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「いい加減」と「良い加減」

「in deep」の最新記事に次のような感慨が書かれていたが、「いい加減に生きる」というのは非常に大事なことだと思う。後になると、その時の「いい加減」が、実はその人にとっては「良い加減」であったことが分かったりするものだ。(言うまでも無いが、これは根が真面目な人に関しての話である。)
「大事な決断は簡単にやれ」という言葉もある。大事な決断は、あまりに考察要素が多く、場合によっては問題が紛糾していて、そのすべてを考えていては「ムカデが自分の足をどう動かしてどう歩くべきか考えて歩けなくなる」ようなことにもなりかねない。そこで、大事な決断は軽くやるのである。結婚とかね。(笑)ただし、「責任はすべて自分で引き受ける」意志で行うことが大事だろう。
私の父から教えられた言葉がある。と言うより、その遺した備忘録の中にあった昔の人の言葉なのだが、(フランスの詩人ヴィーニーとやらの言葉らしい。)

うめくも、泣くも、祈るも、
同じく卑怯。
運命がお前を招いた道で
長く苦しいお前の務めを
逞しく果せ。
その後で俺のように物言わず
苦しんで死ね。


という言葉は、人生の嫌なことから常に逃げてきた私にはなかなか厳しい叱責だが、「人生に過剰な期待をするな」という一点では私自身の人生訓の一つにもなってきたようだ。要するに、人生の精神的苦痛とは、予定していたもの(妄想的期待)と受け取るもの(現実)との落差から来るものがほとんどだ、と私は考えているのである。昔の農民や農奴の生活を考えれば、今の平凡な暮らしも天国のようなものだ、と私は思っている。私が政治に不満を言うのは、政治が人々の暮らしをより悪化させる方向に動いているからにすぎないのである。



(以下引用)



私などはもう 50代ですし、すでに遅い感じはありますが、ただ、ひとつだけ救いがあるとすれば、私は「自分の理想に沿った理念のもとで生きてくることができた」という意味では、比較的幸せな部分が多かったといえる部分があるということがあります。

その理念の具体的なところは、気分を害される方もあるかしれないですので、曖昧にしておきますけれど、傍から見れば、「単にいい加減な生き方」と言われて当然な生き方ですし、そう言われても怒るどころか、「そう言われることを目指していたので嬉しいです」と言ってしまいかねない部分もあるのですが、ここまでの人生はともかく、これから年齢を重ねて、1日1日と「死」へと近づいていく中で、

「生と死のそれぞれの本当の意味」

をもう少しきちんと知りたく、そして、知るだけでなく、「意識してみたい」、あるいは「体感してみたい」ということがあります。

どれだけ健康に気をつけようと、80歳、90歳、100歳、あるいはもうちょい位までには確実に人は「生」を終えます。

それでまあ・・・もしかすると、薔薇十字的な学問、あるいはそれを書いているシュタイナー的な概念というものを勉強することによって、「自分が死ぬことに対しての恐怖がなくなる」ということも生じるかもしれないですが、それ以上に、

むしろ死を心待ちにする時

ということにまで行き着いたりするのかもしれないですし。


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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