「in deep」の最新記事に引用されていた立花隆の文章だが、ここに、或る危険な思想の萌芽が在るような気がするので、とりあえず転載しておく。
第一の問題は、悪を欠陥状態と見ること。
第二の問題は、悪を無秩序状態と見ること。
第三の問題は、悪の撲滅のために全人類が総力を挙げて協働していかねばならないと結論していること。
である。これらは一見、まったく正当な考えに見える。そこにも問題はある(つまり、一見合理的な思想は、反論が困難であるために、世界にはびこり、結果的に別の悪を招来する、という問題。)が、それは措いておく。
また、人類によって宇宙レベルで自然を統御していくことを絶対的な正義だとする西洋的思考の問題点も措いておく。
また、立花隆という人物の過去の政治的問題(アメリカの手羽先となって田中角栄を引きずり下ろしたという出来事。この事件は、日本の属国状態を決定的にし、その後の自民党の在り方を悪い方向に変質させたかと思われる。)も措いておく。
で、上記三点についてなぜそれが問題なのか簡単に言う。
第一、悪は欠陥状態である、とするならば、それは容易に、欠陥状態を持つ存在を悪だと見做すことに転化しうるだろう。すなわち、ナチスの優生思想である。病気や障害は悪である、とするのは自然な人情だろう。だが、それは、その改善には病気や障害を持つ人間を消し去り、残る「優れた人間」だけで「素晴らしい新世界」を作ればいい、という思想になる可能性を持つのではないか。貧困は悪である、とするのも自然な人情だ。だがそれも、貧困者を救うのではなく、貧困者(劣悪な存在)を自然淘汰すればいい、という思想になる可能性があるのではないか。ネットに見られる、生活保護をやめろ、という意見は、貧困者(それは病人や障碍者であることも多い。)は死ね、と言っているのではないか。
第二、悪は無秩序状態である、とするならば、それは秩序のある状態を絶対正義化することにならないか。つまり、変革や革命という「無秩序状態」を敵視し、現在の秩序、すなわち既得権益者の天国を守ることを最優先する思想(現実に即して言えば、既得権益層の利益に合致する変革のみを「正しい変革」とし、他は弾圧する。)につながりはしないか。
第三の問題がなぜ問題なのかは、以上の二点への疑念から明らかだろうから詳説しない。
まとめよう。「何が悪なのか」は、容易に、権力によって指定されるものであり、それが悪と見做す「欠陥」や「無秩序」は、実は人類の可能性を秘めた泉なのかもしれないのである。
さらに言うならば、人類による自然のコントロールは、壊滅的な暴発事故の可能性を常に持っているということを多くの原発事故が示している。
以上。
(追記)上では、立花隆がフョードロフの説に賛同して引用したのだ、という解釈をして書いたのだが、必ずしもそうとは限らないのでそのことを付言しておく。実際、立花隆自身が末尾に書いている次の言葉には私も賛同する。もっとも、「世界の正しい観照」が可能かどうかということにも問題はあるのだが。(すなわち、「絶対的な正しさ」というものこそ胡散臭いものであるのだから、あらゆる過激な行動や西洋的絶対主義思想は避け、この世界の当面の悪を漸進的に改善していく東洋的な中庸の道が賢明な道だろう。)
「ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。」
(以下引用)
立花隆 - 人間の現在より
フョードロフの共同事業とは何なのかというと、全人類が力を合わせて、より高次の存在に能動進化、つまり、意識的にコントロールされた進化をとげていくことなんです。
そして、地球レベルはもちろん宇宙レベルで自然を統御していくことなんです。
そういうことを可能にするためには、人類の知を統合しなければならないといいます。すべてを知の対象として、すべての人が研究者になり、すべての人が認識者にならなければならないといいます。
そのためには人間の最大の敵である死を克服しなければならないといいます。また悪を滅ぼさなければならないといいます。
悪というのは、結局のところエントロピーの増大が生む崩壊現象、秩序が失われた状態、世界の欠陥状態、「落下」、未完成状態だから、それに対抗するためには、全世界を合理的自覚を持って反エントロピーの方向に動かしていくことが必要で、そのために全人類が総力をあげることが、人類の共同事業だというわけです。
ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。
第一の問題は、悪を欠陥状態と見ること。
第二の問題は、悪を無秩序状態と見ること。
第三の問題は、悪の撲滅のために全人類が総力を挙げて協働していかねばならないと結論していること。
である。これらは一見、まったく正当な考えに見える。そこにも問題はある(つまり、一見合理的な思想は、反論が困難であるために、世界にはびこり、結果的に別の悪を招来する、という問題。)が、それは措いておく。
また、人類によって宇宙レベルで自然を統御していくことを絶対的な正義だとする西洋的思考の問題点も措いておく。
また、立花隆という人物の過去の政治的問題(アメリカの手羽先となって田中角栄を引きずり下ろしたという出来事。この事件は、日本の属国状態を決定的にし、その後の自民党の在り方を悪い方向に変質させたかと思われる。)も措いておく。
で、上記三点についてなぜそれが問題なのか簡単に言う。
第一、悪は欠陥状態である、とするならば、それは容易に、欠陥状態を持つ存在を悪だと見做すことに転化しうるだろう。すなわち、ナチスの優生思想である。病気や障害は悪である、とするのは自然な人情だろう。だが、それは、その改善には病気や障害を持つ人間を消し去り、残る「優れた人間」だけで「素晴らしい新世界」を作ればいい、という思想になる可能性を持つのではないか。貧困は悪である、とするのも自然な人情だ。だがそれも、貧困者を救うのではなく、貧困者(劣悪な存在)を自然淘汰すればいい、という思想になる可能性があるのではないか。ネットに見られる、生活保護をやめろ、という意見は、貧困者(それは病人や障碍者であることも多い。)は死ね、と言っているのではないか。
第二、悪は無秩序状態である、とするならば、それは秩序のある状態を絶対正義化することにならないか。つまり、変革や革命という「無秩序状態」を敵視し、現在の秩序、すなわち既得権益者の天国を守ることを最優先する思想(現実に即して言えば、既得権益層の利益に合致する変革のみを「正しい変革」とし、他は弾圧する。)につながりはしないか。
第三の問題がなぜ問題なのかは、以上の二点への疑念から明らかだろうから詳説しない。
まとめよう。「何が悪なのか」は、容易に、権力によって指定されるものであり、それが悪と見做す「欠陥」や「無秩序」は、実は人類の可能性を秘めた泉なのかもしれないのである。
さらに言うならば、人類による自然のコントロールは、壊滅的な暴発事故の可能性を常に持っているということを多くの原発事故が示している。
以上。
(追記)上では、立花隆がフョードロフの説に賛同して引用したのだ、という解釈をして書いたのだが、必ずしもそうとは限らないのでそのことを付言しておく。実際、立花隆自身が末尾に書いている次の言葉には私も賛同する。もっとも、「世界の正しい観照」が可能かどうかということにも問題はあるのだが。(すなわち、「絶対的な正しさ」というものこそ胡散臭いものであるのだから、あらゆる過激な行動や西洋的絶対主義思想は避け、この世界の当面の悪を漸進的に改善していく東洋的な中庸の道が賢明な道だろう。)
「ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。」
(以下引用)
立花隆 - 人間の現在より
フョードロフの共同事業とは何なのかというと、全人類が力を合わせて、より高次の存在に能動進化、つまり、意識的にコントロールされた進化をとげていくことなんです。
そして、地球レベルはもちろん宇宙レベルで自然を統御していくことなんです。
そういうことを可能にするためには、人類の知を統合しなければならないといいます。すべてを知の対象として、すべての人が研究者になり、すべての人が認識者にならなければならないといいます。
そのためには人間の最大の敵である死を克服しなければならないといいます。また悪を滅ぼさなければならないといいます。
悪というのは、結局のところエントロピーの増大が生む崩壊現象、秩序が失われた状態、世界の欠陥状態、「落下」、未完成状態だから、それに対抗するためには、全世界を合理的自覚を持って反エントロピーの方向に動かしていくことが必要で、そのために全人類が総力をあげることが、人類の共同事業だというわけです。
ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。
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