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神とは何か

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から転載。
神とは何か、と言えば、私は、人間一人ひとりの中にある「神性(divinity)」のことだ、と考えている。もちろん、人間の中には「悪魔性」もある。いずれにせよ、神とは自分の外部にあるものではない。
世界の創造者としての神を信仰し、その教えとされる様々な教義に縛られ、他の宗教やその信者、他民族を「悪魔(「satan」は「敵」が原義だと言う。)」として攻撃し、殲滅しようと図るなど、それこそ、悪魔的所業である。これが旧約聖書における「神」と、その教えに従う民族の所業であった。キリストはその教えを変え、(自分は神の子だから、その資格があると称した。)「汝の敵を愛せ」と真逆の道を教えた。その結果、彼は十字架上で殺されたが、その教えは「新約」として世界に広まった。だが、ローマ教会の手でその教えは「新約聖書」の内容とは甚だしく異なるものに変えられ、再び「敵を殲滅せよ」の教えとなった。
だが、こうした話は、別の文章(「革命者キリスト」)の中で書いたことだ。
今は、「神とは誰の心の中にもある「神性」のことだ」と言っておく。
ケンシロウに救われた子供が彼を「神様」と言ったのは、正しい。


(以下引用)


”神様”とは…
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日没が”一日の終わり”であるユダヤの仕来りでは…当然のごとく…




日没が、”次の日の始まり”となる…





同様に、24日の日没から25日の日没までが”クリスマス”である。





「きよしこの夜」のイメージで、ついついこの日がイエスの誕生日のように思ってしまうが、馬小屋で生まれたわけだから、本当は夏だったとされる…




もともとあった”冬至”の祭りに、「キリストが死んでから三日後に”復活”した」という言い伝えを重ねあわせ、冬至の三日後に”キリストのミサ”を行うようになったのが、どうやら真相らしい…




また”クリスマス”といえば、”サンタクロース”だが、これを”サータン”、”クロノス”と読み替えるといずれも土星を意味するローマ神話の神様の名となる。




西洋占星術でも、冬至からの一か月は”山羊座”であり、守護星は土星であるから、ぴったり一致しているのは、おもしろい。




イエスが、ユダヤ人であったというのは、宗教改革のマルティン=ルターが、それに言及し、不快感を述べていることから、少なくともそのころから広く一般的な認識だったらしい…




ルターは、「悪魔的なユダヤ教」を嫌悪して、改宗を強要して拒否され、以来、ユダヤ教をずっと敵視していた。今日と同じような”反ユダヤ主義”が、もうこのころからあったわけである。




また一方、中東では青い目のイエスの肖像画があるという話もあってか、実は白人だったという説もあり、当ブログでも紹介したことがある。





何が本当のことかはよくわからないが、”真理”、”真実”というのは、もう少し明確なものだろうと思う。




たとえば、”神”とは何か…




何をもって”神”と呼ぶべきなのか…




”完全”…”全知全能”…”真善美”…”万物の創造主”…





そうした”属性”をもち…人々が崇拝したり、賛美したくなるもの…





少なくとも、そうしたものを人々は”神”として奉り、崇めている例が多い…





だが、そういう”神”の多くは”アイドル”…、つまり”偶像”とも呼ばれるものであり…




実はもっとも”不信心”な行為で、”御法度”なのである。





いつぞや、キリスト教をセールスしにきたおばちゃんに…




「あなたはなぜ神を信じるのか?」と尋ねたら…




「神様がこの世界をおつくりになったから」などと答えていた。





私に言わせれば、これは”偶像崇拝”の典型であり、邪教にほかならぬものだと思っている。





だいたい、「神が創造主」というのは旧約聖書の話で、キリストの教えのポイントではない。




ヨハネの福音書に「神は言葉である」という記述があるように、キリストが”神”とされるのは、彼が世界を創造したからではなく、真実の教えを述べ、人類に教えたからであろう。





人々が、その教えに従い実践すれば、まさにキリストの述べた”神の国”が実現する。




そのとき確かにキリストは、キリスト的世界を創造した”創造神”だったことが証明されるだろう。





人は、どういうときに”神様”を認め、その姿をそこにみるのだろうか…




次のエピソードが、その問いに答えてくれる…






常に恵まれない者、絶望の中にある者のことを忘れず、その者たちとともにある…




それがイエスの人生だったし、教えであった…





イエスが、創造主かどうかなんてどうでもいい…





彼の生き様、彼の求めた真実こそが”神”そのものなのであり…




我らが、それにしたがうかどうか…のみなのである…





したがうもしたがわないも”自由”…





ただ、我らがその教えを実践し、”神の国”を実現できたなら…




先にも述べたように、キリストが”創造主”だったことが改めて証明されるのである。


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日蓮の他宗排斥の激烈さ

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
私は仏教については「般若心経」を自分で解釈した以外にはまったく無知で、各宗派の教義の違いなどは調べたこともない。(たぶん、調べても理解できないだろう。)ただ、「念仏」は仏の名を唱えることで、「お題目」はお経の名を唱えることで、それぞれ極楽往生への道だ、と考えられているのではないか、と思っている。地獄や極楽を実在のものと信じるか、それとも悟りに至るための方便的な比喩と思うかはいろいろだろう。もちろん、私は後者の考えだが、仏教信者の中には来世を信じ、来世での極楽往生を信じる人も多いのだろう。
仏教の信者が、特定の宗派をなぜ選ぶのか、はたしてそれは自分の頭で深く考えた結果選んだものなのか、そこが私には一番の疑問で、何しろ、普通の人間にはお経の意味など理解可能だとは私にはとても思えないのである。せいぜいが「般若心経」までだと思う。これは「空観」だけが焦点だから、とてもわかりやすい。
まあ、どの宗派を選んでもいいのだが、その宗派が「他宗派は敵だ。敵は殺せ」と唱えるならば、それはカルトであり、社会の害悪というものだ。下の記事の内容の全体的な妥当性については私には判断できないが、日蓮の「他宗排斥」の激烈さは、古代ユダヤ教並みであることは確かなようだ。


(以下引用)「立正安国論」中の赤字部分は夢人による強調。もちろん、批判的に、である。他の色字部分は原文のまま。





選挙も近い、創価の一般信者の皆さんへ、よくよくお考えあるべし、

当ブログ、蝦夷梅雨明けか  2013-07-08
☆http://blog.goo.ne.jp/55yasuji/e/10caddc13784c8034926153cff82f2f4

の続編です、

◆http://blog.goo.ne.jp/kim_jung_nam/e/2d71e0cc9cbad21d1ea0afe08f34de13
創価学会に悩むすべての人へ  2005年12月16日
立正安国論要約(by freeさん)


わしの書いた

立正安国論に見る日蓮のカルト性
http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm


ですが、長いので、
読んでいるうちに、前の部分を忘れてしまう、
という方もいらっしゃるかも知れません。

freeさんが、御自身のブログ創価学会体験記にて、
http://blog.goo.ne.jp/free-zu
立正安国論の現代訳を、さらに要約してくださっております。

せっかくですから、こちらにも、掲載させていただきたいと思います。

───────────────────────────────

旅人が、お坊さんの庵に来て言うのです。

旅人「飢饉や 天災や 疫病で 
   この国の人や家畜がバタバタ死んでおります。どうしてでしょう」
 
坊さん「正しい法が 無くなってしまったので、神様がいなくなってしまったのだよ、
    そして悪魔が入り込んでいるのさ」

旅人「え~ この国にはこんなに仏教が盛んなのに そんなはず無いではないですか」

坊さん「仏教が盛んそうに見えるけれどね 
    悪い坊さんが一杯いて 正しい法を説いていないのだよ。
    なかでも 法然という坊さんが、選択集というのを説いてね、コレが間違いなんだよ。
    念仏さえしていれば 百人が百人とも往生できるよ なんてさ。
    念仏一門しか 救われないって言っているのだよ。
    仏教の中心である法華経に書いてある
    『もし、この経を信ぜずにそしる人は、死して無間地獄に落ちる』という 
    釈尊の戒めの言葉に 背いているのだよ。
    法然の選択集が出てから、阿弥陀堂でなければ供養もせず、
    念仏の行者でなくては布施をしなくなって、他の仏堂は荒れ果てて 
    住職も逃げ 守護の善神もいなくなってしまったのだよ。
    法華経を捨てて 浄土念仏を信じるから悪鬼が入り込んで日本が 
    禍に見舞われているのだよ、だから祈祷より 念仏を禁止を一番にする事だよ。」

旅人怒って「でもね 中国や日本の立派な先師が 阿弥陀仏を尊重していますよ。
      法然様も幼いときから 比叡山に登って修行をつまれ 
      智慧が明らかで徳も高いとされていますよ。
      多くの書を読み 時代背景を考えて 修行しやすさを考えた結果 
      念仏を採用されたのですよ。法然様に対して 
      そんな罵詈雑言 同席するのさえ恐ろしいです。」

と帰ろうとします。

坊さん 旅人を笑って止め

坊さん「詳しく法然の謗法を説明しましょう。釈尊の説教には方便と真実の教えがありますが、
    易しい教えから深い教えとなって 真実は法華経なのですよ。
    法然は それを無視してすべての大乗経典と仏・菩薩・神々を捨てよと、
    多くの人びとの心を迷わせているからです。」

旅人「だいたい解りましたが、そんな事を 
   朝廷・幕府に進言する事は 出過ぎた行為ですよ」

坊さん「法華経を学んでいる者として、何とかして真実の仏法を立てたいと考えるのは
    当然ではないでしょうか。それに 延暦寺と興福寺から、たびたび念仏停止の進言が
    されていますし、法然の弟子たちは 遠国に流されています、
    朝廷や幕府に 意見提出している者はいるのですよ。」

旅人「あなたが 正しいのか 法然が悪いのか 私には解りませんが、
   まずは日本の災害を除く方法を教えて下さい」

坊さん「正法を謗る人を禁じて、正法を信ずる人を重んずるならば、
    国中は安穏で天下は泰平になるであろう、と私は考えるのです。
    涅槃経大衆所問品に次のように説かれています。
    『仏が言うには 一闡提(いっせんだい)には 施しをしてはならない。
    口汚い言葉で正法をそしり、悔い改めない者のことを一闡提と言う。』
    涅槃経梵行品には
    『人を殺すのは 上中下ある、すなわち生き物の命を奪うのは下、
    人は中、父母、声聞や縁覚や菩薩 を殺す事が上、
    上が一番罪深く無間地獄に堕ちるのである。
    しかし 一闡提を殺す事はこれに含まない。
    異端の教えを説く婆羅門たちは正法をそしる一闡提であるから、
    彼らを殺しても罪にはならないのである。』
    涅槃経寿命品には
    『正法をそしる者があれば、みな力を合わせて徹底的に根絶しなければならない。』 
    涅槃軽金剛身品には 
    『正法を護る者は五戒を守らなくとも、威儀を整えなくとも、
    まず刀や弓や鉾をとるべきである。』

    このように経文に明らかです。
    蟻を殺した者でも必ず三悪道に堕ちるけれども、
    謗法の者を殺せば必ず不退転の菩薩の位に達し、仏になれるというのです
    謗法(ほうぼう)の人びとは正法を伝える人を無視し、そのうえ、
    法然の選択集にだまされて智恵の目を閉ざされてしまったのです。」

旅人「大集経の法滅尽品には
   『僧であれはすべて供養を捧げなければならない』と書かれています。
   涅槃経では謗法を禁じていますが 大集経の戒と異なりますから、
   謗法者を殺すなどと信じられないです。」

坊さん「こんなに経文をあげたのに まだ信じられないのですか? 
    昔の釈尊は命を奪ったと言いましたが、
    今は、すなわち布施を止めろと言っているのです。」

旅人、襟をだたして
   「仏の教えは 細かく別れて難しく 私には理解が及びませんが、法然の選択集に
   『一切の仏も、経も、菩薩も、神々も、「捨てよ」「閉じよ」「閣けよ」「抛てよ」』
    の言葉をもって、すべて排斥しております。
    ですから 日本の善神が去って 禍が起こっているのは 経文から理解できました。
    一刻も早く 法然一派を滅ぼさないといけません」

坊さん「あなたが 心を翻したのは 嬉しい事です。しかし 人は移ろいやすいもの。
    もしも あなたが、国の安泰を欲しているのなら 
    謗法の者たちをすみやかに滅ぼさなくてはなりません。
    なぜなら「他国侵逼の難」「自界叛逆の難」が起こるからです。
    また 邪教を信じてはいけません。間違った考えがいつまでも残っているならば、
    早くこの世を去り、死んでのちは必ず無間地獄に堕ちるでありましょう。
    あなたは 今までの邪教を捨てて、法華経に帰依しなさい。」

旅人「私が弥陀一仏を信じて他の仏をなげうち、浄土三部経だけを仰いで
   他の経を捨てたのは、私の考えではなく、浄土宗の先師の言葉に従ったまでであります。
   そのために現世では心労し 死んで無間地獄に落ちるなど、経文から解りました。
   この世が安寧であるために、謗法の者たちを すぐに根絶し、
   他のみんなの誤りを正しましょう。」


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日蓮を批判した時、
しばしばある反論として、

「日蓮の教義を、現代の仏教学の常識をもって批判するのはおかしい」

というものですが、
わしの「立正安国論に見る日蓮のカルト性」をお読みいただければ、

現代仏教学の知識を持ち出す必要もなく
鎌倉当時の仏教常識の範疇であっても、
日蓮は矛盾をおかしている
事がおわかりになるはずです。

鎌倉当時の仏教は、華厳、法相等の奈良仏教、及び、真言宗と天台宗、
並びに、天台出身の法然の浄土宗、中国から来た禅です。

このうち、法華経を最高峰と位置付けているのは、天台宗だけです。

残りの宗派は、みな、それぞれ「最高」とする経典が異なります。

たとえば、法相は三時教判で「華厳経」「解深密経」などを依経とし、
法華経はさほど重視しません。

華厳宗は五教十宗の教判で、「華厳経」を依経とします。

真言宗は十住心を教判とし、密教経典を依経とします。

五時八教の教判(教相判釈)を用いるのは、天台だけです。

どの宗派も、法華経を批判しているわけではなく、
法華経に、それなりの価値を認めていながらも、
それぞれの判断基準で、法華経に勝る経典を発見しているのです。

これは、浄土宗も同じです。

日蓮宗だって、他の経典を否定はしないものの、
法華経こそ諸経の王と考え、他の経典をかえりみないのです。

これは、浄土宗と理屈は一緒です。

日蓮は、天台の価値観で他宗を批判しているわけです。

これは、日本の法律を外国に当てはめようとするのと一緒です。

法然は天台出身であるから、法然の浄土宗に対しては、
天台の価値観で批判する事は許されるのではないか?
と考える人もいるかも知れませんが、

法然は、天台を捨てて、中国(唐僧)善導大師の浄土教に転向したのであり、

すでに転向した人間に、昔の天台のルールを押し付けようとしても無意味なのです。


創価学会では、日蓮が鎌倉幕府という国家権力に対抗し、
国家権力に迎合する坊主連中と闘ったのだ、という事を言われます。

「国家権力に対抗」といえば、格好いいですが、
日蓮は、自分の教えを国教にしようとしたのです。

それが拒絶されたという事です。

日蓮が、国家権力と闘った、と思い込んで、
身震いして、自分の参考にするのは、
創価学会独特の美学であり、
それについては他人がどうのこうの言う事はできません。

ですが、本当に権力と闘った人物は、

歴史を紐解けば、他に見出す事が可能なのですから、
わざわざ、日蓮を模範とする必要は無いかと思います。

どうしても日蓮に固執してしまうのは、

自分が創価学会から離脱できないという宿命を持っているからでしょう。

つまり、創価学会から離脱できないから、日蓮を尊敬せざるを得ない
これを認知的不協和の心理(考え方を環境に適応させる)と言います。

日蓮仏法に、微塵の価値も無い、とは申しません。

ですが、少なくとも、かつて創価学会が主張していたほどの、
日蓮の正義は、もはや見出せないでしょう。

日蓮の立正安国論の内容についても、
創価学会ではなく、
アンチのわしの書き物によって知り得たという学会員もいらっしゃるでしょう。

創価学会員も、少し、アンチに対し、謙虚に学んではいかがかと思います。

日蓮は、立正安国論に始まり、立正安国論に終わると言われます。

亡くなる前まで、日蓮は立正安国論の講義を弟子にしておりました。

日蓮思想は、立正安国論に極まるのです。

立正安国論を攻撃されたら、
「立正安国論だけ読んでもわからない」という論法で、
どんどん逃げるのかも知れません。

しかし、そうやって、立正安国論を「未了義」とするのは、
命懸けで幕府に立正安国論を提出し、
死に際まで立正安国論を講義した、当の日蓮に失礼でしょう。

創価学会員は、敗北を認めるべきです


創価学会では、平左衛門尉頼綱が、
法華経の行者を迫害する第六天として受けとめられていますが、

平左衛門尉頼綱は、鎌倉幕府における、
治安維持の最高責任者という立場でありました。
現代でいう、警察庁長官のようなものです。

当時、比叡山の僧兵でさえ、鎌倉には武器を持ち込めなかったにも関らず、
日蓮は刀剣を持していた
と言います。

その日蓮が、「邪宗の坊主は殺してしまえ!
内乱が起るぞ!」 「蒙古が攻めてくるぞ!」などと絶叫して歩くわけですから、
治安上、死刑台ギリギリに連れて行くなどの、
おしおき」をする必要があった
と思われます。

これは「迫害」でも何でもありません。

念仏の宗徒からの攻撃はあっても、
幕府として、迫害があったとは考えておりません。
為政者として、仕方の無い対処だったと思います。

晩年の日蓮に、身延での寺院建立を許すところを見ると、
鎌倉幕府は寛大であったと思われます。


ちなみに、謗法の者を殺しても罪にはならない」という

日蓮の思想
を裏付ける遺文があります。

去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く
日蓮は日本国の棟梁なり 予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり
只今に自界反逆難とて どしうちして 他国侵逼難とて
此の国の人人 他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし

建長寺寿福寺極楽寺大仏長楽寺等の一切の念仏者 禅僧等が 寺塔をば
やきはらいて 彼等が頚を ゆひのはまにて切らずば
日本国必ずほろぶべし
と申し候了ぬ。(撰時抄)


現代語訳:去年、文永八年九月十二日申の刻
(午後三時~五時:龍の口での事だと思われる)に、
幕府の治安担当者であった平左衛門尉(平頼綱)に向って言った。

私(日蓮)は、日本の国の指導者である。
私を失うという事は、日本の柱を倒す事である。

そのうち、「自界反逆難」と言って、内乱が起り、
また「他国侵逼難」と言って、この国の人々が、
他国に殺され、生け捕られてしまうだろう。

建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏長楽寺等の、
一切の念仏、禅の寺塔を焼き払って、
彼等坊主達の首を由比ケ浜にて斬らねば、
日本国は必ず滅ぶであろうと、申したのである。


斬首刑に臨む日蓮が、ギリギリの精神状態で、
俺を殺すより、奴等を殺せ!という発言であり、
本気で彼等を殺害すべきだと考えていたのでは無いのかも知れません。

けれども、日蓮の思想を考える上でのヒントになるでしょう。

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分別知以前にモラルは形成される

「楽園はこちらがわ」というブログから、岡潔の『春宵十話』の中に書かれた文章を管理人の岩田氏が自分の言葉でまとめたものである。
私は「モラルの土台は(理性よりも)感情にある」と最近考えている。つまり「分別知」を持つ以前の、両親の有言無言の教えの中からモラルは身についていくものだ、ということだ。
「善行を分別知がいらないままで行える」からこそ、モラルは法律よりも社会全体のために役立つのである。そして、社会全体の「風紀」が乱れた国で、子供がまともに育つはずはない。それが現在のアメリカであり、欧米諸国である。その影響を受けて、アジア全体もモラルの退廃が進行しつつある。
私は父の晩年の子供で、父親とあまり会話した記憶は無いが、珍しく父と浜に遊びに行った時に、父が海岸に落ちていた幾つかのガラスの破片を拾い上げ、それを人が誤って踏まない場所に片付けたのが記憶に残り、道にゴミを捨てたりするなどの行為(些細に見えても他人に害を与える行為)はしてはいけないのだ、ということが心に刻みつけられ、それは私の一生を律している。親の行為が子供に与える影響は、それほど強い。


「母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。」


母親には限らない。父親もそうである。最初に我が子を腕に抱くとき、嬰児は「この人(存在)は自分が信頼していい人(存在)か」ということを確認しようとし、薄目をあけてじっと「観察」している。だから、嬰児が安心して眠りにつくまでは、どんなに腕が疲れても、嬰児を腕から離してはならない。それだけで、子供との深層心理の中の信頼関係は結ばれ、それは子供が成人するまで続くはずである。子供が親を信頼する限り、夜泣きなどすることもないし、粗暴な性格に育つこともないだろう。深層心理というものの重要さは、さまざまな場面に潜んでいる。



(以下引用)




(次は引用にあらず、岩田の解釈)。日本は日本的情緒の国で、それは善行を分別智がいらないままで行えることである。それを教えるのが道義教育で、それは「他を先にし自分を後にせよ」ということである。教育や政治はこれに合わせて作るしかなく、特に義務教育は重要なのである。義務教育の要諦は「道義的センス」をつけること、そのことにある。


いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答えが合うことよりも、自分で合っていると認めることの方が大切なのに、それがわかっていない。


グループ活動などといって、ひとところに大勢集めて勉強させるのもよくないことで、何にもならない。ボスができるばかりである。ボスができてからなら道義の入れようもない。言語道断なことをするなといいたい。


母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。幼児が母の手をしっかり握っていて、向こうから知人がやってくる。そのとき挨拶のために子供の手を振り払うと、それ以後は知った人に会うたびに手を振り切られはしないかとびくびくするようになる。


人だから一つぐらい長所は必ずあるだろう。それを大きくクローズ/アップすればよい。ただ、競争意識をあおるのは害あって益のないものであろう。


しかし、また考えれば、日本は滅びる、滅びると思っていても案外滅びないかもしれない。というのは、日本民族はきわめて原始的な生活にも耐えられるというか、文明に対するセンスが全く欠けているというか、そういうところがあるので、自由貿易に失敗して、売らず買わずの自給自足となっても、結構やっていけそうにも思えるからである。先日、故障で停電したが、家中のだれも直し方をしらない。ローソクを頼りにふろにつかりながら、ああ、万事これでいけば心配することはないと思ったことだった。




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あのトルストイが言ったから名言に思える、ということもある

素晴らしい名言だと思うのだが。
つまり「幸せはどこかから来るものではなく、自分の心一つでなれるものだ」ということを一瞬で分からせるところがこの言葉の名言たるところではないか?トルストイは仏教にも深い関心があったらしいが、この言葉には仏教の真髄を感じる。

幸せになりたいなら、なりなさい


(以下引用)


竹熊健太郎《編集家》 @kentaro666  ·  9時間前

トルストイの名言を調べていたら、 「幸せになりたいなら、なりなさい」 というのがあった。どこが名言なんだ?


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英語の中の「数の名称」の異常性

「逝きし世の面影」から転載。
私自身、日本語は優秀な言語だと思うのだが、その煩瑣な部分(敬語法とか、物の数え方がやたらに複雑なこととか)は、もっと整理していけばいいとは思っている。日本語の欠点はそういう、「どうでもいい部分」(まあ、敬語法は絶対的に必要だという論者も多いだろうが、あれは人間を常に上下関係に追い込む、非民主的語法である。かと言って、子供が大人にタメ口をきく社会もどうかとは思うが、それは限度の問題だろう。)であり、日本語はまず「漢字かな混じりという絶対的な長所がある。それによって、文章の内容が異常な速度で大観できる。つまり、漢字やカタカナ部分を概観すれば、それがどういう内容、どういう思想の文章か、だいたいは分かるから、「読む必要の無い文章」はその段階でカットできる。これこそ、日本語の最大の長所だろう。英語のようなアルファベットのみの言語ではそうはいかない。全体が平坦で、文章紙面に立体性が無いのである。せいぜいが、イタリック体で強調する程度だ。
ただ、日本語の中には、無用なカタカナ語があまりに増えていること、学問世界ではたとえば英文法用語など、意味不明の翻訳学術用語が多すぎることなどが欠点だが、それは今後簡単に改善できる問題だ。
下記記事で取り上げられている、言語と算数の問題は、まさに言われている通りだろう。日本人は数学が強いとは思わないが、算数には強い。庶民レベルの算数運用能力は世界最高かもしれないが、それは日本語という言語のせいもあるだろう。詳しくは書かないが、英語の欠点はこればかりではない。その先端文明が世界をリードしている英米社会が「底辺文化」は最低だ、というのは英語という言語にも理由の一つがありそうだ。



(以下引用)

日本語、中国語、韓国語、トルコ語は英語よりも数学学習に適している

2014年11月04日 | 政治

国際教育到評価学会IEA)が毎年行ている小中学生を対象とした国際数学・理科教育調査(TIMSS)では東アジアのシンガポール、韓国、香港、台湾、日本などが上位を独占していて、アメリカ、イギリスなど英語圏諸国よりも常に成績が上回ている。


2014年9月10日付けウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙によると、英語に比べて、数字に関する語彙がより少ない日本語や中国語は数学を学ぶのにより適しているという。
WSJ紙によると有名大学が結成した研究グループが長期間にわたり、数学の観点から中国語と英語の違いを研究したところ、中国語や日本語、韓国語、トルコ語などは数字について簡単な言葉を使うため、数学の概念表現がよりクリアで、低年齢の児童の数学学習により適しているという。
基本語彙が12進法的な英語では数字を表す言葉は24以上あるが、対して日本語中国語では10以内なので十進法の理解が容易なのです。
欧米の子供達の数学の落ちこぼれの発生ですが最初に十進法の位取りで躓くことが原因であり、12進法的なその言語構造にこそ問題点が潜んでいるとWSJ紙は指摘している。


アメリカの雇用市場では数学的技能が重視され、米求人情報サイトのキャリアキャスト・ドットコムが発表した2014年版「ベスト・ジョブ」ランキングでは、最も良い職業は数学者だった。逆にランキング下位は木材伐採者、新聞記者、下士官兵、タクシー運転手。数学のスキルがあれば就職の機会は大きく広がるが、逆に計算できない従業員はいずれ「永久解雇通知」を手にするかもしれないという。


9月10日のWSJ紙の記事によると、英語圏の子供達は11をeleven(12はtwelve)と別々の名称で呼ぶが、日本語や中国語ではteenーoneと表現するので、11の数が10プラス1であることが理解しやすい。
英語では12をtwelveと呼ぶことで、
子供対に余分な負担がかかっているのです。(日本語表記のように10プラス2であることが瞬間的に理解でき難いので12以上の数字で、英語表現では逆さまなので位取りが判り難い)
英語の17
seventeenなので、十の位が1であることを表すteenがsevenの先に来る。この為に多くの子供達がは位取りを間違い70と混同する。(中国語や日本語表現で17はteenーsevenであり、位取りと言語とが一致している)
位取りと言語表現の不一致のために、英語圏の子供達は二桁の足し算引き算の場合に、二桁の数字が10の倍数と1の倍数とからなっていることが理解することに苦労する。
一番最初の小学校1年生の時に英語が原因して数学でつまずいてしまい、結果的に英語圏では大量の数学の落ちこぼれを生むので格差拡大の要因ともなっている。
『初等教育の数学では英語よりも日本語中国語の方が優れている』(英語では落ちこぼれが生まれる)との9月10日のWSJ紙の記事は韓国の朝鮮日報が12日に、中国の環球時報が14日に 関連(紹介)記事を書いている。


『何故か、朝鮮日報に感情的に噛み付いた大槻義彦名誉教授』


9月10日のWSJ紙の記事は米国の教育学者などの研究成果を記事にしたものだが、『日韓中の生徒が数学ができるのは言語のせい、か?』と題して、


『いつものことながら、韓国メディアの『我田引水』記事にはうんざりする。まずここでは『算数』と『数学』の混同が見られる。たとえば2次方程式を解く数学の能力に言語が関係していることなどあるはずがないではないか。
そんなに韓国など漢字圏の数学教育が成功しているならば何故ノーベル物理学賞の理論物理学の分野で韓国、中国に受賞者が出ないのだ?さらに超弦理論の国際学会の招待演者に韓国の物理学者がいないのだ?!
韓国、中国、日本の子供が『数学オリンピック』などで上位にあるのは単に受験競争で煽られているためだ。WSJ紙もバカ、CHOSUN ONLINEもバカ。算数の成績と言語の問題に悩むより、自分たち自身の合理的判断能力の欠如に悩め。』と、いつもながらのことですが、突然意味不明な感情的な罵倒を大槻義彦が行っている。


そもそもWSJの記事は高等数学を扱う物理学の話では無くて、初等教育の数学での落ちこぼれの原因をアメリカの研究者が科学的に指摘したものですよ。(頂点ではなく、底辺の話)
少しでも冷静に考えれば、幼い子供達の数字の認識で、桁取りが逆に出来ている英語に大きな欠陥がある(勘違いを起こさせる)ことは明らかな客観的事実なのです。
(この場合には、『なにをして、唐突に大槻義彦は怒りの発作に襲われたのか!』と考察すると、実に面白い。超大国アメリカに対する敗戦国民の日本人が持つ歪んだ深層心理まで浮かび上がってくるから愉快である)
『大槻義彦が叫ぶ』の9月19日のお馬鹿記事以外にも、その後 9月24日にも、


『さきに本欄で韓国CHOSUN ONLINEの記事を引用して批判した。それは韓国などが数学オリンピックでいつもトップクラスになり、アメリカは30位以下なのは子供の数学能力が劣っているからで、これは使う言葉(英語)の数の数え方がおかしいからだ、というものだった。
今回のWSJ紙の上の記事でこの韓国の報道がお笑い草だったことが証明された。私の論評のとおりだったではないか。
そもそもその子供が使っている言語の種類で数学能力に差が出る、などとはまったくのお笑い草だ。それよりももっとも大事なことはこのような高い能力を早期に発掘してそれを思いっきり伸ばしてゆく体制が必要なのだ。
そのためには画一的な受験戦争は百害あって一利
なしなのだ。韓国、日本、中国は数学オリンピックで上位に入ることを誇るな。
いやいや、そもそも数学オリンピックなどむしろ有害である。数学オリンピックで上位であることをはずかしいと思う感覚のほうがより健全である。』
と、駄目を押している。
その後も10月24日、10月39日と繰り返し英語の数字の表記が初等教育の弊害である事実を指摘した朝鮮日報を 攻撃しているのですが、その執拗さには呆れ返って言葉も無い。
まったく筋違いの大槻義彦のお馬鹿すぎる罵倒を一つだけ擁護すると、『 さすが、日本のメディアでは、私の知る限り、このようなおかしな、非論理的な論評は見当たらない。』と、今回もっとも重要な、恐ろしい事実に気がついている。
我が日本国のマスメディアではアメリカのWSJ紙が書いている『英語には欠陥がある』事実を金輪際、誰一人報道し無いのですが、この事実に唯一大槻義彦だけが気がついているのである。(天晴れ。さすが科学者で、見上げたものである。だから大槻義彦は見過ごしには出来ない


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この世界では、自由とは金力のことである

小学校の一クラスの中ですら、「権力者」「追従者」「傍観者」「被差別階級」がいるからこそ、いじめ問題があれほど頻繁に起こるのである。
つまり、政治は日常の中にもある。

大人の世界では、この政治ゲームが子供世界のような純粋形ではなく、形を変える。
現代人がほとんど全員拝金主義であるのは、資本主義社会においては金力が権力であり、金力を握るもののみが自由であるからだ。




(以下引用)



小田嶋隆 @tako_ashi  ·  11月2日

複数の人間が関与している社会で、「自由にふるまう」ことと「権力をふるう」ことの間に、明らかな違いを見出すのはとてもむずかしいと思う。

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「中世の暗黒」は虚偽の説と言えるか

「泉の波立ち」から転載。
面白い問題だと思うが、議論の内容には疑問がある。
結局、筆者南堂氏の考えは、「ギリシア文化が中世アラブに継承され、それをさらにルネサンス期の欧州が再輸入した」「その原因は、中世欧州には(ラテン語以外)文字言語が無かったからだ」ということになると思うのだが、私の疑問は2点。

1)たしか、最古の聖書はギリシア語で書かれていたはずだ。つまり、ギリシアは文字言語を古くから持っていた。(おそらくその他の国でも自国文字言語は持っていたと思う。それが特権階級だけの知識であったにせよ。)自国言語でなければ文化は発達しないというのが南堂氏の考えのようだが、ならばなぜギリシアだけでも文化が古代ギリシア以降発達し続けなかったのか。
2)ラテン語では文化は発達しない、となぜ言えるのか。

やはり、ここは一般常識に従って、教会による知識の独占と、宗教に対立する科学的思想の禁止が中世ヨーロッパの文化的停滞、科学の未発達の原因であったと考えるべきだろう。
そういう意味では、やはり「中世の暗黒」という考え方は正しい、と私は思う。


(以下引用)

2014年10月28日

◆ なぜ中世アラブは先進国だったか?

 中世では、欧州よりもアラブの方が先進国だった。なぜか?

 ──

 これははてなブックマークで話題になっていた話題。

 最初の質問は、こうだ。
 イスラム科学の社会で、アラビア科学が発達した理由はなんですか?
( → 知恵袋

 文章が滅茶苦茶なので、正しい質問に直すと、こうだ。
 「中世では、アラブ社会が欧州社会よりも、文明が発達していましたが、それはなぜですか?」

  ※ 近代科学と呼べるようなものはまだできていなかった。
    近代科学が始まるのは、ニュートン以後だ。( → 
別項


 これに対する回答は、下記のものがある。(上記ページのベストアンサー)
当時のキリスト教社会の場合、「神がきめたことを人が疑ってはいけない」という考え方がありました。キリスト教の経典で書かれていることを疑ったり、それと違うことを話すことは「異端」とみなされていて、そのために命を落とすことが多くありました。

科学とは「客観的根拠のある知識を探求する」ことですが、カトリック教会の権威は支配している社会では真理を探究する行動はしにくいです。今の近代科学の発展につながる「考え方のしくみ」ができるようになるためにはルネッサンスと宗教改革、つまり16世紀、17世紀まで待たないといけませんでした。 )
 
 一方、他の意見として、下記のようなものがある。
antonian 歴史 当時のイスラム圏は先進国で財力があったからじゃないかね。中世はイスラム圏が今の先進諸国で、欧州はローマ帝国崩壊後の群雄割拠で内戦に明け暮れてる第三世界。
 ──
kitayama ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは暗黒世界で、一方イスラムは安定しており、余裕があったので、科学等が発展した。ヨーロッパは十字軍でイスラム世界から情報を仕入れ、ルネッサンスになったという理解なのだが。
( → はてなブックマーク

 しかし、いずれも妥当ではない、と私は考える。

 ──

 私の回答は、こうだ。
 「中世の欧州では、学問というものが存在しなかったし、学問を教える学校というものも存在しなかった。なぜか? そこに存在したのは、ラテン語学校というもので、ラテン語の文法などを教える学校だけだった。
 この時点では、文字言語というものが存在しないに等しかった。文字言語としては、ラテン語だけがあったが、ラテン語を覚えることだけがすべてであり、ラテン語で何かを考えるというようなことはなかった。何かを考えるとしたら、自国の言語で考えるしかないのだが、自国の言語には文字がないので、文字表現が不可能だった。
 要するに、中世の欧州では、文字言語が存在しなかったのである。これが決定的に文明を遅らせた原因だった」

 さらに説明すれば、こうなる。
 「ルネッサンス期になると、ラテン語学校の教育から、人文主義の教育へと移行して、学校は学問を教えるようになった。このときようやく、西洋文明が開化した。
 このころ、同時に、ルターが口語聖書を普及させた。それまでのラテン語の聖書から、自国語の聖書へ、聖書の言語を転化した。同時に、自国語の文字表記が始まった。これに少し先だって、グーテンベルクの活版印刷も始まった。」

 ──

 年代を示せば、下記のようになる。( Wikipedia による)

 1455年:グーテンベルク聖書(ラテン語)
 1524~1545年 :ルター聖書(口語)
 さらに、ラテン語学校については、下記の通り。
 ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した。オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス(1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた。こうして、ラテン語古典文学、歴史、修辞、弁証法、自然哲学、算数に、少々の中世ラテン語、古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。
( → ラテン語学校

 こうしてルネサンス以後のラテン語学校は、学問を教えるようになったが、そのとき、学問というものはもともと存在していなかったから、外部から翻訳するしかなかった。外部とは? 当時の先進国は、ギリシヤ文明を引き継いだアラビア社会だけだった。だから、アラビア社会から学問を翻訳の形で導入した。
 ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。
( → ルネサンス

 ──

 以上から、真相がわかるだろう。
 (1) イスラムの方が先進国だったのは、教会が学問を禁じていたからではないし、欧州が暗黒世界だったからでもない。(中世欧州が暗黒世界だったというのは、古い歴史認識であり、今日では否定されている。)
 (2) イスラムの方が先進国だったのは、イスラムの方に金があるとか何とかいう、特別な理由があったからではない。
 (3) イスラムの方が先進国だったのは、単に、欧州が自国の文字言語をもたなかったからにすぎない。(比喩的に言えば、日本が中国語[漢文]を使うしかなくて、万葉仮名による自国語の表現ができなかった、という状態。)
 (4) ルネッサンス期になって、欧州は自国の文字言語をもつようになった。このとき、学問を学校で教えることも可能になった。かくて、学問が開花した。これ以後、欧州は学問や科学が発達することが可能となった。
 (5) のみならず、欧州は「翻訳」の形で、アラビア社会の文明をすべて流入させることができた。かくて、「自国の文字言語 + アラビア文明からの翻訳」という形で、欧州は一挙に世界最先端に追いついた。(これは日本の文明開化に相当する。日本も明治期に活版印刷を導入して、急激に文明開化がなされた。)
 
 ──

 結局、大切なのは、文字言語なのである。これを獲得する以前は、欧州は未開社会だった。しかしこれを獲得した以後は、欧州は文明社会となったのだ。



 [ 付記 ]
 最初の質問に戻って答えるならば、こうなる。
 中世アラブが先進国だったのは、中世アラブに特別な理由があったからではなくて、中世欧州の方に「後進国である理由」があったのだ。それは、「自国語の文字言語をもたない」ということだった。文字を書くときには、自国語で書くことはできず、ラテン語で書くことしかできなかった。(日本で言えば漢文で書くしかないようなものだ。)……こういう状況では、科学や文明というものは生じにくい。
 比喩的に言えば、アラブが徒競走で1位になったのは、特別に足が速かったからではなくて、単にライバルが勝手にこけたからだ。それだけのことだ。
 


 【 関連サイト 】
 
 → 「銃・病原菌・鉄」への私見2(知的な書評ブログ)

 ※ ここでも「印刷術とアラビア文明」という話題で、いろいろと述べてある。
   参考になるので、読むといいだろう。本項と深く関連する。
 

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