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弱者叩きはなぜ共感を呼びやすいのか

長谷川豊というキチガイの書いた記事は「BLOGOS」にあるが、コピーできないので、そちらでお読みいただきたい。そして、下の「いつか電池の切れるまで」の記事はその反論で、こちらは非常にいい記事だが、これもなぜかコピーできない。
まあ、両者を読み比べることで、キチガイの発言に「そうだそうだ」と賛同する人間の心理を考察すると面白いのだが、ここで簡単に言うと、「自分は誰か(本来は自分より「下」の人間ww)のために損をしている」「その誰かは俺たち(私たち)を犠牲にして甘い汁を吸っている」という心理は多くの人に共通しており、これが石原慎太郎や橋下徹や松本人志などのキチガイの発言がネトウヨなどにウケる理由だろう。いや、ネトウヨだけとは限らず、社会に不満を持つ人間は常にキチガイの言葉に扇動されやすいはずである。ヒトラーはそうしてのし上がったのだ。


(以下引用)


            

人気記事もう読んだ? 長谷川豊さんの「自業自得の人工透析患者」論と「自分はつねにアリの側である」と信じられる人 - いつか電池がきれるまで


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宋文州氏の「正義論」

宋文州氏のブログから転載。

「・・・あれ、もうそろそろ着くな。行きより帰りがえらい早かったな?」

「それはあなたが熱く語ったからよ・・・」(助手席にいる妻の声)
「・・・・・・」(後ろの娘が半分寝ている)

というのが面白い。だいたい、熱く語る言葉を他人は冷めて聞くものだww
だが、宋氏の「正義論」にはほぼ同意する。正義の大半は主観的なものであり、しばしばドグマ(狂信的信条)である。特に「アメリカの正義」について書かれた部分はまったく同感だ。
これを敷衍すれば「正義が地球を地獄にしている」と言えるのではないか。もちろん、これは「アメリカの正義」の「アメリカの」を意図的にカットして作った逆説的な言葉だが、日常的にも「自分は正しい」と思って行動している人間こそがはた迷惑な存在であることは多いような気がする。
「徳は中庸にあり」という言葉が私は好きなのだが、スローガンとしての「正義」は常に極端な行為や他者弾圧に結びつくことが多いように思う。

下の記事で「富」を正義より上位に置いている部分は少し引っかかるが、「富」を「利(利益)」に置き換えたら、実は「義は利の和である」(墨子の言葉だが、私流の解釈では、「世の中の全員の利益の調和点となることが正義である」ということ。個々人の利益は他人の利益と相反することが多いが、その調和するところ、妥協点が正義と見做せる、ということだ。)というのと近い内容になるのではないか。


(以下引用)

娘の質問に答えて

今年から私の四人の子供全員が米国の高校や中学校で学ぶことになりました。暇になった私達夫婦は、旅行を兼ねて子供たちを訪ねることにしました。

高三の長女を車に乗せて買い物に行っていた時です。後部座席で宿題をしていた彼女が突然「パパ、正義についてどう思いますか?」と聞いてきました。どうも学校の宿題が某哲学者の本を読んで感想を書くことだったようです。その哲学者は「金銭や権力から独立した普遍的な正義が存在する」と主張しています。

普段から正義についてまじめに考えたことはないのですが、「普遍的な正義が存在する」との言葉に自分の神経が強く刺激され、とうとう子供に熱く語る羽目になりました。

「その哲学者はきっと苦労したことのない人か、経験の浅い若者だと思う。パパはいろいろな国のいろいろな文化背景や宗教を持つ人と会って、彼らはそれぞれ自分の正義感を持つことを知っている。個人的に付き合うと滅多に悪い人はいないが、同じ問題に対して自分の正義感から出した結論はまるで違う。つまり、現実としては普遍的な正義は存在しない。人々はよく自分の正義こそ普遍性があると信じたがる。」

「正義感が強いほどタチが悪い場合がよくある。他人のことを否定し、現実や事実を無視する、あるいは自分の信念に沿うように現実と事実を解釈する。」

「例えば今進行中の米国の大統領選挙。クリントンとトランプに対して大半の米国人が反感を持っているのにも関わらず、この二人のどちらかを大統領にしなければならない。米国の政治システムは世界で最も進んだシステムであるかのように、米国のエリートは信じているが、それは米国が一番強く一番豊かだから、そう信じられてきただけだ。戦後の歴代米国大統領が、その米国の民主主義が世界にとって普遍的な正義だと思い込んで、その政治システムが合わない国々にも強引に押し付けた結果、イラクやシリアの悲劇が起きている。」

「パパからみれば、正義でも悪でも道具に過ぎず、目的ではない。人々が生活の中で正義を考えた場面は少ないはず。豊かな生活をすることが最も重要な目的だろう。自由があって貧しい生活をするシステムは自由に貧乏になるシステムだ。逆に豊かになることは、それなりの自由がないと無理である。したがって、目的は正義ではなく、豊かさに置いたほうがわかりやすい。豊かであることは物凄く発信力がある、豊かな社会のシステムが自然に魅力的になり、人々から『正義』であるように感じられるはず。」

「人々が権力者と戦うのは正義のためではない。より良い生活をするためだ。戦って勝利した人々から新たなリーダーやシステムが誕生するが、多くの場合、結局同じことをするようになる。」

「米国人のほとんどは世界中から移民してきた人達だ。歴史も文化も中国や日本などと比較すればないに等しい。だから特殊な正義が多い。たとえば『銃所持の自由』はその一つの典型だ。政府も統治も行き届かないこの大地にやってきてインディアンから土地を奪って自分を守るのは自分だけであった。これは数千年前から土地をきちんと所有して丁寧に耕してきた中国では考えられない状況だ。そんな特殊な略奪歴史に始まった銃所持は歴史の長い国から見れば明らかに異常であり、人々の生命を危険に晒すシステムだ。政府も警察も法廷も整備された今、個人が銃を所持しなくても、個人の権利は十分に守られる。廃止すればいいのに、米国の正義によって未だに強く守られている。」

「この正義は明らかに陳腐化したもので、ライフル協会などの利権団体の道具になっているが、米国に文句を言う国はいない。なぜならばこれまでの米国は一番豊かで強かったからだ。もし米国よりも豊かで強い国が現れたら、米国の正義の多くは疑われるだろう。」

「・・・あれ、もうそろそろ着くな。行きより帰りがえらい早かったな?」

「それはあなたが熱く語ったからよ・・・」(助手席にいる妻の声)
「・・・・・・」(後ろの娘が半分寝ている)

住宅街の玄関先にはトランプの看板が目立って、なぜかクリントンのものは見つかりません。

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集団悪

「バカ国民帝国日本の滅亡」から抜粋転載。
ここでの「差別」論や「集団・個人」論には同感はしないが、示唆的だと思うので、そこから自分の考えをまとめてみたい。
特に異論があるのは「集団・個人」論のほうで、そこにある

個人主義は、合理的である。


 一方、集団主義は非合理的だ。

という断定は、どういう根拠に基づいているのか分からないし、自分自身の体験から言っても正しいとは思えない。
私は集団というものが本質的に持っている「集団悪」が大嫌いなのだが、それを不合理だと思ったことは一度も無いのである。そもそも合理・不合理とは何なのか。

集団の基本的命題(使命)は、「その集団の存続と成長」だろう。ならば、集団の存続と成長のために為す悪は合理そのものなのではないか。
つまり、ここには「合理」=「正しいこと」のような錯覚がある。もちろん、ここでの「正しいこと」の中に、また「論理的に正しいこと」と「倫理的に正しいこと」の混同もあるはずだ。

さて、集団の基本的命題が「その集団の存続と成長」であるなら、その邪魔になる他集団や、集団内の異分子は「敵対存在」となり、排除される。これが集団が本質的に持つ「集団悪」だ、と私は考えるわけだ。たとえば学校にとっては生徒が敵であったり教師が敵であったり父兄が敵であったりする。もちろん、他の競争校も敵である。
これは少しも「不合理」ではないが、もちろん「嫌なこと」である。人は個人であるときには容易に善人でありうるが、集団に関わるとほとんど悪行を為すことになる。積極的な悪行は為さなくても、目の前の悪行に対して「見て見ぬふり」をする人間がほとんどだ。これはいじめ問題などでおなじみの光景だろう。

「人は孤独であるとき高貴であり、他人とともにいるとき卑しい」

誰の言葉だったか失念したが、この言葉が正しいと思われるのは、我々は他人とともにいる時、ほとんど常に「本当の自分自身ではない」からである。外面を飾り、心にもない言動をする。そんな人間はある種の卑しさを持っているとは言えるわけだ。他人に媚びているのである。
もっとも、モリエールの「ミザントロープ(人間嫌い)」の主人公のようにあらゆる人間に絶望して世間から離れる人間が賞賛すべき存在というわけでもない。要は、そこがそんな場所でも「随所に主となる」ことができるかどうかだろう。


(以下引用)


さて、また『寄生獣ミギー 悪魔の言葉』から、引いてみたいと思います…


 


 


【差別はなぜ生まれるのか】


 


個々を集団としてとらえるところから、差別は生まれる。


 


何かトラブルがあったとき、それは個別のものだ。


 


しかし、受けた不快は、相手から、その人が所属する集団に広げられる。


 


同時に感情も、嫌悪から軽蔑に変わり、凝り固まる。


 


この拡大と固定化が、差別の正体といえる。


 


そこには中身はない。恐ろしいほど空っぽだ。


 


差別する人は、得体のしれない憑き物に憑りつかれている。


 


彼らは対象の人間すべてに、言うに言われぬいとわしい特徴をみつけだす。


 


しかし、それは憑依によって吊り上り歪んだ目にせいにすぎない。


 


 


日本人の「集団主義」というのは、「和の精神」などではなく、「差別の精神」なのです。


 


何かといえば徒党を組んで、敵を設定してはキイキイと叫んで攻撃を始める…


 


「倭の精神」と呼ぶべきでしょう…


 


 


上の差別の定義は必ずしも十分ではない気がしますが、


 


権力が人民を分断して、統治のために差別を生み出し、利用するときは、


 


必ずこの集団分けをやっています。


 


「集団への帰属意識」…それを差別に変えていくのです…


 


 


とりわけ、日本人を観察していますと、犬やサルレベルの”群れ意識”の人が大半です。


 


人間と言うより、動物に近い人が多数というのが、現実の日本人です。


 


 


”群れ”から独立した”個”としての”自分”のない人がとても多い…


 


 


からっぽで、のっぺらぼうの民族と言えましょう…


 


太宰が『人間失格』で描いておりました…


 


ここに対応する記述も、前著にありますので、引いてみましょう…


 


 


【正直に生きたければ群れるな】


 


個人をなにより尊重する欧米の個人主義を、日本人はどうしても理解できない。


 


それは企業などにみられるように、集団主義であるからだ。


 


 


個人主義は、合理的である。


 


一方、集団主義は非合理的だ。


 


 


とりわけ、日本の組織には、年功序列や先輩後輩といった


 


欧米人には理解できない原理が根本にある。


 


 


個人の考えを煮詰めてゆき、合理的になればなるほど、


 


集団になじめなくなるのは当然といえる。


 


自身に正直な生き方を貫こうとすれば、群れから離れざるを得ない。


 


 


生まれながらの畜生民族である日本人が家畜から人間になるためには、


 


檻を破って外に出るだけではダメである。


 


 


畜生の習性を”超越”して、人間になる必要がある…


 


 


これを仏教では「彼岸に渡る」と言うのである…



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誰の言葉かが大事

逆に言えば、馬鹿が面白いというものはくだらないものだ、となる。電通が流行を煽る作品とかね。




            

9月6日は黒澤明の命日 Akira Kurosawa (1910-1998) 「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」


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偽善という善

学校スポーツは本来、教育の一環だったはずだ。それがいつごろからか勝利至上主義がはびこり、人間の皮をかぶった獣や脳筋人間を育て、金目当ての道具になっている。
この北海野球部の指導は、学校スポーツの原点を教えるものだろう。
それを偽善だと言うのなら、善とは本来人為的な努力で人間性を作り上げて為すものだ、と言っておこう。「偽」は人偏に為の字の合成で、人為的なものはすべて、自然的存在ではない、という意味なら「偽」なのである。偽だから悪いわけではないのだ。偽善は「外面だけでも善をつくろう」ならいい行為であるとすら言える。ただその中身が悪なら、そういう偽善に騙されるほうが馬鹿なだけだ。ただの偽悪を「正直な生き方だ」と称賛する馬鹿と同様である。



キチガイのふりをして大路を走り回れば、それはキチガイだ、と兼好法師が言っているが、一生聖人のふりをして生きれば、それは聖人である。


(以下引用)



甲子園準優勝の北海に根付いた“サムライ”の心得
 
 


 8月20日、夏の甲子園の準決勝第2試合で、北海が秀岳館(熊本)に4-3で競り勝ち、初の決勝進出を決めた。北海の選手がホームベース付近に整列して校歌を歌い終わると、エース・大西健斗主将は、秀岳館が陣取った三塁側ベンチのほうに向き直り、深々と一礼してアルプススタンドへと駆けていった。

 試合終了後、大西主将に尋ねると、粋な答えが返ってきた。


「こうやって野球をやれているのは、相手あってのこと。相手がいなくては、試合はできない。敬意をもってプレーすることを心がけています。それは平川先生に教わったことで、チーム全体に浸透していると思います」


 大西主将の一礼は、今年の甲子園大会から始まり、誰に言われることなく、自然とするようになったという。


「平川先生」こと、北海の平川敦(おさむ)監督(45)は、相手チームに敬意を払い、感謝をしながら野球をすることを説いている。


 平川監督は北海で投手として活躍し、1989年に夏の甲子園大会に出場。98年に同校の監督に就任した。夏は全国最多の37回の出場を誇る北海だが、2000年代前半は遠ざかっていた。


「全国の指導方法を自分の目で見なければいけないと感じた」(平川監督)


 当時、平川監督が教えを請うたひとりが、広島の名門・広陵の中井哲之監督(54)だった。中井監督の教え子は現阪神監督の金本知憲氏など多くがプロ野球に進んでいる。中井監督が当時を振り返る。


「『広陵までうかがって指導を仰ぎたい』と連絡がありました。距離も遠いし、一度はお断りしたんです。でも何度も『なんとかお願いします』と強く要望されまして、お受けしました。きっと、長い間、甲子園に出場できず、悩まれていたのでしょう」


 中井監督は平川監督を監督室に招き入れ、指導者としての心構えを話した。


「技術に走ると技術に泣くんです。技術的な練習なんて、その効果は短期間しか持続しない。人を育てるんです。たとえ人に走って人に泣いたとしても、教育者にとっては中身のあることなんです」


 中井監督は続けた。


「一時的に勝った負けたということよりも、子どもたちがこの学校に来てよかったと思えることが大切。選手たちは大好きな野球で夢を見て育つんです。私は本気でやってます、と伝えました」


 背中を押されて北海道に戻った平川監督。08年夏に甲子園への切符を手に入れると、その後、春夏計4回の出場を果たした。


 今大会の準優勝について、「いつもどおりのプレーができたからこその結果だと思います。大事なときだけ力を発揮しようとしても無理ですから。普通のことを普通にするのって難しいと思うんです。練習や学校生活の中で、常に平常心を意識づけてきました」


 北海のプレーには、もうひとつ目を見張ることがある。たとえば緊迫した場面で、三振を奪ってピンチを脱しても、タイムリーヒットを打っても、ガッツポーズをしたり、雄たけびをあげたりすることはない。


 二塁手の菅野伸樹選手に聞いてみると、どうやら北海の“作法”には、責任教師の坪岡英明部長(47)の影響もあるようだ。


「ひとつのプレーに一喜一憂しないことが大事だと教わってきました。部長は、喜んだり悔しがったりしても、それはもう過去のことなので『先を見ろ』と言います」


 北海の部長に就いて10年目だが、グラウンドで指導するのが平川監督であれば、ミーティングを任されて心構えを説くのが坪岡部長だ。


 21日の決勝で作新学院に敗れた後、甲子園の控室で荷物を整理していた坪岡部長に尋ねてみた。坪岡部長は帽子を取り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。柔和な表情を見せるが、かつては「おっかない」と評判だったという。


 過去には小樽水産の野球部の監督を務めていた。当時は、若さも手伝ってかなり厳しく接する場面が多かったらしい。だが、薄々気づいていた。


「上から目線で言っても、生徒は楽しくないはず」


 10年間指導にあたった後、留萌に異動し、剣道部の顧問となった。そこで学んだのが「礼節」だった。剣道は一本取った後に喜びのあまりガッツポーズをすると、その一本が取り消しとなる。敬うべき相手や審判への非礼な態度と見なされるからだ。


 北海で再び野球に関わるようになった坪岡部長は、生徒の視点に立って接することを誓い、野球にも派手なガッツポーズをしない“サムライ”のような礼節を持ち込んだ。


「選手たちには『野球をやることがえらいわけではない』と言います。ほかの競技では、いい成績を残してもマスコミに取り上げられないことすらある。そのことを忘れずに謙虚であれと伝えています」


準決勝で秀岳館に勝ち、校歌を歌い終わった後、大西主将(写真左から3番目奥)は三塁側の秀岳館ベンチに向かって一礼した (c)朝日新聞社© Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 準決勝で秀岳館に勝ち、校歌を歌い終わった後、大西主将(写…

 甲子園入りしてからも、「勘違いするな」と口にしてきた。


「ちやほやされるのは、子どもたちはうれしいと思うんです。けれど、それも過去のことと思わなくちゃいけない。舞い上がって踏み外すことだってあります。地に足をつけることが大事なんです」


 1901(明治34)年創部以来、初の決勝に進んだ。


「選手たちは大きな舞台で一喜一憂することなく力を発揮してくれました」


 相手を敬い、派手なガッツポーズや雄たけびで喜びを表現することもない。望外の結果を手にしてもぶれない姿勢は、決勝戦で敗れてもなお、球場の観客を魅了した。その底流には、平川監督と坪岡部長による「立派な人間であれ」という教えがある。


 広陵の中井監督は言う。


「『作られた礼儀やあいさつはいらない』と考えています。テレビなどに映らないところでしっかりできているか。そういう高校が強くないといけないと思います。北海は初めて決勝に進み、壁を突き破ったと言いますか、何かをつかんだんじゃないでしょうか」


※週刊朝日 2016年9月9日号




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怒ることと叱ること

漫画家田中圭一のブログから転載。描かれている漫画が手塚絵であるのは、彼の芸風なので、初見の人は怒らないこと。
私は怒りっぽい人間なのだが、自分の感情に圧倒されてしまうので、他人を「叱る」ということが実に苦手である。演技の上手い人間でなければ、自分の感情をコントロールして他人を叱ることはできないのではないか。つまり、嘘つきほど叱るのが上手www そして、嘘つきほどリーダー的資質があるwww
まあ、「真田丸」などを見ていても、真っ正直な石田三成が他人からもの凄く嫌われていく様がよく分かるのだが、家康や真田昌幸のように平然と嘘のつける人間を「政治力」のある人間と言うのである。ただの有能官僚にすぎない三成が政治の舞台で主人公になれないのは当然だが、だからといって嘘つきが嘘つきであるだけで価値があるわけではないのは当然だ。正直者にはそれにふさわしい、「縁の下の力持ち」という役があるwww
さて、問題は、「なんのために叱るのか」だが、叱ることが「自分は叱られている人間に比べて有能である、上位の存在である」ということのアピールのため、いわゆるマウンティングのためである、ということは実に多いのではないか。無益どころか有害な叱責というものを目にしたことのない人はいないだろう。自分がそれを受けたことも多いだろう。
「あの叱責で俺は目が覚めた」「俺を思ってくれるからこそ本気で叱ってくれた」というような青春ドラマ的な叱責もあるだろうが、叱責のだいたい6割くらいは有害無益な叱責であるように思う。そもそも、失敗した人間は心の中では自分が失敗したことをよく承知しているし、反省していることが多いのだから、そういう場合は穏やかに、「これは失敗だったね。まあ、次からは注意して」くらいで十分なのである。阿呆な人間はそれで増長してまた失敗するかもしれないが、その時は少し厳しく叱ればいい。それでも反省しない究極の阿呆ならば、見限ればいいのである。
少なくとも、怒声をあげたり、叩いたりするような叱責は、演技でないとすれば、叱る方が動物レベルに堕しているということだ。


(以下引用)

田中圭一のゲームっぽい日常 なんのために叱るのか


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大学で学生を教える立場になって、あらためて「叱る」という行為が、すごく無意味であるように思いはじめた。思えば、サラリーマンを30年もやっているが、私が上司から叱られた回数は軽く100回を超えると思う。だが、思い起こすにこれらの経験がサラリーマン田中圭一の成長の糧になったのか、少々疑問である。


上司が部下を叱る場面を何度となく見てきたが、必ずいくつかのお決まりフレーズがある。


「何度言ったらわかるんだ?」


「なぜ、こんな簡単なことができないんだ?」


「こんなことしたらダメだって、オレは前から言ってたよな?」


「やる気がないんだったらそう言ってくれ。他のヤツにまかせるから。」


・・・などなど、ミスした部下を追い詰めるフレーズが多いような気がする。それをもって「叱る」というのであれば、あえて問いたい、「何を目的として部下を叱るの?」と。


部下の能力をアップさせ、戦力になるように育てること。結果、組織全体を強力にしてミッションを高い精度で達成できるようにすること。・・・これが目的であれば、部下を無駄に追い詰めることは無意味どころか有害だ。


あるソフト会社に勤務していたころ、そこの社長が、常に社員を大声で罵倒するタイプで、彼に「なぜ部下を追い詰めるのか?」と聞いたことがある。社長の答えはこうだ。「罵倒され悔しい思いをして、そこから、なにクソ!っと発憤しなければいけないんだ。それができなければサラリーマンとして成長できない。」


その考え方は、あまりに偏っていると私は感じたし、その方法が万人に通用するとも思えなかったので、その会社を早々に退職した。その会社では心を病んで辞めていく社員が後を絶たなかったが、逆に残った社員は強力に会社を牽引していった。あの社長の叱り方は、部下の成長以前に、社長につきあえる社員をふるいにかけているので、ある意味正解なのだろう。私とは価値観が合わなかっただけなのかもしれない。


しかしながら、人は褒められて伸びるタイプも多いのだ。皮膚感覚として、褒められて伸びる人:叩かれて伸びる人 = 8:2 くらいじゃないだろうか?


さて、私が今教えているのは学生である。彼らは学費を払ってマンガの描き方を習いに来ている、いわばお客様でもあるのだ。そして私の役目は、彼らの能力をアップさせることであり、マンガ家として食っていけるようにすることである。授業を真面目に聞かない学生や課題を期限までにやってこない学生を「叱って」意味があるのか、最近そう思い始めている。なぜ課題をやらないのか?なぜ授業を受けないのか?その理由を明確にして個別に対処すべきだと思っている。目的は「叱る」ことじゃない。課題をやらせて能力をアップさせることなのだ。目的と手段を取り違えてはいけないと思っている。


考えてみれば、前述のサラリーマン時代の「上司が部下を叱る現場」で私が見てきたのは、部下の成長を促すというより「お前って仕事ができないよね?でも、俺って仕事ができるよね。」という上司の自信を確認する行為であることが多かったように思える。中間管理職ともなればなにかとストレスが多いのも理解できるが、部下を叱ることで「自分はまだましだ。」と確認するのは、あまりに虚しくないだろうか?


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白と黒と灰色

「バカ国民帝国日本の滅亡」から抜粋転載。
「自己決定権」についての秋水氏の意見は良く理解できないが、私の理解する「自己決定権」とは、「自分自身のことは自分に決定権がある」というもので、ごく当たり前に肯定できる思想である。より厳密に言えば、「自分の生命の存続、就職、結婚などの人生の重大事において、最終的な決定権は当人にある」というものだ。
秋水氏の言う「自己決定権」はこれとは異なるようで、定義が為されていない段階では何とも言えない。「自己決定権とはファシズムだ」というのは極端な意見に見えるが、「他人の存在に関わることでもオレに決定権がある」という思想ならば、それはファシズムだろうが、一般的な自己決定権はそういう意味ではないと思う。
ただし、「堕胎の自由」が自己決定権の範囲に入るかというと、これはグレーゾーンだろう。胎児は人権を持つか、という問題だ。あるいは受精卵は人権を持つか、でもいい。
その胎児なり受精卵なりが障害を持つことが明らかである場合は、その胎児や受精卵は「自分(妊婦)の人生に危険を及ぼす可能性の高い存在であり、それを排除することは『緊急避難』と見做される」ということでいいのではないか。
確かに、この考えの延長上に「障害者は死んだ(殺した)ほうがしあわせ」という思想があるとも言えるかもしれないが、それは「グレーはグレーだから駄目だ。白黒のどっちかにしろ」というリゴリズム(厳格主義)でしかないような気がする。

「リゴリズム」の意味がそうだったか不安になったので英和辞書を見ると、「リゴリズム」は載っていないが、次のような記載があったから、たぶん大丈夫だろう。
rigor:厳しさ
rigorous:厳しい


(以下引用)


まだ最近のことだが…




「女性には、産む産まないを決定する権利がある」というのがあった…


 


しかも、それが「女性の人権」だとのたまったのである!





胎児の段階とはいえ、「生かすも殺すも女性が決定できる」自己決定権が…


 


「女性の人権」だと、述べられていたのである!





ちなみに、自己決定権は人権ではない


 


「自己決定権=人権」という倒錯した思想が一時期大宣伝されていた。


 


自己決定権は、ファシズムである


 


 


人権は、「社会契約(=法)を結ぶ権利」であって、


 


「決定」には必ず「他者の自由意思に基づく同意」が必要となる。





だから、「決定」するためには、必ず「他者の尊重」が必要になるのである





それと、生まれてくる子供が障害者とわかった時点で中絶するなんてのも、珍しいことではない。





こうしたことを考えると、




「障害者は死んだ(殺した)方がしあわせ」という考えは、社会に根深く根付いていて、




ナチスうんぬん以前のことではないのかと思うわけである。




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