『逝きし世の面影』(ブログではなく、本のほう)は、まだ読んだことがない。読まなくても、だいたいこんな本だろう、というのが想像がつくからだ。その著者の渡辺京二が何者なのかも分からない。文芸評論家なのか、社会評論家なのか。
で、下の文章中で紹介された渡辺氏の言説を読むと、相当に頭が混乱した人間のように思えるのだが、それでも断定的な口調で何かを語られると、ついそれに耳を傾けてしまい、「そうかもしれないなあ」という気持ちになるのが、頭の鈍い私のような人間の常だ。だから、そういう人物の著書は「読まないに限る」。
もちろん、読めば、中にはいいことも有益な知識もたくさん書いてあるだろうが、「独断的な人間」の怖いのは、洗脳能力の高さである。
その代表が小林秀雄で、彼の文章は、「一切の論証無しで、すべてを断定する」ような文章で、しかもその内容が面白いものだから、読んだ人を洗脳する力がすごい。私もだいぶ洗脳されたものだ。そうなると、それは私自身の精神の一部を形成しているのだから、今さら除去するつもりもない。(洗脳云々以前に、それまで考えもしなかったような「物の見方」を教えられた、という部分も大きい。)まあ、「欠点も長所も主観の問題だ」というのが私の主義だから、その「精神の偏り」を含めての自分なのだ、と考えている。ドストエフスキーなども私の精神を形成した(つまり洗脳した)重要な要素である。読む者が洗脳されるくらいの力が無い「軽い書物」を読むのはただの「気晴らし」であって、どうせ読むなら読者を洗脳するくらいの「凄い本」を読んだ方がいい、とも言える。若いころなら特にそうだろう。
というわけで、読書と洗脳(読書の影響力)という問題はここまでとするが、「日々平安録」管理人氏くらいの冷静な読解力(あるいは知性)があれば、読んだ本に洗脳されることも無いだろう、というのは少し羨ましい。若い頃はともかく、他者の愚劣な主張(あるいは非論理性)を見抜けないようでは社会人としての資格に欠けるだろうからである。
(以下引用)
2015-08-16
■[本棚の本][読書備忘録]渡辺京二対談集「近代をどう超えるか」(2)
弦書房 2003年
この対談集には、7人との対談を収めるが、榊原英資氏と中野三敏氏との対談は(1)でとりあげたし、また岩岡氏との対談「石牟礼文学をどう読むか」も一部論じたので、ここでは、大島仁氏との対談「9・11とグローバリズム」、森崎茂氏との対談「魂の飢えこそ思想の課題」の二つの対談を見ていくことにしたい。
9・11が2001年で、この対談は2002年に行われている。渡辺氏は、自分は「資本制によって前近代的共同体が世界的な規模で破壊される過程が「近代」である」としているが、グローバリズムの実体は政治にあるのではなく、経済の世界での話であり、それは資本主義の新しい段階ではあるが、国家が主導したものではないと考えるという。
9・11のようなイスラムのテロリズムは、抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想の流れの中にある急進的な社会革命の論理にもとづいているという点で、スターリン主義や毛沢東主義と同じものと考える、自分の基本は個々人の尊厳を重んじるのが一番大切であるとする啓蒙である。抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想は近代が生んだ驕りである、という。
キリスト教においては、近代化に直面したときにバチカンは中世的な神の理念を反省した。イスラム教ではそれができていない。世界を単純に善と悪に分け、自己を善とし、異教徒(悪)を改宗させなければならないとする。これはスターリニズムと同じ考え方である。
政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない。一番の問題はイスラム教が普遍主義であることで、イスラムに改宗すれば故郷を失わなければならなくなる。聖地がアラビア半島にあるのだから。それはイリイチのヴァナキュラーな(土地に根差した)ものを否定する。これも「労働者には祖国なし」とするマルクス主義と同じである。イスラム教はグローバリズムなのである。
米国こそが最大級のテロ国家であるというチョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人なのである。己一人を高しとして、他を批判するのは、聖人的な自己満足を与えるだけで、何ら問題を解決するものではない。チョムスキーは理性主義を奉じるウルトラ原理主義者である。
昭和初期の青年テロリストたちはすでに近代にさらされていたので、単純に農村共同体に帰りたいとしたわけではなかった。ただ資本主義の社会が共同体的なものや人間同士のきずなを破壊していくのを目のあたりにして、共同体的なものへの飢えを感じ、それを天皇に投影した。そこまではイスラム原理主義と似ている。しかし北一輝も2・26の青年将校も近代を肯定していた。彼らは白樺派なのである。大切なのは個人だった。三島由紀夫も2・26にこだわったが、彼には近代化に置いてけぼりを食らった民衆への共感がなかった。北一輝や2・26の将校たちを動かしたものは悪い感情であるとはいえないが、北がもつ日蓮の霊的世界の部分は自分は苦手である。
グローバリズム自体は資本主義の宿命である。問題はそれがもたらす世界の均質化である。伝統的な生活の根っこが押し流されようとしていることである。人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることである。アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている。グローバリズムがもたらす害を否定するには、生活民衆が自立するしかない。一人の人間がいて、家族、友人に囲まれた毎日の生活の中で、息が通うようないい世界をつくるのがまず第一となる。そこでは国家は関係ない。しかし同時にぼくらは国家の一員でもあるので、国家の行動に責任を負っていかなかればならない。(→自分たちの生活文化を守ろうとすれば、国民国家の立場をとらざるをえない。)
土地の霊性に代表されるような生命の流れが現代文明によって圧殺されていることへの反抗がイスラムの過激主義の根底にあることは認めなければならない。フランスの現代文学を読むと、男女の関係にしても何と孤独な世界かと思う。
自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい。
ここまでが大島氏との対談での渡辺氏の論のまとめで、以下が森崎氏との対談。
人の生はただそこにあるだけで価値そのものである。石牟礼氏とであって、それまでの自分の知識人的な個でない、ほんとうの生活民に目を開かされた。
自分が抱えている問題は魂の飢えということである。
古代や中世の思想の中には真善美の価値観が確固としてあって、人間はそれを目指せばいいという安心感があった。近代はそれをことごとく打ち壊した。それを極限まですすめたのがポストモダン思想である。しかし、人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない。とすればそれは生物進化の過程に裏づけられているはずである。古今変わらざる真善美を信じるというのは自分の決断であり、選択である。しかし選択の対象は恣意的なものではなく、(進化の過程に)根拠づけられているとしか言いようがないものである。人間は事実問題として倫理を抱え込んでいるのであるから、それは生物的進化の産物としか考えられない。これは自分の信念の問題ではない。信念であれば、恣意であり、相対であるに過ぎなくなる。信念ではなく、人間が進化の過程で形成してきた揺るがぬ普遍的な価値なのである。それへの自信の回復が今日の最も大事な課題である。われわれは進化の過程でそういう感覚をもつような生物として形成されたのだという事実をもとにそれを取り戻さねばならない。
9・11の事例がスターリン主義や毛沢東主義と同じというのがわからない。イスラムは宗教であるのだから、社会主義思想も一種の宗教であるとするのであれば別であるが、
「抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想」とするのだから、そうではない。宗教は抽象的な観念なのだろうか? 宗教には個人の救済と民族(集団、共同体)の救済の二つの側面があって、もしも宗教が「個々人の尊厳を重んじる」方向のみにのみ特化しているとすれば、それは宗教として衰弱した形であるとする見方もあるだろう。近代化に直面したときにバチカンが中世的な神の理念を反省したのだとすれば、それは共同体を統合する力の衰弱を自覚して、カイザルのものはカイザルに帰しただけのことであって、政教が分離せず一元化しているイスラム教のほうが本来の宗教としての生命を保っているのかもしれない。宗教というのは人間の理性の判断をこえるものであって、理性の産物であるマルクス主義と同じに根のうえにあるとするのは無理な議論の進め方であると感じる。「個人が一番大切であるとする啓蒙」の立場にたてば当然、宗教というものは否定せざるをえないわけで、それが「抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想」であるか否かは関係がないはずである。
政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない、というのも変な議論で、思想的に自由な模索などというのは宗教の立場からすれば、神をも恐れぬ人間の傲慢ということになるはずである。
イスラム教が普遍主義であることが一番の問題なのだろうか? 故郷を失ってもあまりある何かが得られるからこそ宗教に帰依するひとが出るのではないだろうか? マルクス主義だって同じで、普遍主義には普遍主義の魅力があるのである。
チョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人で、己一人を高しとして、他を批判しているというのはその通りであろうが、渡辺氏の論をみて、チョムスキーに似ていると思うひともいそうな気がする。
昭和初期の青年テロリストたちは(あるいは北一輝)は白樺派なのだろうか? 白樺派のような微温的なものでは何も変わらないと思ったからこその行動なのではないだろうか?
人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることであるとするならば、亡命するひとたちは人間たることの資格を欠くのだろうか? 「アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている」というのは、村上龍の「希望の国のエクソダス」でアフガニスタンのパシュトゥーン族の民族衣装を着たナマムギ少年がいう「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない。・・すべてがここにはある。生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある」というのを思い出させた。だが、ナマムギ少年は日本の土地と食べ物と言葉を捨てて、幸せなのだろうか? そこには、「家族、友人に囲まれた毎日の生活、息が通うようないい世界」があるのだろうか? ナマムギ少年は、国家の一員であることをやめ、国家の行動に責任を負うこともやめた。
渡辺氏は「生活民衆の自立」ということをいうのだが、それはとても観念的で理念的で生活の実感をともなわない言葉であるようにわたくしには思える。「理性」の産物であるように感じる。「土地の霊性に代表されるような生命の流れ」というのもまた同じである。そういうものを感じ取れるひとは(少数であるのかもしれないが)間違いなく存在する。しかし、そういう感性というのは同時に宗教的な何かともきわめて親和性が高く、理性の対極にあるものではないだろうか?
「自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい」というのは虫がよすぎないだろうか? これはあちらを立てるとこちらが立たないような二律背反に近い関係にあるのではないだろうか?
「知識人的な個でない、ほんとうの生活民」というのも随分と観念的な言葉に思える。渡辺氏が抱えているという「魂の飢え」を「ほうとうの生活民」はみな感じているのだろうか?
古代や中世の人間には安心感があったのだろうか? そもそもそこには「個人」がいなかったというだけはないだろうか? 近代が「個人」というものを持ち込むと、それは壊れざるをえなかったというだけなのではないだろうか?
「人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない」というのが一番わからない。この古今というのはいつからのことなのだろうか? というのがこれが「物進化の過程に裏づけられているはずである」としているからで、現在の進化の主流の見方では人間という生物を進化の過程から規定しているものは狩猟採集時代の生活であって、農耕以降の時代は進化の過程に組み込まれるには時間的に決定的に不足しているとされているからである。そうであるとすれば、「古今変わらざる真善美」というのが狩猟採集の時代に人間に組み込まれたことになるが。
人間は事実問題として倫理を抱え込んだのは文明以降ではないのだろうか? 倫理というのは文明の産物であって、進化の過程とは無関係なのではないだろうか? 人間というのはきわめて弱い動物であったはずで、集団で生きるしかなかった。その集団を保持統制する上で宗教とつながっていくような何かが人間のなかに生まれたということはありうると思う。しかし人類などという概念をその頃の人間が持っていたはずはないので、ある数の構成された自分の集団の外にいる人間は敵であったはずである。そこから真善美などというものが生まれるだろうか?
渡辺氏の「なぜいま人類史か」を読むと、進化ということで想定しているのはローレンツの論であるらしい。「ローレンツは、動物の行動の非常に大きいしかも重要な部分が生得的なものであることを明らかにしたのですが、さらに進んで、人間の儀式や伝統や習俗や倫理のもつ意味も、おそらくそれが生得的な行動様式によって基礎づけられているところにあるのではないかと考えました。そしてそこから彼は、伝統や倫理を合理主義的な批判によって解体する現代文明の動向に警告を発したのですが、そのためにこの偉大な生物学者は学問的な名声まで失墜する危険にさらされることになりました。・・ローレンツは文化には生物学的な基礎があると主張していることになります。これは重大な論点です。一般に、人間は文化を獲得することによって生物進化の法則から離脱したとされています。」 渡辺氏はネオ・ダアーウィニズムが嫌いらしく、「じつはローレンツの確立したエソロジーという学問はいまや、彼の弟子のティンベルヘンを経由してE・O・ウィルソンやドーキンスなどの社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形に到達している」などという。そして今西錦司などを「観念や知的なものの基礎に自然のいとなみをみいだそう」としたといって、ローレンツもそれに近いという。そして最後にはこんなことを言い出す。「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。その方向性はそのもっとも基礎には物理化学的法則性が存在するものであって、なにも神秘的な生気論は必要としない。意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」
日高敏隆氏はローレンツがノーベル賞を受賞する以前からローレンツをふくむエソロジーの日本への紹介につとめた人である。その日高氏は、ローレンツの受賞(1973年)の直後に書かれたローレンツを論じた文で「西欧人には共通したことかもしれないが、《人間》の優越性という感覚と、それに対応すべき道徳感覚がローレンツの頭からはどうしても消しきれないらしい。つまりぼくからみれば、ローレンツはエソロジーの考えから逸脱しているようにみえるのである」といっている。渡辺氏はローレンツを援用することによって、人間のもつ道徳感覚も生物学的基盤ももつ進化に基礎を持つものとして説明できるとしているわけで、したがって道徳感覚も超越的な何かを持ち出すことなく自然科学的なものとして提示できているとしているようである。しかし、ローレンツはデズモンド・モリスの「裸のサル」という表現を嫌い、人間は「累積的伝統をもったサル」と呼ぶべきであるとするひとである。日高氏によればモリスのほうがエソロジーの考えに忠実なのであるが、生物学の正統(つまりネオ・ダーウィニズム)にいるドーキンスなどを渡辺氏は嫌うのである。日高氏は突然変異の累積だけで新しい種が生まれるだろうかという疑問を提出してほとんどの生物学者はそれを内心ではうたがっているとしている。
このことでもわかるように日高氏は“種”の問題にこだわっており、ローレンツもこだわっている。ローレンツの仕事は今から50年も前のものでノーベル賞をとったけれども、その学問の基礎となったものは、渡辺氏が嫌いなネオ・ダーウィニズムのドーキンスらによって、今ではほぼ完全に否定されいるとしていいであろう。
長谷川真理子さんの「進化生物学への道」は簡潔な学問的自伝のようなものであるが、長谷川氏が大学にはいった翌年の1973年にローレンツらがノーベル賞を取ったことが書かれている。そのころに長谷川氏も「刷り込み」とかを知ったらしい。長谷川氏もいうように、動物行動学によって従来からの本能と学習の二分法が通用しなくなっていった。長谷川氏は博士課程の2年の時にチンパンジーの言語訓練で有名なプレマック夫妻の来日のアテンドをし、その時に自分が書いている論文を見てもらい、「この論文は、観察事実としてはたいへんおもしろいが、理論的には完全に間違っている」という指摘を受け衝撃を受ける。論文を「群淘汰」の観点から書いていたのだが、「遺伝子淘汰」の観点から書き直すようにいわれたのである。群淘汰はたとえば人間という種に淘汰の圧がかかるという考えだが、遺伝子淘汰は個体(正確にはその遺伝子)に淘汰の圧がかかるとする。そしてその時にドーキンスの「利己的な遺伝子」をはじめて知ったのだという。読んで目から鱗だった、と。「群淘汰」から「遺伝子淘汰」へのパラダイム変換は1970年代前半におきていたのだが、まだ情報の伝わるのが遅かった当時ではそれに気がついていなかった、と。
ローレンツの著作はすべて群淘汰の考えに基づいて書かれている。学問の根源的な基礎が間違っていたのである。もちろんローレンツが見出した事実は残る。しかしそれをどのように説明するかの方法論の基礎が崩れたのである。「社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形」などという問題ではないのである(たしかにウイルソンの「社会生物学」は戯画化といわれても仕方のない部分をたくさんふくんでいるが)。
とすれば、「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。・・意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」というようなことはとてもいえなくなる。渡辺氏の主張の根拠が消えてしまう。どうもこのあたり「神」のかわりに「進化」をもってきただけで、たまたま自説に合致する(ということもあるが、それだけではなく、単なる生物学者ではなく、文明の問題をも論じる人でもある)ローレンツの説をもってきただけという気がしてしまう。渡辺氏は自説は人間と人間以外の動物の連続性を主張するものと考えているようだが、日高敏隆氏もいっているように、ローレンツは人間は人間以外の動物とは切れている、飛躍があるとしているようにも思えるので、渡辺氏もまたそうではないかと見えてしまう。
「進化の方向性」とか「目的論的解釈を許す」というような言い方は限りなく「人間原理」それも「強い人間原理」の方向を示しているように思う。こういう考えはキリスト教の伝統のある西欧でしか生まれないものではないかと思えて、わたくしにはほとんどカトリックの代用品のように思えてしまう。
進化論について多くの人が感じる不安はそれが倫理や道徳といったものの根っこを掘り崩してしまうのではないかということだろうと思う。人間も動物であるとするならば倫理とか道徳とかを持った動物など他にはいないのだから、神といった超越的な存在を別に仮定しなければならなくなる。しかしそうする必要はなく《進化が倫理や道徳を保証すると》いう渡辺氏の論は特異である。その論によって、根拠のない倫理や道徳にこだわる多くの人文系の学者を斬り、他方、社会生物学といった《狭い生物学によって人間も説明できる》とする能天気な自然科学系の学者をも斬るというのが渡辺氏の行き方である。とすると周囲は敵だらけということになってしまう。
人は倫理的である(渡辺氏はそれを事実とする)、人は進化の産物である(渡辺氏はこれも事実とする)、よって倫理は進化の産物である(これは一個人としての渡辺氏の考えではなく、これまた事実である)、というのはかなり杜撰な三段論法のように思う。人は進化の産物であるというのは事実であるとわたくしは思う(しかしアメリカでは、そう思うひとは半分もいないらしい。日本では多くのキリスト教徒が進化論も受け入れているであろうと思う。万世一系の天皇と進化論が両立した国である)。しかし、人は時に倫理的であるが、いつも倫理的ではないと思う。ひとが倫理的でありうる基盤は進化がもたらしたものであるかもしれないが、その基盤がつねに倫理をもたらすとはいえないだろうと思う。「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろうか。いずれは出てきて、そうなれば、人間ばかりか人間がこれまで創ってきた美しいものをすべて破壊してしまうのだから。だが、しじゅう出ているわけではないのだ」とフォースターはいう。フォースターは間違いなく啓蒙の伝統のなかにいる人である。「神よ、私は信じません―どうか許したまえ」を自分のモットーとするとフォースターはいう。渡辺氏は信じる人である。正直、渡辺氏の論をみていくと氏がなぜ、カトリックに入信しないのかがよくわからない。パステルナークもソルジェニーツィンもイリイチもみなカトリックに通底しているひとだと思う(カトリックではなくロシア正教などかもしれないが)。
「国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたい」が、一方で、「人間の共同的なあり方は求めたい」というのはちょっと欲張り過ぎなのではないだろうか? 「私の世界文学案内」とか「細部にやどる夢 私と西洋文学」などという渡辺氏の著書を読むと、氏がいかに西洋の小説を愛するひとであるかということがよくわかる。そこに表れた西洋の「個人」をいかに愛しているひとであるかもわかる。しかし、そういう「個人」を求めてきた結果が「フランスの現代文学での男女の関係の孤独」ということになり、だからこそ「共同体」なのかと思うが、「個人」を求めたら「孤独」がくるのは当たり前なのではないだろうか? 吉田健一の「文学の楽しみ」の最終章は「孤独」と題されている。「我々は望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない」と吉田氏はいう。「文学に必要なのもこの孤独である。・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり・・ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少なくとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。」 渡辺氏が「人の生はただそこにあるだけで価値そのものです。それは何も人間の生命の尊厳などということじゃなくて、人間なんて犬猫以上にえらいものでもなんでもないけれども、それでもただ生きているだけで価値なんだと思います」というのと、吉田氏のここで言っていることはあまり違ったことではないと思う。われわれはただ生きるためにも文学を読んだりするのである。
渡辺氏は「個人」と「共同体」に分裂している。その分裂こそが渡辺氏の魅力でもあるのだろうが、E・S・エリオットがたどった道を氏もまたその後を追おうとしているように見えないこともない。「荒野ははるか南の熱帯地方にあるのではありません、荒野は街かどをまわったところにあるだけでなく、荒野はみなさんのまぢか、地下鉄のくるまのなかにひしめいています、荒野はみなさんの仲間の心のなかにあります。・・主といっしょに建てるのでなければ、私たちが建ててもむだです。主がみなさんの手をかりずに守っている都市を、みなさんは守ることができますか。交通整理をするたくさんのおまわりさんも みなさんがどうして生れ、どこへゆくかを教えることはできません、ひとむれのテンジクネズミや活発なモルモットの方が 主なしでつくる人間たちより、りっぱなものをつくります。」(「『岩』の合唱」から、詩の行分けをはずして引用)
The desert is not remote in southern tropics,
The desert is not only around the corner,
The desert is squeezed in the tube-train next to you,
The desert is in the heart of your brother.
・・
We build in vain unless the LORD build with us.
Can you keep the City that the LORD keeps not with you?
A thousand policemen directing the traffic
Cannot tell you why you come or where you go.
A colony of cavies or a horde of active marmots
Build better than they that build without the LORD.
西欧社会の若者たちからイスラム国へ向かうものがでてきているらしい。彼等は「魂の飢え」を感じていて、西欧の飼い慣らされた宗教には満足できず、宗教の原初の荒々しさを未だ失っていない(ように見える?)イスラムに惹かれるのかもしれない。世界を単純に善と悪に分ける見方も超越的なものに惹かれる心情もともに進化の基礎を持つのだろうと思う。「啓蒙」というものこそが進化の基礎を持たない、したがっていたって危うい基盤の上にかろうじて建っているものなのだろうと思う。「この芸術(小説)は、誰も真実の所有者ではなく、しかもだれもが理解される権利をもっている、あの魅惑的な想像的空間を創出することができました。この想像的空間は近代ヨーロッパとともに生まれました。それはヨーロッパのイメージであり、というか、すくなくともヨーロッパに抱く私たちの夢です。・・しかし、個人が尊敬される世界(小説の想像的世界と、ヨーロッパの現実の世界)がもろく、はかないものであることを私たちは知っています。・・個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、わたしには金庫ともいうべき小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられているように思われるからです。」(クンデラ「小説の精神」)
「悪魔の詩」を書いたことによりホメイニ氏に死刑の宗教布告を出され逃亡を強いられているラシュディが9・11の後、「日常性に戻ろう」という文を書いて、イスラム原理主義者たちが反対する「社会的多元性、世俗主義、ミニスカート、ダンス・パーティ、髭をそる自由、進化論、セックス」のすべてに自分は賛成すると述べ、ただの自由、日常生活でのささいでありふれた自由、安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和、これらすべてが大切なのだ」といっていることを、加藤典洋氏が「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」の中で紹介している。しかし西欧の少女たちのなかには、ミニスカートやダンス・パーティにはただただ虚しさを感じ、安逸でぬるま湯につかった生活にひたすら空虚だけを感じてイスラムにむかうものがいるのだろう。渡辺氏からすれば、西欧世界に生きて「魂の飢え」を感じるのは、いたって当然のことなのであるが、その解決策はイスラムというグローバリズムに赴くことではなく、それぞれの地域で根をもった生活をとりもどしていくことにある。渡辺氏には何が正しいかわかっている。しかし、それは「誰も真実の所有者ではな」いという啓蒙の根本に反する。だから渡辺氏はこれは自分の見方、考え方ではなく、進化の過程がもたらした客観的な事実であるとすることで、その難点を回避しようとする。しかし、進化を論じるひとたちの中で、渡辺氏のいっていることが主流であるかといえば、まったくそういうことはなく、進化心理学の分野は利他心をどう説明するかの問題を血縁淘汰といった考えで乗り切ることに四苦八苦している段階である。人間のもつ倫理とか道徳とかが進化がもたらしたものであると胸を張れる生物学者はいないだろうと思う。そもそも倫理とか道徳とかが人間に普遍的なものでなければ、それを進化で説明しようという方向さえ出てこないわけである。だから本来、そんなに自信をもてるはずはないと思うのだが、渡辺氏は自信たっぷりに自説を滔々と披露している。なんだか「己一人を高しとして」いるようで、(宗教の人ではない)啓蒙の人としてちょっと異例である。
「渡辺京二評論集成」に収められたもう少し古い文章では、議論がもっと緻密で、いろいろなところに目配りもとどいているように思う。書いていることに絶対の信を抱いてはいるのだが、それでも自分の言論が世にあたえうる影響ということについては醒めている。「逝きし世の面影」が評判になって、ある程度売れて、なにがしか自分の論が世を変えうるという思いがでてきているのだろうか?