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仏とは自分自身である。

「バカ国民帝国日本の滅亡」から、記事の一部を抜粋転載。
キリスト教やイスラム教が、仏教の影響下で生まれた、というのは面白い想像だと思う。実際、これらの宗教には、エゴイズムの否定、という共通点がある。つまり、「我」の否定だ。仏教は宗教と言うよりは哲学だから、それが形を変えて宗教化したのがキリスト教だ、と言えるのではないか。
つまり、宗教とは、崇拝の対象としての何かの(他者としての)「神」を前提とするが、仏教には崇拝の対象としての他者なる「神」は存在せず、悟りを得れば、その人自身が「仏」になるという点で、キリスト教などとは異なるわけだ。ここが神と仏の根本的相違だ。
大日如来だとか、何とか仏を「神」のように拝むというのは、仏教の精神に反した行為だと私は思っている。禅宗で言う、「祖師に遭えば祖師を殺し、仏に遭えば仏を殺せ(殺す)」というのは、そうした錯誤を戒めるものだろう。いわんや、商売としての新興宗教などが「仏」を神のように拝ませ、仏教の教義の一部を自分たちの教義として、仏教を利用して金儲けをしている現実は、仏教を辱め、貶めるものである。
ただし、多くの仏教で「他者としての仏」を神のような存在として拝むのは、それによって自我の放棄の機縁としているという面はあるだろう。しかし、それは仏教の本質を誤らせるものだ。



(以下引用)最初の一文の主語はもちろん、「仏教は」である。



宗教であって、宗教ではない…迷信やおまじないとはこれらの一線を画す教えなのです。




アショーカ王の尽力で、西はエジプト、シリア、ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタンにまで伝わりました。




ただ、その地域には「仏教」として根付くことはなく、イスラム教、キリスト教と形を変えました。





いずれも、教義や戒律に類似点があり、質素な生活や所有の否定、己の善(良心)以外に頼らないといったところなどが共通しています。




西洋や中東の宗教、文化の底辺に、仏教の教えがあるのではないでしょうか?




1+1は、だれがどうしようとも、2にしかなりませんからね…





老荘思想の中心人物、荘子と”禅”にも共通点があります。




老荘思想にも、仏教が影響を与えている可能性がありますね…





イスラム教といえば、「偶像崇拝の禁止」…ですよね?




キリスト教も本来は、そうですし、一番古株の仏教が、そもそも「偶像崇拝の禁止」なのです。





ゴータマが生きていた間はもちろん、死んでからも百年間、仏教教団は崇拝の対象となるものを建造しない方針を貫いていました。




「仏法僧」の三つ以外を崇めることは、仏教の外部を崇めることだ…ということでした。





まあ、寺も、位牌も、墓もないみたいなもんですか…「私はそこにはいません。千の風になって…」w




もっとも、死者を祀るものでは本来、ないですからね…





葬式仏教は、まさに「仏教の外部」です。そんなものを熱心にやっても「成仏」はできません…




実際、行われているのは卑弥呼以来の呪術でしょうがwwww仏教の体裁をしてはいても…





別に八百万の神様を拝んでもいいのですが、そんなものに帰依し、頼りにしてはいけないってことです。




仏教は、宗教であって、宗教ではないのでね…




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