ここでの「差別」論や「集団・個人」論には同感はしないが、示唆的だと思うので、そこから自分の考えをまとめてみたい。
特に異論があるのは「集団・個人」論のほうで、そこにある
個人主義は、合理的である。
一方、集団主義は非合理的だ。
という断定は、どういう根拠に基づいているのか分からないし、自分自身の体験から言っても正しいとは思えない。
私は集団というものが本質的に持っている「集団悪」が大嫌いなのだが、それを不合理だと思ったことは一度も無いのである。そもそも合理・不合理とは何なのか。
集団の基本的命題(使命)は、「その集団の存続と成長」だろう。ならば、集団の存続と成長のために為す悪は合理そのものなのではないか。
つまり、ここには「合理」=「正しいこと」のような錯覚がある。もちろん、ここでの「正しいこと」の中に、また「論理的に正しいこと」と「倫理的に正しいこと」の混同もあるはずだ。
さて、集団の基本的命題が「その集団の存続と成長」であるなら、その邪魔になる他集団や、集団内の異分子は「敵対存在」となり、排除される。これが集団が本質的に持つ「集団悪」だ、と私は考えるわけだ。たとえば学校にとっては生徒が敵であったり教師が敵であったり父兄が敵であったりする。もちろん、他の競争校も敵である。
これは少しも「不合理」ではないが、もちろん「嫌なこと」である。人は個人であるときには容易に善人でありうるが、集団に関わるとほとんど悪行を為すことになる。積極的な悪行は為さなくても、目の前の悪行に対して「見て見ぬふり」をする人間がほとんどだ。これはいじめ問題などでおなじみの光景だろう。
「人は孤独であるとき高貴であり、他人とともにいるとき卑しい」
誰の言葉だったか失念したが、この言葉が正しいと思われるのは、我々は他人とともにいる時、ほとんど常に「本当の自分自身ではない」からである。外面を飾り、心にもない言動をする。そんな人間はある種の卑しさを持っているとは言えるわけだ。他人に媚びているのである。
もっとも、モリエールの「ミザントロープ(人間嫌い)」の主人公のようにあらゆる人間に絶望して世間から離れる人間が賞賛すべき存在というわけでもない。要は、そこがそんな場所でも「随所に主となる」ことができるかどうかだろう。
(以下引用)
さて、また『寄生獣ミギー 悪魔の言葉』から、引いてみたいと思います…
【差別はなぜ生まれるのか】
個々を集団としてとらえるところから、差別は生まれる。
何かトラブルがあったとき、それは個別のものだ。
しかし、受けた不快は、相手から、その人が所属する集団に広げられる。
同時に感情も、嫌悪から軽蔑に変わり、凝り固まる。
この拡大と固定化が、差別の正体といえる。
そこには中身はない。恐ろしいほど空っぽだ。
差別する人は、得体のしれない憑き物に憑りつかれている。
彼らは対象の人間すべてに、言うに言われぬいとわしい特徴をみつけだす。
しかし、それは憑依によって吊り上り歪んだ目にせいにすぎない。
日本人の「集団主義」というのは、「和の精神」などではなく、「差別の精神」なのです。
何かといえば徒党を組んで、敵を設定してはキイキイと叫んで攻撃を始める…
「倭の精神」と呼ぶべきでしょう…
上の差別の定義は必ずしも十分ではない気がしますが、
権力が人民を分断して、統治のために差別を生み出し、利用するときは、
必ずこの集団分けをやっています。
「集団への帰属意識」…それを差別に変えていくのです…
とりわけ、日本人を観察していますと、犬やサルレベルの”群れ意識”の人が大半です。
人間と言うより、動物に近い人が多数というのが、現実の日本人です。
”群れ”から独立した”個”としての”自分”のない人がとても多い…
からっぽで、のっぺらぼうの民族と言えましょう…
太宰が『人間失格』で描いておりました…
ここに対応する記述も、前著にありますので、引いてみましょう…
【正直に生きたければ群れるな】
個人をなにより尊重する欧米の個人主義を、日本人はどうしても理解できない。
それは企業などにみられるように、集団主義であるからだ。
個人主義は、合理的である。
一方、集団主義は非合理的だ。
とりわけ、日本の組織には、年功序列や先輩後輩といった
欧米人には理解できない原理が根本にある。
個人の考えを煮詰めてゆき、合理的になればなるほど、
集団になじめなくなるのは当然といえる。
自身に正直な生き方を貫こうとすれば、群れから離れざるを得ない。
生まれながらの畜生民族である日本人が家畜から人間になるためには、
檻を破って外に出るだけではダメである。
畜生の習性を”超越”して、人間になる必要がある…
これを仏教では「彼岸に渡る」と言うのである…