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「ゴミ」は本当にゴミなのか

今日は、「徽宗皇帝のブログ」との連動記事で、引用は無しで「資源の無駄使い」の考察をする。

私が大学生として上京した時、すぐ上の兄のアパートでしばらく一緒に生活をしたことがあったが、その時に驚いたのが、兄が漫画週刊誌(青年誌で、「漫画アクション」だったと覚えている。バロン吉元の『柔侠伝』などがお目当てだったようだ。)を買って、それを読んだらすぐに捨てていたことだった。当時の私には、本や雑誌を捨てる、いや、金を出して買ったものを捨てるという行為そのものがショッキングだったのだ。もちろん、捨てる側の言い分としては、「一度読めば、その雑誌はそこから得られる情報は吸い取った後の抜け殻にすぎない。つまりゴミでしかない」ということだろう。兄に聞いたわけではないが、その事はすぐに推測できた。確かに、狭いアパートの部屋に住む以上、ゴミを増やすわけにはいかないことは理解できた。だが、その時に感じた「冒涜」の感じは、今でも忘れられない。
その後、読んだ後の新聞や雑誌、ひいては文庫本までも捨てることが日本人の一般的習慣となったのだが、果たしてこれは正しいことなのだろうか、という疑問は今も抱いている。
泉鏡花のように、文字が書かれたものは商品の包み紙まで保存する、というほど「文字信仰」をしているわけではないが、それを読むことで自分の魂の一部を確かに形成した「文字(文章)」の書かれた物を「ゴミ」として捨てる行為は、それ自体が「魂の希薄化」につながるような気がしないでもない。
雑誌や新聞だけではない。現代では、「用の済んだ物」はすべて「ゴミ」である。
ならば、もともと「役に立たない存在」(これは「有能な、役に立つ人々」の目から見て、ということだ。)である老人や病人などが「ゴミ」と看做されるのは当然だろう。そして、「ゴミ処理」を請け負う業者だけが、老人や病人を「商売対象」として扱うことになる。そこには、敬意も何も存在せず、相手をただの「モノ」としてしか見ないことになるのは当然だろう。

話が逸れたようだ。本題は「資源の無駄使い」であった。
私は、ペットボトルなどを捨てることに、今でも心理的抵抗がある。明らかに、それは「容器としての機能」を持ち続けているからだ。仮に、江戸時代か明治時代あたりにペットボトルの空き容器を持っていけば、軽くて丈夫な、「驚異の水筒」として家宝扱いされただろう。それが、中の飲料を飲み終えると同時に、「ゴミ」として平気で捨てられるのである。
時代が違うから当然だ、何をごちゃごちゃ言っている、これだから老害(この言い方にも「人間をゴミ扱いする」思想があるようだ。)は、と若者などに言われそうだが、私にはこうした「物を粗末にする姿勢」が「人間を粗末にする姿勢」「人生や生命を粗末にする姿勢」とどこかつながっているような気がするのである。



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親は早死にするのが子供の利益

「大摩邇」から転載。
「株式日記と経済展望」は、扱う社会問題の幅が広く、いろいろと面白い記事を探して紹介しているので、昔はよく読んでいたが、管理人氏の考え方自体はあまり好みではないので、最近はたまにしか読んでいなかった。下の記事は、扱っている問題が私には興味深い。
私の両親がしてくれた、最大の子供への贈り物は、二人とも早死にしてくれたことだ、などと言うと、私が親を嫌っていたかのように聞こえるだろうが、そうでもない。二人とも、標準以上の親だったと思うし、私をこの世に生み出し、育て上げてくれたことに対してはこの上なく感謝している。親が生きている間は親を煙たく思っていたが、親を煙たく思うのは、ほとんどすべての子供に共通するものだろう。
私の両親とも60少しで死んだから、早死にだと言えると思うが、その結果、子供に老後の負担をかけることがまったく無かったというのは、子供たち全員にとって大きな恩恵だった、と、親への感情とは別に、客観問題として私は思っているだけだ。
これは、冷酷な言葉に聞こえるだろうが、はたして親がいることは、子供にとっていいことなのかどうか。私は必ずしもそうだとは思わないのである。経済問題だけで言えば、親がいない子供は辛い人生を送るだろうが、精神面ではどうか。それに、親が高齢になってからは、先に書いたように、子供が負担する側になる。
世間には、いない方がいい親はゴマンといるし、「いい親」がいることが、はたして子供にとっていいことかどうかも、少々疑問である。「いい親」は、子供の依存心を強め、自立心を生まれにくくするのではないか。
実は、親の善悪とは別に、親がいること自体が、子供の精神的自立を阻害するのではないか。私の場合で言えば、私が自分の頭で考え、判断できるようになったのは、親が二人とも死んでからだった。それ以前は、何をするにもどこか頭の片隅に親の判断を顧慮する気持ちがあったのである。親がいなくなってから、頭が実にクリアになった気がしたものだ。そう考えると、私自身もできるだけ早死にする方が子供のためだとは思うが、自殺するのも何だから、せめて子供の迷惑にならない程度に生きるつもりである。



(以下引用)


06:13

介護の現場からは「ご本人の終末期の対処法が曖昧なので困る」という声はよく聞かれる

株式日記と経済展望さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/57d50077b1d14f49abeec664a2906fd4
<転載開始>

介護の現場からは「ご本人の終末期の対処法が曖昧なので困る」
という声はよく聞かれる。やっと、終末期に焦点が当たり出した

2015年6月24日 水曜日

日本はなぜこれほどまでに「病院死」比率が高いのか 6月24日 浅川澄一


■「終末期」の対応が大きく遅れている日本


「東京圏の高齢者は地方に移住を」と提言して物議を醸している日本創生会議の座長、増田寛也・元総務相が、「延命治療の議論を」と呼び掛けている。昨年「消滅可能性都市」を挙げ、その後、名指された自治体が少子化対策に熱を入れだすなど、政策へ大きな影響を及ぼしているだけにその発言に注視したい。


?増田さんは、5月24日の産経新聞のコラムで「終末期医療のあり方」を論じた。そのなかで、「終末期の人工栄養による延命は、世界的にみると必ずしも当たり前のことではない」「むしろ非倫理的であるとさえ認識されている国がある」と、穏やかな表現ながら、延命治療への再考を喚起している。


?介護の現場からは「ご本人の終末期の対処法が曖昧なので困る」という声はよく聞かれる。やっと、終末期に焦点が当たり出した。「素人」なだけに直感が働くことは多く、増田さんの発言は正鵠を射ている。死というゴールを見据えて初めて、高齢者の医療と介護は成り立つはずである。


?日本の病院や施設では、口から食べられなくなったので鼻や静脈からチューブを通じて、あるいは胃に穴を開けて栄養を与えられている高齢者をよく見かける。手足の関節が固まって寝返りを打てない寝たきりの人も。自分で呼吸できなければ人工呼吸器が装着される。気管切開されているため、痰の吸引やチューブの交換の際に苦しみもがく姿も見られる。認知症などを抱え、全く言葉を発しないままの人も。


?無理に栄養分を注入するため、消化されず、体中がむくんで目も当てられない様子になってしまうこともある。人間としての自然な死とは縁遠い、こうした延命治療が終末期に待ち受けている状況には、ぞっとさせられる。


?高齢者ケアへの取り組みは先進諸国の共通の課題である。それは、(1)「終の住処」を何処に求めるか?(2)認知症ケアの手法?(3)終末期・看取りのあり方―――という3つの課題に集約されるだろう。
?


?このうち、(1)は「脱病院、脱施設」という合言葉に象徴されるように、最期の時を迎える場として「生活の場」への転換が進んでいる。自宅の延長である「ケア付き住宅」をできるだけ自宅の近辺に求める考え方である。
?
?国際的には「Ageing in Place」と言われる。即ち「年老いても同じ地域で住み続けましょう」という意味だ。同じ内容を日本では、「地域ケアシステム」と名付けた。これは、Community-based Care System(地域住民のためのケア体制)とIntegrated Care System(包括的なケア体制)を合体させたCommunity-based Integrated?Care Systemの日本語訳である。

「包括」は日常用語でなく分かり難いが、「総合」「まるごと」のこと。異なる要素が一緒になって、という意味で、異業種連携であり、高齢者だけでなく障害や子育てなどを大きく含んで一緒に、と理解すればいいだろう。


?それから(2)は、先ごろ東京で認知症ケアの国際サミットが開催されたように、先行組に追い付こうとの意気込みが表れ、政策として結実しつつある。精神科病院問題など、まだ出遅れた分野を抱えてはいるが、欧米諸国と同じ方向に舵を切りつつあるのは確かだ。


?つまり、(1)と(2)は国際レベルへの引き上げを目指して、一応路線は敷かれてきた。ところがである。(3)になると日本だけが大きく取り残されている。日本の常識が世界の非常識、とみても過言ではないほどの状況だ。


■日本は80%が「病院死」


?それを端的に示しているのが、死亡場所の数値だ。病院と施設(欧州では実質的にケア付き住宅)、自宅の3ヵ所に分けた比率を見ると、欧州諸国では病院死が50%前後である。最も低いのは30%台のオランダだ。


?病院死が少ないのは、訪問診療や訪問介護が充実していて、入院しなくても自宅や近辺のケア付き住宅で最期まで過ごすことができるからだ。各国の共通施策である「在宅重視」の成果が、病院死比率の多寡で判定できる。


?では、日本はどうか。なんと病院死は80%近い。欧州諸国とこれほどに大差がついた「生活指標」は珍しい。出産と死亡は、あらゆる生物が同様に体験する自然な現象だろう。決して「病」ではない。ライフスタイルの一環でもある。


?パソコンや携帯電話のICTをはじめ、スポーツや音楽、映画、食文化、ファッション、インテリアなど日々の生活を彩り、欠かせない生活諸要素のひとつが、出産であり死亡・看取りであろう。日本人は、パソコンやレストランなど他の要素はほぼ世界レベルの水準を持ち、その便宜性や快適性を共有している。だが、死の文化だけが、日本は他国とまるっきり異なり、それが数字に表れている。


「歴史や文化が地域や国によって異なるのだから、違いがあっても不思議はない」という指摘がよくある。確かに、地域性は欠かせない。生活の潤いには必要である。だが、方言を使う場が時にはあっても、ほとんど標準語で会話が成り立っているのが現実だろう。大きな流れは、一定の方向への収斂だ。快適性や合理性、それに一定の倫理観に基づいて希求すべき方向が地球規模で絞られていく。


?では、死についてはどうか。なぜ、日本だけが病院死比率が高いのか。


■医療や病院、医師への盲目的な受け入れは日本の特徴


?医療提供者だけにその理由を問うのは当たらないだろう。医療だけでなく国民一般の意識が大きな影響を与えている。それを辿ると、日本の今の急激な「豊かさ」をもたらした多くの要素と重なってくる。


?医療や病院、医師への盲目的な受け入れは、「信仰」に近い。欧州諸国には見られない信頼であり、すがりようだ。モノの獲得を通じて豊かな生活を目指してきた発想そのものに通じる。家電製品やマイカー、新幹線など最新技術への礼賛は、病院や医療にも通じる。


?豊かさは、総中流意識を醸成して全国民が加入する皆保険システムも誕生させた。医療が低価格で使える手近な存在になったことも、医療信仰に拍車がかかった。


?心身に少しの支障が生ずると、すぐに診療である。通院から入院への回路は短い。日本人の受診率や入院期間はずば抜けて高く長い。


?受け入れる医療の側では、治療には熱心ではあるが、ほぼ治療を終えたに近い慢性期の高齢者には別の手立ては持ち合わせない。年齢にかかわりなく、受診に来た高齢者には病名を付け、診療報酬を受け取る。


?老衰による細胞劣化が全身で進行していても、高齢者は病名を求め、薬を欲しがる。これまでの医療のメカニズムに、高齢者と医療側がたやすく乗ってしもまう。老衰を「古いもの」「役に立たたないもの」として認めたがらない。新しいモノが「豊かさ」を生み、それを一心に追い求めてきた。老衰を嫌うのはその弊害であるが、自身は気付かない。


?患者の刻印を押されれば、手術や薬で手を打ち、また元の状態に戻ることができると願う。その「錯覚」に手を貸す医療側の責任は当然問われる。
だが、日本の医療教育では、「死」は教科書の対象になっていない。死への自然のプロセスを学ぶことはない。ギリシャのヒポクラテス以来の「医療者にとって死は敗北」という信条に絡め取られたままだ。


?生物は必ず死ぬ。人間も生物に過ぎない――そんな当たり前の事実から目を背けたいのだろうか。(後略)

(私のコメント)

介護の問題は何度か書いてきましたが、出産と死は誰にでも必ず体験する事だ。特に自分の死については若いうちから考えるべき問題ですが、ほとんどの人は死を身近な問題として考えない。死にたいと思う事はよくあるのでしょうが、病気や老衰でいつかは死ぬことはあまり考えたくない事だ。

私自身も、死んだらどうなるかと考えたら憂鬱になる。やりたい事をやりつくして死にたいものですが、体の衰えがあちこちに現れ始めると死ぬことがだんだん怖くなってくる。やがては病気か老衰で死ぬのでしょうが、私としては病院で死にたくはない。

誰もが自宅で家族に見守られながら死にたいと思うのでしょうが、小家族化の時代では息子や孫に囲まれて死ぬことなどテレビのホームドラマでも最近は無い。昔は出産ですら自宅でしたのですが、最近では出産から死まで病院で行われる。

出産などは病院でなくても、出産所などの所でもいいと思うし、同じように死ぬ時も自宅が無理なら介護施設で死ぬのが良いと思う。そうでなければ病院がパンクしてしまう。出産や老衰は病気ではなく生理現象であり、問題があれば病院が対応すればいい。

単なる生理現象を病気扱いするのは、医師会の陰謀だと思うのですが、出産も安産なら自宅でしても昔は当然だった。最近は家族の介護が当てに出来なくなったので自分で介護施設に入る用意はしなくてはいけないのでしょうが、行政の対応が遅れている。


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聖書には「空の鳥を見よ、野の百合を見よ」、という言葉もあるのだが

「引用1」は「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から。「引用2」はその記事中のリンク先から転載。
私は昔から、この「1タラントの教え」が腑に落ちなかったのだが、その原因の一つは「1タラント」という金額がどの程度のものか分からなかったからである。せいぜいが数万円か数十万円くらいか、と思っていたような気がする。(何しろ、読んだのは子供の頃だから、金の感覚が大人とは違っていた、ということもある。)「引用2」で見ると、少なくとも3000万円くらい、ということで、「主」が「1タラント」を死蔵した使用人に怒ったのも、「商売人」としては理解できる。だが、神を「商売人」に例えるのは、どうかなあ、という気もする。そもそも、イエスは「神の家」で商売をする両替商たちに怒って追い出したのではないか。
「1タラントの価値」以外の疑問として、「その当時から『銀行』があったのか」という、疑問というより驚きのようなものがある。しかも、「利子」の概念がある。まあ、利子が無ければ金貸しという商売は成立しないが、この当時から金貸しが幅を利かせていた、というのは、さすがにユダヤ人世界だなあ、と思う。資本主義の種は既にこの時代にあったわけだ。他の民族が農耕漁撈文化だった時代にすでに「金融資本主義」の萌芽があった、ということである。
疑問の第三点は、「1タラント」を死蔵したことは、そんなに悪いことだったのだろうか、ということである。仮に、この「主」が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だったなら、(おそらく、この僕にはそう思うだけの根拠があったに違いない、と私は思う。でなければ、主に向かって、こういう大胆な抗弁はしないだろう。)「1タラント」を無くして咎められる危険を冒すよりは、「1タラントを保全して」褒められもしないが譴責も受けないことを願うのは「小市民的」感覚として、よく理解できる。ところが、この「安全策」は、ひどい譴責を受けることになったわけである。いったい、「銀行」に預けた金が、ちゃんと利子付きで戻るという保障などあるだろうか。だが、地面に埋めた金は(誰かにその現場を見られていない限り)ちゃんと守られる。そう考えれば、私などから見れば、この男の行為は十分に理解できるのだが、「金融資本主義者」の目からは、これはひどい「機会損失」の罪悪だった、となるわけである。
「機会損失」は、今、思いついて書いた言葉だが、仮に人間が神に作られたものだ、と仮定するならば、人間がその生を有意義に(というのは神の心にかなうように、という、ある意味では奴隷的生かもしれないが)生きなかったことは、「機会損失」という意味で大いに神の不興を買う行為である、となるわけだ。私のような、ぼんやり生きて、できるだけ少ない労苦で一生を終えることを望みとする怠け者は「神の目」からは、この「1タラントを死蔵した僕」と見られるのだろう。




(引用1)


このように、グダグダ言いながら生産的なことを何もしない奴…



イエスは、こういう者たちに向かって「1タラント」のたとえ話をした。


その教えは要するに…


神は旅に出るとき、3人のしもべに、その能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを預けた。



神が旅立つと、5タラント預った者も、2タラント預かった者も、すぐに商売をして倍に増やした。


ところが、1タラント預かった者は、穴を掘ってカネを隠した。



かなり経ってから神は帰ってきて、しもべたちを呼んで清算した。


1番目と2番目のしもべを「細かいところまで忠実なしもべよ、よくやった。お前にはもっと多くのものを任せよう」と褒め称えた。


だが、1タラント預かった者は、憎まれ口を利いたあげくに1タラントを突き返した。


「悪い怠け者のしもべめ!私がお前に無理難題を吹っかけたとでも言うのか?そんなことなら銀行にでも預けておけば利子がついたものを。こいつの1タラントを10タラントもっている者に与えよ」


リンク⇒http://www.holyhope.net/M-040318.htm


まあ、聖書もあちこち書き換えられているらしいが…


(引用2)



能力や成果ではなく心 マタイ25:14~29


天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

 この「タラントのたとえ」を読んでいくと、いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる、やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救われない…かのようにも読めると思うんですね。

しかし、24節をみてください。
あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
これが、1タラントの男の理解です。しかし、神様は、本当に「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」なのでしょうか…。

そうではないですよね。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。
つまり、この男の主人に対して言っていること、主人に対する理解が、おかしいんです。そこが、イエス様が言いたい最大のポイントです。

福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救いです。聖書全体から見れば、そうです。
しかし、一箇所だけを抜いて見てしまうと、時に思わぬ誤解を生むことがあるんですね。

 このタラントという言葉、英語でいえば「タレント」ですが、この言葉も、多くの場合、能力や才能、クリスチャン用語でいえば「賜物」として、受け止められてきたと思います。それは、すべて、この「タラント」のたとえ話から派生してきた意味です。「与えられたタラントを用いて…」というふうに、与えられた賜物・能力を生かして…という意味で使いますよね。
 ところが、本来の「タラント」の意味は、元々は重さを量る「はかり」のことで、重さ、金のをあらわす単位にもなったんですね。つまり、この時、イエス様が語られたたとえ話の中での「タラント」という言葉に、能力や才能、賜物という意味はないんです。
そこで、タラント イコール 能力という公式も、一旦、外して見ていきます。

 1タラントは新改訳聖書の下の注釈では、6000デナリとあります。1デナリは、労働者の一日分の給料に相当します。一日1万円と見積もれば6000万円、安く見積もって5000円としても、およそ3千万円という金額になります。

ですから、15節を読み替えますと、
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円、ひとりには6千万円、もうひとりには3000万円を渡し、それから旅に出かけた。

すごい話ですよね。
もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ですよね。誰でもいいという額ではありません。彼は、おのおのその能力に応じて…とありますから、この1タラントの男は、決して能力の低い男ではないんです。確かに、5タラントや2タラントに比べると、1タラントしか与えられていないように思えるかもしれません。もしかすると、この男の立場だったらそう思うのかもしれません。でも、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。
 この私に、能力に応じて、無担保で3000万円の投資をしてくれる人がいるか…というと、まずいないと思います。いたとしたら、よっぽど美しい誤解をしているか、何か裏があるか…どちらかです。せいぜい0.01タラントか、それ以下です。
まして貧富の差が激しい当時、弟子たちの中でも、1タラントなんて金を見たことのある人間なんていないのです。雲の上のような世界の話なんですね。

 この1タラントの男には、それだけすごい大金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もあって、信用もありました。だからこそ主人は、この男に1タラントを託したんです。

ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。
『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』

なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない。
これだけの信頼も受けているのに、なぜこんなことを言うんだろう…そういう話です。
主人は決して蒔いていないわけではないのです。3000万円も投資しているんですね。

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学ぶだけでは何も作れない

この動画はずっと前に見ていてかなり興味を引かれたものだが、in deepさんが書き起こしてくれたので、転載しておく。
ジェイコブ・バーネットは自分自身を天才だとは思っていない(知能が高いとは自負しているようだ。)ようだが、一般的な人から見れば目も眩むような天才だろう。そして、そうした天才に生まれついた人間を羨み、凡人として生まれた自分の運命を悲しむ、というのが普通の反応かと思う。だが、それは誤った考えだ、と彼は言うのである。何かを成し遂げる人間と、何も成し遂げない人間の違いは、「自分の頭で徹底的に考える」か、「ただ学ぶだけで、自分では考えない」かの違いだ、というのである。実際、そうだろう。
ファインマンが科学者と一般人の違いについて、同じことを言っている。両者の知能は同じだが、科学者は一般人とは違って、一つの問題について徹底的に(問題によっては一生をかけて)考える、それだけの違いだ、というのである。
科学には限らない。何か、興味を持ったことに対し、ひたすら集中する人間が、その分野で成功できないはずはない。あまりにも単純なことなので、逆に誰も実行しないのが、これなのだろう。



(以下引用)


19:23

ついに登場した私の救世主に気づく:「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録

In Deepさんのサイトより
http://oka-jp.seesaa.net/article/420843488.html
<転載開始>


neuron-top.jpg
Your Neural Network


団欒中の覚醒

私は自分の人生で、好きな人はたくさんいても、「尊敬する」という人は基本的にいない、というか、そういう対象を作らないように生きてきましたが(自由が好きな人間が「自分からこの世の自由と平等性を否定してどうする」というやつです)、ちょっと尊敬したくなる人物が意外なところから出現したことに気づきました。

昨日の記事、

「私たちは何か大きなものの上にいる」:地球とすべての宇宙と接続を持つ可能性がある巨大な「プラズマの輪」の存在が証明される
 2015年06月16日

で、世界的な講演会の主催グループ TED で 2012年に講演した ジェイコブ・バーネットさんという、当時 13歳の少年の話を少し書きました。

昨日の記事を書いた時は、この講演会の動画は、パソコンでかなり適当に見ただけだったのですが、昨日の夜、もう一度見ようと、家族で食事をしている時にテレビ画面に写し、大きな画面で、今度はすべての言葉をちゃんと見ていたのですね。

そうしましたところ、彼は、私たち人類の「進化」と「未来の人類社会の理想」に関与する、きわめて重大なことを言っていることに気づいたのです。

もちろん、ジェイコブさん本人はそんなことに気づいていないかもしれません。

しかし、彼が講演会で、物理の歴史を語る際に引き合いに出した、ニュートンやアインシュタイン、そして、ジェイコブさん自身に共通してあったこと、つまり、

学ぶことをやめて、考えだし創りだしたときから、すべては新しくなった

という言葉と、その概念。

「学ぶこと」は人間を発展させない

「考えること」こそが人間の進化を進める

というふたつのこと。

最近の In Deep を読まれていた方なら少しおわかりかもしれないですが、最近の私は以前にもまして、本などで「学ぶばかり」でした。

しかし、現実には、学んでいる時は考えることが止まってしまうのです(本の内容を考えることは「考えている」状態ではないです。基本的に自由な考えではない=ゼロからの発想が止まっている状態ですので)

たとえば、私にしても「恐怖」がどうのこうの、「不安」がどうだの「対峙」がどうだの言っていますが、本を読んで学ぼうとしたりしている。そのような態度では少し困りますね、とジェイソンさんは言っているわけです。

いや、実は、この「学ぶことの弊害」と「考えることが大事」なことは、ずいぶん若い時から体感的にはわかっていたのです。学ぶことを続けていると、人間は自由に考えられなくなる。

たとえば、賢人たちはどうして悟りに辿り着いたかと・・・。

お釈迦様は本などで学び続けた?

達磨大師は知識を学び続けた?

中村天風さんは学び続けた?

否。

彼らが悟りに導くまでにしたことは「考えること」だけだと思われます。

ここに「私たちが大きく勘違いしている」明白な真理が見えないでしょうか。

あるいは、「勘違いさせられ続けてきた」と言い換えてもいいです。

それがまさか、偶然知ったこのアメリカの当時 13歳の少年のビデオの言葉で悟らされるとは!

そして、ジェイソンさん・・・いや、バーネット師は以下のことを講演の最後の方で強く語ります。

「ニュートンもアインシュタインも(自分も)天才ではない。天才なんていない。学ぶことをやめて、考えて、創り出してこそ成し遂げられる」




人類は飛躍的に進化することができる

実はこれに関しては、バーネット師匠の言葉で知るに至った、

人類が内在している能力に関する秘密

と、そして、未来の人類の在り方ということを絡めて、

人類が「劇的に進化」して、「劇的に能力を上げる方法」

について、いろいろなことを書きたいのですが、今回はそんなことより、このバーネット師の講演会の言葉を全部書き出すことにしました。

いいところだけを抜き出してもいいのですが、私が「いいところ」と思う場所と、他の方々や、あるいは師匠が「いいところ」と思うところは違う可能性があるからです。

20分近くの講演ですので、確かに大変ですし、相当長くなるかもしれないですので、読む方々も大変だとは思うのですが、一部のジョークなど以外は、すべてを書き写すことにしました。

私にとっては、写経みたいなものです。

くどいようですが、(あくまで私の考えでは)ここには、人類が、プレアデスの人など比較にならないほど飛躍的に進化する道が穏やかに示唆されています。

たとえば、講演の最後の3分間ほどで「まとめ」のようなことを述べていますが、この部分だけでも「人類全員が果てしない能力を獲得する方法」がさりげなくが示されていることがおわかりになるのではないでしょうか。




これは単に、自閉症から数学・物理学者になった少年の話ではなく、2歳で「切断」されて覚醒した本人からの福音と思えます。

師匠本人はそのことに気づいていないと思われますが。

少なくとも、これは私のショック体験で、師匠の講演を聞いた後に「恐怖と不安の正体」に少し近づいた自分を感じます。

ちなみに、バーネット師匠の記事を教えて下さったのは、私の講演会の打ち上げに来ていただいていた、栃木で自給自足をされている女性(農作業中、マムシに噛まれて救急搬送された経験あり)でした。この方が教えて下さらなければ、多分、知らないままだったと思います。

さかのぼれば、講演会に、あるいは打ち上げに、この方が来て下さっていなければ、私は今回のショック体験をできずに、スルーしていた可能性が高いです。ありがたいことだと思います。

これ以上、私がうだうだと何かを書いても仕方ないですので、書きたいことは今度にしまして、早速内容を書き写します。

師匠のギャグは、ややわかりにくいところもありますが、基本的にはそのまま訳して載せています。
語感や雰囲気などを出すために YouTube の訳とは微妙に違います。

ここからです。



Forget what you know | Jacob Barnett | TEDxTeen

知っていることを忘れなさい
ジェイコブ・バーネット TED 講演会



forget-whatyou-know.jpg
・ジェイコブ・バーネット師匠


ハーイ、ジェイコブ・バーネットです。
楽しんでる?

ぼくは今日、「知っていることなんて今すぐ忘れてしまえ」ということを言うためにここに来ているんです。

まず、みんながわからなければならないことは、たとえば、みんなは宿題をするよね?
宿題はやらなきゃならないことだと思ってる。

宿題をちゃんとやっていれば、良い成績がもらえ、素敵なご褒美がもらえる。

ちょっとしたお小遣いとか、いいものがもらえると思っていないかい?

それは間違いなんだ!

「みんなは間違っている」というのが、ぼくの言いたいことなんです。

うまく行かせようと思ったら、すべて自分独自の見方をしなきゃならない。

どういうことかというと、考える時には、既存のものを受け入れないで、自分なりの創造的な仕方で考えなければいけないってことなんですよ。

ものを見る時には、美術でも歴史でも音楽でも何でもいいけれど、自分にしかできない見方をする。

ここで、ぼくの数学の見方をお見せしましょう。

たとえば、これは 32 で、回転は、足し算、引き算、かけ算などを表しています。


32-001.jpg


さて、今日、ぼくがここに立っている理由は、量子力学の話をするためです。

今日やることは、シュレーディンガー方程式を、時間に対して不変な要素に分解して、それを格子と、その中の1個の粒子という、境界条件に対して解くということです。

じゃあ始めます!

講義ノートがあるので回してほしいんですが、2列にわけるので、どなたか取りに来ていただけますか?

ちょっと待って下さい。その前に、ひとつ言っておきたいことがあるので。

(と言って、その講義ノートをすべて放り投げる)


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(笑)

ぼくは皆さんを量子力学でビビらせに来たわけじゃないんです。

もっと簡単なことを考えましょう。

「円」というものがわかる人は、どのくらいいますか?

では、なぜ、円は重要なのでしょうか。

クッキーの形だからでしょうか?
スケボーの車輪の形でもありますね。
何より重要なのは、Xbox 360 に命を吹き込む形だからですよね(笑)。

学校では円についてどう習うでしょうか。

π・r 2乗とか、丸いとか・・・他にありますか?

まあ、それくらいだよね(笑)。

円について、ちよっとおもしろいことをお教えしましょう。

ジョンソンの定理っていいます。

定理っていうより、数学者のものの見方です。

ジョンソンが言ったのは、3つの同じ大きさの円を重ね合わせて、6本の青い線が … 円を青で描いたとしてですが、6本の線が1点で交わるようにしたとき、円が交わる他の3点は、同じ大きさの円の上にあるということです。


johnson-theorem.jpg


これはπ・r 2乗とは違う新しいことです。

なぜなら、ジョンソンは、「円はπ・r 2乗で丸い。それで終わり」というようには考えずに、数学を作ったわけです。彼独自の見方をして、そうしたんです。

ここにいるみんながみんな数学の才能に恵まれているわけではないことは知っているので(笑)、もっとおもしろい話をしましょう。

中高生以上の皆さんなら、アイザック・ニュートンを知っていると思います。

あの、プリズムとかで、何かやった人です。

ニュートンは 1965年に、ケンブリッジ大学にいました。

歴史が得意な人は知っているでしょうが、ペストの流行のため、ケンブリッジ大学は閉鎖されました。

ニュートンは学ぶことができなくなったのです。

学ぶのをやめて、おそらく寮に閉じこもり、飼い猫と一緒にペストから逃げていたのでしょう。

学ぶことはできなくとも、考えることをやめたくはありませんでした。

それで、ニュートンは天体物理の問題を考えることにしました。

特に、地球を回る月の軌道を計算したかったんだと思います。


newton-ted.jpg


ニュートンがやったのは、この問題を解くために微積分を作り、運動の3法則を見つけ、万有引力の法則を見つけ、法則を検証するために、反射望遠鏡と光学を作り、そういったものすごいことを「学べなかった2年の間に」やったんです。

当時、ニュートンが学べなかったのは、ぼくらみんなにとって、とてもいいことだったのです。

学ぶことをやめたことで、自分で考え始め、新しい科学を作ったんです

よかったですよね。

そのおかげで、あの物理学理論があるんですから(笑)。

ニュートンは学者になったり、オールAを取ったり、成績優秀者リストに載ったり、教授のお気に入りになることもできたかもしれないですが、もし、あの時に、学ぶことを「やめなければ」何も創ることはなかったでしょう。

理論を新しく生み出すときに、ニュートンは自分で考え始め、独自の見方で物事を見る必要があったんです。


最初に自己紹介をやらなかったので、ぼくの自己紹介をきちんとしておきたいと思います。

11年前(2歳のとき)、ぼくは自閉症と診断されました。

ぼくは物事に極端に集中してしまうため、周囲からぼくは何も考えていないように見えたようです。

だから、ぼくは、「ここに光が反射しているから、光源は上。そして、ぼくの影はここだから、光はあっちから来る」と思って見上げると、その通りという感じだったんですね(笑)。

そんなことで、周囲は、ぼくは学ぶことができない子どもだと思ったんです。

じっと空を見上げ続けているだけで、ぼくが何もしていないように見えたので、みんなは、ぼくが何も学ばず、何も考えず、何も話さず、靴紐も結ばず・・・あ、それは当たっているかも。いつもサンダルだから(笑)。


sandal-ted.jpg

(バーネット師はいつもビーチサンダルのようです。この日の講演会でも)


でも、ぼくはその頃、大きな本屋に行って教科書を買い、本のデータからケプラーの法則を導いたんです。ぼくが何も学びも考えもしないと思われていた時にです。

他の人から見たら、ぼくは芳しくなくて、普通の2~4歳の子どもがするような、フィンガーペイントだとか、お話とかをやらなかったんです。

それで彼らがやったのは、僕に特殊教育をとるいうことでしたが、それはものすごく特殊でした。何しろ何も教えなかったんですから(笑)。

それで、ぼくは学ぶのをやめなければなりませんでした。

特殊教育のために、学ぶ方法がなかったんです。

そんなわけで、ぼくは何も学ぶことができませんでした。

でも、その時に、影の付き方だとか、そんなことを考えるようになり、それが今、天体物理学とか物理学とか数学が好きな理由だと思います。

学ぶのをやめたことが、今日のぼくがある理由なんです。


じゃあ、重力の話をしましょう。

ニュートンの後に何があったのかというと、ニュートンの後 200年くらいすると、物理学者がニュートンによる軌道をチェックするのに十分な実験技術が発展しました。

ニュートンの予想によれば、水星の軌道は長円です。科学者は「楕円」と言っていますけれど、しかし、望遠鏡を向けてみると、それは違うことがわかりました。

これです(左はニュートンによる水星の軌道。右が正しいらしいです)。


mercury-orbit.gif


まあ、科学者の方なら、この絵がすごい誇張だってわかるでしょうけれども。

いずれにしても、何と! ニュートンは正しくなかったのです。
史上最高の物理学者であり、最高の頭脳が間違ってたんです。

彼は間違った!(笑)

だから別の人間が必要になるわけです。
ニュートンがやったようなことをやる人間が。

知っていることを「すべて」忘れ、すべてを創り直すのです。


「再創造」です。


その人物が、アルバート・アインシュタインです。

アルバート・アインシュタインも行き詰まりました。
あまりうまくいってなかったんです。

アインシュタインはユダヤ人で、ナチスが台頭する前のドイツで大学の職を得られませんでした。それで、彼は特許事務所で働いたのです。理論物理とは関係のない仕事です。

あのアインシュタインがです!

それで、アインシュタインには突如として考える時間がたくさんできたのです。

学ぶことをやめなければなりませんでしたが、考える時間は、たっぷりとあったのです。

それで彼がやったことは・・・彼は思考実験が好きで、あらゆる違う考え方を試したんです。

アインシュタインは想像してみました。

自分が2人の友だちとトランポリンの上にいて・・・うーん・・・アインシュタインに友だち2人は多すぎますかね(笑)。

アインシュタインは1人の友だちと一緒に、トランポリンの上でテニスかなんかして遊んでいたんだと思います。

何しろ物理学者ですから、運動神経がそんなに良くなくて(笑)、テニスボールを掴み損ねて、ボールが周辺にゴロゴロ転がったとします。

これを見て、アインシュタインは叫びます。

「摩擦がなければ、これが重力だ!」と。

「これが重力なんだ!」と気づいたんです。

それで、とてもクレージーな動きを予想したんです(下の図)。


einstein-ted.jpg


そのクレージーな動きは、別のクレージーなことと一致したんです。

mercury-orbit.gif


アインシュタインは独自の見方、独自の考え方をすることによって、問題を解いたんです。

学ぶことをやめて、考えることを始め、創り始めたんです。


ぼくの昔の話に戻りましょう。

ぼくは周囲からは芳しく見えなくて、隅に放っておかれたという話でした。

3年前のことですが、サボりたい数学の授業があったので、そうできるようにするためやることにしたのは、代数と三角法と、その他、中高で習う数学と大学1年の解析を、すべて2週間で勉強してしまうということです。

そうしたら、あとはサボっていられますから。
10歳の時でした(笑)。

当時、大学への願書が受理されました。これも 10歳の時でした。
それで面接試験を受けに行かなければなりませんでした。大学に入るのに必要なんです。

面接を受けに行ったとき、駐車場に払うための硬貨をたくさん持っていたのですが、それを何と、面接官の部屋で床に全部ぶちまけてしまいました。

このことで、ぼくは常識を欠いているという印象を持たれて、入学は丸々1学期保留されることになったのです。

それで、ぼくは学ぶことをやめなければなりませんでした。

それで何をしたか。

学ぶのをやめて、テレビゲームで遊んでいたのか?

違う!

ぼくは「形」について考え始めたのです。

そのとき、ぼくは、天体物理学のある問題について考えていました。


shape-001.jpg


当時、天体物理にとても興味があったんです。
もちろん、今も興味があります。

次の2週間、いろいろな形について考え、その問題について考え、そうしたら問題が解けたのです。

天体物理の問題を解いたわけですが、それは基本的に、アインシュタインやニュートンに起きていたのと同じことです(学ぶことができなくなり、考えるようになったこと)。

まだ発表していないので、正確にどういう問題なのかは言いませんけれど、論文が出たら、それとわかるでしょう。

ぼくは、そういった問題を考えるのに、量販店で売られている 500枚組の安い紙を使っていましたが、考えているのが、多次元の話だったので、紙がすぐ足りなくなるのです。

紙を切らすと、ホワイトボードに移動しましたが、ホワイトボードなんて、すぐにいっぱいです。

それで今度は家の窓に移動しました。

それからぼくはマジックリンと戦うことになります。あの邪悪なマジックリンに、ぼくの数式が消されてしまいます。

そのうち、ぼくが公園とかに遊びに行かないで、窓に変な図系ばかり描いていることに、両親が気づきました。


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ぼくがやろうとしていたことは、基本的に反証です。

ニュートンみたくはなりたくないですので。

100年も経ってから、間違いを証明されるなんてごめんです。

それで窓に行って、反証しようとしたんですが、できませんでした。

その後、両親は、ぼくが公園に行くべきだと考えて、プリンストン大学から誰か呼んできて、ぼくに対しての「反証」をしてもらうことになったのですが、ぼくのやっていることはどうやら正しそうだということになって、両親の計画はうまくいきませんでした。

公園はナシになりました(笑)。

ぼくは、学ぶことをやめなければならなかったことによって考え始め、問題を解いたんです。

その後、微積分のビデオを制作することにしたんです。微積分を学びたいというような変人も3人くらいはいるかもしれないし(笑)。

それで作ったんですが、12歳で微積分のビデオを作っているということで注目され始めました。


12-video.jpg


最初に取り上げたのは、インディアナポリス・スター紙で、一面で取り上げられました。写真が出ていますが、この時、ぼくはサンドイッチを食べていました(笑)。

おいしかったです。

それ以来、ぼくの微積分のビデオが大人気になりました。そもそも微積分のビデオが人気になるなんて誰が思ったでしょうかね(笑)。

外国語にも翻訳されました。それから、フォックステレビの人から連絡があって、その人の窓に書くことができることになりました。フォックステレビは窓がすごく広くて良かったですね(笑)。

それから、いろいろな変な人が家に訪ねてくるようになりました(笑)。
これは CBS 60 ミニッツのモーリー・セーファーです。


morley-safer.jpg


写真をよく見ると、ぼくは今と同じサンダルを履いていますね(笑)。


まとめみたいなことをしましょう。

アインシュタインやジョンソンやニュートンといった、ぼくがこの講演で取り上げてきた人たちは、みんな天才だったんでしょうか?

それが彼らを特別にしていたものなのか?

天才だったからできたのでしょうか?

それはちがう!
絶対に!

天才だからじゃないんです!

この人たちはみんな「学ぶところから考えるところ」へと、そして「創るところ」へと変化を辿っているんです。

メディアはそれを単に天才だと言っていますけれど。

まあ、彼らの IQ が比較的高かったのは確かでしょうけれど、しかし IQ が高くても、こういったことが何もできない人たちもたくさんいて、例えば、ただ円周率を 20万桁とか覚えて、それでおしまいとか。

なぜ他の数字を覚えないのか疑問です。たとえば、今ぼくが着ている黄金比(φ)などを(笑)。


fai.jpg


ぼくは、そもそも、このようなところに立つことを期待されていませんでした。

言葉を話すようにはならないと言われていましたから。

あの時のセラピストたちがどこかでこれを見たら卒倒すると思いますよ(笑)。

ぼくは、話せないと思われ、学べないと思われていましたが、今日ここに立っています。そして、何百人ものニューヨークの人を前に話しています。


今日の話から皆さんに持ち帰ってほしいことは何か?

皆さんにやっていただきたいことは、次の 24時間、まあ、土曜日で学校とか、いろいろとある人もいるでしょうが、次の 24時間は、学ばないで下さい!

これから 24時間、学ぶことを禁止します。

その代わりにやってほしいのは、何かの分野に・・・皆さんは何か好きなことがありますよね? ここで少し話しただけのぼくは、皆さんが何に興味あるのかわからないですが、みんな何か好きなことがあって、それが何かは、自分でわかっていることでしょう。

その分野について学ぶかわりに、その分野について考えてほしいのです。

その分野の学生になる代わりに、「分野そのもの」になってほしいのです。

音楽でも建築でも科学でも何でもいいです。

その分野について考えてほしい。

そうすれば、あなたは何かを創り出すことができるかもしれないのです。

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歩くこと、走ること、見ること

「in deep」から転載。
様々な有益な情報が満載の記事で、無料で読めるのが有難すぎるくらいだが、逆に、世間に溢れる有料ブログ記事というものに、真に価値のある記事がどれほどあるのだろうか。かつては立派な社会批判をしていたブログが、ある時から有料ブログになったりすると、「結局は商売のための社会批判かよ」と思ってしまう。真に社会改革を目指すならば、できるだけ多くの人の目に止まること、できるだけ拡散されることをこそ願うはずである。そういう意味では、有名ブログの「きっこのブログ」がページの一番上に「無断転載禁止」を目立つ形で書いているのも私には気に入らない。まあ、最近の彼女のブログは、私にはあまり興味の無い話題ばかりで、ほとんど読んでいないのだが。
話が逸れたが、下の記事は、人生そのものが変わるような情報をここから読み取る人もたくさんいるのではないか。そして、そういう情報を与える記事の書ける管理人オカ氏は実に偉大だなあ、と思う。書き方がユーモアに溢れているので、その内容を軽く思う人もいるかと思うが、健康について、人生哲学について、さまざまな有益な情報を含んだ文章である。

昨日、近所のコンビニに買い物に行った帰り、私の横の、道路脇の50センチほどの高さの低いブロック塀の上を幼稚園入園前くらいの女の子が「綱渡り」みたいに歩いて追い越し、それから私の前方を走って去ったが、その走り方が実に軽快で美しく、思わず見惚れたものである。将来は立派なアスリートになるのではないか、と思ったくらいだ。
で、話は、その子はなぜわざわざ「歩く必要のない塀の上を歩き」「走る必要もないのに走った」か、ということだ。言うまでもなく、何を考えてもいなかっただろう。ただ塀の上を歩きたかったから歩き、走りたかったから走ったのだと思う。これが子供というものであり、スポーツの原型の姿だ。誰かに見せるために、あるいは誰かに勝つために歩いたり走ったりしたのではない。体の中に、その運動を求める何かがあり、その動きをすること自体が喜びなのである。
「見ること」も同様だ。あらゆる自然は美しい。あらゆる幼獣は可愛い。それを見ることはこの上無い喜びともなる。だが、それを見ない人は見ないのである。それらを見る代わりにいったい何を見るのだろうか。レタスの葉っぱ一枚に美を見出す人間と、何億円もする絵画に金は出すが自分の周囲の自然には目もくれない人間と、どちらが生きるに値する生を送っているだろうか。

(以下引用)


2015年06月01日


意識の覚醒云々の前に『美しき緑の星』からの影響で、歩いたり走ったり揉んだりの毎日の中で



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▲ 『美しき緑の星』より。食事をして洗濯した後は、「運動ばっかり」する宇宙人の日常。



宇宙人たちのフィジカルな生活から学ぶ

友人のジローさんから電話がありました。

ジロー 「この間のオカのブログにあった『美しき緑の星』って面白い?」
わたし 「ジローさんみたいに心が歪んでいて、醜さと卑しさの中に満足を求める人にはつまらないと思う」
ジロー 「オカも人間性は大差ないだろ」
わたし 「まあ、そうだけど」
ジロー 「きれいな映画ってこと?」
わたし 「うーん・・・きれい、とは違うなあ」
ジロー 「ひとことで言うと、どんな映画よ」
わたし 「ひとことでは難しいけれど・・・宇宙人たちが・・・」
ジロー 「宇宙人たちが」
わたし 「運動、運動、また運動ってくらい運動ばっかりする毎日を送っていて、ついには中国雑伎団みたいな技を展開できるようになっちゃう映画なんだよ」
ジロー 「どんな映画だよ」
わたし 「みんな手を使わないで足だけでバク転とかできてる」
ジロー 「他には?」
わたし 「エンドロールもずっと運動」
ジロー 「運動だけの映画かよ」
わたし 「まあ、他にもストーリーはあるけど、そこは説明が難しいや」


というような会話をしていて、いかに人にものの内容を伝えるのが難しいか、あるいは、伝えられたものを受け取ることが難しいのかを学びました。

しかしですね。

ここで言ったことは、ある程度は事実なのですね。

下は『美しき緑の星』の中で、宇宙人の主人公の息子たちが、地球の女の子たちに「その星での生活」を語るシーンです。

『美しき緑の星』より「運動、運動、また運動の日々」



実は、この映画を見る以前から、いろいろな人の本などを読み、少しずつ、「現代の人間の不調(めまいや神経内科的病気も含む)のほとんどは、血流や神経が停滞しまくっていることが原因のような気がする」と考えるようになりまして、つまり、

多くの人びとは日常の運動が圧倒的に不足している。

ということを、まあ感じていまして、それは何より私自身なのですね。

私は根っからの運動嫌いで、そんな生活が 20年も 30年も続いているわけです。

そして、春ころから、いちおう名目は「めまい改善」ということで、ほんの少しずつ運動をするようにしてはいました。

運動といっても、朝のラジオ体操と、1週間に何度かの軽い散歩程度だったのですが、ある時、「ちょっとハードに体を動かすと、その翌日、めまいがないことがある」ということに気づきました。

そして、その後、映画『美しき緑の星』に出てくる宇宙人たちの気の違ったかのような「運動三昧」の生活を見て、

「これだ」

と思ったのです。

彼ら宇宙人の運動の素晴らしいところは、「目的が特にない」ところです。

つまり、「タイムを良くしよう」とか「試合に勝とう」とか、あるいは「健康維持のため」とか、そういうものがどうもない。意味なく運動している。

私の場合は、目的意識がアリアリですけれど、とにかく、『美しき緑の星』を見たすぐ後に、近くの市民体育館のジムに入会しました。ここは「月いくら」とかではなく、市民なら、2時間 400円ですべてのマシンを使うことができます(だから、毎日、ご老人たちで溢れかえっています)。

しかし、ジムは、あくまで雨の日や暑い日の補助で、基本は外を歩く。

最低1時間か、できればそれ以上歩く。

そして、ラジオ体操1と2を朝晩2セット。

スクワットをはじめ、足の筋肉の血流を良くする「動き」を、1日 50回から 100回の間で任意に。

あと、ついでに、これは昔からアメリカなどの医学論文にあるものですが、

「握力を鍛えると血圧が下がり、心臓病のリスクが減る」

という医学誌ランセットの医学論文を思い出し、ハンドグリップで暇な時には握力強化。

grip-strength.gif

▲ 2013年05月13日の Eurek Alert サイエンスニュースより。


昨日の記事にも少し書きましたけれど、口惜しいながら、ガンだけではなく、アメリカの医学は進んでいます。

抗ガン剤や降圧剤を出して終わりという医療ではない「完治医療」がどんどんと提出されています。
上の「握力を鍛えて、血圧と心疾患リスクを下げる」というのもそうです。

実は血圧に関しては、少し昔、私は血圧が高かった( 150~160くらい)のですが、全身の痛い血流ポイントを揉み続けていましたら、あっというまに 30くらい下がったままです。

ですので、別に高血圧ではない上に、最近書いていますが、今はもう血圧の高低に興味がないので、測ることもないのですが、『美しき緑の星』の主人公の人たちの一家はみんな空中ブランコの達人ですから、空中ブランコには握力も必要だろうと(空中ブランコやるつもりかよ!)、

「これも美しき緑の星の教えということで」

ということで、追加しています(いったい、あの映画から何を学んだのだ)。

まあ、空中ブランコはともかくとして、「揉む」のは本当に良いです。

2ヶ月くらいやっていますが、肩こりも頭痛も消え、体で痛み系の不調があるところはどこもなくなりました。

揉むのは、特に、足首のくるぶしの周りから、ふくらはぎ、膝の裏あたりにかけてですが、強く揉むと「ものすごく痛い」ところが必ずあると思います。

人によっては悲鳴を上げるほど痛いと思いますが、そこがポイントだと思って、執念深く揉み続けていれば、いつかは痛みはなくなります。

他にも全身の「関節の周辺」で痛いところも同様です。
ヒジの周辺、腰の周辺、股関節の周辺など、痛いところを揉む。




パニック障害を「1年間揉み続けて」治した現役医師

ちなみに、昭和大学医学部の客員教授の堀泰典さんというお医者さんの『最後は「免疫力」があなたを救う』という本の中に、堀医師自身が、

「若い時に8年間も苦しみ続けた重いパニック障害を治したこと」

について書かれてあります。

それは「自分で揉んで治した」のでした。

部分部分抜粋してみます。


堀泰典『最後は「免疫力」があなたを救う』 私も苦しんだパニック障害 より

実は、私も28歳から35歳までの8年間、パニック障害に悩んだ経験があります。それは本当に辛かった。無気力、イライラ、不安、息苦しさ、激しい動悸やめまい、多量の発汗などとともに絶望感に襲われ、心は暗黒の広い荒野を漂っているようで、頭のなかはいつもどしゃ降りの雨でした。

最悪なときは、些細な音でも心臓を張り裂けんばかりのすごい動悸が襲ってきました。椅子から立ち上がると、いつもめまいに襲われ、俗にいう起立性失調症が起き、何かにつかまらなければ数メートルも歩けませんでした。

しかし、残念ながら現代医学では治すことができませんでした。ですから、私は他人を頼ってはいけないと一大決心をし、自分で治すことにしたのです。(略 / 堀医師は現代医学の基礎をもとに人体の仕組みを勉強し治します)

そして、一見、パニック障害とは関係がなさそうな、筋肉の反射や脳脊髄液の循環作用を勉強していくうちに、静脈孔などを開く方向に噛み合わせのベクトルを掛けることに気付きました。

頚静脈孔という穴は、上顎の奥歯の近くにあり、頚静脈や副交感神経である迷走神経が走っています。その穴が噛み合わせの異常、歯ぎしりやタッピングなどで、狭窄が起こることによって静脈が圧迫されたり、迷走神経が軽い障害を受けたりすることにより、痙攣、呼吸障害、唾液障害、唾液分泌障害、心臓の不整脈、胃腸の機能障害などさまざまな症状が出てきます。

著作ではこのような理論展開がまだ続きますが、これらの勉強の中で堀医師は、

パニック障害は、

・迷走神経の圧迫などによる副交感神経異常
・脳脊髄液の循環の異常


などによるものではないかと考えるようになります。

では、これらの「見識」を、堀医師は実際にどのように自分に適応していったか。

続けます。


私は、まず、自分の気になるところ、凝っているところ、痛いところを探し、もみほぐすことにしました。股関節を痛めていたので、最初に股関節から攻めることにしました。

そしてあるとき、股関節のトリガーポイント(筋肉や筋膜に生じるコリ)があるのを見つけ、それをもみにもみました。痛いの、なんのって、ものすごく痛かったのですが、めげずにもみました。来る日も来る日も痛みに耐えてもみました。

毎日もんで1年が過ぎたころ、ある日、ブチッと音がしました。トリガーがつぶれた瞬間に視界が一瞬で晴れたのです。そのとき、パニック障害が治ったと確信し、実際にそのとおりでした。

ということになったのでした。

つまり、治療法は「揉んで揉んで揉みまくる」と。
しかも1年間も諦めずに続けた。

「副交感神経異常」とか「脳脊髄液循環異常」などの理論は難しいですが、対応法の「揉む」のは理解しやすいです。

この堀医師のパニック障害の、

「何かにつかまらなければ数メートルも歩けない」

というのは、かなり重症で、今なら、普通に神経内科に行けば、大量の薬漬けコースになることは間違いありません。

私も、今は症状はないですが、長くパニック障害でしたので、堀医師の辛さはある程度はわかります。

しかし、その治療法として「痛いところを揉むだけ」というのは、目からウランバートルが落ちる感じです(壮大かよ)。

Ulan-Bator.jpg
Google

いや、ウランバートルの説明はいいから。


ちなみに、この堀医師の本を買ったのはつい最近で(監修が安保徹さんなので買ってみたのでした)、私自身はもう少し前から「揉む」ことで良くなる部分があることを見つけて、やっていました。

ちなみに、堀医師の文章にあるように、普通だと、

> 痛いの、なんのって、ものすごく痛かったのですが

というほど痛いです。

私も、足のくるぶしの周りから、足首にかけての痛さはものすごかったです。

それでも、続けていれば、「ある日、ブチッと音がしました」ということはなくても、次第に痛みが消えていきます。

肩こりがあって、以前は湿布などをすることもあったのですが(湿布も鎮痛消炎剤で、体にとても悪いですので)それをやめるために、いろいろとやってきたのですけれど、ツボや揉むことがこんなに効果的だとは正直思いませんでした。

あとはスポーツ映画(違うって)の『美しき緑の星』からインスパイアを受けた部分も多いです。

アントニオ猪木師も、かつて、

心が歪むのは
肉体自体が不健康だからだ。

という格言を残していて(ソース)、堀医師の言う、「副交感神経異常と脳脊髄循環異常が心の不調を生み出す」という説を補強してくれています。

アントニオ猪木師
inoki.gif


同時に、アントニオ猪木師は、

「迷わずいけよ」と言っても、
俺にも迷う時もある。

ということも言っています(だからどうした)。


・・・ところで一体、私は今回のブログで何を書こうとしていたのだ・・・。


まあ、運動のことはともかくとして、実際には『美しき緑の星』から私たちが学ぶ最大の点は、

「肯定的態度」

であることは最近書いたとおりです。

そして、映画で描かれる「普通の地球の人が覚醒していく最初の準備段階」の描写が、シュタイナーが「秘儀参入の準備」として書いていたことと合致することに気付き、感心したものでした。




医師の奥さんから学ぶこと

少し前の記事、

プレアデスという場所の人も「世界は音によって完全に変えることができる」と言っていたことから改めて思う「周波数と世界の関係」
 2015年05月26日

の中で、


映画『美しき緑の星』の中で、唯一、「自力で覚醒」した人がいまして、その人などの変転は心の支えになりそうです。

冷え切った人間関係と心の中で生きていた女性が、しだいに、自然の世界と、この地球の営みに「美しいもの」だけが見えてくる。

基本的には誰の援助もなく、「1人で」ランチの野菜の美しさに感動し、授乳している母ネコと子ネコたちの姿に感動し、どんどん彼女は変化していきます。場面はどれも大変に短いのでわかりにくいかもしれません。

そして、ついには冷えていた心が解け、旦那さんの産婦人科医を含めて、すべてを美しいものとして受け入れて、人生の再出発が始まるのです。

これを自力で達成した人は、映画では、彼女だけだと思います。

と書きましたが、そのシーンは本当に短いですので、抜粋してみました。

「奥さんの目覚め」と、ちょっと官能的なタイトルをつけてしまいましたが、官能的なものではありません。

『美しき緑の星』より



このように、『美しき緑の星』にはすべての登場人物の中で、唯一、「自力覚醒」を果たした女性がいるわけですが、それらのシーンで感心したのは、シュタイナーが、「神秘学の秘儀参入のための具体的方法」を記した『いかにして高次の世界を認識するか』に書かれている、

神秘学を学ぶための準備段階

で「行うべきこと」から、彼女の行動が始まっているということでした。

それは以下のように記されています。



シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』 準備 より

準備を始めるにあたって、私たちはまず、まわりの世界で起こっている特定の事象に魂の注意を向けなくてはなりません。すなわちそれは芽を吹き、成長し、繁茂する生命と関わる事象と、しぼんだり、枯れたり、死滅したりすることと関わる事象の二つです。

私たちが周囲の世界に目を向けてみると、これらの事象は、いたるところに、同時に存在していることがわかります。そしてこのような事象をとおして、あらゆる場所で、ごく自然に、私たちのなかにさまざまな感情と思考が生み出されます。

ところが私たちが準備を始めるためには、日常的な状況のなかでこれらの感情や思考に身をゆだねているだけでは、まだ不十分です。私たちは日常生活においては、あまりにも早く、ある印象から別の印象へと移行していきます。

しかし準備を始めるためには、私たちは集中的に、完全に意識的に、これらの事象に注意を向けなくてはならないのです。

外界の植物が一定の方法で花を咲かせたり、繁茂したいりするのを知覚するときには、私たちは、それ以外の要素をすべて魂のなかから追い出して、短い時間のあいだ、この「ただ一つの」印象に完全に実をゆだねなくてはなりません。

すると私たちは、以前だったら魂のなかをさっと通り過ぎていったはずの感情が高まり、力強くエネルギッシュなものになるのをすぐ体験できるようになります。




どうやら、シュタイナーのいう「高次の世界を認識するための第一歩」というのは、植物でも動物でも、あるいは、もしかすると、石や土でも、

徹底的に対象を肯定的な態度で見続け、その美しさに没頭することからすべてが始まる

ということのようです。

上の奥さんのような態度に「気づく」ことからすべてが始まるものなのかもしれません。

自分たちの住んでいる地球にあるものを徹底的に心の底からの注意を向ける・・・というようなことは、確かにふだんの生活ではあまりしていませんしね。



あと何十年で奥さんの心境に近づけるのかは

そして、次には、運動、運動、また運動という(そんなこたあ、シュタイナーは言っちゃいない)、あるいは、揉んで揉んで揉み続けるという・・・(そんなことも言ってないやい)、まあ、いろいろと考えることもすることもありますが、何もかも長い目で見ることが必要かもしれません。

とはいえ・・・。

堀医師が揉み続けて自力でパニック障害を治すのに1年。

中村天風さんが、ヨガの修行で悪性の結核を治して悟りを得るまで2年半。

お釈迦様が悟りを得るまでに6年から7年。

そして、これらはみんな、もともとがよくできた人たちですから、私たちのような普通の人は、これらの数倍から数十倍の年月がかかって、

「ある日、ブチッと音がして、視界が開ける」

というようなことも起きるのかもしれないですし、あるいはいつまでも起きないかもしれないです。

拍手

保守主義とは何か

「播州武侯祠遍照院」より記事の一部を転載。
この後に載っていた「リテラ」の、村上春樹が「反原発論」を語っているという記事も面白いのだが、ここでは「保守思想」というものに新たな光を当てたと思われる、中島岳志氏の文章について考えたい。

 「保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。だから、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。

「保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます」という言葉は、保守主義というものの、これまで語られなかった一面を指摘している重要な言葉だと思う。
ただ、その後の文章が曖昧模糊としており、「だから保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。」という言葉の後に「神のような絶対者」と「歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識」が並列されているのは奇妙である。「歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識」は「人間の理性を超えた存在」なのか?
「多くの人間が蓄積してきた社会的経験知」には個々の人間の賢しらな理性を超えたものがある、という意味ならば、「歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識」は「人間の理性を超えた存在」と言えるかもしれないが、これはかなり舌足らずな文章なのではないか。
だが、そうした文章細部への疑問はともかく、保守主義が「理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます」というものであるという指摘は、保守主義とは何か、という問題についての重要な指摘だと思う。
保守主義というものには確かにそういうところがある。私もそういう意味では保守主義者かもしれない。私の場合は体質的にケチだから、古いものをどんどん捨てていく消費文明、すなわち資本主義を嫌悪しているのかもしれないが、伝統や過去の遺産で育ちながら、それをあっさり捨てていくことは、自分自身の否定なのではないだろうか? それが平気でできる世間の人間のほうが私には奇妙である。それならば、毎朝起きるたびに、別の記憶を持った、別の人間に生まれ変わってもいい、ということになりはしないか。古女房(古旦那)や家族などいつでも捨てて、新しく結婚して新しい家族を作ればいい、とならないか。
まあ、正直なところを言えば、「新しいものへの本能的危惧」あるいは「新しいものへの適応は面倒くさい」というのが保守主義の正体だろう。
そもそも「新しいもの」は「古いもの」にとっては敵である。「伝統」や「慣習」から利益を得ている人々が保守主義になるのは理の当然、かつ「利の当然」だろう。しかしまた、「新しいもの」を武器として社会に出てくる連中も自分たちの利益のためにその「新しいもの」を引っ提げて出てくるのだから、これは利益相反の戦いとなるのも当然で、社会上層部がその「新しいもの」をうまく操縦して利益を吸収し、そのうちに「新しいもの」が伝統となり、慣習となるわけだ。
だが、そういう皮肉はともかく、「人間の能力に対する過信」が現代社会の悲惨の原因の一つであり、新しいことのもたらす害悪は、伝統や慣習のもたらす害悪よりも大きくなっている、というのが科学文明の特徴ではあるだろう。
まさに「一利を興すは一害を除くに如かず」である。
その「一害」の最大のものが原発である。


(以下引用)



マガジン9 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
中島岳志の 希望は商店街 

保守派の私が原発に反対してきた理由

世界は普遍的に「想定外」なもの

 福島第一原発の問題が起こってから、何人かのメディア関係者の方から原発についての取材を受けました。それは、私がこれまでに原発に対して批判的なコメントを行なってきたからです。しかし、一方で私は保守派を自認しています。保守思想に基づいて、物事を考え、自分が保守の立場に立っていることを公言しています。この立場と原発反対の言論が、世の中では奇妙なものに映るようです。

 メディアの皆さんは一様に「なぜ中島さんは、保守派なのに原発を批判してきたのですか?」と質問されます。「原発批判は左派の占有物」という発想からなのか、保守派に原発を批判する人が極めて少ないからなのか、私の姿勢は不可解なものに見えるようです。しかし、私としては「保守思想を重視するがゆえに原発には批判的」なのです。保守主義者として思考すると、どうしても原発に懐疑的にならざるを得ないというのが、私の立場です。

 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。だから、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

 そのため、真の保守主義者は科学技術に対する妄信に冷水をかけようとします。人間が設計するものは普遍的に不完全です。人間の技術と想定には絶対的な限界が存在するため、「100%壊れない」ものなど存在しようがありません。そのようなものは神の領域にのみ存在しうるものです。人間は絶対者ではありません。科学技術の領域で「絶対」を語ることは、人間を絶対者と取り違える危険な思考です。

 世界は想定外のもので満ち溢れています。すべてを理知的に把握し、制御することなどできません。世界は普遍的に想定外の存在です。だからこそ人間は、この世界に夢をもって生きることができます。すべてが想定された世界で、果たして人間は喜びを持って生きることができるでしょうか。すべてが理知的に把握され、完全な存在にのみ囲まれて生きることなどできるでしょうか。

 間違いなく、不可能です。人間が人間である以上、そのような社会に投げ込まれると、精神の変調をきたすでしょう。すべてが理解され、あらゆる事象があらかじめ規定されている世界では、生きることの意味は究極的に剥奪されます。人間はそんな世界に耐えることができません。私たちは「想定外」内存在だからこそ、希望を持って生きることができるのです。少なくとも保守思想に依拠する人間は、そのような世界観を共有します。

「安全な原発」などありえない

 さて、原発です。原発を作るのは、もちろん人間です。そのためあらゆる原発は、未来永劫、不完全な存在です。すべての原発は、「想定外」内存在です。だから今回のような事故は、必ず起こります。普遍的に起こりえます。人間が完全でない以上、完全な原発など存在しようがありません。

 しかし、このような認識に立つと、ありとあらゆる科学技術に対する不信が生まれてきます。この不信にのみ立脚すると、すべての技術は停止され、世界は滞ります。

 重要なのは、事故や故障が起こることを前提に、その利便性とリスクを天秤にかけて利用する英知とバランス感覚です。例えば、自動車は普遍的に事故を起こし続けます。日本だけでも年間約5000人の命が失われ、多数の負傷者が出続けています。また、いくら技術革新が続いても、飛行機事故はなくなりません。飛行機に乗ることは、常に墜落事故のリスクを背負うことになります。しかし、私たちは自動車や飛行機を放棄しません。それは、リスクの存在を前提として、そのリスクよりも利便性のほうが上回るという認識を共有しているからです。

 原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考える必要があります。

 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)、相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。また、周囲はかなり広範囲にわたって放射能の危険にさらされ続け、水や食品に影響が出続けます。長い年月をかけて構成されてきた歴史的景観、人間の営み、農地の土壌。そういったものを一気に放棄しなければならない事態が生じてしまいます。直接的な被害だけでなく、その不安や精神的圧迫感なども考慮すると、そのリスクはあまりにも大きすぎるというのが実情でしょう。少なくとも、原発事故はこの国土を手間隙かけて整備し、守ってきた無名の先祖に対する冒涜であり、歴史を無礙にする暴挙です。

 「安全な原発には賛成」という専門家がいますが、そのような前提は人間が人間である以上、成り立ちません。原発は事故が起こることを前提に考えなければなりません。その時に、私はリスクの高すぎる原発には批判的にならざるを得ません。人間の不完全性を冷徹に見つめる保守思想に依拠する以上、原発という存在には真っ向から反対するのが、保守主義者のつとめだと思っています。

 もう一度繰り前します。私は保守主義者なのに原発に反対なのではありません。私は保守主義者であるがゆえに原発に反対なのです。保守派はいい加減「アンチ左翼」という思考法から脱却する必要があります。「左派の市民派が原発に反対だから、現実主義的な保守は原発に賛成」なんていう稚拙な思考法を共有する限り、日本における「保守の不在」は継続します。そろそろ日本の保守派は左派への逆説的なパラサイトから脱却して、冷静な思考を取り戻すべきです。

 今こそ保守派は、原発に根源的な批判を向けるべきです。


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抜粋終わり

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言葉の前で立ち止まれ

「世に倦む日々」のコメントの一つを転載。
転載した理由は、この中に書かれている「プロタゴラス」についての記述に興味を持ったからだ。
おそらく、この世界史教科書を読んだ学生の9割9分までは、「ソフィスト=詭弁家」という前知識を持っており、プロタゴラスとは、ソクラテスによって否定された、取るに足りない思想家、として歯牙にもかけず、テスト用に名前と主張概要だけを覚えて、試験が終われば完全に忘れ去るだろう。これが「学校で学ぶ」ということの実態ではないだろうか。
いったい誰が、そこで立ち止まって、このプロタゴラスの主張を考察するだろうか。テストに追われる学生にそんな暇などありはしない。そんな暇があれば、異性とつきあい、アニメを見、漫画を読んだほうがマシだ、と思うだろう。若者ならそうして当然だ。だが、易きに流れることは、成長に必要な「心や精神の負荷」を経験しないままに時間だけを食いつぶすということでもある。
さて、このプロタゴラスの主張はただの「詭弁家」の主張だろうか。私はそうは思わない。
それ以前に、このテキストの記述に問題は無いか。分けて考えていこう。

「プロタゴラスのように
「人間は万物の尺度」といって、
客観的真理の存在を否定したり、
国法や道徳の主観性を説くものもいた。」


「国法や道徳の主観性」は多くの人が認めるところだろう。禁酒法のように集団ヒステリー的に成立した法律は枚挙に暇が無いだろうし、かつての道徳が次の時代には弊履のごとく捨てられる例も枚挙に暇が無い。(だから法や道徳が無意味だというのではない。そこを誤解されては困る。プロタゴラスも、法や道徳が不要だとは言っていないだろう。「絶対視するな」ということだと思う。それは当然のことなのだ。)
「人間は万物の尺度」というのもまさにその通りだろう。人間の文化と文明は人類が「人間の尺度」で世界を理解し、その尺度を使って世界を変えてきた足跡なのである。
で、問題となりそうなのはプロタゴラスが「客観的真理の存在を否定」した、というところだ。
これによって、プロタゴラス(=ソフィスト)は「真理を否定する人々」であるから、彼らの言うことも「真理ではない」、従って、「ソフィストは嘘つき連中だ、詭弁家だ」ということになっていったかと思われる。
で、それの何がおかしいの、と言う人がいるかもしれない。

いいですか、プロタゴラスは「真理を否定した」のではなく、「客観的真理の存在を否定した」のですよ。

彼は、「真理が客観的に認識できる」かどうかに疑問を呈したのではないか。あるいは、「真理を共有認識にできるかどうか」は疑問だ、と言ったのではないか。
要するに、「客観的真理の存在を否定」とは「真理の否定」ではなく、「客観性というものの否定」だろう、というのが私の理解である。それならば、彼はまったくの「真理」を述べている、と私は思う。そんな、「真理は存在しない。だから私の言っているのもすべて嘘です」と馬鹿な主張をする人間がいるはずはない。
私のプロタゴラス理解が正しいなら、私も彼の一派である。厳密な「客観性」など存在しない。存在するのは「だいたいこんなもの」だけだ。その「だいたいこんなもの」が果たして麗々しい「真理」の名に値するか。
真理は確かに存在するだろう。だが、その客観性を証明することは不可能なのである。客観性を言い立てることから、思想的詐欺が始まる。いや、思想界だけのことではない。

それ(厳密な客観性、すなわち「認識の完全な共有」は不可能だ、という私の主張)を疑うなら、「私が認識している赤い色」とあなたが認識している赤い色が完全に同じ色であることを私に証明してみろ、と言っておく。

というわけで、下の短い文章もなかなか深遠な問題を幾つも含んでいる。私も高校世界史や倫理の教科書がまた読みたくなった。高校生の頃のようにテストに追われさえしなければ、学ぶことや考えることは娯楽にもなるのである。

言い忘れたが、山川の教科書の記述の問題は、日本語(あるいはすべての言葉)自体の持つ罠であり、「客観的真理の否定」と言う時に、「否定」の言葉が「客観」と「真理」の複合事物を受けるため、いったいどちらを否定しているのか不明になる、ということで、山川出版社に責任があるわけではない。これは読む側が注意すべきことだが、国語教師でそれを教える人はほとんどゼロだと思う。(「白い」と「馬」は別の観念ジャンルだから、「白馬」は「馬」ではない、という有名な「白馬非馬論」も、ある意味では正しいのである。)

要するに、デカルトが言うとおり、「物事は分けて捉えろ」というのが正確な思考の大原則だ、ということだ。


(以下引用)

Commented by カプリコン at 2015-04-18 20:40 x
「脱構築」という言葉の意味を貴ブログを読み読み続けることで自分なりに理解しているつもりです。
つい最近高校を卒業した我が子の世界史の教科書を読み始めたら面白くて、毎日数ページずつ読んでいます。山川出版のものです。自分が高校のとき初めて世界史の教科書と出会いのめり込んで学習したことを思い出しています。
ギリシャの文学のところで「民主政の発展とともに、哲学はしだいにその対象を自然から人間や社会に移し、市民生活に不可欠となった弁論を教える職業教師(ソフィスト)たちがあらわれたが、その代表者プロタゴラスのように「人間は万物の尺度」といって、客観的真理の存在を否定したり、国法や道徳の主観性を説くものもいた。これに対してソクラテスは独特の問答法によって人々の無知を悟らせ、ただしい徳を自覚して主体的に生きるべきことを説いた」とあります。30ほど前の世界史の教科書にも同じような文面でソフィストとソクラテスの対比が書かれていた記憶があります。
積極的平和主義なんて詭弁です。それにクロ現や報ステの報道のあり方に政府が干渉をするなんてこの国はいったいどこに向かっているのでしょうか。
この国のリーダーの中で天皇陛下だけが正しい歴史認識をのべ、日本国憲法の理念を大切にし実践をしている事実の重みを自分なりに考えています。 

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