は外すべき
東洋経済オンライン2015年2月8日(日)10:10

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。

(中略)

――日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。

命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。

救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

――医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?

実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。

90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。

――矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。

僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。

ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする。

――結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。

誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。

仮に医者が安楽死させるなら、良心の呵責(かしゃく)に苦しみながらやるべき。自分を守るためにガイドラインを作れ、法律で決めてくれというのは違うんじゃねえかな。今の国会議員に僕は人の命なんか決めてほしくねえや。結局、今そこで患者を診ている医者が、引導を渡す役を引き受けるしかないんじゃないですかね。
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/entertainment/toyokeizai-59971.html

2 ななし 2015/02/08(日) 10:41:34.74 ID:u8OxOBC40.net
脳死判定が恣意的になったりするんだろ
怖いわ

9 ななし 2015/02/08(日) 10:44:44.37 ID:Unv7baNO0.net

11 ななし 2015/02/08(日) 10:45:05.40 ID:aCk/EQmH0.net
建前無い社会は殺伐としちゃうよ

13 ななし 2015/02/08(日) 10:45:53.55 ID:0/A084S80.net
それはあるが医者が判断する領分ではない
その程度のこともわからないバカ

14 ななし 2015/02/08(日) 10:45:55.36 ID:IAa4eNKH0.net
確かに同じ年齢でも会社経営者とフリーターじゃ
どっちに価値があるか明確だしな

41 ななし 2015/02/08(日) 10:56:19.62 ID:wmftilAg0.net
>>14
23歳フリーターと23歳経営者
俺ならフリーターを助けるね

43 ななし 2015/02/08(日) 10:56:58.00 ID:iWPQDUUo0.net
>>41
なんで?

66 ななし 2015/02/08(日) 11:08:01.80 ID:2ujcTdjn0.net
>>43
マイナスの価値
なにも金銭換算することばかりが能じゃない
23歳の経営者って胡散臭い方が確率的に高い
真面目な自営なら別としてね

91 ななし 2015/02/08(日) 11:18:12.86 ID:Z7mTgPvI0.net
>>66
一理ある
悪どい方法で稼いでる奴はむしろ害悪や

177 ななし 2015/02/08(日) 11:57:05.13 ID:vgc39l9t0.net
>>66
ひねくれ過ぎて気持ち悪いな

180 ななし 2015/02/08(日) 11:57:24.72 ID:yYJytCJN0.net
>>66
だが医療費を回収できるのは23歳経営者

18 ななし 2015/02/08(日) 10:47:03.08 ID:pmZX1hTD0.net
だれもが思ってることは
俺の命が最優先!
だよね

20 ななし 2015/02/08(日) 10:48:53.70 ID:bmaKY/CH0.net
もう、というか近代化の時代だからこそ
建前は必要なんだろうが

27 ななし 2015/02/08(日) 10:51:04.87 ID:Rh1O9fFt0.net
まあ、自殺未遂とかは完全に後回しで良いかなとは思う

28 ななし 2015/02/08(日) 10:51:07.84 ID:ThKjUWq1O.net
こんなこと言うヤツは医者として下だな

31 ななし 2015/02/08(日) 10:52:21.47 ID:1sBu+N710.net
金銭的価値だろ?
そりゃお金を持ってる人が多く医療費を払えるに決まっている
でも金銭に全てを集約して考える考え方もどうなのかな

34 ななし 2015/02/08(日) 10:54:02.10 ID:/12R0qYA0.net
これは医療スタッフ誰でも思う事
酒飲んで暴れて大怪我しておいて勝手に救急車呼びやがって!
こなくていいんだよてめーら

35 ななし 2015/02/08(日) 10:54:48.64 ID:ThKjUWq1O.net
アル中は精神病だ
アルコール含め薬物依存ってやめたくてもやめられないから問題なのに
好き勝手やってるとか医者のくせによく言えるな

125 ななし 2015/02/08(日) 11:36:29.40 ID:LNv1PbMK0.net
>>35
やめたくてもやめられない状態になったのは本人の問題だろ
大半の人間はそうはならないから

128 ななし 2015/02/08(日) 11:39:11.54 ID:ThKjUWq1O.net
>>125
じゃあなんでアルコール依存症専門外来ってのがあるんだよ

144 ななし 2015/02/08(日) 11:43:03.19 ID:ljgvxl4T0.net
>>128
放置すれば社会的損失になるから

148 ななし 2015/02/08(日) 11:44:35.15 ID:UcaVgGSa0.net
>>128
金に成るからだよ

38 ななし 2015/02/08(日) 10:55:22.25 ID:5R+I/gaP0.net
高給取りエリートとニートでは命の価値が違うのはあたりまえ

39 ななし 2015/02/08(日) 10:55:47.92 ID:ITHo6C1p0.net
だけど医者がいうことじゃないな

42 ななし 2015/02/08(日) 10:56:24.41 ID:4V82t/jj0.net
>>39
むしろ現場の意見しか説得力無い

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悩むことの意義と無意義

「岩下俊三のブログ」から転載。
私は、親と子はまったく別個の存在と思っているし、子供の犯罪に親の責任があるとは思わないので、この文章を掲載したのは文章冒頭に書かれた中村本然氏のこととはまったく無関係に、「悩むことの意義」について考えてみるためである。さらに言えば、かなり前に、ある若者から社会(大人たち)に投げかけられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について考えるためである。
先に結論から言えば、「悩むことで(人格が)大きくなる」者もいれば、悩むことでノイローゼになり、鬱病になり、人格破産する者もいるというのが常識的な結論になるだろう。「みんな悩んで大きくなった」というのがたとえば旧制高等学校時代の若者(当時は知的階級の若者の多くは哲学的問題に悩むのが常だった。もっとも、一般庶民は別か。)の話だとするなら、彼らが日本を戦争に導き、日本を破滅させたではないか。
ついでに言えば、下の文章に引用された歌の「ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」は、テレビコマーシャルで野坂昭如が歌ったものだと思うが、私の記憶では「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み~んな悩んで大きくなった」という歌詞であり、悩んで大きくなったのはソクラテスやプラトンではなく、ソクラテスやプラトンを読んで理解しようと悩む若者のことである。そして、果たして悩むことでみんな大きくなったかと言えば、私の考えでは、悩むことで大きくなる者半分、劣化する者半分、といったところだ。
で、今の若者は、悩むことなど馬鹿らしい、というのが大半だろう。「あれかこれか」の選択があれば、少しでも経済合理性があるのを瞬時に選び、快楽性の高いものを瞬時に選べばそれでいい、という思考なのではないか。(これを私は「実存主義」の一種と見ている。もちろん、「主義」ではなく、無意識的な、実存主義的思考、ということだ。)それは、テレビゲームなどで培われ、学校のテストや入試で培われた「反射神経的選択能力」であり、そこには悩むことの意義など最初から存在していないのだ。そして、それが果たして悪いことなのか、私は判断しかねているのである。というのは、私自身は悩み多き青春時代を送ってきた人間であり、その自分自身の人生前半を無価値だったとまで言うのはためらいがあるし、また、悩みの無い(幸福な)青春を送りたかった、という後悔もあるからだ。(トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に、こうした「悩むように生まれついた者」から「悩まない(幸福な)人々」への憧れと羨望が見事に描かれている。もちろん、「悩まない」とは「物事を深く考えない」、ということである。)
話が長くなったので、「悩むこと」について簡単な結論を出しておく。
悩むことに意義があるのは、それが生産的な、前進的な思考である場合のみだろう。そして、「悩む」とは、通常は、実はそれが思考の堂々巡り、結論の出ない泥沼状態であることを意味する。(しかも、ほとんどが苦痛と悲哀を伴っている。)つまり、「悩むこと自体に意味がある」というのは、どんな滅茶苦茶なフォームであれ、球数を多く投げていればいい投手になる、という野蛮な時代のトレーニングのようなものではないか。間違った練習方法は、むしろ体を悪い状態(間違ったフォーム)に固定するものだ、というのが正しい理解だろう。悩むことによって思考が深化し、人間が大きくなるのではない。「考える」こと、しかも堂々巡りではなく、前進的に考えることでしか思考力は高まらないだろう。これは何十年もの間、考えているようで何一つ「考える」ことができなかった私自身の経験から言っている。「思考の堂々巡り」、これこそが最悪の習慣である。(言うまでもないが、これは「同じテーマについて考える」ことの否定ではない。思考が、毎度同じようにしか進展しないことを言っているのである。「同じテーマについて考える」ことは、むしろ大事なことである。それは優れた科学者や芸術家や哲学者の特質だろう。)

「なぜ人を殺してはいけないのか」については、いずれ気が向いた時にでも考えたい。たぶん、そこで「実存主義」(前出の歌の中のニーチェもサルトルも実存主義らしい。そして、石原慎太郎は自分自身を実存主義者だと規定している。)についての私の解釈も論じることになるかと思う。

岩下俊三氏の書かれたものを批判する内容になってしまったが、実はこの「実存主義」的思考が現代の若者の特質だ、と仮定すれば、そして石原慎太郎を(日本における)実存主義の旗手だとすれば、現代は無数の小石原慎太郎で溢れている、ということであり、中村桜州の事件はそれを如実に示したものだと考えることもできる。つまり、話の大筋では、私は岩下俊三氏と一致しているように思う。ただ、「悩むことの意義」という点ではかなり意見を異にする、というだけである。



(以下引用)



速報:紀ノ川小5殺害事件犯人逮捕

thumd4217
空海の研究では一目置かれていた僧侶であり、高野山大学の教授でもある中村本然氏がわが子を通して「図らずも」つきつけた日本の教育や社会の問題は
大きいと言わざるを得ない。

就職もせず(できず)親の家にひき籠って次第に変調をきたしている若者は決して特異な例ではない。高い教養と人格を備えた本然氏であろうともかかる建前だけの、デオドラントな見せかけだけの無臭な社会にあっては最も身近な息子ですら繋ぎ止め制御することが出来なかったのである。

しかも、

大手メディアは「人権」を盾にすべてを覆い隠し、本質的な問題提起から逃げようとするばかりである。すべてをさらけ出しているのは誤報も含めネットだけだ。これではほんとのNEWSを知ることはだれもできなくなってしまう。

メディアリテラシーの問題?バカ言ってんじゃない。単にビビってるだけだろうがっ!!

過日イスラム国に殺された湯川遙菜の死体の写真を教育の現場でつかった教師が教育委員会やPTAといった「デオドラント建前社会」の権化から糾弾されたけれど、人間の「死」というものがなんであるか、また「報道」とはなんであるかを鋭く問題提起して「考えさせる」ことは重要であると思う。

近年、「考える力」や「悩む力」をなくした子供(若者)が増えている。

四択に早く答える訓練しかしていないロボットを育成することには異常に熱心な親は「悩み考える」時間を無駄だとして直ちにメンタルケアの専門家を有難がる傾向にある。

問題にいち早く対処してどうする?問題の前で立ちすくみ躊躇するから、豊かな人間性がゆっくり醸成されていくのだ。

昭和に流行った不良のを思い出せ!


「♪ソソ、ソクラテスもプラトンも~みんな悩んで大きくなった」

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人生に失敗は無い。すべて経験。

別ブログに載せた記事だが、私の基本思想に関する記事なのでここにも載せておく。
私は体質的に道学者的なので、書くことが説教臭いが、書きたいことを書くのが私にとってのブログの意味なので、ご容赦願いたい。まあ、社会の底辺の人間が「負けることの哲学」を説教しても何の説得力も無いのだが。
なお、タイトルに書いた「経験」は昨日の「谷間の百合」ブログで引用されていた森有正独自の用語の「経験」(引用2参照)ではなく、普通の意味である。森有正流で言えば「体験」か。もっとも、「体験」のすべてが「経験」であるような生き方もあるのかもしれないが、そういう生き方も疲れそうである。「体験」の中に、時折自分自身を新たな存在に変える「経験」が混ざる。人生はそれでいいのではないだろうか。そして、「失敗」こそがそういう「経験」となりうる大きな機会だろう。まあ、失敗するのもチャレンジの結果なのだから、それを誇りにしていいのである。と、面倒なことからはいつも逃げてきた私は思うw 「逃げちゃいけない、逃げちゃいけない」と碇シンジ君のように頑張るのもいいが、頑張った挙句、キチガイになる者も多いのである。時には進み、時には退く。これが大事。




(以下転載)


素晴らしい結論である。ツィートした人は彼を揶揄しているのだろうが、実は24年間の人間的成長がここにはある。
逆に言えば、

負けることも大事。投げ出すことも大事。逃げ出すことも大事、ということだ。

負けることで得られる教訓がある。
投げ出すことで泥沼からの脱出がある。
逃げ出すことで新しい道が開ける。

ただし、投げ出すこと、逃げ出すことが習性になってはいけない、というだけだ。



     fromdusktildawnさんがリツイート


元大事マンブラザーズバンド立川俊之先生がこの24年間で導き出した「負けないこと」「投げ出さないこと」「逃げ出さないこと」「信じ抜くこと」の中で結局どれが一番大事か、への答え。

    




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