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人生におけるchallengeの意義

前に書いたブログで私は幸福の方程式を


H=A/B



H=幸福度
A=現実
B=理想や望み

として表したのだが、どうもそれだけでは不十分な気がするので、そこに「challenge」の要素を入れたいと思う。
つまり、小さい満足だけではなく、「大きい満足」を得るには「チャレンジ」の要素も必要ではないか、と思ったからである。そうなると、もちろん満足可能性は減少するが、その満足が得られた際の大きさは、小さい望みの場合よりも大きくなるのではないか。(この場合、分母はB×cとなる)

H=A/(B・c)

だ。


卑近な例で言えば、私の海外旅行などもそれで、海外旅行で得られた体験はほとんどが予想の範囲内ではあるがそれを超えるものも無いではない。それは四畳半の室内に居ては得られないことは確かだ。問題は、それを得るための「面倒くささ」と、実体験の価値がつりあうかどうかだ。
まあ、カネと時間の余裕があれば、実体験をするに越したことはない、というのが当座の結論になるかと思う。それだけ、人生経験の幅が広がることは確かである。






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幸福の方程式

もしかしたら、世紀の大発見かもしれないのだが、あまりにも馬鹿馬鹿しい思想かもしれない。
それは、幸福の方程式というもので、


H=A/B


というだけのものだ。

Hは幸福度
Aは現実
Bは理想、もしくは望みである。
我々は、現実が理想以下であるとき不幸であり、現実が理想を超えるとき幸福である、
という事実を数式化しただけのものだ。
これによって、「我ただ足るを知る」
が、幸福をもたらす唯一の教えであることが分かる。














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現実対虚構、空想対理想

「紙屋研究所」記事の一部である。
ある本についての評論なのだが、ここでは本の内容とは少し離れて、「現実と虚構」「空想と理想」について論じており、興味深い。



 「理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているから」


というのは、なかなかいい定義だと思う。
実は、この後、かなりの長さの文章を書いたのだが、どこかのキーをうっかり触った拍子に全部消えてしまい、これ以上書く気を失ったので、後は書かない。まあ、引用文だけでも読む価値はあるし、それが気に入れば、元記事を探せばいい。

しかし、パソコンという奴は、実に無駄なキーや無駄な機能が多すぎる。少なくとも、ものを書くことに限定するなら、昔のワープロのほうが勝っている気がする。



(以下引用)


 本書の各書評などで紹介されているのですっかり有名になった部分だが、宮崎駿の次のエピソード白眉である。


 1994年の秋に社員旅行奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。園鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。


「おまえ、飛び方まちがってるよ」


〈えええーっ!?〉


 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。(p.53-54)


 舘野は、宮崎が常々写真やビデオを見たままに描くな、と要求していることを記したうえで、


宮崎さんは、ただ現実をそのまま描くのではない、現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを探求しているのです。(p.54)


と紹介している。


 創作の方法として、単純にフィクションノンフィクションという分類があるが、別の問いを立てると「虚構と現実とどちらが豊かなものか」ということになる。


 虚構側の言い分は「現実なんてつまらないものだ。想像や空想なら宇宙の果てまで行ったり、世界を征服する独裁者になったり、世界中の女とヤッたりできるのに」というものだし、現実側の言い分は「日々科学の力で解き明かされている現実の自然や社会がもつ無窮の豊かさに比べたら、人間の想像の範囲にとどまる虚構の薄っぺらさといったら、ないね」というものだ。


 虚構は必ず現実にしばられている、というのが唯物論者たるぼくの考えである。その意味では現実の方がより根源的であるから、虚構はなかなか現実にはかなわない。


 しかし、人間の意識に強い印象を残すのは、虚構であることが多い。


 そのような虚構とは、まさに現実を調べつくして生み出される「典型」であるし、さらにいえばその「典型」を批判し、「典型」をこえて生み出される理想である。理想によって「典型」や現実は批判され、没落する。




 それは政治でも同じである。


 現実の批判のうえに理想が成り立つ。


 理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているからであって、よき対案・よき建設的提案が、徹底した現実批判から成り立つのは当然のことである。よく「批判ばかりで対案がない」とか「責任政党として対案を」みたいなことが言われるが、質の高い批判なしに対案など生み出されようもない。「安保法制を批判する輩は対案がない」と言われ、あわてて現実の土俵に無批判に乗り込んで、「何かに対処する」っぽい急場しのぎの「対案」を用意する営為は、その思想の貧しさに目を覆いたくなるほどだ。


 マルクス経済学(『資本論』)は、共産主義の何らかの空想的なプランではなく、資本主義への批判であり、サブタイトルにあるように「経済学批判」、つまり現存する経済学への批判である。だからこそ、「マルクスは死んだ」と、もう5万回以上言われてもしつこくよみがえるのは、そのような透徹した現実批判をベースにしているからである。




 宮崎駿自身、憲法9条の支持論者であるが、日本国憲法は、現在の保守支配層がこの憲法を邪魔者に扱いし、これを葬り去ろうとするなかで、憲法規範そのものが現実に対するラディカルな批判としてそこにある。憲法は厳しい現実批判をベースにした理想として存在している。

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「含み」の無い言語と「含み」のある言語

togetterから転載。
まあ、ただの雑談だが、面白いので紹介するだけだ。
コメントの中でイギリス人を京都人(という言い方は雑だが、いちいち「京都の人」と書くのも面倒だからこう書いておく。)に似ている、と書いているのが多いが、私が経験した限りでは、京都人はまさに「文明人」「都会人」という感じであり、「腹黒い」とは思わない。京都人の悪いイメージは、「京のぶぶ漬け」などの「京都disり」が、関東・東京(つまりマスコミの中心、情報発信の中心)から日本全国に流布された結果ではないか。
確かに、思ったことを当人の前では言わず、陰で言う、という面はある(「徒然草」の中にもこうした「京都人の言うことは信用できない」という京都人批判の話題がある。そして、なぜ京都人がそうなのかが明快に説明されている。)ようだが、これは「事を荒立てたくないが、自分の考えだけは言っておかねば気が済まない」という、人間としては当然の気持ち、そして暴力的なこと(力づく)を好まない温和さから来ているように思う。それを「陰口を言わず、堂々と言え」と思う人もいるかもしれないが、果たしてあなたは「暴力的存在」の前で、それができるか。権力者の前でそれができるか。あなたがそれができるのは、弱者に対してだけではないだろうか。
京都という場所は昔から政治的闘争の中心地であったところだ。つまり、宮廷政治というものが身近にあった場所である。日本のほとんど唯一の「文明の地」であったわけで、そういう場所だからこそ高度な言語性(ハイコンテクストの言語)が生まれたのではないか。
アメリカ的な「ローコンテクスト」の会話は、力を背景にしなくては成り立たない。だから、アメリカ社会では「強いこと」が絶対的に重視され、ほとんど最高の美徳扱いになるのである。


(以下引用)



イギリス人「それは独創的な観点だね(君の意見は愚かだ…)」→オランダ人「気に入ってくれた!」 
まとめました。
本音 お国柄 建前
88

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cast off

道元だったと思うのだが、「心身脱落」という言葉がある。その「心身脱落」について書かれたのが、次の言葉だ。

仏道を習うというは自己を習うなり。
自己を習うというは自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは自己および他己の心身をして脱落せしむるなり。

最初の2行はなんとなく分かる気がするが、三行目の「万法に証せらるる」がよく分からない。これを英訳したところにはこうある。

To forget oneself is to perceive oneself as all things.

perceiveは「理解する」とか「自覚する」、と訳せるかと思う。この英訳からすると、「万法」とは「万物」の意味になるかと思うので、改めて三行目を現代語訳すると、

自己を忘れるというのは、自己を万物として自覚することである。

となるだろうか。つまり、自分という存在は万物(世界)そのものだと自覚するわけである。こうして小さな「我」(自我)は消滅する。(それが悟りの境地だ、と言っていいかもしれない。)
その結果、自己および他己(「他者」と同じと見ていいかどうか分からないが、自分と同様に「自我的存在の他者」、つまり、我執に囚われた他者というものかと思われる。)の心身は自然と脱落する(脱ぎ捨てられる)ことになるわけである。
4行目を英訳したものはこうである。

To realize this is to cast off the body and mind of self and others.

otherselfというような、「他己」に該当する英語は存在しないようなので、簡単に「他者」で英訳したようだ。
3行目と4行目の関連をTo realize this~と英訳したのも面白い。

「万法に証せらるること(自分と万物の一体化)」を現実化するとは、自己と他己の心と身体を脱ぎ捨てることだ、とでも訳せばいいだろうか。
とすれば、3行目と4行目は「原因と結果」ではなく、「目的とそのための手段」かもしれない。


英訳文を全部書いておく。

To learn Buddist Way is to learn about oneself.
To learn about oneself is to forget oneself.
To forget oneself is to perceive oneself as all things.
To realize this is to cast off the body and mind of self and others.












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直感と直観

「渾沌堂主人雑記」から転載。
かなり長文なので、最初の、スピリチュアルに関する部分は省略する。私はスピリチュアル系の話は、今はあまり好きではないので。(以前は、人類全体の知的向上が、世界平和と人類の幸福の絶対条件かもしれない、と思っていたので、アセンションの話題も少し書いたが、今は興味をなくしている。)
下の記事はいろいろと面白い。「直感を信じるな」というのは私の持論とは正反対だが、ここでヤス氏の言う直感とは、まさに「感情をそのまま信じる」ような類のものであり、私が言う直感、つまり(無意識の思考で行われた一瞬の判断)とは正反対のものだ。私の言う直感は、漢字で書けば「直観」の方だろう。で、ヤス氏の言う、「感情はすべてノイズである」という意見に私もほぼ賛成する。ただ、それで感情の価値を貶めるものではない。私は、時には理性よりも感情に従うほうが正解である、と考えている。
感情をゼロにした人間は、「1足す1は2」だけの機械人間でしかない。
「エコノミスト」表紙の話も面白い。もちろん私も「エコノミスト」表紙を「考える楽しみ、推理の娯楽」の対象としているだけで、それが「予言」だと信じているわけではないが、表紙が「エコノミスト」編集部による「本年度予測」を象徴的に表しているのであれば、本気の「予言」ではなくとも有力な「預言」の一種には違いはない。


(以下引用)




西塚 と言うことは、われわれは大きな流れを自覚して、それに則って進むべきなんでしょうか?

ヤス 進むべきだと思います。ただ、進むべきなんだけど、自分の直感を信じちゃいけない。直感というのは、ある程度論理的な思考というフィルターを通さないと、ごっちゃでグチャグチャなんですね。僕は直感は信じないですよ。

直感は、とことん研ぎ澄まされた理性によって一回ふるいにかけられなければダメだと思います。たとえば水瓶座の時代であるとか、流れが変化したとか、それを自分が直感したならば、直感の源泉が何であるかということをとことん思考するべきだと思います。とことん思考して自分なりの結論を持つべきです。

西塚 それに関して言うと、たとえばゼランドなんかは、一番信用できないのは理性だって言い方をするんですね。

ヤス それはそうですよ。

西塚 だからヤスさんのおっしゃる直感と、ゼランドの場合は魂と言いますが、魂からくるもの。判断の一番簡単な基準は魂の快か不快かだと言うわけです。自分がこういうことをやろうと決めたときに、やったことを結果として思い描いてみて、それが快か不快か。そこに答えがあるというような言い方をする。

逆に、どう考えてもこれはこうやったほうがいいに決まってると。理性で理屈をいろいろ並べてですね、こうするべきだと思っても、ものすごく魂が不快な場合がある。そこに敏感になるべきであって、そうしないといわゆる理性の理屈に従って全然違う方向にいっちゃうことがある。

ヤス それはよくわかる。

西塚 そういった意味で、今ヤスさんがおっしゃったように、直感はとことん疑うべきだし、信じてはいけない。むしろ徹底的に考えて、検証するべきだということは、けっこう危うい部分もありますね。

ヤス 危ういと思います。快か不快かにやっぱり従うべきだと僕は思います。ただ重要なのは、それが純粋な快か不快かじゃなきゃいけないんです。

西塚 そこなんですね。

ヤス 本当に自分の深い直感、魂からやってきた快・不快であればいいんですよ。たいていはそうじゃない。好き嫌いなんですよ。

西塚 ここはですね、かなり核心だと思うんですね。だからおうかがいしたいんですが、ではどうやって、いわゆる直感でもいいです、あるいは魂の快か不快かでもいいですが、それをどう見極めるか。その方法論なり何なり、では、どうするんだというところに入ってくる。ヤスさんはどうお考えでしょうか?

ヤス そのゼランドの言う快か不快かというのは、普通、感情をいっさいともなわない。。判断としてやってきますね。これはやめろとかね。こっちのほうがいいとか。

西塚 そうです。知ってるに近い。

ヤス 知ってるに近い。それが本来の直感だと思います。ちょっとでも「イヤぁ~ッ」とかね、「キラい!」という感情的な質感をともなったら、それは全部ウソです。それは直感でもなんでもない。それを判断するのが思考だということです。自分を客観的に見ないと判断できない。ああ、私は直感みたいなものを信じようとしてるけど、好き・嫌いの感情的なノイズが関わっていると。ならば私はこれを無視する、という判断は直感じゃなくて思考なんですよ。

西塚 そういうノイズがない本来の、一応魂と言っておきましょう、本来の根源的な魂からくる判断というものを養うと言いますか、そういうものを自分に呼び起こすためにはどうすればいいのか。ヤスさんはどう思われますか?

ヤス たとえば、仏教の修行というのは十分効果をあげると思いますよ。禅の座禅でもそうだし、日蓮系統の題目というのもそうだろうし。

西塚 いわゆるマントラですね。声明というか。

ヤス そうですね。声明もそうだし、トレーニング方法はさまざまあると思います。ただ重要なのは、こいつは私の先生だと、先生を妄信しないことですね。そういうのはだいたいまやかしです。

西塚 今の修行の話に戻ると、いろんなチャンティングというか声明をあげるとか、あるいは瞑想とかありますね。ヤスさんとも話しましたが、ビリー・マイヤーにも「瞑想入門」という分厚い本があって、僕は読んでないんですけども、あれは効果的なものですか?

ヤス 効果的だと思いますね。あの瞑想は自分との客観的な距離感がとれるんです。まず、自分の感情との距離感がとれる。そうするとね、純粋な思考を自分の中に招き入れる余地ができるんですね。

西塚 それは、場合によっては逆になりませんか? たとえばある修行をして、瞑想でもいいし、滝に打たれるでもいいんですけど、ある精神状態になる、無になるということもあるんだろうけれども、言い方を替えると、思考が入る余地をなくす境地になる。

ヤス それは間違った方向だと思います。

西塚 間違っている。

自分の感情を「思考」で精査する

ヤス 「瞑想入門」が保証するものは、自分に対する恐ろしく冷厳な客観性だと思います。自分の心の動きを距離感を持って観る。非常に客観的にね。それで自分がどういう感情を持っているかという感情の動きが客観的にわかる。それがわかると、感情に左右されない直感とは何か、というのがわかるわけです。

西塚 そうすると、それはある程度そういう修行なり何なりを体験しないとわからない、という話になってきますね。

ヤス わからないんだけども、それが思考を積極的に導入すべき余地だということですね。まず第一に、自分の感情に対してとことん客観的になる。感情ほど信用できないものはない。第二に、客観的になったら、自分が直感と信じているものが感情からきてるのか、そうじゃない部分からきてるのかを判断する。第三に、判断するための基盤になるのは思考です。冷厳な思考です。

西塚 その場合、ヤスさんの言う思考というものはどういうものになりますか?

ヤス 論理性ですね。

西塚 言葉を使ったものですか?

ヤス なるべく言葉を使ったほうがいい。なるべく言葉を使って論理的に表わしたほうが絶対いいですね。そうすると、その思考によってこれはやっぱり感情なんだな、これは直感で大丈夫なんだなって判断ができるようにはなると思いますよ。

西塚 そのへんをもっとわかりやすく言うことはできるでしょうか。たとえば、論理と言いながら、ただの屁理屈だったりする場合もあるじゃないですか。僕のことですけど(笑)。

ヤス 自分の理性を妄信してもダメなんですよ。自分がいかに論理的であるかということを妄信してもダメですね。はっきり言って、信じちゃダメですね、何でも。あらゆるものに対してニュートラルな、中道的な態度をとる。距離感を持たないとダメですね。

西塚 信じようとすることはすでにダメですね。同時に疑念が生まれる。本当に、知ってる、に近い感覚ですね。だからその境地にいくことはかなり難しい。ほとんど修行に近いんですよ。合気もそうですが、ある感覚とかある境地にいくためのただの修行なんですね。

それはいわゆる常識にはない感覚なんですけど、じゃあ合気をやるしかないのかって話になっちゃう。そうではない形が何かあるかと言った場合に、ビリー・マイヤーだったら瞑想もそのひとつだろうし、草むしりなのかもしれない。そういうひとつのノウハウというか、ハウツーになっちゃうとまたいけないわけですが…

ヤス 身につけたほうがいいと思う。何かね、自分で。まず、一番スピリチュアル系でヤバいのは、直感に対する妄信ですね。直感は、今言ったように感情というノイズとごっちゃになってる場合がほとんどなんです。

西塚 ということは、これをやればこうなるというよりも、極端な言い方をすれば、まずこれはやるなよ、といったことのほうをあげつらっていったほうがまだ早い(笑)。

ヤス そうです。自分の感情をまず信じるなと。ほとんどノイズだと。それで自分の感情を直感と思い込むな。

西塚 あと、字にこだわっちゃいけませんが、直感の感は感情の感なんですね。観察の観だと哲学的な意味になって、たとえば何かものを読んだりしたときに、もともとアプリオリに備わってる能力によって理解できるというようなこと、それが観察の観の直観なんだと思います。でも感情の感の直感は、本当にパッと理屈じゃないところでわかってしまう。だから直感と言う場合、僕はそっちのほうかなと思っています。

ヤス そうです。理屈じゃなくわかるんですよ。“わかる”であって、それは感情をともわないんですよ、本当に。ものすごく冷厳な判断です。

西塚 本来の直感と感情的なもの、好き嫌いなのかをまず見極める。

ヤス まず見極める。自分に直感的なものが湧いたとしたら、どこまでどの部分が感情で、どの部分が本来の純粋な直感なのかを自分が判断せねばならない。それを判断するのが思考です。

西塚 その判断が正しいかどうかの前に、まず直感か感情かを判断する。

ヤス そうそう。感情的なものはたいていノイズです。

西塚 判断するときには思考が働くわけで、そういう意味で思考とおっしゃったのですか?

ヤス その意味で思考と言ってますね。

西塚 なるほど。

ヤス 判断する場合の思考は感情をともわないので、本来はね。だからその思考をベースにして判断の基準にするってことですね。

西塚 それだけでもかなり、パッと何か行動を起こすときのリスクは減るような気がしますね。

ヤス そうですよ。やっぱり感情というのは自分を欺きますから、本当にね。ノイズにもかかわらず、自分の直感で正しい方向だって思い込んじゃうんですね。どんなものでもそうです。イヤな感情でもいいし、ワクワクでもいいし、あらゆる感情はマイナスです。ワクワクした感情で地獄の中に入っていく人もいますから。

西塚 そこで思考が働けば、ワクワクしてるということも、単純にこの前と似たようなシチュエーションだから、同じような感覚が蘇ってきて同じような気持ちになってるだけかもしれないと判断できる。でも、ちょっと考えたらとんでもないと。実は。

ヤス オレというのは、やっぱりこのようなシチュエーションに対してえらくアトラクトされるタイプだと。惹きつけられるようなタイプの人間だよね、とか。

西塚 そこで思考が大事になるんだと。けっこうわかりやすい話ですね。

ヤス いろんなスピリチュアリストの先生がいますが、だいたい自分の直感を妄信してる人が多い。

西塚 基本的に指導者と言われるような立場の方たちでも、やっぱりありますか?

ヤス でも、というか、指導者になればなるほど直感を妄信しますね。

西塚 そうですか(笑)、もっと冷静なのではなくて。

ヤス 全然。思考なんてゼロですよ。ヤバいです。

西塚 そうなのか。そうなると昔の70年代とか80年代初期の議論じゃないけども、声がでかいヤツが勝つみたいな感じで、もう信じ込んじゃってどんどん間違って、たとえ魔物が取りついていても言い切ったヤツの勝ちになる。

ヤス それだけやっぱり意識の識域が低いんですね。自分の感情に対しても100%オープンになってしまってるという人です。まあ、100%感情に対してオープンになってしまっている人でもね、正しい直感はいろいろ入ってきます。ただ、感情的なノイズとごっちゃになって入ってきます。

西塚 僕もわりと100%近くオープンになっちゃうけども(笑)、僕の場合は他愛のないものかもしれませんが、それがある方向、たとえばスピリチュアル的なものだったら話が違ってきますね。

ヤス やっぱりまずいんですよ、それはね。スピリチュアル的に自分の直感とか何とかって妄信してるとヤバいです、絶対。一番妄信してはならないものですね。そういう直感が湧くような人は僕のまわりにもたくさんいるけども、スピリチュアル的な意味での先生とかもたくさんいるけどね、彼らのほとんどはもう妄信してる状態です。

西塚 それに対してヤスさんの立場としてはどうですか? そういう人なんだなというくらいですか?

ヤス そうですね。僕の場合はちょっと距離感を保って、彼ら彼女らの妄信してる直感のどの部分が正しくて、どの部分が信用できないかを判断しようとします。少なくともね。ああ、この部分は確かに面白いな、この部分はノイズだというようにね。

そういう判断ができたら、やはりいろいろと質問をしたり、対話を積み重ねて、正しい部分の情報を自分で引き出すように努力しますね。そういう方向を僕はとります。僕の方向が正しいかどうかの保証はないけれども。

西塚 それは、そういうことを言う人物でも、あるいは書籍でも、全部同じ態度でのぞむということですね。

ヤス そうです。

西塚 ヤスさんは2007年ぐらいから、ずっと予言のことについても書いてらっしゃったけど、予言に対してもそういう態度ですか?

ヤス 全部そういう態度ですね。

西塚 予言として言われたことを自己実現的に、自己現実化していくということについては、また別でつなげていきたいと思います。

ヤス 直感と感情と思考のバランスが絶対に必要です。だから、何が自分にとって理想的なバランシングポイントなのか、ということをつかまなくてはダメだということですね。

「クール・ジャパン」はあと2年!?

ヤス 僕は現在の日本人に対して、日本文化じゃないですよ、日本人に対しては相当ネガティブです。これまで対談でも言い続けてきたようにね。日本は復活のチャンスを自らぶっ潰してるんですね。

なぜ、日本がiPhoneを作らなかったのか。テクノロジー的にはアップルを凌ぐテクノロジーを持ってる会社はたくさんある。なぜ、作れなかったのか。ヒット商品はみんなアメリカ発じゃないですか。なぜ、日本ができないのか。非常に簡単なんですね。

何かヒット商品めいたものを作ると、わあっ!日本はすごいっ!という意識が強すぎるんです。ヒット商品を作るための大前提がある。多様性に対する感性、多様性に対する寛容性ですね。全然違った価値観、全然違った物事の見方をできるような、多様な人間をいかに引き込めるかによるんです。

アメリカのあなどれない優秀さはどこからくるかというと、多民族国家であるということ。インド人の優秀なヤツ、日本人の優秀なヤツ、南アフリカ人の優秀なヤツ、ロシア人の優秀なヤツと、もう本当に多様な価値観を持ってるヤツをかき集めてくるわけです。そのような多様的なプールの中でこそですね、いろんなアイディア、画期的なものが生まれてくるんですよ。

ただ、ここもポイントで、多様性のバランスがある。多様性はカオスなので、どこまでがカオスで、どこまでが秩序なのか、その線の引き方があるんです。スティーブ・ジョブスみたいな連中は、ものすごくその感性が研ぎ澄まされていて、カオスと秩序との絶妙なバランス感覚があります。ビル・ゲイツもそうなんだけど。

日本の場合どうかというと、ちょっとでも何か成功すれば、日本はすごいっ!となって、多様性を全部排除して籠っちゃうんですね。そうすると、将来に成功する種を全部自分で排除することになる。それで最終的にはジリ貧に陥っていくというサイクルですね。

だから、たとえば日本の現在のアニメとかね、クールジャパンとか言ってますでしょ? あれなんて、おそらく2年持たないでしょう。やっぱりクールコリアになってくると思うし、もうすでにクールコリアです。クールタイランドかもしれないし、ほかのところに全部取られていきますよね。

西塚 いきなり時事問題になりますが、台湾と言えば、民進党ですね。いわゆるひとつの中国とか言って共産党と仲よくやってきた国民党を引っくり返した。台湾なんて独立しちゃえばいいと個人的には思いますが、あのパワーと言いますか、僕は知らなかったのですが、対中国との貿易でもものすごく上にいるんですね、香港とかと並んで。あんなに上にいるとは思わなかった。

ヤス そうですよ。だから中国依存ですね、完璧に。ものすごく依存が高い。今、台湾でも香港でもそうなんだけど、問題は何かというと、経済的には中国依存でしか生き残れない。生き残れないんだけども、それは自分の文化的なアイデンティティーとしては拒否したい。だから中国に依存せざるを得ないんだけども、中国に依存した状態で、どうやって自分の文化的なアイデンティティーを確保するかという問題です。中国のほうとしては、もっと長い期間をおいて構えてますので。どっちにしろ吸収すると(笑)。

西塚 そうでしょうね(笑)。強かですからね。向こうのほうがはるかに上。

ヤス だから、たとえば台湾に関して言うと、彼らの民族的なアイデンティティーに対するこだわりですね。中国のほうはゆったりした時間を持って、戦略として経済的に中国に依存させる。台湾経済が中国に依存せざるを得なくなるように包含する。あとは時間をかける。だから最終的に何が問題になってくるかというと、台湾の人たちが自分たちの民族的なアイデンティティーを、まあしょうがないよって言っていつ放棄するかですね。

西塚 ああ、やっぱりそこなんですか…

ヤス そこだと思いますね。放棄したうえで、中国に吸収されて、中国の内部である意味自治区的なもの、今の香港に近いような状態で自分たちの民族的なアイデンティティーを文化的に保っていく。おそらく中国はそれを許容すると思う。ああ、どうぞと。一国二制度でいいっていう国ですからね。それで自分の中に香港型で吸収する。

ちょっと語弊のある言い方かもしれないけども、今回は国民党のほうが現実的だと思います。われわれはやっぱり中国に依存せざるを得ないと。依存せざるを得ないということを前提に、何とかしようと考えるわけですね。今の民進党は、まだ独立できるんだと思っている。僕は幻想だと思います。台湾は独立国家としてやれないことはないんだけども、今の状態から見たら、中国から引き離されたら無理ですよ。そういうふうに僕は思います。

西塚 そうですか。まあ、考えてみれば歴史的に振り返っても、あそこの領土といい、大した年数が経っているわけでもなく、あそこにこだわる必要はないかもしれませんね。民族的にも。

ヤス もともと台湾は、地域として国家意識があって、民族的に独立したという意識はあまりないでしょう。国民党政権が中国共産党に追われて逃げてきた。それからでき上がってくるわけですね。蒋介石以降ですね。自分たちこそが正当な中国であるというのは。

「エコノミスト」の表紙だけを見て判断する愚

西塚 あと、ヤスさんのメルマガでは取り上げてらっしゃらなかったですが、ちまたでは話題になっている例の「エコノミスト」の表紙。あれはあえて無視されたというか、あまり興味を引かれませんでしたか?

ヤス いえいえ、おもしろいですよ。ただね、みんなが見てるのは表紙だけなんですね。記事を読んでないんですよ。記事を読んだら、なぜあのような表紙を使ったかというのがわかります。表紙に載ってるひとりひとりは何かというと、エコノミストの記事の内容を象徴しているんですね。

西塚 なるほど。昔からよく陰謀論系のブログで取り上げられていて、ある種陰謀論の格好の材料だったじゃないですか。僕はちょっとついていけなかったので、よくは知らないのですが、今回もまた出てきた。中には多少の真実が含まれてるのかもしれませんが…

ヤス 表紙だけを見て判断するんですよ。たとえば、エコノミストの2015年版の記事を見ると、やっぱり表紙にある象徴のひとつひとつに記事が対応してるのね。実に合理的なんです。

西塚 普通、雑誌の表紙というのはそういう機能があります。

ヤス そうです。要するにデザイナーが記事の内容を読んで、ひとつひとつが記事の内容を一番象徴するようなイラストを考えて載せたってだけですね(笑)。

西塚 今日は時間もないのでそのテーマにいけませんが、雑誌の機能としてもそうですね。それをいろいろとこじつけておもしろがる。それはそれでエンターテインメントとしてはいいんでしょうが、でも本気にしてる人もいるんじゃないかな。

ヤス 表紙だけを見てるから。内容を読めと。実に合理的です。たとえば、2015年版ですけど、東の顔と西の顔が敵対するような感じの地球儀があったんですね。これは、現在の欧米とロシアとの対立を象徴している。そのすぐ下にですね、核爆弾の象徴があるわけですよ。それなんか記事を読むと実に単純ですね。

何を言ってるかというと、欧米とロシアとの敵対関係って修復できないとこまできてるよねと。このまま敵対関係がどんどん進んだ場合、次の紛争とか戦争の危機が高まると。核戦争になることはないとは思うけども、その可能性も否定できないよねって感じの記事なんですよ。

それはそうだろうって話でね(笑)。だから、記事の内容を読まないで議論しても意味がない。陰謀論という自分の思い込みの世界に入るので。

西塚 そういう意味では、色眼鏡をつけて見れば、いろんな表紙のデザインもいろいろ理屈をつけられますね。ストーリーを作れるし。

ヤス そうです。だからひとつひとつの記事の内容をシンボル化して、一堂に集めるとあんな表紙になる。だからやっぱりね、ちょっと深読みしすぎ。

西塚 それは、あえて言ったほうがいいですね。毎年、恒例のようになってるし、どうのこうの言う人も多い。

ヤス たとえば今回、ヒラリー・クリントンがカラーで出てるじゃないですか。僕は2016年版をまだ読んでないんですね。ただ想像するに、ヒラリー・クリントンがカラーで出てきてるってことは、おそらくですね、アメリカの大統領選挙に関する記事なんですよ。2016年予測だから。これはヒラリーだよねっていう記事だと思います。それであれが出てきた。メルケルもカラーで出てきてる。今、ドイツでは問題がいろいろあって、これからドイツはどうするのかっていう特集記事なんですよ、きっと(笑)。

西塚 なるほど(笑)、笑ってはいけませんが、言葉は悪いかもしれないけど、この程度のことはヤスさんのメルマガに書く必要はないですね。読者もそんなことはおいといて、もっとおもしろいというか、有益なものを書いてくれ、それはどうでもいいよわれわれは、と思ってるかもしれないので、この対談くらいでいいかもしれませんが、一度きちんとやりたいですね。

ヤス ただね、ここで問題なのは、何らかのエリートからのメッセージがいっさい含まれていないかと言えば、そうではない。ひとつのやり方としては、記事に対応する象徴を全部抜くんですよ。これはこの記事に対応してる、これはこの記事というふうに。対応してないものが残るのね(笑)。

西塚 イラスト全部が対応してると思うけど、排除していくとちょっとこれはヘンだぞと。

ヤス これとこれと、三つぐらいヘンだと。まったく対応してるものがない。

西塚 そっちのほうがおもしろい話だな。

ヤス そのようなインテリジェンスが必要です。エコノミストそのものはロスチャイルド家が運営しているような経済誌なので、やっぱり彼らの持ってる計画というか、願望というかね、そういうものが象徴化して出てる可能性はあります。

西塚 僕の知る限りは、ヤスさんはそれに関してお書きになったことがないと思いますが、あまり関心もなかったのかもしれないけれども、そっちのほうがはるかにおもしろそうですね。

ヤス 書いてないですね。やっぱり思考でふるいにかけなくちゃダメですね。表紙だけ見て、これは陰謀だって言っても全然ダメです。やっぱりそれなりのインテリジェンスというか、それなりの思考的な…記事読めとまず(笑)。

西塚 本当ですね。非常に興味深いお話でした。時間がきましたので、とりあえず終わりたいと思います。今日はありがとうございました。

ヤス ありがとうございます。どうもどうも。




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嘘と本当

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から転載。


あなたが本当に”人間の自由”を求めるのであれば…


この闇民族とは、決別すべきでしょう…


ただし、太宰は決別できなかったようですね…


そこが、私と太宰との決定的な違いなのでしょう…


とあるが、孔徳秋水氏は日本とどのように決別しているのだろうか。今も日本に住み、日本人に向かってブログやツィッターを書き、そのツィッターの中で有象無象の「馬鹿国民」の阿呆な質問や難詰、批判にいちいち答えているところを見ると、どこが決別しているのか、分からない。つまり、「自分は精神的には日本人であることをやめた。すなわち、鬼畜・思考停止日本人であることをやめた『真人』である」ということかと思う。(「真人」は道元か誰かの言葉で、「悟った人間」の意味だと私は考えている。)
だが、分からないのが、「『ウソ』でできている日本人」という考え方で、世界のどこに「ウソ」でできていない国民がいるのか。西洋民族ほどウソと偽善で出来上がった民族は無いし、非西洋民族も似たようなものだろう。そもそも、ウソが無いと社会は成立しないと私は思っている。そして、ウソの必要性を冷徹に認識し、偽善をあえて行うことが「大人」の条件だとすら思っている。そういう意味では確かに西洋人は大人であり、日本人(や他の非西洋民族)の精神年齢は、マッカーサーが評したように12歳くらいであると思う。世界が西洋民族の手玉に取られてきたのもむべなるかな、である。
だが、その一方で、「それはすべてウソだよ」とあえて言う人間も必要だ。その一つが「陰謀実在論者」(世間で言う「陰謀論者」だが、こういう言い方では、「陰謀論者」自身が陰謀を企む不逞の輩であるみたいに聞こえるので、私は「陰謀実在論者」と言っている。)である。彼らの「王様は裸だ」的な発言によって世界が陰謀から救われ、良化する可能性は高い。

実際のところ、道徳も法律も「架空の体系」だが、それの及ぼす効果は「実体」になる。つまり、この人間世界はすべて嘘(人間の思考)から出た真(実在)なのであり、(完全に)ウソの無い世の中を希求するということはやはり幼児的な無理な願望と言うしかないのではないだろうか。



(以下引用)

『ウソ』でできている日本人

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人は、何に従って生きているのでしょうか?




まことの意味で「神を信じる人」は多分、理性にしたがって生きているでしょう。





「ユダヤ」の影響を受けて、「理性」を「打算」と思っている人がいるので、別のことばで補えば…




良心にしたがって生きている…でしょう。





しかし、周囲を見渡してみて…




「この人は、何にしたがって生きているのだろう?」と思って観察していますと、どうも理性とか、良心にしたがっているようにはみえません…





その人を動かしているものは、欲望や恐怖、興味や打算、世間体、もしくは「世間の常識」等々の”掟”であり、そのときどきの気分と感情にしたがっているようにみえます。





とりわけ、「日本人は、何にしたがっているか?」と問うてみたとき、浮かんでくるのは…




”習性”…ということばです。





日本人は、ある種の”習性”にしたがって生きているにすぎない…




「いろいろ考えて」はいるらしいが、それは「思考」というよりは、去来する様々な”思い”や”心配”のことで、ちょうど仏教で言うところの”煩悩”がピッタリくる気がいたします。





その”煩悩”に煩わせられまいとして、日本人は…




「人に嫌われる」ことを恐れ、「ひとりぼっち」の孤独を恐れ、その結果…




「長いものに巻かれ」「権威に服従し」「みんなといっしょ」だと安心するような”習性”を…




骨髄にまで刻み付けてきたのではないでしょうか?





それはちょうど、前のクルマに何も考えずについていく運転をしているドライバーみたいなものです。





自分で判断するとか…




自分の考えを作り上げるとか…





”自分自身”の核となるべきものが… ”ない”のです…





その薄気味悪さが、太宰治の『人間失格』には描かれていましたね?…


自分を殺して(それでいて”我”は強いw)、思考停止のまま生きている…




欧米人が「日本人は何を考えているかわからない」というのと同じ”違和感”を…




太宰も感じていたのでしょうか?





太宰の感じた”違和感”は、たとえば食事時…


「人間は、どうしてごはんを食べなければいけないの?」




「人間は、めしを食べなければ死ぬからだよ」




それでは…「死にたくない」という一心で、人ははたらき、食事をしているのか?」




「まるで”脅迫”ではないか!!」






私も感じ続けてきた日本社会に対する”違和感”の一面を見事に描き出している気がします。





日本が、人間を家畜として扱い、人民も「よき家畜」であることを”誇り”にさえしているという…




この倒錯しきった狂気の社会は、明治にはすでに存在していたということなのです。





黒人奴隷やネイティブアメリカンの悲劇の歴史と日本人民の歴史に本質的な違いはあるでしょうか?





あるとすれば、自分たちが奴隷であり、支配されているという自覚があるかないかというだけでしょう。




その狂気の人間支配のなかでとった主人公葉蔵のとった戦略は…




本当のことは、何も言わない…でした…





笑わせておけばよいのだ。本当のことを言えば、みんなに嫌われてしまう…




『私は貝になりたい』では、ありませんが…




私もしばしば、(日本人相手だと)何も言いたくない気分にさせられます…




のっぺらぼうの中身ぴーまん日本人に嫌われないようにするために…




結局、葉蔵も『ウソ』で固めて、自分という中身を殺してしまったのです…





神様から授かったかけがえのない”自分自身”を…




どうしてのっぺらぼうに「嫌われたくない」「仲間外れにされたくない」という理由で捨ててしまうのか?





大切なものを捨て去って、『ウソ』のなかで安寧に生きている日本の庶民…これは”善”でしょうか?





対米英戦突入を、むしろ痛快として捉えていたフシのある太宰ですが、「ユダヤ」による茶番だったということまでは思い至らぬものの「ヤケクソの戦争」とは思っていたようです…




アジア人同士を殺し合わせる…




日本人というゴイムを殺処分する…




そのための茶番の戦争だった…





しかし、日本人も茶番の民族…




『ウソ』は信じるくせに…




自分が本当に苦しくて、心の底からうめいたことばを日本人は信じない…



川・ε・川9m いまもそうですね…ウソツキを信じ、真実を語る者を迫害する…




裁判所の闇、企業や政治家のインチキを暴く者に敵意を表すのが日本人という鬼畜民族なのです…





そんな鬼畜外道に調子を合わせていたり、媚び諂っていて、”人間の自由”がどこにあるでしょう?





あなたが本当に”人間の自由”を求めるのであれば…




この闇民族とは、決別すべきでしょう…





ただし、太宰は決別できなかったようですね…





そこが、私と太宰との決定的な違いなのでしょう…


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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