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気の赴くままにつれづれと。
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複数の人間が関与している社会で、「自由にふるまう」ことと「権力をふるう」ことの間に、明らかな違いを見出すのはとてもむずかしいと思う。
自由に生きたことの報いとして不自由を強いられることもあるし、自由を確保するために不自由に耐える局面があったりもする。つまるところ、「自由とは別の言葉で言えば権力のことだ」というマルクスの言葉を超える定義は見つかりそうにありませぬ。
イスラム科学の社会で、アラビア科学が発達した理由はなんですか?
( → 知恵袋 )
当時のキリスト教社会の場合、「神がきめたことを人が疑ってはいけない」という考え方がありました。キリスト教の経典で書かれていることを疑ったり、それと違うことを話すことは「異端」とみなされていて、そのために命を落とすことが多くありました。
科学とは「客観的根拠のある知識を探求する」ことですが、カトリック教会の権威は支配している社会では真理を探究する行動はしにくいです。今の近代科学の発展につながる「考え方のしくみ」ができるようになるためにはルネッサンスと宗教改革、つまり16世紀、17世紀まで待たないといけませんでした。 )
antonian 歴史 当時のイスラム圏は先進国で財力があったからじゃないかね。中世はイスラム圏が今の先進諸国で、欧州はローマ帝国崩壊後の群雄割拠で内戦に明け暮れてる第三世界。
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kitayama ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは暗黒世界で、一方イスラムは安定しており、余裕があったので、科学等が発展した。ヨーロッパは十字軍でイスラム世界から情報を仕入れ、ルネッサンスになったという理解なのだが。
( → はてなブックマーク )
ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した。オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス(1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた。こうして、ラテン語古典文学、歴史、修辞、弁証法、自然哲学、算数に、少々の中世ラテン語、古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。
( → ラテン語学校 )
ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。
( → ルネサンス )
晩酌をしながら読書をし、その本の中で得たヒントを基にしての思索だから、酔っ払いのたわごとであることは最初にお断りしておく。
大野晋の自伝的随筆「日本語と私」の中に、北条民雄の「いのちの初夜」の一節があり、そこにらい病患者のうめきが書かれている。「同情はいらない、愛情がほしい」と。
さて、らい病患者が愛情を求めることは妥当だろうか、というひどい質問が、私からの問題提起である。らい病患者には限らない。はたして、人は他人に愛情を要求できるのだろうか。そもそも、愛情と同情の違いは何か。
数刻前に、ディケンズの「大いなる遺産」の前編を読み終えたところなので、その中の一節を引用しておく。
「ほんとの愛とはどんなものか、おまえにいってあげよう」と、彼女はおなじ早口の熱情的なささやき声でいった。「それは盲目的な献身です。疑うことを知らない自己卑下です。絶対的な従順です。信頼と信仰です。おまえ自身にそむき、全世界にそむいて、おまえの全身、全霊を、おまえを打つものにゆだねてしまうことですーーちょうど、わたしがそうしたように!」
で、私は、結婚式の直前に婚約者に裏切られ、それ以降の時計をすべて止めた、このミス・ハビシャムとまったく同意見なのである。そうでない愛など、ただの計算にすぎない。
とすれば、他人に愛を求めることが本来的に不可能であることは論理的必然だろう。
「愛のおのずから起こるまでは、呼び、かつ覚ますことなかれ」
という旧約聖書の「雅歌」の言葉は、永遠の格率(従うべき規範)なのである。
愛とは、呪いであり、理不尽な運命なのである。
ちなみに、「同情」と「愛情」の違いを言えば、「同情」とは、自分がその立場にいない者からの「優越心」を背景とした慈善的感情である。つまり、「同情する私は上」「同情されるあなたは下」という上下関係が絶対的前提としてあるから、世間の大多数の人間はあれほど同情されることを嫌うのである。それも、結局は「自分を価値ある存在と看做したい」というくだらない自尊心や自己愛の将来するところでしかないのだが、そういうちゃちな「プライド」は案外、多くの人の共感を呼ぶようだ。つまり、それほどに人間の自己愛というものは度し難い、ということである。
のび太名言集
少しは、いたずらに使ってもいいじゃないか。
ゆめのない世の中だなあ・・・。
平らな山ならいいんだけど・・・。
からだを切りはなすのこぎりとか、またつなぐセロテープとか。
ロボットのヒステリーはみぐるしいものだなあ。
ダンゴみたいな手でよくダイヤルできるね。
あきらめのいいところがぼくの長所なんだ。
もう少しうまくなってから練習したほうが・・。
地球に引力があるから悪いんだ。
同じことなら、やらずにねる。
今もってる自転車はきらいだ!乗れないから。
こんなにこまってみせてるのに。
心あたりは、いつでも無数にあるよ。
あしたのぼくにやらせよう。
いや、やれるはんいでがんばるぞ!
ぼくがジャイアンくらいに強くて、ジャイアンがぼくくらいに弱かったらやるんだけど。
>>70
ぼくには、自分さえ成績があがればという考え方がどうしてもできないんです。
かりに…頭のいい子ばかりのクラスがあったとして……。
そのクラス全員が必死に勉強したとしてもテストをすれば…、かならず順番がついてだれかがビリになる!!だから…だからぼくがぎせいになって0点を…。
世の中にこんなバカが一人ぐらいいてもいいんじゃないでしょうか。
>>70
涙出た
ドラえもん「人は外見ばかりじゃない、中身が大切だ。もっとも君は中身も悪いけど……」
私の場合、日常の仕事でも生活でも慰安婦のことが話題になることは皆無なんだけど、テレビでも新聞でもネットでも慰安婦の話題をよく目にするのはなぜなんだぜ。この落差はなんなんだ?
元歴史学研究者の人と話してたら、歴史学研究は予算が出なくて苦労するんだけど、近隣諸国との歴史認識で国益になる歴史学研究には予算が出やすいんだとか。政治家はアカデミック予算を操作することで、歴史認識を操作しようとしてるんだなぁ。
ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」
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