休日くらいは、のんびりとした話でも書くことにする。
最近、ネットテレビで私が見ているのは「ちはやふる」というアニメである。ちはやという芸者に振られた竜田川という相撲取りが豆腐屋になる、という話ではない。高校のカルタ部の話である。と言うより、カルタ・クイーンを目指す少女の話だ。その少女は顔はきれいだが色気の無い「残念美人」で、彼女をめぐって精神的暗闘をする二人の少年がいる、というような内容だが、まあ、恋愛になりそうで恋愛にならないモヤモヤ感がなかなか楽しい少女マンガのアニメである。いい年をした男がこんなのを見るのか、と笑われそうだが、漫画やアニメを楽しむのは年齢や性別とは無関係だ。その作品の出来が良ければ、多くの層に受け入れられる、ということである。
娘から聞いたところでは、この作品は海外でのファンが非常に多いらしい。百人一首(カルタ取り)という、日本人でも現代ではあまりやらないゲームが外国人に理解できるのか、不思議だが、このアニメの随所に出てくる「日本的な美」「日本的な詩情」が外国人を魅了するのではないか、と思う。そういう日本的な美感(風景の美、和歌の美)を実にうまく表現したアニメなのである。
さて、実はここからが本題である。
和歌はわからん、(これ、駄洒落ね)という人は案外多いのではないか?
実は私もそうだった。いや、今でもあまり分からないのだが、多分日本人の平均レベルよりは分かっていると思う。その程度の人間が言うのも何だが、和歌を理解できない、というのは一生の損である。もちろん、俳句も漢詩もすべてそうなのだが、古典文学というものは、少しでも理解できれば、それは一生の精神的財産になるのである。
で、和歌がわからん、というのにも理由があり、それは「歴史的仮名遣い」と「句読点の不使用」のためだ、ということを書いておきたいわけだ。その好例となりそうなことを、この前、仕事(単純な肉体労働で、何かを夢想しながらでもできる、という利点がある。)をしながらつらつら考えた。それが今回の駄文の動機だ。
先に、もう一つ和歌の読解のポイントを書いておけば、それは「初心者は、上の句と下の句の切れ目に捉われすぎる(囚われ過ぎる、と書くべきか)」ということである。和歌の意味の切れ目は必ずしも上の句と下の句で都合よく切れているわけではない。これは「句切れ」という、中学古典初歩の知識だが、これが理解できていない人は非常に多いと思う。それほど、我々は「5・7・5/7・7」という分け方が生理的に沁み付いているのである。これは俳句(あるいは連歌)の影響だろう。
さて、その例となる和歌だが、これについて書く内容についてはかなりな構想を頭の中で作り上げたはずなのに、肝心のその和歌が何だったのか、思い出せない。まあ、落語に出てくる、「ちはやふる」についての横丁のご隠居の講釈レベルだろうから、失われても日本の文学史にとっての大損失というほどではない。思い出したら、また書くことにする。
(追記)
歌だけは、今ネットで探し出したので、先に掲載しておく。和歌に不案内な方にこそチャレンジしていただきたいのだが、ぜひ、自分でこの歌の解釈をしてみてほしい。歌はひらがな書き(これが本来のものだろう。平安時代の貴族女性は漢字の知識はあまり無かったというから。ただし、厳密には、本来は濁点も用いていなかったはずである。)と、漢字交じりの二つを、少し離して転記しておく。
最近、ネットテレビで私が見ているのは「ちはやふる」というアニメである。ちはやという芸者に振られた竜田川という相撲取りが豆腐屋になる、という話ではない。高校のカルタ部の話である。と言うより、カルタ・クイーンを目指す少女の話だ。その少女は顔はきれいだが色気の無い「残念美人」で、彼女をめぐって精神的暗闘をする二人の少年がいる、というような内容だが、まあ、恋愛になりそうで恋愛にならないモヤモヤ感がなかなか楽しい少女マンガのアニメである。いい年をした男がこんなのを見るのか、と笑われそうだが、漫画やアニメを楽しむのは年齢や性別とは無関係だ。その作品の出来が良ければ、多くの層に受け入れられる、ということである。
娘から聞いたところでは、この作品は海外でのファンが非常に多いらしい。百人一首(カルタ取り)という、日本人でも現代ではあまりやらないゲームが外国人に理解できるのか、不思議だが、このアニメの随所に出てくる「日本的な美」「日本的な詩情」が外国人を魅了するのではないか、と思う。そういう日本的な美感(風景の美、和歌の美)を実にうまく表現したアニメなのである。
さて、実はここからが本題である。
和歌はわからん、(これ、駄洒落ね)という人は案外多いのではないか?
実は私もそうだった。いや、今でもあまり分からないのだが、多分日本人の平均レベルよりは分かっていると思う。その程度の人間が言うのも何だが、和歌を理解できない、というのは一生の損である。もちろん、俳句も漢詩もすべてそうなのだが、古典文学というものは、少しでも理解できれば、それは一生の精神的財産になるのである。
で、和歌がわからん、というのにも理由があり、それは「歴史的仮名遣い」と「句読点の不使用」のためだ、ということを書いておきたいわけだ。その好例となりそうなことを、この前、仕事(単純な肉体労働で、何かを夢想しながらでもできる、という利点がある。)をしながらつらつら考えた。それが今回の駄文の動機だ。
先に、もう一つ和歌の読解のポイントを書いておけば、それは「初心者は、上の句と下の句の切れ目に捉われすぎる(囚われ過ぎる、と書くべきか)」ということである。和歌の意味の切れ目は必ずしも上の句と下の句で都合よく切れているわけではない。これは「句切れ」という、中学古典初歩の知識だが、これが理解できていない人は非常に多いと思う。それほど、我々は「5・7・5/7・7」という分け方が生理的に沁み付いているのである。これは俳句(あるいは連歌)の影響だろう。
さて、その例となる和歌だが、これについて書く内容についてはかなりな構想を頭の中で作り上げたはずなのに、肝心のその和歌が何だったのか、思い出せない。まあ、落語に出てくる、「ちはやふる」についての横丁のご隠居の講釈レベルだろうから、失われても日本の文学史にとっての大損失というほどではない。思い出したら、また書くことにする。
(追記)
歌だけは、今ネットで探し出したので、先に掲載しておく。和歌に不案内な方にこそチャレンジしていただきたいのだが、ぜひ、自分でこの歌の解釈をしてみてほしい。歌はひらがな書き(これが本来のものだろう。平安時代の貴族女性は漢字の知識はあまり無かったというから。ただし、厳密には、本来は濁点も用いていなかったはずである。)と、漢字交じりの二つを、少し離して転記しておく。
038 右近 | |
原文 | |
わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな | |
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな *句切れではないが、意味上の切れ目のヒントとして分かち書きにしたのが下のもの。ここまでくれば、解釈にかなり近づけるだろう。
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