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冷笑

「小田嶋隆ツィッター」から転載。
ツィッターに限らず、インターネット上の会話や議論において広く見られるのがこの「冷笑」という態度である。言うまでもなく、「相手を冷笑できる自分は相手に勝っている。相手より上」ということを示すためである。
前々から言っている、日本人は相手との上下関係に異常に拘る、ということの一つだが、実生活での上下関係が生存に関わる重大事であるのは世界的に普遍的であるのに対し、これはただ「自分の頭の中だけで」相手との上下関係を作り上げ、それで自己満足する、という社会的精神病である。その実例は「2ちゃんねる」を見ればいくらでもある。最近は「阿修羅」などでもそういう輩が多い。まあ、「阿修羅」のそういう連中は政府御用達の「ネット工作会社」の社員やアルバイト、つまり工作員だとは思うが。
こうしたネット上の「発言者叩き」というのは特に政府にとって都合の悪い発言に対し行われることが多いことから、それが工作員であることが容易に推定できるのだが、実際に、そうした攻撃によって正直な発言が萎縮させられていくのは事実である。
しかし、問題が「冷笑」の話から逸れた。
私は知的な冷笑は嫌いではない。高度に知的な人間が知的に劣った人間に対し冷笑的な気持ちになるのは当然だろう。私自身、オスカー・ワイルドの描くような冷笑的人間は大好きである。(もっとも、真に知的な人間は、知的レベルなど相対性の問題でしかないと分かっているから他者に対しては寛容なのではないか、とも思う。つまり、猿が他の猿を冷笑したって仕方がない、ということだ。)だが、ネット上に溢れる冷笑は、劣った者がより優れた者の発言の揚げ足を取り、重箱の隅をつついて些細なミスを見つけてはそれを貶めるという類のものだ。つまり、「冷笑する資格」の無い人間が冷笑をしているという困った事態である。まあ、ネット時代とは一億総批評家時代でもあるし、そうなるとお互いが自分の知的優越性を競いあい、ありもしない自分の才知をひけらかすために他者攻撃に勤しむようになるのは必然かもしれない。

私が昔から大好きな言葉がある。それはヴィリェ・ド・リラダンの或る作品中にあるという「生活などは召使に任せておけ」という言葉だが、これくらい大きな冷笑は爽快である。



(以下引用)




小田嶋隆 @tako_ashi  ·  13 時間

ふつうの住宅街で道を尋ねれば、よほどのことがない限り、親切な人が教えてくれる。「お前は道も知らないで道を歩いているのか(プゲラ)」なんていう相手にはまず会わずにすむ。ツイッターで質問をすると、そういうヤツがワラワラとあらわれる

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