「反戦な家づくり」から転載。
下の記事にある高校生の言葉は、おそらく世間大多数の考えと同じかと思う。つまり、それだけ強力に人々の心を支配している固定観念だ、ということだ。
前回の「進撃の巨人」も同じことで(この高校生も案外あの漫画やアニメのファンなのではないか?)、「こちらが理性的にふるまっても、理性的対応の通じない相手にどう対処すればいいのだ。戦うしかないだろう」という考えである。つまり、相手は「ニヤニヤ笑いながら『人類』を食う、何を考えているかも分からない凶悪な巨人」、こちらは理性的な『人類』だが、こちらが平和主義で、戦いを放棄すれば食われるだけ、という思想だ。これは右翼や軍国主義者だけの考えではなく、一般大衆にも共有されている観念だろう。もっと言えば、人類が、戦争すなわち『人類』同士の殺し合いの長い歴史を通じてほとんど本能に近くなるまで心に植え込まれた固定観念である。だからこそ、強い説得性(というより俗情に訴えるもの)がある。
確かに、この高校生の言うように、「この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいる」。その類推で、だから国と国も同じだ、と考えるのは自然だろう。特に、お隣の中国や韓国には「こちらがひどいことをしてきた」のだから、その仕返しに「こちらがひどいことをされるにちがいない」と考えるのも自然と言えば自然だろう。だが、それが正しいかと言えば、そうとも言えない。
第一、国と個人は同一視はできない。比喩は比喩でしかないのである。ヤクザやキチガイのような国、道理の通らない国が存在するのは確かだが、それはお隣の中国よりも日本の宗主国の米国の方だろう。中国は、現代世界ではほぼ理性的行動をしてきている。(国境問題での小さな紛争はあるが、アメリカのような侵略戦争や敵国家転覆工作はしていない。)韓国も然りである。韓国の「日本非難」にうんざりさせられるのは毎度のことだが、それは言葉の上だけのことだ。日本が実質的に被害を受けたことはほとんど無い。つまり、「国も人の集合なので世界には一定数のそのような国があるということです」の、「そのような国」は、日本にとっては中国や韓国よりも、TPPなどを日本に押しつけ、日本国内に基地を置き、日本の政治の決定権すら持っている米国に該当する、ということだ。
だが、それにしても、日本が軍備を拡充し、「戦争のできる国」になった時の予想される惨禍よりはまだマシな状況だろう。日本が「米国の戦争」に参加した場合、「敵国」から狙われるのは、強国アメリカではなく、その弱い属国、日本の方に決まっている。その際、米国はいつでも日本を切り捨てることができるのだ。そのための「戦争法案」に決まっているではないか。何も、日本を守るために米国は日本を「戦争のできる国」にしたいわけではない。
第二に、「武装をすれば安全だ」という考えがほとんど妄想だ、ということをこの高校生は分かっていない。武装をすればむしろ武力闘争を引き起こす蓋然性が増す、というのは、世界一の武装大国アメリカが実証していることだ。軍隊は自らの存在価値を証明するためには定期的に戦争をする必要があるし、軍需産業も戦争を必要とするのである。銃大国アメリカは、その膨大な数の銃のゆえに、キチガイじみた数の銃犯罪を抱えているのと同様の話である。武器は平和をもたらす、というのは、武器が拡散していない状態(つまり、武器の独占による支配権の確立)でのみの話であり、世界中に武器が溢れている状態では、武装することはけっして安全を意味せず、むしろ突発的な「武力衝突」の蓋然性を高める、ということである。
では、どうすればいいか。それは「武器を捨てる」ことである。一国だけ武器を捨てることに抵抗感があるのは分かる。だが、丸腰で町を歩けば必ずヤクザや不良に襲われる、という恐怖そのものが幻想であり、ほとんどの市民は武器など持たずに町に出るものだ。それと同じだ、と言えば、比喩で現実を語る愚に私も陥っていると思われるだろうが、分かりやすく言えばそういうことである。そして、何よりも、自衛隊という「(憲法9条により)世界唯一の戦争のできない軍隊」しか持たなかった日本が世界の先進国でほとんどただ一つ、70年間の平和を享受できた、という事実が真実を語っているのである。
(以下引用)
下の記事にある高校生の言葉は、おそらく世間大多数の考えと同じかと思う。つまり、それだけ強力に人々の心を支配している固定観念だ、ということだ。
前回の「進撃の巨人」も同じことで(この高校生も案外あの漫画やアニメのファンなのではないか?)、「こちらが理性的にふるまっても、理性的対応の通じない相手にどう対処すればいいのだ。戦うしかないだろう」という考えである。つまり、相手は「ニヤニヤ笑いながら『人類』を食う、何を考えているかも分からない凶悪な巨人」、こちらは理性的な『人類』だが、こちらが平和主義で、戦いを放棄すれば食われるだけ、という思想だ。これは右翼や軍国主義者だけの考えではなく、一般大衆にも共有されている観念だろう。もっと言えば、人類が、戦争すなわち『人類』同士の殺し合いの長い歴史を通じてほとんど本能に近くなるまで心に植え込まれた固定観念である。だからこそ、強い説得性(というより俗情に訴えるもの)がある。
確かに、この高校生の言うように、「この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいる」。その類推で、だから国と国も同じだ、と考えるのは自然だろう。特に、お隣の中国や韓国には「こちらがひどいことをしてきた」のだから、その仕返しに「こちらがひどいことをされるにちがいない」と考えるのも自然と言えば自然だろう。だが、それが正しいかと言えば、そうとも言えない。
第一、国と個人は同一視はできない。比喩は比喩でしかないのである。ヤクザやキチガイのような国、道理の通らない国が存在するのは確かだが、それはお隣の中国よりも日本の宗主国の米国の方だろう。中国は、現代世界ではほぼ理性的行動をしてきている。(国境問題での小さな紛争はあるが、アメリカのような侵略戦争や敵国家転覆工作はしていない。)韓国も然りである。韓国の「日本非難」にうんざりさせられるのは毎度のことだが、それは言葉の上だけのことだ。日本が実質的に被害を受けたことはほとんど無い。つまり、「国も人の集合なので世界には一定数のそのような国があるということです」の、「そのような国」は、日本にとっては中国や韓国よりも、TPPなどを日本に押しつけ、日本国内に基地を置き、日本の政治の決定権すら持っている米国に該当する、ということだ。
だが、それにしても、日本が軍備を拡充し、「戦争のできる国」になった時の予想される惨禍よりはまだマシな状況だろう。日本が「米国の戦争」に参加した場合、「敵国」から狙われるのは、強国アメリカではなく、その弱い属国、日本の方に決まっている。その際、米国はいつでも日本を切り捨てることができるのだ。そのための「戦争法案」に決まっているではないか。何も、日本を守るために米国は日本を「戦争のできる国」にしたいわけではない。
第二に、「武装をすれば安全だ」という考えがほとんど妄想だ、ということをこの高校生は分かっていない。武装をすればむしろ武力闘争を引き起こす蓋然性が増す、というのは、世界一の武装大国アメリカが実証していることだ。軍隊は自らの存在価値を証明するためには定期的に戦争をする必要があるし、軍需産業も戦争を必要とするのである。銃大国アメリカは、その膨大な数の銃のゆえに、キチガイじみた数の銃犯罪を抱えているのと同様の話である。武器は平和をもたらす、というのは、武器が拡散していない状態(つまり、武器の独占による支配権の確立)でのみの話であり、世界中に武器が溢れている状態では、武装することはけっして安全を意味せず、むしろ突発的な「武力衝突」の蓋然性を高める、ということである。
では、どうすればいいか。それは「武器を捨てる」ことである。一国だけ武器を捨てることに抵抗感があるのは分かる。だが、丸腰で町を歩けば必ずヤクザや不良に襲われる、という恐怖そのものが幻想であり、ほとんどの市民は武器など持たずに町に出るものだ。それと同じだ、と言えば、比喩で現実を語る愚に私も陥っていると思われるだろうが、分かりやすく言えばそういうことである。そして、何よりも、自衛隊という「(憲法9条により)世界唯一の戦争のできない軍隊」しか持たなかった日本が世界の先進国でほとんどただ一つ、70年間の平和を享受できた、という事実が真実を語っているのである。
(以下引用)
自衛隊は武器を捨てて『国境なき救助隊』に その2
「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」という記事を書いてから、もう4年が経った。
この考えはいまでも変わっていない。
なぜだか今頃になってこの記事にコメントが来たので、ちょっと関連して書いてみたくなった。
コメントは以下の通り
あくまで一意見ですが....
世界中で慈善事業をするということは素晴らしいのですがそのための非武装化はどうかと思います。この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいます。僕はまだ高校生ですが、すでに3人のそのような人に傷つけられました。国も人の集合なので世界には一定数そのような国があるということです。いざという時の備えをしないでそんなやり方に期待するのは我々国民の安全に無責任で失礼ではないでしょうか。
2015-09-02 犬神
(引用以上)
犬神さんは、かなり記事を読みちがえているようだ。
このプランのキモは、「慈善事業ではない」ということ。したがって、やったことについて「お天道さんが見ている」なんてもっての外で、世界中にドヤ顔で宣伝しまくらなくてはならない、ということ。
そのことで、侵略されるリスクを極限まで低くする、ということだ。
もちろん、もとより今の日本が侵略されるリスクは高くないが、かといって、万策を尽くしてもゼロにもならない。
ゼロにならないことを「無責任」というのならば、とりあえず武装して「安全です」と言っている方がよほど無責任だ。
世界中を助けまくった挙げ句に侵略されるリスクと、とりあえず自衛隊が武装しても侵略されるリスク、どちらが危ないかなんてどうやって分かるのか??
国家間が非常にシビアになって、結果戦争になった場合、双方が武装していれば、一方的にどちらかが悪者にはならない。
世界規模で見れば、かならずどちらかの肩をもつ勢力が出てくる。
しかし、完全非武装で、年間何兆円もかけて、命がけで世界中の災害救助をしている国を侵略したら、その国を擁護する国があるだろうか?
どうやっても日本のリスクをゼロになんてできないが、現実的に、きわめてリアルな問題として限りなくゼロに近づける策として、私はあの「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」を書いたのだ。
同時にそれは、米国からの独立を目指す道でもある。
何のビジョンもなく、一方的に日米安保の破棄を宣言したら、間違いなく日本はアメリカに再占領される。
主要な政治家の粛正という方法かもしれないし、在日米軍が武器を持って永田町界隈を制圧するかもしれない。
方法は分からないが、米国の実力(ゲバルト)によって、日本は再占領される。
そうならずに日米安保=日本支配を脱するためには、決して米国に敵対しない、積極的な利敵行為はしないということを、納得させなければならない。
そのためにも、完全中立の緩衝地帯になることが、G2体制下においては米国にとっても利益があるということを説得しなければならない。
そのためにも、「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」することは、必要かつ有効な方法だと思うのだ。
戦争法案に反対するその目線の先に、そうしたことも考えなくてはならないと、最近とみに思う。
憲法破壊の戦争も、立憲主義の戦争も、どちらも私はしたくない。
この考えはいまでも変わっていない。
なぜだか今頃になってこの記事にコメントが来たので、ちょっと関連して書いてみたくなった。
コメントは以下の通り
あくまで一意見ですが....
世界中で慈善事業をするということは素晴らしいのですがそのための非武装化はどうかと思います。この世の中にはこちらがいくら歩み寄ってもひどいことをしてくる人がいます。僕はまだ高校生ですが、すでに3人のそのような人に傷つけられました。国も人の集合なので世界には一定数そのような国があるということです。いざという時の備えをしないでそんなやり方に期待するのは我々国民の安全に無責任で失礼ではないでしょうか。
2015-09-02 犬神
(引用以上)
犬神さんは、かなり記事を読みちがえているようだ。
このプランのキモは、「慈善事業ではない」ということ。したがって、やったことについて「お天道さんが見ている」なんてもっての外で、世界中にドヤ顔で宣伝しまくらなくてはならない、ということ。
そのことで、侵略されるリスクを極限まで低くする、ということだ。
もちろん、もとより今の日本が侵略されるリスクは高くないが、かといって、万策を尽くしてもゼロにもならない。
ゼロにならないことを「無責任」というのならば、とりあえず武装して「安全です」と言っている方がよほど無責任だ。
世界中を助けまくった挙げ句に侵略されるリスクと、とりあえず自衛隊が武装しても侵略されるリスク、どちらが危ないかなんてどうやって分かるのか??
国家間が非常にシビアになって、結果戦争になった場合、双方が武装していれば、一方的にどちらかが悪者にはならない。
世界規模で見れば、かならずどちらかの肩をもつ勢力が出てくる。
しかし、完全非武装で、年間何兆円もかけて、命がけで世界中の災害救助をしている国を侵略したら、その国を擁護する国があるだろうか?
どうやっても日本のリスクをゼロになんてできないが、現実的に、きわめてリアルな問題として限りなくゼロに近づける策として、私はあの「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」を書いたのだ。
同時にそれは、米国からの独立を目指す道でもある。
何のビジョンもなく、一方的に日米安保の破棄を宣言したら、間違いなく日本はアメリカに再占領される。
主要な政治家の粛正という方法かもしれないし、在日米軍が武器を持って永田町界隈を制圧するかもしれない。
方法は分からないが、米国の実力(ゲバルト)によって、日本は再占領される。
そうならずに日米安保=日本支配を脱するためには、決して米国に敵対しない、積極的な利敵行為はしないということを、納得させなければならない。
そのためにも、完全中立の緩衝地帯になることが、G2体制下においては米国にとっても利益があるということを説得しなければならない。
そのためにも、「自衛隊は、武器を捨てて『国境なき救助隊』に」することは、必要かつ有効な方法だと思うのだ。
戦争法案に反対するその目線の先に、そうしたことも考えなくてはならないと、最近とみに思う。
憲法破壊の戦争も、立憲主義の戦争も、どちらも私はしたくない。
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