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仏とは自分自身である。

「バカ国民帝国日本の滅亡」から、記事の一部を抜粋転載。
キリスト教やイスラム教が、仏教の影響下で生まれた、というのは面白い想像だと思う。実際、これらの宗教には、エゴイズムの否定、という共通点がある。つまり、「我」の否定だ。仏教は宗教と言うよりは哲学だから、それが形を変えて宗教化したのがキリスト教だ、と言えるのではないか。
つまり、宗教とは、崇拝の対象としての何かの(他者としての)「神」を前提とするが、仏教には崇拝の対象としての他者なる「神」は存在せず、悟りを得れば、その人自身が「仏」になるという点で、キリスト教などとは異なるわけだ。ここが神と仏の根本的相違だ。
大日如来だとか、何とか仏を「神」のように拝むというのは、仏教の精神に反した行為だと私は思っている。禅宗で言う、「祖師に遭えば祖師を殺し、仏に遭えば仏を殺せ(殺す)」というのは、そうした錯誤を戒めるものだろう。いわんや、商売としての新興宗教などが「仏」を神のように拝ませ、仏教の教義の一部を自分たちの教義として、仏教を利用して金儲けをしている現実は、仏教を辱め、貶めるものである。
ただし、多くの仏教で「他者としての仏」を神のような存在として拝むのは、それによって自我の放棄の機縁としているという面はあるだろう。しかし、それは仏教の本質を誤らせるものだ。



(以下引用)最初の一文の主語はもちろん、「仏教は」である。



宗教であって、宗教ではない…迷信やおまじないとはこれらの一線を画す教えなのです。




アショーカ王の尽力で、西はエジプト、シリア、ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタンにまで伝わりました。




ただ、その地域には「仏教」として根付くことはなく、イスラム教、キリスト教と形を変えました。





いずれも、教義や戒律に類似点があり、質素な生活や所有の否定、己の善(良心)以外に頼らないといったところなどが共通しています。




西洋や中東の宗教、文化の底辺に、仏教の教えがあるのではないでしょうか?




1+1は、だれがどうしようとも、2にしかなりませんからね…





老荘思想の中心人物、荘子と”禅”にも共通点があります。




老荘思想にも、仏教が影響を与えている可能性がありますね…





イスラム教といえば、「偶像崇拝の禁止」…ですよね?




キリスト教も本来は、そうですし、一番古株の仏教が、そもそも「偶像崇拝の禁止」なのです。





ゴータマが生きていた間はもちろん、死んでからも百年間、仏教教団は崇拝の対象となるものを建造しない方針を貫いていました。




「仏法僧」の三つ以外を崇めることは、仏教の外部を崇めることだ…ということでした。





まあ、寺も、位牌も、墓もないみたいなもんですか…「私はそこにはいません。千の風になって…」w




もっとも、死者を祀るものでは本来、ないですからね…





葬式仏教は、まさに「仏教の外部」です。そんなものを熱心にやっても「成仏」はできません…




実際、行われているのは卑弥呼以来の呪術でしょうがwwww仏教の体裁をしてはいても…





別に八百万の神様を拝んでもいいのですが、そんなものに帰依し、頼りにしてはいけないってことです。




仏教は、宗教であって、宗教ではないのでね…




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他者への執着と、自我の放棄

「バカ国民帝国日本の滅亡」から転載。
記事も面白いが、コメント間の問答が面白い。
母親が、子供のために自分の死を忘れる、というのはいわば子供という存在に執着する執着心から、自分自身の死の恐怖を忘れることであり、君子が死を恐れないのは、この世の何物にも執着しないから死を恐れないのである。つまり、この二つは、まったく違う方向から、同じ結果になっている。
私の考える「宇宙の原理」は、「無限大はゼロに近づく」というものだが、他への愛着心の極限は自我の放棄に至るわけだ。逆に、自我を放棄すればするほど、この世界そのものへの愛(世界と自分は同一であるという思い)に至る、ということもあるだろう。表と思って進んでいたら、いつのまにか裏側に回っていた、というメビウスの輪のようなものである。

余談だが、「観念する」という言葉は面白い。「観念する」とは本来哲学的(仏教的)思索へ没頭することだが、それが「あきらめる」意味になるというのは、実はこの言葉の本質を見事に示している。また、「あきらめる」とは本来、「明らめる」、つまり「明らかにする」意味だったというが、「明らかにする」ことが「あきらめる」につながるというのも、日本人が仏教というものの本質を体感的に知っていたことを示しているのではないだろうか。



(以下引用)


”君子の自由”と”小人の自由”
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まったく内実の異なるものが、同じ「自由」ということばで呼ばれている…





奴隷や囚人にとっての「自由」とは何だろう?




喰えることであり、痛い目に遭わずに済むことであり、




いつかは、この境遇から脱することができると信じられる”希望”であろう…





自分が、自由でいられること、自由にできるモノがあること。




そして、自由な時間があることだろう。





欲望が満たされていること…




恐怖から逃れられていること…





それが、”奴隷の自由”、”囚人の自由”である。





日本人の多くが求めている「自由」はこれである。





ゆえに、彼らはたやすく権力に支配される…




権力に支配されて、「自分が自由である」と錯覚している…





豚舎でブタは腹いっぱい食えて、寒さもなく、天敵の襲来にも脅かされず、「自由」を満喫している。




だが、彼らはなにひとつ自分で決定できはしないし、生死も飼い主に委ねられている。





ブタどもにとって、欲望が満たされることが、「幸福」であり、「自由」なのである…




ブタどもにとって、「安全」を信じられ、恐怖のないことが「幸福」であり、「自由」なのだ。





喰われるために生きている者たち…





君子は、権力に支配されず、主体的な立場を維持しようとする。




だから、くだらぬ欲をそもそももたない…




偽りなく生きているので、怖いモノがない…




欲をもたず、恐怖しない…




だから、君子は権力から自由である。




権力に対して、常に主体的な立場を維持することができる。





そもそも権力とはなにか?…




欲で釣り、刑で脅すことである。





欲と恐怖によって、人間を支配することができる。




だが、君子は支配されることがない。





欲がないから釣られない。




死ぬことも怖くないから、脅しが通じない。





ゆえに、君子は常に”自由”である。





君子は力を求めない。いや…求めはするが、求め方が違うのだ…




何も支配しようとしない…ゆえに、万物が自分にしたがうようになる…





他力に寄り添うことで、他力を自力に変えてしまう…




相手や仲間の力を利用する…引き出す…それに乗る…





無欲恬淡、柔弱謙下不争の徳は、権力に支配されない自由な自分を維持する極意である。


 

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仮面の維持と真面目病

「マドモワゼル愛」のブログから転載。
私は現実生活では真面目そのものの人間であり、たまに冗談を言ってもそれが冗談と受け取ってもらえないような男である。まあ、単に冗談が下手なだけだが、周囲とは冗談やユーモアの感覚が違うとも言える。そもそも筒井康隆を好むような人間の冗談が普通の世界で受け入れられるわけがない。だから、あえて真面目を装っているという部分もある。
たとえば、こんなジョーク(いわゆるシック・ジョーク、あるいはブラック・ジョークだ。)を人前で話したら、とんでもない人でなしだと思われるのは請け合いだ。


(ここで「セカンドベース」というジョークを書いたのだが、やはりあまりにひどいジョークなので消してしまった。障害者差別ジョークというよりは、「人間そのものを物のレベルに引きずり下ろして笑う」というスラップスティック的な笑いなのだが、そういう笑いを嫌う人は多いだろうから、あえて地雷を踏むことはしないでおく。臆病者と笑わば笑え。)


どうでもいい話が長くなった。下記記事で言う「真面目病」の人というのは、現実生活では周囲とよく協調し、お互い冗談なども言ったりするが、実は生活の大半が「仮面」の維持に費やされていて、その生活のストレスを心の中に溜め込み過ぎて鬱病になるというタイプだ。実際、鬱病になる人間はかなり多いらしいし、鬱病予備軍は膨大な数に上るだろう。そういう人には、それが「真面目病」だ、と教えれば、それだけで治るのではないか。
もっとも、真面目病は社会で成功する要因の一つでもあり、社会全体が維持される要因でもあるから、それを「完治」させるのはまた問題かもしれない。真面目病の完治とは、いい加減人間の出来上がり、なのだから。(というわけで、昨日の「『いい加減』は『良い加減』」へと話がつながるわけだ。)
私自身のストレス対策は単純で、「対世間」の時間とプライベートな時間を完全に分けること、そしてプライベートな時間ではあくまで怠惰に、気楽に過ごすことである。いやまあ、ストレス対策と言うよりはただの怠け者の自己弁護なのだが。(念のために言うが、これでも若い頃は「生きるべきか死すべきか」で毎日のように悩んだ真面目人間でもあったのだ。ある意味、真面目病を克服してただのゴクツブシ・駄目人間になったとも言える。まあ、他人に迷惑さえかけなければ、人間、どう生きようがいいのである。)


(以下引用)



2014-05-23 23:36:15

真面目病

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この世にあるもっとも重い病気は真面目病。

まあ、そんなことはないだろうが、時代が押し迫ってくると、一番割に合わなくなるのが、真面目な人だ。

会社が言うままに、、、国が言うままに、、、お医者さんが言うままに、、、真面目だから反発せずに従う。

本気で従うのならいいが、心の片隅には不信があり、気は乗らない。

でも反発したり、反抗することなどはできない。真面目な人なのだから。上が言うままに、従うのが美徳であると信じているが、本当のところは怖いからだ。

ノーというのが怖い。真面目でいれば周囲から浮き上がらない。嫌われない、、そう本気で思ってしまうのだろう。

言いたいことも言えず、真面目に生きてきた人が、不運にも亡くなったとしたら、その葬式は本当に暗いものになると思う。

きっと、どこかで恨んでいることだろうと、、、葬儀に来た人はなんとなく感じてしまう。

この世で善人、、、あの世で悪魔に変身、、、きっとそうなるのではと人は恐れる。

反対に好き勝手やって長寿をまっとうした人の葬式なら、思い出話しにも花が咲く。厄落としの酒も安心して飲める。

もともと、真面目というのは、周囲から期待された人物を演じるという役であり、しょせん無理がある。

癌にかかり、医者が言うままに抗がん治療を行う、、、あまりの苦しみにもうやめたいというのが、絶対の本音だと思う。

しかし、もう一度やりましょう、、という医者の魔の声にノーと言えない。そしてのたうちまわる苦痛。もう死んだってこんなことよりはましだ、、、と怒鳴れない。

怒鳴れば、道が開けるかもしれないのに。一番大事なイノチを見ず知らずの医者に預けてしまう。

医者は決して自分が癌になったら抗ガン治療などしないというのに、そんな医者の進めに従う。

でもどこかおかしい、、、どうしても嫌だ、、、でも真面目だから言えない。

そんな日本人が本当に多いと思う。どうせ殺されるのなら、もっと、感情的な抵抗してもそろそろいいのではないかと思ってしまう。

真面目に苦しみに耐える限度を今の日本は越えてしまっているように感じるのだ。

ブラック企業がのさばるのも、政治のあまりの圧政が続くのも、真面目な人が多いからインチキが通用してしまうのだ。

癌に関しては、世界の主流はとっくに抗ガン治療などやっていないと聞く。じゃ何が主流かというと、「放っておく」と。私も最初は耳を疑った。

真面目な人の上に、白衣を着た悪魔が踊っている、、
白衣は医学であり、科学であり、法曹であり、教育であり、政治であり、経済であり、金融であり、、、

そろそろ真面目病からさよならする時期が来ているのではないか。「これじゃ殺されちまう」と言っていい頃合いではないだろうか。

本当に殺されちゃうかもしれないのだから。真面目に我慢しても、もう誰も喜ばない。イノチが悲しむだけ。

食堂チェーンで一斉にバイトがストライキを行う、、、という話しがあるが、そこまで本当に追い詰められているのだと思う。

アメリカでもすごい人の数がワシントンに集まりだしたようだ。退役軍人が怒りだしている。私がイノチをかけて守ろうとしてきたアメリカとは違う、、、きっとそういう気持ちなのだと思う。

日本も同じだろう。下級裁判官とはいえ、やっと原発再稼働をダメと言ってくれた。偉いものだ。一縷の望みを感じて、心がスーッとした日本人も多かったと思う。

天皇皇后両陛下はその頃、足尾銅山に出向かれた。私的に行かれたようである。足尾銅山では公害により多くのイノチが奪われた、負の記録を記念した場所だ。

原発再稼働の違法性を裁判が認め、同時に天皇は足尾銅山へ出向かれた。偶然かもしれないが、思いは一つとの希望が湧いてくる。

面白いことに、政権のブレーンの一人は、天皇のご発言が安倍政権を批判しているように国民が誤解すると、大御心を批判した。

天皇は憲法順守をお述べになっただけで、当たり前のことである。それは日本の決まりごとなのだから。天皇も政治家も国民も憲法を守る、、当たり前のご発言。

憲法を順守するのが政治の仕事。憲法解釈が首相の自由なら、憲法など不要。

一体何がしたいのか。真面目な人はまだそれでも従うのか。今の日本は真面目な人の口を無理やり押えて抗がん剤を流し込むような暴挙に出ているように、私には思えてしまう。

しかしあまりにおかしすぎるので、ここまで来ると、やはり多くの人がおかしいと思い出す。

おかしなもののあぶり出しと考えると、逆に納得がいく。誰の目にも、今、おかしなものが、各地で各階層で、あぶりだされつつあるのではないだろうか。




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「いい加減」と「良い加減」

「in deep」の最新記事に次のような感慨が書かれていたが、「いい加減に生きる」というのは非常に大事なことだと思う。後になると、その時の「いい加減」が、実はその人にとっては「良い加減」であったことが分かったりするものだ。(言うまでも無いが、これは根が真面目な人に関しての話である。)
「大事な決断は簡単にやれ」という言葉もある。大事な決断は、あまりに考察要素が多く、場合によっては問題が紛糾していて、そのすべてを考えていては「ムカデが自分の足をどう動かしてどう歩くべきか考えて歩けなくなる」ようなことにもなりかねない。そこで、大事な決断は軽くやるのである。結婚とかね。(笑)ただし、「責任はすべて自分で引き受ける」意志で行うことが大事だろう。
私の父から教えられた言葉がある。と言うより、その遺した備忘録の中にあった昔の人の言葉なのだが、(フランスの詩人ヴィーニーとやらの言葉らしい。)

うめくも、泣くも、祈るも、
同じく卑怯。
運命がお前を招いた道で
長く苦しいお前の務めを
逞しく果せ。
その後で俺のように物言わず
苦しんで死ね。


という言葉は、人生の嫌なことから常に逃げてきた私にはなかなか厳しい叱責だが、「人生に過剰な期待をするな」という一点では私自身の人生訓の一つにもなってきたようだ。要するに、人生の精神的苦痛とは、予定していたもの(妄想的期待)と受け取るもの(現実)との落差から来るものがほとんどだ、と私は考えているのである。昔の農民や農奴の生活を考えれば、今の平凡な暮らしも天国のようなものだ、と私は思っている。私が政治に不満を言うのは、政治が人々の暮らしをより悪化させる方向に動いているからにすぎないのである。



(以下引用)



私などはもう 50代ですし、すでに遅い感じはありますが、ただ、ひとつだけ救いがあるとすれば、私は「自分の理想に沿った理念のもとで生きてくることができた」という意味では、比較的幸せな部分が多かったといえる部分があるということがあります。

その理念の具体的なところは、気分を害される方もあるかしれないですので、曖昧にしておきますけれど、傍から見れば、「単にいい加減な生き方」と言われて当然な生き方ですし、そう言われても怒るどころか、「そう言われることを目指していたので嬉しいです」と言ってしまいかねない部分もあるのですが、ここまでの人生はともかく、これから年齢を重ねて、1日1日と「死」へと近づいていく中で、

「生と死のそれぞれの本当の意味」

をもう少しきちんと知りたく、そして、知るだけでなく、「意識してみたい」、あるいは「体感してみたい」ということがあります。

どれだけ健康に気をつけようと、80歳、90歳、100歳、あるいはもうちょい位までには確実に人は「生」を終えます。

それでまあ・・・もしかすると、薔薇十字的な学問、あるいはそれを書いているシュタイナー的な概念というものを勉強することによって、「自分が死ぬことに対しての恐怖がなくなる」ということも生じるかもしれないですが、それ以上に、

むしろ死を心待ちにする時

ということにまで行き着いたりするのかもしれないですし。


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冷笑

「小田嶋隆ツィッター」から転載。
ツィッターに限らず、インターネット上の会話や議論において広く見られるのがこの「冷笑」という態度である。言うまでもなく、「相手を冷笑できる自分は相手に勝っている。相手より上」ということを示すためである。
前々から言っている、日本人は相手との上下関係に異常に拘る、ということの一つだが、実生活での上下関係が生存に関わる重大事であるのは世界的に普遍的であるのに対し、これはただ「自分の頭の中だけで」相手との上下関係を作り上げ、それで自己満足する、という社会的精神病である。その実例は「2ちゃんねる」を見ればいくらでもある。最近は「阿修羅」などでもそういう輩が多い。まあ、「阿修羅」のそういう連中は政府御用達の「ネット工作会社」の社員やアルバイト、つまり工作員だとは思うが。
こうしたネット上の「発言者叩き」というのは特に政府にとって都合の悪い発言に対し行われることが多いことから、それが工作員であることが容易に推定できるのだが、実際に、そうした攻撃によって正直な発言が萎縮させられていくのは事実である。
しかし、問題が「冷笑」の話から逸れた。
私は知的な冷笑は嫌いではない。高度に知的な人間が知的に劣った人間に対し冷笑的な気持ちになるのは当然だろう。私自身、オスカー・ワイルドの描くような冷笑的人間は大好きである。(もっとも、真に知的な人間は、知的レベルなど相対性の問題でしかないと分かっているから他者に対しては寛容なのではないか、とも思う。つまり、猿が他の猿を冷笑したって仕方がない、ということだ。)だが、ネット上に溢れる冷笑は、劣った者がより優れた者の発言の揚げ足を取り、重箱の隅をつついて些細なミスを見つけてはそれを貶めるという類のものだ。つまり、「冷笑する資格」の無い人間が冷笑をしているという困った事態である。まあ、ネット時代とは一億総批評家時代でもあるし、そうなるとお互いが自分の知的優越性を競いあい、ありもしない自分の才知をひけらかすために他者攻撃に勤しむようになるのは必然かもしれない。

私が昔から大好きな言葉がある。それはヴィリェ・ド・リラダンの或る作品中にあるという「生活などは召使に任せておけ」という言葉だが、これくらい大きな冷笑は爽快である。



(以下引用)




小田嶋隆 @tako_ashi  ·  13 時間

ふつうの住宅街で道を尋ねれば、よほどのことがない限り、親切な人が教えてくれる。「お前は道も知らないで道を歩いているのか(プゲラ)」なんていう相手にはまず会わずにすむ。ツイッターで質問をすると、そういうヤツがワラワラとあらわれる

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「自然真営道」より

ブログを雑記帳代わりにして、安藤昌益の「自然真営道」の一部を大雑把に現代語訳してみる。
(「日本古典文学大系97近世思想家文集」より。)
ここに書かれたのは極論だが、一面の真理はあるのではないか。



(p606)

聖人が言う、「身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにする」と。
天下の学者はこれを尊んでいる。これは尊いだろうか。凶年に遭う時は、自ら耕して労働せず、貪欲に他人の稼ぎに寄生して食っている者たちは天下に先立ってわが身を修めることはできず、飢えに苦しんで、他人の作る物を貪り、或いは餓死する。
自ら耕して労働する人々は言う、「学者は尊いと言う。凶年で、実りが無い時も飢えず、凍えないものかと思っていたが、多くの人より先に飢えに苦しむ。このことから見るならば、学者や書物は人に役立つものではない。かえって人を害するものである。忌むべきものは書物ではないか」と。
儒・仏・医・老・荘・巫(神主のこと)・私法を作って人を搾取している者ども・自ら耕さず他人に寄生して書物などを書いて暮らしている者どもは、無字・無学の人々に戒められて、何とも返答できない。
もともと書物や学問は天道を盗む(偽る)罪悪であるからこうなるのである。わが一身を修めることすらできないのに、どうして国家や天下を治め平らかにできようか。これをわきまえない者が「聖人」に学ぶという儒教や、仏教の学者である。であるから書物は天下の大怨である。

或る人が質問して言う、「今の世は国中に嘘の言葉や偽りの行為が横行して、真実の言葉や真実の行為が無いのはどうしてでしょうか」と。
答えて言う、「聖人が出て五倫五常の法を立て、偽りの言葉を教え、天道・天下を盗む。仏教の輩が現れて嘘の話や方便(自分にとって都合の良い言葉)を教えて社会の上位に登り、人々からの布施を貪る。老子が出て谷神・不死の嘘話を教えて、それを商売にして貪る。荘周が出て寓話や嘘話を語って盗み食らう。医書を作る者が出て何の根拠も無い偽り事を言って人殺しを仕事として貪り食う。聖徳太子が出て「厚く三宝を敬え」などと言って嘘をつく。みな嘘偽りを教えとしている。世界に嘘偽りが横行するのはこのためである。これは、書物や学問のせいである。だから、天下の怨みである」。

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教育勅語の夢人流解釈

教育勅語の読み方や現代語訳はいろいろ書かれているだろうが、私流に解釈してみる。まず、漢字の読みをカッコ内に入れておく。それだけでも大意は分かるだろう。漢和辞典など手元に無いので、間違いも当然あるかと思う。なお、記憶で書いておくが、「徳を樹つるは、」の部分は「徳を樹つること深厚なり。」であったと思う。そうでないと言葉の調子が悪い。下記の文章は、もしかしたら未定稿(ほぼ決定稿に近いだろうが)ではないか。


朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹(た)ツルハ 、
此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。

爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ 、
恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修メ、業ヲ習ヒ、
以(もっ)テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ、德器ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務ヲ開キ、
常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇公ニ奉ジ、
以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。

是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、
之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。
朕爾臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日

御名御璽(ぎょめいぎょじ)




(夢人訳)*「徳を樹つるは、」の部分は「徳を樹つること深厚なり。」で訳しておく。また「爾(なんじ)臣民」は、当時の気風のままに、あえて直訳にしておく。また「皇運」を「皇室の運」ではなく「皇国の運」としたのは、逆に今風すぎるかもしれない。そういう不統一はある。「中外」は、当時の事情で考えれば「外」とは(日本統治下の)韓国や台湾を意味する、と見るべきかもしれないが、そういう「こちたき(うるさい)議論」は他の人に任せる。



私(明治天皇)の考えるところでは、我が皇室の祖である最初の天皇がこの(日本という)国を始めたことはまさに広遠な事業であり、道徳の基礎をお定めになったのは深く厚いご配慮であった。これはわが国の姿(国体)の精髄や花とも言うべきものであり、教育の深い源(みなもと)も実にまたここに存する。

お前たち臣民は、父母には孝であり、兄弟は仲良く、夫婦はなごやかに、友人はお互いを信じ、恭しく倹約にわが身を保ち、多くの人に博愛を施し、学問を修め、仕事を習い、それを通じて智能を発展向上させ、道徳的人格を完成し、進んで公衆の利益となることを広め、世人の務めとすべきことを開発し、
常に国の憲法を重んじ、国の法律に従い、いったん国に危機が訪れれば正しい勇気を持って公の務めに奉仕し、
それによって天地同様に終わりのないこの皇国の運命を助けるべきである。

ここに述べた事柄(を守ること)は、ただ私の忠実で良い臣民であるお前たちだけでなく、お前たちの先祖の遺風を明らかにし、輝かすものとするに十分だろう。
この(国家道徳の基礎たる)道は、実に、我が皇室の祖、最初の天皇の遺した教えであり、皇室の子孫もその臣民も共に守っていくべきものであり、
この道は古今を通じて誤ることはなく、国の内外に施しても(道理に)矛盾はない。
私はお前たち臣民とともに、この教えに従い、すべての国民が高い道徳性の点で一つになることを心から願っている。


明治二十三年十月三十日


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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