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ヤハヴェが命じれば善、「リン将軍」が命じれば悪

「逝きし世の面影」から、ほぼ記事全文を転載。
長文なので私の前説は省略するが、非常に面白い内容である。
正義の観念というものが「内」と「外」では異なるのはよく見られるが、宗教の場合はこれが極端な表れをするわけだ。最後に書かれている、「リン将軍」という実験は、この事実を実に明確に示した素晴らしい実験だと思う。こうした記録というものは、学校などで多くの子供に伝えるといい(そうすれば、偏りの無い心を持った子供が育つ)と思うのだが、そうすると逆に、「偏向教育」だ、という非難が起こるのだろうなあ。(サイモン・ヴィーゼル・センターがすぐさま嗅ぎ付けて。w)まあ、学校教育では「自ら考える力」を持つ子供を育てるような社会教育はまず無理だろう。


(以下引用)



『度重なるイスラエルのガザ侵攻の理不尽』

マレーシア機が撃墜された7月17日の夜にイスラエル軍がガザに侵攻してハマスとの間で本格的な地上戦に突入したが、これは5年半前の2008年12月末から2009年1月中頃まで続いていた大規模侵攻の再来である。
しかし今回のイスラエル軍の侵攻ですが、前回とは違い出口がまったく見えないのです。解決策が無いのですから前回以上に戦闘が長引くのは確実な情勢である。
(5年半前08~09年にガザに侵攻して1,166人を虐殺している。対してイスラエル側の死者は13人だった)
常に『100倍返し』を信条とするイスラエル軍ですが今回は5年半前の4倍の損害を出している。
田中龍作ジャーナルでは、
『特筆すべきは戦死したイスラエル兵士の年齢が若いことだ。IDF(イスラエル軍)や「エルサレムポスト」などによると、戦死した兵士の年齢は18~23歳が目立つ。経験が浅ければ死ぬ確率も高くなる。』
『イスラエル軍も消耗しているのではないだろうか。』と書いている。
周りを完全に封鎖されて7年間も経っている。屋根の無い監獄であるガザに閉じ込められたパレスチナ人ですが閉塞感や絶望感は想像を絶する。最早人間としての我慢の限界に達しているのでしょう。

『全ての不幸(殺戮と破壊)は旧約聖書に由来している』

2000年以上前に書かれた『旧約聖書』の記述をほとんど唯一の根拠として、欧米の白人系ユダヤ教徒(アシュケナジー)によって中東のパレスチナの地に人工的に建国された宗教国家が、『イスラエル』と言う名の紀元前の古代国家と同名であるが、勿論数千年前のアラブ人のセム族のユダヤ人国家とは何の関係も無い。
この『ユダヤ教』という宗教によって作られた『国家』(イスラエル)ほど、パスカルの『人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない。』という言葉の正しさを証明して見せているものはない。
現在ガザで行われている悲惨で愚かな蛮行の出発点、根本原因とは何か。?
それは、猛烈に不愉快な『一つの神』を持つ一部族の『カルト』だったユダヤ教と、そのカルトの教義を記した『旧約聖書』にその原因の本質があった。

『旧約聖書とは何か』

旧約聖書とはユダヤ教の教典で有るばかりでなく、欧米世界で最も影響力が有るキリスト教の教典でも有る。
キリストの事跡を書いた新約聖書はパージ数にして少なくパンフレット程度であり中身が薄い。分厚い書物であるいわゆるバイブル(聖書)の大部分はユダヤ教の経典の旧約聖書なのです。
2000年以上も骨肉の醜い争いをしているユダヤ教とキリスト教の違いとは、イエス・キリストの存在を認めるか認めないかだけ。これは信じる宗教の中身は同じだが池田大作の権力の有る無しで何十年も大喧嘩している創価学会と日蓮正宗(本山)との関係と同じである。
『旧約聖書』の、病的ともいえる悪行を為す残忍な鬼畜のような『神』(ヤハウェ)の存在抜きにして今のイスラエルの蛮行を説明するのは難しい。
『偽書』
人類の歴史には出処の怪しげな文章が突然に見つかり、発見者の立場を強力に支持するような重要な情報をもたらしてくれる。
しかし、入念に、時には勇敢に調べてみると、その文章は贋作で有る事が判明する。
でっちあげをする側の動機は非常に判り易く、旧約聖書の申命記がその典型と言えるだろう。
この文章は、エルサレムの神殿に隠されていたところを、紀元前7世紀にヨシア王によって発見された事になっている。
宗教改革闘争のさなかにあったヨシア王は、自分の考えを全て支持してくれる新しい聖書の部分(申命記)を奇跡的に発見したと言うわけだ。

(旧約聖書・申命記 7章1-4)
『お前たちの神がこれらの民をお前たちに与え、それをお前たちが征服するときは、彼らを徹底的に破壊するのだ。
彼らを相手にしてはならない。憐れみも掛けてはいけない。』 

旧約聖書の『ミカ書』は『正義を行い、慈しみを愛せ』と教えている。
『出エジプト記』には、『殺してはならない』と書いて有る。
『レビ記』には、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』と書いて有るし、『福音書』には『汝の敵を愛せ』と教えている。
このように良き教えが沢山書かれていると人々に信じられている『聖書』の教えを奉じる者達が、どれほどまでに多くの血の海を作ってきたかも聖書には書かれているのである。
『ヨシュア記』や『民数記』の後半には、カナン(パレスチナ)全域で行われた大量殺戮の事が記されている。
町という町で、男ばかりか女子供、はては家畜までが皆殺しにされるという出来事が、さも嬉しそうにすばらしい事として書かれているのだから驚きだ。基本的に無茶苦茶なのである。
エリコの町は『聖戦』の為に跡形も無く破壊された。
『ヨシュア記』には、
『息の有る者はことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられた通りであった』
この大量殺人の理由はただ一つ、殺した側(ユダヤ人)のこんな言い分だけた。
『遥か昔に、神は我等の先祖に約束された。息子に割礼をほどこし、一定の儀式を執り行うならば、この土地を我等に下さると』。

(士師記 21章10-24)
そうして彼らは1万2千の兵士をヤベッシュ・ギリアッドに送り、女子供も含め、そこの住民を皆殺しにしろと命令した。
『これがお前たちがやることだ』彼らは言った。『すべての男たちと処女でないすべての女たちを殺せ』。

(エゼキエル書9章5-7)
それから私は神が他の男たちに言うのを聞いた、『町まで彼について行け。そして額に印が無い者たちはすべて殺すのだ。情け容赦するな。皆殺しにするのだ・・年寄り、女子供もすべてだ。しかし、印ある者には触るな。この寺院からお前たちの仕事を始めよ。』
彼らはまず70人の指導者たちを殺した。『寺院を汚せ!』神が命令した。
『庭を死体で埋め尽くせ。さあ行け!』そうして彼らは町中に入って行き、言われた通りのことをした。

(民数記第31章18節)
『民数記』は、神がモーゼにどのようにミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。
彼の兵達は、あっという間に全ての男を虐殺し、ミディアン人の全ての町を焼き払ったが、女と子供は殺さなかった。
部下の兵達がこの様に慈悲深い自制をはたらかせた事をモーゼは激怒し、全ての男児と、処女でない全ての女を殺せと命じた。
『女のうち、未だ男と寝ず、男を知らない娘は、貴方達の為に生かしておくが良い。』

(ヨシュア記第6章21節)
モーゼの時代に始まった民族浄化は『ヨシュア記』において血まみれの成果をもたらす。
『ヨシュアはエリコを攻めた。崩れ落ちる城壁・・・エリコの戦いにおける古のヨシュアにかなうものなんて無い』
いにしえのヨシュアは、イスラエルの民が『男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ロバに至るまで町に有るものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くすまで、休む事が無かった』。

聖書の物語における『神』と言う人格は、約束の地(パレスチナ)の占領に伴う大虐殺や民族殲滅について、何らかの疑念や罪の意識を感じていた形跡は全く無い。

『申命記』第20章における神の命令は、情けの欠片も無くあけすけである。
彼(神)は自分自身にとって必要な地に住んでいる人間と遠くはなれたところに住んでいる人間とを明確に区別した。
後者は平和的に降伏するように勧告しなければならない。
もし拒絶すれば、男は殺し、女は繁殖の為につれさられた。

この比較的人道的な扱いと対照的に、あまりにも不運な事に、すでに約束された生存圏(レーベンスラウム)に定住してしまっている民族に対しては、一体どんなことが用意されていたのか読んでみると、
『あなたの神、主の嗣業として与えられれる諸国の民に属する町々で息の有る者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。』

『旧約聖書は人間の尊厳に対する侮辱』

宗教があっても無くても、善いことをする善人はいるし、悪い事をする悪人もいるだろう。
しかし、善人が悪事を為すには『宗教』が必要である。
人間は、宗教的な確信を持って行っているとき以上に、完璧かつ快活に悪を為す事は無い。
旧約聖書で自らは『神』を名乗っている人格(ヤハウェイ )はユダヤ人にとっては『神』かもしれないが、ユダヤ人以外の別の民族にとっては神ではなく極悪な『魔物』か凶暴、残忍な『鬼畜』と解釈されても致し方ない性格を持ている。
もしオウム真理教が理想国家を建設し、半世紀にわたって超大国アメリカ合衆国の対外軍事援助総額の半分以上を独占して成長すれば、今日のパレスチナの悲劇は誰にでも当然予想された範囲内の事柄であろう。

『現代イスラエルの道徳観(宗教観)』

信者(内集団)だけに都合のいい神様で、人殺しを合理化する宗教は、歴史が有るか無いか、信者が多いか少ない等の違いがあっても、間違いなく(オウム真理教と同じような)破壊的カルト宗教でしょう。
旧約聖書の略奪や集団強姦や虐殺や民族絶滅を合理化するトンデモナイ鬼畜のような残虐な神は、大昔の架空の話で現在のイスラエルやイスラエル人とは全く関係ない』との意見も有るでしょうが、それでは今のイスラエル人の宗教教育(道徳教育)とはどのようなもので有るだろうか。?

『神は妄想である』宗教との決別 リチャード・ドーキンス(著)によると、
イスラエルの心理学者、ジョージ・タマリンの驚嘆すべき研究として下記の記述がある。
タマリンは、イスラエルの8歳から14歳までの生徒1000人以上に、『ヨシュア記』のエリコの戦いについての、下記の記述を紹介した。

ヨシュアは民に命じた。
『鬨(とき)の声を上げよ。主は貴方達にこの町を与えられた。町とその中に有るものは、ことごとく滅ぼし尽くして主に捧げよ。』
・・・『金、銀、鉄器、はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。』
・・・『彼等は、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ロバに至るまで町に有るものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした』
・・・『彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器。鉄器だけを主の宝物倉に納めた』

タマリンは、その後子供達に単純な道徳的な質問を行った。
『あなたは、ヨシュアとイスラエルの人々は正しい振る舞いをしたと思いますか?』
その答えは驚くべきものでA(全面的な是認)が66%の絶対多数。
B(部分的な是認)8%の少なさで、C(全面的な不同意)26%との二極分化した回答が帰ってきた。
次に示すのは全面是認(A)グループの典型的な三つの回答であるが、ヨシュアによる大虐殺を正当化するために挙げた理由は、何れも皆宗教的なものであった。

(1)
『私の意見では、イスラエルの人々は正しく振る舞いました。
理由はこうです。神は彼らにこの土地を約束し、征服する許可を与えました。もし彼等がこういうやり方で振舞わず、誰も殺さなかったとしたら、イスラエルの人々は異教徒に同化してしまう危険があったでしょう。』
(2)
『私の意見では、これをしたときヨシュアは正しかったと思います。
なぜかというと、イスラエルの民が同化して、そこにいた人々の悪い生き方を覚えることが出来ないようにするために、神が彼らを根絶やしにするようヨシュアに命じたからです。』
(3)
『この土地に住んでいた人々は異なった宗教を持っていて、ヨシュアが彼らを殺したとき、この宗教を地上から抹殺したのだから、ヨシュアは正しい事をしました。』

では全面的不同意(C)グループはマトモな判断をしていたのだろうか。?
次にその中から典型的な意見を紹介しよう。
いくつかの場合には、屈折した宗教的な理由から同意しなかったのである。

(1)
ヨシュアがエリコを征服するためには彼は町に入らなければなりません。
『私は間違っていると思います。だって、アラブ人は不浄で、もし誰かが不浄な土地に入れば自分も不浄になって、アラブ人にたたりを一緒に引き受けることになるからです。』
(2)
ヨシュアが動物や財産を含めてすべてを破壊してしまい、イスラエル人のためにその戦利品として残さなかった。
『私はヨシュアは正しく振舞わなかったと思います。動物は殺さないでとっておけば、後で自分たちの役に立てられたはずです。』
(3)
『私は、ヨシュアは正しく振舞わなかったと思います。彼にはエリコの財産を残すことが出来たはずだからです。もし彼が財産を破壊しなければ、イスラエル人のものになっていたでしょう。』

タマリンは面白い対照群として『ヨシュア記』を、内容を変えず名称だけ変えた同時代の中国に置き換えた『リン将軍の征服の物語』として、別のイスラエルの子供達に答えてもらった。
すると結果は正反対となり(A)全面是認はわずか7%で、75%の絶対多数が(C)の全面的な不同意と答えている。
大虐殺を非難する子供たちと、大虐殺を容認する子供達の間の、決定的な違いを作っていたものはユダヤ教と言う名の一神教『カルト宗教』であった。
『汝の敵を愛せよ』と言う、これ等宗教的な、内集団で通用する『道徳意識』は、外集団に対する『敵意』と表裏一体のものだったのです。


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良心の外部委託

「クレアなひととき」(「in deep」の管理人氏の別ブログ)から転載。
「神」というものについては、私は単純に、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」「人間が神を作ったのは、人間の中に『神性』があるからだ」と考えている。つまり、人間の中には野獣性もあるが、神性もある、という、当たり前の思想をしている。
これが当たり前でなくなるのは、「神が人間を創った」派の人々、たとえばユダヤ教やキリスト教の人々がこの世界には存在し、しかもその連中が政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも世界をかなり支配しているからである。
さらに、どういうわけか、もともとキリスト教徒のほとんどいない日本ですら、「外部の神(的なもの)」を信じる者はいる。つまり、自分の頭で考え、自分で善悪を判断する代わりに、「権威的なもの」に思考も判断もすべてお任せするわけである。これはユダヤ・キリスト教の信者と同じ精神構造である。
こうした「良心(あるいは良知、ボン・サンス)の外部化(外部委託)」というのは、生きる上ではなかなか便利なもので、たとえば兵隊などは、上官の命令があれば相手が武器を持たない農民や市民だろうが、女子供だろうが、平気で殺せるようになる。実はこれは会社員なども同じであり、上司や会社の命令であれば、法律に違反しようが、倫理道徳に反しようが、平気で実行できるのが「有能な人間」として会社などでは重用されるのである。


「神が存在しなければ、作る必要がある」(ヴォルテール)



(以下引用)




最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。

今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。


神とか、真理とかいうものがわれわれの「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、われわれ自身が「外」から縛られることになりますので、われわれは決して自由になれないのであります。

神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ、真理に従うということが、自己に埋められている神性をのびのびと外に出すことになるのであります。


これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、

> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない

ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。

世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、

> 神は「外」にいる

というような概念を持っていると思うのですよ。

これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。

神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。

上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。

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仏とは自分自身である。

「バカ国民帝国日本の滅亡」から、記事の一部を抜粋転載。
キリスト教やイスラム教が、仏教の影響下で生まれた、というのは面白い想像だと思う。実際、これらの宗教には、エゴイズムの否定、という共通点がある。つまり、「我」の否定だ。仏教は宗教と言うよりは哲学だから、それが形を変えて宗教化したのがキリスト教だ、と言えるのではないか。
つまり、宗教とは、崇拝の対象としての何かの(他者としての)「神」を前提とするが、仏教には崇拝の対象としての他者なる「神」は存在せず、悟りを得れば、その人自身が「仏」になるという点で、キリスト教などとは異なるわけだ。ここが神と仏の根本的相違だ。
大日如来だとか、何とか仏を「神」のように拝むというのは、仏教の精神に反した行為だと私は思っている。禅宗で言う、「祖師に遭えば祖師を殺し、仏に遭えば仏を殺せ(殺す)」というのは、そうした錯誤を戒めるものだろう。いわんや、商売としての新興宗教などが「仏」を神のように拝ませ、仏教の教義の一部を自分たちの教義として、仏教を利用して金儲けをしている現実は、仏教を辱め、貶めるものである。
ただし、多くの仏教で「他者としての仏」を神のような存在として拝むのは、それによって自我の放棄の機縁としているという面はあるだろう。しかし、それは仏教の本質を誤らせるものだ。



(以下引用)最初の一文の主語はもちろん、「仏教は」である。



宗教であって、宗教ではない…迷信やおまじないとはこれらの一線を画す教えなのです。




アショーカ王の尽力で、西はエジプト、シリア、ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタンにまで伝わりました。




ただ、その地域には「仏教」として根付くことはなく、イスラム教、キリスト教と形を変えました。





いずれも、教義や戒律に類似点があり、質素な生活や所有の否定、己の善(良心)以外に頼らないといったところなどが共通しています。




西洋や中東の宗教、文化の底辺に、仏教の教えがあるのではないでしょうか?




1+1は、だれがどうしようとも、2にしかなりませんからね…





老荘思想の中心人物、荘子と”禅”にも共通点があります。




老荘思想にも、仏教が影響を与えている可能性がありますね…





イスラム教といえば、「偶像崇拝の禁止」…ですよね?




キリスト教も本来は、そうですし、一番古株の仏教が、そもそも「偶像崇拝の禁止」なのです。





ゴータマが生きていた間はもちろん、死んでからも百年間、仏教教団は崇拝の対象となるものを建造しない方針を貫いていました。




「仏法僧」の三つ以外を崇めることは、仏教の外部を崇めることだ…ということでした。





まあ、寺も、位牌も、墓もないみたいなもんですか…「私はそこにはいません。千の風になって…」w




もっとも、死者を祀るものでは本来、ないですからね…





葬式仏教は、まさに「仏教の外部」です。そんなものを熱心にやっても「成仏」はできません…




実際、行われているのは卑弥呼以来の呪術でしょうがwwww仏教の体裁をしてはいても…





別に八百万の神様を拝んでもいいのですが、そんなものに帰依し、頼りにしてはいけないってことです。




仏教は、宗教であって、宗教ではないのでね…




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他者への執着と、自我の放棄

「バカ国民帝国日本の滅亡」から転載。
記事も面白いが、コメント間の問答が面白い。
母親が、子供のために自分の死を忘れる、というのはいわば子供という存在に執着する執着心から、自分自身の死の恐怖を忘れることであり、君子が死を恐れないのは、この世の何物にも執着しないから死を恐れないのである。つまり、この二つは、まったく違う方向から、同じ結果になっている。
私の考える「宇宙の原理」は、「無限大はゼロに近づく」というものだが、他への愛着心の極限は自我の放棄に至るわけだ。逆に、自我を放棄すればするほど、この世界そのものへの愛(世界と自分は同一であるという思い)に至る、ということもあるだろう。表と思って進んでいたら、いつのまにか裏側に回っていた、というメビウスの輪のようなものである。

余談だが、「観念する」という言葉は面白い。「観念する」とは本来哲学的(仏教的)思索へ没頭することだが、それが「あきらめる」意味になるというのは、実はこの言葉の本質を見事に示している。また、「あきらめる」とは本来、「明らめる」、つまり「明らかにする」意味だったというが、「明らかにする」ことが「あきらめる」につながるというのも、日本人が仏教というものの本質を体感的に知っていたことを示しているのではないだろうか。



(以下引用)


”君子の自由”と”小人の自由”
NEW !
テーマ:

まったく内実の異なるものが、同じ「自由」ということばで呼ばれている…





奴隷や囚人にとっての「自由」とは何だろう?




喰えることであり、痛い目に遭わずに済むことであり、




いつかは、この境遇から脱することができると信じられる”希望”であろう…





自分が、自由でいられること、自由にできるモノがあること。




そして、自由な時間があることだろう。





欲望が満たされていること…




恐怖から逃れられていること…





それが、”奴隷の自由”、”囚人の自由”である。





日本人の多くが求めている「自由」はこれである。





ゆえに、彼らはたやすく権力に支配される…




権力に支配されて、「自分が自由である」と錯覚している…





豚舎でブタは腹いっぱい食えて、寒さもなく、天敵の襲来にも脅かされず、「自由」を満喫している。




だが、彼らはなにひとつ自分で決定できはしないし、生死も飼い主に委ねられている。





ブタどもにとって、欲望が満たされることが、「幸福」であり、「自由」なのである…




ブタどもにとって、「安全」を信じられ、恐怖のないことが「幸福」であり、「自由」なのだ。





喰われるために生きている者たち…





君子は、権力に支配されず、主体的な立場を維持しようとする。




だから、くだらぬ欲をそもそももたない…




偽りなく生きているので、怖いモノがない…




欲をもたず、恐怖しない…




だから、君子は権力から自由である。




権力に対して、常に主体的な立場を維持することができる。





そもそも権力とはなにか?…




欲で釣り、刑で脅すことである。





欲と恐怖によって、人間を支配することができる。




だが、君子は支配されることがない。





欲がないから釣られない。




死ぬことも怖くないから、脅しが通じない。





ゆえに、君子は常に”自由”である。





君子は力を求めない。いや…求めはするが、求め方が違うのだ…




何も支配しようとしない…ゆえに、万物が自分にしたがうようになる…





他力に寄り添うことで、他力を自力に変えてしまう…




相手や仲間の力を利用する…引き出す…それに乗る…





無欲恬淡、柔弱謙下不争の徳は、権力に支配されない自由な自分を維持する極意である。


 

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仮面の維持と真面目病

「マドモワゼル愛」のブログから転載。
私は現実生活では真面目そのものの人間であり、たまに冗談を言ってもそれが冗談と受け取ってもらえないような男である。まあ、単に冗談が下手なだけだが、周囲とは冗談やユーモアの感覚が違うとも言える。そもそも筒井康隆を好むような人間の冗談が普通の世界で受け入れられるわけがない。だから、あえて真面目を装っているという部分もある。
たとえば、こんなジョーク(いわゆるシック・ジョーク、あるいはブラック・ジョークだ。)を人前で話したら、とんでもない人でなしだと思われるのは請け合いだ。


(ここで「セカンドベース」というジョークを書いたのだが、やはりあまりにひどいジョークなので消してしまった。障害者差別ジョークというよりは、「人間そのものを物のレベルに引きずり下ろして笑う」というスラップスティック的な笑いなのだが、そういう笑いを嫌う人は多いだろうから、あえて地雷を踏むことはしないでおく。臆病者と笑わば笑え。)


どうでもいい話が長くなった。下記記事で言う「真面目病」の人というのは、現実生活では周囲とよく協調し、お互い冗談なども言ったりするが、実は生活の大半が「仮面」の維持に費やされていて、その生活のストレスを心の中に溜め込み過ぎて鬱病になるというタイプだ。実際、鬱病になる人間はかなり多いらしいし、鬱病予備軍は膨大な数に上るだろう。そういう人には、それが「真面目病」だ、と教えれば、それだけで治るのではないか。
もっとも、真面目病は社会で成功する要因の一つでもあり、社会全体が維持される要因でもあるから、それを「完治」させるのはまた問題かもしれない。真面目病の完治とは、いい加減人間の出来上がり、なのだから。(というわけで、昨日の「『いい加減』は『良い加減』」へと話がつながるわけだ。)
私自身のストレス対策は単純で、「対世間」の時間とプライベートな時間を完全に分けること、そしてプライベートな時間ではあくまで怠惰に、気楽に過ごすことである。いやまあ、ストレス対策と言うよりはただの怠け者の自己弁護なのだが。(念のために言うが、これでも若い頃は「生きるべきか死すべきか」で毎日のように悩んだ真面目人間でもあったのだ。ある意味、真面目病を克服してただのゴクツブシ・駄目人間になったとも言える。まあ、他人に迷惑さえかけなければ、人間、どう生きようがいいのである。)


(以下引用)



2014-05-23 23:36:15

真面目病

テーマ:ブログ


この世にあるもっとも重い病気は真面目病。

まあ、そんなことはないだろうが、時代が押し迫ってくると、一番割に合わなくなるのが、真面目な人だ。

会社が言うままに、、、国が言うままに、、、お医者さんが言うままに、、、真面目だから反発せずに従う。

本気で従うのならいいが、心の片隅には不信があり、気は乗らない。

でも反発したり、反抗することなどはできない。真面目な人なのだから。上が言うままに、従うのが美徳であると信じているが、本当のところは怖いからだ。

ノーというのが怖い。真面目でいれば周囲から浮き上がらない。嫌われない、、そう本気で思ってしまうのだろう。

言いたいことも言えず、真面目に生きてきた人が、不運にも亡くなったとしたら、その葬式は本当に暗いものになると思う。

きっと、どこかで恨んでいることだろうと、、、葬儀に来た人はなんとなく感じてしまう。

この世で善人、、、あの世で悪魔に変身、、、きっとそうなるのではと人は恐れる。

反対に好き勝手やって長寿をまっとうした人の葬式なら、思い出話しにも花が咲く。厄落としの酒も安心して飲める。

もともと、真面目というのは、周囲から期待された人物を演じるという役であり、しょせん無理がある。

癌にかかり、医者が言うままに抗がん治療を行う、、、あまりの苦しみにもうやめたいというのが、絶対の本音だと思う。

しかし、もう一度やりましょう、、という医者の魔の声にノーと言えない。そしてのたうちまわる苦痛。もう死んだってこんなことよりはましだ、、、と怒鳴れない。

怒鳴れば、道が開けるかもしれないのに。一番大事なイノチを見ず知らずの医者に預けてしまう。

医者は決して自分が癌になったら抗ガン治療などしないというのに、そんな医者の進めに従う。

でもどこかおかしい、、、どうしても嫌だ、、、でも真面目だから言えない。

そんな日本人が本当に多いと思う。どうせ殺されるのなら、もっと、感情的な抵抗してもそろそろいいのではないかと思ってしまう。

真面目に苦しみに耐える限度を今の日本は越えてしまっているように感じるのだ。

ブラック企業がのさばるのも、政治のあまりの圧政が続くのも、真面目な人が多いからインチキが通用してしまうのだ。

癌に関しては、世界の主流はとっくに抗ガン治療などやっていないと聞く。じゃ何が主流かというと、「放っておく」と。私も最初は耳を疑った。

真面目な人の上に、白衣を着た悪魔が踊っている、、
白衣は医学であり、科学であり、法曹であり、教育であり、政治であり、経済であり、金融であり、、、

そろそろ真面目病からさよならする時期が来ているのではないか。「これじゃ殺されちまう」と言っていい頃合いではないだろうか。

本当に殺されちゃうかもしれないのだから。真面目に我慢しても、もう誰も喜ばない。イノチが悲しむだけ。

食堂チェーンで一斉にバイトがストライキを行う、、、という話しがあるが、そこまで本当に追い詰められているのだと思う。

アメリカでもすごい人の数がワシントンに集まりだしたようだ。退役軍人が怒りだしている。私がイノチをかけて守ろうとしてきたアメリカとは違う、、、きっとそういう気持ちなのだと思う。

日本も同じだろう。下級裁判官とはいえ、やっと原発再稼働をダメと言ってくれた。偉いものだ。一縷の望みを感じて、心がスーッとした日本人も多かったと思う。

天皇皇后両陛下はその頃、足尾銅山に出向かれた。私的に行かれたようである。足尾銅山では公害により多くのイノチが奪われた、負の記録を記念した場所だ。

原発再稼働の違法性を裁判が認め、同時に天皇は足尾銅山へ出向かれた。偶然かもしれないが、思いは一つとの希望が湧いてくる。

面白いことに、政権のブレーンの一人は、天皇のご発言が安倍政権を批判しているように国民が誤解すると、大御心を批判した。

天皇は憲法順守をお述べになっただけで、当たり前のことである。それは日本の決まりごとなのだから。天皇も政治家も国民も憲法を守る、、当たり前のご発言。

憲法を順守するのが政治の仕事。憲法解釈が首相の自由なら、憲法など不要。

一体何がしたいのか。真面目な人はまだそれでも従うのか。今の日本は真面目な人の口を無理やり押えて抗がん剤を流し込むような暴挙に出ているように、私には思えてしまう。

しかしあまりにおかしすぎるので、ここまで来ると、やはり多くの人がおかしいと思い出す。

おかしなもののあぶり出しと考えると、逆に納得がいく。誰の目にも、今、おかしなものが、各地で各階層で、あぶりだされつつあるのではないだろうか。




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「いい加減」と「良い加減」

「in deep」の最新記事に次のような感慨が書かれていたが、「いい加減に生きる」というのは非常に大事なことだと思う。後になると、その時の「いい加減」が、実はその人にとっては「良い加減」であったことが分かったりするものだ。(言うまでも無いが、これは根が真面目な人に関しての話である。)
「大事な決断は簡単にやれ」という言葉もある。大事な決断は、あまりに考察要素が多く、場合によっては問題が紛糾していて、そのすべてを考えていては「ムカデが自分の足をどう動かしてどう歩くべきか考えて歩けなくなる」ようなことにもなりかねない。そこで、大事な決断は軽くやるのである。結婚とかね。(笑)ただし、「責任はすべて自分で引き受ける」意志で行うことが大事だろう。
私の父から教えられた言葉がある。と言うより、その遺した備忘録の中にあった昔の人の言葉なのだが、(フランスの詩人ヴィーニーとやらの言葉らしい。)

うめくも、泣くも、祈るも、
同じく卑怯。
運命がお前を招いた道で
長く苦しいお前の務めを
逞しく果せ。
その後で俺のように物言わず
苦しんで死ね。


という言葉は、人生の嫌なことから常に逃げてきた私にはなかなか厳しい叱責だが、「人生に過剰な期待をするな」という一点では私自身の人生訓の一つにもなってきたようだ。要するに、人生の精神的苦痛とは、予定していたもの(妄想的期待)と受け取るもの(現実)との落差から来るものがほとんどだ、と私は考えているのである。昔の農民や農奴の生活を考えれば、今の平凡な暮らしも天国のようなものだ、と私は思っている。私が政治に不満を言うのは、政治が人々の暮らしをより悪化させる方向に動いているからにすぎないのである。



(以下引用)



私などはもう 50代ですし、すでに遅い感じはありますが、ただ、ひとつだけ救いがあるとすれば、私は「自分の理想に沿った理念のもとで生きてくることができた」という意味では、比較的幸せな部分が多かったといえる部分があるということがあります。

その理念の具体的なところは、気分を害される方もあるかしれないですので、曖昧にしておきますけれど、傍から見れば、「単にいい加減な生き方」と言われて当然な生き方ですし、そう言われても怒るどころか、「そう言われることを目指していたので嬉しいです」と言ってしまいかねない部分もあるのですが、ここまでの人生はともかく、これから年齢を重ねて、1日1日と「死」へと近づいていく中で、

「生と死のそれぞれの本当の意味」

をもう少しきちんと知りたく、そして、知るだけでなく、「意識してみたい」、あるいは「体感してみたい」ということがあります。

どれだけ健康に気をつけようと、80歳、90歳、100歳、あるいはもうちょい位までには確実に人は「生」を終えます。

それでまあ・・・もしかすると、薔薇十字的な学問、あるいはそれを書いているシュタイナー的な概念というものを勉強することによって、「自分が死ぬことに対しての恐怖がなくなる」ということも生じるかもしれないですが、それ以上に、

むしろ死を心待ちにする時

ということにまで行き着いたりするのかもしれないですし。


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冷笑

「小田嶋隆ツィッター」から転載。
ツィッターに限らず、インターネット上の会話や議論において広く見られるのがこの「冷笑」という態度である。言うまでもなく、「相手を冷笑できる自分は相手に勝っている。相手より上」ということを示すためである。
前々から言っている、日本人は相手との上下関係に異常に拘る、ということの一つだが、実生活での上下関係が生存に関わる重大事であるのは世界的に普遍的であるのに対し、これはただ「自分の頭の中だけで」相手との上下関係を作り上げ、それで自己満足する、という社会的精神病である。その実例は「2ちゃんねる」を見ればいくらでもある。最近は「阿修羅」などでもそういう輩が多い。まあ、「阿修羅」のそういう連中は政府御用達の「ネット工作会社」の社員やアルバイト、つまり工作員だとは思うが。
こうしたネット上の「発言者叩き」というのは特に政府にとって都合の悪い発言に対し行われることが多いことから、それが工作員であることが容易に推定できるのだが、実際に、そうした攻撃によって正直な発言が萎縮させられていくのは事実である。
しかし、問題が「冷笑」の話から逸れた。
私は知的な冷笑は嫌いではない。高度に知的な人間が知的に劣った人間に対し冷笑的な気持ちになるのは当然だろう。私自身、オスカー・ワイルドの描くような冷笑的人間は大好きである。(もっとも、真に知的な人間は、知的レベルなど相対性の問題でしかないと分かっているから他者に対しては寛容なのではないか、とも思う。つまり、猿が他の猿を冷笑したって仕方がない、ということだ。)だが、ネット上に溢れる冷笑は、劣った者がより優れた者の発言の揚げ足を取り、重箱の隅をつついて些細なミスを見つけてはそれを貶めるという類のものだ。つまり、「冷笑する資格」の無い人間が冷笑をしているという困った事態である。まあ、ネット時代とは一億総批評家時代でもあるし、そうなるとお互いが自分の知的優越性を競いあい、ありもしない自分の才知をひけらかすために他者攻撃に勤しむようになるのは必然かもしれない。

私が昔から大好きな言葉がある。それはヴィリェ・ド・リラダンの或る作品中にあるという「生活などは召使に任せておけ」という言葉だが、これくらい大きな冷笑は爽快である。



(以下引用)




小田嶋隆 @tako_ashi  ·  13 時間

ふつうの住宅街で道を尋ねれば、よほどのことがない限り、親切な人が教えてくれる。「お前は道も知らないで道を歩いているのか(プゲラ)」なんていう相手にはまず会わずにすむ。ツイッターで質問をすると、そういうヤツがワラワラとあらわれる

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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