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プラトンの「ゴルギアス」

二、三日前からプラトンの「ゴルギアス」を読んでいるのだが、その中で扱われている問題が、私が長い間考えていた問題とほぼ同じなので、興味深い。つまり、

1)悪ははたして当人にとって良いこと(利益のあること、つまり善)なのかどうか。
2)善人として生きること(欲望を抑制し、自分に悪を禁じて生きること)はつまらない人生なのか。


という問題である。
1)は、「悪を為すことは善である」という奇妙な命題になる(同じプラトンの「国家」では、トラシュマコスという男が、まさにそういう言い方をしていた。)が、現実に、そう信じて生きている人は無数にいる。ただし、この場合の悪とは、「他人に害悪を為すこと」の意味である。他人に害を与えることで自分の利益になるなら、それは自分にとっての善であり、それこそが「生きるに値する生」だと思っている人は多いのではないか。
哲学が大多数の人には無意味な学問だ、と思われているのも、この問題に答えきれていないからではないだろうか。
単純な話、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある青年の質問に、まともに答えきれた大人はほとんどいなかったのである。せいぜいが、「人を殺していいなら、(そう質問した)あなたを殺してもいいことになるではないか」「殺人を認めると、この社会が成り立たなくなる」くらいのもので、それであの質問者が本当に納得するかどうか、疑問である。

道徳や倫理というものは、単に社会秩序を守るだけの意味しかないのか。
それとも、社会秩序とは無関係に、悪を否定し、善を守る意義が別にあるのか。

この問題に真摯に答えている哲学というものを私はプラトン以外に知らない。というより、あまり哲学自体を知らないのだが、学校で習った「倫理社会」での各哲学の要約でも、そのことには触れていなかったと思う。
だが、この問題は、あらゆる人の人生の根本にある問題であり、さらにはあらゆる社会の倫理や道徳に、それが成り立つだけの重みがあるかどうかの大事な問題なのである。倫理や道徳が、社会秩序維持のためだけの意味しかないなら、「世界がどうなろうと、俺ひとりが一杯の紅茶が飲めればそれでいい」と思う人間を倫理や道徳は縛れないことになる。そして、実際、そういう人間はこの世界に無数におり、しかも社会の上位層(特に経済界)にこそその割合は多いのである。

長くなるので、「ゴルギアス」の話は数回に分けて書いてみたい。






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哲学者と幸福度

例によって思いつきだけの浮遊思考を書く。
哲学とは、幸福に至る道を見出す試みだ、と定義するなら、はたして幸福な哲学者がどれくらいいたか、という単純な疑問を呈してみたいのである。
私の、何の根拠もない推測によれば、幸福だったと思われる哲学者は

1。ソクラテス
2。プラトン
3。デカルト
4。ディオゲネス
5。ヴォルテール

後、名前は失念したが、「快楽主義哲学の祖」である人物くらいだ。ただし、この快楽は「思考する快楽」「哲学自体の快楽」であったという。その点ではデカルトと同じである。

一方、幸福でも不幸でもない哲学者が、宗教者も含めるなら

1.仏陀
2.アリストテレス
3.ショーペンハウアー

など。ショーペンハウアーなどは「厭世哲学」と言われているが、その書いた内容は、何だか楽しげに思えるのである。つまり、この人生の悲惨など、どうでもいい、という雰囲気がある。その点では仏陀に似ている。
その一方で、キリストなどは、不幸な感じがする。何か、人生が思いのままにならない、という雰囲気が満ちているからである。
つまり、ここで私が言うのは、前に書いた「幸福の方程式」の基本形、

H=A/B

すなわち、現実を理想で除した割合の数字によって人生の幸福度と不幸度は決まる、ということなのである。
そういう意味では、ソクラテスは、「自分の希望する人生を十全に生きた」から、最高度に幸福な人間だろう、と私は思うのである。彼が自殺を強いられたから不幸だとは私は思わない。その死は、彼が望む人生のありかたを最高度に実現する形の死であったから、その死でさえも幸福なのである。これが、私がソクラテスを最高に幸福な哲学者ではなかったかと言う所以である。









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人生におけるchallengeの意義

前に書いたブログで私は幸福の方程式を


H=A/B



H=幸福度
A=現実
B=理想や望み

として表したのだが、どうもそれだけでは不十分な気がするので、そこに「challenge」の要素を入れたいと思う。
つまり、小さい満足だけではなく、「大きい満足」を得るには「チャレンジ」の要素も必要ではないか、と思ったからである。そうなると、もちろん満足可能性は減少するが、その満足が得られた際の大きさは、小さい望みの場合よりも大きくなるのではないか。(この場合、分母はB×cとなる)

H=A/(B・c)

だ。


卑近な例で言えば、私の海外旅行などもそれで、海外旅行で得られた体験はほとんどが予想の範囲内ではあるがそれを超えるものも無いではない。それは四畳半の室内に居ては得られないことは確かだ。問題は、それを得るための「面倒くささ」と、実体験の価値がつりあうかどうかだ。
まあ、カネと時間の余裕があれば、実体験をするに越したことはない、というのが当座の結論になるかと思う。それだけ、人生経験の幅が広がることは確かである。






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幸福の方程式

もしかしたら、世紀の大発見かもしれないのだが、あまりにも馬鹿馬鹿しい思想かもしれない。
それは、幸福の方程式というもので、


H=A/B


というだけのものだ。

Hは幸福度
Aは現実
Bは理想、もしくは望みである。
我々は、現実が理想以下であるとき不幸であり、現実が理想を超えるとき幸福である、
という事実を数式化しただけのものだ。
これによって、「我ただ足るを知る」
が、幸福をもたらす唯一の教えであることが分かる。














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現実対虚構、空想対理想

「紙屋研究所」記事の一部である。
ある本についての評論なのだが、ここでは本の内容とは少し離れて、「現実と虚構」「空想と理想」について論じており、興味深い。



 「理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているから」


というのは、なかなかいい定義だと思う。
実は、この後、かなりの長さの文章を書いたのだが、どこかのキーをうっかり触った拍子に全部消えてしまい、これ以上書く気を失ったので、後は書かない。まあ、引用文だけでも読む価値はあるし、それが気に入れば、元記事を探せばいい。

しかし、パソコンという奴は、実に無駄なキーや無駄な機能が多すぎる。少なくとも、ものを書くことに限定するなら、昔のワープロのほうが勝っている気がする。



(以下引用)


 本書の各書評などで紹介されているのですっかり有名になった部分だが、宮崎駿の次のエピソード白眉である。


 1994年の秋に社員旅行奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。園鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。


「おまえ、飛び方まちがってるよ」


〈えええーっ!?〉


 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。(p.53-54)


 舘野は、宮崎が常々写真やビデオを見たままに描くな、と要求していることを記したうえで、


宮崎さんは、ただ現実をそのまま描くのではない、現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを探求しているのです。(p.54)


と紹介している。


 創作の方法として、単純にフィクションノンフィクションという分類があるが、別の問いを立てると「虚構と現実とどちらが豊かなものか」ということになる。


 虚構側の言い分は「現実なんてつまらないものだ。想像や空想なら宇宙の果てまで行ったり、世界を征服する独裁者になったり、世界中の女とヤッたりできるのに」というものだし、現実側の言い分は「日々科学の力で解き明かされている現実の自然や社会がもつ無窮の豊かさに比べたら、人間の想像の範囲にとどまる虚構の薄っぺらさといったら、ないね」というものだ。


 虚構は必ず現実にしばられている、というのが唯物論者たるぼくの考えである。その意味では現実の方がより根源的であるから、虚構はなかなか現実にはかなわない。


 しかし、人間の意識に強い印象を残すのは、虚構であることが多い。


 そのような虚構とは、まさに現実を調べつくして生み出される「典型」であるし、さらにいえばその「典型」を批判し、「典型」をこえて生み出される理想である。理想によって「典型」や現実は批判され、没落する。




 それは政治でも同じである。


 現実の批判のうえに理想が成り立つ。


 理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているからであって、よき対案・よき建設的提案が、徹底した現実批判から成り立つのは当然のことである。よく「批判ばかりで対案がない」とか「責任政党として対案を」みたいなことが言われるが、質の高い批判なしに対案など生み出されようもない。「安保法制を批判する輩は対案がない」と言われ、あわてて現実の土俵に無批判に乗り込んで、「何かに対処する」っぽい急場しのぎの「対案」を用意する営為は、その思想の貧しさに目を覆いたくなるほどだ。


 マルクス経済学(『資本論』)は、共産主義の何らかの空想的なプランではなく、資本主義への批判であり、サブタイトルにあるように「経済学批判」、つまり現存する経済学への批判である。だからこそ、「マルクスは死んだ」と、もう5万回以上言われてもしつこくよみがえるのは、そのような透徹した現実批判をベースにしているからである。




 宮崎駿自身、憲法9条の支持論者であるが、日本国憲法は、現在の保守支配層がこの憲法を邪魔者に扱いし、これを葬り去ろうとするなかで、憲法規範そのものが現実に対するラディカルな批判としてそこにある。憲法は厳しい現実批判をベースにした理想として存在している。

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「含み」の無い言語と「含み」のある言語

togetterから転載。
まあ、ただの雑談だが、面白いので紹介するだけだ。
コメントの中でイギリス人を京都人(という言い方は雑だが、いちいち「京都の人」と書くのも面倒だからこう書いておく。)に似ている、と書いているのが多いが、私が経験した限りでは、京都人はまさに「文明人」「都会人」という感じであり、「腹黒い」とは思わない。京都人の悪いイメージは、「京のぶぶ漬け」などの「京都disり」が、関東・東京(つまりマスコミの中心、情報発信の中心)から日本全国に流布された結果ではないか。
確かに、思ったことを当人の前では言わず、陰で言う、という面はある(「徒然草」の中にもこうした「京都人の言うことは信用できない」という京都人批判の話題がある。そして、なぜ京都人がそうなのかが明快に説明されている。)ようだが、これは「事を荒立てたくないが、自分の考えだけは言っておかねば気が済まない」という、人間としては当然の気持ち、そして暴力的なこと(力づく)を好まない温和さから来ているように思う。それを「陰口を言わず、堂々と言え」と思う人もいるかもしれないが、果たしてあなたは「暴力的存在」の前で、それができるか。権力者の前でそれができるか。あなたがそれができるのは、弱者に対してだけではないだろうか。
京都という場所は昔から政治的闘争の中心地であったところだ。つまり、宮廷政治というものが身近にあった場所である。日本のほとんど唯一の「文明の地」であったわけで、そういう場所だからこそ高度な言語性(ハイコンテクストの言語)が生まれたのではないか。
アメリカ的な「ローコンテクスト」の会話は、力を背景にしなくては成り立たない。だから、アメリカ社会では「強いこと」が絶対的に重視され、ほとんど最高の美徳扱いになるのである。


(以下引用)



イギリス人「それは独創的な観点だね(君の意見は愚かだ…)」→オランダ人「気に入ってくれた!」 
まとめました。
本音 お国柄 建前
88

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cast off

道元だったと思うのだが、「心身脱落」という言葉がある。その「心身脱落」について書かれたのが、次の言葉だ。

仏道を習うというは自己を習うなり。
自己を習うというは自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは自己および他己の心身をして脱落せしむるなり。

最初の2行はなんとなく分かる気がするが、三行目の「万法に証せらるる」がよく分からない。これを英訳したところにはこうある。

To forget oneself is to perceive oneself as all things.

perceiveは「理解する」とか「自覚する」、と訳せるかと思う。この英訳からすると、「万法」とは「万物」の意味になるかと思うので、改めて三行目を現代語訳すると、

自己を忘れるというのは、自己を万物として自覚することである。

となるだろうか。つまり、自分という存在は万物(世界)そのものだと自覚するわけである。こうして小さな「我」(自我)は消滅する。(それが悟りの境地だ、と言っていいかもしれない。)
その結果、自己および他己(「他者」と同じと見ていいかどうか分からないが、自分と同様に「自我的存在の他者」、つまり、我執に囚われた他者というものかと思われる。)の心身は自然と脱落する(脱ぎ捨てられる)ことになるわけである。
4行目を英訳したものはこうである。

To realize this is to cast off the body and mind of self and others.

otherselfというような、「他己」に該当する英語は存在しないようなので、簡単に「他者」で英訳したようだ。
3行目と4行目の関連をTo realize this~と英訳したのも面白い。

「万法に証せらるること(自分と万物の一体化)」を現実化するとは、自己と他己の心と身体を脱ぎ捨てることだ、とでも訳せばいいだろうか。
とすれば、3行目と4行目は「原因と結果」ではなく、「目的とそのための手段」かもしれない。


英訳文を全部書いておく。

To learn Buddist Way is to learn about oneself.
To learn about oneself is to forget oneself.
To forget oneself is to perceive oneself as all things.
To realize this is to cast off the body and mind of self and others.












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