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この世界では、自由とは金力のことである

小学校の一クラスの中ですら、「権力者」「追従者」「傍観者」「被差別階級」がいるからこそ、いじめ問題があれほど頻繁に起こるのである。
つまり、政治は日常の中にもある。

大人の世界では、この政治ゲームが子供世界のような純粋形ではなく、形を変える。
現代人がほとんど全員拝金主義であるのは、資本主義社会においては金力が権力であり、金力を握るもののみが自由であるからだ。




(以下引用)



小田嶋隆 @tako_ashi  ·  11月2日

複数の人間が関与している社会で、「自由にふるまう」ことと「権力をふるう」ことの間に、明らかな違いを見出すのはとてもむずかしいと思う。

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「中世の暗黒」は虚偽の説と言えるか

「泉の波立ち」から転載。
面白い問題だと思うが、議論の内容には疑問がある。
結局、筆者南堂氏の考えは、「ギリシア文化が中世アラブに継承され、それをさらにルネサンス期の欧州が再輸入した」「その原因は、中世欧州には(ラテン語以外)文字言語が無かったからだ」ということになると思うのだが、私の疑問は2点。

1)たしか、最古の聖書はギリシア語で書かれていたはずだ。つまり、ギリシアは文字言語を古くから持っていた。(おそらくその他の国でも自国文字言語は持っていたと思う。それが特権階級だけの知識であったにせよ。)自国言語でなければ文化は発達しないというのが南堂氏の考えのようだが、ならばなぜギリシアだけでも文化が古代ギリシア以降発達し続けなかったのか。
2)ラテン語では文化は発達しない、となぜ言えるのか。

やはり、ここは一般常識に従って、教会による知識の独占と、宗教に対立する科学的思想の禁止が中世ヨーロッパの文化的停滞、科学の未発達の原因であったと考えるべきだろう。
そういう意味では、やはり「中世の暗黒」という考え方は正しい、と私は思う。


(以下引用)

2014年10月28日

◆ なぜ中世アラブは先進国だったか?

 中世では、欧州よりもアラブの方が先進国だった。なぜか?

 ──

 これははてなブックマークで話題になっていた話題。

 最初の質問は、こうだ。
 イスラム科学の社会で、アラビア科学が発達した理由はなんですか?
( → 知恵袋

 文章が滅茶苦茶なので、正しい質問に直すと、こうだ。
 「中世では、アラブ社会が欧州社会よりも、文明が発達していましたが、それはなぜですか?」

  ※ 近代科学と呼べるようなものはまだできていなかった。
    近代科学が始まるのは、ニュートン以後だ。( → 
別項


 これに対する回答は、下記のものがある。(上記ページのベストアンサー)
当時のキリスト教社会の場合、「神がきめたことを人が疑ってはいけない」という考え方がありました。キリスト教の経典で書かれていることを疑ったり、それと違うことを話すことは「異端」とみなされていて、そのために命を落とすことが多くありました。

科学とは「客観的根拠のある知識を探求する」ことですが、カトリック教会の権威は支配している社会では真理を探究する行動はしにくいです。今の近代科学の発展につながる「考え方のしくみ」ができるようになるためにはルネッサンスと宗教改革、つまり16世紀、17世紀まで待たないといけませんでした。 )
 
 一方、他の意見として、下記のようなものがある。
antonian 歴史 当時のイスラム圏は先進国で財力があったからじゃないかね。中世はイスラム圏が今の先進諸国で、欧州はローマ帝国崩壊後の群雄割拠で内戦に明け暮れてる第三世界。
 ──
kitayama ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは暗黒世界で、一方イスラムは安定しており、余裕があったので、科学等が発展した。ヨーロッパは十字軍でイスラム世界から情報を仕入れ、ルネッサンスになったという理解なのだが。
( → はてなブックマーク

 しかし、いずれも妥当ではない、と私は考える。

 ──

 私の回答は、こうだ。
 「中世の欧州では、学問というものが存在しなかったし、学問を教える学校というものも存在しなかった。なぜか? そこに存在したのは、ラテン語学校というもので、ラテン語の文法などを教える学校だけだった。
 この時点では、文字言語というものが存在しないに等しかった。文字言語としては、ラテン語だけがあったが、ラテン語を覚えることだけがすべてであり、ラテン語で何かを考えるというようなことはなかった。何かを考えるとしたら、自国の言語で考えるしかないのだが、自国の言語には文字がないので、文字表現が不可能だった。
 要するに、中世の欧州では、文字言語が存在しなかったのである。これが決定的に文明を遅らせた原因だった」

 さらに説明すれば、こうなる。
 「ルネッサンス期になると、ラテン語学校の教育から、人文主義の教育へと移行して、学校は学問を教えるようになった。このときようやく、西洋文明が開化した。
 このころ、同時に、ルターが口語聖書を普及させた。それまでのラテン語の聖書から、自国語の聖書へ、聖書の言語を転化した。同時に、自国語の文字表記が始まった。これに少し先だって、グーテンベルクの活版印刷も始まった。」

 ──

 年代を示せば、下記のようになる。( Wikipedia による)

 1455年:グーテンベルク聖書(ラテン語)
 1524~1545年 :ルター聖書(口語)
 さらに、ラテン語学校については、下記の通り。
 ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した。オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス(1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた。こうして、ラテン語古典文学、歴史、修辞、弁証法、自然哲学、算数に、少々の中世ラテン語、古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。
( → ラテン語学校

 こうしてルネサンス以後のラテン語学校は、学問を教えるようになったが、そのとき、学問というものはもともと存在していなかったから、外部から翻訳するしかなかった。外部とは? 当時の先進国は、ギリシヤ文明を引き継いだアラビア社会だけだった。だから、アラビア社会から学問を翻訳の形で導入した。
 ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。
( → ルネサンス

 ──

 以上から、真相がわかるだろう。
 (1) イスラムの方が先進国だったのは、教会が学問を禁じていたからではないし、欧州が暗黒世界だったからでもない。(中世欧州が暗黒世界だったというのは、古い歴史認識であり、今日では否定されている。)
 (2) イスラムの方が先進国だったのは、イスラムの方に金があるとか何とかいう、特別な理由があったからではない。
 (3) イスラムの方が先進国だったのは、単に、欧州が自国の文字言語をもたなかったからにすぎない。(比喩的に言えば、日本が中国語[漢文]を使うしかなくて、万葉仮名による自国語の表現ができなかった、という状態。)
 (4) ルネッサンス期になって、欧州は自国の文字言語をもつようになった。このとき、学問を学校で教えることも可能になった。かくて、学問が開花した。これ以後、欧州は学問や科学が発達することが可能となった。
 (5) のみならず、欧州は「翻訳」の形で、アラビア社会の文明をすべて流入させることができた。かくて、「自国の文字言語 + アラビア文明からの翻訳」という形で、欧州は一挙に世界最先端に追いついた。(これは日本の文明開化に相当する。日本も明治期に活版印刷を導入して、急激に文明開化がなされた。)
 
 ──

 結局、大切なのは、文字言語なのである。これを獲得する以前は、欧州は未開社会だった。しかしこれを獲得した以後は、欧州は文明社会となったのだ。



 [ 付記 ]
 最初の質問に戻って答えるならば、こうなる。
 中世アラブが先進国だったのは、中世アラブに特別な理由があったからではなくて、中世欧州の方に「後進国である理由」があったのだ。それは、「自国語の文字言語をもたない」ということだった。文字を書くときには、自国語で書くことはできず、ラテン語で書くことしかできなかった。(日本で言えば漢文で書くしかないようなものだ。)……こういう状況では、科学や文明というものは生じにくい。
 比喩的に言えば、アラブが徒競走で1位になったのは、特別に足が速かったからではなくて、単にライバルが勝手にこけたからだ。それだけのことだ。
 


 【 関連サイト 】
 
 → 「銃・病原菌・鉄」への私見2(知的な書評ブログ)

 ※ ここでも「印刷術とアラビア文明」という話題で、いろいろと述べてある。
   参考になるので、読むといいだろう。本項と深く関連する。
 

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30秒で分かるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違い

これ、すごくうまい説明だと思う。
特に「三位一体説」の無茶苦茶さがよく分かる。(笑)


(以下引用)


85:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/10/24(金) 01:30:19.95 ID:LfJsVWff0.net


モーセ
「超厳しい神は正しいユダヤ人だけ救われるゆうてたで。正しいユダヤ人とは
ユダヤの血を引いている=他民族はダメ
&儀式をちゃんと実践している=戒律の行事を守れない貧乏人はダメ

ユダヤ教徒「モーセは神の声が聴ける奴やで。キリストは神の声が聴けるとか言ってるキチガイやで」

キリスト「神って案外優しかったで。俺が新しいルール聞いてきたで
ユダヤ人以外も可。儀式しなくても神様信じていいことしてれば救われるんやで

キリスト教徒「キリストは神の子だし神の使いだし神そのものやで」


ムハンマド「神様はやっぱり厳しかったで。悪いことしたらめっちゃ怒るで。
でも神様信じていいことしてれば何人でも救ってくれるで」
イスラム教徒「モーゼもキリストもムハンマドも神の声が聴ける人間やで」

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愛とは何か

晩酌をしながら読書をし、その本の中で得たヒントを基にしての思索だから、酔っ払いのたわごとであることは最初にお断りしておく。

大野晋の自伝的随筆「日本語と私」の中に、北条民雄の「いのちの初夜」の一節があり、そこにらい病患者のうめきが書かれている。「同情はいらない、愛情がほしい」と。
さて、らい病患者が愛情を求めることは妥当だろうか、というひどい質問が、私からの問題提起である。らい病患者には限らない。はたして、人は他人に愛情を要求できるのだろうか。そもそも、愛情と同情の違いは何か。
数刻前に、ディケンズの「大いなる遺産」の前編を読み終えたところなので、その中の一節を引用しておく。

「ほんとの愛とはどんなものか、おまえにいってあげよう」と、彼女はおなじ早口の熱情的なささやき声でいった。「それは盲目的な献身です。疑うことを知らない自己卑下です。絶対的な従順です。信頼と信仰です。おまえ自身にそむき、全世界にそむいて、おまえの全身、全霊を、おまえを打つものにゆだねてしまうことですーーちょうど、わたしがそうしたように!」

で、私は、結婚式の直前に婚約者に裏切られ、それ以降の時計をすべて止めた、このミス・ハビシャムとまったく同意見なのである。そうでない愛など、ただの計算にすぎない。
とすれば、他人に愛を求めることが本来的に不可能であることは論理的必然だろう。

「愛のおのずから起こるまでは、呼び、かつ覚ますことなかれ」

という旧約聖書の「雅歌」の言葉は、永遠の格率(従うべき規範)なのである。
愛とは、呪いであり、理不尽な運命なのである。

ちなみに、「同情」と「愛情」の違いを言えば、「同情」とは、自分がその立場にいない者からの「優越心」を背景とした慈善的感情である。つまり、「同情する私は上」「同情されるあなたは下」という上下関係が絶対的前提としてあるから、世間の大多数の人間はあれほど同情されることを嫌うのである。それも、結局は「自分を価値ある存在と看做したい」というくだらない自尊心や自己愛の将来するところでしかないのだが、そういうちゃちな「プライド」は案外、多くの人の共感を呼ぶようだ。つまり、それほどに人間の自己愛というものは度し難い、ということである。













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ノビタイズム

某サイトから転載。
76の「のび太思想」は、私が競争社会を否定する論理と同じである。
もちろん、競争の結果、社会や文明が発展するが、その発展して得られた「便利さ」や娯楽というものにどれほどの価値があるのか、私には疑わしい。テレビが無ければ、空を見上げ、青空や雲や星空の美しさを楽しめばいいし、音楽がなければ虫の声や小川のせせらぎ、風の音を楽しめばいい。小説が無ければ、自分自身の空想を楽しめばいい。文明や文化の産物など、一種の麻薬でしかないとすら思う。
そして、競争のもたらす害悪ときたら、人生の苦悩のほぼ半分以上を占めているだろう。


(以下引用)




70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:32:09.37 ID:5SOvcUUR0

のび太名言集

少しは、いたずらに使ってもいいじゃないか。
ゆめのない世の中だなあ・・・。
平らな山ならいいんだけど・・・。
からだを切りはなすのこぎりとか、またつなぐセロテープとか。
ロボットのヒステリーはみぐるしいものだなあ。
ダンゴみたいな手でよくダイヤルできるね。
あきらめのいいところがぼくの長所なんだ。
もう少しうまくなってから練習したほうが・・。
地球に引力があるから悪いんだ。
同じことなら、やらずにねる。
今もってる自転車はきらいだ!乗れないから。
こんなにこまってみせてるのに。
心あたりは、いつでも無数にあるよ。
あしたのぼくにやらせよう。
いや、やれるはんいでがんばるぞ!
ぼくがジャイアンくらいに強くて、ジャイアンがぼくくらいに弱かったらやるんだけど。





76 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:35:26.81 ID:zJ5zdf/40

>>70
ぼくには、自分さえ成績があがればという考え方がどうしてもできないんです。
かりに…頭のいい子ばかりのクラスがあったとして……。
そのクラス全員が必死に勉強したとしてもテストをすれば…、かならず順番がついてだれかがビリになる!!だから…だからぼくがぎせいになって0点を…。
世の中にこんなバカが一人ぐらいいてもいいんじゃないでしょうか。





85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:39:57.03 ID:Ao9RIBNT0

>>70
涙出た




73 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/07/30(木) 17:34:05.28 ID:U/DDiYtHO

ドラえもん「人は外見ばかりじゃない、中身が大切だ。もっとも君は中身も悪いけど……」

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気が飢える、ということ。

体制側にいること、権力擁護側にいることは、ほとんどあらゆる面で利益が得られるが、逆に体制批判者でいることはあらゆる面で不利益になる。
では、なぜ体制批判者でいることを選ぶ人間がいるのか。それは、権力による悪がのさばるのが許せず、権力の飼い犬である生き方を汚らわしく思うからである。
どんな利益が得られようが、自分自身が汚物になるような生き方を選ぶことはできない、という人間もいる、ということだ。それは経済合理性から言えば「賢くない」生き方だろう。しかし、人生は経済だけで満たされているわけではない。何よりも大事なのは、「気持ちのいい」生き方をすることだ。
勝海舟の「氷川清話」の中に、「気が飢える」(「飢」の漢字は別字だが、「飢」と同じ意味だろう)という言葉があるが、自らに恥じる生き方をしていると「気が飢える」のである。体と同様に、気も飢えるのだ。この「気」を「正気(せいき)」と言う。
御用学者や御用マスコミ人として生きれば、経済的報酬は大きいだろう。そのほかにいろいろ社会的な便宜も得られ、高い地位も得られるだろう。だが、あなたたちは、自分の気が飢えているとは感じないだろうか。




(以下引用)


fromdusktildawn @fromdusktildawn  ·  18 時間

私の場合、日常の仕事でも生活でも慰安婦のことが話題になることは皆無なんだけど、テレビでも新聞でもネットでも慰安婦の話題をよく目にするのはなぜなんだぜ。この落差はなんなんだ?

 

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「愛敵」という思想の困難さ

「シンジの”ほにゃらら”讃歌」から抜粋転載。
「HUNTER×HUNTER」という漫画(およびアニメ)における、メルエムというキメラアント(蟻と、人間その他の生物のキメラ)の総帥(王)の死について書かれた文章の一部であるが、その文脈は度外視して、この部分にはユダヤ教とキリスト教の最大の相違が明確に書かれているかと思う。トルストイも言っているが、「愛敵」という思想はキリスト教の深奥であり、それが可能になれば、地上のあらゆる争闘は絶滅することになる。
実際には、キリスト教徒を自称する連中も、この「愛敵」の思想を持つ者はほとんどいないのはご存知の通りだ。そして、ユダヤ教となれば、「ユダヤ教徒以外は皆敵であり、家畜同然だ」という思想が根幹にあることはよく知られている。それを疑う者は旧約聖書を読めばよい。べつに門外不出のタルムードなど探すにも及ばない。ユダヤ教が旧約聖書をその思想の根幹に置く限り、彼らは世界の敵とならざるを得ない。(ガザにおける虐殺は、相手がイスラム教徒でなく、キリスト教徒であったとしても成立可能なのである。そのことを世界は知らねばならない。)
さて、メルエムは人間の悪辣な策謀により死に至るのだが、最後に彼はすべてを許し、コムギという名の人間の少女の手に抱かれて死んでいく。その死の姿は実に神々しく、「シンジ」氏が、メルエムはイエスである、と述べたのも頷ける。(私はアニメでしか知らないのだが。)
はたして人類は、このメルエムのように敵を許し、敵の一族を愛することができるだろうか。


(以下引用)




スピノザはキリスト教において重要なことは二つしかないという。それは神への愛と隣人愛である。そして神への愛を証明するのは隣人愛しかないという(神学政治論)。では隣人愛とはなんだろうか。隣近所の人を、知人や友人、家族を愛せということだろうか。辻学「隣人愛のはじまり」はそういう考えを根底からひっくり返す。 ー イエスは隣人愛に批判的だったというのだ。

それを如実に示すのがルカによる福音書の有名な良きサマリア人の話だ。

ある日ユダヤ教の律法学者がイエスを試そうと論争を挑む。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいでしょうか」。イエスは冷ややかに「律法には何とかかれていますか」と質問をかえす。律法学者は「神を愛し、隣人を愛すことです」と答える。もともと隣人愛の教えはユダヤ教から来ている。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいーレビ記19・18

イエスはいかにもめんどくさそうに「ああ、あなたの言ったことはあってるよ」と律法学者を追い払おうとするが、律法学者は食い下がり「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くとついにイエスはブチ切れるのだ!

道ばたに強盗に襲われ半死半生の人が倒れている。そこをユダヤ教の祭司が通りかかったが、無視して行ってしまった。もう一人ユダヤ人がそばを通りかかったが彼も無視して通り過ぎた。だが、通りすがりのサマリア人だけは倒れた人を介抱してやり、宿屋に泊めその代金まで支払った。この三人の中でいったい誰が倒れた人の隣人か?と問うイエス。律法学者はしぶしぶ「その人を助けた人です」と答える。

なぜイエスはサマリア人という具体的な民族をあげたのか。当時サマリア人はユダヤ人に蔑視され差別の対象となっていた人たちだからだ。

ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」

ユダヤ教徒は隣人愛を説きながら現実にはサマリア人を、収税人を、娼婦を徹底的に差別していた。イエスにとってユダヤ教の隣人愛とは、愛の範囲を限定する許し難い考えでしかなかったのだ。そこでイエスは隣人愛を批判し、隣人愛の範囲性を打ち砕く究極の思想を説く。それが「汝の敵を愛せ」という思想ー「愛敵」である。

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。ーマタイ5・43ー44

愛敵はまさに隣人愛の範囲性を木っ端微塵に打ち砕く。イエスにとって愛する対象を限定することは馬鹿げたことでしかない。自分の友人や家族を愛することは悪人でもできることではないか。愛の範囲性を無化する愛敵という破壊的な思想。しかし愛敵とは果たして可能なのだろうか。マーティン・ルーサー・キングは愛敵を「おそらくイエスの訓戒の中で「汝の敵を愛せよ」という命令に従うこと以上にむずかしいことはないであろう」という。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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