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集団悪

「バカ国民帝国日本の滅亡」から抜粋転載。
ここでの「差別」論や「集団・個人」論には同感はしないが、示唆的だと思うので、そこから自分の考えをまとめてみたい。
特に異論があるのは「集団・個人」論のほうで、そこにある

個人主義は、合理的である。


 一方、集団主義は非合理的だ。

という断定は、どういう根拠に基づいているのか分からないし、自分自身の体験から言っても正しいとは思えない。
私は集団というものが本質的に持っている「集団悪」が大嫌いなのだが、それを不合理だと思ったことは一度も無いのである。そもそも合理・不合理とは何なのか。

集団の基本的命題(使命)は、「その集団の存続と成長」だろう。ならば、集団の存続と成長のために為す悪は合理そのものなのではないか。
つまり、ここには「合理」=「正しいこと」のような錯覚がある。もちろん、ここでの「正しいこと」の中に、また「論理的に正しいこと」と「倫理的に正しいこと」の混同もあるはずだ。

さて、集団の基本的命題が「その集団の存続と成長」であるなら、その邪魔になる他集団や、集団内の異分子は「敵対存在」となり、排除される。これが集団が本質的に持つ「集団悪」だ、と私は考えるわけだ。たとえば学校にとっては生徒が敵であったり教師が敵であったり父兄が敵であったりする。もちろん、他の競争校も敵である。
これは少しも「不合理」ではないが、もちろん「嫌なこと」である。人は個人であるときには容易に善人でありうるが、集団に関わるとほとんど悪行を為すことになる。積極的な悪行は為さなくても、目の前の悪行に対して「見て見ぬふり」をする人間がほとんどだ。これはいじめ問題などでおなじみの光景だろう。

「人は孤独であるとき高貴であり、他人とともにいるとき卑しい」

誰の言葉だったか失念したが、この言葉が正しいと思われるのは、我々は他人とともにいる時、ほとんど常に「本当の自分自身ではない」からである。外面を飾り、心にもない言動をする。そんな人間はある種の卑しさを持っているとは言えるわけだ。他人に媚びているのである。
もっとも、モリエールの「ミザントロープ(人間嫌い)」の主人公のようにあらゆる人間に絶望して世間から離れる人間が賞賛すべき存在というわけでもない。要は、そこがそんな場所でも「随所に主となる」ことができるかどうかだろう。


(以下引用)


さて、また『寄生獣ミギー 悪魔の言葉』から、引いてみたいと思います…


 


 


【差別はなぜ生まれるのか】


 


個々を集団としてとらえるところから、差別は生まれる。


 


何かトラブルがあったとき、それは個別のものだ。


 


しかし、受けた不快は、相手から、その人が所属する集団に広げられる。


 


同時に感情も、嫌悪から軽蔑に変わり、凝り固まる。


 


この拡大と固定化が、差別の正体といえる。


 


そこには中身はない。恐ろしいほど空っぽだ。


 


差別する人は、得体のしれない憑き物に憑りつかれている。


 


彼らは対象の人間すべてに、言うに言われぬいとわしい特徴をみつけだす。


 


しかし、それは憑依によって吊り上り歪んだ目にせいにすぎない。


 


 


日本人の「集団主義」というのは、「和の精神」などではなく、「差別の精神」なのです。


 


何かといえば徒党を組んで、敵を設定してはキイキイと叫んで攻撃を始める…


 


「倭の精神」と呼ぶべきでしょう…


 


 


上の差別の定義は必ずしも十分ではない気がしますが、


 


権力が人民を分断して、統治のために差別を生み出し、利用するときは、


 


必ずこの集団分けをやっています。


 


「集団への帰属意識」…それを差別に変えていくのです…


 


 


とりわけ、日本人を観察していますと、犬やサルレベルの”群れ意識”の人が大半です。


 


人間と言うより、動物に近い人が多数というのが、現実の日本人です。


 


 


”群れ”から独立した”個”としての”自分”のない人がとても多い…


 


 


からっぽで、のっぺらぼうの民族と言えましょう…


 


太宰が『人間失格』で描いておりました…


 


ここに対応する記述も、前著にありますので、引いてみましょう…


 


 


【正直に生きたければ群れるな】


 


個人をなにより尊重する欧米の個人主義を、日本人はどうしても理解できない。


 


それは企業などにみられるように、集団主義であるからだ。


 


 


個人主義は、合理的である。


 


一方、集団主義は非合理的だ。


 


 


とりわけ、日本の組織には、年功序列や先輩後輩といった


 


欧米人には理解できない原理が根本にある。


 


 


個人の考えを煮詰めてゆき、合理的になればなるほど、


 


集団になじめなくなるのは当然といえる。


 


自身に正直な生き方を貫こうとすれば、群れから離れざるを得ない。


 


 


生まれながらの畜生民族である日本人が家畜から人間になるためには、


 


檻を破って外に出るだけではダメである。


 


 


畜生の習性を”超越”して、人間になる必要がある…


 


 


これを仏教では「彼岸に渡る」と言うのである…



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誰の言葉かが大事

逆に言えば、馬鹿が面白いというものはくだらないものだ、となる。電通が流行を煽る作品とかね。




            

9月6日は黒澤明の命日 Akira Kurosawa (1910-1998) 「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」


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偽善という善

学校スポーツは本来、教育の一環だったはずだ。それがいつごろからか勝利至上主義がはびこり、人間の皮をかぶった獣や脳筋人間を育て、金目当ての道具になっている。
この北海野球部の指導は、学校スポーツの原点を教えるものだろう。
それを偽善だと言うのなら、善とは本来人為的な努力で人間性を作り上げて為すものだ、と言っておこう。「偽」は人偏に為の字の合成で、人為的なものはすべて、自然的存在ではない、という意味なら「偽」なのである。偽だから悪いわけではないのだ。偽善は「外面だけでも善をつくろう」ならいい行為であるとすら言える。ただその中身が悪なら、そういう偽善に騙されるほうが馬鹿なだけだ。ただの偽悪を「正直な生き方だ」と称賛する馬鹿と同様である。



キチガイのふりをして大路を走り回れば、それはキチガイだ、と兼好法師が言っているが、一生聖人のふりをして生きれば、それは聖人である。


(以下引用)



甲子園準優勝の北海に根付いた“サムライ”の心得
 
 


 8月20日、夏の甲子園の準決勝第2試合で、北海が秀岳館(熊本)に4-3で競り勝ち、初の決勝進出を決めた。北海の選手がホームベース付近に整列して校歌を歌い終わると、エース・大西健斗主将は、秀岳館が陣取った三塁側ベンチのほうに向き直り、深々と一礼してアルプススタンドへと駆けていった。

 試合終了後、大西主将に尋ねると、粋な答えが返ってきた。


「こうやって野球をやれているのは、相手あってのこと。相手がいなくては、試合はできない。敬意をもってプレーすることを心がけています。それは平川先生に教わったことで、チーム全体に浸透していると思います」


 大西主将の一礼は、今年の甲子園大会から始まり、誰に言われることなく、自然とするようになったという。


「平川先生」こと、北海の平川敦(おさむ)監督(45)は、相手チームに敬意を払い、感謝をしながら野球をすることを説いている。


 平川監督は北海で投手として活躍し、1989年に夏の甲子園大会に出場。98年に同校の監督に就任した。夏は全国最多の37回の出場を誇る北海だが、2000年代前半は遠ざかっていた。


「全国の指導方法を自分の目で見なければいけないと感じた」(平川監督)


 当時、平川監督が教えを請うたひとりが、広島の名門・広陵の中井哲之監督(54)だった。中井監督の教え子は現阪神監督の金本知憲氏など多くがプロ野球に進んでいる。中井監督が当時を振り返る。


「『広陵までうかがって指導を仰ぎたい』と連絡がありました。距離も遠いし、一度はお断りしたんです。でも何度も『なんとかお願いします』と強く要望されまして、お受けしました。きっと、長い間、甲子園に出場できず、悩まれていたのでしょう」


 中井監督は平川監督を監督室に招き入れ、指導者としての心構えを話した。


「技術に走ると技術に泣くんです。技術的な練習なんて、その効果は短期間しか持続しない。人を育てるんです。たとえ人に走って人に泣いたとしても、教育者にとっては中身のあることなんです」


 中井監督は続けた。


「一時的に勝った負けたということよりも、子どもたちがこの学校に来てよかったと思えることが大切。選手たちは大好きな野球で夢を見て育つんです。私は本気でやってます、と伝えました」


 背中を押されて北海道に戻った平川監督。08年夏に甲子園への切符を手に入れると、その後、春夏計4回の出場を果たした。


 今大会の準優勝について、「いつもどおりのプレーができたからこその結果だと思います。大事なときだけ力を発揮しようとしても無理ですから。普通のことを普通にするのって難しいと思うんです。練習や学校生活の中で、常に平常心を意識づけてきました」


 北海のプレーには、もうひとつ目を見張ることがある。たとえば緊迫した場面で、三振を奪ってピンチを脱しても、タイムリーヒットを打っても、ガッツポーズをしたり、雄たけびをあげたりすることはない。


 二塁手の菅野伸樹選手に聞いてみると、どうやら北海の“作法”には、責任教師の坪岡英明部長(47)の影響もあるようだ。


「ひとつのプレーに一喜一憂しないことが大事だと教わってきました。部長は、喜んだり悔しがったりしても、それはもう過去のことなので『先を見ろ』と言います」


 北海の部長に就いて10年目だが、グラウンドで指導するのが平川監督であれば、ミーティングを任されて心構えを説くのが坪岡部長だ。


 21日の決勝で作新学院に敗れた後、甲子園の控室で荷物を整理していた坪岡部長に尋ねてみた。坪岡部長は帽子を取り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。柔和な表情を見せるが、かつては「おっかない」と評判だったという。


 過去には小樽水産の野球部の監督を務めていた。当時は、若さも手伝ってかなり厳しく接する場面が多かったらしい。だが、薄々気づいていた。


「上から目線で言っても、生徒は楽しくないはず」


 10年間指導にあたった後、留萌に異動し、剣道部の顧問となった。そこで学んだのが「礼節」だった。剣道は一本取った後に喜びのあまりガッツポーズをすると、その一本が取り消しとなる。敬うべき相手や審判への非礼な態度と見なされるからだ。


 北海で再び野球に関わるようになった坪岡部長は、生徒の視点に立って接することを誓い、野球にも派手なガッツポーズをしない“サムライ”のような礼節を持ち込んだ。


「選手たちには『野球をやることがえらいわけではない』と言います。ほかの競技では、いい成績を残してもマスコミに取り上げられないことすらある。そのことを忘れずに謙虚であれと伝えています」


準決勝で秀岳館に勝ち、校歌を歌い終わった後、大西主将(写真左から3番目奥)は三塁側の秀岳館ベンチに向かって一礼した (c)朝日新聞社© Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 準決勝で秀岳館に勝ち、校歌を歌い終わった後、大西主将(写…

 甲子園入りしてからも、「勘違いするな」と口にしてきた。


「ちやほやされるのは、子どもたちはうれしいと思うんです。けれど、それも過去のことと思わなくちゃいけない。舞い上がって踏み外すことだってあります。地に足をつけることが大事なんです」


 1901(明治34)年創部以来、初の決勝に進んだ。


「選手たちは大きな舞台で一喜一憂することなく力を発揮してくれました」


 相手を敬い、派手なガッツポーズや雄たけびで喜びを表現することもない。望外の結果を手にしてもぶれない姿勢は、決勝戦で敗れてもなお、球場の観客を魅了した。その底流には、平川監督と坪岡部長による「立派な人間であれ」という教えがある。


 広陵の中井監督は言う。


「『作られた礼儀やあいさつはいらない』と考えています。テレビなどに映らないところでしっかりできているか。そういう高校が強くないといけないと思います。北海は初めて決勝に進み、壁を突き破ったと言いますか、何かをつかんだんじゃないでしょうか」


※週刊朝日 2016年9月9日号




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怒ることと叱ること

漫画家田中圭一のブログから転載。描かれている漫画が手塚絵であるのは、彼の芸風なので、初見の人は怒らないこと。
私は怒りっぽい人間なのだが、自分の感情に圧倒されてしまうので、他人を「叱る」ということが実に苦手である。演技の上手い人間でなければ、自分の感情をコントロールして他人を叱ることはできないのではないか。つまり、嘘つきほど叱るのが上手www そして、嘘つきほどリーダー的資質があるwww
まあ、「真田丸」などを見ていても、真っ正直な石田三成が他人からもの凄く嫌われていく様がよく分かるのだが、家康や真田昌幸のように平然と嘘のつける人間を「政治力」のある人間と言うのである。ただの有能官僚にすぎない三成が政治の舞台で主人公になれないのは当然だが、だからといって嘘つきが嘘つきであるだけで価値があるわけではないのは当然だ。正直者にはそれにふさわしい、「縁の下の力持ち」という役があるwww
さて、問題は、「なんのために叱るのか」だが、叱ることが「自分は叱られている人間に比べて有能である、上位の存在である」ということのアピールのため、いわゆるマウンティングのためである、ということは実に多いのではないか。無益どころか有害な叱責というものを目にしたことのない人はいないだろう。自分がそれを受けたことも多いだろう。
「あの叱責で俺は目が覚めた」「俺を思ってくれるからこそ本気で叱ってくれた」というような青春ドラマ的な叱責もあるだろうが、叱責のだいたい6割くらいは有害無益な叱責であるように思う。そもそも、失敗した人間は心の中では自分が失敗したことをよく承知しているし、反省していることが多いのだから、そういう場合は穏やかに、「これは失敗だったね。まあ、次からは注意して」くらいで十分なのである。阿呆な人間はそれで増長してまた失敗するかもしれないが、その時は少し厳しく叱ればいい。それでも反省しない究極の阿呆ならば、見限ればいいのである。
少なくとも、怒声をあげたり、叩いたりするような叱責は、演技でないとすれば、叱る方が動物レベルに堕しているということだ。


(以下引用)

田中圭一のゲームっぽい日常 なんのために叱るのか


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大学で学生を教える立場になって、あらためて「叱る」という行為が、すごく無意味であるように思いはじめた。思えば、サラリーマンを30年もやっているが、私が上司から叱られた回数は軽く100回を超えると思う。だが、思い起こすにこれらの経験がサラリーマン田中圭一の成長の糧になったのか、少々疑問である。


上司が部下を叱る場面を何度となく見てきたが、必ずいくつかのお決まりフレーズがある。


「何度言ったらわかるんだ?」


「なぜ、こんな簡単なことができないんだ?」


「こんなことしたらダメだって、オレは前から言ってたよな?」


「やる気がないんだったらそう言ってくれ。他のヤツにまかせるから。」


・・・などなど、ミスした部下を追い詰めるフレーズが多いような気がする。それをもって「叱る」というのであれば、あえて問いたい、「何を目的として部下を叱るの?」と。


部下の能力をアップさせ、戦力になるように育てること。結果、組織全体を強力にしてミッションを高い精度で達成できるようにすること。・・・これが目的であれば、部下を無駄に追い詰めることは無意味どころか有害だ。


あるソフト会社に勤務していたころ、そこの社長が、常に社員を大声で罵倒するタイプで、彼に「なぜ部下を追い詰めるのか?」と聞いたことがある。社長の答えはこうだ。「罵倒され悔しい思いをして、そこから、なにクソ!っと発憤しなければいけないんだ。それができなければサラリーマンとして成長できない。」


その考え方は、あまりに偏っていると私は感じたし、その方法が万人に通用するとも思えなかったので、その会社を早々に退職した。その会社では心を病んで辞めていく社員が後を絶たなかったが、逆に残った社員は強力に会社を牽引していった。あの社長の叱り方は、部下の成長以前に、社長につきあえる社員をふるいにかけているので、ある意味正解なのだろう。私とは価値観が合わなかっただけなのかもしれない。


しかしながら、人は褒められて伸びるタイプも多いのだ。皮膚感覚として、褒められて伸びる人:叩かれて伸びる人 = 8:2 くらいじゃないだろうか?


さて、私が今教えているのは学生である。彼らは学費を払ってマンガの描き方を習いに来ている、いわばお客様でもあるのだ。そして私の役目は、彼らの能力をアップさせることであり、マンガ家として食っていけるようにすることである。授業を真面目に聞かない学生や課題を期限までにやってこない学生を「叱って」意味があるのか、最近そう思い始めている。なぜ課題をやらないのか?なぜ授業を受けないのか?その理由を明確にして個別に対処すべきだと思っている。目的は「叱る」ことじゃない。課題をやらせて能力をアップさせることなのだ。目的と手段を取り違えてはいけないと思っている。


考えてみれば、前述のサラリーマン時代の「上司が部下を叱る現場」で私が見てきたのは、部下の成長を促すというより「お前って仕事ができないよね?でも、俺って仕事ができるよね。」という上司の自信を確認する行為であることが多かったように思える。中間管理職ともなればなにかとストレスが多いのも理解できるが、部下を叱ることで「自分はまだましだ。」と確認するのは、あまりに虚しくないだろうか?


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白と黒と灰色

「バカ国民帝国日本の滅亡」から抜粋転載。
「自己決定権」についての秋水氏の意見は良く理解できないが、私の理解する「自己決定権」とは、「自分自身のことは自分に決定権がある」というもので、ごく当たり前に肯定できる思想である。より厳密に言えば、「自分の生命の存続、就職、結婚などの人生の重大事において、最終的な決定権は当人にある」というものだ。
秋水氏の言う「自己決定権」はこれとは異なるようで、定義が為されていない段階では何とも言えない。「自己決定権とはファシズムだ」というのは極端な意見に見えるが、「他人の存在に関わることでもオレに決定権がある」という思想ならば、それはファシズムだろうが、一般的な自己決定権はそういう意味ではないと思う。
ただし、「堕胎の自由」が自己決定権の範囲に入るかというと、これはグレーゾーンだろう。胎児は人権を持つか、という問題だ。あるいは受精卵は人権を持つか、でもいい。
その胎児なり受精卵なりが障害を持つことが明らかである場合は、その胎児や受精卵は「自分(妊婦)の人生に危険を及ぼす可能性の高い存在であり、それを排除することは『緊急避難』と見做される」ということでいいのではないか。
確かに、この考えの延長上に「障害者は死んだ(殺した)ほうがしあわせ」という思想があるとも言えるかもしれないが、それは「グレーはグレーだから駄目だ。白黒のどっちかにしろ」というリゴリズム(厳格主義)でしかないような気がする。

「リゴリズム」の意味がそうだったか不安になったので英和辞書を見ると、「リゴリズム」は載っていないが、次のような記載があったから、たぶん大丈夫だろう。
rigor:厳しさ
rigorous:厳しい


(以下引用)


まだ最近のことだが…




「女性には、産む産まないを決定する権利がある」というのがあった…


 


しかも、それが「女性の人権」だとのたまったのである!





胎児の段階とはいえ、「生かすも殺すも女性が決定できる」自己決定権が…


 


「女性の人権」だと、述べられていたのである!





ちなみに、自己決定権は人権ではない


 


「自己決定権=人権」という倒錯した思想が一時期大宣伝されていた。


 


自己決定権は、ファシズムである


 


 


人権は、「社会契約(=法)を結ぶ権利」であって、


 


「決定」には必ず「他者の自由意思に基づく同意」が必要となる。





だから、「決定」するためには、必ず「他者の尊重」が必要になるのである





それと、生まれてくる子供が障害者とわかった時点で中絶するなんてのも、珍しいことではない。





こうしたことを考えると、




「障害者は死んだ(殺した)方がしあわせ」という考えは、社会に根深く根付いていて、




ナチスうんぬん以前のことではないのかと思うわけである。




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価値は心の牢獄

孔徳秋水氏のツィッターから転載。
啓発的で示唆的な言葉だ。私もよく同じようなことを考えるが、時々こういう言葉を外部で見ると、新たに心が洗われる。つまり、ふだんは心が塵に覆われている。哲学の価値はこういうところにあるのかなあ、などと思うそばから、「ほら、お前はまた『価値』を考えている」という声が聞こえてくる。
まさに、「価値(物事を価値で考えること)は心の牢獄」だ、と思う。これはもしかしたら、あらゆる哲学や宗教のエッセンスではないか。それほどの金言かもしれない。

テレビ画面に映る誰それを嫌悪し、あるいは好きになる。身近な誰かを嫌悪し、あるいは好きになる。すべて「価値観」の為せるわざだ。あるものを欲しがる、あるものを避ける、すべて「価値観」の為せるわざだ。自分の現状にいらだったり、不満を持つのも、「自分が価値のある何かをしていない」からである。誰かからほめられて一時の快感を得るのも「自分の価値が認められた」からである。そして、またほめられ、報酬を得るために必死で努力する。その努力で得た「価値(カネ)」の一部を集めることで自分の財産を膨らませる人々がいる。そして「価値」の無くなった人々は廃棄される。

何かが自分にとって(あるいは誰にとっても)価値がある、と思うから、それを求める。求めること、つまり欲望が娑婆苦の最大の原因であると見做すことは仏教の基本思想だろう。
あらゆる欲望から解放されることが解脱・涅槃にほかならない。輪廻とは、ただの寓話だ。もし輪廻があるとすれば、それは「欲望のサイクル」の中に取り込まれた状態のことだろう。生まれ変わり死に変わることは、その比喩にすぎない。さまざまな哲学すら、その輪廻の一部だからこそ、悟った世界では「無苦集滅道」なのだ。「苦集滅道」とは、古来のあらゆる哲学や宗教を意味している、と考えていい。

まあ、あらゆる欲望から解脱したら、木石同様になるわけで、それこそ「価値」が無い存在だ、と通常の人間には思われるだろう。それではいったい何のためにこの世に生まれてきたのだ、とwww まあ、そこまで解脱しなくてもいいから、あまり「あれが欲しいこれが欲しい」と餓鬼状態にならないだけでもいいのではないか。そういう餓鬼こそが消費社会の理想的住人なのだがww



(以下引用)



仏教は実は、エゴイズムや損得を否定していない。本当のエゴイズム、損得は、世界が「ひとつ」と知ることで実践できるということ。「相手のトクになることは、自分にとってはソン」と凡夫は考えるから、結局、自分にも他者にもトクにならないことをやる。


  1. [7/23 10:00] >それは「自分が全宇宙」と知ることだ。その時、『価値』の感覚が一時的な道具であったと知るだろう。いずれ、価値の遊園地から卒業しなければならない。

     

  2. [7/23 09:59] >牢獄地獄は一人ひとりの心の中にある。自由を知るには心の牢獄を自分で発見するしかない。牢獄の鉄格子には『価値』と書かれている。価値が心を縛っているのに気づく必要がある。自分は価値のためにあるのではなく、あるからある。絶対的な必然が自分を自分にしている事実に気づくことだ。

     
    1. [7/23 09:58] >自分に値打ちをつけるのは自分を商品にする事。それは買い手に合わせて世界観を変える事、つまり飼い犬だ。選挙に当選してからそのように変わるのではない。元々の感覚が飼い犬なのだ。日本人は飼い犬の心で暮らしている。誰かに認めてもらわなければ生きがいを感じない商品だ。


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カネの奴隷であるとは何か

孔徳秋水氏のツィッターから転載。内田樹と誰かの対談を引用しているようだ。
「人格の荒廃」
という言葉が、下の話に出てくる女性の発言を読んですぐに想起されるが、しかし、そこに、現代社会(消費社会・カネに支配された社会)という怪物が現前してくる。そして、我々がその怪物に対してほとんど無力であるのが事実なのだ。この女性の精神の荒廃は、社会の必然であり、怪物の一部になって犠牲者を食うことでしか、この物語の勝者となることはできない。怪物という言い方が、「彼ら」をむしろ誇る気持ちにさせるなら、E・A・ポーの言葉を借りて「勝利の蛆虫」と言おうか。人間は蛆虫に食われ、蛆虫たちは勝利を誇る。
ただし、下の話の中には、「言葉の前で立ち止まって」おきたいところが二つある。

一つは、「仕事というものは、生きている実感を与えるべきものか」、ということである。
おそらく、クリエィティブな仕事をしている少数の人々(経営者も、ある意味ではそうだ。)以外には、大方の仕事は「単調で無味乾燥、索漠とした労働」以外ではありえないだろう。たとえば、百姓仕事にいちいち生きる喜びを感じている百姓がいたら、精神異常を疑ったほうがいい。工場労働者も一般サラリーマンも同様だろう。
私が疑問に思うのは、たとえば艱難辛苦の果てに超一流の演奏家になった人々や、超一流のスポーツマンになった人々は、自分の「仕事」をやる時に「生きがい」や「生きる実感」を感じているのだろうか、それとも、「面倒くさい日々の労働」と思っているのか、ということだ。単に高額の報酬が貰えるからその仕事をやっているだけで、その仕事を辞める代わりに巨万の金を出す、という悪魔の提案があったら、喜んで辞めるのだろうか。
その仕事が心から好きで、その仕事に生きがいを感じているなら、報酬など無くてもその仕事をやるだろうし、逆にカネを払ってでもやるのではないか、と私は思うわけだ。つまり、この場合は、それは「仕事」ではなく「娯楽」であると言うべきだろう。仕事とは、生きがいや生きる実感などを伴うものではない。(洗脳して、そう思い込ませることはできるが)だからこそ、報酬を出す必要があるのだ、というのが私の考えだ。

もう一つの疑問は、この女性を「カネの奴隷」と簡単に片づけていいのか、ということだ。「カネのために嫌な労働に耐える」「その憂さ晴らしに、カネを使役する(カネを使う)」というのは、カネを巡る一つのサイクルであり、ここで彼女は「カネのために労働をしている」という部分ではカネの奴隷だが、「買い物をして憂さ晴らしをする」という部分ではカネの主人なのではないか。まあ、屁理屈に聞こえるだろうが、少なくとも、「カネの奴隷」という部分だけを感情的に強調しても、この資本主義社会、あるいは「カネによって社会生活(人生)のほぼすべてが規定された社会」を根本的にどう改善していくか、という建設的思考には結び付かないような気がするのである。カネの奴隷とならないためにカネを手に入れようと四苦八苦して株などやっている孔徳秋水氏なども、他人の目には十分にカネの奴隷であるように見えるのだからwww


(以下引用)




>彼女にしても…栗原君という価値観の違う他者に苛立ったことで、無意識に本当の思いを、恐ろしい真実を口に出してしまった。おそらく今の日本の勤労者のうちでかなり多くの割合の人が、この女性と同じ実感を持って生きているんです。それが事実だろうと思うんですよ。 


  1. [7/22 17:20] >でも、なんとかそれを耐えられるものにしているのは、ここでこうやっておカネを使うということができるからだ。「おカネを使うことによって憂さを晴らす、それだけが生きている実感を持てる瞬間だ」と言っているわけです。

     

  2. [7/22 17:19] 日本人の幸せ…それは、おカネの奴隷になること…:*:・( ̄∀ ̄)・:*:笑えるわ~

     

  3. [7/22 17:19] >結局、栗原君と彼女はそれで破局するわけですけれども、これはけっこうすごい話だと僕は思っています。こんなにニヒルな発言はないわけですよ。彼女は自分がやっている仕事に本質的には何も意義を見いだしていないし、生きがいを実感することもできていない。

     

  4. [7/22 17:18] >「なんのために私みたいなサラリーマンが毎日、嫌な仕事をしているのか、わかっているの? それはこうやってショッピングセンターに来て、買い物をして、それで憂さを晴らすためなのよ!」と叫んだ、と。←ウザ度100%。おカネの奴隷…この価値観に嫌悪感を抱くね…

     

  5. [7/22 17:17] >「なぜあなたは働きたいと思わないの? 働かなければ、ここで買い物だってできないでしょう」と。そうしたら栗原くんは、「なんでそんなにここで買い物をしなければいけないの?」と聞き返した。すると彼女が、そこでぶち切れたというんです。

     

  6. [7/22 17:17] 女って、こういうの多いよな~。正直ウザい。

     

  7. [7/22 17:16] >2人は家が近くて、あるとき一緒に近所のショッピングモールに行った。でも栗原君はおカネがないので何も買わない。彼女が、「あなた、何か買わないの?」と聞くと、栗原君は「カネがないから」と言う。「どうしておカネがないの?」「働いてないから」「どうして働かないの?」「働きたくないから」

     

  8. [7/22 17:15] >博士課程の院生時代に、結婚まで考えた交際相手の女性がいたそうなんです。高校の教員をしていた人で、向こうもその気はあったらしいのだけれども、やはり「この人はいったい、いつになったらちゃんと働くのだろうか」という、不安と不満を持っていた。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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